昔、こいしの閉じた心を動かした一匹の猫がいました。
 また、その子は私にとってもかなり思い入れのある子でした。

 臆病で甘えん坊、そして、寂しがり屋なそんな猫でした。

 出会いは、私が地獄の管理を任されてから、およそ一ヶ月ほどが経った日の事でした。









 私が玄関の掃除をしていると、一匹の傷ついた黒猫が近づいてきました。背中の辺りに大きな傷があり、そこから血が流れてきています。背後にも点々と血の跡が残っています。
 足取りも何処か覚束なく、今にも倒れてしまいそうです。

 私は、箒を壁に立てかけるとその黒猫へと駆け寄っていきました。人間、妖怪問わず忌み嫌われてきた私たちですが、動物だけは、私たちに心を許してくれました。
 だからか、傷ついている黒猫を見て、どうしても助けたくなってしまったのです。

「大丈夫かしら?」

 黒猫の前でしゃがみ込んでそう聞いてみます。けれど、私の言葉に対する反応はありません。私のことを警戒するばかりです。
 言葉への反応の代わりに、毛を逆立たせています。私の話を聞いてくれるような様子は一切ありません。

 私は一つ息を吸い、黒猫へと向けて左手を伸ばします。私の手が近づくほどに、黒猫の警戒心は強くなり――

「……っ!」

 ついに、私の手へと噛み付いてきました。けれど、予想はしていたので、反射的に声を上げることも、振り解くこともありませんでした。

「……大丈夫、よ」

 痛みに耐えながら、出来るだけゆっくりと話しかけます。そうしながら、噛まれていない右手で黒猫の頭を優しく撫でてあげます。
 ごわごわとした触感が返ってきます。

「私は、あなたに、危害を加えたりは、しないわ」

 猫の口の間から血が流れ出してきます。思っている以上に深く噛まれているようです。けど、私は続けて話しかけます。
 ほんの少しですけど、警戒心を解いたのが分かったからです。

「だから、安心してちょうだい」

 出来るだけ、優しく、ゆっくりと撫で続けていると、少しずつ噛む力が弱まってきます。痛みが弱まったわけではありませんが、牙が離れて行っているのが分かります。それに対して、流れ出す血の量も増えてきてしまったようですけど。
 そんなことお構いなしに頭に触れてやっていると、ようやく黒猫は私の手を放してくれました。
 噛み傷から血が溢れ、指先から赤い液が滴り落ちます。けど、今はそんなこと気にしてはいられません

 黒猫はなんとかこちらに気を許してくれているようです。警戒心も薄れ、私への攻撃の意思はありません。
 けど、安心したせいか、その黒猫は空腹を感じ始めています。ただ、それ以上に傷の痛みへの苦痛も感じてますが。
 傷の治療、その後に食べ物の提供をしてあげる必要がありそうです。

「よかったら、うちに来るかしら?」

 私がそう聞くと、黒猫は少しの逡巡の後、肯定の意志を見せてくれました。
 よかった、これでゆっくりと治療が出来そうです。

「では、失礼させてもらうわね」

 そう言って、黒猫を抱き上げます。服に血が付いてしまいましたが、後で着替えれば良いでしょう。
 抱き上げる際一瞬、黒猫の警戒心が再び浮上してきましたが、意識的に笑みを浮かべてみると、落ち着いてくれました。

 動物も、人の笑顔を見れば安心するのですよ。
 まあ、私は妖怪ですが。





 黒猫の前へと二つの皿を置いてあげます。一つは牛乳の注がれた皿。一つは細かく刻んだ鶏肉の乗った皿です。衰弱している所に、大きな肉は辛いだろう、と思い細かくしてあげたのです。
 噛まれると思って、先に左手を出しておいてよかったです。包帯を巻いたままの手で包丁をうまく使えるとは思えませんからね。
 あ、着替えも一応済ませてありますよ。

