猫車を押して、灼熱地獄跡を目指す。宙に浮きながらだと、かなり押しづらい。長い廊下を進んでいると、なかなか終わりが見えてこないことにうんざりとする。その気持ちを今日もまた私を心配して付いてきてくれているお燐の心の動きで癒しながら前へと進んでいく。
こいしの頭を撫でてから数日ほどが経ったけれど、特にこれといった進展はない。私はこいしを死なせないために頭を悩ませて、こいしは私に諦めさせようと頭を悩ませている。敵対とはいうが、ぶつかり合うようなことは一度としてなかった。
この数日の間に変わったことと言えば、足の傷が塞がってきているということくらいだろうか。でも、痛みはまだまだ健在だ。怪我をしていることはとっくに分かっているのだから、こんなに自己主張しなくてもいいのにと思う。
こうして猫車を使って運ぶよりも、直接抱えて運ぶ方が楽かもしれない。でも、そうしてしまうと往復しなくてはいけなくなるし、心情的に直接触れるようなことはあまりしたくない。
荷物は、一枚の布によって隠されている。汚れてしまってはいけないとか誰かに見られてはいけないということはなく、単に私が見たくないというだけだ。
その荷物というのは死体だ。人間や妖怪、動物と節操はなく、もう二度と動かないということだけが共通している。
死体は灼熱地獄跡が燃え続けるための燃料となる。火の勢いを弱らせてしまうと、そのうち内側に溜まりすぎた力が一気に溢れ出して、この辺り一体が吹き飛んでしまうらしい。映姫様が言っていたことだから嘘ではないのだろうけれど、実感が湧かないせいで危機感はない。あまりやりたくないなぁという気持ちばかりが先行している。
死体を忌避するのは妖怪としては珍しいけれど、サトリとしてはそう珍しいことでもない。心を喰らうサトリに、死体と対面する必要性は全くないからだ。それに、優秀なサトリほど相手を身体的に殺すようなことはしないから、死体は避けるべきものという意識が自然と出来上がってしまう。
「何を運んでるんですか?」
いつの間にか隣に並んでいたこいしがそう聞いてくる。ここの所、こいしの方から話しかけてくることが多い。大した話をすることはないけれど、こいしに話しかけてもらえるというだけでも嬉しいものだ。
「灼熱地獄跡に投げ込む燃料よ。あ、見ない方が――」
言い終わる前に、こいしの手が布を捲り上げてしまう。
「あ……」
こいしが猫車の荷物を見たまま固まる。この子は私以上に死体が苦手だった。それこそ、見ることさえも心の底から拒むほどに。
だから、最初は驚いて竦んでしまっているのだと思っていた。でも、しばらくしても動き出さないことに、不審を覚える。
「こいし……?」
恐る恐る呼び掛けてみる。でも、反応はない。
「こいし。こいしっ!」
顔を覗き込んでみると、何も映していないかのような翡翠色の瞳が映った。私はそれを見た瞬間、我を失ったように両肩を押さえて呼び掛ける。お燐も不安を込めた鳴き声を上げて、こいしを呼ぶ。私もお燐もどうすればいいのか分からなくて、声を掛けることしかできない。
「……お姉、ちゃん?」
どこにも合っていなかった焦点が、正しく私を捉える。その呼び方は、記憶喪失のこいしは絶対にすることのないものだった。
「こいし……。記憶が、戻ったの……?」
「……さてさてどうでしょう。記憶なんて曖昧不確かで、正しく認識できてるのなんていないんだから。いや、そもそも誰もが当たり前のように記憶を失ってるよ」
あらゆる物事を誤魔化すように言いながら、私から距離を取る。それは、記憶を失う前の何を考えているのか全く分からないこいしの口調と一致していた。そこに今まで私に向けられていた棘はなく、なんの感情も見受けられなくなっている。
「でもまあ、私は自分が古明地こいしだということを思い出したし、古明地さとりが姉であることも思い出した。それからおまけに、余計なことも色々とね。そういう意味では記憶を取り戻したと言える」
「そう。……でも、素直に喜んでいるというわけにはいかなさそうね」
こいしが記憶を取り戻しました。一件落着。という大団円な雰囲気からはほど遠い。こいしからは、淡々と崖に向かって歩いて行っているようなそんな印象を感じ取れてしまうのだ。
「喜んでいいと思うよ。お姉ちゃんはこれ以上私に汚されることがなくなるんだから」
「それは、どういう意味?」
「お姉ちゃんが知る必要はないよ。私のことは、ぜーんぶ忘れちゃうんだから」
楽しそうに言いながら、私を真っ直ぐに見つめてくる。このまま見返していたらまずいとは思いながらも、身体は思うように動いてくれない。外からの力は何も加わっていないはずだ。代わりに、内側の私が絶対に動いてはいけないという無意味な命令を発している。
「お姉ちゃんは、私なんかのために死んだらダメ。私のことは忘れて、ペットたちと幸せに暮らして。わかった?」
子供に言い聞かせるような言葉に、私の身体は勝手に頷き返す。こいしが勝手に作り上げた意志が、私を侵食しつつある。私は意識だけでもそれに抗おうとする。負ければこいしを永遠に影も形も残さず失ってしまう。そんなのは、絶対に嫌だった。
「お姉ちゃんは聞き分けが悪いね。ちゃんとできてたら、頭撫でてあげようと思ってたのに」
残念そうな色を声に滲ませながら、手で私の視界を奪う。振り解こうとしても、身体が全く言うことを聞いてくれない。
「でも、だいじょうぶ。私がちゃんと忘れさせてあげるから。じゃあ、ばいばい、おねえちゃん。そして、おやすみなさい。良い夢、見れるといいね」
その言葉を最後に、私の意識は途切れてしまった。
◇
私は日々の仕事を決められた手順に沿って片付ける。ただそれだけを繰り返して、日常を食い潰していく。
自分がなんのために生きているのか分からなかった。だから、私はこのまま消えてしまっても構わないのではないだろうかと思ってしまう。でも、何かを忘れてしまっているかのような感覚があって、それが自ら命を絶つという考えを振り払ってしまう。そして、襲うのが面倒くさいという気持ちを纏ったまま、怨霊たちを適当に怖がらせて、なんとなく腹を膨らませて餓死を免れる。昔はこうした食事の際には、どういった演出をしようかなんて考えながら楽しんでいたはずなのに、いつの間にか億劫なものとなってしまっていた。
どこか曖昧模糊とした記憶を辿ってみると、最近は想いを込めた人と同じような食事で満足していたようだ。でも、自分で作ってみても全く満たされない。記憶の中では、私自身が作ってそれで満足していたというのに。
何かが足りない。それは、なんだろうか、なんだったろうか。とても大切なものだったはずなのに、思い出すことが出来ない。それが欠けているせいで、齟齬をきたしている。
ずれた感覚の正体を掴めないことが酷く落ち着かなくて、屋敷の中をうろつく。何を探せばいいのかすら見当が付かないのだから、適当に足を進めることしかできない。
そのうち私は見慣れない扉を見つけた。いや、見慣れていなければおかしいはずだ。何故ならそこは、私の部屋の隣なのだから。
この扉の向こう側に、何かがあるはずだ。私のずれを正す大切な何かがあるはずだ。
私は恐る恐るノブを掴んで下げる。扉を開けると、廊下の光が部屋の闇を裂く。全開にして、見つけた。
「こいし……」
忘れてしまっていた名前が漏れ出てくる。でも、その持ち主からの反応はなく、虚ろな瞳で宙を見つめているだけだ。
「こいし……っ!」
今度は意識的に呼び掛けながら駆け寄って、こいしの身体を抱きしめる。そこにいることを全身で感じ取ってようやく安堵する。
こんなにも大切なのに、こんなにも近くにいるのにどうして忘れてしまっていたのだろうか。そのことに薄ら寒さを覚える。
