空気の冷たい夜。月の浮かばない夜空には申し訳程度の星が見える。
それだけ、それだけだ。変化も無ければ綺麗さの欠片もない。
だから、そんな面白みのない空から少し華やかな下へと視線が自然と向く。
そこには空とは違って無数の光が瞬いている。
人工の光の群れ。それらが夜空の星の光を消し去ってしまっている。
更に下へ視線を向ける。そこに見えるのは真っ黒な闇。よくよく目を凝らしてみれば地面が薄っすらと見える。
闇の中に動く者の姿は見えない。人間もそれ以外の動物も。
私にとっては好都合なことだ。
そう考えながらフェンスを掴む手を少し動かす。小さく金属の触れ合う音が響く。
フェンスは危険な場所とそうでない場所を仕切るためのものだ。私はそれを乗り越えて危険な側に立っている。
私が手を放せばこのまま闇の中へとまっさかさまに落ちていくだろう。
自由落下をこの身を以って体験することが出来る。
遮蔽物が全くないため風が容赦なく襲い掛かってくる。けど、私を動かすには非力で服の裾がばたばたとはためくだけだ。
もし、これ以上に強い風が吹いてくれば私は容易くバランスを崩してしまうだろう。そうすれば、私の身体を支えるのはフェンスを掴む手だけとなってしまう。そして、特別何かをやっているわけではない私がそこから体勢を持ち直すなんて事はありえない。
何の抵抗も無く自由落下を始め、容赦なく地面に叩きつけられるだろう。
そんなことを思うのに私に恐怖心は全くない。
……だって、私はこのままここから落ちていくことを望んでここに立っているのだから。
そう、私は自殺を図ろうとしている。
死にたい、と思い始めたのはつい最近のこと。
直接的な原因があるわけではない。小さなことが積み重なってそう思うようになった。
両親が別れて私は母に引き取られた。けど、母が私にするのは別れた父への小言を言うことだけ。
別れる前だってそうだった。多分、母は私のことを感情の捌け口ぐらいにしか思っていないのだろう。
父のことはよく知らない。ただ、早くから仕事に出て、遅くに家に帰ってくる、そんな存在にしか思っていない。だから、まともに話したことなんて私の記憶の中にはない。
これだけなら恐らくだが私も死にたい、と思うようなことは無かっただろう。私が死にたいと思うようになった理由はこれだけではない。
学校では全ての人間と隔たりを作っていた。
何処から広がったのか分からない私の両親が別れた、という話。
一部の人間はそれを面白おかしく話し、一部の人間は私に安っぽい同情を向けてきて、大多数の人間は何となく私から距離を取るようになった。
私が面白おかしく話す奴らを非難し、同情を向けてくる奴を拒絶すれば皆大多数の人間となってしまった。
そうして、今、私を必要としている人間は誰一人としていない。
もともと、何か生き甲斐があったわけでもない。
だから、私は自分が生きている理由が分からないのだ。
私がいなくなったところで誰が困るのだろうか。だったら、私はいない方がいいのではないか。
そう、思うようになっていた。
無駄に苦悩を続けるよりは今すぐここで命を絶ってしまったほうが楽だろう。だから、私は死ぬ。未練はない。
さてと、そろそろいこうか。奈落の底へ。
フェンスにかけていた体重を全て前へと向ける。身体が傾く。顔は前を向いているのに真っ暗な道が見える。
誰もいないことを再度確認。誰かを巻き込みながら死ぬ気なんて毛頭ない。そんなことをすればその誰かに申し訳が立たない。
一つ、息を吸う。覚悟の為ではない。この世への別れの挨拶の代わりだ。一応、この世だけは私の存在を認めてくれていたのだ。挨拶の一つくらいしておくのが礼儀だろう。
そして、私はなんの躊躇も無く手を離す。
フリーフォール。
おちて、
落ちて、
堕ちていく。
下から風が吹いてくるような感覚。目を瞑れば空を飛んでいるようにも思える。
けど、実際には地面が近づいてきているはずだ。
最期の最期にそれを確認しようとして、目を開くと―――
「―――え?」
見えたのは緑で、
「あれ?」
思っていた以上に軽やかに地面に降りた。頭から落ちていたはずなのに、私はうつ伏せのまま落ちてきたような格好になっていた。
困惑する私の身体を草が柔らかく包んでいる。
そう、草があった。今の今まで私は真っ黒のコンクリートの上を目掛けて落ちていたはずなのに。
意味が、分からない。もしかしてここが天国と言う奴なのだろうか。それとも地獄だろうか。
身体を起こして視線をあっちへと、こっちへと向ける。
周りは数え切れないほどの木々で覆われていた。森の中、というのはこういう感じなのだろうか。実際に入ったことがないからよく分からない。
何となしに木を見上げる。たくさんの葉や枝の間から空の姿が垣間見える。そして、見える星の数は無数だった。
私のいた場所ではありえない光景だ。
かといって天国にしては自然や生命に溢れすぎている気がする。
ここが天国でないなら私は夢でも見ているのだろうか。死ぬ間際には走馬灯を見ると言うが、これもその一種と考えていいのだろうか? でも、それにしては実体がありすぎる。いや、それ以前に私の記憶にこんな場所はない。
もしかして、別の世界に飛ばされた?
