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「フラン! 猫を拾ってきたわ!」

 お姉様がノックもなしに勢いよく扉を開けて私の部屋に入ってきた。その顔には稀に見る満面の笑顔が浮かんでいる。

「……どこからさらってきたの?」

 ベッドの端に座ったままそう聞く。一人でいる時、椅子に座ることはあまりない。

「違うわよ。拾ってきた、って言ってるでしょう?」

 変わらない笑顔でそう言う。

 でもねぇ。
 すごく暴れていて、その上血で赤く染まった白猫を見ると、さらってきた、という表現が正しいと思う。
 まあ、血はお姉様の腕から流れたものみたいだけど。
 痛がってる様子はないけど、多分強がってるだけだと思う。吸血鬼だからすぐに傷がふさがるとはいえ、痛い物は痛いのだから。

 あ、猫が爪を突き立てた。





 確かに私は猫を飼いたい、と思っていた。
 パチュリーの図書館にあった本に描かれていた猫の姿を見て、一目惚れしたのだ。それ以来、暇があれば本に描かれた猫の姿を眺めている。
 滅多に外に出る事はない。もし、外に出たとしても、紅魔館の周りを歩くことくらいしかない。そんな私には、現物の猫に出会う機会さえない。

 猫に会うために、外に出ようと思ったことはあるのだ。
 でも、臆病な私はなかなか外に出られないでいる。最後の勇気を持つことが出来ない。
 誰かに引っ張ってもらえば遠くまで行く事は出来ると思う。でも、猫に会うためだけに外に出たい、というのも何だか気恥かしくて頼めないでいた。
 結果、私は本の中の猫を見て、撫でたいなぁ、とか、抱きしめたいなぁ、とか考えて悶々とすることしかできなかった。

 そして昨日、そんな私へとお姉様が話しかけてきた。読んでいた本を覗きこんできて、フランは猫を飼いたいの?、と聞いてきたのだ。
 それに私は頷いた。猫への想いが積もり積もっていたせいか、自分で思っていた以上に力強く頷いた気がする。

 私が頷いたのを見たお姉様は笑顔を浮かべて、図書館から出て行った。向かい側の席で見ていたパチュリーは何かを企んでる、と言っていた。私もそう思っていた。

 そして、今、お姉様は猫を連れて帰ってきた。昨日の内に連れてこなかったのは、単に見つからなかったからだと思う。昨日、出て行ったきりお姉様の姿は一度も見なかったし。
 お姉様の妙な行動力には呆れる。それと、どれだけ傷つけられようとも手放さない執念にも。
 私の為に頑張ってくれた、というのは分かる。でも、どうしても嬉しいより呆れが先行してしまう。

「あっ!」

 物思いに耽っていると、突然お姉様がそんな声を上げた。白猫が腕から逃げ出していた。
 私の部屋に入ったことでお姉様は気を緩めてしまっていたのかもしれない。

 白猫は自分の身長の何倍もある高さをものともせず静かに地面に降り立った。そして、すぐに走り出す。

「こらっ! 逃げるんじゃないわよ!」

 逃げる白猫に、追いかけるお姉様。
 白猫がテーブルの下を潜ればお姉様がそれを跳ね除け、タンスの傍を通ると翼がそれを壊す。
 椅子が飛び、照明が割れる。
 窓があれば、それさえも割れていたかもしれない。それくらいに、一人と一匹は部屋を縦横無尽に行きかっている。
 そうなれば元々物が少ない部屋でも、無茶苦茶となるのは当然だ。私の傍にある今や唯一となってしまった照明が頼りなく部屋を照らしている。

 でも、猫が私の方へやってこないから、ベッドだけは無事だ。
 ……何の救いにもならない。

 自分の部屋の現状、騒ぎ回る一人と一匹を見て溜め息が漏れてきてしまう。これで止まってくれてればいいんだけど、どっちも私の溜め息にさえ気付いた様子がない。
 私は、静かに息を吸う。

 それから、

「うるさーいっ!」

 私が出せる限りの大声でそう言った。このまま一人と一匹が暴れ続けて、私自身にまで被害が来てはかなわない。
 でも、止まったのはお姉様だけだった。白猫はそのまま走って、戸の壊れたタンスの中へと逃げてしまう。
 まあ、いいや。高望みはしない。お姉様が止まってくれただけでも満足だ。そもそも、部屋の中を滅茶苦茶にしてたのはお姉様だし。
 周りを見ないで走り回らないで欲しい。

 そう思いながら私はベッドから立ち上がって、お姉様の方へと近づいてく。驚いてるのか、お姉様は目を丸くしてる。

「お姉様がいると、あの子がいつまでも暴れそうだから出て行って」

 出入り口である少しばかり重い扉を指差す。

「いや、でも、あの猫凶暴よ? 貴女一人にするのは不安だし、きっと私がいた方が安全だわ!」

 自身の胸に手を当ててそう言う。絶対に自信あり、といった感じだ。
 確かに、冷静な時はそうだろう。でも、さっきみたいに我を忘れてる時はむしろ危険だ。今の部屋の現状を見てそう思う。

「い、い、か、ら! 誰がこの部屋を滅茶苦茶にしたと思ってるの?」
「あの白猫と、……それを追いかけた私?」

 自信満々そうだったのに、私の一言で委縮してしまう。お姉様、私の言葉には弱いのだ。それを利用しよう、と思ったことはないけど。

「そう、正解。……お姉様、あの子は私が落ち着かせとくから、また後で来てよ」
「……わかったわ」

 言い聞かせるように言うと、素直に扉の方へと向かってくれた。引け目を感じているから素直に従ってくれるんだと思う。

「それと、ごめんなさい。部屋、滅茶苦茶にしてしまって」
「ううん、いいよ。ちゃんと謝ってくれたから」
「ありがとう」

 弱々しく笑って、部屋から出て行った。最後に見えた背中には哀愁が漂っていた。
 ちょっと言い過ぎたかなぁ。
 でも、あれくらい言わないと、お姉様はまた暴走してしまいそうだ。
 だから、あれでよかったんだ、と自分を納得させておく。

 さて、それよりも。
 お姉様と出来るかどうかも分からないことを約束してしまった。
 猫を落ち着かせるなんてどうすればいいのやら。本を読んである程度の知識はあるけど、いかんせん経験が足りないから最適な解が分からない。

 まあ、まずは行動かな。
 分からないなら、分からないなりに行動するしかない。幸いにして、知識に関しては零ではないのだ。
 とにかく、猫に近寄ってみる事にする。

 タンスの前に立ってみると、歪んだ扉と扉の間から目だけが浮かびあがっているように見える。
 でも、よくよく目を凝らして見ると、ぼんやりとだけど白い身体の輪郭が見える。

「大丈夫。もう、お姉様はいなくなったよ」

 作戦その一。
 優しい声で落ち着かせる。

 出来るだけゆっくりと柔らかい口調で話しかける。猫に言葉が通じるのかは分からない。でも、音の響きの違いは分かってくれるはず。だから、通じない、と分かっていても続ける。
 言葉の前後の繋がりなんて考えずに、とにかく向こうが安心できそうな言葉を選んで慣れない声を出す。
 誰かに見られたらどう思われるんだろうか、と考えないこともなかったけど、あまり気にならなかった。ようやく猫に触れられる、ということで気持ちが舞い上がってるせいだと思う。

「……はあ」

 私の出来る限りの言葉を尽くしたけど、猫はタンスの中から出てこなかった。私の声がいけないのか、かなり怯えてるせいで出てこれないのか。
 とにかく、このままでは埒が明かない。

 いいのかどうなのか分からないけど、今度はこっちから接触してみる事にする。
 要するに、タンスの戸を開けその姿を拝んであげよう、ということだ。

 作戦その二。
 タンスの戸を開け放つ。

 勢いよく開けて驚かすわけにもいかない。戸に手をかけて、ゆっくりと腕に力を入れる。壊れてしまっているから、簡単には開かない。
 ギギギギ……っ、と悲鳴を上げながら戸が動く。

「あ!」

 音に驚いたのか、白猫がタンスの中から飛び出してしまった。ぴゅー、と走ってベッドの下に隠れてしまう。
 そして、私は振り向いた時に一緒に戸を引っ張ってしまった。

「あ……」

 その勢いで戸が外れる。蝶番が外れてしまっている。
 戸が最後の支えになっていたのか、タンスは呆気なく崩れてしまった。私はその様子を見ていることしかできなかった。
 単なる木屑となったタンスの間から私の服が覗いている。
 もうどうしようもない。

 私が、悪いんじゃないよね。暴れてたお姉様が悪いんだ。
 そういう事にして、戸を床に置いておく。
 咲夜、掃除大変だろうなぁ、と無責任に考えながら。

 それから気を取り直して、ベッドの方を見る。白猫の姿は見えない。
 でも、あの下に隠れて私の様子を窺ってるんだろう。今の私の部屋は、そこくらいしか身を隠せる場所はない。

 このまま愚直に近づくだけじゃ駄目だ。何か別の方法を考えないと。
 流石にお姉様みたいに逃げられたからすぐに追う、という真似はしない。
 でも、どうするのが良いんだろうか。向こうはずっとこっちを見ていて、隙はないはずだ。こっちから近づいて行ったら、すぐに逃げ出してしまうと思う。
 それなら、少しの間別の事に意識を向けさせる?
 うん、悪くないと思う。
 じゃあ、どうすれば、別の物に意識を向けてくれるんだろうか。
 音を立ててみる?
 でも、それだと驚いて、余計にこっちに近づいてくれないかもしれない。

 あ、そうだ。
 食べ物で油断させる、っていうのはどうだろうか。動物、というのは食べ物に釣られやすいらしいから上手くいくような気がする。

「咲夜」

 早速、この館一番の従者の名前を呼ぶ。食材の管理は咲夜がしてるから、直接話をするのが早い。

「はい。……っと、これはまた派手にやらかしましたね」

 音もなく現れた咲夜が私の部屋の惨状を見て呆れた。これを見たら誰でも呆れるよねぇ。
 知らず知らずのうちに、また溜め息を吐いてしまう。

「私じゃなくて、お姉様なんだけどね」

 苦笑しながら答える。

 一昔前の私ならこんな光景を生み出すのは日常茶飯事だった。
 あらゆるものを破壊する力。私は、その大きな力に振り回されて色んなものを壊していた。
 でも、今では、パチュリーのお陰で力の制御ができるようになって、私の意識外で物を壊すことはなくなった。
 だから、パチュリーには感謝してもしきれないのだ。

 閑話休題。

「ええ、存じております。フランお嬢様がそのような事をなさる方ではない、ということは理解していますので」
「……ありがと」

 こういう風に言われるのは、ちょっと照れる。
 お姉様みたいに、言葉にはしないけど態度に表れてる方が私にはちょうどいい。
 ……まあ、嬉しいのに変わりはないからわざわざ口にはしない。

「それで、何のご用でしょうか」
「うん、お姉様の連れてきた白猫がベッドの下に逃げちゃったんだ。だから、煮干しとかそんな感じの物でおびき出せないかな、って」
「ああ、あの猫ですか」

 どうやら咲夜は、お姉様が白猫を連れて帰ってきたことを知ってるみたいだ。もしかしたら、一緒について行っていたのかもしれない。

「お嬢様のせいでかなり興奮しているようですから、噛まれたりしないようにお気を付けくださいね。では、どうぞ」
「あ。ありがと、咲夜」

 いつの間にか咲夜の手には煮干しが数匹乗せられた小皿があった。私は差し出されたそれを受け取ってお礼を言う。

「それと」

 咲夜が右手を上げ、指を鳴らす。
 直後、薄暗かった部屋が明るくなる。どことなく埃っぽかった空気も綺麗になった。

「部屋の掃除をすませておきました」
「うん、ありがと」

 家具も元通りになっていて、もはや掃除とか言う話ではない気もする。でも、そんなことに突っ込みをいれるのも野暮かな、と思って指摘しない。
 綺麗にする、って言う意味では掃除と言えないこともない。

「いえ。では、頑張ってくださいね」

 そう言って、出た時と同じように音もなく姿を消した。
 いつも咲夜は手早く、確実に仕事をこなしてくれる。パチュリーとは違った方面でお世話になってる。

 さて、食べ物を手に入れたことだし、まずはあの白猫をベッドの下からおびき出そう。

 作戦その三。
 食べ物でおびき出す。

 煮干しを一匹指で摘まんで、ベッドに近寄っていく。
 床に置いてたら全部取られそうだから、お皿はまだ手に持ったままだ。
 向こうがこっちに慣れてくれるまで、全部を渡すわけにはいかない。小出しにして、少しずつ焦らしていくのが効果的だろう。多分。