とにかく、今後は絶対に忘れないようにしよう。どうすればいいのかなんて知らないけれど、今まで以上に強く強くこいしのことを意識していよう。
そうは思ったけれども、こいしから離れてしまうのが不安で、いつまでも抱きしめ続けていることしかできないのだった。
◇
「忘れられるわけ……、ない、じゃない……っ!」
意識が覚醒して、真っ先に口から出てきたのはそんな言葉だった。伝えたい相手はいないけれど、言わずにはいられなかった。
こいしに関する記憶は奪われていない。でも、こいしの後を追って死にたいという気持ちはどこからも湧いてこなくなっていた。それから、ペットたちと幸せな暮らしを送りたいという気持ちがやけに強まっている。
どうやら、一度こいしが私の記憶の中から消え去ろうとしたときの誓いのおかげか、こいしに関する記憶だけは守りきることが出来たようだ。
後追いという選択肢が奪われた結果、私に出来るのは全力を持ってこいしを救い出すために動くことだけだった。下手に逃げることが出来るよりはいいのかもしれない。こいしを失ったときに、廃人となってしまいそうだけれど、今は後ろを見ていたって仕方がない。
とにかく立ち上がって、前と後ろとを見てどうするか考える。どれほどの時間が経ったかが分からないから、まずは後ろに行くとしよう。気を失っているお燐を拾い上げる。
そういえば、この子はこいしのことに関する記憶を消されてしまっているのだろうか。意識を取り戻したら確認してみよう。
そう考えながら屋敷の中へと入って、出来るだけ速く仕事部屋を目指す。
その道すがら、床の上に横たわっているお空を見つける。これが記憶操作の爪痕だとすれば、こいしは自分が存在していたという痕跡の全てを消してしまうつもりのようだ。だとすれば、次の行き先は彼岸だろうか。自力でたどり着くことができるのか、死んでしまってからでも同様の事が出来るのかは分からないけれども。
なんにせよ、映姫様には連絡を入れなくてはいけない。
仕事部屋の扉を開け放って、一直線に机を目指し、引き出しから一枚の札を取り出す。それに妖力を込めて、話しかける。
「映姫様聞こえますか、古明地さとりです」
この札は、映姫様へと直接声を届けるための物だ。組織としては、形を残したいようだから、仕事で使うことはあまりない。
『……ええ、聞こえていますよ。それで、何の用ですか』
札の向こう側からの返事はすぐに返ってきた。手が放せないほど忙しいという状況ではないようだ。
「こいしが記憶を取り戻しました。ですが、そのせいでまた逃げられてしまいました。私だけでは間に合わない気がするので、可及的速やかにこいしを見つけ出して頂けませんか」
『無茶を言いますね。……まあ、いいでしょう。部下に探させます。貴女はどうするつもりですか』
「当然、こいしを探しに行きます」
大人しく待っていられるほどの余裕は持ち合わせていない。すぐにでもこいしを見つけださなければ、どうにかなってしまいそうだ。
『分かりました。くれぐれも無茶はしないように』
「分かっています。それから、こいしは他人の中から自分に関する記憶を消そうとしています。なので、探す際はこいしに気が付かれないようにと伝えていただけませんか?」
『分かりました。注意させましょう』
「はい。では、よろしくお願いします、映姫様」
そう言って、札へと妖力を注ぎ込むのをやめる。その札は服のポケットへと入れて、今度は隣の自室へと向かう。クローゼットから、いつかこいしを追いかけたときに着ていた外套を取り出して羽織る。
他に何か必要なものはあるだろうか。
少し考え込んでみるけれど、何も思い浮かんでこなかった。だから、今すぐこいしを探しに行くことにする。
死のうという選択肢がなくなっただけで、私はこんなにも動くことが出来るようになっていた。
『古明地さとり。四季映姫です。貴女の妹の居場所が分かりました』
地底でこいしを探していたところ、映姫様からの連絡が入ってきた。札は面倒が起きないようにと音量を絞って耳元に貼り付けている。こういった変更は簡単に行うことが出来るのだ。
「どこですか?」
向かうべき場所はまだ分かっていないというのに、進む速度が速まる。そんなに急いで間違っていたらどうするのかと理性が問うけれど、逸る身体の器官を制御することは出来ない。そのせいで、周りから若干の注目を浴びてしまっているけれど、許容範囲内なので気にはしない。
『地底から東の方にある神社です。どうやら、そこで捕まっているようです』
「捕まって、いる……?」
思わず立ち止まってしまう。近くを歩いていた妖怪に怪訝を向けられる。
『はい。とはいっても、動けなくされているというだけで、危害を加えられているわけではないそうです』
事実を淡々と告げるその口調が、恐慌状態に陥りかねなかった私を落ち着かせる。
一端深呼吸をして、逸る気持ちを鎮める。慌てても、仕方がない。
「……そうですか。その神社はどういった神社なのですか?」
神社といえば、先日出会った巫女のことを思い出す。あの神社は、確か東の方にあったはずだ。
進路は自然と地上の方へと向いていた。思い浮かべている神社とは別の場所だとしても、地上に出なければならないことに変わりはない。
『人里離れた高台に作られた神社です。他に人工のものはないので、すぐに分かると思いますよ』
返ってきたのは、思い浮かべていた神社と一致する特徴だった。
あの巫女の記憶を消そうとしたけれど、それを気取られて捕らえられてしまったのだろうか。普通の人間なら、あり得ないと断ずるところだけれど、人間からも妖怪からも逸脱した感覚を持つ彼女なら不可能ではないと感じられてしまう。
「……分かりました。ありがとうございます」
私は映姫様へとお礼を言って、あの不思議な印象を纏った巫女のいる神社を目指す。何にせよ、こいしのところへと向かわなくてはいけない。
「こんにちは。思っていたよりも早い再会となってしまいましたね」
神社に着くなり、巫女が悲しげな笑みで出迎えてくれた。どうやら、札によって動きを封じられているこいしに、何度も殺して欲しいと請願されているようだ。
彼女のこいしに関する記憶は無事のようだ。お燐とお空は完全に忘れてしまっていたのが分かったときの、寂しさと悲しみがない交ぜとなった感情を思い出しながら少し安堵する。私は忘れないと誓ったけれど、他の人たちにもしっかりと覚えてもらっていて欲しいというのが私の想いだった。
「こんにちは。……あの子が迷惑をかけてしまったようですね。すみません」
巫女の記憶によると、嫌な予感を覚えて札を放ったところで、こいしを捕らえたようだ。本当に逸脱した勘を持ち合わせている。最後に出会った妖怪退治屋が彼女で本当に良かった。そうでなければ、こいしは今頃見知らぬ妖怪として、殺されてしまっていたかもしれない。
「私に謝っている暇があるのでしたら、すぐに会いに行ってあげてください。私は気にしていませんので」
本心からそう思ってくれている。普段が味気ない生活だからか、こうした不測の事態に対しては、内容が良かれ悪かれ悪感情を抱きにくいようだ。
「ありがとうございます。では、話をしてきます」
そう言って、こいしのところを目指す。場所はすでに巫女の思考から読み取っていた。
「こいし」
縁側から母屋へと入り、以前私が寝かされていた部屋の襖を開けた。そこにはこいしが寝かされている。巫女の記憶の中でそうだったように、こいしの全身に札が貼られている。私一人では、どうすることもできなさそうだ。逃げられることがないから、このままいいのだろうけれど。