それが、今まで思い浮かんだ考えの中では一番非現実的で、だけど、一番的を射ているような気がした。
……まあ、そんなことはどうでもいい。この世(もしかしたら、ここが私にとってのあの世かもしれないけど)に未練のない私はどうにかして死に方を考えるだけだ。
自殺をする人はこうしていろんな世界を巡って死に続けるのかもしれない、という考えが一瞬よぎる。けど、そんな考えはすぐに溶けて消えてしまう。
……とりあえず、どう死のうか。
腕や頚動脈をナイフで切るなどの死に方は少しでも躊躇してしまえば苦痛が大きくなるだけだ。
首吊りや練炭自殺などをするには道具がない。やっぱり、飛び降りて死ぬしかないようだ。
私は、立ち上がる。ここが何処なのかは分からないけど、人間が死ねるくらい高い場所の一つや二つくらいあるだろう。
なければ、その時にまた考えればいい。
そう考えながら私は立ち上がる。ついでに、服についた草や葉を落としていると、
「こんばんはー」
不意に声が聞こえてきた。それは、十歳前後の女の子の声。こんな所にしかもこんな時間にそんな小さな子が来るんだ、と思いながら私は振り返る。
けど、予想だにしていなかったことに私は目を見開く。
私の背後に立っていたのは声の印象の通り十歳前後の女の子だった。金髪で赤目という日本人離れした容姿をしている。金色の髪は赤色のリボンで結わえられている。
彼女が着ているのは闇にまぎれるような黒色の服だった。胸の前で揺れる赤色だけが闇の中で浮いていた。
まあ、日本人離れはしているがそこまでは許容範囲だ。何よりも私を驚愕させたのは、彼女が、
―――宙に浮いていることだった。
赤色の靴を履いた彼女の足は地面に着いていない。ふわふわと浮いて私の前にいる。手品の類だろうか、と思ったが彼女がそんなことをする理由が全く思い浮かばない。
「見慣れない人だね。服装も変わってるし外の世界の人間かな?」
宙に浮いている女の子が首を傾げる。金髪が微かに揺れる。
外の世界? 意味が分からない。ここは日本ではないというんだろうか。でも、この子が話しているのは日本語だ。私は日本以外に日本語が公用語の国なんて知らない。
「まあ、何でもいいけどねー」
暢気な声。けど、彼女の瞳に声に似つかわしくない妖しい色が浮かぶ。
何か危険を感じる。けれど、何が危険なのかがわからなくて私は動くことが出来ない。
ただ、全身を覆うような鳥肌に不快を感じる。
「私に食べ物を恵んでくれるか、私の食料になってくれればいいから」
そんなことを言うと同時にこっちに向かって勢いよく飛んできた。もう手品だとかそんなことはどうでもいい。
私はここにきてようやく危険の正体に気付いた。けど、今更そんなことに気付いたところで行動に入ることも出来ない。ただただ、竦んだままの身体から今のこの状況を眺めていることしか出来ない。
殺されるのかな、私。
振り下ろされる手刀を眺めながら淡白に思う。抵抗する気は全く無かった。
ただ、痛みは感じたくない。
そして、衝撃。私の意識はそのまま、落ちた。
◆
首元に痛みを感じて私は意識を取り戻す。
今の今まで夢を見ていたような気がする。宙に浮く女の子に気絶させられる夢。
なんて滑稽な夢を、と思われそうだが見てしまったものはしょうがない。見る夢をコントロールすることなんて簡単には出来ないのだ。
そう思いながら瞼を開ける。
「あ、やっと起きた。貴女、弱いねー」
夢の中で見たはずの女の子の顔が視界の中にあった。暢気な声も夢のままだった。
どうやら夢ではなかったようだ。