 お皿をベッドの上に置いて、その場にしゃがみこむ。ベッドの下を覗き込んでみると、白猫の茶色の瞳と目が合った。

「ほら、煮干しだよー」

 煮干しをゆらゆら、と揺らしてみる。猫の目はその動きを追っている、様な気がする。でも、尻尾が揺れているのは分かる。吸血鬼の暗視能力を舐めてはいけない。
 目が合った時よりも、尻尾の揺れが大きくなっているから興味は持ってくれているようだ。
 しばらく続けていれば出てきてくれるかもしれない。

 ゆらゆらゆら……。

 変化なし。少し眠くなる。

 ゆらゆらゆらゆら……。

 少し近寄ってくる。瞼が重くなってくる。

 ゆら、ゆら……。

 そして遂に眠気に負けて、煮干しを落としてしまう。
 その瞬間に白猫が動いた。
 ぱっ、とこちらに近づいてきて、煮干しを口にくわえると俊敏に奥へと戻る。目にも止まらぬ速さだった。

 眠気に邪魔をされてしまった。
 でも、続けていれば出てきてくれそうなのはわかった。眠気をどうにか出来れば、近づく事が出来そうだ。

 諦めずに、二個目の煮干しを手に取る。
 今度は、ベッドから少し遠ざかってみる。ついでに、揺らすから眠気に襲われるんだ、ということで、床に直接置いてみる。それから、横になってみる。出来るだけこちらを小さく見せる私なりの工夫だ。
 やっぱり、自分より大きな相手に近寄るのは怖いと思う。

 じー、っと見る。向こうも、こっちをじーっと見てくる。
 それから、意を決したようにじりじりと近寄ってくる。その間も、お互いに見つめ合ったままだ。

 ひどく時間がゆっくりと流れているように感じる。でも、動いているのは確かだから辛抱強く待つ。

 一歩、二歩、と慎重に進んでくる。次第に顔がはっきりと見えるようになってくる。
 そして、遂に白猫がベッドの下から出てきた。
 私の顔色を窺うようにじりじり、と近づいてくる。もう私との距離はほとんどない。腕を伸ばしたら抱きかかえられそうだ。
 そんな距離だからこそ、私はどうしていいか分からなくなっている。
 ずっと見たい、と思っていた猫の姿間近にあるのだ。興奮しない方がどうかしている。その興奮のせいで、私は動けないでいる。
 胸のどきどきが激しい。

 ああ、触りたい。でも、今動いたらびっくりして逃げてしまう。
 それに、触るにしてもどう触ればいいんだろうか。どんなふうに撫でてあげればいいんだろうか。

「ひあっ?」

 意識が何処かに行きかけていた。その瞬間を狙ったかのように白猫に鼻先を舐められて驚いてしまう。
 うぅ……、迂闊。
 煮干しもいつの間にかなくなってるし。

 でも、白猫は逃げずに私の目の前にいてくれている。あまりにも無防備な姿を晒していたから呆れて、警戒を解いてくれたんだろうか。
 なんにしても、今が好機。

 すう、と息を吸う。身体の強張りが少し和らいだ気がする。
 それから、ゆっくりと、腕を持ち上げる。
 猫の撫で方なんて知らない。どうしたら向こうがどう思うのかなんて知らない。
 でも、触りたい。本に描かれた姿をずっとずっと、触れてみたいと思っていたのだ。
 その気持ちを抑える事なんて出来ない。

 私の手が徐々に、白猫の頭へと近づいて行く。
 時間をかけて、もう少しで触れてしまいそうな所まで近づく。
 ここまで手が近づいても、逃げようとする気配はない。

「あ……」

 ようやく、手が触れた。ようやく、猫に触れる事が出来た。
 柔らかい。そして、温かい。

 なんだかすごく嬉しくて、顔がにやけてくるのが分かる。多分、今の顔を誰かに見られたらからかわれる。特に、こあには見せられない。
 でも、どうしようもない。顔を引き締めようにも全然、力が入ってくれない。
 念願が叶う瞬間、というのを初めて知った。
 自分でもどうしようもないくらいに心が躍るんだ。

 一度撫でてしまうと、当然それ以上もしてみたくなる。
 そう、この子を抱きしめてみたい。でも、寝たまま抱きしめるにはこちらから寄っていかないといけない。その際に驚いて逃げ出してしまうかもしれない。
 だからと言って、身体を起こすという選択も安易に取れない。こちらも、同様の問題が付き纏う。

 白猫の頭を撫でながら、私は自身の頭を悩ませた。
 どっちがより驚かせないかなんて分からない。なら、出来る事が増える方を選ぼう。
 その結果、起き上がって抱き締める、ということに決まった。起き上がれば、ベッドの上のお皿も取る事が出来る。

 逃げないで、心の中で念じながら身体を起こす事にする。
 猫の頭から手を放して、床に手をつく。それから、腕に力を込めて、出来るだけゆっくりと身体を起こす。普通に起きるよりも辛い。
 でも、猫を驚かしたくないから頑張る。

 いつもの何倍もの時間をかけて、なんとか身体を起こす。白猫はまだ私の傍にいてくれた。
 私を信頼してくれてるのか、それとも取るに足らない相手だと思われてるのか。まあ、傍にいてくれるんならどっちでもいい。

 私はベッドの上から煮干しの乗ったお皿を取る。そこに煮干しがあると分かってるのか、白猫はじーっ、とお皿を追っている。
 床に置いてあげると、すぐに食べ始めた。さっきまとは違って、一匹ずつゆっくりと食べている。
 もしかすると、もともとは上品な性格の猫なのかもしれない。さっきは、私に警戒心を抱いていたから、あんなに急いで食べていただけで。

「なー」

 ゆっくりと食べていたけど、もともと数が少なかったからすぐに食べ終わってしまった。
 それから上げた小さな鳴き声が満足なのか、不満なのかは判別できなかった。
 なんとなく、満足そうな気はする。
 私のエゴ、かな?

 でも、どちらにしろ、ないものはない。咲夜に頼めば持ってきてくれるだろうけど、それは後回しにしよう。
 私の内にある、猫を抱きたい、という想いを抑えられない。

 おもむろに両腕を猫の方へと伸ばしてみる。逃げようとしない。
 どきどきが更に激しくなっているのを感じながら、包み込むように両手で触れる。それから、恐る恐る両腕を上げてみる。
 次第に、白猫の足が床から離れて行く。抵抗する様子はない。

 いける!、と思った。
 大丈夫!、と確信した。

 一気に力は込めないで優しく抱きしめてみる。
 心の底から安心することが出来るくらいの柔らかさを撫でた時以上に身近に感じた。自分以外の温度もとても近くなる。
 そして、言葉では言い表せないような感情が湧きあがってくる。これは、何と言うんだろうか。
 幸せに似てるけど、少し違う気がする。

 でもそれよりも、この子の血の汚れが気になる。手に触れる部分は所々濡れていて、それが幸せっぽい何かを下降させている。
 だから、お風呂に入れてあげよう。
 でも、私が調べた限りでは猫は水が苦手なはずだ。かといって、このままにしておいていいのか、とも思う。
 いくら自分で身体を洗えるとはいえ、これだけの血を落とすことは出来るんだろうか。

 ……うん、よし。
 お風呂に入れて、汚れを落としてあげよう!
 どれだけ嫌うのかは分からないけど、大丈夫なはずだ。汚れたままでいるよりは、綺麗な方がこの子も気分がいいだろうし。
 一応、着替えは持って行っておこう。濡れるのを嫌う、ってことは暴れるだろうから。

 そこまで考えて、私は立ち上がる。なんとかして、白猫を片手で抱いてあげると、適当に着替えを用意して、お風呂へと向かった。





 特に大きな問題もなくお風呂場に到着。
 誰も使うような時間じゃないから、お湯は張られていない。タイル張りの床も渇いている。裸足で歩くと、ひやりとした冷たさが伝わってくる。

「暴れたら駄目だよ」

 そう言いながら、そっと降ろしてあげる。知らない場所に来たからかきょろきょろと首を動かしている。
 本当はずっと抱きしめていたかった。でも、今は我慢。
 汚れを落としてあげて、渇いたら思いっきり抱きしめよう。力を込めるんじゃなくて、時間をかけて長く長く。

 終わった後の事を想像して、また頬が緩んでくる。
 早く終わらせよう、っと。

 風呂桶を一つ手に取って、パチュリーの作ったマジックアイテムの傍まで行く。その装置には蛇口が付いていて、それを捻るとお湯が出てくるのだ。
 あまり力を入れなくても、蛇口は簡単に捻ることは出来る。捻ると、金属で出来た管の先から湯気を上げながら勢いよくお湯が流れ出てくるのだ。
 眺めているだけで、風呂桶がお湯で満たされていく。

 私も魔法でお湯を沸かすことが出来るけど、便利だから使わせてもらっている。魔力の消費自体はあまりないけど、沸くまで待つのが面倒臭いのだ。

 そんなことを考えている間に、お湯は丁度いい量になる。蛇口を最初とは逆方向に捻って流れを止める。

 さて、お湯を用意したのはいいけど、どうしようか。猫の洗い方なんて知らない。猫に関する知識は穴だらけだ。飼いたい、とは思っていたけど、実際に飼う時が来るとは思ってもいなかったのだ。
 とりあえず、腕まくりをしておく。もともと袖の短い服ではあるけど、念の為。
 そして、そのまま止まってしまう。腕組みをして、どうするかを考える。

 まず、お湯を直接かける、でいいのかなぁ。もしくは、お湯に浸ける?
 どっちも変わらない気がする。でも、全身が濡れないだけ、お湯をかけてあげる方がいいのかな?
 知識不足なせいで全く自信が持てない。とはいえ、悩み続けるわけにもいかないし……。

 そんな風に頭を悩ませる。マイナスになるようなことはしたくない。
 とはいえ、このまま立ち止ってるわけにもいかない訳で……。
 うん、決めた。とりあえず、血の付いた部分にお湯をかけて、そこを揉むようにして洗う事にしてみよう。
 嫌がられたら、やめてあげる。というか、嫌がられながら続けられる自信がない。

 よし、と心の中で頑張るぞ、のガッツポーズを決めて白猫の方へと向き直る。
 でも、白猫の姿を見た途端に動きを止めてしまった。

 白猫は血のついた部分を懸命に舐めていた。これが、猫の毛繕い、というものなんだ。
 汚れが血じゃなければ素直に和めるんだろうけど、今の状態だとあまりそういう気持ちにはならなかった。ちょっと怖い。
 私が振り返る前に舐めていたらしい腕の部分はそれなりに綺麗になっている。多分、お湯で洗ったとしてそれ以上、綺麗になることはないと思う。

 なんだ、私が何かをする必要はないんだ。
 ……とは、思えなかった。舐めている所は綺麗になってるんだけど、代わりに顔が更に血で汚れていっている。
 流石に自分で顔を舐める事は出来ないと思う。
 その上、時々、手で顔を擦ってるけど、逆効果みたいだった。より広い範囲が赤くなっていっている。

 これは、終わったら私が顔を洗ってあげる必要があるんだろうか。まあ、もともと洗ってあげるつもりだったんだからいいか。
 でも、いきなり顔にお湯をかける、というのもどうなんだろうか。かなり嫌がられる気がする。

 毛繕いをする白猫を眺めながら、私はまた頭を悩ませるのだった。





 推論。
 顔にお湯をかけるも、身体にお湯をかけるもそう変わらないと思う。

 結論。
 いきなりお湯で顔を洗ってあげても大丈夫……なはず。

 白猫が毛繕いを終える頃に、考えがまとまる。確信なんてものはどこにもない。不安やら心配やらそんなものばかりだ。

 白猫の顔は真っ赤になってしまっている。
 赤頭白猫。そんな妖怪じみた名前が付けられそうだ。
 ちなみに、身体の方の血は完全に落ちたわけではないけど、ある程度は綺麗になっている。これは、お湯で洗っても落ちないと思う。

「逃げないでねー……」

 すっかり冷めたお湯の入った風呂桶を持って、白猫へと近寄る。自分の行動に自信が持てないから、後半の声は消えかかっている。

 私が一歩踏み出した途端、白猫は、だっ、と走りだした。それは、私がいるのとは真逆の方向だった。

 ……。

 もう一歩近づいてみる。
 牙をむき出しにし、毛を逆立てながら、シャーっ、と鳴いた。その後は、私の方をじっと見たまま、唸り声を上げている。
 明らかに威嚇されている。最初でさえ、警戒されてる程度だったのに。

