独りぼっちのサトリがいた。
それは私であり、妹でもあった。
妹は私に背を向けており、私は妹の背中に向かって何かを言っていた。
けれども、何を言っても決して振り向いてくれることはなく、段々とその背中は遠ざかっていってしまう。
走る。
距離は縮まらない。
叫ぶ。
距離は大きくなるばかり。
手を伸ばす。届くはずがない
そして、気が付けば消えてなくなってしまっていた。
一人。独り。
私は真に孤独となってしまった。
◇
近くにあるものをかき抱きたくなるような寂しさとともに目が覚めた。胸中に渦巻く不安を誤魔化すように、私の身体を覆う掛け布団を抱きしめる。
そうしているうちに、感情は正常な位置へと収まっていく。腕から力が抜ける。
「あー……」
決して良いとはいえない寝起きを誤魔化すように、気の抜けた声を出す。誰かに見られていたら、笑われるか馬鹿にされてしまいそうだけれど、ここは私個人の部屋だ。
それにしても、あの夢は何だったのだろうか。何かの予兆だとすれば、信じたくない類のものだ。私自身の深層心理を表しているというのなら、心当たりがないわけでもない。
私の妹である古明地こいし。昔はお互いのことをよく知っていたし、一緒にいる時間も多かった。というよりも、私たち以外にもサトリがいたにも関わらず、私もこいしもそれ以外に一緒にいるようなのがいなかったと言ってもいい。
でも、あの子がサトリの象徴である第三の目を閉ざしてしまってからは、大きく隔たりが出来てしまった。私はあの子の全てを知っていたのに、今では何も分からなくなってしまっている。
心が読めなくて分からないのなら、知るために関わっていけばいいのだろう。でも、放浪癖を持つようになったあの子と関わる時間は、極端に少なくなってしまっている。
そうして、心の一部さえも掴むことが出来ず、いつしかこいしの印象は、ふわふわと宙に浮くような状態となってしまっている。そんな現状が、いつしかこいしを跡形もなく消してしまいそうで不安になるのだ。いつかの体験と相まって。
「にゃぁーぉぅ」
こいしのことを思考していた私の意識に、不機嫌そうな猫の鳴き声が割って入ってくる。お腹が空いた、早く朝食の準備をしろという意識が乗せられている。
寝起きから気持ちが後ろ向きになっていて、あまりやる気は出てこない。このまま二度寝して、現実から逃げ出したいくらいだ。
でも、猫は私を寝かせてくれそうにないし、夢の中で再びこいしに消えられてしまったら余計に立ち直れなくなりそうだ。夢だからといって、幸せを築くことが出来るとは限らない。
ずるずると布団の中から這い出て、クローゼットを目指す。人前に出るわけではないから寝間着のままでもいいのだろうけれど、このままだと夢の中での感情を引きずってしまいそうだから、着替えてしまいたかった。
私が着替えを選んでいる間も、猫の催促の声は響き続けていた。
◆
私たちが住むために、閻魔の一人である四季映姫様から与えられた屋敷には、いくらかの動物が住み着いている。元々灼熱地獄に住んでいたのが、そこの封鎖に伴い、ここに移り住んできたようだ。二人だけで住むには無駄に広いから、特に困ったことはない。
最初は勝手に住まわせているだけだった。でも、こいしが動物に興味を抱いているらしいことを知ってからは、ペットとして迎え入れている。とはいえ、食事を与えているだけで、それ以上のことはしていないから、大した労力は掛かっていない。灼熱地獄に住んでいた動物の管理と称して食材を多めに貰っているから、懐への損害もない。
先ほど私がこいしのことを考えているところに割って入ってきたのも、ここに住むペットの内の一匹だ。更に言えば、あの子が動物に興味を抱いていることを知ることができたのも、彼女のおかげだ。だから、感謝していると言えばしているのだ。少々所ではない図々しさを持ち合わせていることに、辟易している部分はあるけれども。
「お待たせ」
私への食事の催促をし続けていた二又尻尾の黒猫にそう言いながら、ペットたちの朝食を盛り付けた皿を床の上へと置いていく。置いた瞬間にペットたちが皿へと群がり、あぶれたのは次の皿へと向かう。そうして、全ての皿を置いた頃には、全員が食事に口を付けることが出来るようになる。その数は、最初の頃に比べると随分と増えている。
私はその中に混じっている黒猫へとなんとなしに意識を向ける。二本の黒い尻尾を揺らしながら、私の作った料理を口にしている。彼女の横には一匹の鴉がいて、二匹が一緒にいると黒猫の毛が少し赤みがかっていることが分かる。
黒猫は私の視線に気付いても大した反応をしようとはせず、こいしに付けられた首輪の鈴を揺らすだけだ。彼女は普段はあまり鳴こうとせず、鈴の音で私を使う。私は彼女をペットだと思っているけれど、彼女は彼女で私を下僕のような存在だと思っている。鈴の音だけですませるのも、彼女の横柄さの現れだ。生意気である。
それに対して、鴉の方は私の視線に気が付くと食べるのを一旦やめて、こちらに向いて短く一鳴きする。心の方は真っ直ぐすぎるくらいの感謝を示している。
正反対な二匹だけれど、一緒にいるのをよく見る。彼女たちは友人という概念を持っていないけれど、概ねそうした関係だ。少し羨ましく思う。以前はこのようなことを思うようなことはなかったのに。
と、鴉が私の方を見て首を傾げる。朝食を食べないのか、と。
同時に黒猫の方は、私の視線を鬱陶しがり始めている。
「食べるわよ。邪魔してごめんなさいね」
立ち上がって、二人分の朝食を用意したテーブルの席へとつく。本来サトリに食事は必要ないけれど、私たちは心を食らう代替行為として人間と同じものを食べている。でも、普通に作られた料理では不十分で、心を込めて作られた料理でなければいけない。それは、私たちに向けられたものでないといけないというわけではない。
私はこいしのために食事を作って、それを食べることで、この屋敷に引きこもりながらも生きながらえている。私一人きりでは、もうすでに死んでしまっていたかもしれない。自分自身のために料理をする姿というのを思い描けないから。
私は両手を合わせて、箸を手に取る。
向かい側の朝食は、私が望む相手に食べてもらえることなくペットたちの食事になってしまうのだろうか。それとも、知らぬ間に帰ってきて食べてもらえるのだろうか。
どちらにせよ、私は一人で食べるしかない。ペットたちがいるだけでは埋められることない寂しさと共に、少し騒がしい食事を進めていくのだった。
◆
朝食を終え、やることも済ませて仕事部屋へと入る。今日の記録を付けてしまえば、一日の仕事は終わってしまう。本当に簡単な仕事だ。一応、私だからこそ出来る仕事なのではあるけれど、やりがいは全くと言っていいほどない。こいしが目を閉ざして以来、色々な物への興味ややる気をなくしていっている私には丁度いいくらいだとは思うけれど。
私に仕事として与えられたのは、灼熱地獄跡の管理だ。具体的には、温度が上がりすぎないよう適度に熱を逃がして、下がりすぎないよう適度に燃料を投下する。そうしながら、怨霊たちを牽制し、暴れ出さないようにする。前者は誰にでもできるけれど、後者に関してはかなり限られてくる。基本的に、怨霊は妖怪の天敵なのだ。
それから、建物の中からではあるけれど、地底の様子を見ておく。こちらは完全に形だけとなっているので、手を抜いたところで何も言われることはない。だからといって、さぼってしまうと怒られてしまう。ここ二年ほどで、適切な手の抜き方は覚えた。
灼熱地獄跡は温度が若干低くなっていたので、燃料を投下することで対応。それ以外の異常はなし。
地底は、いつもどおり異常なし。
最後に自分の名前と日付とを書き込んで、今日の仕事は終了。本当、ここにいるということ以上の価値を感じない仕事だ。
こんこんこん。
筆を硯に寝かせて、墨が乾くまでぼんやりしていようかと思っていたら、扉を叩く音が聞こえてきた。
誰だろうか。扉の向こう側からは心の声は聞こえてこない。十中八九こいしだとは思うけれど、ノックをするなんて珍しい。手が塞がっていたりしているのだろうか。
「今開けるから、ちょっと待っててちょうだい」
小走りに扉を目指す。あの子の姿を見るのは何日ぶりだろうか。そう思うと、気持ちが急いて仕方がない。
「おかえりなさい、こいし」
扉を開けると、予想していた通りにこいしが立っていた。雰囲気に何か違和感があるけれど、その正体は掴めない。今は保留にしておく。
「朝食はもう食べたかしら?」
時間帯としては、もう昼食の時間だけれど、細かいことは気にしない。
もしもまだ食べていないのなら、温かいものでも用意してあげよう。そうすることで、こいしといられる時間を長くしたい。用事を済ませてしまうと、さっさとどこかへと行ってしまうのだ。
「えっと、あなたは私の知り合いですか?」
返ってきたのは肯定でも否定でもなく、想定していないどころか、そう聞かれることが異常だとも言えるような問いだった。他人行儀な口調が、私のことを突き放しているかのようだ。
「え……。……冗談、よね?」
そう思いたかった。でも、こいしの声からはそういった類のものを聞き取ることが出来なかった。それでも、現実を信じたくなくて、そう問い返してしまっていた。