そんなことよりも、私は彼女に組み敷かれているようで身じろぎをしてみるが身体が全く動かない。
いや、この外見でこの力はおかしい気がする。それとも単に武道の達人で人を組み敷くのが上手なんだろうか。……それもそれで現実味がない。
「ダメだよ、逃げようとしたら。私に負けたんだからすることはちゃんとしてもらわないと」
女の子が笑顔を浮かべる。今まで一度も見たことがないくらいに純粋な笑顔。珍しくてつい見惚れてしまう。
それよりも、すること、っていうのは何だろうか。
「貴女、何か食べ物は持ってる?」
私は首を横に振る。
そんなもの持っているはずがない。死のうとする身に食べ物なんて必要ないのだから。
「料理は出来る?」
またしても首を横に振る。
親が食事の用意をしていないなんてことは日常茶飯事だったけど、そんなときは大体コンビニで買ってきたもので済ませていた。
「そっか、なら、貴女は私の食料になるしかないみたいだね」
極上の笑顔のままそんなとんでもない事を言われた。冗談、なんだろうか。
「本気で、そんなこと言ってるの?」
「うん、本気も本気だよー。私はお腹がぺこぺこなんだ。だから、貴女を食べさせてもらうね。逃げようとしても無駄だよ」
彼女の言っていることが本当なのか嘘なのかは分からなかった。私の思いついた死に方の中に誰かに食べられる、だなんて奇妙な選択肢はなかった。だけど、それでもいいか、と思う。
ただ、一つだけ要望がある。
「一つだけお願いがあるんだけど、いい?」
「私が聞いてあげてもいいと思ったことならいくつでも聞いてあげるよ。あ、当然逃がしてくれ、なんてのはなしだからね」
釘を刺される。でも、元から逃げるつもりなんて毛頭ない。
「私を殺すなら、苦しまないように殺してほしいのよ」
「お安い御用ー、と言いたいところだけど、全く苦しみがない、なんて保障は出来ないよ? もしかしたら、どんな死に方をしようとも死の直前には地獄のような苦しみを味合うかもしれないからね。生きてる者にはわかんないことだけど」
「……別にいいわ。貴女が私を一瞬で殺してくれるつもりでいてくれるなら」
一瞬だけ、恐怖が浮かび上がってきた。でも、死にたい、という欲求の前にそれは容易く掻き消えてしまう。
もしかすると、今までは単に心配しすぎて実行しなかったでけで、今なら自らの首を掻き切ることも出来るかもしれない。
目の前の女の子がそれをしてくれるらしいから実行しようとは思わないけど。
「うん、わかった。……それにしても、変な人だねー。殺されそうだっていうのに恐怖を全く感じてないなんて」
純粋そうな赤い瞳が不思議そうに私を見る。こうやって誰かに真っ直ぐに見られるのは初めてかもしれない。
「私は、死にたい、って思ってるもの」
「ふーん。ま、私にはどうでもいいことだけどー」
そう言いながら女の子が私を押さえるのをやめる。代わりに、私の手を取って立ち上がらせる。
? 何のつもりだろうか。
「貴女が死にたい、っていうのはわかったけど、ちょっと待ってね。生のまま食べるよりは調理して美味しく頂くほうがいいし、貴女も美味しく頂かれたいでしょ?」
無邪気な笑顔のまま首を傾げられても困る。私は単に死にたいだけで誰かに食べられたいと思っているわけではない。
「よし、じゃあ、行こー」
少し地面から浮かび上がった金髪の女の子に手を引かれるままに私は森の中を進んでいくのだった。
◆
「いらっしゃーい、って、ルーミアと……誰?」
女の子に連れてこられたのは屋台だった。人間を焼いてるんだろうか、と思ったけど提灯には『やつめうなぎ』と書かれていた。ウナギ?