 思った以上に猫という生き物は濡れるのが嫌いなようだ。もしかすると、この子が特別なのかもしれない。
 どちらにせよ、このことは絶対に忘れない。いや、忘れようと思っても忘れられない。
 好きだ、と思っている猫に威嚇されて、結構傷付いてる。
 とはいえ、今はこのまま竦んでいるわけにもいかない。

 これ以上嫌われないために、お湯をやめたぬるま湯が入っている風呂桶を床に置く。それから、動揺している心を落ち着けるように小さく深呼吸。
 それだけで、少しくらいは落ち着くことが出来た。心は依然としてぐらぐらと揺れてるけど、行動は起こせる。

「ほら、もう、大丈夫。あなたに、お湯をかけたりするようなことは、しないから」

 ゆっくり語りかけるようにしながら近づいてみる。
 でも、威嚇はやめてくれない。睨むように私を見ながら唸り続けている。しかも、ある程度近づくと、距離を開けられてしまう。
 正直言って、かなり辛い。少し泣きそう。
 今まで好きな人たちに拒絶されなかった私って幸せ者だったんだなぁ、なんて考えてしまう。

「フラーン? あの猫、落ち着いたかしら?」
「あ……」

 不意に、風呂場の扉が開けられる。一瞬、何で私がいる場所が分かったんだろうか、と思ったけど、そういえば、ここに来る途中、何人かのメイド妖精に姿を見られていた。
 多分、そのメイドたちから聞いて、私がここにいるのを知ったんだと思う。着替えを持ってたという目撃情報があれば、すぐに、ここにいると予想出来るだろうし。

 でも、今はそんなことは気にしていられない。
 白猫が、扉の空いた瞬間に走り出して風呂場から飛び出してしまったから。

「あっ! あんの猫、また逃げたのね!」

 お姉様が少しばかり凶悪な表情を浮かべて、風呂場から飛び出る。

「あ……。ちょっと、お姉様待って!」

 大声を出して止めようとするも時すでに遅し。私以外には誰もいない。
 風呂場に私の声が虚しく響き渡る。

「あー、もう!」

 このまま放っておいて、お姉様が何をしでかすか分からない。
 でも、あの子に嫌われてしまった私が追いかけてもいいんだろうか。

 そんな迷いを抱えながらも、心配でたまらなかった私は、気が付けば風呂場から飛び出していた。
 風呂桶の倒れる音が遠くに聞こえた。





 お姉様と並んで白猫を追いかける。
 急いで出てきたから、裸足のままだ。足の裏が少し痛い。

 無理やり捕まえようとしてお姉様が引っ掻かれたから、今は様子見の段階だ。
 どこかの部屋に入ってくれればいいんだけど、そういった様子は一切ない。どこの扉も開いてないんだから当然だけど。

「あーっ! もう! 面倒くさい! さっさと止まりなさい! さもないと――」

 その言葉と同時に、お姉様の周囲に魔力が集まり始める。横を見てみると、その手にはグングニルが握られていて――

「って、お姉様っ? 何してるのっ!」

 投擲体勢を取るお姉様を慌てて羽交い絞めにする。お姉様の手から離れたグングニルが、床に落ちる前に消失する。

「驚かせて、足止めしようとしたのよ」

 羽交い絞めされたまま、私の方へと振り向こうとする。でも、首の動く範囲には限界があるから、見えるのは横顔までだ。代わりに、紅い瞳を私に向けている。

「駄目だよ! そんなの!」

 驚かせるのなんて、一番やったら駄目な事だ。お姉様はそのことが分かってるんだろうか。

「だってこうでもしないと止まりそうにないじゃない」
「それでも駄目だよ」

 お姉様の堪え性のなさに呆れてしまう。思いついたらすぐに行動に移して、他の事を考えられないのは色々と問題だと思う。

 と、ふと、ある事が頭をよぎる。

「……ねえ、お姉様」
「ん?」
「もしかして、あの子を捕まえた時も同じことしたの?」
「ええ、そうね。グングニルをあいつの前にぶん投げて、驚いて動けなくなってる所を捕まえてやったわ」

 今この瞬間に、お姉様があの白猫にあれほどまでにひっかかれたりしていた原因が分かった。あの子は、お姉様を嫌っていた同時に身を守る為にああしていたのだ。
 溜め息が零れてきそうだ。

「お姉様。邪魔だから、他の所に行ってもらっててもいいかな」

 溜め息まじりにお姉様を放しながらそう言う。結局、溜め息は我慢できなかった。
 だって、お姉様の行動には呆れるしかないじゃないか。

「え、いや、でも……」
「でも、じゃないよ。あの子は多分お姉様の事をすっごく嫌ってる。驚かされたりしたから。だから、お姉様がいたらずっと逃げられ続けると思う」

 とはいえ、お姉様程ではないけど私も嫌われてるんだよね。だから、あまり強くは言えない。

「うっ……」

 言い返す言葉が見つからないみたいで、言い淀む。
 でも、私も自分の事を棚に上げているから悪い事をしているような気になってしまう。

「……わかったわ。大人しくしてる」
「うん。無事見つけられて、今度こそ落ち着けられたらお姉様の所に行くよ」

 自信なんてないけど、そうしないといけないと思う。

「ええ、怪我しない程度に頑張りなさい」
「うん」

 私が頷くのを見ると、お姉様は来た道を戻っていった。少し、寂しそうに見えた。
 ……ごめんなさい。

 あんな姿を見せられてしまうと、失敗するわけにはいかなくなる。
 ……んー、もしかしたら、こうやって何か成さないといけない、と思って行動するから、さっきみたいになってしまうのかも。

 冷静に。冷静にならないと。
 まずは、現状の把握。これをしないとどうしようもない。闇雲に追いかけた所で、何も考えてなければ、もしもあの子が立ち止ってくれた時に何をすればいいか分からなくなると思う。

 私はあの白猫に嫌われてしまっている。原因は、私があの子にお湯をかけようとしたこと。それはまず間違いないはずだ。
 では、それをどうすれば解消できるか。
 最初は、食べ物をあげたことでこっちに気を許してくれたみたいだった。でも、だからといってもう一度やって上手くいったりするんだろうか。威嚇さえもするような相手から食べ物なんて貰ってくれるんだろうか。

 じゃあ、食べ物が使えないとして何か良い方法があるんだろうか。
 これといった方法は思い浮かばない。そもそも、私の中で食べ物を使う、というのは最後の手段だったのだ。そんな私にそれ以上の手が思いつくはずがない。
 こんな時はどうすればいいか。
 いつもの私なら、知ってる人に聞く。知ってる人とは、この館ではパチュリーのことだ。思考放棄かもしれないけど、手っ取り早いと言えば手っ取り早い。

 というわけで、あの子を探すのは後回しにして、まずは図書館の方に行こう。
 あの子が去っていった方へと歩き出す。こっち側に図書館があるのだ。
 裸足である事は気にしない事にした。特に大きな支障があるわけでもないし。

 冷静になって気付いたけど、何でどうするかも決めずにあの子を追いかけてしまってたんだろうか。威嚇されたり嫌われたりしたことがショックで、頭を動かす余裕もなかったのかもしれない。
 それらが全部積み重なって憂鬱になってくる。
 でも、どっちに進めばいいか分かってる間は立ち止まらないようにしないと。





「あ、フランお嬢様」

 図書館に向かう途中、ばったりと咲夜に出くわした。
 腕には、あの白猫が大人しく抱かれていた。顔も綺麗になっていて、少し赤みを残すだけになっている。どうやって綺麗にしてあげたんだろうか。

「レミリアお嬢様かフランお嬢様をお探ししていたのですが、丁度良かったです」

 咲夜がこちらに近づいてくる。同時に、猫は私への威嚇を始める。
 思わず、一歩後ろに下がってしまう。
 怖いわけじゃないけど、どうしていいのかわからなくなってしまう。

「お嬢様?」

 咲夜が首を傾げて、足を止める。

「……ちょっとね。私の考えなしに行動してその子に嫌われちゃったんだ。だから、今からパチュリーの所に行って、どうやったら仲直りできるか教えてもらいに行く所」

 自虐的に笑みを浮かべながらそう言った。
 そう、今のこの状況は笑うしかない。全部が私のせいだなんて、どうしようもない。

「ねえ、咲夜はどうやってその子の顔を綺麗にしてあげたの? 私が綺麗にしてあげよう、って思った時にはすっごく水に濡れるのを嫌がってたのに」

 威嚇し続けてくる白猫の顔が見ていられなくて、背を向ける。威嚇の声は聞こえてくるけど、正面から向き合っている時よりは楽になった。

「湿らせたタオルで拭いてあげたら、それほど嫌がりはしませんでしたよ」

 ああ、そうすればよかったんだ。
 ……よく考えてみればそうだよね。私だって、顔を洗うのに水をかけられたら嫌だ。でも、タオルで拭かれるくらいなら許せる。

 この発想の違いは何なんだろうか。
 やっぱり、どれだけ相手の事を考えてるのか、という違いなんだろうか。この館でメイド長をしてる咲夜はいつだって、館の皆の事を考えてる。
 その経験が大きな違いになったんだろう。

 駄目だなぁ、私。
 人に優しくされてばっかりだったから、正しいやり方が分からない。

 でも、こんなのは単なる言い訳でしかない。

「咲夜、図書館までその子と一緒に付いてきてくれる?」
「はい、よろしいですよ」

 めげず、折れず、再び図書館を目指して歩き始めた。
 静かに付いてくる咲夜と私に敵意を向ける白猫を伴って。

 まだ、頑張ろう、っていう気持ちが残ってるんだ。それを無駄にすることなんて出来ない。





 歩き出してすぐに、咲夜に靴と靴下を持ってきてもらった。咲夜が気付いてくれたのだ。
 濡れたタオルも一緒に持ってきてもらって、汚れた足の裏を拭いてから履き直した。

 それから図書館へと向かう間、白猫はずっと私を威嚇していた。
 私が悪いのが嫌と言うほど分かっているから、無駄な体力を使わせることがすごく申し訳なかった。
 ……最悪、私はあの子に関わらない方がいいのかな。嫌いな相手といつまでもいたらストレスだって溜まるだろうし。
 でも、近くにいるのに関われない、なんて寂しい。

 わかってる、自業自得だ。でも、だからこそ、やりきれなくて、辛い。
 どうにかしたい。

「パチュリー、猫に嫌われた時はどうすればいいかな」

 だから、いつものように図書館のテーブルに向って本を読んでいたパチュリーに、必要以上に声を込めてそう聞いていた。無自覚の内に、テーブルに手をついて。

「猫?」

 パチュリーが顔を上げて、私の顔を見る。それから、私の斜め後ろに視線を向ける。そして、浮かんだのは怪訝の色。
 パチュリーの隣で本を読んでいたこあもこちらに視線を向ける。今は仕事がないんだろうか。

「なんだか、赤っぽい白猫ね」
「お姉様を引っ掻いたり噛んだりしてたからね」
「無理やり連れてきた、という所かしら」
「うん、そんな感じ」

 流石にお姉様の友達をやってるだけあって察しがよかった。でも、今はそんなことどうでもいい。
 白猫と仲直りする方法を知りたい。

 私のそんな気持ちを汲み取ってくれたのか、パチュリーは本を閉じて口を開く。

「……そうね。専門家じゃないから形だけの知識だけど、向こうから近寄ってくるまで辛抱強く待つ、とは言うわね。だったわよね、こあ?」
「はい、そうですね。どれくらい待たないといけないのか、というのはその猫の性格にもよりますけど」
「だ、そうよ?」

 動物関係はこあの方が詳しいんだろうか。まあ、私に猫の描いてある本を教えてくれたのもこあだし、そう意外だとは思わなかった。

 それよりも、待っておく、か。なら、私があの子を追いかけたのは間違いだった、という事なんだろうか。
 ともかく、これからは追いかけないようにしよう。

 そういえば、落ち着かせられたらお姉様の所に行く、と言ったけどいつの事になるんだろうか。
 ……まあ、こういう時は約束を破ってもいいよね。こうなるとは予想してなかったんだし。
 でも、お姉様が駄目、というなら従うつもりはある。元々、私の方から言ったことだし。
 あー、また考えなしで自業自得かあ……。どうすれば直せるんだろうか。