「ごめんなさい、本当にわからないんです。どうも私、記憶を落っことしちゃってるみたいで」
丁寧な様子でこちらに頭を下げたかと思うと、何も困っていないかのような声音でそう付け加える。
あってもなくても困らないものをなくしてしまったかのような軽い態度だ。でも、その軽さに反して私に与えられた衝撃は、生半可なものではなかった。まともに立っていられるのが不思議なくらいだ。ああ、もしかしたら、動けなくなっているのかもしれない。
「でも、あなたは私の知り合いだったみたいですね。私の名前は、こいし、でいいですか?」
「……ええ、そうよ」
現実逃避しかけている意識を引き戻してぎこちなく頷く。質の悪い冗談でも言っているのだろうと思ったけれど、他人へと向ける友好的な笑顔の中に、からかいの色は見つけられない。
代わりに、今更ながらに違和感の正体に気が付く。それは、こいしが素直に感情を露わにしているということ。放浪癖を持つようになってからのこいしは、いつもどこかわざとらしい笑みを浮かべていた。ここまで輪郭のはっきりした表情を浮かべることは、なくなってしまっていた。
記憶に残るこいしの姿が、違和感に気が付く事を遅れさせた。昔のこいしは、はっきり素直に自分の感情を表情に表していたのだ。
「ふむ、そうですか。これで、冥土への土産に自分の名前を記すことくらいはできそうですね。ありがとうございます」
「え……?」
丁寧なお辞儀とともに放たれた何気ないような一言が、こいしが記憶喪失であることをようやく飲み込もうとしていた私の時間を止める。今度こそ、その場に座り込んでしまうかと思った。記憶喪失どころの話ではない。
「さてさて、思わぬ収穫がありましたが、私の目的はここに泊めてもらうことです。勝手に家に上がってこんなことを言うのもおこがましいですが、いいですか?」
こいしが死にたがっているなんて嘘に決まっている。
どうしてそんなことを言うのだろうか。
こいしの言葉を受け入れたくないと言う意志と、こいしの意図を暴きたいという意志とがぶつかりあって、明確な行動を決められない。ただ呆然と立ち尽くすだけだ。
「おーい、聞いてますかー? 怒られるのは仕方ないと思いますけど、無視は酷いですよ。せめて、首を振るくらいはしてください。泊めたくないと言われれば、すぐに出て行きますから」
「……行かないでちょうだい」
出て行くという言葉に、身体が勝手に反応していた。夢のことが頭をよぎって、このまま行かせてしまったら二度と会えないような気がした。いや、夢のことを抜きにしても、こいしの言葉が私を臆病にさせる。もうこれ以上の喪失は味わいたくない。
「ここは私たちの家なんだから、泊まるだなんて言わないでちょうだい。あなたは好きなときにここに帰ってきていいのよ」
「えーっと、それは新しい告白か何かですか? 私、そういう趣味はないんですが……」
こいしが一歩引く。私はそれに追い縋るように、一歩前へと出る。
「そんなわけないじゃない。私は、貴女の姉なのよ?」
「あっはっはっ。面白い冗談ですね。こんなに必死になって、私を引き止めてくれるお姉ちゃんがいたら、今の私はこんな気持ちは抱いていないと思いますよ」
自虐的に自らの境遇を吐き捨てながら、私が姉ではないと否定する。
「私は死にたいと思ってるんです。私が自分自身を認識して、最初に出てきたのがそれだったんです」
「……どうしてか、聞いてもいい?」
「さあ? さっきも言ったじゃないですか。私は記憶喪失ですよ、記憶喪失。覚えてるわけがないじゃないですか。でもまあ、どうせ碌な生は送ってなかったんだと思いますよ。そうじゃなければ、記憶もないのに死にたいなんて思いもしませんって」
発言内容の割に始終朗らかな様子で、噛み合っていない。だからか、現実感が伴わない。
ああ、これは夢の中の出来事なのかもしれない。現実の私は書きかけの書類の上に突っ伏しているに違いない。
……でも、心のどこかでこいしの発言を認めてしまっている自分がいる。
私はこいしが心を閉ざしてしまうまでの過程を知っているのだ。それこそ、死にたいと願う気持ちが理解できてしまうほどに。今もこうしてこの子が生きているのは、意志を行動にまで変える余裕がなかったという、それだけのことなのだ。
「私の身の上なんかに興味がないのは仕方ないと思いますけど、反応くらいはしてくれませんか。そういえば、さっきも無視しましたよね。本当は迷惑だと思ってますか? あんまり変に気遣われると疲れるから、やめてほしいんですけど」
こいしが後ろに下がろうとする。でも、私が手を握っているので離れることはできない。振り払われてしまわないよう、自然と腕に力がこもる。
「迷惑だなんて思ってないわ! ただ……、衝撃的なことをいくつも言われて、思考が追いついていないだけで」
「ふーん? 初対面の人の話にも同情できちゃうお人好しさんですか?」
こちらを嘲るような声色には、私の発言は全く信じられないという意志が込められていた。恵まれていないと思わされるような境遇の渦中にいるせいで、疑心暗鬼になっているのかもしれない。
「貴女が、私の妹だからこそよ」
縋るようにそう言う。今の私の存在意義なんてそれくらいしかない。気がつけば、他の全ては塵芥に等しいものとなってしまっていた。
私の発言を聞いてどう思ったのか、こいしが面倒くさそうな表情を浮かべる。
「どうも私はここに来るべきではなかったようですね。今すぐここから退散させてもらうので、手を離してもらえませんか?」
「……嫌よ」
こいしに姉だと認めてもらえないのは辛い。だからといって、塞ぎ込んでこいしの言うとおりにするわけにもいかない。こいしの姉であるという肩書き以上に、こいしを失いたくない。
だから、俯きながらでも現状を打破するために足を進める。どこへ進むべきか分からないまま進んで行く。今は立ち止まって考えている余裕はなさそうだ。
「……こうなったら、貴女をここに定住させるためになんだってするわ。さあ、して欲しいことがあったら言ってちょうだい。貴女をここから解放すること以外で」
気持ちを切り替えて、開き直ってしまう。もうこの際、私の存在意義なんてどうでもいいことにしよう。代わりに、こいしを生きながらえさせるためだけに、私はいるのだと思ってしまおう。そうすれば、こいしから姉だと思われていなくても平気だ。
動揺に震える心を持ち直して、こいしを真っ正面から見据える。こいしのためだけの守人であろうという意志を伴って。
「あのー、目が怖いです」
怯えたように身を引かれてしまう。でも、私は気にしないし、逃がすつもりもない。今の私に、失いたくないものはただ一つしかない。そのためなら、こいしからの評価がいくら悪くなったとしても構わない。
「特にないなら、とりあえず昼食にしましょう」
「今度は会話をしてくれなくなりました。……って、自分で歩けるから、そんなに引っ張らないでください!」
後ろで喚いている声は聞こえない振りをして、こいしを引きずるようにして廊下を進んでいく。
落ちていっているのを引っ張り上げているようだと、そんなことを考えながら。
ペットたちは手を付けなかったようで、朝のまま朝食が残っていた。こいしは、それを胡乱なものとして見ている。
「なんですでに用意されてるんですか」
「あなたが朝食のときにいなかったから、その残りよ。何か温かいものでも作ろうと思ってるけど、これが食べたいというものはある?」
いつこいしが食べるか分からないからと、できるだけ冷えても問題のないものを選んでいるから、このまま昼食にしてもいいだろう。でも、折角なら何か作ってあげたい。一緒にいる時間を延ばすためという理由は、このままこいしをどこかに行かせたら、帰ってこなくなるかもしれないという可能性が出てきた時点で消え去っていた。
「家族の振りをするのはやめてください。気持ち悪いです」
「そ、そこまで言わなくてもいいじゃない……」
こいしが私のことを家族だと認識してくれないことくらいは耐えようと思った矢先に、変質者扱いされてしまっている。予想していなかった扱いだったから、受け流すことはできなかった。まともに受けて、立ち直れなくならなかったことは評価してもらいたい。
「そこまで言いたくもなります。まったく、なんとなく安全そうだと思って入ってみたのに、とんだ魔窟じゃないですか。とりあえず、暖かいものよりは、食後のお茶と甘い物が欲しいです」
文句を言い続けてくるかと思っていたら、要求を投げかけてきた。私のしつこさに負けて、逃げるのは諦めて我が侭に振る舞うことにしたのだろうか。取り敢えず、徹底的に拒絶されているというわけではなさそうだから、その部分に関しては安心しておく。
「分かったわ。用意してくるから、貴女は食べててちょうだい」
逃げられるかもしれないと思いながらも、ここまで握り続けていた手を離す。こう言った手前、掴んだままというわけにもいかない。幸い、食事の方に興味を持っているみたいだから、恐らく大丈夫だろう。
「……あなたの分はないんですか?」
「私はいいわ。そんなにお腹は空いてないから」
「む……」
こいしが何らかの感情を込めた声を漏らす。私のことを気遣っているらしいけれど、これまでの言動とは噛み合わない気がする。まあ、元々礼儀正しい子だったから、そうした面が現れているのだろうと思っておくことにして、台所へと向かう。