 私が皿を置くと同時に、黒猫は鶏肉へと口を付けました。よっぽどお腹が空いていたのでしょう。一切の警戒がありませんでした。
 けど、その割にはゆっくりと食べています。そのことから、この子がだいぶ衰弱してしまっていることが伺えます。

 ゆっくりと頭を撫でながら、黒猫の姿を眺めます。
 黒猫の身体は、包帯によって半分が白くなってしまっています。黒白猫、といった感じです。
 治療を始めた時、この黒猫は傷薬を塗った布をかなり警戒していました。なので、私の傷口に当てたりすることで危険なものではない、ということを教えることで、なんとかその警戒を解くことが出来ました。
 心を読めるといつ押すべきかがわかるので、こういう時は便利ですね。忌み嫌われる原因になっているのだとしても。

「どう? 美味しいかしら?」

 自然と、そういう言葉が漏れてきます。けど、黒猫は反応してくれませんでした。今は、食事に忙しいようです。
 私も返事は期待していませんでしたので、気にしません。

 色々と聞きたいこともありますが、それも後回しにしましょう。

 そう決めて、私は黒猫の食事風景をぼんやりと眺めるのでした。黒猫の小さな頭を撫でてあげながら。





 食事の終わった皿を洗い終え、食堂に戻ると、黒猫は眠りに入ろうとしていました。
 私は、その子が眠ろうとするのを邪魔しないように、ゆっくりとした歩調で近づきます。足音も出来るだけ忍ばせます。

 けど、相手は私の何倍も何十倍も耳のいい猫。耳をぴくっ、と動かしてこちらに顔を向けてきました。
 悪いことをしてしまいました。けど、どうやら黒猫は起こされたことを悪くは思っていないようです。
 むしろ、私に触れて欲しいと思っています。

 ……ああ、そういう、ことですか。

 あの子は、一匹でいることを怖がっています。それは、一匹でいることでまた傷付けられるかもしれない、と思っているからです。
 どうやら、この子の傷は妖怪によって付けられたもののようです。あまり知能の高い妖怪ではなかったようで、この子でも逃げることが出来たようです。
 けど、それによってこの子の中には恐怖が芽生えてしまったようです。出会っていきなり、私に強い警戒心を見せ付けるくらいに。

 そうやって、恐怖に後押しされている中、私に根気良く救いの手を差し伸べられたことでこの子は私にかなりの信頼を寄せるようになってしまったようです。
 ……今まで、様々な動物と関わってきましたが、ここまで信頼される、というのは初めてのことでした。
 まあ、まず、傷ついた動物が前に現れる、ということ事態がほとんどないことなのですけど。傷ついた動物は、余程信頼できるものの前にしか姿を現しません。
 だから、私の住むこの地霊殿に誰も寄り付かないからこそ、この子はここに辿り着いたようですね。

 それはいいとして、この子は私に触れられることをご所望のようです。

 私は、黒猫の傍まで寄ると、しゃがみ込んで抱き上げます。私の手が触れただけでも、この子は安心してくれました。
 なんだか、素直なこの子の心情の変化に私は愛しさを覚えます。頭を撫でてあげながら、椅子に腰掛け、膝の上に乗せてあげます。

「これでいいかしら?」

 そう聞いてみるも返事はありません。代わりに返ってきたのは欠伸でした。本当に、安心しきってしまってます。

 頭を撫でながら、この子が寝入るのを見守っていました。
 私自身、膝の上の暖かさに安心感を覚えていました。





 暗闇。何も見えない暗闇。
 けど、安心しきった心だけは見えてきます。

 それを感じ取ると、私の右手が勝手に動き出し、ごわごわとしたものを撫でます。あの、黒猫の頭です。
 いつか綺麗にしてあげないといけませんね。

 ……ああ、どうやら私はいつの間にか眠ってしまっていたようですね。

 そう思いながら、目を開けると――

「あ……」
「え……?」

 こちらに手を伸ばそうとする妹のこいしと目が合いました。
 珍しく驚いたような表情を浮かべていました。けど、それをしっかりと確認する間もなく、踵を返して部屋から出て行こうとします。