「パ〜チェ〜……」

 何だか物凄く情けない声が聞こえてきた。ついでに言うと、物凄く聞き慣れた声だった。

「って、咲夜もいるのね。それに……、フラン?」

 振り返ってみると、そこにいたのは案の定お姉様だった。ちょうど、咲夜が私の姿を隠してたのか、お姉様が私に気づくのは少し遅かった。羽、見えてなかったのかな。
 そして、最初の情けない声とは裏腹に態度はしゃっきりとしたものだった。
 多分、情けない姿を咲夜と私に見せたくないんだろうなぁ。お姉様は見栄っ張りだから。
 だから、素のお姉様の姿を見る事が出来るパチュリーはちょっと羨ましいな、って思う。ああ、あと、こあもかな。

「よかったわね、フラン。猫、捕まえる事が出来て」

 取り繕うように両腕を組んだまま、こちらへと近づいてくる。
 お姉様、隠し事は結構苦手。

「うん、そうだけど、慣れてもらうには時間がかかりそうなんだ」
「そう」

 私が少し弱々しげな笑みを浮かべると、お姉様が頷く。
 その間も、私たちの距離は縮まっている。そして、同時に白猫の威嚇の声もだんだん大きくなってきている。
 お姉様が白猫にかなり嫌われている、というのを何よりも証明している。

「……ほう? 私に牙を向けるとは上等ね」

 私たちに向いていた足が、咲夜、正確には白猫の方へと向く。その顔に浮かんでるのは白猫が向けているのと同じ敵意だった。

「お姉様、ちょっと待って!」

 私は慌ててお姉様の方へと駆け寄ってその足を止めさせる。嫌な予感しかしない。

「大丈夫よ。絶対に傷つけるようなことはしないわ。ただ、あいつの頭を撫でるだけ。それで、どちらが上なのかを教えてやるのよ」
「本当?」
「ええ、本当よ。頭を撫でる以外に手を出すつもりはないわ」

 本当かなぁ。
 実際にグングニルを出して驚かそうとしていた姿を見ただけに、どうにも信じられない。それに、敵意だって向けてたし。
 でも、私を真っ直ぐに見詰めてくる紅い瞳は嘘を吐いているようには見えない。

「……うん、信じる。でも、さっきみたいなことしたら無理やりでも止めるよ」
「ええ、わかったわ」

 力強く頷いたのを見てしまえば、このまま足を止めさせている理由もない。白猫までの道を開けてあげる。こうしてしまえば、私に出来るのはお姉様の背中を見送るだけ。
 と、行きたいところだけど、どうなるかが気になるから、移動して横からお姉様と白猫の動きを見る事にする。

 今もまだ、あの子の威嚇は続いている。やめる様子は見せない。

 そして、ついにお姉様が咲夜の前で足を止めた。白猫と睨み合っている。明らかに剣呑な空気しか流れていない。
 でも、まだお姉様が実際に手を出したわけではないから、止めに入ることはしない。
 まだ、お姉様を信じている。

 一回目のチャレンジ。お姉様が白猫へと手を伸ばす。
 けど、猫パンチにより防がれてしまった。
 そのまま下がったお姉様の手は咲夜の腕に触れた。最初だからか、手にはほとんど力を入れてなかったようだ。

 二回目のチャレンジ。今度は少し顔つきが険しくなっている。
 けど、それもまた防がれた。今度はひっかかれる事によって。
 お姉様の手から血が流れる。でも、吸血鬼だから傷はすぐにふさがった。代わりに、お姉様の敵意が殺意めいてくる。
 私は、お姉様が何をしてもいいように身構えておく。

 三回目のチャレンジ。少しでも刺激されたら怒りだしそうな表情を浮かべている。
 今度こそは、と思ったけど、今回もまた防がれてしまった。今回は思いっきり噛まれていた。
 ひっかかれた時よりもたくさん血が流れてきている。せっかく咲夜に綺麗にしてもらった白猫の顔は再び血で汚れてしまっている。
 お姉様の肩が小刻みに震えているのが分かる。これは、爆発が近い。

「あー! もう! お前は、何だっていうのよ! 私に盾突いて、しまいには手を噛んで!」

 噛まれていない方の手を振り上げた。
 私は咄嗟に止めに入る。どうすればいいか考えてなかったから、とりあえず横から振り上げた腕ごと抱きついた。
 私の突然の動きに驚いたのか、白猫はお姉様の手を放す。その時に、私は噛まれていた手の方の腕を両手で掴む。
 これでお姉様は、白猫に手を出せないはずだ。ただ、お姉様は私よりも力が強いから本気で抵抗されるとどうしようもない。

「お姉様、落ち着いて!」

 だから、こうしてお姉様へと声をかけて早めに落ち着かせるようにする。

「わ、分かった。分かったから、耳元で大声を上げないでちょうだい」
「あの子に手を出そうとするお姉様が悪いんだよ」

 全く。頭を撫でる以外に手を出さない、って言ったのに。
 感情が昂ぶると自分が抑えられなくなるのはお姉様らしいけど、こういう時ぐらいはそのらしさを出さないで欲しかった。

 そう思いながら、お姉様を解放してあげる。

「その、……ごめんなさい」
「ううん、いいよ。今度また同じことをしない、って言うんなら」

 俯くお姉様を見て、溜め息を吐きながら簡単に許してしまう私もどうかと思う。まあ、そもそも私に謝ることじゃないけど。
 手を上げられた白猫に謝ってあげないと、と思っていると、

「ありがとう、フラン!」

 お姉様が片膝を床に付いて私の右手を両手で包んだ。噛まれた時に出た血を拭いてないから、それが私の手にも付く。特に不快だと思ったりはしない。血が付くことには慣れている。
 それより、お姉様は普段はこんなことはしないのはずだ。よっぽど、手を出さない、と約束したのを破ったのを気にしてるんだろうか。

 そして、こうしてる間も、白猫は私たちに向かって威嚇を続けている。なんだろう、この状況には苦笑するしかない。

「レミィには猫の世話、向いてないみたいね」
「ですねー。プライドが高すぎる人は猫を飼うには向いてないと思いますよ。気ままな子たちですから」
「ふふん。吸血鬼にとってプライドは最重要の物なのよ」

 私の手を放して、二人に向かってそう言う。いやいや、褒めてるわけじゃないと思う。
 でも、誰も突っ込みを入れようとしたりはしない。今までのお姉様の白猫への態度を見て、無駄だと悟ったのだ。私含めて。

「フランドール様、そろそろ部屋に戻ってゆっくりとその子との距離を詰めていったらどうですか?」
「え? ……うん、そうだね」

 こあの言葉に頷いてしまったけど、本当はあの子と一緒にいるのが怖い。もしかしたら、もっと嫌われてしまうんじゃないだろうか、とか、傷付けられてしまうんじゃないだろうか、と考えてしまっているから。

「何だか乗り気じゃないみたいですねぇ」

 そう言いながら、こあが立ち上がって私の傍までやってくる。浮かべてるのは満面の笑みだった。
 知らない人が見れば見惚れて、知ってる人が見れば嫌な予感を感じるような。

「不安なら、私が付いててあげましょうか? 今なら、終わるまでずっと抱きしめててあげますよ」
「えっと、いいよ。一人で大丈夫だから」

 何度か抱きしめられたことはあるけど、その度に何故だか私の中で警鐘が鳴り響くのだ。こあに簡単に気を許してはいけない、と。
 その意味は分からないけど、本能が伝えてくる危険だから無視はしないようにしている。

 そして、今もその音は響いている。図書館にいる間なら、パチュリーに助けてもらえるだろうけど、自室では誰も助けてくれない。咲夜も、出てこられないこともあるのだ。例えば外に出てる時とか。

「そうですか、それは残念ですね。でも、気が変わったら言って下さいね。すぐに、駆けつけますので」
「あー、……うん」

 それほど残念そうじゃない声で言う。ここで本当に残念そうな声を出されたら、多分罪悪感に苛まれる。
 でも、警告を無視することは出来ないから、結局断ることになるんだろうけど。

「でも、このまま何もしない、というのも忍びないので、三つほど助言をしてあげましょう」

 こあが指を三本立てて笑顔を浮かべる。

「焦らずじっくりと、そして絶対に諦めない。他の方の事を考えられるフランドール様なら、これだけを肝に銘じておけば大丈夫でしょう」
「わかった。ありがと、こあ」

 焦らずじっくり諦めない、か。

 確かに私は焦っていたのかもしれない。ずっとずっと望んでいた物が突然目の前に表れてきたから。
 その結果、じっくりとあの子との距離を詰めていく事が出来なかった。
 そして今、私は諦めかけていた。嫌われているのに関わるべきじゃないんだろうか、もう嫌われたまま諦めるしかないんじゃないだろうか、と。

 焦らない、じっくりとする。これは、多分大丈夫。
 ただ、問題は諦めない。
 こあの助言を聞いた今も、あの子に関わっていいんだろうか、と思っている。

「……咲夜、部屋に戻るから、その子の事、お願い」
「はい、かしこまりました」

 立ち止っているといつまでも動けない気がしたから、そう言って図書館を後にした。
 一人にならない限りは、無理やりでも動く事が出来る。





 白猫は私の部屋で咲夜に放されると、すぐにベッドの下へと駆け込んでしまった。私を避けるその姿を見て、とても遣る瀬無い気持ちになった。
 咲夜はすぐに出ていったから、この部屋には私とあの子しかいない。

 私は、あの子に許してもらえるんだろうか。
 私は、あの子と仲良くする事が出来るんだろうか。

 知らずの内に溜め息が漏れてきてしまう。
 疲れ、悩み、不安、憂鬱。そんな諸々が混じっている。

 ああ、駄目だ。こうなってくるとどこまでも下へ下へと落ちて行きそうだ。

 とりあえず、寝よう。あの子の事は、後で考える。

 肉体的ではなく、精神的な疲れからくる身体の重さで足を引きずってベッドへと近寄っていく。そして、靴を適当に脱ぎ捨てて、ベッドへと飛び込む。
 柔らかい布団が私の身体を受け止めてくれる。同時に全ての気力が抜け出してしまった。羽も力なく垂れている。

 足がベッドから落ちてる。でも、もう動きたくない。
 枕は視界に映ってない。探すのも面倒くさい。
 だから、そのまま布団に顔を埋めて目を閉じた。

 何かが動く音が聞こえてきたけど、もう反応する気はなかった。





「いた……っ!」

 起きた瞬間に頭を打った。いや、頭を打ったから起きたんだろうか。
 まあ、とにかく、寝返りなりなんなりをしようとして、ベッドから落ちてしまったようだ。頭を押さえた手の甲が絨毯に触れている。
 変な姿勢で寝るんじゃなかった……。

 寝起きから痛い思いをしたせいか身体を起こそう、という気にはならなかった。そのまま、ベッドの横で天井を眺める。
 白い天井がいつもよりも遠い。ベッドから落ちたんだから当然だけど。
 意味もなく手を上へと伸ばしてみる。天井に届く事はなく、ただ伸びているというだけ。でも、このまま、続けているのはだるくて、そのまま手を絨毯へと投げ出す。
 その姿を追って、白猫と目が合った。絨毯の上に座っている。

 また咲夜に顔を拭いてもらったのか、赤さが薄くなっている。私と顔が合っても逃げ出すような雰囲気はない。
 あの子の隣にはお皿が置いてあった。咲夜が用意したものだと思うけど、この位置だと中身が見えない。

 白猫とじぃ、っと見つめ合う。
 パチュリーの向こうから近づいてくるのを待てばいい、という言葉を思い浮かべる。それから、こあの焦らずじっくり、そして諦めない、という言葉も思い浮かべる。

 ……そういえばあの子、私に対して威嚇をしてないような?
 私が水をかけた後はあんなに敵意を剥き出しにしていたのに。

 許して、くれたのかな?
 それとも、私を見限ったんだろうか。

 聞く事は出来ない。私は猫の言葉なんて分からないし、向こうにこっちの言葉が届くのかもわからない。
 出来るのは、ごろりと四分の一転がって、身体をあの子の方へと向ける事だけ。後は、あの子の方から近寄ってくれるのを待ち続ける事しかできない。

「あ……」

 白猫が立ち上がってこちらに向かってきた。すごくゆっくりだけど、確実にこっちに近づいてくれている。

 心臓の音が少しずつ大きくなってきているのを感じる。
 初めて、あの子がこっちにゆっくりと近づいてきてくれている時は、純粋に好きなものが近寄ってくれている、ということに興奮しているだけだった。
 でも、今は違う。色んな想いが混ざり合っている。
 許してくれたんだろうか、と希望を持って、こっちまで来てくれるだろうか、と不安になって、じりじりと縮まっていく距離に焦らされて、触りたいという願望を渦巻かせて。

 投げ出したままだった腕が無意識に伸びる。あの子を求めるように広げる。

 そんな私の行動に驚いたのか、あの子は足を止めてしまう。
 余計なことをしてしまった……。

 これ以上驚かせたりしないように、動かないようにする。けど、片方の腕を持ち上げているから、そっちの方がぷるぷると震え始める。早く来てくれないと、腕を下ろしてしまう。
 早く早く、と念じるけどあの子は全然動こうとしない。

 ゆっくりと、腕が降りる。
 あの子はまだ、動こうとしない。

 そして、遂に手が絨毯に触れてしまった。同時に腕の力も抜けてしまう。腕を上げ直す気力はない。
 でも、わざわざそんなことをする必要はないのかもしれない。

 あの子がまたゆっくりとこっちに向かって来ていたから。
 それも、さっきまでみたいに警戒しながらじゃなくて、自分のペースでこちらに向かって来てくれていた。
 私の行動に呆れて、仕方なく許してくれたんだろうか。それとも、単なる気まぐれ?

