「久しぶりね。貴女がここに来るのも。最近、異変があったらしいけどそれの解決でもしたのかしら?」
「ああ、謎の飛行物体を追いかけてちょちょいっとな」

 静かな図書館の中に二人分の話し声が響く。

 一つは簡単に掻き消えてしまいそうなほど小さく、けれど、はっきりとした声。
 もう一つは静謐な図書館には似つかわしくないほどに無駄に明るい快活な声。

 図書館の中央。大きなテーブルと椅子の置かれた場所。
 黒白の魔法使い霧雨 魔理沙はいつも持ち歩いている箒をテーブルに立てかけて、本の山に埋もれるようにして座っているこの図書館の主パチュリー・ノーレッジの対面に座っている。

「ふーん。……で、何かめぼしい物は見付かったかしら?」
「む、何のことを言ってるんだ?」
「貴女、前にレミィが起こした異変を解決した後もこの館の中を何週間も掛けて調べつくしていたでしょう? だから、同じ事をしていなか、って思っただけよ」
「あー、今回はしてない。何も無さそうだったからな。けど、代わりに魔法を教えてもらってたぜ」
「魔法、ねぇ。ということは今回の異変の犯人は私たちの同業者だったのかしら?」
「いや、今回の異変は……誰が犯人だったんだ?」

 魔理沙は首を傾げた。
 確かに、今回の異変は色々な要素が重なっているせいで元凶がわかりにくくなっているのだ。

 地底に埋められていたとある倉を打ち上げた間欠泉。粉々に砕けたそれを集めるために奔走した者たち。そして、謎の飛行物体を作り上げた正体不明の妖怪。
 今回の異変は今までの異変とは少々毛色が異なっていたのだ。

「私に聞かれても知るはずがないじゃない。……まあ、私にとっては何でもいいんだけれど」

 自分にこれといった実害がなかったせいか、もともとどうでもよかったようだ。

「そうだな。……じゃあ、というわけで、魔導書を借りてくな」

 魔理沙自身にとってもどうでもいいことだったらしく、本題へと入る。

「何が、というわけなのかわからないけど、待ちなさい。本を借りたいというのなら前に貸した本を今すぐ返しなさい」
「えー、別にいいじゃないか」
「ダメ」

 短い言葉で切り捨てる。少しでも甘さを見せればすぐに調子に乗ってしまうので容赦は無い。

「ちぇっ、しょうがない。今日の所は大人しく帰るか」

 箒を掴んで立ち上がる。なんだかんだで一応常識は持っているのだ。中々前面に出にくいだけで。

 しかし、立ち上がった魔理沙はすぐには立ち去ろうとしなかった。くるっ、とパチュリーの方へと向き直る。

「っと、そう言えばフランはどうしたんだ?」
「さあ。私はフランの行動を逐一把握はしてないから知らないわ。でも、そろそろ来る頃じゃないかしら? 貴女に惹かれて」

 言葉と同時に図書館の大扉が勢いよく開かれた。図書館独特の静謐さ霧散する。

 それは暴風のような紅い風となって真っ直ぐにテーブルの方へと向かっていき、

「やっぱり魔理沙来てたんだっ。久しぶりっ!」

 魔理沙へと抱き付いた。
 慣れているのか魔理沙は動じた様子もなく彼女をしっかりと抱き止める。

「よっ、と久しぶりだな、フラン。元気か?」

 笑いながら紅魔館の主の妹フランドール・スカーレットの金髪を撫でる。背中から生えた宝石のような七色の羽が嬉しそうに揺れる。

「うんっ。元気だよっ」

 眩しすぎるくらいの笑顔を魔理沙へと向ける。おそらく、今の彼女には目の前の黒白の魔法使い以外は写っていないだろう。

 紅魔館の主が起こした紅霧異変。その異変解決後に魔理沙はフランドールと出会った。そこで弾幕ごっこをし魔理沙が勝ったのだが、その後、異常なくらいに魔理沙に懐いている。
 長い年月幽閉されていて、初めて本気で遊んでくれたのが魔理沙だから仕方の無いことなのだろうが。

