「そういえば、愚かなあなたの名前を知りません」

 こいしが地霊殿を宿とすると言った翌日の朝食の時、対面に座るこいしがそんなことを聞いてきた。

「さとりよ」

 こいしに姉だと認識されていないのなら、名字を名乗る意味もないかと考えて、名前だけを答える。名字には、私たちが姉妹であることを示す以上の価値はないと思っている。

「考えなしとしか思えないようなあなたにお似合いな安直な名前ですね」
「……ねえ、昨日から私の呼び方が酷くないかしら?」

 私がお風呂の中で、一緒に死なせて欲しいと言って以来、私を呼ぶ度に最低一つの罵りの言葉が付いてきている。私が言ったことはそこまでの扱いを受けるものだろうか。多少の非難の言葉を向けられるのは、仕方ないと思っているけれど。

「当然です。私なんかとの心中を望むような大うつけ者には相応しい呼び方です」
「だって、貴女がいつ死んだか分からなければ、いつ追いかけに行けばいいのか分からないじゃない」
「追いかけてこないでください。後、言う前に言っておきますが、待ち伏せもしないでくださいね。向こうに行くのは、私一人で十分ですから」

 先に死んでしまうという発想はなかった。でも、そうしてしまうとこいしの世話をするのがいなくなってしまう。だから、選ぶことはない。
 そんなことを考えていると、私たちとは少し離れたところで食事をしていた黒猫の、どうしてこいしを止める方向に話を持って行かないのかという苛立ち混じりの思考が流れ込んできた。鴉もそんな話を進めないでほしいと心配そうに思っている。
 確かにその通りだ。こいしが死のうとしているのを止めるのをやめるつもりはない。こいしが死んだときに、それを追いかけようという決意まで同居しているせいで、こんな話になってしまったというだけで。

「なら、餌付けて貴女が離れてしまわないようにするわ」

 気が付いたら私に懐いていたペットたちのことを考えながらそう言ってみる。

「私はそんなに単純に見えますか」
「複雑怪奇すぎるからこそ、一縷の望みくらいはかけてもいいかな、と。それに、毎回美味しそうに食べてくれているみたいだしね」
「……あなたの料理の腕と私が死なないようになることとの因果関係は全くありません」

 何やら動揺しているようで、私のことを普通に呼んでくれている。おそらく、私に美味しそうに食べているということを指摘されたせいだろう。しばらく言動を見ているうちに分かったけれど、どうやら無防備な姿を他人に見せたくないと思っているようだ。もしかしたら、私に対してだけなのかもしれないけれど。

「とにかく! お節介焼きで鬱陶しいだけのあなたは、私の食事の用意と服の洗濯と寝床の掃除だけしてればいいんです。それ以外の余計なことはしないで、私の個人的なことに関わってこないでください」

 これ以上話をするつもりはないとばかりに、食事を掻き込み始める。

「こいし、行儀が悪いわよ」

 そう指摘するけれど、当然のように無視をされてしまう。
 あまり言い過ぎても逆効果にしかならない気がしたから、私も食事を再開するのだった。





 こいしは地底をふらふらと歩いていく。ぼんやりと歩いているようなのに、誰かにぶつかりそうになることもなく、危なげなく歩いている。
 私は今現在こいしの後を追いかけている。昨日着ていた身体をすっぽりと覆う外套で、私の正体を隠して。
 肩には、私の監視役である鴉が止まっている。私がこいしを追って死ぬと言ってしまったから、万が一の時に止めるのが主な役割だ。懐に小刀を忍ばせていることがばれてしまうと、没収されてしまいそうだ。
 こいしの姿は贔屓目なしに見ても人目を引きそうだけれど、すれ違った人でさえ、その姿を気に止めていない。この場で私と鴉だけが、こいしの姿を認識出来ている。
 目を閉ざしてからのこいしは、サトリの天敵になりうるような力を持つようになっていた。いや、意識を持つ者全ての天敵と言っても過言ではないだろう。
 こいしは意識と意識の隙間へと容易に入り込むことができる。それによって、他者から認識されづらくなっている。それだけでなく、深層意識を操ることさえもできるようで、こいしが傍にいるときは自分自身でも不可解な行動をとるようなことがあった。
 今もそうやって意識と意識の隙間をふらついているようで、最初からこいしのことを意識している私たち以外は、こいしが傍を歩いてもその存在を認識していない。
 こいしは誰にも認識されていないことをどう思っているのだろうか。一度聞いてみたこともあるけれど、はっきりと答えてはくれなかった。でも、今のこいしを見ていると望んでそうしているのではないだろうかと思えてしまう。
 でもそうなると、あの子が私の前にあっさりと姿を現しているのは意図的だということになる。眠りについた記憶が私のことでも夢見ているのだろうか。
 こいしがこちらに気が付く様子がないので、のんびりと足を進めながら考え事をしていると、地上へ続く道に行くには必ず通ることになる橋が見えてきた。そこには人影が一つある。それ以外の気配は感じられない。
 こいしは、その前をあっさりと通り過ぎていく。

「先にこいしを追いかけててくれる?」

 私も、というわけにはいかなさそうなので、鴉だけ先に行かせることにする。地底へと移り住むためにここを通ったときに、面倒な絡まれ方をしたのを思い返しての処置だ。彼女がついて行っていれば、少しくらいは探しやすくなるだろう。
 鴉は心の中で頷くと、私の肩から離れてこいしの方へと飛んで行く。橋の上の人影はそれを目で追いかけたかと思うと、こちらへと視線を向けてきた。じっと見つめて待っている。
 私はあまりそれを意識しようとせずに、関わってきませんようにと思いながら、橋を真っ直ぐ進もうとする。既に、話しかけて邪魔してやろうという意志が読み取れてしまっているけれど。

「ねえ、貴女。地上に出るつもり?」

 当然のように呼び止められてしまう。相手に気づかれない程度の小さなため息が出てくる。あ、気が付かれてしまっている。

「ええ、そうですよ。死に場所を探しに行こうと思いまして」

 妹を追いかけていると正直に答えるよりは面倒が少なそうだから、勝手に理由を借りる。場合によっては、間違いではなくなる。

「ふうん? 地上から捨てられたのか、それとも地上を捨てたのか知らないけど、酔狂な奴ね。あんなとこ、どこもかしこも禄でもないってのに。ま、それを言ったらここも変わらないかしらね」 

 そう言って自嘲気味に笑う。
 私は捨てた側となるのだろうか。忌み嫌われる種族ではあるけれど、同種族の中には身の置き場があった。でも、私はこいしを選んで、気が付けばここに至っていた。映姫様に声をかけられたというのは大きかったけれども。

「ま、とにかく面倒事は持って帰ってこないことね。それとも、お花畑な脳内に光でも射し込んで、地上に希望を見出して帰ってこなくなるのかしら? ああ、妬ましい」

 想像の中の私に冗談でも何でもなく本気で嫉妬していた。面倒くさいけれど、案外面白い人だとは思う。心を覗けるからこその感想なのだろうけれど。

「ええっと、もう行ってもいいですか?」

 だからといって、ここでのんびりと話をしている余裕はない。こいしを追いかけないといけない。

「ふんっ、忙しそうで羨ましいわね。私はここで突っ立ってることしかできないってのに。ほら、行くならさっさと行きなさい。しっしっ」

 自分から呼び止めたのに、邪険に追い払うような仕草を見せる。暇つぶしに私の邪魔をしたかったけど、私があまりにも平静に対処するものだから、興が削がれてしまっていた。素の反応をしているだけで、こちらの望む結果が得られるというのも珍しい。
 なんにせよ、解放されたのなら立ち止まっている理由はない。足早にその場を去って、こいしを追いかける。




 眩しさに顔をしかめながら、地面の上に降り立つ。顔を隠すためだったフードが、明かりを遮るためのものとなる。太陽の光なんて随分と久しぶりだ。目がその明るさを忘れてしまっている。
 でも、感慨に浸っているような暇はない。薄目を開けながら、左右を見渡してみる。こいしはどこへと向かったのだろうか。
 と、黒い物が落ちているのを見つける。気になって近づいてみると、それは黒い羽だった。
 羽を拾い上げて周りを見渡してみると、離れたところに同じような物が落ちていた。
 もしやと思って、早足となる。
 二枚目の羽を拾うと、今度は三枚目を見つける。
 そうやって、黒い羽に導かれて進んでいると、五枚目で羽が見当たらなくなった。代わりに、こいしの背中を見つける。
 私はその不意打ちに驚きながら、手近な木の裏へと身を隠す。そうして、意識を少し散漫にさせると、鴉の思考を拾うことができた。あちらもこちらに気が付いて、木の枝の上からこちらに向かってきている。

「……どうしてここまでしたのよ」

 私の肩へと止まった鴉に、拾い上げた五枚の羽を見せながら小声でそう聞く。私を止めようとしたり、私のお願いを聞いてくれてこいしを追いかけてくれたことまでは理解出来る。でも、文字通り身を削るような真似をするような義理はないはずだ。私たちの間には、同居人にも満たないような関わりしかないのだから。
 でも、鴉はなんてことのないように、これくらいの恩は受けたと返してくる。地獄生まれにしても、突き抜けているくらいの真っ直ぐさだ。どこまでも続く青空のようだ。

「……まったく。でも、ありがとう」

 呆れながらも感謝を込めて頭を撫でてあげると、鴉は心地よさを感じながら目を細めた。折角なら、彼女が満足するまでこうしていてあげたいけれど、こいしを追いかけなくてはいけない。木の後ろに隠れるのをやめて、こいしの背中を追いかける。
 鴉もすぐに気持ちを切り替えて、こいしの方へと意識を集中させた。