「こいし!」

 反射的に呼び止めようとしました。
 けど、こいしが止まることはなくそのまま食堂から出て行ってしまいました。黒猫を膝の上に乗せているので、立ち上がることは出来ませんでした。

「……はあ」

 一週間ぶりに帰って来たというのに、挨拶もなし、ですか。
 溜め息が漏れてきてしまいます。
 私の前にやってきたら何かは言ってきてくれるはずなのですが……。

 それにしても、先ほどこいしは何をしようとしていたのでしょうか。こちらに手をのばしていたたように見えましたが。

 ん? どうやら、黒猫が先ほど食堂から出て行ったのは誰か、と警戒心と共に疑問に思っています。

「今のは、妹のこいしよ。警戒する必要はないわ。あなたに手を出したりはしないはずだから」

 そう言ってから気付きましたが、まだ自己紹介をしてませんね。妹の方を先に紹介する、というのもおかしな話です。
 まあそもそも、動物と交流する上でこちらの名前を覚えてもらっておく必要はないのです。個人的にやっておかないと気が済まない、というだけです。

「私は、古明地 さとり、と言います。あなたはなんという名前なのかしら?」

 というわけで、私は黒猫へと自己紹介をしつつ、名前を尋ねてみました。
 けど、返ってきたのは疑問でした。どうして、考えてることが分かるのか、という。

「私があなたの考えを分かるのは、私が覚り妖怪であり、あなたの心を読むことが出来るからよ」

 私は第三の目に触れながらそう答えます。いつの間にか、動物たちに自分の事を話す時はこうする癖が付いてしまっていました。自分を表す象徴だからでしょうか。

 黒猫は、私の説明に納得してくれたようです。私を怖がる様子は一切ありません。だからこそ、私は何の躊躇もなく自分のことを話せるのですけど。
 それから、黒猫は自分には名前がない、といった感じの思考を見せます。何処かで飼われていた、という感じもなかったのでそうだとは思っていました。

「では、私が考えてあげましょうか?」

 一応、動物の名前を考えるのそれなりに得意です。私の代わりに地獄の管理をやらせている、火焔猫や地獄鴉たちの名前は全て私が考えたものなのですから。

 けど、黒猫が見せたのは、名前は要らない、という意思でした。安心できる場所、すなわちは私の傍にいられればいい、と思っているようです。
 ……なんというか、一途、ですね。ここまで頼られたことがないので、心がむず痒いことこの上ないです。

「……そう。でも、一応考えておいてあげるわ」

 自分の心の動きを出来るだけ表に出さないよう、冷静な声でそう言います。こういった感情を素直に表に出す方法を知らないだけなのですが。

「ここには他の動物たちもいるから、名前が無ければ呼ぶのに苦労すると思うから」

 そうは言いましたが、この子の傷が完治するまでは他の子たちに会わせることはないでしょう。今のこの子は、じゃれ付かれるだけでも苦痛と成り代わってしまいますから。

「それに、名前のある方が親しみやすいわ」

 これは、色々な動物たちと関わってきた私の持論の一つです。名無しの動物よりも、名有りの動物の方が親しみやすいのです。
 いつか、人間臭いなどと言われましたが、そうなのかもしれません。人間の心を持っているからこそ、あの複雑面妖な心を紐解くことが出来るのでしょうから。

 おや、この子が嬉しそうにしてますね。
 どうやら、私に親しくしよう、という意思があることが嬉しいようです。名前が欲しい、とは思っていないようですけど。
 この子が私に親しくされることに嬉しさを感じてくれていることに、私も嬉しくなってきます。気が付くと、右手でこの子の頭を撫でてあげていました。

 と、こんな事をしてる場合ではありませんね。そろそろ、書類をまとめる仕事をしなければいけません。

 そう思って立ち上がると、黒猫がどうしたのか、と疑問を抱きます。

「仕事があるから、私の部屋に移動するのよ」

 私がいなくなると思ったのか、途端に黒猫は不安に思い始めました。極端に臆病になってしまっているみたいですね。

「心配しなくても大丈夫よ。書類を書くだけの仕事だから、あなたの傍にはいてあげられるわ」

 とは言え、ずっと傍にもいられません。ペットたちがきちんと仕事をしているか見回りをしなければいけませんから。
 あの子たちは放っておくと、遊び始めてしまうのです。妖怪となってそれなりに時間の経った子たちはそうでもないんですけど。