「魔理沙、また、異変を解決したの?」
「ああ、華麗に解決してきてやったぜ」
「ほんとかなー」

 笑顔のままそんな言葉を口にする。
 懐いていても魔理沙の言葉を全面的に信じているわけではない。それでも、魔理沙の知り合いの中では一番魔理沙の言葉を信じている。

 不意にフランドールが再び魔理沙に強く抱きつく。そして、鼻をひくひくと動かす。
 妖怪は総じて人間以上の感覚を持っているのだが、フランドールは嗅覚が優れているのだ。

「……うん、やっぱり、知らない人たちの匂いがする。……ん?」
「ん? どうかしたか?」

 魔理沙の疑問の声にフランドールは顔を上げる。見たことのないものを見つけた子供のような表情を浮かべている。

「今まで嗅いだことのない様な匂いの人がいるよ」
「いや、そんなこと言われても私にはわからないんだが」

 魔理沙は困ったような表情を浮かべる。自分では感じられないことを言われても何も返せない。

 フランドールは魔理沙の様子を気にした様子もなく再び魔理沙の服に顔を押し付けて匂いを嗅ぐ。なんだかかなり気になっているようだ。

「フラン、なんならその匂いの元に会いに行ってみるか?」
「えっ、誰の匂いかわかるのっ?」

 顔を離して魔理沙の顔を見る。期待に羽が少しゆらゆら。

「いや、それはありえないが、今回、出会った奴らは同じ場所に住んでるからな。そこにいるんじゃないか?」
「うん、なら行くっ!」

 弾んだ声と共に頷く。同時にぎゅーっ、と魔理沙に抱きつく腕に少々力を込める。

「よしっ、じゃあ、決まりだな。明日迎えに行くから、待っててくれよ」
「うん、わかった!」

 とっても、元気な声だった。





 命蓮寺。
 船のような独特な形をしたお寺だ。
 最近、人里から少し離れた位置に出来たお寺で、一日で立ったとかで色々と話題になっている。僧が一人と何人かの妖怪が住んでいるらしい。

 魔理沙とフランドールはそんなお寺の中にいた。

「今日は可愛いお供もいるようですが魔理沙の妹さんでしょうか?」

 二人の訪問者の片割れにこの寺唯一の僧、聖 白蓮はそんなことを言う。
 フランドールと魔理沙は命蓮寺の講堂で聖と対峙するように座っている。魔理沙はあぐらをかき、フランドールは魔理沙に寄り添うようにしている。
 フランドールは館の中ではいつも被っているナイトキャップのような帽子を脱いでいた。外に出るときは何故か被らずに外に出ている。

「妹なのは合ってるが私のではないな。紅い館に住む吸血鬼の妹だ」
「私は別に魔理沙の妹でもいいよ?」
「そんな事言ってたらレミリアが泣くんじゃないか?」
「あ、そっか。……じゃあ、お姉様も魔理沙も私のお姉様でいいよ」

 言いながらフランドールは魔理沙へと抱き付いた。そのまま魔理沙の服へと頬を摺り寄せている。

「欲張りなんだな、お前」

 フランドールの言動に魔理沙は呆れているようだった。そんな言葉は気にせず頬擦りを続ける。

「仲がよろしいんですね」
「まあ、成り行きでな」

 どうでもよさそうに答えてはいるが、その手はフランドールの頭を撫でていたりと結構フランドールのことを想っているのかもしれない。

「ふふ、人間は妖怪に虐げられている、と魔理沙は言っていましたがそうでもないようですね」

 二人の様子を見て聖は嬉しそうに微笑む。
 人間と妖怪の共生を望んでいる聖にとって二人の様子は理想とも呼べるものなのだろう。

「いやいや、人間は妖怪に虐げられてるぜ。私は色んな妖怪をぶっ飛ばしてきたから少し特殊な状況になってるだけだ」
「うん、魔理沙って弾幕ごっこ強いんだよ」

 魔理沙を抱く腕にぎゅーっ、と力を込める。

「ぐあ……やめろ、お前が力を込めると洒落にならん」
「あ、ごめん」

 謝ってすぐに腕の力を弱めた。力の加減を間違えてしまったようだ。

「魔理沙、貴女はやはり不思議な方ですね。妖怪と人間は平等ではない、と言いながらも貴女自身は妖怪と平等に付き合っている」
「さっきも言ったが成り行きでこうなっただけだ」
「そうですか」