背後からは、椅子を引く音、挨拶の声。それから、食器同士がぶつかり合う音が聞こえてくるのだった。
「……ごちそうさまでした」
こいしはなにやら複雑な表情を浮かべながらそう言う。そこに潜むものの正体は全く掴めなくて、私は内心で首を傾げることしかできない。
「お粗末様でした。お茶のおかわりはいる?」
「いります」
こいしが空っぽの湯飲みを差し出す。
「じゃあ、ちょっと待っててちょうだい」
湯飲みを受け取って立ち上がり、空いている手で持てるだけの食器を持って台所へと向かう。
食器を洗い桶の中へと入れて、急須にお湯を注ぐ。茶葉を蒸らしている間に、お盆とこいしが所望していた甘い物の用意をする。羊羹があったので、それにした。
映姫様の厚意で食料をはじめとして生活に必要なものがここに届けられるようになっている。その中には、このような嗜好品も混じっていたりもする。それも、甘い物であることが多い。あの人の趣味なんだろうかと思って、様子を伺いに来たときには出すようにしている。やたらと視線を向けているし、いつも生真面目な表情がほんの少し緩んだりしているから、好きなのだろう。あの人自身の力なのか、それとも道具の力によるものなのかは分からないけれど、視界までしか見ることができないから、想像することしか出来ない。
そうやって上司の嗜好について考えながら、切った羊羹を皿の上に並べ終えると、残りの食器も取ってくる。その際、こいしがこちらの動きを観察しているようだったけれど、何を見ていたのだろうか。一人で首を傾げながら、台所に戻ると二個の湯飲みへとお茶を注ぐ。
「お待たせ」
お盆を持って食堂へと戻り、湯呑みをそれぞれの前へと置く。いつもはお茶を淹れ直している間に姿を消してしまうから、こちらを待っている姿というのは珍しかった。
「立派なお屋敷に住んでるだけあって、そんなものが出せるんですね」
「それだけ、私の存在が重要視されているということなんだと思うわよ」
放置していると、灼熱地獄跡はこの辺り一体を吹き飛ばすらしいし、怨霊たちは地底だけでなく地上にも害を及ぼす。やっていること自体は単純だけれど、決して疎かにされるべきことではない。
だからといって、驕りや責任感があるわけでもない。ただ、こいしと平穏に暮らすための環境さえあればそれでいいと思っていた。
でも結局、こんなことになってしまっている。
「ふーん」
こいしは興味がなさそうに呟きながら、菓子楊枝を手に取る。そして、視線さえも私からそらして、一切れの羊羹を口に運ぶ。
口を閉じた際、ほんのりとだけれど頬が緩んでいた。ここまで敵愾心の混じった表情ばかりを見せられていたから、少しほっとする。決して心を許すつもりがないというわけではなさそうだ。単に取るに足らない存在だと思われているだけなのかもしれないけれど。
こいしは二切れ目を口にする。ほんのりとした笑みは今も続いている。私は対面の席でそれを眺めているだけだ。この光景が日常の中に存在していれば、幸せそのものとなっていたのだろう。でも、今はそう思うには問題がありすぎる。
「……食事中もそうでしたが、何でずっとこっち見てるんですか」
「大した意味があるわけではないけれど、駄目かしら?」
「駄目です、赦しません、断罪されるべきです」
「……そんなに言わなくてもいいじゃない」
「いいえ。まだまだ足りないくらいです」
久々に饒舌な様子を見せるこいしには、容赦というものがなかった。以前も口は達者な方だったけれど、その内容はもっと素直で言葉そのものが輝いているかのような印象があった。あんな状況の只中で、心は沈みかけていたにも関わらず、根拠の無い希望と私という存在を明かりにして。
でも、結局はささやかな希望さえも失って、私だけでは照らし切れなくなってしまった。その結果は、こいしが心を閉ざしてしまうというものだ。いや、もしかするとまだまだ転がり落ちていっている最中なのかもしれない。
まだ何かを言ってくるのだろうかと身構えていたけれど、三切れ目の羊羹を口に運んでいくだけだった。一人で全部食べてしまいそうな様子だけれど、それは別に構わない。
こいしはこれ以上自ら話をするつもりはないようだ。
それなら、こちらから聞きたいことが一つある。
「一つ聞きたいことがあるのだけれど、いい?」
「答えたくないことを聞いたとき、無視されてもいいというならどうぞ」
「貴女は死にたいと言っていたけれど、今も生きているのはどうして?」
少し落ち着いて考えているときに思い浮かんだ疑問だった。こいしの様子は、死のうとしているというよりは、なんだか旅行をしているような雰囲気なのだ。今すぐ死のうというのが全く感じられない。
「端的に答えれば、この感情以外に死にたいと思う理由がないからです。だから、思い切りをつけるために、ここなら死んでもいいと思えるような場所を探して、あちこちうろうろとしてるんです。ここも、気になって近づいてきた場所の一つですよ」
ここが気になったのは、どこかに眠っているこいしの記憶が何かを訴えかけたのか、それとも単純にここの存在感に惹かれただけなのか。どちらなのか、判断することはできない。ここは、目立ちすぎている。
「ただまあ、こんなのがいるとは想定外でした。愛情に飢えてたのかなんだか知らないですが、付き合う相手はちゃんと選んで欲しかったところです」
こんなの扱いされてしまっている。
ただ、いかにも怒っていますという様子を醸し出しながらも、羊羹へと伸ばす手を止めようとはしていない。だから、本気で怒っているように見えない。
「そう言う割には、昼食とかはちゃんと食べてくれるのね」
「当然です。出されたものは貰いますし、腹が減っては旅はできぬとも言います」
図々しかった。
でもまあ、遠慮されてしまうよりはいいのだろう。そのおかげで、取り敢えずこいしをここに留めることができているのだ。
「ここに腰を下ろすつもりはないかしら?」
「しつこいですね。私が探してるのは、安息の地ではなく、終息の地です。目の前しか見えない明かりで希望だけ見えていたとしても、周りが全て真っ黒な絶望に塗りつぶされていることを思い出してしまえば、壊れてしまうんでしょうから」
それは、心を閉ざす直前のこいしを思い出させるような言葉だった。あの子の世界にあった希望は極々小さなもので、辺りは一面絶望に覆われていた。
それを分かっているからといって、こいしの言葉に頷くことは出来ない。でも、真正面からは否定できないから、若干話の方向を変える。
「どこまで行っても見つからない、ということもあるかもしれないわよ」
「そのときはそのときです。彷徨い続けた果てに、生を閉ざしてしまうのもそれはそれで乙なものだと思います」
「餓死は苦しい死に方だと聞くわ」
「なら、自害用に何か刃物をください。歩けないと悟ったら、首を掻っ切るので」
「私が死ぬまで一緒にいてくれたら、勝手に持って行ってくれていいわよ」
「非力でも窒息は簡単に起こせるそうなので、気を付けてくださいね」
何かここに留まらせるためのきっかけでも作れないかと思って、こいしの言葉に片っ端から反論してみていたけれど、平然とした様子でそんなことを言われてしまって言葉を失う。いくらこいしが望んだことでも、無駄死にをするつもりはない。
「冗談ですよ。私に他人を殺すほどの価値なんてないでしょうから。まあ、適当な場所から盗むなりします」
「そんなことはないわよ」
少なくとも、私に生きる理由を与えるくらいの価値はある。それが、こいしにとって喜ばしいことなのかは分からないけれど、価値があるという事に誤りはない。
「それは、貴女を殺せということでしょうか」
「そういうことじゃないわ。でも、本当にそうすることが貴女の幸せに繋がるのなら、喜んでこの命を差し出すわよ」
「……軽々しくそんなことを言うべきじゃないと思いますよ」
「だって、伝えられるときに伝えておかないと、誰にも届かなくなりそうじゃない……」
こいしの言うとおり、簡単に言葉にしていいものではないだろう。そもそも、言葉にしないで胸に秘めたまま、行動だけでそれを表すだけというのが最良なのだと思う。
でも、今のこの状況では、私が命を捧げる対象が失われてしまう可能性が非常に高い。時間を掛けて相手に伝える時間もなければ、伝えたい相手には、今まで積み上げてきた記憶もない。だから、言葉にすることで、覚悟の片鱗だけでも伝えたかった。そして、ほんの少しくらいは足止めになって欲しいと願う。
「……」
こいしが黙り込んでしまう。どんな言葉に対しても辛辣に返してきていたから、そうした反応は意外だった。
と思っていたら、突然湯呑みを呷って残りを一気に飲み干す。熱くなかったのだろうか。
「こいし……?」
「おかわりを所望しますっ」
「え? ええ、わかったわ。ちょっと待っててちょうだい」
私はこいしの勢いに押されるようにして、湯呑みを手にして台所へと向かっていく。でも、少し気になることがあって、途中で振り返ろうとしてみる。
「早くっ!」
怒ったような声でそう言われて、慌てて台所を目指す。結局、確認することはできなかった。
少し顔が赤く見えたのは気のせいだったのだろうか?