そんなことよりも、私は本日二度目の驚愕。
屋台の店主らしき人が金髪の子―――ルーミアというらしい子と同じくらいの年齢だったからではない。それも確かに驚きには値するけど、私が注目したところに比べれば些細なものだった。
人目を引きそうな整った顔立ち。こちらを見つめる茶色の瞳。紫色の髪。
ルーミアと同じく日本人離れしているがそこまでは許容範囲だろう。
けど、紫色の髪の中に見える人間らしからぬ耳。背中から生える鳥のような翼。それらはどちらも人間には有り得ないものだった。
飾りかとも思ったけれど時折、誰の力も借りることも無く動いているのを見る限り本物のようだ。
……今更だけど、どうやら私はとんでもない所に来てしまっているのかもしれない。
さっきは否定してしまったけど、もしかしてここは夢の中なんじゃないだろうか。
そう思ってしまったけれど、普段、娯楽とも宗教とも無縁な私がこんな夢を見ることがあるんだろうか。
「この子は私の食料だよ。ミスチーにこの子の調理をしてもらおうかなー、って。出来る? あ、出来るだけ苦しまないように殺してあげてね」
ルーミアはここの常連なのか親しい様子でミスチーというらしい店長に注文を述べる。
「出来ないことはないけど、難しいかな」
「どっちが?」
「調理する方が。何処を狙えば簡単に人間を殺せるか位はまだ覚えてるよ。でも、その後、鮮度を落とさないように手っ取り早く捌くのに大きい包丁が欲しい。あと、今まで人間の調理なんてしたことないからどうなるかわかんないよ?」
私の目の前で普段だと絶対に聞けないような異常な話が展開されていく。二人とも眉一つ動かさず、平然と話を続けている。
こっちの世界では人間を食べるなんていうのは当たり前なんだろうか。それとも、この人たちが人間じゃない?
確かに、ミスチーの耳や翼を見る限り、人間のようには見えない。
「調理の方はミスチーの腕を信じるよ。それよりも、なんとかでっかい包丁、用意できないの?」
「うーん、難しいと思うよ。人間を捌くために包丁なんて買いに行ったら私の方が退治されかねないし、嘘をつくのは苦手だからね」
「そっかー」
ルーミアが肩を落として落胆する。どうしても私を食べたいようだ。
と、ルーミアが何か思いついたのか顔を上げる。
「……あ、そうだ。紅魔館にならそういう刃物があるんじゃないかな?」
「紅魔館? まあ、確かにあそこならありそうだけど、貸してもらえるかな」
私の知らない地名が出てきた。子馬館? 馬の育児所か何かだろうか。
既にこの世界の常識が分かんなくなってきているので間違っている、と言い切れなくなっている。
「大丈夫。紅魔館の刃物係の咲夜とは仲が良いから」
「えっ? そうなのっ!」
ミスチーがルーミアの言葉に驚いている。事情のわからない私にはなんでそんなに驚いているのかわからない。そして、あくまで食料として扱われている私に説明が入ることもない。
「うん、時々料理を振る舞ってもらうくらいの仲だよ」
「そうなんだ。あそこのメイド長って人付き合いが悪い、って聞くんだけど、よく仲良くなれたね」
「最初は邪険に扱われてたんだけどねー。何度も何度も行ってたら、呆れたのか諦めたのか普通に料理を出してくれるようになったよ」
ルーミアが笑顔を浮かべる。料理の味でも思い出してるんだろうか。
「……怖いもの知らずというかなんと言うか。ナイフで何度か刺されたりしなかった?」
「何回か刺されたよー。まあ、あの程度じゃあ何ともないけどねー」
ナイフを刺されるとか、刺さっても平気だとか、異常な会話が未だに行われている。いつ終わるんだろうか。
会話の流れからして今すぐ私を殺す、っていう感じでもないし。
「……普通は平気じゃないはずなんだけどねぇ」
あ、ナイフが刺さっても平気なのはこっちでも異常なようだ。なら、このルーミアが特殊な部類なんだろうか。
「美味しいものの為なら、労力は惜しまないよ。というわけだから、私、紅魔館に行ってくるね」
「唐突だなぁ。ま、別にいいけど。そこの人間さんも待ちくたびれてるみたいだし」
ミスチーがこちらに視線を向けてくる。私になんか全然注意を払っていないと思っていた。