 聖の声はどこか嬉しそうだった。魔理沙の声が意地を張る子供のもののように聞こえたからかもしれない。

「さてさて、世間話はこれくらいにしておいて。可愛い吸血鬼さんには私の自己紹介がまだでしたね。私は聖 白蓮。ここ命蓮寺の僧を務めています」
「私はフランドール・スカーレットだよ」
「フランドール、ですね。では、今日はどういった御用でここにいらっしゃったんでしょうか」

 優しげな笑顔を浮かべてそう言う。誰に対しても作った笑顔ではなく心の底からこの笑顔を浮かべることから聖の心の広さが窺い知れる。もしくは隠し立てをしない真っ直ぐな心意気。

「人を探しに来たんだ。魅力的な香りを持っている人をね」
「香りにつられて人探し、ですか。中々変わった理由ですね。どのような香りのする方をお探しですか?」

 フランドールの言葉に一切意外に思った様子を見せない。多くの妖怪と接してきた聖は自分の常識で生きる妖怪の常識に合わせるのに慣れているようだ。

「うーん、今まで嗅いだことのない香り、としか言いようがないなぁ」
「そうですか。……私ではないですよね」
「うん、白蓮じゃないよ。白蓮は柔らかくてちょっと甘い感じの匂いだね」
「ふふ、そうですか。ありがとうございます」

 言葉自体にどのような意味があるかは分からないが声の響きから好意的な意味だろうと判断した。この辺りも長年の説法の経験が生きている。

「では、寺院の中はこの私がご案内いたしましょう。お二方だけではここの構造もわからないでしょうから」
「うん、お願い」
「はい。わかりました」

 フランドールが笑顔を浮かべて聖は微笑みを浮かべた。

「いいのか? 寺に来たやつの対応はどうするんだよ。霊夢ん所にみたいに放っておくのか?」
「ああ、それもそうですね。では、ムラサに頼みましょう。少々お待ちくださいね」

 そう言って聖は宙に向かって指を動かし始めた。何か文字を書いているようにも見えるが魔理沙たちには何をしているのかわからない。

「離れた場所に自らの描いた物を浮かび上がらせる簡単な魔法ですよ。結構重宝するので魔理沙も覚えてみたらどうでしょうか」

 顔色から二人の思考を読み取った聖は勝手に説明をした。指の動きは既に止まっている。

「いや、地味なのは結構だ」
「一側面だけを見て判断しないほうがいいですよ。慣れればこういうことも出来ますから」

 そう言って聖は再び指を動かし始める。
 すると、聖の指の動きに合わせて聖と魔理沙たちとの間に魔法陣が浮かび上がってきた。

 そして、中央の魔法陣から小さな炎が生まれる。小さくゆらゆらと揺れているが、不思議と儚さのようなものは感じられない。

「まあ、手間がかかるので実践では使えませんけどね」
「やっぱり必要のない魔法じゃないか」
「そうですか」

 聖は魔理沙の言葉をそれ以上は否定も肯定もしなかった。妖怪と人間の共生、という考え以外は押し付ける気もないようだ

「……あ、出来た」

 不意に漏れるフランドールの声。二人が視線を向けるとフランドールの前に小さな魔法陣と小さな炎が浮かんでいた。
 ただ、こちらは聖の作ったものとは違って吹いたら消えてしまいそうな儚さがあった。慣れていないからだろう。