◆
「ここが貴女の部屋よ」
おかわりのお茶を飲み終わって、眠くなってきたというこいしを部屋へと案内する。扉には青いハート形のネームプレートに『こいし』と書かれている。
「ついにあなたの嘘が、嘘だという証拠が現れましたね」
ベッドとクローゼット、椅子に机、それから空っぽの棚が置かれただけの部屋を見たこいしがそんなことを言う。ネームプレートは見えなかったのか、見えない振りをしているのか。
でも、確かに必要最低限の家具が置かれているだけで、その部屋を使っている者の特徴は何も見えてこない。ともすれば、持ち主が現れるのを待っているだけのようにも見えるだろう。
でも、ここはれっきとしたこいしの部屋だ。ここに来てしばらくは、ただこの部屋に佇んでいた。放浪癖を持つようになってからは、たまにベッドに横たわっている姿を見るくらいだった。それくらい、部屋の主は自らの部屋に興味を持っていなかった。
「そう思うのなら、こいしの好きなように使ってくれて構わないわよ。貴女が私の言うことを信じてくれようとくれまいと、この部屋を使うのはこいしだけなんだから」
「私はここを一時の宿としてしかみなしてません」
ことある事に私が似たようなことを言うから辟易しているのだろうか。こいしは不満そうに口をへの字にしている。
「とにかく。私は眠いので寝ます。勝手に入ってきたりしないでくださいね!」
心持ち強い語調でそう言って部屋の中へと入っていくと、靴を適当に脱ぎ捨ててベッドへと飛び込んだ。帽子はそのままだった。
今までの態度からは分からなかったけれど、眠気が限界に近いところまで来ていたのだろうか。単純に寝ることで私からさっさと離れたかった可能性も否定しきれない。
「……おやすみなさい、こいし」
もう寝てしまったのか、無視しているのか返事は返ってこない。何も言わなくなってしまうと、記憶を失う前との差がなくなってしまう。
こいしが目を覚ましたとき、記憶を取り戻したりはしないだろうか。そうしたらまず、こいしとしっかりと話をしてみよう。ちゃんとした会話が出来るかどうか、怪しいところはあるけれど。
そう思いながら、扉をそっと閉じた。
◇
「お姉ちゃんっ、見て見て」
満面の笑顔を浮かべたこいしが花の冠を見せてくる。どうやら、人間の村の子供たちと共に作ったもののようだ。見た目だけは同年代の子たちと遊んでいる姿は、微笑ましいと言えるものなのだろう。私は人間に対して特別な感情は持っていないから、そうは思えない。代わりに、最近の村の動向を鑑みて、苦々しい感情が浮かんでくる。
「だいじょうぶだいじょうぶ」
笑顔でそう言いながらも、浮かべているのは不安だった。いくら他者の心を読むことを嫌っていても、この子はサトリの端くれだ。知りたくなくても、知っているようだ。そもそも、私と関わっている時点で伝わってしまっている。
「……お姉ちゃんはつまんないこと考えすぎ」
こいしが楽観的すぎるだけなのではないだろうかと思っていると、不機嫌そうに口を尖らせたこいしが、話題を変えるために私の頭に冠を乗せる。
こいしの視界に映る私はいつものように無表情で、頭に乗せられた少女然とした花の冠が全く似合っていない。こういうのは、笑顔を浮かべるのが得意なこいしにこそ似合うものだと思う。
「そんなことないよ。お姉ちゃんにも十分似合ってる」
その言葉の中に世辞はない。それどころか、頭の中では更に花でごてごてと飾っていっている。それはさすがにやりすぎではないだろうか。花を飾っているというよりは、花に埋もれているといった様子だ。
「そうかも。でも、お姉ちゃんの頭にどんどん花を飾っていくのは楽しそう」
朗らかな笑顔を浮かべるこいしは、花畑の中で遊ぶ私たち姉妹の姿を思い浮かべていた。こいしはせっせと花を集めて、私は横で穏やかな笑みを浮かべて座り、その様子を眺めている。そして時折、こいしが大人しくされるがままとなっている私を手折った花で飾っていく。
悪くないと思える光景だった。現実の自分の顔に、想像の中の表情の一部分くらいが浮かんでくるのを自覚する程度には。
「お姉ちゃんの思考って根本から捻くれてるよね。もっとこう、幸せな光景だー! みたいなのはないの?」
こいしが内側から溢れ出る感情を解放するように両手を大きく広げる。
私の中にこいしのような素直さはないから、無理なものは無理だ。
「私の心くらい、いくらでもわけてあげるのに。というわけで、今すぐ子供のように遊びに行こう!」
元気の有り余った声でそう言いながら、私の腕を掴んで引っ張り始める。私はこいしの弾んだ感情に急かされて足を動かす。
もう感じることのできない心は、悲しいくらいに温かかった。
◇
意識が無機質な廊下を捉える。こいしの朗らかな感情は見えてこない。
知らぬ間に寝てしまっていたのだろうか。それとも、起きたまま過去の記憶の中に意識を埋没させていたのだろうか。
昔はああやってこいしと一緒にいる時間が多くあった。
こいしは、他者と関わりたいという願望を持ちながらも、親しい相手は私くらいしかいなかった。サトリだから他の種族から避けられてしまうのは仕方がないとして、同種族からも距離を取られていたのだ。そして、私もそれは同じだった。理由は正反対のものだったけれども。
私はサトリとして優秀であることを買われて孤高だった。
こいしはサトリとして異端だったせいでただ孤独だった。
そんな独りぼっちな私たちが一緒にいるというのは、当然のことだったのかもしれない。姉妹という繋がりがなかったとしても、自然と関わり合いを持っていたのではないだろうかという気さえするくらいに。
ふと、私が何のためにここにいるのかを思い出して、勢いよく立ち上がる。でも、扉を開くときは、勢いを抑え込んでそっと開いた。かなり挙動不審な動きをしてしまっている。でも、気にしない。
部屋に入り、足音を立てないように注意しながら、ベッドへと近寄っていく。
そうして、ベッドを覗き込んでみると小さく縮こまるようにして眠るこいしの横顔が目に入ってきた。そのことに安堵する。私が寝てしまっている間にどこかへと行くことはなかったようだ。
私はそのまま、こいしの寝顔を見つめる。こうしていると、起きていたときの辛辣な様子が嘘のようだ。
昔のこいしは、どうしてサトリとして生まれてきたのだろうかと疑問に思うくらいに、真っ直ぐで人懐こかった。でもそれは、明確な拒絶を受けたことをきっかけに、徐々になくなってしまった。その結果が、心を閉ざして何を考えているのか分からず、突拍子のない言動をするこいしだ。
今のこいしには、心に傷が残るほどの衝撃によってねじれた部分だけが現れているのだろうか。
思わずこいしの方へと手を伸ばして、その頭を撫でてしまう。私の心に僅かばかりの癒しを与えるだけの、何の意味もない行為だ。ちゃんと意味あることが出来るのなら、今頃このようなことにはなっていなかったかもしれない。
「……勝手に入ってこないでくださいって言いましたよね?」
こいしが目を開いたかと思うと、こちらに焦点が合うと同時に身体を震わせた。そして、こちらにじとりとした視線を向けながら、若干低い声で非難を向けてくる。
「貴女がいなくなっていないかと思うと心配でつい。ごめんなさいね」
思いの外、悪びれていない様子の声が出てきた。こいしの頭を撫でる手も止めない。
「全く反省してないですね。それと、なんで人の頭を勝手に触ってるんですか」
更に声が低くなっていた。私の意志と関係なく手が止まってしまう。
「ええっと……、無防備な姿を見ていると、思わず撫でたくなったのよ」
「へぇ……。やっぱり変態だったんです、ねっ!」
非難の言葉と同時に毛布を投げつけられた。視界を奪われた私は、突然のことに冷静に対処が出来なくて、闇雲に毛布を引っ剥がそうとする。なかなか視界を確保できない。
ようやく視界が晴れたときには、正面にこいしの姿が見当たらなかった。私は慌てて部屋の出入り口の方へと振り返る。
「一応、お世話にはなったので言っておきます。ありがとうございました! ご飯も美味しかったです! ではではさようなら!」
こいしがこちらにお辞儀をして、部屋から出ていくのが見えた。
「ちょっと、こいし! 待ちなさい!」
こいしを追いかけようとして、適当に投げ出していた毛布が足に絡みついてくる。私は苛立ち混じりにそれを後ろへと蹴飛ばして、廊下へと飛び出る。
玄関へと続く方に、翠色混じりの銀髪と鍔広帽子の黄色いリボンを揺らす姿を見つける。
私はそちらに向かって、全力で駆け出した。でも、しばらく外にさえ出ていなかった身体は予想以上にもたついて、目に見えてこいしとの距離が開いていく。
それでも諦めずに足を動かすけれど、体力の方に限界が来て、その場にへたり込んでしまう。なんだってこの屋敷はこんなにも無駄に広いのだろうか。心の中で悪態をついている間にも、こいしは離れていく。
一度だけ深呼吸をして、無理やり立ち上がる。それから、浮かんだ方が疲れにくいということを思い出して、地面から足を離す。ただ、こちらは走るよりも遅い。
じれったくなる速度で追いかけている内に、こいしの背中は見えなくなってしまった。
諦めずに玄関まで追いかけてみたものの、誰もいなかった。本当に行ってしまったようだ。
どうしてこんなに廊下が長いのだろうかと再び憤る。一軒家程度の広さだったなら、扉を開けようとしているところに追いつくことができていたかもしれないのに。
諦めがつかなくて、外に出て周りを見渡してみるけれど、動くものは何一つとして見つからない。ここで立ち止まっていても仕方が無いからと足を動かそうとするけれど、どこに向かえばいいのか分からなくて途方に暮れてしまう。周りから避けられるようにして地底のほぼ中心に存在するこの場所から向かった先は、全く特定することができない。
だからといって、いつか帰ってくるかもしれないと呑気に構えていることは出来ない。あの子は、死にたいと言っていたのだから。
探す当てはなく、時間が経てばそのうちあの子は死んでしまう。その事実に心が折れてしまい、扉にもたれかかりながらその場に崩れ落ちる。夢が現実になろうとしている。
そして、極自然に私の胸に去来した想いは、いっそ私も死んでしまおうかというものだった。
とはいえ、手早く準備を進めてさっさと死ぬつもりもない。
あの子は、死に場所を探しているとも言っていた。だから、それを見つけるまでは生きているはずだ。そして、それを探す途中で疲れてここに訪れて来て欲しいと願う。
一年。あの子がそれだけの間、顔を見せなければ、死んでしまったことにする。そのとき、私は全てを失ったのだということにして、閻魔様に叱られに行こう。