 こいしを追いかけて辿り着いたのは、長い階段の先に作られた神社の境内だった。静謐な空気が辺りを漂っており、俗世から隔絶されたような印象を抱く。
 さぞ霊験あらたかな所なのだろうと思ったけれども、神社特有の神様の存在感というものはない。ここは、誰のための場所なのだろうか。

「妖怪がこのような所にどういったご用でしょうか?」

 空っぽの神社に首を傾げていると、不意に殺気を纏った声が背後から聞こえてきた。いつの間に後ろを取られたのかと、背後に立つ何者かの思考を読み取ってみると、まさに空間を超越したとしか思えないような記憶しか覗くことしかできなかった。
 この本殿の裏手の方にあるらしい母屋の周囲を掃除をしていたかと思うと、私の存在に気が付いた次の場面はすでに私の背中へと長大な針を突きつける様子となっている。
 まっとうに相手をした場合、私では勝てないことを悟る。不意を打てばどうにかなるかもしれないけれど、今の状況ではどうしようもない。だからといって、逃げようにも退路は塞がれてしまっている。

「ええと、少し神社に興味があるので、様子を見させてもらおうかなと」

 馬鹿正直にこいしの存在をほのめかして危険にさらしてしまうわけにはいかないから、適当な嘘をでっち上げる。ただ、後ろの人物からはどんな嘘も見抜いてしまいそうな凄みがあって、心を読めるということを優位だと思うことがとてもできない。そのせいで、私の声は自信なさげに震えてしまっていた。

「もう一匹、気配を感じるんですよね。何故か見つけられないのですが、貴女は何か知ってますか?」

 私を脅すために、針の切っ先を背中に触れさせる。全身から冷や汗が吹き上がってくるのを感じる。自分の背中に当てられた物が、こちらを殺すための物だと分かってしまっているので、楽観で平静を保つことも出来ない。
 でも、こいしが後ろにいるのだと思えば、心が折れることもない。

「いえ、知りません」
「ふむ。嘘はよろしくありませんよ?」

 何の根拠もなく私の言葉は嘘であると切り捨てられた。私が妖怪だからという先入観もなく、私が発した言葉だけを正しく切り取っている。人の範疇を越えた思考に、微かな恐怖を抱く。
 針を握る手に力が込められる。何をするつもりなのか分かっているのに、私は動くことができないでいる。
 針の切っ先が、肌に小さな穴を開ける。その痛みで、茫然自失とした状態から立ち直る。
 身体を貫かれてしまう前に、前のめりになって逃げる。ただ、体勢が崩れたまま走り続けられるほどの運動能力もない上に、動きづらいことこの上ない服装だったこともあって、あっさりと転んでしまう。
 でも、無防備な背中へと一本の針が投擲される直前に、私と同様に動けなくなっていた鴉が背後の人物へと躍り掛かっていた。
 鴉の目に入ってきたのは、一人の巫女だった。緋色袴の裾と鴉の黒に劣らないほどの黒に濡れた長い髪とを揺らして振り払おうとしている。それは決してがむしゃらなものではない。

「危ない!」

 慌てて起き上がりながら、注意を促す。でも、それ以上を言葉にしているほどの時間はなく、正しく伝えるには不十分だった。
 巫女が一枚の札を取り出し、強い意志の宿った真っ黒な瞳で鴉を見据える。鴉がそのことに気が付いた時には、札は巫女の手から離れていた。
 札は狙い違わず鴉の身体へと命中し、そのまま張り付く。ほんの少しの時間を置いて、鴉は苦しげな声を上げて地面へと落ちた。

 雑魚はそこで大人しくしていてください。

 巫女はそう思考して、鴉への興味をなくすとこちらに黒い瞳を向けてくる。彼女は私を脅威とみなしている。でも、恐怖を与えられているのは私の方だ。逃げるように後ずさる。
 そして、彼女の意識が針の投擲へと向かう。私に出来るのは、どこに投げるかを読んで避けることくらいだけれど、彼女が思い浮かべている手の内を見る限り、最終的にはどうしようもなさそうだ。
 せめて、痛みを感じずに殺されるくらいは粘ろうと決める。そうしていれば、どこかに隙を見つけることができるかもしれない。

「まったく、他人を付け回したあげく襲われてるなんて世話の焼ける人ですね。これで、貸しはなしです」

 巫女が意識の中で、私の方へと針を投げつける。でも、現実では後ろから近寄ったらしいこいしが、巫女の両腕を握っていた。そのおかげで、こちらに針が飛んでくることはなかった。

「ついに現れましたねっ」

 巫女が後ろ蹴りを放つ。でも、こいしは両腕を放して、それを回避する。
 そして、二人が対峙する。巫女はこいしを私たちの頭だと思っている。だから、私たちへと注意を向けながらも、こいしの方へと大半の意識を向けている。
 私は巫女を刺激しないよう注意しながら、鴉の回収へと向かう。

「妖怪退治に熱心みたいで関心関心。でも、私は死に場所を探してるだけだから、ほっといてくれません? そっちの考えなしの不埒者は、一応恩があるので見逃してあげてくれません? 私以外への害はないと思いますから」

 こいしは私たちと違って、平然と巫女と向き合っている。
 というか、相変わらず私の扱いが散々である。見逃してあげて欲しいと言ってくれているだけ、ましなのだろうけれども。
 こいしの言葉を受けて、若干くじけそうになりながらも、無事に鴉を回収する。
 札を剥いであげようとするけれど、指先が触れた瞬間に弾かれた。腕を持って行かれたんじゃないだろうかというくらいの衝撃に、声もなく身悶える。鴉が自分のことを置いて心配してくれているけれど、応えている余裕はない。

「見ず知らずの妖怪の言葉を信じられるとお思いですか?」
「信じてくれると楽で助かるなぁとは思ってます。まあ、まずありえなさそうだから、力尽くでわからせるまでです」

 私が痛みを抑えようとしている間にも、こいしと巫女のやり取りは進んでいた。
 こいしの言葉に巫女が構えを取る。それに対して、こいしはどこか不敵な表情を浮かべる以外は、会話をしていたときのままの態度を維持している。何をするつもりなのだろうか。
 そう思っているのは巫女も同じで、訝しく思いながら警戒を強めている。
 巫女の狙いを読み取った私は、外套を脱いで地面に敷く。その上に鴉を横たわらせてこいしの方へと向かう。近づく前に向かい撃たれてしまいそうな予感を抱きながらも。
 思っていた通り、こちらに気が付いた巫女が、数枚の札をばら撒いてくる。それだけなら、避けきるのは絶望的だ。でも、彼女はその札に追尾の術を施していた。その意識を読み取って、なんとか避ける。少しでも私のことを脅威に感じてくれていてよかった。
 私の方へと意識を向けていた巫女へと、こいしが無造作な蹴りを放つ。でも、それは当たり前のように避けられてしまう。

「こいし、助太刀するわ」

 その隙に、こいしの隣に並ぶ。いくら恐ろしいからといって、こいしが殺されかねないのを黙って見ていられるほど腑抜けてはいない。それに、これでも数え切れないほどの人間を恐怖に陥れてきた妖怪だ。

「足、引っ張らないでくださいね」
「善処はするわ。でも、邪魔だと思ったら、囮にでも何にでも好きなように使ってちょうだい。死んでも文句は言わないから」
「馬鹿なんじゃないですか」

 率直に罵倒された。まあ、こんなところで言い合いをしている余裕もない。巫女がこちらを狙っているのを読み取って、針を投げてくる直前に避ける。
 向こうは私の方が簡単に倒せそうだと思っている。それなら好都合だ。私では彼女に近づくことさえままならない。できる限り長い間囮になって、その間にこいしにどうにかしてもらおう。妹頼みというのが情けないけれど、無謀に突っ込んで早々に退場してしまっては意味がない。
 そう決めて、巫女が次にどうするかを読み取る。こいしがいれば、足が竦むこともなかった。