「……私のいない夢の世界はお気に召さなかった?」
「夢は夢でしかないわ。私は現実に生きることにしているのよ。それに、こいしのいない夢なんて、悪夢以外の何物でもないわ」
こいしの横に正座で座り込もうとして、痛みが傷の存在を主張する。少し考えた結果、足を伸ばして座ることにした。私が来るまで巫女が使っていたらしい赤色の座布団があったので、その上に座らせてもらう。
首を横に向けて、こいしの顔を眺めながら、私の答えに対する反応がないだろうかと待ってみる。でも、こいしは何も言ってくれない。
手持ちぶさたな私は、外套を脱いで適当に畳んで脇に置く。この間にも、反応はない。
こいしの頭を撫でてみることにする。振り払おうとしているのか、頭が小刻みに揺れる。こいしでも札に捕らわれてしまえば、思い通りに動くことは出来ないようだ。当たり前のことに小さな驚きを感じてしまう。目を閉ざしてからのこいしは、どんなものからも抜け出ていってしまいそうな印象があった。
「醜く汚い現実なんてさっさと捨てるべき。そうしないと、お姉ちゃんの価値は大暴落するよ」
「貴女が何をやったのか知らないけれど、私が赦してあげるわ」
こいしが焦点をぼかしながら言っているのは、何か罪を犯してしまったから、私とはいられないということなのだろう。だったら、私はそれを赦せばいいのだ。こいしに何事もなければ、それで構わない。
「お姉ちゃんは甘やかしてばっかりだね。そういうのは、教育上良くないと思うよ」
「こいしはちゃんと自分で学べるから大丈夫よ」
どうやら、どうしても自分が何をしたのかというのを私に知られたくないようだ。
普通なら、こいしの方から話すつもりになってくれるまで、言及すべきではないのだろう。でも、こいしは自らのやったことを禁忌だと思い、それを犯した自分は私に関わるべきではないと考えて、死のうとしてしまっている。
それなら、私はこいしが隠していることを暴いて、その禁忌を受け入れるしかない。死んでまで隠したいと思っていることを知ってしまうのは怖いけれど、こいしを失ってしまうことと天秤にかければ、どうという事はないはずだ。
「私は共犯者になる覚悟は出来ているわよ」
「なんにも知らないのにそんなこと言われても白々しいだけだなー」
「なら、何をやったのか話してくれる?」
「飛ぶ鳥跡を濁さず。汚れは私だけが抱えてれば十分。というわけで、お姉ちゃん。私のこと忘れて」
こいしの言葉はそれぞれが羽のように軽く重みがない。それはきっと、中身を抜き取って外側だけを並べているからなのだろう。目を閉ざしてからのこいしとの会話は、いつだって進展がない。
「嫌に決まってるじゃない」
とにもかくにも、素直に話すつもりは一切ないようだ。それなら、私は自ら答えを導き出さなくてはならない。
手懸かりとなるのは死体。こいしに記憶を取り戻させるほどの衝撃を与えたのだから、関係がないということはないだろう。他に関係がありそうなことといえば、戦闘慣れしていたということだろうか。目を閉ざす前のこいしに、そうした傾向は全くなかった。
それら二つを併せると、嫌な想像しかすることが出来ない。でも、思い浮かんだ中でも最悪の物が正しいのだろうと思ってみても、こいしに対する忌避は浮かんでこなかった。やはり、私にしてみればこいし以外はどうでもいい存在のようだ。
「貴女は……」
言わなければならないと思っても、実際に口にしてしまうのには躊躇してしまう。忌避しないと思ってはいるけれど、そんなことをしていてほしくないと思っているからだ。だからといって、黙っていても進展は何もない。
「……貴女は、人間か妖怪を殺してきたのね。それも、一人や二人なんかではなくて、たくさん」
「ふむ。お姉ちゃんは私が殺人鬼だって言うんだ。良い線行ってると思うよ。でも残念。不正解」
こいしの行為はこれ以上のものなのか、以下のものなのか。普通に考えれば、これ以上のことなのだろう。そう思うと、考えるのが嫌になってくる。少し、気分が悪くなってくる。
「私の醜さを見たくないなら考えなければいいのに。今なら特別に、お姉ちゃんの記憶にだけは、私を残しといてあげるよ。自分探しの旅に出たくらいに改竄して」
「記憶だけでは意味がないのよ。貴女が確かにこの世にいるという証がなければ、私は納得しないわ」
「どうせ記憶が改竄されちゃえば、私がいない証拠なんて見つけられっこない。お姉ちゃんは、首を傾げながら私から連絡がないことを絶対に受け入れるよ」
「そもそも変えさせる気もないのだけれどね」
こいしに関することなら、何があったとしても守りきることが出来るはずだ。別のことは、簡単に書き換えられてしまいそうだけれど。
それはそれとして、私はこいしがやったことを考えなくてはいけない。本題からずれていってしまうのは、こいしがそうなるように仕向けているからなのだろう。
こいしが誰かを殺しているというのは確実なのだと思う。なら、そこに何かが付随しているのだと考えればいいのだろうか。殺し方に何か特徴があるのか、それとも殺してから何か特別なことをやっているのか。
「お姉ちゃん、あんまり考えすぎてると頭でっかちになっちゃって、余計に引きこもりになっちゃうよ」
「こいしに関することなら、行動もちゃんと伴うわよ。今は考えることくらいしか出来ることがないというだけ」
こいしが思考に割り込んでくる。こいしの言葉に答えながら、推論を進めていく。
無理にでもこいしらしさを埋め込むとするなら、どちらにどういったものを埋め込めばそれらしくなるだろうか。不愉快な作業だけれど、やらなくてはならない。
「あ……」
不意に、綺麗に合致する組み合わせを見つけてしまう。でも、だって、そんなはず……。
こいしは嫌われることを嫌っていた。
それでいて、心を閉ざすまでは他者と関わり続けようとするくらいに、誰かと交流することが好きだった。
そんなこいしの特徴を、死体と結びつけてしまう。そうして得られた結論は、最悪とも呼べるような代物だった。
「お姉ちゃん、顔色、悪いよ。精神だけじゃなくて、肉体にまで悪影響を及ぼすようなつまんない考えは捨てちゃうべき。私、手伝うよ?」
こちらを気遣うような音色を持ったこいしの言葉に頷きはしない。まだ私の思いついたものが事実だと決まったわけではないのだ。
それに、事実だったとしても忘れてしまうつもりはない。こいしを失わないためには、受け入れるしかないのだ。
「……貴女は、気に入った人間だか妖怪だかを殺して、その死体に愛着を抱いて接していたのね」
「正解」
一切の色が抜け落ちた声で、私の予想を事実に塗り替える。
私の知らない間に、こいしの人懐っこさは大きく歪んでしまっていた。世界の無情さに、どうしようもない憤りを感じる。どうして、こいしがこのような目に遭わなければならないのだと。
「さっすがお姉ちゃん。心が読めなくてもそこまでわかっちゃうんだ」
続く声は、嬉々とした色で染まっていた。でもそれは、本来表に出ているべき感情を隠しているようにしか見えない。何を隠しているのかは分からない。
「私の業を知ったなら、どうすべきかはわかってるよね?」
分かるはずがない。でも、こいしが望んでいる選択肢は、あり得ないということは確定している。
それを示すために、私はこいしの上へと覆い被さるようにしながら抱きしめる。抱きつくという方が正しいかもしれないけれど、こいしが望んでいるのと真逆の行動が出来ているのならそれでいい。足の傷も自己主張をしているけれど、これくらいの痛みなら問題はない。
「お姉ちゃん、気でも狂った? それとも、最後の最後に私を使い潰して捨てちゃおうって魂胆?」