「それにしても、貴女も変わってるね。食べられそうだっていうのに、怯えてる感じも、逃げようとしてる感じもない。外の世界では食用の人間でも流行ってるの?」
なんだか、私の行動のせいで妙な勘違いをされているようだ。確かに彼女が言うように全く抵抗を見せない私がいけないんだろうけど、食用の人間がいるなんてどんな悪趣味な世界なんだろうか。というか、どうやったらそんなことが思い浮かぶんだろうか。
それよりも、また、外の世界だ。彼女たちは私たちの世界を認識してるみたいなのに、私は彼女たちの世界を認識していなかった。
そのことに少し妙な違和感がある。
でもどうせ近いうちに死んでしまうのだ。興味なんてない。
「そんなもの流行ってなんかいないわよ。ただ、私が個人的に死にたいと思っているだけ」
だから、彼女の質問に答えるだけにとどまった。
「ふーん、変なの。私たちなら死にたいなんて思うことなんて絶対にないのに。ねえ、ルーミア?」
不思議そうな表情を浮かべ、ルーミアへと同意を求める。
「うん、まだまだ、食べ足りないからねー」
「そんなこと言ってたら終わりがないんじゃないかな……。私も、焼き鳥撲滅の夢が叶うまで果てるつもりはないけどね」
私と違って二人は大なり小なり生きる意味を持っているようだ。
いや、それ以前に気負って生きている様子もない。マイペースに自分の好きなように生きているように見える。
それが羨ましいとは思わないけど、もし、ここで私が生まれてたらどうなっていたんだろうか、と興味があることはあった。
その場合でも、私はこうして、彼女たちのような存在の食料になってしまっていたんだろうか。それとも―――。
いや、これ以上考えるのはやめよう。考えるだけ無駄なことなんだから。
代わりに、私は視線を上に向けてみた。やっぱり空には数え切れないくらいの星が瞬いている。
もう少し見ていたかったけど、ルーミアが、何やってるのー?、と声をかけてきたからそれ以上見ていることは出来なかった。
◆
ルーミアに連れてこられたのは大きな館―――紅魔館だった。昼間なら真っ赤に塗られた外観を見ることが出来るらしいが、今は闇に沈んでいて何色なのかよく分からなかった。ただ、いえるのは白系統の壁ではないということ。
彼女から聞いたとおりならここに吸血鬼の姉妹とその従者たちと友人が暮らしているらしい。
なんでこんなことを知っているのかというと聞いてもいないのにルーミアが色々と教えてくれたのだ。紅魔館のこととついでに幻想郷のことについて。
幻想郷とは今私がいる世界のことで私のいた世界と結界一枚隔てた中にあるらしい。そこには人間や妖怪や神様が暮らしているらしい。ルーミアもそんな妖怪の一人だそうだ。
結界のことも妖怪のことも信じがたかった。けど、最終的な結論としてはどうでもいい、の一言だ。
死にいく私にとっては一切関係のないことだから。
それよりも、ルーミアは私のことを単なる食料にしか思っていなかったんじゃないだろうか。だというのに、どうして私にわざわざそんなことを話してくれたのか。
まあ、それこそ私には関係ないことだけど。
そうやってある程度の予備知識を手に入れて、今は絨毯の敷き詰められた館の中を歩いている。
絨毯の上を土足で歩くことになんとなく抵抗を覚える。自覚はなくても、私も日本人、ということなんだろう。
ルーミアもそうなのか、それともただ単に歩くのが面倒なのか彼女は身体を宙に浮かせたまま私の手を取って前へと進んでいく。
ルーミアが宙に浮いている様子にもすっかり慣れてしまった。まあ、言ってしまえば浮いてる”だけ”だからねぇ。それ以上何の危害もなければ自然と慣れてしまうものだ。
「あら、部外者の匂いがしたから来てみれば、ルーミアと、外の人間ね」
廊下の反対側からやってきたのはコウモリのような大きな翼を生やした女の子だった。身長はルーミアと同じくらいだ。
日本人にはなかなか似合わないであろうフリルの付いた紅色のドレスが彼女にはこれ以上ないくらいに似合っていた。
この子がルーミアの言っていた吸血鬼姉妹の姉の方だろうか。姉の方はコウモリの羽を生やしてて、妹の方は七色の羽を生やしてる、って言っていたし。