「でも、明日は少しの間、一匹になってもらうかもしれないわ。……ごめんなさい。どうしてもやらないといけないことだし、今のあなたを連れ回すわけにはいかないのよ」

 私がそう言うと、黒猫は私から離れたくない、と思いながらも仕方ない、と思ってくれました。私のペットの中でも、ここまで聞き分けがいいのは本当に稀です。

 何もしてあげないのもかわいそうなので、一緒にいる間は出来るだけ構ってあげましょう。





 黒猫を膝の上に乗せての仕事。

「調子は悪くなっていませんか?」

 何度目かわからない問い。書類を書き始めてから私は何度もこうして黒猫へと話しかけています。当然そんなことをしていれば、書類が進むはずがありません。
 しかも、最初は嬉しそうにしてくれていた黒猫ですが、私が問い掛けるにつれ疎ましく思い始めているようです。
 すいません。

 これ以上無意味に話しかけて嫌われてしまってはやるせないです。なので、口を開くのは止めました。
 けど、気になるものは気になるもので、ペットたちが集めた灼熱地獄の温度などの状態が書かれた紙を読んでは、黒猫の心を読んで問題がないかを確かめます。
 やっぱり仕事は進みません。

 とりあえず、一度ペットたちの集めた情報の書かれた紙を机の上に置き、気持ちを落ち着かせます。
 とはいえ、この部屋にいるのは、私と黒猫だけ。なので、意識は勝手に黒猫の方へと向いてしまいます。
 む、一向に仕事に集中出来そうにありませんね。

 今日くらいは休んで、明日以降頑張ることにしましょうか。ペットたちを手懐けるまでは、何日も仕事に手が付けられなかったのです。一日くらいは休んでも大丈夫でしょう。
 心の中でそう決めると、黒猫の頭を撫で始めます。

 ぼんやりと黒猫の心だけを覗きながら、手を動かします。
 声をかけられ続けるのは鬱陶しいようですが、こうして頭を撫でられるのはいつまでも嬉しいようです。
 言葉というのは噛み砕いて解釈する必要があるので面倒くさいのでしょう。それに反して、触れられる、というのはそのまま受け入れれば良いですからね。

 なでりなでり。
 他のペットたちと違って、全面的に私のことを信頼してくれているので、自然とこちらもそれに応えるようになってしまいます。
 今の他のペットたちは、与えられる食べ物につられているだけのような状態ですからね。少しばかり妖怪化しているせいか、自尊心が普通の動物に比べて強いようなのです。なので、簡単には心を許してはくれないのです。

 と、不意に影が掛かりました。それはすなわち、近くに誰かが立っている、ということです。
 近づくまで私が気がつけないのは、私の知り合いには一人しかいません。

「おかえりなさい、こいし」

 そう言いながら、顔を上げてみると、案の定こいしが机の向かい側に立っていました。先ほど言えなかった事を、今言っておきます。

 けど、こいしは私の挨拶には無反応です。まあ、そういうことには慣れているので良いのですが。
 それよりも、こいしは私の膝の上にいる黒猫のことが気にかかっているようです。私の膝の上の黒猫を見つめたまま、私の方へと回り込んできます。

「ねえ、お姉ちゃん。その猫、どうしたの?」

 いつも浮かべている、微笑のような笑顔のような曖昧な表情でそう聞いてきます。
 こいしが第三の目を閉じ、同時に心を閉じて以来、曖昧な笑みと無表情、それと、本当に時々浮かべる驚き以外は見かけることがなくなりました。
 どうにかしたい、とは思っているのですが、すぐに何処かへと行ってしまうのでどうにも出来ないのが現状です。