 こいしと巫女とが攻防を繰り広げている。私は無様に地面の横たわってその様子を見ていることしかできない。
 私の身体に張り付いた何枚かの札が、私の身動きを奪っている。それだけでなく、右の太股を貫いた針が痛みで縛り付けてくる。感覚が麻痺してきたおかげで、声を上げたくなるほどの痛みは引いたけれど、ずきずきとした痛みが精神を苛む。
 こいしとの連携は悪くなかったはずだ。意識の乗った攻撃は私が、無作為に放たれた攻撃はこいしが対処していた。でも、針だろうと札だろうと一撃でもまともに当たれば行動不能になるという状況に加え、思考を飛ばした直観だけによるものまで織り交ぜて来るという状況に途中でついていけなくなっていき、果てにはこの様だ。自分のことが情けなくなってくる。
 こいしは私がいなくとも十分に動くことができている。巫女の放つ無軌道な札も、無慈悲に急所を貫こうとする針も正確に避けている。
 そのおかげで、巫女の方には底が見えてきている。物量的なものもそうだし、体力的にも限界が訪れつつある。対して、こいしは武器の類を用いないし、まだまだ動くことができそうだ。
 巫女が空間を飛んでこいしの背後を取る。こいしはふらりと体勢を崩したように見せかけながら、巫女の蹴りを避けて立ち位置を入れ替える。そして、がら空きとなった背中へと蹴りを返そうとする。でも、巫女は反転してこいしを視界へと収めながら距離を取る。
 万事がこのような流れで、普通の人妖であれば少なくとも命中くらいはしているであろう攻撃が、どちらもかすりもしていない。私が混じっていたときとは比べものにならないくらいに、別次元の戦いとなっている。
 私の知る限りのこいしは、争い事は嫌だとすぐに逃げ出すような性格だったのに、いつの間にこれだけ戦えるようになってしまったのだろうか。放浪癖を持つようになってから、私の知らないところで何をしているのだろうか。
 こいしに対する疑念を浮かべていたら、巫女が大技の準備をし始めた。後がないから、それで終わらせてしまうつもりだ。
 彼女は命がけなのだ。私たちに負ければ殺されてしまうと思っている。だから、向こうはこちらを殺しに来ている。
 こいしに近づかれないように牽制の攻撃をばら撒きながら、祝詞を凄まじい速さで唱えていく。彼女の巫女装束の隙間から残り全ての札が滑り出てきて、それぞれが異なった色を纏う。どうやら、それ一つ一つが平凡な妖怪なら葬り去ってしまえるほどの威力を秘めているらしい。
 助けに入りたいけれど身体は動かず、注意を促そうにも声は出てこない。巫女の思考を読み取って、それが最後のやけっぱちの足掻きだということを知る。私に出来るのは、こいしにこの攻撃を無事乗り切ってほしいと願うことだけだ。
 祝詞の締めを口にして、札が放たれる。それと同時に、力を出し切った巫女は地面の上へと倒れた。
 でも、終わってはいない。
 色鮮やかな札が境内を乱舞している。それには意識も無意識も乗りかかっておらず、放出される霊力と風とに流されているだけだ。でも、それ一つ一つに致命傷へと至る威力が込められているのだから、笑ってはいられないだろう。それに、こいしに対しては非常に有効なようだった。
 初めてこいしの顔に焦りが浮かぶ。今まで迷いなく動き回って避け続けていたのに、切れが鈍っている。無意識を読み取れなければ、自分自身の身体能力しか頼れるものはないようだ。
 幸いなのは、長い間避け続ける必要がないことだろう。札が纏う光は徐々に小さくなっていっている。
 こいしは自らの周囲を確認しながら、動き続ける。遠目に見る分には、札の軌道は単純だ。でも、度々服の裾や、髪の端にかすれている。黒い帽子はすでに地面の上へと落とされてしまっている。
 おそらく、大きさが変化するせいで、遠近感を狂わされてしまっているのだろう。巫女はそれを狙ってやってはいなかったけれど、単純な軌道を誤魔化すにはこれ以上ないくらい効果的だった。
 そして、ついに札の一つがこいしの腕へと命中する。霊力が放出されていたおかげで、致命的な威力はなくなっていたようだけれど、その衝撃に身体がよろめく。そこにもう一枚の札が迫っていた。
 でも、それがこいしに当たることはなかった。こいしを中心に放たれた妖力が、迫ってきていた札を弾き飛ばす。その余波で、霊力の尽きかかっていた他の札も、どこかへと飛ばされてしまう。

「いついかなる時も消費は最小限に」

 こいしは少し荒れた息の中でそう言いながら、帽子を拾い上げる。そして、地面に横たわっている巫女の方へ悠然と近づいていく。どうするつもりなのだろうか。

「……肉体そのものが刀を持った鎧武者のような妖怪に、そのようなことを仰られたくはありませんよ」

 動くだけの体力が残っていない上に、これから殺されるのだと思っている巫女の声は力ない。そこには、生きたいという感情なく、そうした未来を自然と受け入れている。

「他はそうかもしれませんが、私は人間よりもちょっと強いくらいですよ? まあ、代わりに厄介な力を使えるみたいですけど」
「……他人事ですね」
「他人事ですから」

 巫女は平然としたこいしの言葉に疑問を抱きながらも、深く聞こうとはしない。

「……それで、私をどうするおつもりですか? 痛いのや苦しいのは勘弁していただきたいところですが」
「私のことをほっといてください。あと、治療道具があるなら貸してください」
「……それだけでよろしいのですか?」
「あ、そうです。鴉のお札も剥いであげてください。あっちのは何しでかすかわからないのでそのままで」

 こんなときでも私の扱いは杜撰だった。でも、治療はしようとしてくれている辺り、完全に見捨てられてしまっているというわけでもなさそうだ。こいしからの扱われ方に、なんだか慣れつつある私がいる。

「……分かりました。自力で立てそうにないので、肩を貸していただいてもよろしいでしょうか」

 その言葉を聞いたこいしが一旦こちらを見る。意図が分からずに見つめ返していると、巫女の方へと向き直った。

「いいですよ」

 こいしは巫女の手を握って立ち上がらせると、肩を組ませて境内の奥へと向かって行く。姿が見えなくなってしばらくして、木箱を持ったこいしがこちらに向かってきた。
 木箱を地面の上に降ろして、私の足下にしゃがみ込む。木箱から一枚の布を取り出すと、足の付け根できつく縛る。なんだかやけに手慣れている気がする。

「麻酔薬はないそうなので、歯を食いしばって耐えてください」

 背中に嫌なものが走って制止の言葉を投げかけようとしたけれど、声は出てこなかった。
 そして、身体の中から何かが抜けていくような感覚とともに、想像を絶する痛みに脳を貫かれて、意識を手放した。





 気が付けば、布団の上で横になっていた。足から伝わる痛みのせいで、意識はすでにはっきりとしている。
 鴉の不安や心配といった感情が怒濤のように流れ込んでくる。彼女の意識を通して見た私は、死ぬ一歩の手前となっている。人間ならどうだか分からないけれど、妖怪なら針の一本が貫通したところで、しばらく歩けなくなる程度だというのに。
 でもまあ、場合によっては殺されていたのだから、それを乗り越えた安堵と合わせれば、そこまで大げさではないのかもしれない。

「貴女も無事でよかったわ」

 いつまでも黙っていたら、別の心配をされてしまいそうだから、首を動かして、黒い瞳を見つめながら頭を撫でる。でも、いつものように素直に喜んではくれず、半分くらいが不安と心配に塗りつぶされてしまっている。言葉でいくら言っても、それを払拭することは出来ないだろう。

「ねえ、こいしは?」

 とりあえず、懸念事項を確認する。
 鴉が思い浮かべたのは、障子の向こう側の縁側だった。反対側に視線を向けてみると、二人分の影が見える。まさか、まだ近くに残っているとは思わなかった。この後に、動き出す理由を手に入れる手間が省けた。足の痛みが、理由もなく動くことを拒んでいたのだ。

「ありがとう」

 鴉の方へと向き直って、若干力を込めて撫でて手を離す。それから、足から届けられる痛みを堪えながら身体を起こす。布団を捲って太腿の辺りを見てみると、止血用の布から血が滲み出ているのが見えた。気を失う直前の痛みを思い出してしまって、背筋を嫌な感覚が走る。あまり意識しないようにしよう。
 それから、時折走る激痛に耐えながらなんとか立ち上がると、片足で床を蹴って浮かび上がる。立ち上がる過程で、とても歩ける状態ではないと身を持って知った。全身には嫌な汗が、眦には涙が浮かんでいる。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ」

 横でずっと心配してくれていた鴉へとそう言うけれど、強がりにしか聞こえていなかった。汗と涙の滲んだ顔で言われても説得力がないとは自分でも思う。
 ここで意地になって安心させる必要もないから、縁側の方へと向かう。普段どおりに振舞っていれば、そのうち落ち着いてくれるだろう。

「あ、ようやく起きましたね」
「傷の具合はいかがですか?」

 障子を開くとこいしと巫女が同時にこちらへと振り返った。二人の手には、湯気を立ち上らせる湯飲みがある。

「かなり痛みますけど、それ以外は特に」
「そうですか。まあ、何か問題があったとしても、私にはどうすることもできないのですけれど」

 巫女の方は社交辞令で聞いてきただけで、心配はしていない。でも、私たちへの敵意や警戒心があるわけでもない。妖怪だから大丈夫だろう。そんな感じに思っている。
 巫女は好意的とまではいかないものの、私たちに対する興味は抱いているようだ。そこには、孤独を癒したいという感情が見て取れる。

「お茶を淹れてきますので、適当な場所でくつろいでお待ちください」

 巫女は立ち上がって、部屋の奥へと消えていく。
 私は足の痛みに顔をしかめながら、こいしの隣へと腰掛ける。私の隣には、鴉が座り込む。その間に、こいしが離れていくようなことはなかった。

「目が覚めるまで、待っててくれたのね」
「あのとき勢いよく針を抜いたせいで壊れてたりしてたら、寝覚めが悪いですから」

 今まで散々私を避けるような態度を取っていた手前、自主的に私の傍に残るような選択をしたことに居心地の悪さを感じているのか、あらぬ方向を向いている。しっかりと顔を見たいのだけれど、それを口にしてしまうと絶対にこちらに向いてくれなくなりそうな気がする。だから、話している内に、こちらを向いてくれるだろうと思って、今は我慢する。

「そんなに繊細そうに見えるかしらね」
「見た目はどこからどう見ても弱っちそうですね。それを差し置いても、他人を追いかけて死のうとしてるなんて、危うさしか感じられません」
「なるほど」

 確かに端から見れば危なっかしいことこの上ない。鴉と黒猫からそうした感情を向けられていたのに、既に忘れてしまっている。視野狭窄とはこのことを言うのだろう。目を閉じているのはこいしの方なのに、見えなくなったものの数では私も劣らないのはどういうことなのだろうか。まあ、どうでもいいことか。

「こいしは具合の悪いところとかない?」

 最後の最後に札が当たったところを見てみるけれど、袖に隠れてしまってどうなっているのかは見えない。少し観察してみたところ、問題はなさそうに見える。

「多少腕が痛む程度で、問題はないですよ」

 腕を動かして見せてくれる。目に見えて痛がっている様子もないから、強がっているということもなさそうだ。

「そうみたいね。……ごめんなさい、私のせいで」

 私がいなければ、巫女に見つかることはなかったはずだ。仮に見つかったとしても、逃げることが出来ていただろう。なんだかんだと言いながら、こいしは私を見捨てないでくれている。それが、記憶の残滓によるものなのか、記憶喪失後の私の行動の賜物なのかは分からない。