「へえ、すごいですね。初めてでそこまで出来るなんて」
「まあ、こいつは魔法に関しては天才的だからな。正直羨ましいぜ」
「えへへ〜」

 魔理沙に褒められてフランドールは嬉しそうに頬を緩める。背中の羽もぱたぱたと揺れる。

「聖、何か御用でしょうか」

 と、不意に部屋の中へと声が掛けられる。入り口の方を見てみるとそこには甲板衣に身を包んだ少女が立っていた。
 緑色の瞳が部屋の中を見回し、フランドールの所で、おや?、と止まる。

 ただ、そこで彼女が誰だろうか、と思うような暇はなかった。

「え、え、えーーーっ!」

 何の前触れもなく立ち上がったフランドールが少女へと一直線に飛んでいったからだ。

 突然のことに彼女は反応することが出来ない。緑色の瞳が驚きに大きく見開かれている。

 そして、避けることも抱きとめることも出来ずそのまま押し倒されるような形になってしまう。
 頭が勢いよく木の板目へと向かっていく。しかし、不意に倒れる速度は減速してふわり、と二人は床に倒れる。聖が魔法で二人の倒れる勢いを弱めたのだ。

「うんっ、やっぱりあの匂いは貴女だったんだっ」

 長年探し続けていた人を見つけた時のようなそんな嬉しさのこもった声で言う。かなり興奮しているようで今どんな状況になっているのか把握できていないようだ。

「私、フランドール・スカーレット、って言うんだ。貴女は?」
「わ、私は村紗 水蜜だけど。貴女は、何で私に抱きついてきてるの?」

 フランドールに抱きつかれた少女村紗は狼狽しながらもある程度は冷静さを感じられる声でそう聞く。

「水蜜の匂いにつられてここまで来たんだ。ねえ、貴女の変わったこの匂いは何の香り?」
「えっと、香り?」

 フランドールの言葉は事情を知らない人にしてみれば全く要領を得ないものだ。村紗もフランドールの言葉にかなり混乱しているようだ。

「あの、聖、どういうことなんでしょうか」

 村紗は成り行きを見守っている聖へと助けを求める。隣では魔理沙が面白そうに二人の様子を眺めていた。

「その子は、魔理沙についていた貴女の香りに興味を持ってここに来たそうなんです」
「な、何だか変わった理由ですね」
「はい、私もそう思います。それで、ムラサは自分の香りで他の方と変わっている、と自覚しているような所はありますか?」
「そんなことを言われましても……って、くすぐったいっ。やめて!」