「私は正気だし、後者の意味は分からないけれど、こいしには傍にいて欲しいわ」
こいしが私のことを尊重しようとしてくれているのと同じか、もしくはそれ以上にこいしは大切な存在だ。一つ二つ逸脱した嗜好を持っていたからといって、こいし自体を忌避するようなことはない。
「自分から汚れようだなんて奇特だね」
「汚れてるだなんて思ってないわ。こいしは綺麗なままよ」
代わりに、歪んで、壊れかけて、自らの異常に気が付いて行き場をなくしているらしいとは思っているけれど。
「あんまり調子のいいこと言ってると、痛い目見るよ」
「事実だけを言っているつもりよ」
「客観的な評価を表しただけの言葉に事実なんて胡散臭い」
「じゃあ、真実よ」
「お姉ちゃんってこんなに面倒くさかった?」
「貴女を失ってしまうから、諦められないだけよ」
そう、今の私に退路はない。ひたすらにこいしに肉薄し続けていなければいけない。そのためには、相手に面倒くさいと思われるくらいにしつこくもなることも出来る。記憶喪失のこいしを相手にしている間に、そういうことには慣れてしまっていた。
とはいえ、しつこくいるだけでは何も進展がない。どうすべきなのか、考えなくてはいけない。心が読めない相手から信頼を得る方法は、学んでこなかった。結局、記憶を失くした状態のこいしから、明確に信頼されるということもなかったのだし。
思考をぐるぐると回す。何も思い浮かんでこなくて、出発点の近くで堂々巡り。
昔のように、心の隅まで以心伝心していれば、こうして悩む必要はなかったはずだ。くっつき合っていた心は、今では目に映らないほどに遠く離れた場所にある。せめて、触れることが出来るくらいの距離にあればいいのに。
そう思いながら、腕の中にある温かさを意識する。その心地よい温もりは、絶対に失いたくない。決して、それだけが理由ではないのだけれど。
進展のない思考に飽きてきてしまったのか、じわりと眠気が染み出してきていることに気が付く。丁度良い暖かさと相まって、気持ちよく眠ることが出来そうな気がしてしまう。
自分自身でも危機感が足りないと思うけれど、巫女が札を剥がすまでは逃げられることはないはずだ。なら、少しくらい休憩してもいいのかもしれない。睡眠時には記憶が整理されるとも言うから、一時眠ってみれば何か思い浮かぶかもしれない。
そう考えてしまうと、眠気に抗う気がなくなってしまって、無抵抗に目をつむるのだった。
◇
こいしが村の人間に襲われているというのを知ることが出来たのは、全くの偶然だった。
昼よりも夜の方が恐怖を引きずり出しやすい。そんな理由で、昼の間は適当な場所でぼんやりとしているか、村の近くに隠れながら情報収集をする。もしどこかで微睡んでいたならば、取り返しのつかないことになっていただろう。
私は村中に広まりつつあった、サトリを粛正するという情報を拾って、こいしがいつも人間の子供と遊んでいるという広場を目指していた。
こいしは村の中では比較的安全な存在として扱われ、避けられたりはしていたけれど、直接危害を加えられるようなこともなかった。でも、こいし以外のサトリはその村に対して被害を与えていた。中でも私の与えた傷は、決して塞がらないようなものだ。
そうして積もり積もった鬱憤が、こいしへと向かった。本来なら私たちに向けられるべき物だけれど、普通のサトリであれば怒りを抱えている相手の前へとのこのこと現れたりはしない。発散されないまま溜まった激情は、無関係なはずのこいしへと向けて爆発した。
もともと予兆はあったのだ。それにも関わらず、こいしは村の人間と関わることをやめなかった。だから、自業自得だ。本来なら、見捨てられても文句は言えない身だ。でも、私は見過ごすことが出来なかった。それくらい、私にとって、こいしは大きな存在なのだ。
人集りが出来ているところに辿り着く。直接は見えないけれど、その中心に傷つけられて血を流しているこいしが倒れている。敵しかいないただ中で、こいしは心を恐怖で震わせていた。私が近づいてきていることには、気が付いていない。
人集りはこいしをどうするかと中心へと罵声を浴びせかけるようにしながら相談している。さっさと殺してしまおうという単純なもの、もっと痛めつけてからにしようという残忍なもの、そして見えてくることさえ不快な下卑たもの。一人一人の思考を冷静に読み解く前に、私の感情がかっと燃え上がる。
そうして、ろくに準備も整えないままに、こいしを守る位置へと立つ。気が立っている人集りは、妖怪が増えたところで怯む様子など見せず、先ほど以上に感情を高ぶらせている。
怒声に罵声に嘲笑、不快、拒絶、恐怖、暗い悦び。
それらが雨霰となって降り注ぐ。
普段なら私はそれらを笑みとともに受け入れて、楽しみながら発生源を壊していただろう。でも、今はただただ不快だった。雑音を、騒音を消してしまいたいと思った。
だから、私は一歩踏み出して口を開いた。
人集りへと向けて、挑発する。目論見通り、気の短い数人が襲ってきたので、同士討ちをさせるように攻撃を避ける。直接倒してしまってもいいけれど、それでは切りがない。
時折出来る隙を使って、襲いかかってきた連中の後ろ暗いことを暴いていく。その際、傍観している連中の方へとさり気なく近づいていく。
全員分暴露し終わったところで、感情の流れが少し変質していることを確認する。私たちに向いていた感情のいくつかが、私たちを素通りして交差を生んでいる。
そして、気の短い連中の攻撃がそれぞれ因縁のある相手へと向かうように動く。これで行動不能になるのが出てくるとは期待していない。
一人くらいは避けることが出来ないのがいると思っていたけれど、全員何事もなく避けることが出来たようだ。それでも構わない。
避けた連中は、安堵と共に怒りの炎が燻ぶらせている。私たちではなく、気の短い連中の方へと。
野次が飛ぶ。意識の向きが変わる。私は意識がこちらに向かない程度にそれを煽る。
火が熾る。傍観していた連中の内の一人が、私に襲いかかっていた連中の一人へと殴りかかった。殴りかかられた方は、拳を避けることが出来ずに、身体を大きくよろめかせる。
周りが殴りかかったのを諫めようとする。でも、私がくべた燃料に火が入っているそいつは、苛立ち混じりにその内の一人を殴る。殴られた方も殴り返し、止めようとした周りも巻き込まれていく。
そこから場が混沌とするのは早かった。あちこちで殴り合い、とっつかみあいが始まる。私たちに意識を向けているのもいくらか居たけれど、風向きを変えて、火を一つに纏め上げる。
ついには、私たちへと意識を向けるのはいなくなる。私は傷ついたこいしを担ぎ上げて、狂瀾の只中から逃げ出す。
いつもの私なら、背後の状況を見て満足感の一つでも得ていそうなものなのに、今は何も感じることが出来ない。こいしを守らなければという感情ばかりが、私を突き動かし続けていた。
◇
意識が現実へと戻ってきて、最初に聞こえてきたのは静かな寝息だった。こうしていると、何事もない平和な日常の中にいるような錯覚を抱いてしまう。
腕の中にこいしの温もりを感じながら、否応なしに記憶の続きを思い出してしまう。
あの後、私たちは無事に逃げることが出来た。あれ以来、私は人を襲いたいという気分を非常に抱きづらくなってしまったけれど、些細なことだ。問題は、こいしの方だった。
こいしが負わされた身体的な傷はすぐに治癒した。でも、激情や暴力を伴った否定や拒絶によって、元々少しずつすり減っていたこいしの精神は完全に折れてしまっていた。
何もかもを怖がって、何もかもを遠ざけようとしていた。それにも関わらず、一人でいることを嫌がってもいた。そうした二律背反の間で揺れに揺れ動いていたこいしは、最終的に心を閉ざして、何もかもから逃げ出してしまった。そのまま心を壊してしまうよりは、ましだったのだろうけれど。