一年という長さに根拠は何もない。だから、本当に無駄に説教を聞かされるだけという可能性もある。でも、一年放置された時点で、無理に生きる理由もなくなっているだろうから、完全に無駄ということもないかもしれない。
そんなことを考えながら、夕食の用意を進める。こいしが帰ってくるかもしれないと思うと、作らずにはいられなかった。死の準備をしながらも、感情の部分はまだまだこいしを手放してはいない。
今の私はこいしへの感情を糧にして生きているような状態だ。今更、自分自身のために料理をしようという気にもならない。それなら、食事を摂っても満たされなくなったその時も潮時なのかもしれない。でもそれは、最悪の形だ。最期まで、こいしへの想いを持っていたいものだ。
ちりん。
鈴の音が聞こえてきた。黒猫が食事の匂いに誘われてやってきた。頭には、いつものように鴉が乗っている。他のペットたちはいない。
そういえば、この子たちは私がいなくなるとどうするんだろうか。乳飲み子ではないのだから、自分たちでどうにか出来るとは思う。でも、今は私に頼っているのだから、突然いなくなってしまうわけにはいかないだろう。だから、この子たちには一応伝えておくことにしよう。
でも、その前にこの子たちの食事の用意をする。自分用の食事を作る傍らで作っていたから、後は皿に盛りつけるだけだ。
「お待たせ」
二匹の前に皿を置いて、しばらく食事を食べている姿を眺める。毎日のようにそうしているのに、案外飽きないものなのだ。
「食事のときに言うべきことではないかもしれないけれど、私、死のうと思っているのよ」
それほど重大なことでもないので、端的に告げる。私がいなくなるというのが伝われば十分だ。
二匹は、私の言葉を理解すると同時にぴたりと動きを止めていた。鴉の方は驚くなりなんなりの反応を示すと思ってはいたけれど、黒猫の方もそうした反応をするとは思っていなかった。普段は行動も心も私を使っているというといった感じだったから。
意外にも、私のことを慕ってくれていたようだ。そうした感情の隠れ方が自然すぎて、私も黒猫自身も気づいていなかったというだけで。でも、それを知ったところで、私の今後の方針は変わらない。
「今すぐに、というわけではないわ。こいしがこのままここに帰ってこないまま一年が過ぎたら死ぬことにしているの。もしかしたら、その前に飢え死にする可能性もあるけれどね。なんにせよ、それまでにどうするか決めておいてちょうだい。私がいなくなっても、代わりの誰かがここに来るとは思うけれど、言葉は通じないでしょうからそのことは考えておくべきよ」
私がそう言うと、黒猫が勝手なことを言うなと抗議の声を上げ始める。鴉の方も私を止めようと鳴き声を上げている。どちらも私にいなくなって欲しくないと思ってくれている。
「ごめんなさい。でも、こいしのいない世界に価値が見出せないのよ」
分かって欲しいとも、止めないで欲しいとも言わない。二匹からしてみれば、自分勝手なことを言っているという自覚はある。
黒猫は怒りの感情を浮かべて部屋から出て行ってしまう。鴉の方は、私と黒猫の方を交互に見てから、黒猫を追いかけた。どうすべきなのか、分からなくなっている。
食べかけの皿だけが残って、厨房は静かになる。取り残されるような形となった私は、呆然と二匹が去って行った方を見つめる。
もっと淡々とした様子で進むものだと思っていた。でも、それは見当違いだったようだ。二匹の心を徒にかき乱して、後味の悪い終わり方となってしまった。
私を止めようとあそこまで必死な感情を浮かべるというのが本当に意外だった。私たちの関係なんて、ただ食事を与える側と受け取る側というだけのものだと思っていたのに。
でもまあ、黒猫がしっかりしているから、今後どうなるかが分かっていれば、後は自分でどうにかしてくれるだろう。だから、あの子たちの心配はこれで終わりにする。
さて、私が死出の旅支度を始めたことを伝えるべき相手はペット以外にもいる。こちらは更に一筋縄でいくとは思えない。立場上、強引に押し切るようなことはできないだろうから。
どうやったら面倒事を少なくできるだろうかと、調理を再開しながら考える。
後から食事にやってきた他のペットに同様のことを伝えてみると、多少の不満を見せながらもあっさりと受け入れてくれた。
何があってあのような差が生まれてしまったのだろうか。
◆
面倒事を少なくする手段として思い浮かんだのは、出来る限り詳しいことを書いて、どうしようもないと相手に思わせるということくらいだった。ぼかして書けば、どういうことかとここまで問い詰めに来るだろう。詳しく書いても問い詰めに来るとは思うけれど、あの人には恩があるから、伝えないということはしたくなかった。伝えるにせよ、伝えないにせよ迷惑はかかってしまうのだけれど、それが少なくなるようにはしたい。
そんなことを考えながら二日かけて書いた手紙は、灼熱地獄の管理記録と共に出しておいた。とっくにあの人の手には届いていることだろう。
どんな表情を浮かべたのだろうかと想像してみる。まずは、表情らしい表情を浮かべていない姿が浮かんできた。そして、頭の中の彼女は勝手に立ち上がって、私の仕事部屋とは違って仕事に関する書類で埋め尽くされた部屋から出ていく。なんとなくだけれど、あの人はたくさんの仕事を抱えてしまっているという印象がある。
こんこんこん。
扉を叩く音が聞こえてくる。その音には怒りが込められているのが分かってしまう。
予想通り、詳しく書く程度では足止めにもならなかったようだ。さてどうしようかと考えながら立ち上がる。私は考えを改めるつもりはないと決意しているけれど、向こうもそれは同じだろう。
対処法も思い浮かばないまま扉を開くと、映姫様が怒り顔で立っていた。手には見覚えのある紙を持っており、青みがかった黒い瞳が、睨むようにこちらを見ている。
想像していた通りの佇まいではあるけれど、雰囲気に威圧される。私よりも若干低いくらいの身長しかないはずなのに、一回りも大きな相手を前にしているような心持ちとなってしまう。
「こんにちは、映姫様。直接会うのは久しぶりですね。ええっと、何か書類に不備でもあったでしょうか」
本題を誤魔化そうと適当にそう言う。相手の心が読めるなら、これで反応を窺ってこちらの思うとおりの展開へと持って行くところだけれど、心が読めない相手ではどうしようもない。分かるのは、向こうがこちらを真っ直ぐ見つめてきていることだけれど、そんなのは私の視界からでも分かる。
私は袋小路に追いつめられた鼠だ。そして、相対しているのは猫のような生易しい存在ではない。
言うなれば、鋭い眼光で睨んでくる虎。外国に存在するらしい大型の猫だ。勝ち筋なんて、見えてくるはずがない。
「いいえ。私情が多く見受けられましたが、必要なことは不足なく書かれていたので、事情を把握するには十分でした。その上で、直接言いたいことがあるので、ここに来ました」
ずいっと一歩部屋へと入り込んでくる。私はその分だけ、部屋の奥へと押し戻される。部屋の主としての権限なんて塵芥に等しいものとなってしまっている。
「古明地さとり。閻魔である私に自殺宣言をするなどふざけているとしか思えない。貴女は変なところで生真面目すぎる」
「それは、黙って死ねということでしょうか……?」
予想では、自殺は罪だとかと滔々と諭そうとしてくるものだと思っていた。だから、わざわざ報告した部分を咎めてくるのは意外だった。
「違います。何故貴女は一人で死ぬことを決めて、報告だけしてそれで済まそうとしているのですか。私は上司として頼りになりませんか?」
「いえ、そういうことを思ったことはありませんよ。むしろ、私にはもったいないくらいに優秀な上司だと思っています」
彼女以外に上司という存在がいたことはないから、他と比べることは出来ないけれど、しっかりと部下のことを考えてくれるいい上司だと思う。毎日のように顔を合わせるとなると、少々うんざりとはしてしまいそうだけれど。
「私をそこまで評価しておいて、何故相談を持ちかけてこないのですか」
「……今更、相談したところでどうにもなりませんから」
まだこいしがここに残っていたのなら、私の相談に乗ってくれるような人がいたのかと意外に思いながら、話を聞いてもらっていたかもしれない。でも、あの子はいない。死に場所を探して、どこかへと行ってしまった。
「私の下には何人かの死神が付いています。それに、他の閻魔に知り合いもいます。彼らに貴女の妹のことを聞いてみれば所在が掴めるかもしれないし、今後情報が入ってくるかもしれない。それでも、どうにもならないと言いますか?」
「……そうですね。映姫様には広い繋がりがありましたね。そのことは失念していました」
こいし以外との繋がりが希薄だったので、他者との繋がりに広がりがあるということを忘れがちだ。こいしも立ち位置としては私と同じようなものだったけれど、他者との繋がりを積極的に求めていたから、私のように忘れることはないのだろう。
「ですが、集まってくる情報は高が知れているのではないですか?」
こいしの捜索は、私にとっては重大なことだけれど、私が所属している組織にとっては私的なことでしかない。だから、世間話程度の情報の中にこいしのことがなければそれまでだ。見つかるまで調査、ということは出来ないだろう。
「何もしないよりはましでしょう。それに、私の部下にはさぼり魔として悪名高いのが一人いるので、彼女に任せることにします。仕事以外のことだと割と真面目なので、安心してください」
最後はため息を吐きそうな様子だった。誰のことだかは分からないけれど、苦労させられているようだ。自殺しようとしているのが言えることでもないけれど。
なんにせよ、そこまで言うのなら使わせて貰おう。映姫様の言うとおり、一人でどうしようもないと嘆いてばかりで何もしないよりは、いくらか有意義なはずだ。
でも、手伝って貰うにしても一つだけ条件がある。
「あの子が死んでいるのが分かれば私はその後を追います。それでも、ありのままのことを伝えてくれますか?」
「貴女も貴女の妹も死なせはしませんよ。ですが、真実はしっかりと伝えると約束しましょう。私を頼ってくれますか?」
「……おかしなお願いですね」
「部下から頼られたという口実がある方が、多少は動きやすいですから」
部下のさぼり癖を悩みの種として抱えているようだけれど、この人もこの人で結構私情に走っているという印象がある。でも、組織の枠の中にはしっかりと収まり込もうとしている。だからこそ、私のような個人主義からしてみれば疎ましく思う部分があると同時に、信頼することもできる。