 どっちでもよかった。あの子がこちらに来てくれるのなら、許してくれたのだとしても、気紛れだとしても嬉しかった。

 あの子との距離が狭まってくるにつれて、さっきみたいに両手を広げたい、という想いが強くなってくる。
 でも、また足を止められたりしたくないから我慢する。上に上がりそうになっている手を絨毯へと押し付ける。

 私がそうやって内なる自分と戦っている間も、あの子は自分のペースを崩さず近づいてくる。

 後三歩。後二歩。後一歩。
 最後に、私の手のすぐ前。そこで、足を止める。

 私はあの子をじーっと見る。あの子は私の手をじーっと見る。

 そして、あの子は私の指を舐めた。
 予想はしてたけど、くすぐったさが予想以上の物だったからぴくりと指が動く。驚いたのか、一度指を舐めるのをやめた。でも、すぐに顔を近づけてくれる。

 けど、まだ遠い。もっと近くで見たい。近くでその頭を撫でてあげたい。抱きしめたい!
 そんな想いに駆られて、手をゆっくりと自分の方へと引き戻す。
 あの子はこの手を追っては来ない。だけど、離れようともしないで、手の動きを追ってくれている。

 そして、私の手は胸の前で止まる。これ以上戻すことは出来ない。
 緊張で身体が強張ってくる。もう、向こう側が動いてくれるまで動けそうにない。
 どきどき、と胸の鼓動が高まってくる。それを落ち着けるように、無意識に手をぎゅっと握りしめる。

 ねえ、許してくれたのなら、もっと私に近づいて。
 ねえ、許してくれないなら、私から離れていって。

 何かしてくれないと辛い。
 待っているのは耐えられない。

 もう、待つだけなのは嫌なんだ……。

 祈る。
 神も仏も信じていないけど、待つことしかできないから、ただ祈る。

 私の祈りが通じたわけではないと思う。
 でも、あの子が動き出した。真っ直ぐに私を見たままこちらに向けて歩いてくる。
 一歩ずつ。ゆっくりと。
 やっぱりマイペースで、私の心情なんて全然気にしてないみたいに歩いてくる。

 そして、目の前であの子が立ち止まった。
 もうこの子が私に敵意を抱いていない事は十分にわかる。
 だけど、そうだとわかっていても、怖い。身構えてしまう。
 私を突き放すために近づいてきたんじゃないだろうか、って。噛みついて、私を拒絶するんじゃないだろうか、って。

「あ……」

 だから、この子が鼻先を舐めてくれた時、本当に嬉しかった。
 一瞬夢なんじゃないだろうか、って思った。でも、舌のざらざらした感触、湿っぽさ、そして、温かさが夢じゃないんだと教えてくれた。

「許して、くれるの?」

 伝わるはずがない、と思っていても口にせずにはいられなかった。

「……なー」

 だけど、この子は鳴いてくれた。
 都合のいい解釈かもしれないけど、頷いてくれたと思ったのだ。

「ありがと……」

 気が付けば、腕を伸ばして抱きしめていた。
 胸に感じる暖かさと柔らかさ。それと、心臓の鼓動。
 嬉しい。こうしてこの子が私の傍にいてくれる事が嬉しい。私を許してくれた事が嬉しい。

 最初は、ただ猫が好きだ、というだけでこの子の事が気になっていた。

 でも、今もう一度この子に触れられたことで、また別の感情も芽生え始めていた。
 ずっと、この子の事を気にかけいたのも原因かもしれない。

 とても穏やかな感情だけど、抑えるのはとても難しい。
 だって、抑えたい、とさえ思えないのだから。

 そう、私は、この子が愛しい。
 もう、放したくない、離れたくない。
 護ってあげたい。幸せにしてあげたい。

 そう、強く強く想うほどに。





 私の頭が撫でられている。
 優しくて、とっても安心できる手つき。

 誰か、なんてことは考えなくてもいい。
 もう何度こうして撫でられたかなんて分からない。それくらいに、あの人は私の頭を撫でてくれた。

「あら、起こしてしまったかしら?」

 いつの間にか真っ暗になっていた世界に光を取り込むために瞼を開けてみると、予想通り、そこにはお姉様の姿があった。ベッドの傍に立っているのか私の顔を見下ろしている。

 それから、毛布が掛けられている事に気付いた。温かい。
 だけど、私にあるのはその温かさだけではない。

 腕の中には、あの愛しい温かさが収まっている。

 夢じゃなかったんだ、と安心しながら、片方の手で白猫の頭を撫でてあげる。二度目にこの子を抱きしめた時は意識してなかったけど、血が落ちたお陰か、とても触り心地がよくなっていた。
 ふさふさとした毛の感触が心地いい。

 どうやら私は、この子を抱きしめているうちにこの子と一緒に寝てしまっていたようだ。
 なんだか、とっても穏やかな気持ちで眠れたと思う。お姉様に頭を撫でてもらいながら眠りについた時みたいに。
 でも、少しだけ違う気がする。何が、と聞かれると分からないけど、とにかく何かが違った気がしたのだ。

「ねえ、お姉様がベッドまで運んでくれたの?」

 白猫の頭を撫でてあげながらそう聞く。自分でベッドに戻ったとは思えない。

「ええ。あのままにしておいて、風邪を引いてしまってはいけないから」

 私の頭を撫でながら答えてくれる。まだ頭を撫でられていたいから、身体を起こそうとは思わない。

 ……うん。やっぱり違う。この子を抱きしめる事で得られる穏やかさと、お姉様に撫でられる事によって得られる穏やかさは。

 何が違うんだろうか。
 どうして違うんだろうか。

「フラン、何か考え事?」
「あ、うん。穏やかさにも色々あるんだなぁ、って思ってて」

 考え事をしてる時に突然話しかけられたせいで、ちょっと慌てたように答えてしまう。

「その猫と関係してる事?」
「うん、そう。あと、お姉様もね」
「私も?」
「うん。この子を抱きしめてると穏やかな気持ちになれるし、お姉様に撫でられても穏やかな気持ちになれる。なのに、その穏やかさは違うんだ」

 どうしてなんだろうか、とは口にしなかった。もう少し、自分で考えていたいから。

「そう」

 お姉様も、それ以上何かを言ったり、聞いてきたりはしなかった。でも、その顔はいつもよりも優しげなものに見えた。
 どうしてだろうか。
 それもまた、後で考えてみたいと思った。

「そういえば、お姉様は何をしにこの部屋に来たの?」
「貴女とその猫がどうなっているか気になったから見に来たのよ。まあ、上手く行ってるみたいで心配する必要なんてなかったみたいだけれど。だから、代わりに――」

 お姉様が表情を変える。まるで誰かに戦いを挑みに行くみたいな顔だった。
 代わりに何をするつもりなんだろうか。

「私だけあの猫に嫌われてるのが気に入らないから、リベンジするわ」
「駄目」

 お姉様の言葉を一言で切り捨てた。

「何でよ」

 お姉様が私の頭を撫でるのをやめて、不満そうに言う。
 撫でるのをやめられたのは残念だけど、言うべき事は言っておきたい。

「お姉様は、もうちょっと落ち着いてからそういう事を言うべきだよ。そんなに敵意出してたら、また嫌われるよ」

 この子とお姉様が仲良くなって欲しくない、というわけではない。ただ、今のお姉様では仲良くできない、と思ったのだ。
 それに、図書館での一件もあるから、敵意を持ったお姉様とこの子を向かい合わせたくない。
 私は、この子を護ると決めたんだから。

「本当に懐いてほしいなら、あんまり刺激するような事はしたら駄目。特に、お姉様はすぐに手が出るから、まずは自分を抑えられるようにならないと」
「……まあ、確かにそうね」

 バツが悪そうに頷く。あんまり自分の失敗を認たくないけど、反論のしようもないから頷いてる感じだ。
 お姉様の負けず嫌いな所、嫌いじゃないけど今は抑えてほしい。

「……うん、今日は諦めるわ。また、私が落ち着いた頃に来るから、その時は仲介役、頼めるかしら?」
「うんっ、もちろん!」

 愛するお姉様と、愛しいこの子とが仲良くなってくれるなら、何でもするつもりだった。





 それから、数日の間にあの子はすっかり紅魔館の一員となった。

 あの子の世話は私がしてあげている。もともと私に飼わせる為にお姉様が連れて来てくれた子だし、それに何より私が世話をしてあげたかった。

 だから、私の部屋にはあの子の為の物がたくさん置いてある。

 水を入れておくためのお皿に、バスケットの中にタオルを入れたあの子のベッド、それに、爪とぎ用の木の板に、トイレ代わりの砂を敷き詰めたバット。
 遊び道具として、毛玉を丸めた物も用意したんだけど、遊んでる姿は見たことがない。ああいう物で遊ぶのはあまり好きじゃないのかもしれない。
 でも、代わりにお散歩をするのは好きみたいで毎日、紅魔館の中を歩いている。私もあの子の後ろに付いて歩いている。

 名前も決まった。
 でも、考えたのは私じゃなくて、パチュリーとこあの二人だ。
 ある日、お散歩であの子と図書館に行った時、二人が姫、と呼んだのだ。すぐに必要な事を覚える賢さ、落ち着いていればいつだってゆったりとマイペースで上品な姿、そして雌であることからそう呼ぶ事にしたらしい。
 初めて聞いた時、かなりしっくりとしたし、名前を考えないといけないなぁ、と思っていた私はすぐにそう呼ぶことにした。
 それ以来、あの子の名前は姫、となった。

 呼び始めた頃は自分の名前だと思っていなかったからか、あまり反応してくれなかった。でも、やっぱりあの子は賢いみたいですぐにそれが自分の名前だと分かってくれた。
 今では、名前を呼べば尻尾を振ってくれる。マイペースだからか、振り返ったりこっちに来てくれたりすることはあまりない。
 そして、あの子の方からこっちに来てくれることもあまりない。

 でも、あの子がお昼寝をする時、私が寝ようとする時だけは必ず傍に来てくれる。
 こあが言うには、私の傍が一番安全な場所だと思っているからだそうだ。
 でも、そこまであの子に信頼されるような事をした覚えはない。
 そう言うとこあは、お姉様が手を出そうとしたのを止めたのがよかったのかもしれない、と言った。

 言われてみれば、あの子が私に威嚇しなくなったのはそのおかげかなぁ、とは思う。あの後、お姉様から離れてからは、威嚇をしてくる事はなかったし。
 でも、そこまで信頼を預けられるに足る行為だったんだろうか。

 まあ、とにかくあの子は、私に一番懐いてくれていて、一番信頼してくれている。愛しいと思っている存在からそう思われているのだ。嬉しくない訳がない。
 だから、私は頑張ろう、と思える。

 とはいえ、全然手のかからない子だからそう頑張ることもない。

 でも、お姉様との関係は今でも微妙なままだ。お姉様が手を上げなくなったからか、威嚇するようなことはなくなった。でも、依然としてお姉様の事が嫌いみたいで、部屋にお姉様が来ると出来るだけ遠くへと逃げるし、お散歩の途中だと避けて歩く。

 これでも、お姉様は頑張って来ているのだ。最初は、避けられただけで怒鳴ってたけど今ではそういうこともなくなった。
 でも、まだお姉様はちょっとしたことで機嫌を悪くしてしまう。

 まだまだ二人の距離は遠い。

 そんな二人が仲良くなれるように間に立つのが私の役目だ。
 することは、お姉様を落ち着かせたり、あの子を落ち着かせたり。両者ともに気に入らないと真っ直ぐに感情を表に出すから、中々に大変なのだ。