と、巫女が部屋に入ってくる。私たちへと、微笑ましさと寂しさとが同居した感情を向けている。視線を巫女の方に向けてみようとするけれど、こいしを抱きしめたままでは出来なかった。
私が起きたことに気付いた巫女は、思考だけでおはようございますと伝えてくる。やけに順応性が高い。こいしを起こしてしまわないようにという気遣いを無駄にしてしまってはいけないから、私は頭を動かすだけに留める。
そして、こいしから少し身体を離してほしいという思考が飛んでくる。こいしの動きを封じている札を剥がすつもりだ。今は私がこいしを覆い被さるようにして抱きしめたままだから、剥がすことが出来ない。
まだこいしを説得することが出来ていないから、剥がしてしまっていいものだろうかと思ってしまう。だからといって、動けないままにしているのも可哀相だ。それに、動くことが出来ないからこそ頑なになっているという可能性もある。逃げられてしまうというのなら、私が頑張ればいいだけの話だ。
だから、巫女の指示に素直に従って、腕で身体を支えてこいしを見下ろすような格好となる。記憶の余韻を引きずって、少しでも離れてしまうことに不安になるけれど、ここに敵はいないから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
巫女は手早く札を剥がしていく。途中で、背中の方も剥がしたいからとどかされてしまう。札の枚数からも、巫女が相当こいしを危険視していることがよく分かる。それでいて、今は警戒心を全く抱いていないというのだから、本当に底が知れない。
こいしを起こしてしまわないようにそっと身体を動かしたりしながら札を剥がし切った巫女は、札が残っていれば遠慮なく言って欲しいという思考を残して離れていく。まだ何も解決していないと言うことに気が付いている。
こいしの方へと視線を向ける。肌寒いのか、いつの間にか身体を丸めていた。そういえば、さっきまではお互いの熱を共有していたのか。
勝手に毛布を取ってくるわけにはいかないというのもあるけれど、それ以上に私がそうしたいという理由から、こいしを抱きしめる。今度はこいしの隣に横になって。
最初こいしは、熱を内側に閉じこめようとするように堅くなっていたけれど、次第に力が抜けてくる。そして、私から更に熱を得るためか、足を絡めてくる。こっちが怪我をしている事なんてお構いなしだから、声を上げたくなるくらいの痛みに襲われる。でも、こいしの安眠の方が肝要だから、全力で噛み殺す。涙は幸せの証なのだと思っておく。そうじゃないと耐えられない。
そんなふうにして、しばらくの間、過激に主張する幸せという名の何かを感じ続けているのだった。
「お姉ちゃん、バカじゃないの?」
私としばし見つめ合って、状況を理解したらしいこいしがまず発したのはそんな言葉だった。記憶喪失だったときと違って、棘は一つもなくて、代わりに呆れが多大に組み込まれているようだった。こいしが記憶喪失だったときを除けば、こんなことを言われるのは初めてかもしれない。
「幸せに身を浸そうとするのは、当然の事よ」
自分向けの誤魔化しをこいしにも伝えてみることにしてみた。
「頭がおかしいとしか思えない。痛みの感じすぎでどっか壊れてるんじゃない? 私が直してあげるから、記憶を好きなようにいじらせて」
散々な言われようだった。まあ、そこまで言いたくなる気持ちも分からないではない。それにも関わらず口にしてしまったのは、痛みから逃避するために、どこかのたがが外れてしまっていたのだろう。
それにしても、寝起きだろうと私の中からこいしの記憶を消す提案をしてくるくらいに、本気のようだ。
「いいわよ。ただし、私との賭けに勝つことが出来たらね」
私がこういったことを持ち出すときは、大体こちらの勝ちが確定しているような状態だけれど、今回は私にとっても賭けとなるだろう。うまくいくかどうかは五分五分といったところだ。自分自身の心が読み解けるのなら、結果が予測できるのだけれど、残念ながらサトリは自分の心は読むことが出来ない。だから、なんとかなると信じるしかない。
「貴女は私に隠れて死体に接していたようだけれど、これからは地霊殿に持って帰ってくるの。そうすれば、私が貴女を避けないのが本当のことだと分かるわ」
更には、禁忌を共有して共犯意識を作ることで、こいしの精神的な負担が減るのではないだろうかと思っている。下手をすれば依存されてしまいそうだけれど、その時は落ち着いてからどうにかすればいいだろう。
「死体を賭事に使うなんて冒涜的だねぇ」
言われてみれば確かにそうだ。でも、私にとっては言われなければ気づかない程度に些細なことでもあると言える。わざわざ見たいとまでは思わないけれど、今更一つ二つ増えたところで大した差がないからだろう。こいしが好きだと言うのなら、案外すんなりと受け入れられてしまうかもしれない。落ち着いてきたせいか、逸脱した行動に対する拒否感がだいぶ弱まってきている。普通は、逆であるべきなのかもしれない。
「言葉遊びみたいなものだから、表現は何だっていいわよ。私は貴女が実際に行動しているところを見て、それを受け入れる。ただそれだけのこと」
「ふぅ、ん。……まあいいや。要するに、お姉ちゃんにいやな顔をさせれば、私は晴れて自由の身になれるってことだね。後になって、約束を反故するのはなしだから」
「ええ、約束は守るわ」
自分自身に発破をかけるように、根拠もなく自信満々に頷くのだった。
◆
こいしと約束をした数日後、非常に珍しいことに地霊殿に映姫様以外の客が訪れていた。こちらが声を掛けても反応はせず、他人の部屋の前に座り込むという無礼さを伴って。まあ、死んでいるのだから当然なのだけれど。
それは、短い黒髪の少女だった。眠っているところを襲われたのか、身体を纏っているのは一枚の襦袢だけだ。着ているものの材質的に、それなりにいいところの生まれなのではないのだろうかと思う。
綺麗に殺されたのか、表情は苦悶に固まってはいない。ともすれば、眠っているだけのようにも見える。まあ、眠っていたとしても意識は見えてくるから、間違えて声をかけるようなことはなかった。声をかけたのは、ちょっとした戯れのようなものだ。
仲良くするのなら、同姓の精神年齢が同じくらいの子がいいのだろうか。これが異性だったりしたら、ここまで冷静に受け止められていなかったかもしれない。今すぐこいしを探しに行って、どういうことなのかと問い詰めに行っていたことだろう。私があれこれ口を挟むべきことではないと分かっていても。
さて、こいしが言っていたことが伊達や酔狂でないことは分かった。私も騒がず慌てず現状を受け入れている。だから、どうするべきなのだろうか。
どこかでこいしが見ていないだろうかと思って、辺りを見回してみるけれど、死体の臭いに釣られたペットが何匹かいるだけだ。私の鼻では、まだ腐臭は感じられない。
それにしても、こいしが持ってきたと言うべきか連れてきたと言うべきか、何にせよこいしが関与しているというだけで、ここまで受け入れることが出来るとは思っていなかった。親しみとまではいかないものの、それに近い感情は抱いている。
ただ残念なのは、彼女が生きていたのなら客人として迎え入れたかったということ。こいしの経験を踏まえれば、難しいのだろうけれど。こいしはいつだって、裏切られて傷ついてきた。時の流れは、残酷なのだ。
時の流れといえば、このまま放っておいてしまえば、この死体は腐り果ててしまう。何か良い手だてはないだろうか。