「謝罪の気持ちがあるなら、もう付いてこないでください」
「貴女がいつどこで死ぬか分からない以上、それはできないわ」
「ほんと、諦めが悪いですね」

 心底うんざりとしているような声色でそう返される。でも、今すぐ離れようとはしていないから、本気で嫌がっているというわけでもなさそうだ。今のこいしは、私のことをどう思っているのだろうか。
 どうでもいい存在ではなくなっていると思う。こいしの言動の端々からは、そういったものを感じられる。
 いや、そもそも私は、このまま記憶喪失のこいしを受け入れてしまっていいのだろうか。死にたがっているということを考慮すると、何もせずに記憶を取り戻させるという事に多大な不安を感じはするけれども、こいしとの間に積み上げてきたものを失いたくないとも思う。

「会話の最中に考え込むなんて、失礼極まりないですね」
「ん……、ちょっと、思うところがあったのよ」
「ふぅん?」

 興味があるのかないのかよくわからない返事だった。何の準備もできていないのに、変に刺激して記憶を取り戻させてしまっても、狼狽えてしまうだけになりそうだから、今は胸に仕舞っておこう。
 と、お茶を淹れてきてくれた巫女が戻ってくる。

「お待たせしました。熱いのでお気をつけください」
「あ。ありがとうございます」

 巫女から湯飲みを受け取る。思いの外熱かったので、取り落としそうなってしまう。好みはなかなか渋いようだ。ちなみに、巫女の記憶の中のこいしは一口目で顔をしかめていた。それでも、飲み続けようと思うくらいの価値はあるようだ。
 巫女は私の傍に正座をして、感想を待っている。

「いただきます」

 呟くような声でそう言って、湯飲みに口をつける。熱さと渋みとが広がるけれど、それ以上に体の中へと広がる温かさが心地よかった。見ず知らずの妖怪姉妹のために、丹念に心を込めて淹れてくれたのだというのが伝わってくる。これは、こいしが顔をしかめながらも飲み続けたくなるというのがよく分かる。私は、この渋さも慣れてくれば味のあるものだと思うけれど。

「美味しいです」
「そうですかっ? よかったです」

 巫女がぱあっと笑顔を花開かせる。本当に鬼気迫る様子で私たちと対峙した少女なのだろうかと、疑問を抱いてしまう。でも、私の第三の目は、彼女たちが同一人物なのだと告げている。

「この場所は滅多に誰も来ませんし、来たとしても皆さんすぐに帰ってしまうので、なかなか誰かに振る舞うことが出来ないんですよね」

 朗らかな口調で、寂しいという感情を隠している。優秀故に疎まれて孤立しているという境遇は、私たちがそれぞれ孤立した理由を混ぜたかのようだった。だからといって、共感があるわけではないけれど。私はこいしがいることによって、閉じてしまっている。

「私は、一緒にいられる貴女たちが羨ましいです」

 対して、彼女は真に孤独だった。倒すべき存在である、私たちに親しみを感じてしまうほどに。

「こんなのがいても、面倒くさいだけですよ」

 今のこいしは羨ましがられるのも嫌なのか、間接的に私を突き放そうとする。

「贅沢な悩みですね」
「隣のこれは、人の服を剥ぎ取って、無理やりお風呂に入れて身体を洗うような性倒錯者ですよ」
「それは……」
「いや、ただ身体を洗っただけですから! 言葉に惑わされて変な想像をしないで下さいっ!」

 私から距離を取ろうとする巫女の誤解を慌てて解こうとする。今後も繋がりがあるとは思えないから、そう言う点では誤解されたままでも構わないのだけれど、間違った方向に想像が膨らんでいくのを見ているのは耐えられなかった。こういうところは、心が読めることの弊害だ。

「もしや、その反応は……」
「違いますっ! ……っ」

 力を込めて否定したら、傷に響いた。反射的に手で押さえようとしてしまうけれど、そうすると余計に痛みそうだということに思い至って、手が中途半端な位置で止まる。

「ええと、大丈夫ですか?」
「……ええ、だいじょうぶです」

 心配してくれている巫女に答える声は、思っていたよりも力ないものだった。傷が塞がるまでは不注意からこの痛みに襲われるのかと思えば憂鬱だ。人間よりはましだとはいえ、次の日にはほぼ傷が治っている鬼のような種族が羨ましい。

「良い気味です」

 こいしが澄ました様子でそんなことを言ってくる。

「……私、何か貴女に恨まれるような事したかしら?」
「昨日、私にやったことを忘れたとは言わせませんよ」
「え、でも、信じてくれるって……」
「信じるのと許すのとは別問題です。あなたが私に恥辱を与えたという事実に代わりはないんですから」
「……それも、そうね。ごめんなさい」

 昨日のこいしの反応を思い返してみれば、確かにそう言われてしまうのも当然だった。私は頭を下げることしかできない。

「謝っても赦しません」

 誰が聞いても分かるくらいに、不機嫌そうな声だった。

「本当に何をなさったんですか?」

 私たちの会話に入ってこれない巫女と鴉は同じ疑問を抱いている。
 言葉にするのは若干躊躇われるけれど、黙っていると余計な想像をされてしまいそうだから説明せざるをえない。だから、私は手短に昨日こいしに対してしたことを話した。

「妹に対する行動と言うよりは小さな子供に対する行動ですね」

 私の説明を聞いた巫女の感想はそれだった。
 でも、言われてみればその通りかもしれない。背中を流すくらいはすれども、自分で洗おうとしていないからといってあそこまで丹念にするのはやり過ぎだったのかもしれない。巫女が昔、近所の姉のような存在である女性に可愛がられていたときの記憶を見ながらそう思う。姉のようなと言っても、若い母親とその子供くらいの年齢差はありそうだったけれども。

「妹さんが記憶喪失になられてしまったせいで、過保護になっているのでしょうか」
「……かもしれないですね」

 本当は、私が過保護となったのはこいしが記憶喪失になるよりも前のことなのだけれど。こいしの前では、記憶をなくす前のことを話したくなかった。かと言って、聞かれたら答えるつもりがないというわけでもない。

「妖怪も色々と悩んだりするんですね」
「私ははみ出しものなので、参考にはならないと思いますよ」

 巫女は、弱々しさを滲み出させている私を見て、妖怪の認識を改めつつあった。ここに一人で暮らし、頻繁に妖怪に襲われるという彼女に妖怪と仲良くできるかもしれないという感情は、致命的なものになりかねない。
 殺されてほしくはないと思う程度には、関心を寄せている彼女を守るため、一つ昔話でもしてみることにする。

「私はこれでも、昔は人間たちから恐れられていたんですよ。あるサトリと出会ったら、魂を抜かれてしまうと言われてしまうくらいにね」

 実際にそんなことをしていたわけではない。そんなことができるのは、最早サトリの範疇から外れてしまっているだろう。でも、私の食後の光景は、まさにそうした言葉が相応しいものとなっていた。

「一人で歩いているところを襲うんです。とは言っても、直接危害を加えるわけではありませんよ? その相対する相手が抱いている感情に合わせた催眠術を用いながら、会話をするだけです」

 仕草で、言葉の選び方で、自然に暗示をかけていく。そうして、相手が隠したがっている本当の心を引きずり出すのだ。

「相手が逃げ出すなら、深層意識まで暴いて言葉に出してやればいい。反発してくるなら、相手自身が疑っている部分を明らかにしてやればいい。傷を抱えているなら、それをほじくり返してやればいい。もし仮に逆上されて襲われても、端から順番に避けてやって戦意を失わさせてしまえばいい」

 それら全てを淡々と行っていくのだ。心の中で、相手が追いつめられていく様子にほくそ笑みながら。

「そうして、意志や意識といったものを奪い取ってしまえば、もしくは壊してしまえば、空っぽとなった人間の出来上がりです。その状態から立ち直ることは出来ない、とまでは言いませんが、まともな生活は送れないでしょう」

 そんな状態となった人間の行く末に興味を持ったことがないから、実際の所どうなのかは知らない。復讐のために立ち上がった身内と相対したことはあるけれど、彼らの記憶の中にまともな受け答えをする犠牲者はいなかった。だから、私の言ったことは誇張ではないだろう。

「それが私でした。余程の事がない限り、妖怪は基本的にこんなものです。それは肝に銘じておいて下さい」

 そう締めくくる。

「信じられませんね。貴女が人間を襲う姿は想像できません」

 言葉通り、私の言葉は信じてくれていなかった。彼女は、こいしの方がよっぽど脅威だと感じている。昔のこいしがそのことを知ってしまったら傷ついてしまいそうだけれど、今のこいしはどうなんだろうか。巫女との戦いでの動きを思い返してみると、分からなくなってくる。

「まあ、信じられないならそれでもいいですけど、危ない妖怪の方が断然多いので、気を緩めないでくださいね」
「ふふ、ご心配ありがとうございます」

 思いの外、嬉しそうな声が返ってきた。彼女は妖怪に対抗する力を身につけてからは、誰からも心配されることがなかったようだ。
 無意識に彼女の方へと手が伸びる。

「えぇっと、この手は何ですか?」

 巫女が私の手に大人しく撫でられながら、首を傾げる。

「えっと……、なんなんでしょう?」

 撫でている私自身にもよく分からなかった。同情からでもないし、仲間意識を抱いているつもりもない。近いと言えば、ペットたちを撫でているときのような感覚だろうか。私なんかに懐いてくれているお礼のような、そんな感じのものだ。