 最近では、二人とも似た者同士だから、仲良くなれないのかな、と思っている。同属嫌悪、という言葉があるくらいだし。

 そして、今日もまた私は二人の中を縮めるべく、頑張るのだ。
 とはいえ、出来ることは非常に少ない。まだまだ、効果的な落ち着かせ方が分からないから。





「姫、ちょっとごめんね」

 そう断りを入れて、部屋の片隅に座っていた姫を抱き上げる。いつものように。お姉様が部屋に入ってきた途端に逃げてしまったのだ。
 そのまま、ベッドに腰掛けたお姉様の所へと近寄っていくけど、特に抵抗する様子はない。何度もこうすることを繰り返すうちに慣れてしまったようだ。自分から近寄っていく気はまだまだないみたいだけど。

「お待たせ、お姉様」

 姫を抱いたまま隣に腰掛ける。姫がお姉様から出来るだけ離れるように顔を動かす。

「……相変わらず、気に入らない事をしてくれるわね」
「まあまあ、落ち着いて、お姉様」

 お姉様は眉をしかめて、すでに喧嘩腰になってる。それを私がなだめるのも、もう慣れた。

「お姉様が、そういう態度をとるから、姫にいつまでも嫌われてるんだよ? もっと、こうリラックスしないと」
「そんなこと言われても、気に入らないものは気に入らないのよ」

 顔を逸らしてしまう。
 気難しいなぁ。お姉様も、姫も。

 そして、今日はどうしようか、と姫の頭を撫でながら考える。姫をお姉様に慣れさせるのもそうだけど、お姉様も姫に慣れさせないといけない。
 とにかく大事なのは、お互いに落ち着いてる、っていうこと。
 姫はこうして撫でてれば結構簡単に落ち着いてくれるし、最近はお姉様の事を意識しないようにして落ち着いてるようだ。私としては、もっとお姉様に関心を持ってほしいんだけど、まあ、今はまだいいや。

 それよりも問題なのは、姫にちょっと冷たい態度を取られただけですぐに機嫌を損ねてしまうお姉様の方だ。
 私の前ではあんまり見せないけど、子供っぽい性格なんだろうな、とは思っていた。でも、ここまでとは思ってなかったのだ。
 だから、ここ数日でお姉様への印象が大分変わってしまった。でも、それでも、私の愛するお姉様、という事に変わりはない。

 あ、そうだ。
 お姉様を落ち着かせるのに、頭を撫でてみる、というのはどうだろうか。
 姫だって頭を撫でられれば落ち着くし、私もお姉様に頭を撫でられたらとっても落ち着く。
 でも、怒られたりしない、とは限らない。頭を撫でられる、というのは子供扱いされてるようなものだ。私は気にしないけど、お姉様はそういう事を嫌うと思う。

 でも、今まで効果的にお姉様を落ち着かせられた事はないからこそ、挑戦してみるべきではあると思う。
 嫌がったらすぐに止めればいい。
 同じことを考えて姫の時に失敗したことがあるけど、今回は大丈夫だと思う。お姉様は、このくらいの事で私を嫌ったりはしないはずだ。

 ああ、でも、もしも嫌われたらどうしようか。お姉様に嫌われてしまったら今度は立ち直れなくなってしまうと思う。
 かと言って、このままでは進展がないと思う。お姉様が簡単に怒鳴ったりしなくなった、姫が威嚇しなくなった、というだけで、二人の距離は全然縮まっていないのだ。
 ここは、一つ私から動かすべきなんだと思う。お姉様が落ちついて、少しでも機嫌がよくなれば、姫だって少しくらいは違った動きを見せてくれるはず。

 ……うん、やろう。私の愛する二人の仲が良くない、だなんていうのは嫌だから、ここで一肌脱いでみせよう。

 まずは、姫を片手で抱き締める。こうやって私が抱いててあげないと、姫はすぐにお姉様から一番離れた場所へと行ってしまう。
 それから、空いた方の手をお姉様へと伸ばす。ゆっくりと伸ばしてたら、途中で気付かれて撫でにくい雰囲気になるだろうから、覚悟を決めて一気に伸ばした。

 手がお姉様の髪に触れる。お姉様がこっちに振り返ってしまう前に、その頭を撫で始める。
 思っていたよりも柔らかい感触で、手触りもいい。

「ふ、フラン?」

 困惑したような反応が返ってきた。嫌がってる様子は見られないから、継続。
 姫を撫でてあげてる時みたいに、優しく、出来る限りの愛を込める。だけど、この時に込める愛は、お姉様への専用の愛。
 姫を撫でる時は撫でる時で姫専用の愛があるのだ。

「いつまで経ってもお姉様が落ち着かないで不機嫌そうにしてるから、こうすればましになるかな、って。……どう?」
「どう、って言われても、まあ、嫌ということはないけど、私の方が姉であるわけで、だからこの構図はどこか変で、でも、その、機嫌が悪いのは治ったし、落ち着かないけど、……良いと思うわよ」

 お姉様の答えはかなり支離滅裂だった。顔は真っ赤だ。
 そして、そのまま、逃げるように顔を俯かせてしまう。だけど、私から離れていくようなことはない。

「え、えっと……?」

 予想外の反応に私の方がどう反応していいか分からなくなってしまう。
 なんとなく言いたいことは分かる。分かるけど、ここまで取り乱されるとは思ってなかった。
 私はどうするべきなんだろうか。

 そう思いながらも、お姉様の頭を撫で続けている。このままでいいのか、止めた方がいいのか分らないのだ。
 だから、惰性で撫で続けている。

「お姉様?」

 とりあえず、声をかけてみる。

「……何かしら?」
「機嫌は、よくなったんだよね?」

 こう聞く間も、手は止まらない。さらさらと流れる髪の感触が癖になりそうだ。

「……ええ、そうね」
「じゃあ、挑戦してみる?」
「……ええ、お願い」

 俯いたまま、頷いた。
 何だか、随分しおらしくなってしまった。失敗、だったかな?

 でも、今はとりあえず、撫でるのをやめて、姫をお姉様の方へと近づけてみる。今も相変わらず、お姉様から顔を逸らしている。

 お姉様が赤いままの顔を上げて、姫の姿を見る。
 顔を逸らされてるのを見ても、眉をしかめたりするようなことはなかった。
 あれ? 意外と成功かな?

 それから、お姉様がゆっくりと手を伸ばす。それに合わせて姫がお姉様の方を見た。
 いつもなら、もっと早く伸ばしていくのに、そこだけが違った。姫が手を伸ばしたお姉様を見るのはいつもの事だ。

 後は、ここで姫がどういう行動に出るか。
 今までは、伸ばされた手を振り払っていた。

「あ……」

 漏れた声は、お姉様の物だったのか、それとも私の物だったのか。

 なんにしろ、ようやくお姉様の手は、姫の白い毛に触れた。

 でも、姫はすぐに顔を逸らしてしまった。その瞬間に、お姉様の眉がしかめられる。
 直後に、お姉様の手は振り払われてしまった。

「なっ! この猫は!」
「駄目だよ、お姉様。ほら、落ち着いて」
「う……」

 姫を放してあげて、代わりにお姉様の頭を撫でた。すぐに大人しくなってくれる。
 うん、お姉様にも、頭を撫でてあげる事は有効なようだ。姫がお姉様に触られるのを少し許すくらいにお姉様の機嫌を良くするくらいには。

「お姉様と姫の間には大きい溝があるんだから、少しずつ埋めて行かないと。焦ってたら、いつまでも埋まらないよ」

 こあに言われた事を自分なりの言葉でお姉様へと伝える。こあには、諦めない、とも言われたけど、お姉様にいう必要はないと思う。
 諦めが悪いからこそ、今もここにいるのだから。

「……わかったわ。でも、その、だからと言って、頭を撫でるのは、やめて、くれるかしら?」

 赤い顔のまま顔を俯かせて、上目遣いをこちらに向けてくる。
 なんだかよくわからないけど、楽しい、という感情が芽生えてくる。だから、撫でるのはやめない。
 嫌がってたら別だけど、そんな様子は全然見られない。恥ずかしがってるのは伝わってくる。

「うーん、どうしようかなー。姫にどんな態度を取られたとしても、すぐに機嫌を悪くしないならいいよ」
「……ええ、しないようにするわ」
「うん、ならよし。でも、また機嫌悪くなったら、同じことするからね」

 頭を撫でるのをやめてあげる。ちょっと残念だけど、そういうふうに約束したんだから仕方ない。

「……なんだか貴女、ここ最近、随分としたたかね」
「そうかな? 私はただ、お姉様と姫に仲良くなって欲しいから頑張ってるだけだよ」
「心強い仲介役ね」

 そう言って、お姉様は赤い顔のまま、微笑みを浮かべた。
 それに、私も微笑み返した。


 こうして、今日はお姉様の弱点を見つけた。
 姫とお姉様の溝を埋められそうな見通しが立つとともに。




 それからまた、数日が経った。

 この間に、姫とお姉様との距離は確実に縮まっていった。

 姫がお姉様から逃げる事はなくなった。
 ただ、まだお姉様の事が気に入らないのか、顔を合わそうとしない事がよくある。そんな時は、お姉様に我慢してもらうしかない。
 不機嫌になる度に私が頭を撫でてあげるのが効いたのか、しっかりと我慢できるようになってくれた。
 今更ながらに何だか間違ってる気がしないでもないけど、結果が良いんだから、別にいいか、と思う事にしている。
 お姉様、元々私の言う事は結構聞いてくれてたけど、最近になって更に従順になったのは多分気のせい。
 いや、私だって落ち着かせる、機嫌をよくする以外の効果があるとは思ってなかったのだ。

 まあ、それはそれとして。
 実は姫の事で気になることが一つある。

 三日前から、姫のお散歩コースに館の外も加わった。姫を外に出してみようと思ったのは姫が館の外への扉に興味を持ち始めたから。
 本当は外に出るのはあんまり好きじゃないけど、この子と一緒なら楽しいかな、と思ったのだ。

 紅色の傘を用意して、扉を開け放つ。そうすると、あの子はいつものマイペースを崩さず館の外へと出た。
 対して、私は陽の光を前にして躊躇していた。
 でも、姫に置いて行かれるわけにいかないから、日傘を開いて覚悟を決めて飛び出した。

 そうして、白い毛で陽の光を反射して眩しいくらいに輝く姫を追って辿り着いたのは、霧の湖だった。
 名前の通り、いつも霧の掛かっているこの湖は、他の場所よりも涼しく感じる。霧によって太陽の光が遮られ、小さな水の粒が温度を奪い取っているからだろう。

 あの子は、じっと湖の向こう側を見つめていた。
 隣にしゃがみこんで動きだすのを待っていた私の腕や足に水滴が付着するくらいに長い時間。

 最初は、どうしてそんなことをしているのか分らなかった。湖に何かいるんだろうか、と思って探してみたけど、何も見つからなかった。
 でも、二度、三度とそんな姿を見ていて、もしかしたら、と思ったのだ。

 元の飼い主の場所に戻りたいのではないのだろうか、と。

 姫は、初めて会った時、血以外に目立った汚れはなかったし、私たちの言葉が通じてるみたいな反応をする。だから、お姉様が連れ帰ってくる前に誰か別の人に世話をされていた、という可能性は大いにあった。
 今までその可能性に思い至らなかったのは、単に私がこの子と離れたくなかったからだと思う。この子の為には出来る事をしてあげたい、と持っていながらも結局私は自分勝手だった、ということだ。
 でも、気付いてしまった今、その可能性を無視することなんて出来ない。
 元の飼い主の所へと帰りたくて湖の向こう側を見つめているというのなら、帰らせてあげたい。所詮、私は第二の飼い主だし、何よりこの子の願いは叶えてあげたい。

 ただ、一人で館から離れるのは不安だった。
 霧の湖の先の事は何も知らない。だから、せめて一人くらいは同行者が欲しかった。

 そこで、相談したのはお姉様だった。私が一番頼れるのはお姉様だし、遠くまで行くならお姉様の許可がいると思ったから。

 一つ質問されたりはしたけど、それに答えれば快く引き受けてくれた。

 質問は、姫と別れる事になってもいいのか、というものだった。

 そんなもの悩むまでもなかった。
 別れるのは嫌だけど、私自身の問題だからすぐに切って捨てる事が出来る。あの子の為なら何でもする、と決めているのだから。
 私の答えにお姉様はただ頷くだけだった。

 少しだけ、表情が硬かったのが気になったけど。





 そして、私たちは人間の里の民家の前へとやってきた。

 私が姫を抱いて霧の湖を越えた後、姫が向かおうとしたのは人里の方だった。とはいえ、気付いたのは、よく外に出てるお姉様だ。私は、どこかに行こうとしてる、ということくらいしかわからなかった。