とりあえず、映姫様に相談してみようと回れ右をして自室へと戻ることにした。
『死体の保存方法、ですか?』
「はい。いつもそちらから死体が送られてくるので、何か知っていることはありませんか?」
『……どうしてまた、そのような事を聞くのですか?』
誤魔化しても仕方ないから、正直に話してしまうことにする。こいしが友達を作る代わりに死体を作っていること、こいしとの間で賭けをしたということなどなど。
『……いつか貴女の妹には、説教をする必要がありそうですね』
「あの子も自分自身の行動には嫌気が差しているようなんです。なので、勘弁してあげてください」
『自身の行動を省みるだけでは不十分です。まあ、境遇を考えれば情状酌量の余地はありますが、だからといって逃げ続けているだけでは仕方がない。そもそも、どうするべきか分からないから、今も迷走し続けているのでしょう。説教はただ相手を責めることが目的ではないのです。進むべき方向が分からなくなっている者に道を示すためのものです。そうして、正しく徳を積むことが出来る余裕を持たせるのです。徳を積めば、罪が帳消しになるわけではないですが、積んだ徳の分だけは考慮の余地が生まれます』
「……妖怪にとっての徳とはなんなのですか」
『自らの役割を果たすこと。ですが、世には人助けをすることで徳を積んでいる妖怪もいますよ。要は、他者から認められればいいのですよ。あれは正しく何々という妖怪だ、あれは素晴らしい妖怪だ、とね』
「……曖昧ですね」
『それは、貴女も道に迷っている証拠ですね。そう、貴女は妖怪としての振る舞いを忘れて――』
「あー、言われなくても分かってます。それで、死体を保存する方法ですが、映姫様は何か知りませんか?」
わざわざ耳を痛くする必要もないので、途中で遮る。本題ではないから、簡単に話をそらすことができるだろう。
『ふむ、今話すことでもありませんね。またいつか、腰を据えて話すとしましょう』
単に先延ばしにしただけだった。ここにいないはずの映姫様の笑顔が見えた気がする。
『それで、死体の保存方法に関してですが、簡単な方法なら、冷暗所に保管しておく、清潔に保つなどありますが、何日か延びる程度ですね。しっかりとやるなら、それに加えて血管に血の代わりに薬品を通して、臓器を取り出して、となりますが、やりたいですか?』
「それがこいしのためになるのなら」
『なると思いますか?』
「……ならない、ですよね」
考えてみれば確かに、こいしの為になるはずがないのだ。こいしは自身の行動を忌避している。目の前に分かりやすい解答があったせいで、気が付かない内にそこに逃げ込んでしまっていた。視野狭窄でこいししか見えていないのはともかく、こいしのことに関しても近くしか見えていないのは反省しなくてはいけない。
『完全に盲目となってしまっているというわけではないようですね。そう。貴女がすべきことは、妹の行動を支援することでも、受け入れることでもない。かといって、拒絶してしまってもいけない。妹の行いを直視して、叱って、償いをさせなければいけない』
「叱る、ですか」
目を閉ざすまでは、何一つとして問題行動を起こすことがなかったから、思い浮かぶことのなかった発想だ。
『そうです。貴女は妹のことを肯定しすぎている。姉は妹が間違ったことをしていれば正すものです。そして、逆も然り。無条件に相手を肯定するのは、依存している者だけです』
言外に私がこいしに依存していると言っている。こいしが死ぬなら、それを追いかけるなんて言ったのだから、そう思われてしまうのも当然なのだろう。それに、私自身もそうなのだろうと思っている。
「なんだか、姉だか妹だかでもいたような物言いですね」
『同じ人の手で作られたという意味では姉も妹も、ついでに兄も弟もいますが、貴女たちのように姉妹兄弟の絆があるような存在はいませんよ。仕事柄、他人の記憶を見ることが多いので、そこで追体験をしているだけです』
その割には、映姫様の言葉からは重みを感じるのは、そう聞こえるように意識しているからなのだろうか。変にその辺りに触れて面倒くさいことになってしまっては嫌なので、確認はしない。
『とにかく、貴女は少し行動を改めるべきですね。想いだけは十全にあると思いますので、それさえ出来れば後は上手くいくはずです。では、そろそろ裁判があるので切りますね』
「あ、そうですか。仕事の直前に話を聞いてくださり、ありがとうございます」
『私が好きでやっていることなのでお気になさらず。では、頑張ってください』
「はい」
向こうに見えないと分かっていながらも礼をして、札へと送っていた妖力を絶つ。
そして、一度ため息をつく。あの人と話をしていると、やけに緊張してしまう。
でも、同時にあの人の助言を有り難く思っている。今回だって、映姫様の言葉がなければ、間違った方向へと進み続けていたことだろう。
とはいえ、次なる行動が定まったわけではない。こうしようと思っていたことを否定されて、立ち尽くしている。
映姫様に言われたとおり、こいしを叱るべきなのだというのは分かっている。でも、こいしに向かって受け入れると豪語した手前、そんなことをしてしまっていいのかとも思う。映姫様にこの迷いを打ち明けたら、私の方が叱られてしまいそうだ。
それに、私に誰かを叱るほどの器量があるのだろうかとも思う。こいしを叱ることが出来るのは、私だけだというのも分かっているけれど。
何もせず、幸せを享受するだけの日常が欲しい。でも、それを手に入れるためには、今頑張るしかない。
そう思えば、多少自分らしくない事をする気になってきた。こいしの為だと思えば、迷いもなくなる。
さて、そうとなれば、部屋でうじうじしていないで、こいしを探しに行こう。ようやく傷の塞がった足を使って歩き出した。
「ねえ、こいしを見なかった?」
その場にしゃがみ込んで、黒猫へとそう聞く。なんとなく、そちらの方へと手を伸ばしながら。
誰それ、と疑問を投げかけられて、それからお腹空いたと文句を向けてくる。適当に誤魔化そうとしたら、引っかかれかけた。当然、手を引っ込めて避けた。
そして、私からは何も貰えないと悟ったらしく、歩き去っていく。淡泊としている。お燐なら、全力で怒りをぶつけてきていたところだろう。どうしてあの二匹とだけは、距離が近いのかという理由を垣間見たような気がした。
こいしは屋敷内にいると思って探しているのだけれど、一向に見つからない。こうしてペットたちにも聞いて回っているけれど、有力な情報は得られない。そもそも、こいしを知らない子たちばかりだった。こいしに記憶を消されたのか、それとももともと覚える気がないのかは分からないけれど。
こいしはどこにいるのだろうか。私との約束を守ってくれているのなら、どこかで見ているのだと思う。そうでなければ――。
……あの子が私との約束を守ってくれているという保証がどこにあるのだろうか。守るつもりがあるのだとしても、自らの禁忌を曝け出したことに後悔してしまって、自棄になってしまっているということも考えられる。
「こいし」
中空へと呼びかける。自分でも分かるくらいに、そこには不安が込められていた。さながら、母親を捜す幼子、もしくは我が子を探す母親のようだ。自分でも、どちら寄りなのかよく分からない。
しばらく待ってみるけれど、音さえも返ってこない。静かにペットたちの思念がわずかに届いてくるばかりだ。
「こいし、いるのなら出てきてちょうだい。そうじゃないと、私は貴女が死んでしまったのかもしれないと思って、追いかけに行っちゃうわよ」
こいしに奪われた死のうという意志は、そのままだ。だから、単なるはったりでしかない。