「それはあなたの身体も狙ってるんですよ」
「それは恐ろしいですね」

 巫女はこいしの言葉に全く危機感のない声で答える。巫女はこいしの言葉は嫉妬によるものだと思っている。どこからそんな発想が出てきたんだろうか。

「私の手では不満かもしれませんね」

 そして、巫女の手がこいしの頭へと伸びた。こいしはなんとなく不機嫌そうにしながらも、その手を振り払おうとしない。おかしな光景となりつつある気がする。
 横で私たちの会話を聞いているだけだった鴉も、疎外感を抱いてこいしの膝の上に乗る。こいしはそうするのが当然であるかのように、鴉の頭を撫で始める。
 そうして、よく分からないながらも穏やかな時間が過ぎていくのだった。





 あれから少しして、巫女とは別れた。私がそうしようと言ったわけではなく、こいしが立ち上がったからそれを追いかけるような形だった。
 外套は肩から掛けるだけにしているから、私の顔さえ知っていれば誰だか分かるようになっている。
 隠れる意味もないから堂々とこいしの後をついて行っているけれど、文句も何も言ってこない。かと言って、私を無視しているといったふうでもなく、こちらを意識しているような雰囲気がこちらに伝わってくる。

「……さっきの話、本当ですか?」
「え? えぇと、さっきのってどれのこと?」

 足を止めないまま突然話しかけられたことに驚く。どれがさっきのというのに該当するのかが分からなくて、質問を返すことしかできなかった。

「あなたが恐れられていたという話です」
「ええ、本当よ」
「やったことも本当ですか?」
「ええ」
「……信じられません」

 足を止めたこいしが振り返って、どこか弱気な表情でこちらを見つめる。私はその表情にこれ以上ないくらいにたじろぐ。罪悪感が私の胸の内に渦巻いている。
 私は、その表情を知っている。

「私はサトリよ。それくらいしていても、何もおかしなことはないわ」
「じゃあ、どうして今はサトリらしからぬ生き方をしてるんですか」
「ある時、ふと興味をなくしてしまったのよ」
「誰かに否定されたんですか?」
「そんなことはないわ。もともとサトリに向いていなかったのよ」

 嘘は思ったよりも平然と口から出てきた。元々相手を陥れるための嘘は多く吐いてきたし、心を読まれていないというのも分かっているから、当然なのかもしれない。

「……否定したのは、私、ですか?」
「いいえ」

 多分、こいしは思い至ってしまっている。証拠はいくらでも転がっているのだから。
 それでも、私のことを負担にしてほしくないと白を切り続ける。それに、こいしに私のサトリらしさを否定されたのは、直接の原因ではない。
 こいしは、嘘で塗り固められた言葉から事実を掘り当てようとするかのように、私をじっと見つめる。翡翠色の瞳には、ここ最近私に向けられ続けていた敵意の色はない。

「……まあ、いいです。これから死んでいく私には関係ないですから」

 再び私に背を向けて歩き始める。
 私は何も言わず、何も言われずそれについて行く。鴉を安心させるように頭を撫でてやりながら。





「また、殺したんだ……」

 夜道を一人歩いていた旅人の心を喰らい尽くして満足していたその帰り道で、近くを散歩していたこいしとはち合わせた。
 いつもは笑顔に輝いている表情も、今は色々な感情が入り交じった弱気な表情でくすんでいる。
 それは、私が人間を追いつめていく過程に対する嫌悪だったり、サトリだから仕方がないという諦念だったり、そんなことを考えて私に嫌われたくない、私を嫌いたくないといったものだったりする。
 私はそれに対して、別段なんらかの感情を返したりはしない。こいしが私のサトリらしさの部分を嫌っているというのは理解しているし、私自身が嫌われることにも拒絶されることにも慣れている。離れてしまうのなら、それはそれで構わない。仕方のないことなのだから。

「お姉ちゃんは、冷たい」

 寂しげな笑みでそう言われると、何故だか胸が痛む。
 そして、その痛みはこいしに届いて、傷ついたような表情を浮かべさせる。私が勝手に痛がっているのに、自分が傷つけてしまったかのように感じて。

「……ごめん。勝手すぎるよね、私」

 今にも泣き出しそうな表情を一瞬だけ見せて、走って逃げていく。
 私はその背中を見送ることしかできなかった。





 私に心を許してくれていたこいしだけれど、私のサトリとしての部分は受け入れ難く思っていた。でも、仕方がないからと諦めて、積極的に拒絶するようなこともなかった。私もこいしが嫌がるからと、出来るだけ人の心の壊し方は考えないようにしていた。
 とはいえ、自身の心の動きを完全に制御するようなことはできない。だから、きっかけさえあればお互いに相手にとって望ましくないことを思い浮かべることがあった。
 例えば、私が人間を襲った後にこいしと顔を合わせたとき。
 こいしは私のしたことを読み取って、拒絶だけではない色々な感情をない交ぜにして浮かべていた。それは、あの子が私を慕ってくれていたということでもあった。それに対して私は、こいしを裏切るような行為をしているという罪悪感に胸を痛めていた。当時の私は自分自身の感情に疎くて、気が付いてはいなかったけれど。それにも関わらず、こいしを生かすために色々とやっていたのだから、愛情というのも不思議なものだ。
 閑話休題。
 昨日のこいしが浮かべていた表情は、私に対する恐れか嫌悪によるものだったのだと思う。サトリを拒絶する感情は、記憶を失った今でもどこかに残っているのだろう。
 昨日はあの後、特に何かを言われるようなことはなかったけれど、もしかすると嫌われてしまったかもしれない。でも、私を変えてしまったかもしれないということを気にしているふうでもあったから、そこまではいっていないかもしれない。
 いずれにせよ、今のこいしにあまり面倒くさいことを考えていてほしくない。前向きに考えて、なんでもいいから生きる理由を見つけてほしい。
 だから、私はこいしがどんな態度を取っていたとしても平然としていよう。そうすれば、昨日のことは大して気にならなくなるはずだ。
 寝間着から普段着へと着替えて、鏡の前で自らの格好を整えながらそこまで決めて部屋から出る。足では相変わらず白い包帯と痛みが自己主張をしているけれど、浮くことで誤魔化して頑張ろう。




「……おはようございます」

 朝食を台所から食堂の方へと運んでいると、部屋に入ってきたこいしが挨拶をしてきた。

「おはよう、こいし」

 昨日は無言で座っていたから、何か昨日の影響が出てきているのだろうかと思いながら返す。でも、昨日は昨日で特殊な状況だったから、何とも言えない。まあ、気にするのは後回しにして、用意をさっさと済ませてしまうことにする。鴉と黒猫を筆頭に、ペットたちは待ちきれなくなっているようだし。
 気持ち前に進む速度を速めて準備を進める。後は運ぶだけだから、楽なものだ。

「手伝います」
「え……、あ、うん、ありがとう」

 意外な申し出に驚いてしまって、返答がたどたどしいものとなってしまう。昨日までの態度からは本当に考えることの出来ない申し出だ。

「じゃあ、平皿をペットたちが食べやすいような場所に運んでくれる?」
「わかりました」

 私の指示に素直に頷いて、台所へと入っていく。大人しくなりすぎている気がする。やっぱり、昨日気が付いてしまったことがこいしの負担になってしまっているのだろうか。取り除いてあげたいところだけど、どうすればいいのかが分からない。気にしなくてもいいと言うだけで解決するほど、単純な子ではないし。
 そんなふうに頭を悩ませながら、準備を済ませる。昨日と同じように、私とこいしの席は向かい合っている。

「じゃあ、いただきましょうか」
「はい」

 私の声を合図に、揃って手を合わせる。ペットたちはすでに食べ始めている。
 私は食事を箸で摘みながら、こいしの様子を眺める。この時点で、多少なりとも不機嫌になっていそうだけれど、大人しく黙々と食事を食べ進めているだけだ。
 いいことなのだろうけれど、昨日の今日だと、裏に隠されている物が悪い物のような気がして、素直に喜んではいられない。

「ねえ、こいし。なんだか大人しいけれど、どうかした?」

 しばらく食べ進んだところでそう聞いてみる。黙ったままでわからないのなら、話すことで相手の状態を引き出せばいい。それでも駄目なら、今のところは打つ手はなしだ。そして、現状はそうなってしまう可能性が高い。

「昨日の大立ち回りの疲れが残ってるんですよ」
「……そうなの? 昨日のことを思い悩んでるからとかじゃなくて?」
「自惚れすぎです。私があなたの妹だと確定したわけではありませんし、あなたに対する思い入れもありません。なので、気にするだなんてありえません。というか、私のせいじゃないって言いましたよね?」
「ええ、まあ、そうだけど、貴女って結構背負い込みやすかったから、余計なものを抱えたりしたりしてないか心配で」
「余計なお世話です」

 これ以上話すつもりはないとでも言うように、ぴしゃりと言い切られてしまって、何も言い返せなくなってしまう。こいしの言葉に納得できたわけではない。疲れが残っているから、というのだけが理由による態度の変化だとはとても思えないのだ。
 そのまま食事を続けて、食べ終わるとお茶を淹れてくる。それを飲み終わっても、こいしは動こうとしない。

「今日はどこにも行かないの?」
「さっき言ったとおり昨日の疲れが残ってるので、今日はお休みです。また、あのセンスの欠片も感じられない変装で私を追いかけるつもりでしたか?」

 あの服はこいしのお気に召さなかったようだ。でも、元々自分の正体を隠すことが出来ればいい程度のものだから、評価が辛辣でも気にはならない。私自身、布を頭から被るだけのようなあれが、趣味の良い服装だとは思っていない。