「……わかりました。こいしのこと、よろしくお願いします」
深く頭を下げる。もっと感謝を表すべきなのだろうけれど、今の私にはこれくらいしかできない。仕事の方で頑張るといっても、やれることは限られてしまっている。
「ええ、任せてください。では早速、他の閻魔たちにも頼みに行きます。なので貴女も今のうちにその辛気くさい表情をどうにかしておいてください」
「……生まれつきこういう表情なんですよ」
「古明地さとり。妹が記憶を失い、更には死にたいなどと言っていて辛いのは分かりますが、いじけていては好転するものもしなくなってしまいます。自殺を止めたいというのなら、虚勢でもいいから強くあるべきです。折れそうになったなら、私が話を聞きますし、嗜好品も味方となってくれるでしょう。それに貴女を慕う者もいるのですから、彼女らにも頼るべきです。今の貴女の味方は、妹ただ一人だけではないのです」
それほど密接な関係があるわけでもないのに、やたら核心に迫るようなことを言ってくるのは、閻魔の力で私の過去を覗いているからなのだろう。
でも、映姫様の言葉は事実だけで構成されているというわけではない。彼女なりの正しさが込められた言葉は、死へと真っ逆様に落ちていこうとしていた私を押しとどめる。私はまだ、どうしていいか分からなくなって、迷っていたというだけということなのだろう。
「では、私はこれで失礼します。ああ、そうだ。貴女の自殺宣言は聞き入れませんので、これは返しておきます。何か進展があればまた報告してください」
映姫様は私の手に書類を押しつけると、部屋から出て行ってしまう。私はぼんやりとその背中を見送ることしかできないのだった。
◆
閻魔様が協力を申し出てくれたその翌日以降、私は部屋の中で塞ぎ込んで腐っていくのではなく、とりあえず地底の中だけでも自らの足でこいしを探してみることにした。地底の住人に話を聞いて回ることが出来れば効率がいいのだけれど、生憎ここでも私たちの存在は疎まれている。心を読まれてしまうことを恐れられているのに加えて、地霊殿という地底の中でも一番目か二番目かに豪奢な建物に住んでいるという事で妬まれてもいる。ちなみに、うちと並んで豪奢なのは、鬼の四天王が住んでいる大きな城だ。
疎まれたり妬まれたりしているだけなら、平然とした顔をしてこいしを探していればいい。でもここは、地上を追いやられた者、見限った者たちが集まっている。だから、必然的に血の気が多いのも多くいる。
人間ならある程度数が多くても捌き切る自信はある。でも、妖怪相手だと、心が読めるだけで、身体の方が追いつかない可能性もある。そもそも、荒事に巻き込まれること自体が面倒くさい。
だから、今は身体をすっぽりと覆い隠す外套で顔と第三の目とを隠している。こうすれば、私が地霊殿の主だとはばれないだろう。実際、すれ違った妖怪は、地霊殿を憎々しげに見つめながら、私に気がついていなかった。自らの正体を隠すように暮らしているのは多いから、この姿で怪しまれるようなことはない。
そうやってこいしを探している最中、私が自殺宣言をしてから姿を見せなくなっていた二匹を見つけた。
鴉の方は、私に気がついたところで近づこうとしていたけれど、黒猫の方が逃げてしまったので、それを追いかけていった。二匹はこいしを探してくれていた。
黒猫は今まで辛辣な態度を取っていた反動か、私と顔を合わせるのを気恥ずかしく思っていた。こいしを探してくれていることに対するお礼を言いたかったけれど、無理に追いかけるのも可哀相な気がしたから、ちゃんと向き合う機会があればその時に言おう。なければ、こっそり好物を置いておくくらいはしよう。帰ってきてくれるかは、分からないけれど。
そんなこんなで、映姫様から渇を入れられて数日が経ったとき、私の手柄ではないけれど、ようやくこいしを見つけることが出来た。
こいしが地底を誰かと歩いていると伝えに来てくれたのは鴉だった。
仕事を早く終わらせてこいしを探しに行こうと思いながら書類をまとめている時に、鴉が扉を突いた。扉を開けてあげて、肩に乗ってきた鴉の記憶を覗いてみると、こいしが桃色の髪を左右で結っている少女に付いて歩いているのが見えた。青色の着物は、地底の中では派手なものとして写る。それ以上に、背中の刃の部分が大きく波打った大鎌が強烈な存在感を示している。
恐らく、映姫様の部下の死神なのだろう。まさか地底にまで連れてきてくれるとは思っていなかった。
でも、本当にそうだと断言することは出来ない。映姫様と何の関係もない輩の可能性もある。これは、自分の目で見てくる必要がある。
鴉は考え込んだ私を見て、不安をこちらに向けてくる。そういえば、この子たちには映姫様が力を貸してくれているという事を教えていなかった。
「大丈夫。映姫様が手伝うと言ってくれたから、その部下がこいしを連れてきてくれただけよ。でも、早くこいしに会いに行きたいから、案内してくれる?」
鴉を安心させるように言葉を選びながら頭を撫でてやると、首肯して私の肩から飛び上がる。
「あ、ちょっと待ってちょうだい」
すぐに案内しようと部屋から飛び出たところを呼び止める。外に出るなら、準備をしなくてはいけない。
正体を隠すための外套を着るため、まずは隣の自室を目指すのだった。
鴉に案内されたのは、地霊殿からも、地底の中心街からも離れた場所だった。
こいしといる少女の方にばかり気を取られていたけれど、どうしてこんな場所にいるのだろうか。今更ながらにそんなことに気がついて、嫌な予感を抱く。でも、周囲の意識を読み取ってみても、不穏なものは見つけられない。そもそも、今回の件の関係者以外は誰もいない。
こいしはいくつか突出している岩の一つにもたれかかって座り込んでいた。どこを歩いてきたのかは分からないけれど、服が所々汚れている。手には黄色いリボンのついた鍔広の黒帽子を持っていて、そちらに集中しているようだ。なんとなく落ち込んでいるように見える。その横には、鴉の記憶で見たのと同じ推定死神がいる。正確な思考を読み取るにはまだ距離がありすぎるけれど、今すぐに何かを起こしそうな感情は見て取れない。
そうしようと思ったわけではないけれど、なんとなしに二人に気がつかれないようにしながら近づく。鴉は私の振る舞いに感化されて、同様に二人にばれないようにしている。
まずは、黒猫に近づく。流石に野生動物を出し抜くことは出来なくて、本当に微かな足音で気付かれてしまう。
黒猫は私の前にいることに気恥ずかしさを感じながらも、こいしと推定死神のやり取りを伝えてくれる。黒猫も正体不明の少女を警戒している。
そんな黒猫の記憶によると、二人は会話をしていただけのようだ。こいしが落ち込んでいるのは最初からで、推定死神は飄々とした様子で話しかけていたようだ。どうやら、帽子のリボンが外れてしまったせいで落ち込んでいるらしい。猫の耳は、遠くの音まで拾う。
私の読心と黒猫の記憶によって、敵でないのはほぼ間違いないと決まったけれど、さてどうしようか。
そんなことを考えていると、私の表情から推定死神が危険な存在ではないと認識した黒猫が、早く行けと思考による叱責を飛ばしてくる。
私はそれに対して思わず謝りそうになりながら、二人の方へと近づいていく。先に気が付いたのは、推定死神の方だった。それから、こいしもこちらに気が付く。
「おっと、あたいらに何か用かい?」
少しの警戒と共にそう聞いてくる。ここ地底においては、ごく当たり前の対応だ。
何の用だろうか、面倒ごとになったら嫌だ、その時はばれないように片付ければ映姫様に叱られないか。そんなことを考えている。彼女が映姫様の部下ということで間違いないようだ。
「地霊殿で灼熱地獄の管理をしている古明地さとり、と言えば分かりますか?」
目深に被って顔を隠していたフードを外しながら名乗り上げる。ついでに第三の目も見えるようにしておく。死神の方はそれで警戒を解いてくれたけれど、今度はこいしが私の方へと敵意を向けてくる。
「な……っ! あ、貴女はっ!」
絶対に会いたくない相手に出会ったかのような反応だった。そして、岩から飛び降りて、片手で帽子の鍔を掴んで、もう片方の手でリボンを掴んで逃げ出してしまう。でも、こいしの背中は一向に離れる気配を見せない。
死神がこいしの足下の距離を限りなく伸ばしている。そのせいで、こいしは前に進むことが出来なくなっているようだ。
そして、こいしは逃げるのを諦めてこちらに振り向くと、死神と私とを睨む。死神に見つかって、私の話を持ち出されたときも、逃げようとしていたようだ。
「なんで逃がしてくれないんですか!」
「あたいは水先案内人。だから、間違った方向に行きそうになってたら、正してやるのが筋ってもんさ。ま、港に付いちまった後のことは、どうにもできないけれどね」
死神はこいしの言葉を適当に受け流すように、自らの役目を話している。こいしを止めたいという感情に偽りはない。しっかりと自分の領分をわきまえているからこその言葉なのだろう。
こいしは死神に話しかけるのをやめて、私の方を見る。私をどうにかすれば離れることが出来るとでも判断したのかもしれない。
「なんですかなんなんですか変質者さんさっさと私を放ってどこかに行ってください」
一息に罵倒と拒絶を浴びせてくる。でも、両手に持った帽子とリボンのせいか弱々しさばかりが強調されて、迫力といったものはあまり感じられない。
「リボン、外れちゃったのね。直してあげるわよ」
こいしの様子から、まともに受け答えをしてくれそうになさそうだから、色々とすっ飛ばしてそう言った。
「……これくらい自分で直せます」
「そう言って、何もできずに時間だけが過ぎてるわけだけどねぇ」
「うるさいです」
死神の記憶を見てみた限り、私のところを訪ねるかどうかで、うだうだとここで悩んでいたらしい。今のところ、こいしの知り合いは私くらいしかいないようだ。
「やれやれ、ずっとこの調子だ。あんた、この子に何したんだい?」
「赤の他人だと思われているのに、いつも通りに接したくらいですよ」
考えつくのはこれくらいだ。誰かから非難を受けるようなことは一切していない。
死神はこの言葉で大体納得してくれたけれど、こいしが噛みついてくる。
「いつまでも妄想に取り付かれないでください」
態度から分かっていたけれど、何日か離れても認識は変わっていないようだ。ある程度諦めが付いていたとは言え、改めて真っ正面から言われると辛いものがある。
「……まあ、こいしがそう言うのなら別にいいわ。それより、帰ってくれば裁縫道具は一通り揃ってるわよ。見たところ針も糸も持っていないようだから、貸してあげるわ」