 抱きついていたフランドールが突然頬擦りを始めた。村紗はその感触に耐えられないようでくすぐったそうに身を捩っている。

「うーむ……」

 聖は村紗を助けようともせず考えに耽る。

「そう言えば、村紗は昔、海にいたんですよね。もしかしたらフランドールはムラサの海の香りを嗅いだのではないでしょうか」
「海っ!?」

 聖の言葉に真っ先に反応を示したのはフランドールだった。同時に、村紗へと頬擦りをするのもやめた。

「はあ……、はあ……」

 村紗はフランドールの頬擦り攻撃に耐えている間に乱れた息を整えていた。少し頬が紅潮している。

「ねえ、水蜜。海のこと、知ってるの?」

 フランドールがキラキラと好奇心で輝く紅い瞳で村紗の顔を覗き込む。

「ちょ……っと待って……」

 まだまだ息が整い切っていないようで声は切れ切れだ。

 フランドールは頷いて村紗が息を整えるまで待つ。感情に任せて行動が猪突猛進気味だが、聞き分けはあるのだ。

 息を吸い、そして吐く。それを何度か繰り返していくうちに村紗の息遣いは徐々に落ち着いて、頬の紅潮もひいていく

「……はあ」

 そして、最後に溜め息に似たような息を吐いて村紗はある程度は落ち着いたようだった。
 フランドールの顔を見返して、そっと答える。

「……ええ、海のこと、知ってるわよ」
「ほんとっ?じゃあ、聞かせて!」

 ぐいっ、と顔を近づける。まだ倒れたままの村紗に逃げ道はなく、鼻と鼻とが接触しそうなほどに迫られている。

「それよりも、まず、座らせてくれない? 横になったまま、っていうのもどうかと思うから」
「あ。うん、そうだね」

 素直に頷いて村紗の上からどける。村紗は立ち上がると部屋の隅に置いてある座布団を取って適当な場所に座った。
 フランドールは先ほどまで自分が座っていた座布団を持って村紗の隣に腰を下ろした。と、思ったらそのまま村紗へと身体を預けた。やっぱり、村紗の香りがかなり気に入っているようだ。魔理沙から離れてしまうほどに。

「えっと、何でそんなに私にくっつくの?」
「水蜜の香りが良いからだよ」

 にこー、とした笑顔を村紗へと向ける。村紗の香りのせいで思考が溶けてしまってるみたいだ。

「喜んで良いんだかよくわかんないんだけど……」

 対して村紗が浮かべるのは困ったような笑みだった。こういうときにどう対応していいのかわからない、といった感じだ。

「喜んでいいんですよ。好意的な感情を持ってないのにわざわざ会いに来るなんてないでしょうから」

 二人から少し離れた位置に座っている聖は微笑ましそうに二人の様子を眺めている。

「ねえ、水蜜。海のこと、聞かせてくれる? 水蜜の話したくないことは話さなくてもいいから」

 フランドールが下から村紗の顔を覗き込む。紅い瞳には不思議な輝きが潜んでいる。まるで、村紗の心の内を読んでいるかのように。

「……いいけど、大した話なんて出来ないわよ?」
「うん、いいよっ」

 渋々頷いた、といった感じの村紗に対してフランドールはとてつもなく嬉しそうだった。

「フランドールは人の心を察するのが上手なんですね」

 聖がふとそんな言葉を漏らす。向けた先は隣で共に二人の様子を眺めている魔理沙。

「そんなことないさ。あいつは負の感情に過敏なだけなんだ。それ以外に関してはかなり鈍感なんだよ」
「そうですか」
「ああ、そうなんだよ」

 聖はそれ以上聞こうとしなかったし、魔理沙もそれ以上何かを言おうとはしなかった。
 聖は代わりに、

「それでは、私たちはお邪魔をしないように別の場所に行っていましょうか」
「ああ、そうだな。私は別に海の話なんて興味ないし、お前から魔法の話でも聞いてるほうが楽しそうだ」
「では、今日も魔法談義、と行きましょうか。村紗、私たちは外に出てくるので後はよろしくお願いしますね」
「あ、はい!」

 村紗は聖に向けて頷いた。二人っきりにされるのは少々不安だが聖の手は煩わせたくない、と思っていた。

「じゃあ、フラン。私も外に出てるから、問題を起こすなよ」
「魔理沙じゃないんだから大丈夫だよ」

 朗らかな笑顔でそう返す。二人が一緒に行動した場合大体問題が起きた場合、半々くらいの確立でどちらかが問題を起こす。彼女たちはそんな二人組みなのだ。

 それ以上の言葉の応酬はなく、魔理沙と聖は並んで部屋から出て行った。

「じゃあ、水蜜っ、海の話を聞かせて!」

 声は弾み、羽が揺れる。本当に本当に楽しみで仕方がない、といった感じだ。

「えーっと……フランドールは海を見たことないのよね?」
「うん、一回も見たことないよ。あ、でも本では読んだことがあるよ。でっかい湖なんでしょ?」

 そう言いながら村紗から少し離れて腕を大きく広げる。身体全体を使って大きさを表しているようだ。

「うーん、間違ってはないけど、ちょっと違うかな」
「そうなの?」

 フランドールは腕を下ろして村紗の瞳を真っ直ぐ見つめたまま首を傾げる。

「じゃあ、海がどんなものか、から話してあげるわ。私にとって、どんなものかっていう感じになるけど」
「うん、お願い」

 フランドールが頷いたのを見て、村紗はすぅ、と息を吸う。今まで村紗は海について誰かに話したことはない。だから、息を吸って心を落ち着かせる。

「……私にとって海は第二の故郷みたいなものだった」

 村紗は静かに語り始める。彼女は遠い昔を想起する。

「私は暇があれば一人で舟を出してよく海に出てた。私が出てた海は気紛れな海でその日、どんな機嫌になるのかも読むことが出来なかった。機嫌がいいと思って海に出てみたら、突然機嫌が悪くなったりね」
「?」