「そうね。そのつもりだったわ。でも、貴女が大人しくしているというのなら、私は仕事をしてるわね。灼熱地獄跡の側か私の部屋の隣の仕事場にいるから、何かあったら遠慮なく声をかけてちょうだい」
「……昨日は仕事をさぼって私を追いかけたんですか?」
「そうなるわね」
「……筋金入りの変質者ですね」

 もはや聞き慣れてしまった評価をちょうだいしてしまうのだった。





 一日放っていた灼熱地獄跡は、いつもよりも温度が高くなっていた。中央にぽっかりと空いた穴から漏れる炎が、そこら中を赤く染めようとしている。怨霊たちはそんな環境の中でも平然としている。
 灼熱地獄跡の状態は、まだまだ許容範囲内だ。一、二週間ほどは放っておいても特に問題はないらしい。することがないから、普段は毎日様子を見るようにしているけれど。
 私は熱に刺激されて現れてきた足の痛みに顔をしかめながら、すぐに作業を終わらせてしまおうと決める。
 高度を上げて、中庭へと続く天窓を目指す。横には黒猫がついてきている。こいしの方には鴉がいるはずだ。
 こいしに鴉をついて行かせたのは、監視のためだ。どこかに行こうとすれば、私に教えに来てくれるはずだ。黒猫の方は、純粋に私の怪我を心配してついてきてくれていた。普通の猫なら危ないからと追い返しているところだけど、彼女は地獄生まれの妖怪だ。だから、万が一があっても大丈夫だろう。ちなみに、鴉の方も地獄生まれの妖怪で、昨日巫女の札が効いていたのはそのせいだった。
 黒猫は私を手伝おうと思ってくれているけれど、普段の態度のせいか行動に移せずにいる。私はそれを指摘するような意地の悪いことはしない。
 周囲にちらほらと浮かんでいる怨霊に睨みを利かせながら、天井の傍へとたどり着く。就任当時は私の姿を見るなり襲いかかってきていた。だから、何体かを消滅させて、私が怨霊たちにとって害ある存在だと言うことを知らしめることで、私の前では大人しくなるようになった。でも、油断は出来ない。彼らを構成する恨み辛みは変わらず残っているのだから。
 怨霊たちがこちらに危害を加えないかを意識しながら、天窓を開けて、閉じてしまわないようにつっかえ棒を立てる。熱された空気に比べると冷たい空気に触れて、ほうと息を吐く。でも、まだ終わりではない。
 と、行動する気になった黒猫が、私の傍から離れていく。どうやって開けるのだろうかと気になって、その姿を目で追う。少し離れたところから見ると、火の赤と相まって、彼女の赤混じりの黒い毛皮が火を纏っているように見えることに気が付く。
 天窓のすぐ傍まで行った黒猫は、そこでしばし考え込んだ後、口で取っ手をくわえて、身体ごと捻りながら窓を押し上げる。そして、身体で窓を押さえながら、二本の尻尾を使って器用につっかえ棒を動かした。

「おぉ……」

 その頑張りに対して、思わず感嘆の声が漏れてくる。それで私に見られていることに気が付いた黒猫が、威嚇をしながら照れ混じりに仕事をしろと思考を飛ばしてくる。あまり構い過ぎて、機嫌を損ねられてしまってはいけないから、残りの窓を開けに行く。
 そうして、一人と一匹で協力することで、いつもよりも早く全ての窓を開けることが出来た。足が痛むから、ざっと見回して異常がないことを確認すると、さっさと離れてしまうことにする。

「ありがとう、……」

 落ち着ける場所まで戻ってきて、頭を撫でながらお礼を言ったはいいけれど、彼女の名前を知らないことに今更ながらに気が付く。いや、鴉との間でも呼び合っていないから、そもそも名前といったものを持っていないのかもしれない。
 彼女たちにしてみれば必要ないのかもしれないけれど、私がそうしたいという事で後で考えてみよう。
 黒猫は素直に喜びたいと思いながらも、照れのせいで素直に喜べないでいる。元々触らせてくれるような子ではなかったけれど、こういう場面では簡単に触らせてくれるのかと意外に思う。今までは距離を取っている同居人といったような関わりしかなかったから、気が付かなかった。
 ちょっと自尊心が強いだけで、案外人懐っこい子なのかなと思いながら、触り心地の良さを堪能するのだった。





 それから自室に戻って適当に記録を付け終えると、黒猫を伴ってこいしを探すことにした。これといった用事があるわけではないけれど、近くにいるというのなら傍にいたかった。今の状況では、そこ以外では落ち着くことが出来そうにない。
 そう思って探しているものの、一向に姿が見当たらない。そもそも無駄に広いから、向こうも移動していたとしたら、見つけるのは絶望的な気がする。かといって、部屋に戻って本を読んだりしている気分でもないから、当て所もなく廊下を進んで行く。
 鴉を信頼してこいしの好きなようにさせたけれど、こう見つからないと不安になってくる。早く見つけ出して安心したい。
 それから更にしばらく屋敷の中を彷徨って、不安の中をたゆたっていることに疲れてきて、食堂で一休みしようとしたところでこいしを見つけた。

「あぁ……、よかった。ようやく見つけたわ……」

 心の奥底からの安堵が零れてくる。足で立っていたら、床の上に崩れ落ちていたかもしれない。

「何か用ですか?」
「ただ貴女の顔が見たかっただけよ」
「私がいないと死ぬ病気にでもかかってるんですか?」
「そうかもしれないわね」

 嫌みとして言ったつもりなのかもしれないけれど、その通りのような気はするから頷いた。現に、こいしが死ねばその後を追うと宣言して行動しているのだから。

「……あなたはことごとく私の調子を狂わせますね」
「そう?」

 割と自分の好きなように振る舞っているように見えるけれど、そうではないのだろうか。それに、私の方がよっぽど調子を狂わされているような気がする。

「そうなんです。それよりも、小腹が空きました」
「なら、何か食べましょうか。何が良い?」

 こいしに対してそう言ったのだけれど、鴉が反応を示す。まあ、用意の難しい物を要求しているわけでもないし、こいしを見張ってくれていたお礼として出してあげようか。ついでだから、黒猫の方へと意識を集中させて、薄ぼんやりと思い浮かべている食べ物を読み取っておく。こちらには、仕事を手伝ってくれたお礼だ。

「甘い物がいいです」
「分かったわ、座って待っててちょうだい」

 そう言って、私は台所を目指す。




「そういえば、あの鴉の名前ってなんて言うんですか?」

 食べかけの饅頭を片手に持ったまま、こいしが首を傾げる。空いている方の手は、ゆで卵を啄む鴉を指している。鴉の隣では、黒猫が焼き魚を食べている。それぞれ二匹の好物だ。

「今まさに考えているところよ」

 仕事を片付けたり、こいしを探したりで候補さえ上がっていないけれど、心象は大体出来上がっている。とはいえ、それを表すのに最適な名前を考え出すのが困難だ。

「ペットなんじゃないんですか?」
「そうなんだけど、餌を与える側と与えられる側というだけの間柄だったから、名前の必要性を今まで感じられなかったのよ。でも、あの二匹は特に私に懐いてくれてるみたいだし、ちょっと不便だから考える気になったのよ」
「ふぅん。自分勝手な理由ですね」
「あの二匹が必要としてないから、どうであれ結局は勝手な理由になるとは思うけれどね」
「あなたは開き直ってばかりですね。まあ、それはどうでもいいとして、候補くらいは挙がってるんですか? 悩んでるんなら、選んであげますよ」

 なんだか乗り気のようだ。記憶をなくす前は動物が好きだったから、その名残が残っているのかもしれない。
 こいしにペットの世話を押しつけてみようか。そうすれば、死のうなどとは思わなくなってくれるかもしれない。今押しつけるのは不自然になってしまいそうだから、機を窺おう。名前が決まるまでは、逃げることもないだろうから。

「こんな感じにしたいなぁっていう心象は思い浮かんでいるんだけれど、それを表す名前が考えつかないといった感じね。こいしは何か良い案ある?」
「今さっき名前がないのを知ったばかりですよ? とりあえず、あなたの思い浮かべている心象を聞かせてください」

 饅頭を皿の上に乗せて、若干身を乗り出してくる。その様子が、私としっかりと向き合ってくれているように見えて嬉しい。実際には、二匹のためなのだけれど。

「いいわよ。まずは、鴉の方ね。この子は空。心根の真っ直ぐさが、まさに蒼天といった感じなのよ。明るい雰囲気も合わせて、太陽も似合うかもしれないわね。次に、黒猫。この子は火。あの子の毛、よくよく見てみると赤色が混じってるんだけれど、火に照らされるととても綺麗に見えるのよ」

 つい最近知ったことばかりが、彼女たちの心象となっている。それだけ、関わりが少なかったということだ。こいしの記憶喪失が、彼女たちとの距離を縮めるきっかけとなった。あまり喜ばしくはない。

「そのままでいいんじゃないですか? 鴉は空で、黒猫は火……はあれだから、ほむらとか」
「んー、なんだか違う気がするわ」

 でも、心象を大して捻らずに、そのまま使うというのはいいかもしれない。そこに、何か別の意味も含ませることができれば最高だ。

「あ、そうだ。なら、鴉はうつぼ……は可愛くないから、うつほにしましょう」
「今の流れから、どうやったらそんな名前が捻り出されてくるのかわからないんですが」
「空と書いてうつほとかうつぼとか読むのよ。それで、空はネギの別名でもあるの。そして、ネギの花言葉は笑顔。空という字も使えるし、笑顔も似合いそうだしぴったりな名前じゃないかしら」
「いいとは思いますけど、ちょっと呼びづらくないですか?」
「そう?」