「二人してうちの咲夜の料理をたかりに来たのかしら。そっちの人間は私に一度も挨拶もしないで随分と図々しいわね」
女の子はかなり偉そうだった。これは、こっちが姉のレミリアだと思っても良さそうだ。高慢でわがままだ、ともルーミアは言ってたし。
「今日は違うよー。この子は私の食料なんだ」
本日二回目の食料扱いされながらの紹介。妙な感じがするけど、何故だかもうあんまり気にならなくなっている。
「でも、捌くための刃物がないんだよね。だから、咲夜に借りようと思ってきたんだ」
「へえ、食料……」
ルーミアの言葉の後半は聞いていなかったようだ。
呟きながら、レミリアが紅い瞳をこちらへと向ける。その視線に込められているのはルーミアが私に向けるものと同じようなものの気がした。
そう、すなわち、私を食べるものとして見る視線。ルーミアと違うのは私を対等の存在として見ていないこと。
まあ、この場合はルーミアの方が特殊なんだろうけど。
「あげないよ」
ルーミアが小さな身体で私を隠そうとする。けど、身長差のせいで私の身体は全然隠れていない。
「意外とけちなのね、貴女。ま、でも安心しなさい。低級な妖怪から食べ物を奪うほど飢えてはいないから」
そのまま私たちの横を通り過ぎていこうとして、
「……余計なお世話かもしれないけど、生きるのも意外と悪くないわよ? もし、その気があれば私の所で雇ってあげるわ」
擦れ違いざまにそう言ってきた。真意を確かめようかとも思ったけど、彼女はもう私の背後を行っていた。わざわざ呼び止める気にはならない。
ただ、何と言うかレミリアが私を対等に見ていないのは私が食料だからではなく、自信が高貴な存在だと信じているからのような気がした。さっきのも部下に対してアドバイスを与えてるような感じがしたし。
というか、私って初対面の人にもそう言われてしまうくらい死にたがっているような表情をしているんだろうか。まあ、間違ってはいないから別にいいんだけど。
「もし、紅魔館で働くなら厨房係になってよ。そうしたら、私が毎日、御飯を食べに行ってあげるよ」
レミリアの言葉を聞いていたらしいルーミアがそんなことを言う。
「……私を食べるつもりなんじゃなかったの?」
だというのに、私を手放すようなことを言うのは何故だろうか。
「私は美味しい物が食べれればなんでもいいんだよ。いや、むしろ、貴女がここの厨房係になってくれた方が嬉しいかなー」
「なんで?」
「だって、味は料理人の数だけあるんだよ。だから、ここで貴女が料理人として生まれ変われば私はまた料理を食べる楽しみが増える」
「ふーん」
笑顔を浮かべているルーミアに返せるのはそんな気のない返事くらいだった。死ぬのをやめて料理人になる気などこれっぽっちもない。
「まあ、貴女が興味ないんなら別にいいんだけどねー」
そう言ってルーミアは私に背を向けて歩き出す。
逃げるチャンスなのかもしれないけど、当然、私は逃げずに彼女の背中についていった。
◆
「咲夜、こんばんはー」
廊下のど真ん中でルーミアが声をかけたのはメイド服を着た銀髪の女の人だった。掃除をしているところなのか手には箒が握られている。
メイド、っていうと柔らかいとか包容力がありそうだといった雰囲気のイメージがあるけどこの人は違った。鋭い青色の目のせいか刃物のような印象がある。
「ルーミア、食事の時間はもう終わったわよ。出直してきなさい」
「違うよ。今日は借りたいものがあって来たんだ」
「借りたいもの? それは、あなたの後ろにいるその外の人間に関係するものかしら?」
鋭い視線がこちらへ向けられる。警戒、されてるんだろうか。
「うん、そうだよー。この子を解体するためのでっかい刃物を貸してほしいんだ」
「それなら、鉈かしらね。骨も簡単に断ち切れるし」
この人も私を解体する、という言葉を聞いても動揺の一つも見せない。彼女もまた妖怪なんだろうか。
「私にはよくわかんないから咲夜に任せるよ」
ルーミアのその言葉に頷いた直後、咲夜の手には鉈が握られていた。
え? 今、何が起こったの?