 フランドールが首を傾げる。村紗の言い回しの意味がわからないようだ。

「波が静かだったり、波が荒れてたりするのを、機嫌の良い、悪いで表現するのよ」
「そーなんだ。じゃあ、水蜜にとって海は友達みたいなものなんだね」
「友達、とは違うかな。私にとっては憧れの人、とかそんな感じだったと思うわ」
「随分と我が侭な人に憧れを抱いちゃったんだね」

 少し皮肉っぽく聞こえるがフランドールの言葉は心の底からのものだった。フランドールだって似たようなものだから。

「あははは、全く持ってそうね。でも、だからこその面白さもあるのよ」
「うん、それはわかる気がする」

 村紗は笑い声を上げ、フランドールは村紗の言葉に頷く。

「それで、そんな海は私の仕事場でもあった。その時は私が個人で使ってる小さな舟なんて比べ物にならないくらい大きな船なのよ。百人以上の人を乗せて、海の向こうへの贈り物とか偉い人たちとかをたくさん乗せて運んだのよ。そして、私はその船の船長だったわ」
「船長、って確か船に乗ってる人の中で一番偉い人のことだったよね?」
「うん、そんな感じでいいわよ」
「へぇ。じゃあ、水蜜って偉い人だったんだ!」

 感心するような声を漏らす。少し尊敬のようなものがそこには浮かんでいる。

「私は大したことなんてしていないんだけどね。優秀な仲間たちがいてくれたから色んなことも上手く出来てたんだと思うわ」

 言いながら、水蜜は目を閉じる。瞼の裏にゆっくりと仲間たちの姿が浮かんでくる。

「操舵手は力強くて頼りになる奴だった。甲板長は高い判断能力で私たちの船を安全に航行させてくれた。副船長は変な奴だったけどやるときはやってくれていたわ」

 静かに言葉を積み重ねていく。

「他の奴らも皆愉快なのばっかりで全然退屈なんてしなかった。むしろ、大変だったわね。海に出ることは命懸けだから、総じて気の荒い奴らばかりだった。だから、喧嘩なんてしょっちゅうでそんな奴らをぶっ飛ばすのも私の役目だった」

 昔を思い出しているせいか、少しだけ言葉が粗野になって来ている。けど、フランドールはそんなことは気にしない。じぃっ、と水蜜の顔を見つめている。

「あいつらも私と同じで皆海が好きだった。だから、仕事から帰ってきてお互いの無事を祝う宴会なんかは船の上で開いてたわ。皆、揺れない地面に違和感を感じるくらいに本当に海が好きだったのよ」

 お互いの無事を喜んで、呑んで、騒いで、歌って、踊って……。
 騒がしくもお互いの絆の深さを確かめることが出来た。自分がどれだけ仲間達のことを想っているのか、自分がどれだけ仲間達から想われているのか。

 水蜜は仲間達のことを本当に心の底から信頼していた。そして、水蜜自身も仲間達から信頼されていた。

 今まで思い出すことのなかった記憶が甦ってくる。
 ああ、ああ、どうして、聖の元を訪れてから一度として思い返すことがなかったのだろうか。あんなに、あんなにも想っていたのに。