 考え出した本人だからか私は全然そうは思わないのだけれど、こいしは舌触りを気に入らないようだ。

「そうです。まあ、勝手に愛称でも付けちゃえばいいですよね。例えば……、お空とか」
「いいわね、それ。親しみを持ちやすそうだわ」

 愛称というのはいいかもしれない。ただ、ペットへの愛称の必要性はと考えると、首を傾げたくなる部分もあるけれど、まあ、細かい部分は気にしなくてもいいだろう。
 結構悩むことになるかと思っていたのに、案外あっさりと名前が決まった。こいしと共に、とんとん拍子で話を進めることが出来るのが楽しい。この調子で、黒猫の名前も決めていこう。

「じゃあ、次は黒猫の方ね」
「一応聞きますけど、私の案を却下した理由は?」

 わざわざそう聞いてくるということは、気に入っていたのかもしれない。でも、だからといって採用しようという気にはあまりならない。

「炎だと激しすぎる気がするのよね。名字になら入れても良いかもしれないけど」
「名字まで考えるつもりですか……」
「名前ほど頭を捻るつもりはないわ。ないならないで困るものでもないし」

 ペットに名字なんて大げさすぎるのかもしれないけれど、別にあっても構わないのではないかと思う。

「はぁ、そうですか。とりあえず、名前の方ですが、お空と同じで火以外に似合うものを挙げて、それと組み合わせて考えればいいんじゃないでしょうか。性格とかでもいいのかもしれませんが」
「そうねぇ……。結構しっかりしてて、頼りがいがあるのよね。だから、その様子も入れられれば入れたいわね。うーん……、そうだ。燐はどうかしら? 凛としてるの凛とかけて、火っぽい感じで」
「口で言われてもよくわかりませんが、あなたが納得できたならいいんじゃないでしょうか? 少なくとも、名前としてはいいですし」
「じゃあ、燐で決定しましょう」

 黒猫の方の名前もずいぶんあっさりと決まる。

「あ、そうだ。折角ですから、お空と合わせて愛称はお燐にしちゃいましょう」
「長くなってない? でも、親しみは持ちやすそうね」
「でしょう? ではでは、決定ですね。お空ー、お燐ー」

 こいしは愛称が決定するなり、早速新しい名前を呼びながら二匹の方へと向かっていく。二匹とも名前を貰えたこと自体に何かを思っているという事はないけれど、それを自分の名前だとは認識してくれている。
 それで構わないのだ。頭を悩ませたのは私たちの勝手なのだから、それを喜んでくれるかどうかは二の次だ。それに、こいしと一緒に考えることが出来たというだけでも十分だ。

「何一人でにやにやしてるんですか」
「え? そんな顔してる? でも、こいしと一緒に名前を考えられて嬉しいなぁとは思ってるから、そのせいなんでしょうね」
「安上がりな幸せですね」
「掛け替えがないから、値段なんてつけられないわ」
「む……」

 こいしは何も言わずに二匹の方へと向き直ってしまう。照れ隠しなのだと思っておこう。
 二匹の方へと向き直ったこいしは、お燐の身体を撫でている。お燐は若干迷惑に思っているものの、拒否をする意志はない。横では手持ちぶさたなお空が、お燐の毛繕いをしている。
 近寄ってこいしの表情を覗き込んでみると、素直な笑みを浮かべているのが目に入ってきた。長らく見ることの叶わなかった表情に驚いてしまって、動きを止めてしまう。

「……なんですか」

 視線に気づいたこいしが、若干不機嫌そうな表情を返してくる。

「え、あ、えっと、動物が好きなのは変わらないなぁと思って。ねえ、こいし。その子たちの世話をしてみる気はない?」

 若干強引ながらも、そこまで不自然ではないだろうということでそう聞いてみる。

「……どうせ近い内に死ぬ身ですから、そんな資格はありません」
「なら、死ぬのを止めればいいじゃない。それで、解決でしょう?」
「私が死ぬことと、この子たちの世話をすることを天秤にかけると、死ぬ方に傾くんですよ。たぶん、私が世話をしてもしなくてもこの子たちは生きていけるでしょうから」

 どこか優しげな印象の表情で二匹の方を見る。こいしも私と同じように、二匹は自分たちでどうにかできると思っているようだ。二匹とも私たちにべったりというわけではないから、当然なのかもしれない。

「そ……、んなことはないわ」

 正直に頷きそうになってしまったところをお燐に感じ取られて、思考による叱責が飛んできた。ともすれば、本気で噛みついてきたりしそうだったから、慌てて軌道修正をする。向こうも私のことを知りつつある。

「……私が甘やかせすぎたせいで、自分たちでどうやって生きていけばいいのか忘れてしまっているのよ。それに、貴女がいなくなったら、誰も世話をしなくなってしまうわ」
「この子たちを見捨てるつもりですか」

 こいしがこちらを睨んでくる。思い入れは持ってくれているようだ。少々卑怯かもしれないけれど、その想いを利用させてもらおう。

「こいしが生きている間は、誰も世話をしないなら私がするつもりよ。でも、貴女が死んだとき、私はそれを追いかける。そうなってしまえば、私も世話ができなくなってしまうわ」

 私自身を人質にしてそう脅す。滑稽極まりないけれど、ペットたちへの想いがある間は、無意味だということはないだろう。

「ほんと、私なんかに命をかけるなんて阿呆ですね。そういう相手はよくよく考えて選ぶべきですよ」
「考えなくても、選択肢は一つ切りしかないわ」

 嘘だけど。でも、命をかけてまで選べるものとなると一つ切りしかなかった。だから、こいしを守るために失った数々のものを思い浮かべてみても、後悔は微塵も浮かんでこない。もう少しまともな立ち回りをしていれば、こいしが今の状態になるようなことはなかったのではないだろうかというものは数あれども。

「はあ……」

 話が通じない人に対するような視線と溜め息を貰ってしまった。

「今ようやく理解しました。当面の敵はあなたですね。必ずや諦めさせてみせるので覚悟していてください」
「え……」

 その上、宣戦布告をされてしまう。そのことに面食らう。
 でも、よくよく考えてみれば、死に場所を探してふらつかれているよりは、状況が好転したということなのではないだろうか。宣言通りなら、少なくとも私が諦めない限りは悪い方向に向かうことはなさそうだ。

「……いえ、そうね。望む所よ。私も必ずあなたを止めてみせるわ」

 何度そうして宣言をしたかは分からないけれど、宣戦布告を受け入れながらそう返す。
 こうして私たちはお互いを死なせないために、敵対することとなるのだった。





「ねえ、こいし。あの子たちの名字を考えてみたんだけれど、どうかしら」

 こいしと敵対することになったその翌日、朝食の後片づけを済ませた机の上に二枚の紙を広げる。一枚には「火焔猫燐」。もう一枚には「霊烏路空」と墨で書いている。
 敵対したといっても、お互い相手に危害を加えるつもりはないから、私はいつも通りに接することにする。こいしも私に諦めさせるまでは死に場所探しを中止することにしたようで、屋敷の中で大人しくしている。

「かえんねこ、……びょう? とれい、ちょう、じゃなくて、うじ?」

 ペットたちに関することだからか、食いつきは良かった。名字の部分だけを首を傾げながら読み上げる。両方とも正解だ。

「正解。かえんびょうとれいうじよ。よく分かったわね」
「馬鹿にしないでください。それより、お燐の方は意味がわかりますけど、お空の方がさっぱりわかりません」
「太陽の神様である八咫烏が先導した道という意味よ。最初は霊烏だけにしようと思っていたんだけど、名前と合わせると発音しにくいから、一文字付け足してみたのよ」

 少しばかり仰々しい感じもするけれど、別に構わないだろう。

「名前と比べると、適当な感じですね」
「でも、字面はいいでしょう? 二匹とも三文字、一文字になっているし」
「得意げな表情を浮かべないでください」

 うんざりしたような表情を向けられる。確かに名前と比べると、手を抜いてしまった感じはあるけれど、それでも名前に相応しい雰囲気のものを考えついたのだから、少しくらいはそういう表情を浮かべるのを許して欲しい。

「でも……、いえなんでもないです」

 ふと、こいしは寂しげな表情を浮かべて二匹の名前を指でなぞる。他人の宝物に触れるような、慎重な手つきだった。

「こいし……?」

 続きを促すつもりで名前を呼んでみたけれど、反応はない。
 恐らくだけれど、こいしが言おうとしたのは名前のことなのだろう。それも、自分自身の名前。
 まるで、誰にも見向きされない前提で付けられたような名前。そこから、自分の境遇が恵まれていたものだとは、到底思うことができるはずがない。

「こいし」
「……なんですか」
「お茶を飲もうかと思っているんだけれど、こいしもいる?」
「じゃあ、……お願いします」
「ん、分かったわ。ちょっと待っててちょうだい」

 席を立って台所へと向かう。
 今の私にできるのは、貴女が必要だという想いを込めて、名前を呼ぶことくらいだった。





「お姉ちゃんは、自分の名前のことどう思ってるの?」

 姉妹揃って木にもたれかかって日光浴をしていたときに、こいしからそんなことを聞かれたことがある。
 意識を用いてやり取りをするサトリにとって、名前はそれほど重要なものではない。他種族とやり取りをする際にあった方がいいからという程度の理由で、一応それぞれの名前は付けられてはいる。だから、他種族と比べると杜撰な印象の名前が多い。
 ちなみに私の名前は、今後サトリの代表を担う存在になるだろうという期待から付けられたものだ。だから、私たちの集落の長と名前が被っている。でも、私は名誉のある名前だからと誇らしく思っている。同じ名前だからといって、困ることもなかった。