「む……」
帽子とリボンとを見て考え込む。私は黙って答えを待つ。
「……じゃあ、不本意ですが、貴女のところに行きます」
心底仕方がないと思っているのが伝わってくるような声だった。でも、とりあえず帰ってきてくれるようだ。目的はまだまだ達成できそうな見込みはないけれど、とにかく今のところはよしとしておこう。
「私は離れたところを歩きますので、さっさと行ってください」
「……そんなに邪険にしなくてもいいじゃない」
私を追い払うように手を振る。逃げ出そうとしても死神が止めてくれるだろうから、離れることに問題はないのだけれど、そんな扱いをされると悲しい。
「あなたの近くにいたら、怖気が走ります」
……私は負けない。
◆
こいしは私の部屋の隅でいじけていた。私は椅子に座って、手元から意識をそらさないようにしながら、不満そうに止血用の白い布を巻かれた自分の指を眺めるこいしの方へと時折視線を向ける。
自分でやると言うので、裁縫道具一式をこいしに渡して、糸を通すのに苦心しているところまでは、途中で睨まれたりしながらも微笑ましく見ていることが出来ていた。でも、いざ縫い始めると自分の指まで縫いつけかねない勢いだったから、慌てて止めに入った。黄色いリボンには点々と赤い印がついている。ここまで意地を張られるとは思っていなかった。
それから、こいしに大げさだと言われながら傷の手当てをして、今に至る。
リボンの縫いつけは四分の三ほどが終わっている。
それにしても、このリボンが外れるほどの月日が経ったのかと思うと感慨深い。
元々は、鍔が広いだけの帽子だった。それでは味気ないからと、私がこの黄色いリボンを付けたのだ。
これをこいしに渡したのは、こいしが放浪癖を持つようになってからしばらくしてからのことだ。いつだったか雨に濡れて帰ってきて、この子が度々地上に出て行っているということを知った。そのときに、何か日傘兼雨傘代わりになるものでもあげようと思ったのだ。そんなときに見つけたのが、この帽子だった。
いつも被ってくれていたけれど、どう思っているのかはよく分からなかった。でも、今のこいしの様子を見る限り、大切なものだとは思ってくれているようだ。
「……なに、笑ってるんですか」
「ん? こいしはこの帽子を大切にしてくれているんだなぁと考えていたのよ」
「……その帽子のこと、知ってるんですか」
「ええ。だって、私があげたものなのよ」
「また、下らない嘘ですか」
「本当のことよ」
なんとなく今までの棘を感じられないような気がすることに首を傾げながら、最後の一針を縫う。糸止めをしてハサミで切って、どこかに問題がないかと帽子を回しながら眺めてみる。
……大丈夫そうだ。心の中でそう頷く。
「よし、終わったわ」
「そう言いながら、なんで私に返そうという素振りさえ見せようとしないのですか」
「折角帽子を綺麗にしたんだから、こいしも綺麗になってくるべきよ。だから、お風呂に入ってきなさい」
「必要ないです」
きっぱりと断られてしまう。
「着替えの心配なら必要ないわよ。ちゃんとあるから」
「そんな心配してません」
「……何がそんなに気に入らないの?」
「信用できない相手がいるのに無防備な姿を晒していられると思いますか」
きっ、とこちらを睨みつけてくる。何故だかそこに傷ついた獣の姿が重なる。
「でも、この前は寝てたわよね?」
「む……、あれは私の中の睡魔が悪いんです。というわけで、帽子返してください」
「繋がりがさっぱり分からないのだけれど……」
なんでもいいから返せということなのだろう。
あ、いいことを思いついた。
「こっちに来てちょうだい」
「最初っからそうやって素直に返してくれればいいんですよ」
気持ち帽子を差し出すようにしながら手招きをしてみると、案外素直に私の前までやってきてくれた。
こいしが帽子を手に取ろうとしたところで立ち上がって、私よりも少し小さな身体を抱きしめる。確保成功。
立ち位置を入れ替えると、手首だけで帽子を机の方へと投げる。あ、失敗してしまった。机を越えて、その向こう側に落ちてしまう。
「ちょっと! 何するんですか!」
何が起こったのか把握したらしいこいしがじたばたと暴れ始める。体格差のおかげで、なんとか抑えることができている。
「自分からお風呂に入る気がないみたいだから、入れてあげようとしてるのよ」
「そんな気遣い結構です! 離してください! 変態!」
最後の言葉に怯みかけるけれど、腕に力を込めることで何とか凌ぐ。そして、こいしを引きずるようにして扉の方へ向かっていく。
「着替えはどうするつもりですか!」
力で振り払えないと判断したのか、大人しくなる。その代わりに、もっともな指摘をされてしまう。私は扉の前で立ち止まる。
と、扉の向こう側から黒猫の慌てている感情が流れ込んできた。鴉が逃げ出した黒猫を追いかけていく。こいしの方に集中していたせいで気が付かなかったけど、二匹とも心配して様子を窺いに来ていた。
そういえば、こいしを見つけてくれたことに対するお礼を言っていない。それは後でもいいだろう。今は目の前の問題をどうするかだ。
「む……、確かにそうね」
このまま連れて行って、汚れている服を再び着せるわけにもいかない。
「……一旦離すから、大人しく待っててくれる、わけがないわよね」
「いえいえ。ちゃんと待ってますよ? なので、さっさと行ってきてください」
心が読めなくとも、逃げようとしているのは流石に分かった。
死神――小野塚小町というらしい――が居てくれれば、足止めをお願いすることが出来たかもしれない。でも、彼女は今お風呂に入っている。温泉が湧いていることを知って、地霊殿に付くなり、早速入りに行ったのだ。マイペースな人である。
そろそろ出るころかもしれないけれど、本当にそうかは分からない。
とりあえず、どうするかはこいしの部屋へと移動しながら考えることにする。現状で出来る限りのことをやってみよう。
ドアノブのレバーを肘で押しながら扉を開けて、こいしを部屋から引きずり出す。これだけでもう息が切れかかってきている。
だからといって、ここで諦めるわけにもいかないから、足りない分は気力で補うこととする。こいしがいる限りは、いつも以上に無茶ができてしまう気がする。
「無理しない方がいいですよ?」
「貴女が素直にお風呂に入ると言っててくれればこうはならなかったわよ。……いえ、よくよく考えてみればその間に逃げられてたかもしれないわね」
こいしを確保するのには、帽子を人質にするというのが有効だったけれど、一人で行かせてしまった場合、諦めてそのまま逃げてしまうという可能性もあるのだ。
そう考えれば、こいしが意地になったようにこちらに反発する状態は望ましいものだと言えるのかもしれない。こいしが私に警戒心を抱いていなければ、こんな後ろ向きなものを望ましいなんて思う必要はなかったのだけれど。
「……、私、自分でお風呂に入ってくるので離してください」
「……言ってて虚しくならない?」
「少々。というか、貴女が私を離して帽子を返してくれれば何もかも解決するんです! だから、私の要求を呑んでください!」
「……私にとっては、何の解決にもならないのよ」
結局、また誰かがこいしを見つけて、私が追いかけに行って、捕まえる。きっといつかこいしに幸せが訪れる日が来るのだろうと信じて、この世に留まらせるために、もう一度やり直すだけだ。
もしかしたら、そこで死に目に会うかもしれないし、物言わない骸を見つけるかもしれない。そうなれば、私は命を絶つ。その場で自らの首をかっ切るのか、痛みや苦しみに怯えて緩やかに衰弱していくかは分からないけれども、結果だけは決して変わらない。
「貴女を縛り付けたくはない。でも、そうしないと消えてしまうというのなら、私はそうすることしかできないのよ」
「自分の命をどうしようと私の勝手じゃないですか。口出ししてこないでください」
「……私がこいしに生きていて欲しいと願うだけでは駄目?」
「だから何だって言うんですか。赤の他人にそんなことを言われても、ちっとも心に響きません」
今のこいしにとっては確かにそうなのだろう。血の繋がりはあっても、記憶がないのなら存在しないのと同じだ。なら、私のことを取るに足らない存在だと思うのも当然のことだ。
では、記憶を失う前のこいしは私のことをどう思っていたのだろうか。
目を閉ざす前のこいしは、私に心を許してくれていた。私にとっても、唯一心穏やかに接することのできる存在だった。
でも、心と目を閉ざした後のこいしはどうだったのだろうか。サトリであることを嫌って、サトリである私のことも疎んでいたのではないだろうか。ある時不意に放浪癖を持って、私の傍にあまり来なくなったこいしの姿を思い返しながらそう思ってしまう。
「ちょっと! 他人を動けなくしたまま止まらないでください! 考えるべきことがあるなら、私に構わずそっちに集中すべきです」
「あ、ごめんなさい。貴女をお風呂に入れることに集中することにするわ」
「そんな行動は存在しません」
こいしの言葉は無視して、とりあえずこいしの部屋に入ることにする。
もし、記憶を失う前のこいしが私のことを疎んでいることが判明すれば、どうしようかなと頭の片隅で考えながら。
◆
「本当、あなたは諦めが悪いですね」
湯気に包まれた広すぎるくらいの浴室に、こいしの呆れたような声が響く。小町さんはここに来る途中ですれ違ったのでもういない。別れ際に脱衣所との距離を縮めてくれてくれたので、とても助かった。
こいしはここに至っても、自分で歩こうとはせずに私に引きずられている。自室からこいしを運んできて温まった体には、常温の肌でもほんのりと冷たく感じられて心地いい。お互いの肌が吸い付くようにくっつくのは、私の汗のせいだろう。
着替えや何やらは目から延びる管を使って、なんとか手元に引き寄せることで用意した。とはいえ、元々こうした使い方をするものではないから、かなり苦労させられた。
ちなみに、本来は対象を捕らえてより深く心を読み取るための器官だ。相手に近づかないといけない上に隙が多くなるから、優秀なサトリほど進んで使おうとはしない。代わりに、話術や催眠術といったもので遠距離から相手の心を引きずり出す。
「後に引けないもの」
そう答えながら、身体や髪を洗うための道具が入った桶と椅子とを足で押しながら浴槽へと向かっていく。行儀が悪いとかは気にしていられない。
「私なんかに構ってるよりも有意義なことはいくらでもあると思いますけどね」
浴槽のすぐ横でようやくこいしを解放して、椅子の上へと座らせる。手早く桶の中の道具を床の上へと置くと、お湯を汲む。