「水蜜……」

 不意にフランドールが村紗の名前を呼ぶ。止められる、と思っていなかったのか、意外そうな表情を浮かべている。

「ん、どうかした?」
「泣いてるの?」
「え?」

 村紗はフランドールの言葉に驚く。

「辛いこと、思い出させちゃったかな。水蜜、ごめん」

 しゅん、とした表情を浮かべて謝る。そして、村紗はようやく自分の両の目から涙が溢れ出ていることに気が付いた。服がいつの間にか少しだけ濡れている。

「ううん、謝らなくてもいいわよ。むしろ、ありがとう、と言わせて。フランドールのお陰で大切なことを思い出せたから」

 辛いことがあったから、と思い出さないようにしていた過去。けど、過去の記憶は悲しいだけではない。

 確かに、楽しい、と思えることがあったのだ。
 確かに、誇らしい、と思えることがあったのだ。
 
 確かに、大切だ、と思える仲間達がいたのだ。

 それを、忘れてしまうだなんて、
 それを、辛いことを思い出したくないから、という理由だけで忘れてしまうだなんて、あんまりではないか。

「多分、こうしてフランドールに話すことがなかったら思い出さなかったかもしれない。だから、フランドールはそんな顔をしなくてもいいのよ」

 そして心の底からの笑顔を浮かべる。未だに涙は止まらないままだけれど綺麗な笑顔だった。

「水蜜……」

 小さな声で名前を呼んだ。そして―――

「ひゃっ」

 フランドールが村紗の頬を伝う涙を舐め取った。逃げようと身体を後ろに傾けたところそのまま押し倒されるような形となってしまった。
 村紗がフランドールの下敷きとなるのは本日二度目だった。

「ふ、フランドール?」

 村紗はフランドールの行動に困惑しているようだった。フランドールを止めようとはしない。困惑しすぎてそういった行動に出られないだけかもしれないが。

 フランドールは尚も村紗の涙で濡れていた頬を舐めている。
 ざらざらとした感触が頬を撫でる。
 涙の代わりに唾液が村紗の頬を濡らす。

「あの、ちょっと、フランドール。そろそろ、止めてくれない?」
「うん」

 村紗の言葉に素直に頷いて村紗の顔から顔を離す。そして、代わりに村紗の上にくて、と倒れ胸の中に顔を埋める。

「えっと、フランドール?」
「私のことはフランでいいよ。そっちの方が呼びやすいでしょ?」

 顔を上げて村紗へと笑顔を浮かべた。最初の頃と少しだけ笑顔の様子が変わっている。

「フラン?」
「うん、何?」

 首を傾げてみせる。さらさらと金髪が揺れる。

「何でそんなに私にくっつくの?」
「大切なことを話してくれた水蜜のことが気に入ったから。あ……、もしかして、嫌だった?」

 嬉しそうに言っていたかと思うと、不安に表情を曇らせる。フランドールは自分の抱える感情に素直なのだ。

「別にそれはいいんだけど。気になったから聞いてみただけだから」
「良かったぁ……」

 村紗のそんな言葉だけでフランドールの不安はどこかへと吹き飛んでいってしまった。代わりに浮かぶのは安心しきった笑顔。
 村紗はなんとなく、その頭を撫でてあげたい衝動に駆られた。

 抗う必要はないだろう。思ったとおりに行動すればいい。

「ぁ……」

 小さく漏れる声。フランドールの金髪に村紗の手が触れた。
 そして、ゆっくり、優しくフランドールの頭を撫でる。ただ、こういうことをするのは慣れていないので手の動きはぎこちない。

 それでも十分なのかフランドールの表情は嬉しそうなものへと変わっていく。羽もゆらゆらと揺れている。

 それから、フランドールは再び村紗へと身体を預ける。

 村紗はフランドールの頭を撫でながら、妹がいたらこんな感じなんだろうか、と思っていた。





 夕暮れ。
 全てが茜色に染まり、人間にとっての一日の終わりが来ようとしていることを告げる。けれど、妖怪でも夕暮れ時はなんとなくもの寂しい気分となってしまう。
 それは、一つの区切れであるから。