「じゃあ、はい、どうぞ。使った後はちゃんと血を拭いておくのよ。さもないと、錆びてしまうから」
ルーミアが咲夜から鉈を受け取る。大きな刃物はその小柄な身体には不釣合いだった。
「うん、わかった。お礼といってはなんだけど、ミスチーが料理したのを分けてあげるよ」
「いや、いいわ。流石に同族を食べる気にはならないから」
咲夜が首を振る。
さっきの言葉を額面通りに受け取るなら咲夜は人間、ってことになるんだろう。だけど、何の躊躇いも無く私を殺す為の道具をルーミアへと貸したその態度は妖怪に近いものを感じる。
この世界は何なんだろうか。種族を越えた繋がりがあるかと思えば、同族が殺されることに関して何も思わない者もいる。
もしかしたら、この世界では種族なんていうのはどうでもいいことなのかもしれない。自分にとってどういう存在であるか、それだけが大事なんだろう。
私は、この世界においてはルーミアの食料以外の何物もないみたいだけど。
「ああ、そうだ。貴女にこれを渡しておくわ」
いつの間に取り出したのか銀色のナイフをこちらに差し出してくる。今更、自衛する気はないんだけど。
彼女自身、変わった行動だと自覚しているのか説明をしてくれる。
「手向けみたいなものよ。私は自分が殺した相手には一本のナイフを置いていってるの。私がルーミアに鉈を渡したことによって貴女は殺されるんだから私が殺したみたいなものでしょう?」
そう言う割には何の気負いもないみたいだった。殺すことに慣れているんだろうか。
ルーミアの顔を窺ってみる。止める気はないみたいだ。それで、背中を刺されるかもしれない、っていう心配がないんだろうか。
「ん? どうしたの? 受け取ってあげないの?」
むしろ受け取ることを促されてしまった。
「いいの? もしかしたら、私が後ろから貴女の背中を刺すのかもしれないのよ」
「うん、別にいいよ。それはそれで」
笑顔で頷かれた。何を考えてるんだか全く分からない。
とりあえず、このまま受け取らない、っていうのも咲夜に悪い気がしたから咲夜の手から銀色のナイフを受け取る。包丁さえもまともに握ったことのない私にとってその冷たい感触は全く手に馴染まないものだった。
変に弄ってて怪我をするのも嫌だったから服のポケットの中に納めておく。途中で刺さったりしないかな。
「どうして貴女が大人しくルーミアに従っているのかは知らないけど、気が変わったらうちにいらっしゃい。掃除係として雇ってあげるわよ」
レミリアの話を聞いていなかったはずなのに同じように私をこの館に雇おうとしている。主従の関係を持つと考え方も似てくるものなんだろうか。
「えー、厨房係以外は認めないよ。この子は私の食料か料理人になるんだから」
「まあ、それでもいいわよ。妖精は役立たずばかりだからせめて一人だけでもまともな働き手がいてくれれば少しは楽になるから」
二人が私の意志に関係なく私の話を進めていく。
ミスチーと話していたときもそうだけど妙な感じだ。今まで私が誰かの話題の中心に上った事なんてあっただろうか。いや、なかった。存在さえも半ば否定されていたような気がする。
でも、ここでは違う。少し歪んでいる気がするけど、私が二人の話題の中心となっている。まあ、もしかしたら単に私のことが珍しいだけだからかもしれないけど。
「ねえ、貴女自身は料理係と掃除係どっちがいいの? 断然料理係の方がいいよね?」
突然、ルーミアが私の方へと話題を振ってくる。
「どっちも興味ないわ」
「そっかー。じゃあ、料理係で決定だね」
「興味がないって言ってるし何で貴女が勝手に決めてるのよ」