 距離が結構あるらしいから、私が片手で姫を抱いて人里まで飛んだ。日傘を片手で支えて飛ぶのには結構苦労した。

 人里に着くと、姫を地面に降ろしていつも通りゆったりと歩くその姿を追いかけた。
 その結果ここに辿り着いた、と言うわけだ。
 随分と呆気ない。

 でも、道中が呆気なくても、波乱万丈に満ち溢れていても別れてしまう事に変わりはない。
 そう思いながら木製の引き戸へと近寄る。あれを叩いて、中から元の飼い主が出てくれば、それで姫とはお別れだ。

 私は、扉の前に座る姫の隣に並ぶ。余計な感情が芽生えて名残惜しくなってしまう前に戸を叩く。

 渇いた音が響く。
 でも、遠くまでは響かないで、すぐに消えていく。
 残響さえない。

 ……。

 いくら待っても、それ以上の音が生まれる事はなかった。あるのは元々ある、鳥の鳴く声や草の揺れる音だけ。家の中からの足音や、引き戸の開けられる音は続かなかった。

「どうやら今はいないみたいね。時間帯的に、農作業でもやってるんじゃないかしら?」
「そ、っか」

 お姉様の言葉にすごく安心した。……安心、してしまった。

「どうするの? 一端帰って、夕方まで待つ? それとも、ここで待ってるかしら?」
「……ここで、待ってる」

 安心感を抱いてしまっている状態のまま帰ってしまえば、もう二度とここまで来れない気がした。なら、ここで待っている方が正解のはずだ。
 身体がこの場から動きだしてしまう前に、背中を戸に預けてその場に座り込んだ。玄関の前にはひさしがあったから、日傘は畳んで適当に立て掛けておいた。

「そ、わかったわ」

 お姉様もこっちに寄って来て、家の壁に寄り掛かった。お姉様も日陰の下に入ったから日傘を畳む。

「……ごめんなさい、お姉様。こんなことに付き合わせて」
「いいわよ、別に。一回帰って、もう一度こっちに来るの面倒くさいし、たまにはこっちの空気を吸って時間を潰すのも悪くないと思うわ」
「……」

 その言葉が私を気遣っての言葉なんだろうな、っていうのはすぐに分かった。でも、指摘は出来ない。
 何を言っても誤魔化してしまう、というのが分かり切っているから。

「……」
「……」

 だから、お姉様も私もそのまま黙ってしまう。姫ももともとあまり鳴く子じゃないから、沈黙が私たちの間を支配する。
 居心地が悪い。
 だけど、何かを言う事は出来ない。何を言えばいいかわからないから。

 だからか、私は無意識のうちに隣に座っている姫を抱き上げていた。
 今、そうしてしまえば更に未練が積もってしまう、ということは分かっていたはずなのに。それでも、私は抱き上げてしまった。

 今更放すことなんて出来ない。逆に、抱き上げてそのまま抱きしめてしまっている。

 柔らかさ、暖かさ、心臓の鼓動が伝わってくる。
 愛しさ、切なさ、寂しさが浮かんでくる。

 この子を手放したくなんてない。ずっとずっと一緒にいてあげたい。
 ……ううん、違う。ずっと一緒にいたい。

 こうしてこの子を抱きしめているとわがままな自分ばかりが表に出てくる。
 護ってあげたい、何でもしてあげたい、と思っても結局は自分の独り善がり。この子に気に入られたい、と思っていただけだ。
 これでは、自分勝手な行動と何にも変わらない。

 そう気付いても、こうして一度抱き締めてしまった腕から力を抜くことは出来ない。うずくまるように抱きしめて、これ以上力を込めないようにするのだけで精一杯だった。

 こんなに抱きしめられたら、この子は苦しいのかな。

 そんなことを思うなら放してあげればいいのに、私の身体は全然言う事を聞かない。

「フラン、離れるのが辛いのかしら?」

 不意に、お姉様が話しかけてきた。
 顔は、上げられなかった。

「……うん。自分、勝手だよね。この子は、帰りたい、って思ってるのに、私がこの子を放さないなんて」
「そうかしら? 散々世話をしてあげたって言うのに、帰りたい、っていう姫の方が自分勝手だと思うけれど?」

 お姉様の言い分は確かに一理あるかもしれない。
 でも、私は色々としてあげたんだから、残っていてほしい、とは思っていなかった。そんな打算的に考えて世話をする余裕なんてなかった。

 だって、私はこの子に愛しさを持って接していたから。
 そして、目の前の事しか見ていなくて、先の事なんて考えてなかった。

「私は、この子の為に何でもしてあげたい、って思ってた。……でも、駄目なんだ。弱い自分に負けて、この子を放せない」
「……それは確かに自分勝手ね」

 それは、断罪のような一言だった。
 真っ直ぐに胸の内へと突き刺さる。
 胸に、痛みが走る。

「半端な覚悟でどんなでもしてあげたい、だなんて勝手極まりないわ。自身の全てを捧げる、何を奪われても構わない、自分が死んでしまってもいい。それくらいの覚悟を決めてようやく、どんなことでもしてあげたい、と思えるようになるのよ。愛や好意だけで、思って良い事ではないわ」

 厳しい声と言葉で痛い所を突かれて、私は何も言い返せなかった。元々落ち込んでいた気分が、更に落ち込んでしまう。
 自己嫌悪に苛まれて、しばらく顔を上げられそうにない。

「まあ、でも、そういった想いは、普通はもっとじっくりと積み重ねていくものだから、今回は仕方ないと言えば仕方ないわね。流石に私でも、出会って十数日でそんなに強い想い、抱けやしないわ」

 厳しかった声が、柔らかくなっていた。
 でも、同情のような雰囲気があるから先ほどの言葉以上の衝撃はない。
 相変わらず、胸は痛いままだ。腕や手にぎゅっと力を込めそうになるけど、姫がいるからなんとか堪える。

「……どうするの? 今なら家主も帰って来てないし、このまま館に帰ればうやむやに出来ると思うわよ? それに、姫の帰りたい、っていう想いだって、数か月もすればなくなるんじゃないかしら?」
「やだ。帰らない」

 自分の弱さのツケをこの子には背負わせたくなかった。私なんかのせいで、この子に辛い思いはさせたくなかった。
 私が望むはこの子の幸せのはずだ。私のわがままに付き合わせたりしてはいけない。
 だから、今放せないのなら、放せるようになるまでここにいるつもりだ。

「全く、強情ねぇ。誰に似たのかしら」

 お姉様が呆れたように溜め息をつく。その声は、私の隣に立っているにしては近かった。

「多分、お姉様」

 お姉様は、私の言葉に従ってはくれても、その考え方を変えてくれる事は中々してくれない。
 姫とお姉様との距離がなかなか縮まらなかった主な原因がそれだった。

「そう。それなら、仕方ないわね」

 お姉様の手が頭に触れた。そのまま、ゆっくりとした手つきで頭を撫でてくれる。
 私よりも上手だなぁ、と根拠もなく思う。だって、頭を撫でれば落ち着ける、ということを教えてくれたのはお姉様だから。

「まあ、落ち着いて考え直してみなさい。こうすれば、落ち着けるんでしょう?」

 直接そう言ったわけじゃないけど、確かに、撫でてもらうと落ち着ける、と言ったことはある。

「……うん、ありがと」

 実際、落ち込んでいた気分も、幾分落ち着いてきていた。まだ、顔は上げられないけど、これ以上気持ちが沈んでいくことはなさそうだ。
 それに、身体の力も抜けてきている。今の間に、姫が抜けられる程度に力を抜く。
 でも、腕の中の姫はどこかに行ったりしないで、私の顔をじっと見ていた。私も、その顔を見つめ返す。

 私が初めて愛しいと思えた存在である姫。護ってあげたいと思った姫。
 この子と離れたくなんてない。でも、この子は元の飼い主の所へと帰りたいと思っている。
 なら、その想いを無視したくはないし、蔑ろにしたくもない。
 ちゃんと、叶えてあげたい。

 そう思ったから、私はここまで来たはずだ。
 それなのに、ここでわがままを言うなんてどうかしている。

 ……もう一度、じっくりと自分の気持ちをまとめよう。
 そうじゃないと、いつまでもこの子への未練を抱えてしまいそうだ。
 もしかしたら、この子が私の腕の中に残ってくれたのは、私のそんな心情を察してくれたからかもしれない。もしそうだとしたら、本当に良い子だな、と思う。
 だからこそ、私はちゃんと覚悟を決めないと。

 大丈夫。今は、お姉様が頭を撫でてくれている。こうしてくれている間は、きっと何が起きても落ち着いていられるはずだ。

 私は、この子のしたいようにしてほしい。この子が一番幸せだ、という生き方をしてほしい。
 それを、私なんかが離れたくないとか、寂しい、だとかの理由で邪魔したら駄目だ。
 でも、その気持ちを私自身抑えられていない事は事実だ。今の今までこの子を放せないでいたのが何よりもの証拠。

 どうすれば、それを抑える事が出来るか。

 とりあえず、こうしてうじうじ考えてたら余計に未練が積もってしまいそうな気がする。だから、楽しい気分になろう。そうすれば、少しくらいは姫がいなくなる悲しさや寂しさに耐えられるかもしれない。未練も振り払う事が出来るかもしれない。
 その為に、こうして座っていてはいけない。こんな姿勢では、すぐに気持ちが塞いでしまう。

 立ち上がろう。
 そう決めて、まずは姫の拘束を完全に解く。重力に逆らわず姫は私の太ももとお腹の間に落ちる。姿勢が気に入らないのか、すぐに地面の上へと飛び降りた。

 私は立ち上がる。
 お姉様はそれが分かっていたのか、いつの間にか私の頭を撫でるのをやめていた。

 私を止めるものは何もなかった。立ち上がった私は、真っ直ぐに前を見つめる。
 そこには、片手で傘を差しているお姉様の姿があった。

「ちゃんと、考え直す事は出来たかしら?」
「……ううん、ちょっとしか出来なかった。でも、楽しい気分になろう、って思った。そうすれば、少しくらいは姫と別れる事に耐えられると思ったから。だから、こうして立ち上がってみたんだ。座り込んでるよりは、ましでしょ?」

 そう言って、笑ってみる。上手く笑えてるかは分からないけど、少なくとも私は笑えたと思った。

「それは良い考えだと思うわ。じゃあ、一つアドバイス。楽しい気分になりたいなら、別れた後の姫の幸せな姿を想像してみなさい。それも、到底叶いそうにないくらい、うんと夢物語じみた事を」
「それって、余計に寂しくなりそうな気がするんだけど……」

 私がいなくても幸せなんだって思えれば嬉しい、と思える。けど、そこに私がいないことに寂しさを感じてしまうんじゃないだろうか、とも思ってしまう。

「まあ、覚悟が足りないとそうかもしれないわねぇ……」

 お姉様は容赦がなかった。でもまあ、立ち上がったからか思った以上のダメージはなかった。
 少しでも、前向きになれたらそれなりに色んな事に耐えられるようになるんだろうか。

「なら、そうね。今のうちに言いたい事を全部ぶちまけておきなさい。ついでに、抱き締めたいだけ抱き締めて、頭を撫でたいだけ撫でればいいと思うわよ」
「……そんなことしたら、いざという時に放せなくなるよ。それに、楽しい気分になれるかな?」

 気が付けば、わがままばかりを言って、自己嫌悪に苛まれてまた落ち込んでしまいそうな気がする。

「なるのよ。楽しかった時の思い出を語りながら、楽しい気分に浸るのよ。まあ、そのせいで放せなくなったというなら、諦めて連れて帰るしかないわね。大丈夫、説得は私に任せなさい」
「お姉様に説得を任せるのは不安になるんだけど……。それに、帰るつもりはないよ。何があっても今日、私はこの子を元の飼い主の所に帰らせてあげる。だから、もし、私が姫を放せなくなってたら、お姉様、私の頭を撫でて。そうしたら、放してあげられるから」

 お姉様に撫でてもらえば、どんなに強張っていても身体から力が抜けて行く。それで、簡単に姫を放す事が出来るはずだ。

「わかったわ。でも、もしも、どうしても貴女が姫を放しそうになかったら、私が元の飼い主を説得するわ」
「……うん、わかった」

 絶対にそんなことない、とは言えなかった。だって、こんなにも大きな喪失を味わうのは初めてだからどうなるか、というのが分からないのだ。
 だから、大丈夫、だなんて言えない。
 もしかすると、これも私の覚悟が足りない、という証拠なのかもしれない。

 強い覚悟を持ってたら、どんなふうに思う事が出来るんだろうか。
 ……お姉様はきっとそれだけの覚悟を持ってるんだろうな、って思う。言葉の節々からそう思う事が出来る。