どこからも反応がないことを確かめて、灼熱地獄跡を目指す。私の言葉が信じられないと言うのなら、信じられるように演技をするまでだ。騙すための演技には慣れている。
こいしが付いてこれるような速度を意識しながら、足を動かす。その間、演技の内容も考えておく。本当に傍にいるのかどうかは二の次だ。
灼熱地獄跡に辿り着く。出迎えてくれるのは、地の底から沸き上がる熱と怨霊たちのどろどろした思念だ。
私は躊躇なく、灼熱地獄跡の縁を背にして立つ。死ぬつもりはないけれど、かといって自らの生を守ろうという意志もない。だからこそ、こうして平然と無謀な真似をしていられるのだろう。
「さあ、こいし。出てきてくれないと死んじゃうわよ」
そう言いながら、じりじりと後ろへと下がる。度胸試しをするかのように、本当にぎりぎりの位置まで下がるつもりだ。そのせいで、足を滑らせてしまうかもしれないけれど、そのときは咄嗟に浮かび上がればいい。こいしが出てこないのなら、そのまま落ちていってしまいたいところだけれど。
踵が地面から離れる。もう少し下がると、身体が傾き始める。中庭へと続く窓が見えた。まだ大丈夫だと自分に言い聞かせて、赤く照らされた天井を見つめる。
と、何かが胸に飛び込んできた。その衝撃で、私の足は完全に地面を離れてしまう。でも、自由落下は始まらない。視線を下に向けてみると、翡翠色混じりの銀髪が目に入ってきた。鍔広の帽子が、火口の縁にはらりと落ちる。
「やっぱり、すぐ近くにいたのね」
こいしが出てきてくれたというそれだけのことが嬉しくて、声は喜色に満ちていた。思わず、近くにあるその頭を撫でてしまう。
「……重い」
「あ、ごめんなさい」
そう言われて、こいしの腕が小さく震えていることに気が付く。私は慌てて、自力で自分の身体を支えた。
「何してるの。死体のせいで、おかしくなっちゃった?」
こいしは私を抱きしめたまま辛辣にそう言ってくる。そういったふうに見られるように演技をしたのだから、私の振る舞いは正解だったと言えるだろう。
「それくらいでおかしくなるなら、とっくに口の利けない状態になっているわ。こいしが全然出てきてくれないから、こうしたら出てきてくれるかなと思ったのよ。出てきてくれて、本当に良かったわ」
またどこかに行かれてしまう前に抱きしめ返す。私を助けるために、飛び出してくれたその想いに、愛おしさを感じながら。
「私はこの通り、こいしが死体を持ってきたからといって、避けてしまうつもりはないわ。だから、遠慮なく私の前に出てきてちょうだい。そうしてくれないと、私は寂しいわ」
こいしからは、これといった反応はない。大人しく私に抱きしめられているだけだ。
さて、そろそろ本題に入らなくてはいけない。私にほんの少しでもこいしの行動を否定するようなことが出来るだろうか。
「……こいし、少し言わせて欲しいことがあるの。仲良くなりたいと思った人を殺してしまうのは良くないことよ。殺された方もそうだし、貴女にだって不幸なことだと思うわ」
叱ると言うよりは、諭すような口調となってしまう。でもまあ、全面的に受け入れてしまうだけなのよりはいいのだろう。おそらく。
「だから、こんなことは今すぐ止めなさい。誰かと普通に関わるのが怖いのかもしれないけれど、こいし自身が、自分の行為に嫌悪しているというのなら、そうしないといけないわ。でも、私の思い違いで、本当にこいしが自ら望んでそうしているのだというのなら、止めるつもりはないわ。死体の保存も手伝ってあげる」
気が付けばこいしの為の逃げ道を作ってしまっていた。私は根本的にこいしに甘いのだろう。映姫様に知られてしまったら、呆れられて説教のネタにされてしまいそうだ。話す必要が出てくるまでは、話さないようにしよう。
「いくらでも?」
「さすがに、一日に何十とかいう単位で持ってこられると困るわ。最悪でも、一週間に一人くらいにしてちょうだい。でも、こいしは仲良くなりたい人を殺したいの?」
「うん。そうすれば、裏切られない。素敵でしょ? 絶望するかもしれないって思わなくて済むんだから」
朗らかに告げる。でも声とは裏腹に、ひどく後ろ向きな発想から出てくる言葉だった。こいしは暗に、裏切られるかもしれないという可能性がないのなら、殺したりなんてしないと言っている。
「そうね。裏切られることはないでしょうね。……でもそれは、結局自分の中の人格と仲良くしているだけなのと代わりはないわ。そんなこと望んではいないのでしょう?」
自分自身を愛したいというのなら、死体という媒介は必要ない。死体を愛したいというのなら、裏切られないなんて後ろ向きな言葉を使ったりはしない。こいしの言動を少し批判的に見るようにして、端々から読み取れるのは、他人と仲良くしたいという願望だった。昔から、何も変わっていない。
「なんか上から目線で偉そう」
「ごめんなさい。私しかこいしを守ることが出来ないという傲慢さの現れかもしれないわ」
「お姉ちゃんって意外と支配欲強いの?」
私がこいしの弱い部分に触れようとすると、露骨に話題を逸らしてくる。思い返してみれば、昔からそういう傾向はあった。心が読めるせいで、今になるまで気に掛けるようなこともなかったのだけれど。
こいしが弱味を見せてくれず、私に甘えて一時的にでも世界から逃げ出すことが出来ないというのなら、今ここでもっとも効果的なのは、代替案を提示することなのだろう。
一つだけ、思い浮かんではいる。でも、姉としてそれを勧めてしまってもいいのだろうか。あまりにもそれは寂しすぎる逃げ方だった。でも、無闇に殺してしまって無価値にしてしまうような無意味な行為を続けているよりはいいのだろう。
「……ねえ、こいし。傷つけられることなく他人と関わる方法を思いついてしまったわ」
少し逡巡してから言葉にすると、こいしがぴくりと身体を動かして反応を示した。興味を示しているようだ。
「関わった人たちの記憶を消してしまうのよ。そうすれば、付き合いを重ねていくたびに、裏切られてしまうと怯える必要もなくなってしまうわ。でもそれは、とても寂しいことだと思うわ」
別れる度に忘れられてしまうというのは、何も積み重ねられることがないということだ。積み重ねたものが崩れていくのを目の当たりにすることはなくなるけれど、同時に積み重ねたものを共有することも出来なくなってしまう。
私自身でそう思いながらも口にしたのは、こいしに否定して欲しいからだ。否定の言葉を聞けば、仕方がないと諦めて、もっと別の方法を考えるのに集中できそうだと思ったのだ。
「それは名案! 私も向こうも忘れちゃえば、何度だって出会って遊べちゃうよね」
「え、ちょっと、こいし……?」
予想外の食い付きの良さに面食らってしまう。
「こいし、よく考えなさい。そんなことをしたら、全然仲良くできないのよ?」
「使い捨てにしちゃうよりは、ずっとまし。一つのものを使い回せるなんて、無駄がないと思わない?」
「確かにそうかもしれないけれど……、本当にいいの?」
「いいのいいの。どうせ私も忘れてるんだから、何も思いやしないって。じゃあ、早速実践してくるから放して」
軽い調子でそう言いながら、私の身体を押して、離れようとする。このまま放してしまっていいのだろうか。
「ねえ、こいし。……もう、死ぬ気はないのよね?」
「さてさてどうだと思う? まあ、今死にたくないって思ってても、この後すぐにそう思ってるかもしれないね」
どちらとも取れる曖昧な返答だった。