「貴女が私に負けて、私に何らかの形で食料を与える義務があるから。外から来た貴女にここの人間と繋がりがあるとも思えないし、妖怪がたくさん歩いてる外を歩き回って食料を探すことも出来ないでしょ? だから、天恵のごとくわいてきたこの機会を利用する以外の手立てはないと思うよ」
確かに私は彼女に負けた(というか問答無用で気絶させられた)。だから、彼女に従うしかないんだろう。
けど、何だか納得がいかない。そもそも、
「私は死なないなんて一言も言ってないわ」
私自身が食料になることで彼女が勝手に決めた義務を果たす気でいるのだ。
「そっか。それは残念」
あんまり残念そうじゃなかった。何かを食べることが出来るならそれでいいんだと思う。
「じゃあ、ばいばい、咲夜。今度はこの鉈を返すついでに御飯もご馳走になるね」
「別に今日みたいに食事の片づけがすんだ後に来てもいいのよ。追い出すだけですむから」
「その時はその時で話し相手にでもなってもらうよ。ま、そんな時間に来ることはないと思うけどねー。さ、ミスチーの所に戻ろ」
ルーミアが振り向いてそう言う。右手に鉈を持っていることを忘れてしまいそうな笑顔だった。
◆
「さってと、この辺りでいいかな」
ミスチーの所に戻って連れてこられたのは人目に付きそうのない森の奥の少し開けた場所だった。
ミスチーは人間相手にも商売をしているらしくて、人間を調理しているところを見られて店の評判が落ちるのを防ぐためにここまで連れて来たそうだ。確かにここなら人間の目に付くことなんて滅多にないだろう。
「ねえ、ミスチー。あの子の首を落とすの、私にやらせてもらってもいいかな」
調理道具の準備をしていたミスチーへとルーミアがそう聞く。今、鉈はミスチーの手元にある。
「うん、いいよ。手加減なしで思いっきりやっちゃっていいから」
ミスチーは頷いてルーミアに鉈を手渡す。私を殺すことについてやっぱり思うことは何もないみたいだ。友人へハサミを貸し与えるようなそんな気軽さがある。
鉈を受け取ったルーミアが何もすることが無くて木によりかかっている私の方へと近づいてくる。ようやく、死ぬことが出来るようだ。
「そろそろお別れの時間みたいね」
「そうだねー。考えが変わったって事はない?」
「ないわ。だから、早く殺してちょうだい」
あの短い時間の間に考えが変わることなんてありえない。
「そっか。じゃあ、後は私に美味しく頂かれるだけだね。何か最期に言っておきたい事とかある?」
「そうね。……貴女と一緒にいられて、少しだけだけど、楽しかったわ」
一緒にこの変わった世界をちょっとだけ歩いただけだけどそれなりに楽しかった。たぶん、それはルーミアがずっと私のことを気にかけてくれていたからだ。
私を単なる食料だとしか思っていないんだろうけど、そうやって私を気にかけてくれていたことが嬉しかった。
だからなのか、ビルから飛び降りる前とは違って何だか清々しい気分だった。なんだかんだ思いながらも私は誰かに気にかけられたい、と思っていたのかもしれない。
「それはよかったよ。変に緊張してると、お肉も硬くなっちゃうだろうからね」
答えるルーミアは笑顔だった。最後の最後まで食べることばかり考えてるみたいだ。
「……でも、私はちょっとだけ残念かな。未来の料理人の料理も味わってみたかった、って思ってるし」
少し寂しげな表情を浮かべてルーミアがゆっくりと鉈を振り上げる。視界から刃の姿が、ルーミアの腕の先が見えなくなる。
ルーミアは、私のことを想ってくれているんだろうか。いや、まさか、ね。
「じゃあ、おやすみ。名も知らない食料さん」
そんな言葉と共に振り下ろされる腕。
反射的に私は目を閉じてしまう。
―――さようなら。
心の中でルーミアにそう、告げる。
そして、その直後、私の意識は、
落ちた―――
Fin
後書きへ
短編置き場に戻る