「そんなことないわよ。じゃあ、髪洗うわよ」
どうせ素直な返事は聞けないだろうからと、答えを聞かずに桶を傾ける。そっと髪を梳くようにしながら、お湯を髪へと馴染ませる。
「……返事も待たずに始めるとは何事ですか」
お湯が途切れたところで文句を言ってきた。なんとなく大人しくなってきたのは、ようやく諦めてくれたからなのだろうか。また後で逃げ出してしまいそうな気はするけれど、少なくともお風呂に入っている間は大丈夫そうだ。
桶にもう一度お湯を汲んで、今度はそこにサネカズラの樹液を溶け込ませる。
「今のこいしは素直に頷いてくれるとは思えないもの」
何度かに分けてお湯をかけながら髪を洗う。
最近はこうして私が洗ってあげるようなことはなかったから、懐かしい感じがする。付随する記憶は、あまり好ましいものではないけれど。
「……手慣れてるんですね」
「一時期は私が貴女の世話を全部していたから」
目を閉ざしたこいしは、意志という意志を放棄してしまっていた。そのせいで、放っておけばそれだけで衰弱死してしまいかねない状態だった。
そんなこいしをどうにかしようと考えていたのは、私くらいだった。両親でさえも、こいしのことを見捨てていた。サトリというのは意志が混じりやすい為に、一を全と考えがちだから仕方ないことではあるのだろうけれど。
私がそうした思考に至らなかったのは、ひとえに私が孤独だったからだろう。私は全になりきれていなかった。だから、私はこいしを私たちの一部ではなく、妹のこいしとして見ていた。
その結果、料理以外の家事なんてほとんどしなかったというのに独学で始めて、少し余裕が出てきた頃には集落にいるのが嫌になってきて、こいしを連れて出て行って、少しの放浪を挟んでここに至った。映姫様に拾ってもらって、この屋敷を手に入れることができたのは、本当に僥倖だった。私一人なら定住する場所がなくてもどうとでもなっていただろうけれど、こいしを守るためには安全な居場所が必要だった。
「私は……」
こいしが何か言おうとしたところで、黙ってしまう。髪を洗い終えて、身体を洗う準備をし終えても、何も答えようとはしない。
「こいし? どうかした?」
「……なんでもないです」
なんでもないという様子には見えないけれど、言及しても頑なに口を閉ざされてしまうだけだと思う。待っているのがいいのだろうか。
とりあえず、桶の中に目の荒い綿の布を浸して軽く絞る。それから、力を入れすぎないようにしながら、こいしの背中を洗っていく。
まだ何も言ってこない。
「……どこまで洗う気ですか」
背中を洗い終えて、正面に回り込むとこちらを睨んできた。若干赤く染まった頬と相まって、苛めてしまっているように感じてしまう。
「全身洗うつもりだけれど……、自分で洗う?」
よくよく考えてみれば、私はこいしのことを妹として見ているからなんてことはないけれど、こいしからしてみればよく知らない他人に身体を洗われているような状況だ。少なくとも抵抗感があるのは当然だろう。こいしを逃がさないようにするのに必死で、そこまで考えが回っていなかった。
「どうせ洗い終わるまで逃がしてくれそうにないのでいいです。自分で洗うのも面倒ですし」
全てを諦めきったような声色でそう言うと、現実から目をそらすように瞼を閉じてしまう。
強制してしまっていることに少しばかりの罪悪感を抱きながらも、折角大人しくしてくれているのだからと、遠慮なく身体を洗わせて貰う。
ほっそりとした肩を最高級の陶磁器を磨くような心持ちで洗う。それから、手を取ると細い腕を私の胸の辺りまで上げさせて、そっと洗い上げていく。そういえば、洗われる側がこちらのことをしっかりと感知しているというのは初めてのことだ。それを意識すると一層丁寧にやらなくてはという心持ちとなってくる。
両腕を洗い終えれば、次は胸からお腹の辺りだ。心持ち前屈みになっていたから、肩を押さえて背中の辺りをこちらに引くことで胸を張らせる。
「……何やらせますか」
「ちゃんと背筋伸ばしててくれないと、洗いにくいのよ」
「む……」
不満そうな声を漏らしているけれど、気にしないことにする。
そこが終わると、こいしの心情を慮って太腿の辺りから洗い始める。這い蹲ると洗いづらいから、床に膝をついた私の胸の前くらいまで足を上げさせる。その際、横には広げてしまわなように注意する。
「……そこだけ気遣われると、それはそれで気恥ずかしいです」
「じゃあ、洗ってもいい?」
「触ろうとした瞬間に蹴っ飛ばします」
そこまで嫌がるなら、こちらも強行するつもりはない。さっさと足を洗って、最後に何も混ぜていないお湯を全身にかけて終わりとする。
「よし、お終い。最後まで大人しくしてくれて、ありがとう」
お湯で暖まっている頭を撫でる。ここでも暴れられていたら、こううまくはいかなかっただろう。
「子供扱いしないでください!」
私の手を振り払うと浴槽の中へと飛び込んだ。振り払われたことに一抹の寂しさを覚えながらも、逃げた先が浴槽だったことにほっとする。どうも、こいしの相手をしていると油断しがちとなってしまう。
先ほどまでこいしを座らせていた椅子に腰掛けて、私も自分の身体を洗い始める。こいしにそうしていた時とは比べものにならないくらいに雑にすませてしまう。
「適当ですね」
「ずっと家にいるから、汚れることもないから別にいいのよ」
湯船へと浸かりながら答える。隣に腰掛けたときに距離を取られなかったのは、進展と見てもいいのだろうか。十人近くは入れそうなくらいの広さがあるから、離れようと思えばいくらでも離れられるはずだ。
「引きこもりなんですね」
「そう、引き篭もりなのよ。生活に必要なものは送ってもらえるし、他者の心に興味を持てなくなってしまったし、わざわざ会いに行くような知り合いもいないから」
本当、こいしがいなければ何のために生きているのか分からなくなってしまいそうな生活だ。だからこそ、私は迷わずこいしと共に死ぬことを選べたのだろう。
「そんな生活楽しいですか?」
「あまり楽しいとは言えないわね。貴女は放浪癖でよくいなくなってしまうし、その上今は記憶喪失だとか言って私を姉と見なしてくれないし、死にたいとも言ってるし……」
「私のこと以外で何かないんですか」
「思い浮かばないわ。今まで生きてきて、思いの外色々なものを手に入れてきているけれど、私が執着したことがあるのはこいしだけ。それ以外には、ほとんど価値を見出せなかったわ」
昔は他人の心を読んで、破滅させていくことに楽しみを見出していた。でも、今ではそれも失ってしまって、こいしだけが私の生に価値を与える存在となっている。
どうして私の価値観はここまで偏ってしまったのだろうか。やはり、身近な存在がこいししかいなかったことが大きいのだろうか。考えてみても、よく分からない。
「……よくそんなこと恥ずかしげもなく言えますね」
「恥ずかしげもなく言われ続けてきたもの」
こいしは感情と言葉を一緒くたにして、ことある事に私へとぶつけてきていた。物の分別が着き始めた頃は、今のこいしのように真っ直ぐ受け止めることに少々の抵抗が伴っていたけれど、気が付けばそうしてもらえることに心地よさを感じるようになっていた。
それに対して、私は言葉で応えずに、感情だけで応えていた。あの頃は、喋る必要がなければ滅多に声など出すことはなかったのだ。今もそれは変わらないのかもしれないけれど、お互いに思考を読み合えるような相手がいないから確かめようがない。
「それは、私が言ってた、ということですか?」
「ええ」
「……信じられません」
その声は、私の言葉を頭ごなしに否定するようなものではなく、自分の認識を越えた物を前にしているかのようなものだった。
そういえば、なんだかさっきからこいしの方から話しかけてくる頻度が高くなっている気がする。
「こいし?」
「なんですか」
「ええっと……、のぼせてる?」
「何を言いたいんですか」
「いえ、なんだか突然素直な感じになったなぁ、と」
「まあ、ほんの少しくらいなら、あなたのことを信じてもいいかな、と。別に私の身体が目当てだとかそういうわけでもなさそうですし」
「……私、そういうふうに見られてたのね」
虚言癖を持った不審者くらいには見られているだろうとは思っていたけれど、まさかそこまで見られていたとは。湯船の中に沈みたくなる。
「他人が寝てるところに勝手に入ってきたり、服を剥いで無理やりお風呂に入れたり、身体を洗ったりしてそんなふうに思われない方がおかしいとは思いません?」
「……確かに、そうね。ごめんなさい」
事実を列挙されて、自身の振る舞いを省みてみると、謝ることしかできなかった。こいしが記憶喪失であることを忘れているわけでもないし、さっきはそのことを考慮して行動もしていた。でも、指摘されてみて、やはり私の行動は姉としてのものだと気が付かされてしまう。
「……でも、そんなふうに思っていた割には、大人しくしていたのはどうして?」
「どうしようもなかったからです。それに、多少の恩義はあるし、どうせ死に行く身体なんだからと思うと、好き勝手にされても構わないかなと。嫌な物は嫌なので口ではああ言いましたが、抵抗する気はなかったんですよ?」
妹に淡々とした様子でそんなことを言われると、やるせない悲しさがある。本当に死ぬつもりなのだな、と。
「でも、あなたは宣言した以上のことはなんにもしてこなかった。特殊な趣味でも持っているのかとも疑いましたが、あなたは私を逃がすまいとしていたとき以外は平静でした。というわけで、さっき言ったとおり、少しくらいは信じてあげようと思ったわけです。おめでとうございます」
「ええっと、……ありがとう?」
何を祝ってくれているのかは分からないけれど、取り敢えずという形でお礼を返す。記憶喪失となって明るい雰囲気を一部取り戻したようではあるけれど、よく分からないというのは相変わらずのようだ。
「で、どうやらあなたは私が傍にいてほしいようなので、ここを宿として使ってあげます」
なんだか、ようやく始まりの地点に立つことが出来たといった感じだ。肉親が記憶喪失になった者は、皆このような苦労をしているのだろうか。
「死に場所を見つけたら、私も連れて行ってくれるならいいわよ」
「邪魔するつもりですか」
「そんなつもりはないわ。私もそこで一緒に死なせてほしいのよ」
「……はい?」
私の言葉を理解できないとでも言うような素っ頓狂な声が、不思議と耳に心地よかった。
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