「でも、お姉様が暴走しそうになったら、なんとしてでも止めるからね」

 お姉様には、姫をグングニルで足止めした、という前科がある。今回もそういった事がないとは限らない。
 もしも、無理やり何かをしでかしそうになったら、いつものように頭を撫でて止めよう。

 でも、何よりも私はお姉様にそういう事をさせないようにしないといけない。
 元の飼い主が帰ってくるまでの時間で、今よりももっと覚悟を積もう。それで、足りるんだろうか、とかは考えないようにする。

「流石に、人前で頭を撫でられるのは勘弁願いたいから、肝に銘じておくわ」

 お姉様が笑って、私も今は笑っていられた。


 別れる時も、笑っていられるといいな。





 西日が射してくる。
 それを遮る為に、私とお姉様は日傘を地面に置いて、その場に座り込んでいる。日傘がかなり大きいからこそこういう事が出来るのだ。

 今、私は姫を抱いている。
 濡れた頬を拭かないまま、ただただこの子を抱いている。頭には、お姉様の手の感触が残っている。

 あの後、お姉様に言われたとおり、姫に言いたい事をたくさん言った。
 あの時はごめんね。でも、許してくれてありがとう。一緒にいられて楽しかった。貴女は楽しかった? 私といられてよかった? そうだとしても、そうじゃないとしても、元の飼い主の所では幸せにね。
 想いや思い出。思いつく限りの事を端からどんどん言葉にしていった。
 言葉は伝わってなくてもいい。ただ、私の想いを感じ取ってくれればそれだけでよかった。

 そうしながら、姫の頭を撫でたいだけ撫でていた。
 優しくゆっくり、私の愛を込めて撫でてあげた。
 でも、未練や寂しさやそんな物もたくさん混じっていたかもしれない。そういう想いを抱いているからこそ、未練がましく撫でていたのだから。

 その間、私は泣いていたらしい。らしい、というのは私自身が中々そのことに気付かなかったから。
 気付かせてくれたのは、姫。
 私が立ったまま姫を抱いて、その頭を撫でて話しかけていると、不意に身を乗り出してきたのだ。
 その後に、姫は私の頬を舐めた。暖かく湿ったざらりとした感触が触れた。

 反射的にその部分に触れてみると、舐められたのよりも上の部分が濡れていた。それで私は自分が泣いていたと気付いたのだ。

 気付いてしまってからも止まる事はなく次々と流れて来た。その度に姫は私の頬を舐めてくれた。
 でも、この子が舐める事が出来たのは片方側だけだった。
 だから、落ちた涙がこの子の白い毛を濡らした。そのはずなのに、この子は嫌がる素振りを全然見せなかった。

 それがとても嬉しくて、感情も涙も抑えきれなくて、気が付けば姫を抱き締めていた。
 愛してた、愛してるよ、と掠れた声で言った。

 そしてそのまま泣きじゃくり始めて、今ようやく落ち着いた、という所だ。
 どれだけ泣いていたのかはよく分からない。姫を撫でながら話しかける事、泣きながら抱き締める事に夢中だったから、他の事なんて気にしていられなかった。
 唯一気にしていた事といえば、私の頭を撫でるお姉様の手ぐらいだった。

 ずっと泣き続けていたせいか、物凄い虚脱感を感じる。日射しのことを抜きにしても立ち上がる気力がなかった。
 でも、心の内は意外にすっきりとしていて、穏やかだ。
 姫を放そうと思えば、今すぐにでも放す事が出来そうだ。今はまだ放したくないから放さないけど。
 今は、最後にこの子の温もりを感じていたい。

 いや、そうじゃない。この子とのお別れはほんの一時の事。また会いに来ようと思えば会いに来る事が出来る。
 私が感じていたいのは、家族としての、この子の温もり。

 別れてしまった後、この温もりが変わってしまうのかどうかはわからない。でも、私は変わってしまうような気がした。
 だから、私はこうしてこの子を抱き締めている。

 日が沈んでいくのなんて見ない。
 ただただ、この子の温もりだけを感じていたい。

 結局、私は最後の最後までわがままだった、というわけだ。
 この子の幸せを願っておきながら。

「フラン、そろそろ時間みたいよ」

 不意にお姉様に声をかけられた。隣に視線を向けてみると、お姉様はいつの間にか傘を折り畳んで立ち上がっていた。陽は沈んだようだ。

 ついに、この時が来てしまったのか。避けられない事は分かっていた。でも、まずは、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
 それから、姫を抱く腕に少し力を入れて、立ち上がった。日傘はそのまま地面に置いておく。

 男の人と目が合った。短い黒髪で、土に汚れた麻の服を着ている。年齢は、咲夜よりも少し上くらいだと思う。
 その人は、最初お姉様を見て驚いていたみたいだけど、その後、私の方を見ると更に驚いたみたいだった。私か、私の腕の中にいる姫に。

 男の人はそのまま動こうとしない。多分、動けないんだと思う。里でも有名なお姉様がこんな所にいる驚きと、久しぶりに姫に会った驚きのせいで。
 お姉様も腕を組んだまま見ているだけで動こうとしない。私に動け、ということなんだろう。

 泣いている間に、少しくらいは覚悟を積む事が出来たのか、案外あっさりと足は動いてくれた。
 遅くなりすぎないくらいにゆっくりと歩いて、彼との距離を縮めていく。開ける距離は、大股で二歩分くらい。

「あの、初めまして。えっと、私、今までこの子の世話をさせてもらってたんだ。それで、この子が元の飼い主の所に帰りたがってたから、連れて来たの。……貴方がこの子の飼い主で合ってるよね?」

 もしかしたら、ただこの家に用事があってここに来たのかもしれないから、一応聞いてみる。姫が彼の事をじっと見つめているから、多分合ってるんだろうけど。

「あ、ああ、そうだ。おれがそいつの飼い主だ」
「そっか、良かった。じゃあ、この子は貴方の所に帰らせてあげるね」

 遂に、お別れの時が来てしまった。
 名残惜しくない訳がない。でも、私はこの子がしたいようにさせてあげると決めたんだ。
 私がこの子を縛っていてはいけない。

「……ばいばい、姫」

 姫を地面に下ろしてあげる。
 あの子の足取りには何の迷いもなかった。そのことに、小さな痛みを覚える。

 温もりが離れてく。もう、あの子は私たちの家族でなくなってしまう。
 でも、これでいいんだよね。あの子が望んだんだから。
 そう自分に言い聞かせる。こうして思い込んでいないと、痛みが大きくなってしまいそうだ。

 これ以上ここにとどまっていられる事が出来なくて、姫と男の人に背を向ける。

「あ、ちょっと!」

 男の人に声をかけられたけど、振り返る事は出来なかった。

「その子の事、お願いね!」

 だから、代わりにそう言った。
 楽しませてあげて、護ってあげて、幸せにしてあげて、という願いを込めて。

「お姉様、帰ろ」
「いいのかしら? このまま帰っても」
「うん、いいよ……。このままだと、帰れなくなりそうだから」

 日傘を拾い上げる。
 帰りは飛んで帰ろう。そうしないと、視界の中にあの子が映ってしまう。

「ふーん。……ああ、そういえば小悪魔から聞いた話だけど、猫ってお礼をすることがあるそうよ」
「そうなの?」

 それは初耳だった。でも、それが今どんな関係があるというのだろうか。

「だから、もしかしたら、お礼を言いに来ただけなのかもしれないわね」
「え……?」

 まさか、と思った。
 でも、何をどうまさか、と思ったのか考える暇はなかった。

 足に何かが触れていた。
 それは、温かく、感じ慣れた鼓動を打っている。

「そんなに急いだりせず、もう少しあの男と話をしてから帰ってもいいんじゃないかしら?」

 足元にいたのは、さっきお別れを告げたはずの姫だった。私の足に寄り添って来ている。私に抱き上げてほしい、とねだる様に。

「なんで……」
「さあ? 貴女の所の方が気に入ってる、って言う事じゃないかしら?」

 姫が寄り添うのをやめて早くしろ、と言わんばかりにこっちをじっ、と見る。
 私は困惑した。
 だって、もう帰ってくることなんてないと思っていたから。

 でも、身体の方は私の思考なんて無視をする。
 勝手にしゃがんで、勝手に姫を抱き上げていた。
 そして、最後は私の意識がぎゅっと抱きしめる。

 家族としての温もりをまた感じられる事が嬉しかった。
 また、家族として抱きしめてあげられる事がとても嬉しかった。
 もう、枯れてしまったと思っていた涙が流れ出した。

「まだ泣くには早いわよ。せめて、あの男と話をしてから泣きなさい」
「……うん」

 頷いたけど、涙は止まらない。
 それだけでなく、嗚咽さえも漏れてきてしまう。

 嬉しさや、安堵感。緊張の糸が突然切れた事、不意を突かれた事。
 色んな物がありすぎて、自分の感情を抑え切れない。

「ほら、そんなに泣いてたらみっともないわよ」

 お姉様が頭を撫でてくれたけど、全然収まってくれる気配はなかった。
 むしろ感情が溢れ出してきてしまって、どうしようもない。

 腕の中の温もりが、どうしようもなく愛しくて、どうしようもなく嬉しかった。
 安心が今までとどめていた感情を吐き出させた。

 だから、この涙も嗚咽も当分止められそうにない。





 あれから落ち着くのに随分と時間がかかってしまった。気が付けば、辺りは真っ暗だ。吸血鬼だから、闇の中にいることには何の問題もないんだけど。

 結局、お姉様が私の代わりにあの男の人と話をしてくれた。私は隣で泣きじゃくりながら、時々なんとか話に加わる程度だった。

 男の人は何の未練もなく姫を私に任せる、と言ってくれた。
 農作業が忙しくてあまり構ってあげられない、いっぱい構ってあげられる人の傍にいる方がいいだろう、という事だそうだ。

 その言葉に私は途切れ途切れに、頑張って幸せにする、と答えた。ちゃんと言葉になっていたかは私自身も良くわからなかった。
 今度会ったときにちゃんと話をしよう。そう思ってその男の人とは別れた。

 そして、お姉様に人里の広場に置いてある椅子の所まで連れられて今に至る。
 お姉様は、ずっと私の頭を撫でてくれていた。

「……お姉様、大丈夫。もう、落ち着いたから」

 頬の涙を拭って、そう言う。ずっと泣き続けてたからか、喉が少し痛い。
 長い時間泣く事は何度かあったけど、嬉しさでこんなにも泣くのは初めてだった。

 改めて私がどれだけ姫の事を愛してて、必要としていたのかがわかる。
 同時に、人を必要にしすぎてしまうこの性格はどうにかした方がいいな、と思う。そうじゃないと、今以上の迷惑を誰かに掛けてしまいそうだ。
 ずっと抱きしめていた姫の頭を撫でてあげながらそう思う。
 ……今にしたって、嫌がりはしなかったとはいえ、姫に迷惑をかけてたんだよね。

「ん、そう? じゃあ、帰りましょうか」

 私の頭を撫でていた手を止める。そして、椅子に立て掛けていた傘を持って立ち上がる。

「うん。……ありがとう、今日はここまで付き合ってくれて」

 今日浮かべた中では一番自然体な笑顔を向ける。
 気持ちを抑え込んでる時と、全部吐き出した後では全然違うんだなぁ、と思えた瞬間だった。

「どういたしまして。でも、貴女が望むならいつまでも一緒にいてあげるわよ」
「いや、いいよ。館に戻るまでで」

 どうしてそう、こあみたいな事を言うんだろうか。でも、お姉様なら何の警戒心を抱く事もなく、別に良いかな、と思える。
 でも、今日はお姉様よりは姫と一緒にいたかった。だから、断らせてもらった。

「そう。わかったわ」

 特に残念そうな様子もなく言って、お姉様は飛び上がった。私もそれに続いて飛び上がる。
 その時に、落とさないように、姫をぎゅっ、と抱き締めた。

 この子は、これからずっと私たちの家族だ。
 ずっと、護ってあげよう。ずっとずっと、愛してあげよう。

 でも、もしかしたら、いつかこの子が私から離れたがる時が来るかもしれない。今日は勘違いだったけど、そんな時がないとも言い切れない。
 だから、今度は私のわがままに巻き込まないよう、強い覚悟を持とう。
 そう簡単には崩れない、強い強い覚悟を。


 私はこの子のおかげで、愛する事、愛しいと思う事、護りたいと思う事。
 その本当の意味を少しだけ分かる事が出来たような気がする。


Fin



後書き

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