 命蓮寺の前には四つの影。命蓮寺から去り行こうとする魔理沙とフランドール、そんな二人を見送る聖と村紗。
 フランドールは紅色の傘を差して名残惜しそうに村紗の前に立っている。

 村紗から離れたくない。けれど、フランドールは帰らなければならなかった。大好きなお姉様が待っている紅魔館に。

「ねぇ、水蜜。また、会いに来てもいい?」

 村紗を見上げてそう言う。本当は村紗から離れたくない、という気持ちが切々と伝わってくる。だから、せめて約束だけでも、と思ってしまう。

 村紗は膝を曲げてフランドールと視線を合わせる。

「いいわよ。でも、私も仕事があるから今日みたいにずっと相手をしてあげられるって訳じゃないけど」
「うん、いいよ。水蜜の近くに居られれば何でもいいから」
「あははは……」

 ちょっと困ったような笑い。別にフランドールに近くに居られるのが嫌だというわけではない。むしろ、嬉しいことなのだが、なんせ今までこれだけ誰かに気に入られたことがないので困惑してしまっているのだ。

 今日一日一緒に居た間に村紗はすっかりフランドールに懐かれてしまった。村紗の独特の香りだけでなく、村紗自身フランドールの相手をしっかりしてやっていたのがよかったのだろう。
 頭を撫でてあげていたり、フランドールの話をしっかりと聞いてあげたりしていた。

「? なんで、笑ってるの?」
「ああ、うん。なんでもないわ」
「ふーん?」

 不思議そうに首を傾げる。村紗はそんなフランドールの頭を撫でてあげる。今日一日で癖になってしまったようだ。ぎこちなさはいつの間にか無くなっていた。

「じゃあ、フラン。気をつけて帰るのよ?」

 優しげな笑顔を浮かべる。そして、フランドールの頭から手を離す。

「うんっ、ばいばい、村紗! また来るね!」

 村紗がまた自分を受けて入れてくれることを知って、また出会うという約束をしてフランドールは安心できたようだ。先ほどまであった名残惜しさはなく朗らかな笑顔を浮かべて村紗へと手を振った。
 そして、少し離れた位置に立つ魔理沙の元へと走り寄って行った。

「ん、もういいのか?」
「うん、ちゃんとまた会う約束が出来たから」
「そうか、それはよかったな」

 魔理沙がフランドールの頭を撫でる。村紗とは違って少々乱暴だったがフランドールは嬉しそうだった。

「よし、それじゃあ、帰るとするか」
「うんっ」

 元気に頷く。そして、二人は歩き始めた。

「帰ってしまいましたね」

 ずっと無言で見ていた聖が村紗の背中に向けてそう言う。

「はい、そうですね」

 村紗はじっ、と二人の背中を見つめたまま聖の方は見ようともしない。

「名残惜しいですか?」

 聖が村紗の隣に立つ。ふわっ、とした柔らかい匂いが村紗の鼻腔を刺激する。

「そうかもしれませんね。結局一日抱き付かれてたわけですから」
「ふふ、そうですね」

 聖もまた同様に二人の背中を見送る。寄り添うように歩くその影はどこか姉妹のように見えた。

「ムラサ、少し表情が変わりましたか?」
「そうでしょうか?」

 前を見たまま首を傾げる。あと少しでフランドールと魔理沙の姿は見えなくなる。

「……ムラサ、昔のことを思い出して、どうでしたか?」
「……なんであんな大切なことを忘れてたんだ、って感じですね。フランには感謝してますよ」

 視界から二人の姿が消えた。それでもなお、村紗はフランドールたちの進んでいった道を見据える。遠く、遠く、遠くを見つめるように。

「そうですか。それは、よかったです」

 聖は村紗の横顔を見ながら微笑みを浮かべた。村紗の穏やかな表情につられるようにして。

 さぁー、と風が吹く。
 村紗の黒髪が揺れ、聖の長い髪が舞う。

「ムラサ、わかりますか? 潮の香りがするのが」
「はい、わかりますよ」


 風は少し潮の香りが混じっていたような気がした。


Fin



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