「ふーん、お姉ちゃんは自分の名前、気に入ってるんだ」

 淡泊な声音でそう言いながらも、こいしの胸中は悲しみで満ちていた。
 ……それもそうだろう。この子の名前は、落第者となることを見定められて付けられた名前だ。
 私たちの名前は、他の種族のように何かの願いを込めて付けられることはない。集落の長が、サトリの誕生とともにその性質を読み取って名前を与えるのだ。だから、名前と実際の印象が異なるということは、滅多に起こらない。
 そして実際、私は集落でも長を除けば随一の実力者となっているし、こいしはサトリとして異端な性格のせいで誰からも相手にされなくなっている。

「……」

 こいしは塞ぎ込んでしまう。こいし自身の自虐的な思考と、私の事実を並べた思考によって。
 こいしにそうした姿を見せられると、私の中にどうにかしたいという気持ちが沸いてくる。こいしには笑顔を浮かべていて欲しい。そう、思うのだ。

「こいし」

 ふと、名前を呼べばいいのではないだろうかという考えが浮かんでくる。こいしが自分の名前を好きではないことが分かっているのに、何故そうしようと思ったのかは分からない。
 でも、私の声はこいしの意識の中で、予想外にも優しく響いていた。私はそのことに驚いてしまう。
 こいしの胸中にあった悲しみは、喜びに取って代わっていく。内から溢れ出てくる感情を処理しきれなくなって、足をじたばたとさせている。

「ふふ、お姉ちゃんから初めて名前を呼んでもらえたけど、そんな声で言われるなんて思ってもなかった。そっかそっか。好きな人に感情を込めて呼んでもらえるってこんな感じなんだ」

 感情の全てが歓喜に染まっていて、それが私によってもたらされたのだと思うと、何とも言えないむずがゆさを感じる。でも、塞ぎ込んだ様子がなくなってよかった。私も嬉しくなってくる。

「自分の名前が嫌いだっていうのには変わりないけど、お姉ちゃんに呼んでもらえる名前は好きになれそう。ね、もっかい呼んでみて」

 そうやってせがまれると呼びづらくなる。かといって、その要求を断るということもできない。

「……こいし」

 二つの相反する感情がぶつかり合った結果、最初に比べると呼びかけの声は控えめなものとなってしまう。

「うぐ……っ。そういう呼ばれ方すると、なんかこっちも恥ずかしくなってくる」

 隣のこいしは身悶えしている。……初々しい恋人同士のようなやり取りだなんて思いながら。
 その発想を受けて、私の照れは一層強くなる。そしてそれはこいしの方へと伝わって……、と悪循環へと陥る。
 でも、こういうのを幸せだというのかもしれない。
 私の思考へと頷き返してくれるこいしの感情の中にも、私と同じものがあるのだった。





「紙に筆を押しつけるのがあなたの仕事なんですか?」

 こいしとのやり取りを思い返しながら、昔のことを思い出していると、こいしの声が聞こえてきた。今日のことをまとめていた書類には、こいしの言葉通り筆が押しつけられており、折角書いたものが台無しとなっていた。精々十分もあれば書けるような内容だから、大した損害ではないけれど。

「そんなことはないけれど、何かやってる最中に別のことを考えるのは駄目ね」

 自分の失態を誤魔化すようにそう言いながら顔を上げる。すると、何故だかこいしがたじろぐような姿を見せた。

「こいし?」
「……頬」
「頬?」

 鸚鵡返しをしながら頬に触れてみると、その部分が濡れていた。そこをなぞるように指を上まで持って行ってみると、目の端にたどり着く。どうやら、昔のことを思い返しながら涙を流していたようだ。
 とりあえず、服の袖で拭っておく。まさか、昔の幸せに触れているだけで涙を流すようなことがあるとは思わなかった。

「ごめんなさい。みっともない姿を見せてしまったわね。えっと、何か用かしら?」

 据わりの悪さを感じながらそう聞く。記憶を失う前のこいしならともかく、今のこいしは用もなく私の所に来ることはないだろう。

「これといった用があるわけではないですが、あなたを大人しくさせる方法を一人で考えてても何も思い浮かばないので、傍にいれば何か思い浮かぶかなと。非っ常に不本意ですが」

 非常にという部分をやけに強調していた。それくらい、私といるのが嫌なようだ。でも、実際にはこうして私の前に出てきてくれているのだから、嘆くこともないだろう。なんだか、駄目な方向に打たれ強くなっているような気がする。

「私はこいしが傍にいてくれると嬉しいわ」
「あなたの感情なんて知ったこっちゃありません」
「こいしが傍にいてくれるんだから、どう思われていてもいいわよ」
「む……」

 私が動じないせいか、こいしは不満そうな反応を見せる。辛辣にすっぱりと相手の言葉を切り捨てている割には、こちらが開き直ったような態度を取っているとすぐに大人しくなるような気がする。根の部分では、あまり相手に攻撃的な態度を取りたくないと思っているのかもしれない。それにも関わらず、このような態度を取っているのは、私が踏み込んだ態度を取るからなのだろう。私以外に対しては、もっと柔らかい態度で接しているようだし。

「まあそんなことより、何考えてたんですか?」
「ん、昔のことを思い出してたのよ。私が貴女の名前を呼んだら、それだけのことで喜んでくれたというだけの他愛もない、でも幸せな記憶よ」
「……私は自分の名前が好きだったんですか?」
「私に呼ばれる名前は好きだと言ってくれたわ」

 思い返していた記憶では好きになりそう止まりだったけれど、あの後言葉にしていたとおり、私に呼ばれるときだけは自分の名前が好きになっていた。
 今思えば、別の名前を考えれば良かったのかもしれない。でも、長く使っていた名前を変えてしまうのもどうなのだろうかとも思う。私の中では、すっかりその呼び名が定着してしまっていた。

「……あなたの妄想とかではなくて?」
「現実にあったことよ」
「ふぅ、ん……」

 その声に込められた感情はよく分からなかった。読み取れるのは、いくらかの興味があるらしいということくらい。
 そういえば、記憶喪失だと分かった当初は自分の記憶はろくでもないものだろうと、あまり思い出したがっているようには見えなかった。今は、多少は自分の記憶に興味を抱くようになっているのだろうか。
 姉妹に戻れるというのなら、それは喜ぶべきことだ。でも、私の知らないところで、記憶を失ってでも逃げたいくらいの目に遭っていたのかもしれないと思うと、安易に失われた記憶を刺激するようなことはしたくない。だからといって、何もしないまま何かのきっかけで記憶を取り戻してしまったら、今度こそこいしがいなくなってしまうような気がする。

「ねえ、こいし。こっちに来てくれる?」
「何するつもりですか」

 口では警戒する素振りを見せながらも、机を避けて無防備にこちらへと近寄ってくる。時折見せるこうした隙は、万人へと向けられたものなのかそれとも私だけへと向けられたものなのか。どちらにせよ、昔のこいしの人懐っこさの名残ではあるのだと思う。
 そう思いながら、見上げないと顔が見えない位置まで来たこいしの頭へと手を伸ばして、翡翠色混じりの銀髪を撫でる。

「……無断で何するんですか」
「ちょっと、手元が寂しかったからつい、ね」

 本当は何があったとしてもこいしの味方だと伝えたかったのだけれど、正直に告げてしまうと逃げられてしまうような気がした。だから、頭を撫でるという行為に、そうした想いを出来る限り込める。

「ほんと、なんなんですか、あなたは」

 こいしは文句を言いながらも、逃げようとはしない。呆れ果てて、そんな気にもならないのかもしれない。

「さあ……、貴女に姉だと認めてもらえないのなら、私はなんなのでしょうかね?」
「同性愛者で妄想癖持ちの変質者」
「……酷い言い様ね」

 そこまで言いながらも私から距離を取ろうとしないということは、冗談の類なのだろうけれど、受け流すのは非常に難しい。まともに受けて、精神的な損害を被る。これだけは、いくら言われても慣れることは出来ない。慣れてしまってはいけないものなのだろうけれど。

「……まあ、そう思ってた、ですけどね。今はとりあえず、諸々のことは面倒くさいので保留にしています」
「……ありがとう」

 多分、それは本当のことなのだろう。物言いはまだ刺々しいものの、時折顔を覗かせる柔らかな態度から、そう思うことができる。

「……なんに対するお礼だかさっぱりです。ところで、いつまで撫でてるつもりですか」
「んー……、手が上がらなくなるまで?」

 そう言いながらも、実は限界が目前まで近づいてきていて、腕が小さく震えている。それでも、手を離したくなくて、気力で支える。

「腕、震えてますよ」
「些細な問題よ」

 強がってみせるけれど、動かすのも辛くなってきている。すでに、腕を上げているというよりも、肩で支えているような感じだ。
 そして、ついに気力も尽きて、こいしの頭の上に手を置いて休む。でも、すぐさま頭を振って振り払われてしまう。

「余計なことに労力を注ぎ込んで満足できましたか?」
「まだまだ物足りないから、休んだらまた撫でさせてくれる?」
「冗談じゃないです」

 きっぱりと断っている割には、私から離れようとはしない。だから、休憩中の利き手に代わって、逆の手を伸ばしてみる。そうすると、無言で手の甲をはたかれた。私が好きなように頭を撫でることを許してくれたというわけではないようだ。まあ、なくした記憶に対する不安を少しくらいは拭い去ってあげることは出来たのだと思っておこう。

「じゃあ、撫でて欲しくなったらいつでも言ってちょうだい。いつでも応えてあげるから」
「絶っ対に頼まないので、期待はしないでくださいね」

 そう言って、大机から少し離れたところにある応対用の椅子へと飛び乗る。視線は私の方へと向いている。
 私はその視線を受けながら、新しい紙を取り出して、報告書を書き直していくのだった。


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