記憶を消して私の前に出てきたことから、死にたくないという思いは元々持っていたのだと思う。死にたいという思いと生きたいという思いがせめぎ合って、その逃避の果てが記憶喪失だったのだろう。でも、それだけ強く死にたいという思いを持っているとも言える。次はどちらに振れてしまうか分からないほどに。
まだ、放してしまいたくないという気持ちが勝っている私は、そのまま質問を続ける。
「あの死体はどうするの?」
「適当に片づけとくから、そのままにしといて」
「私も手伝うわ」
一人で十分なのだろうけれど、結論を先延ばしにするためにそう言った。このままずるずると延ばし続けてしまうのもいいかもしれない。そのうち鬱陶しがられてしまいそうだけれども。
「私に任せたら、そのまま放っとくと思ってる?」
「そんなことはないわ。二人の方が、運びやすいでしょう?」
「ふぅん。じゃあ、行くならさっさと行こう?」
私の言葉を信じていないようだった。でも、文句はないようで再び私の腕から逃れようとする。
私はこいしを解放すると同時に、手を握ってこいしと離れすぎてしまわないようにする。
歩き出したのはこいしからだった。
握った手に力が込められるようなことはないのだった。
「この子は、少しおっちょこちょいだけど、失敗にめげずにがんばってるような子だった」
死体を前にして、こいしが少女のことを語り始めた。
「こういう子は、周りを笑顔にしてあげられるんだろうなぁって思ってたし、実際にこの子の周りには笑顔が溢れてた」
声は淡々としている。でも、だからこそ、聞いているこちらは辛い。表に出てきていない感情をあれこれと想像してしまって。
「私も一緒にいたら、笑顔でいられるのかなぁって思った。でも、この目を見た途端に、拒絶されるんじゃないだろうかって思うと、とても前に出ることなんてできなかった。そうやって、相反する二つの気持ちをぶつからせてたら、気づけば首を絞めて殺しちゃってた。寝てるところを狙えば、結構簡単なものなんだよ」
私の手からするりと逃げ出して、少女の前へとかがみ込んで、頬を撫でる。
「それから、この子は私の中で笑ってくれるようになった。怖がられるようなことはなかった。だって、私はこの子が怖がってるところを知らないんだから。それで、幸せなの。でも、すぐにそれが壊れてしまうことも知ってる」
ほんの一瞬だけ寂しそうに笑う。
そして、よいしょと声を出しながら、少女を担ぎ上げた。
「今回は、それを目の当たりにしないだけましなのかも。地獄の熱に一瞬で焼かれて灰になっちゃえば、ぐずぐずと壊れていくことはないからね」
歩き出したかと思えば、少々足下がおぼつかず、ふらふらとしている。私はどうするのがいいのかよく分からないまま、後ろから少女を支えることにした。多少なりとも効果はあるのか、こいしは真っ直ぐ歩くようになった。
少女の死体は、ただの物であるかのように炎に呑み込まれていった。燃料として死体を投げ込むときと何ら変わりはなかった。
でも、ほんの少しだけ少女のことを知っているせいか、こいしがその少女のことを気に入っていたせいか、いつもなら何も思うことがないはずの光景に、いくつかの感情が伴う。
「さてと、別れも済んだし、遊びに行ってくるね」
「こいし!」
私に捕まるとでも思ったのか、こいしが私に声を掛けてきたのは、手が届かないほどの距離が空けてからだった。いつの間に離れてしまっていたのだろうか。
「……いつ、帰ってくるの?」
「さてさて。どうしようもない私が生きてても仕方ないから、どっかでくたっばっちゃいたいとこだけど、お姉ちゃんがまたバカな真似したら、それこそ無駄死にになっちゃうからねぇ」
こちらに背を向けたままそう言う。いつか見た夢と同じ構図だ。
今からでも駆け寄って、前に進めないよう縛り付けてしまおうかとも思った。でも、近づいたことを気取られた瞬間に逃げられてしまいそうな気がして、動くことが出来ない。
「まあ、気が向いたときにでも帰ってきて、お姉ちゃんが無事かどうか確かめに行くよ」
「毎日帰ってきてもいいのよ?」
「それは、お姉ちゃんの願望でしょ? 私はお姉ちゃんを汚したくはない。ほっといたら死にそうだから、仕方なく顔を出すだけで」
「……貴女の食事は用意しておくから、いつでも帰ってきてちょうだい」
「私なんかに依存してないで、ペットたちに必要とされてる自分を大切にすればいいのに。ま、言っても仕方ないことか。じゃあ、ばいばい、お姉ちゃん」
結局最後までこちらに顔を向けてくれることなく、ひらひらと手を振りながらこいしは去って行く。夢とは違って、飄々とした姿なのはどう捉えればいいのだろうか。
「行ってらっしゃい、こいし」
夢の中でのように叫ぶことはしなかったし、追いかけることもしなかった。代わりに、送り出す。帰ってくる場所はここなのだと教えてあげながら。
「……いってきます」
ぴたりと足を止めたかと思うと、そう応えてくれた。そして、少し足早に去っていってしまう。
きっと、大丈夫だろう。
根本的な問題を解決出来なかった私は、そう思うしかなかった。
◆◆
今日一日の報告をまとめ終えて息をつく。
つい最近、お空が神様の力を貰って増長して、地上を侵略する準備をするようなことがあった。それに加えて、お空が捨てられてしまうかもしれないと思ったお燐が、地上に吹き出す間欠泉に怨霊を紛れ込ませて、この地霊殿に人間を誘い込んでお空を止めさせようとすることもあった。その騒動もようやく落ち着いて、久々にほとんど書くこともなく終わった。ため息は、今までの苦労が過ぎ去ったことを実感してのものだった。
こいしは今回の出来事に興味を抱いているようだ。私だけではなく、人の姿を取れるようになっているペットたちからも色々と聞いて回っている。
そういう積極的な姿は非常に珍しい。あの子が消極的な関わり方を決めてから、何百年と経つけれど、それ以来初めてのことかもしれない。
時間がこいしに何かの結論を出させて、外からの刺激が後押しをしたのだろうか。久々に人間をちょっと驚かせて満足した以外は面倒くさいことばかりの騒動だと思っていたけれど、意外にも私が最も望んでいた物を与えてくれたのかもしれない。
地底の空気は閉鎖的でどこか淀んだ雰囲気があるけれど、地上のある程度力を持った人妖は誰もが暢気な気を持っているらしい。そんな環境の中でなら、こいしも受け入れて貰えるかもしれないし、気兼ねなく関わることが出来るかもしれない。少なくとも、騒動の元凶であるお燐とお空を止めに来たあの巫女はどうしようもないくらいに暢気な心を持っていた。恐らくいつか世話になった巫女の子孫なのだと思う。彼女も似たような心の持ち主だった。平穏の中にいれば、彼女もあのような性格になっていたのかもしれない。
閑話休題。なんにせよ、今の環境はこいしにとって決して悪くはないものだと思う。後は、忘れられないように忘れないように関わっていけばいい。
「お姉ちゃん。外でこの前話してた人間とはち合わせちゃった」
ノックも何もなく、自分の部屋に入るかのような無造作さでこいしが部屋へと入ってきた。こいしの服が所々破れてしまっているけれど、そんなことに構うことなく珍しく声を弾ませている。
「お帰りなさい、こいし。何があったのかしら?」
「うん、えっとね――」
上機嫌な声の裏で、こいしが過去の行いをどれくらい重荷としているのかは分からない。でも、今もまだ死ぬこともなく私の前に現れてくれるのだから、それでいいのだろう。
そして、ようやく心の底から楽しめそうなものを見つけることのできたこいしには、煩わしいものになんて引きずられず、幸せになって欲しいものだと、そう思うのだった。
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