 まあ、それはいいとして。何やら、こいしはこの黒猫に興味を示しているようです。
 こうして、完全に心を閉ざしてしまっているわけではないのが唯一の救いですね。

「玄関の前にいたのよ」
「ふーん、そうなんだ」

 何となく聞いてみただけで、どうでもよかったようです。気になるのは、この黒猫自体みたいですね。
 私のその考えを証明するように、こいしは黒猫へと手を伸ばしていきます。

 と、私は、誰かが警戒心を抱いているのを感じました。
 それは誰か。
 そんなもの、考えるまでもありません。この場において、私が心を読めるのはただ一人――いえ、一匹だけなのですから。

「こいし――」

 危ない!、と言おうとした時には既に遅く、こいしの手は噛まれてしまっていました。
 黒猫がが私以外に警戒心を抱いていたのを忘れてしました。襲われたばかりなら、それは当然であるはずなのに。

「おおっ、良い噛みっぷりだね。他のペットたちも中々こうも強くは噛まないよ」

 一瞬だけ、顔をしかめたかと思うと、すぐにこいしの表情はいつもの曖昧な笑みへと変わってしまいました。
 私は場違いにも、痛みで顔をしかめるんですね、などと思ってしまいます。

「あなたは、何かとっても嫌なことがあったんだね。だから、そんなにも他者を警戒してる」

 こいしの顔から表情が消え、平坦な声でそう言います。
 その姿を見て思い出します。誰からも拒絶されることを嫌がって、怖がって、怯えていた目を閉じる直前のこいしを。
 そして、重ね合わせてしまいます。傷付けられ、私以外の全てに警戒心を抱く黒猫に。

 私がこの黒猫のことを気にかけるのは、過去のこいしと重ね合わせてしまっているからかもしれません。こうして、こいしとこの子とが邂逅することでようやく自覚できるほどに薄弱ですが。
 もしかしたら、こいし自身も……。

「あー、お腹空いたなぁ……」

 いつの間にかこいしは部屋の扉を開けて、そんなことを言っていました。
 まるで、今の今まで黒猫に噛まれてなどいなかったかのように。噛まれていたのは白昼夢であったかのように。
 けど、床の上にはぽつぽつ、と血の跡が残っていて、あれが現実だった、ということを教えてくれます。

 無意識に動くこいしの動きをまともに捉えてしまうと、時々、現実が本当に現実だったか疑わしくなることがあるのです。こいしの手を噛んでいた黒猫自身も、同じような思いを抱いています。
 そして、そのせいで、こいしに苦手意識も持ってしまったようです。

「……今のあなたには難しいかもしれないけど、こいしのことは、嫌わないであげてちょうだい」

 あの子は、誰よりも拒絶されることが嫌いなのですから。
 けどそれは、思うだけで口にはしません。押し付けがましくはなりたくないですから。

「あの子も、動物は好きなのよ。だから、悪いようにはしないわ」

 ここに来るまで私たちを受け入れてくれたのは、動物たちだけでした。だから、心を閉じた今でも私と動物にだけは関わろうとするようです。その頻度は決して高くはありませんが。

 私の言葉を聞いても、黒猫のこいしに対する苦手意識は消えませんでした。
 こういったものは、実際に関わっていく中で解消していくしかないので仕方ないのかもしれません。
 なので、私はこの子がこいしに心を許してくれれば良い。そう願いながら、頭を撫でてやることしか出来なかったのでした。





 それから、毎日私は黒猫に付きっ切りでした。

 とはいえ、ペットたちの仕事の見回りもしなければならないので、ずっと一緒にいられた、というわけではありません。
 私が黒猫を膝の上から降ろして、部屋から出て行こうとすると置いていかれたくない、という心情がありありと伝わってくるのです。けど、私に迷惑をかけたくないから、と我慢はしてくれています。
 覚りである私には、寂しげな心情がありありと伝わってくるので、置いていくのがとても辛いのです。
 なので、戻ってきた時には、すぐに膝の上に乗せてあげて、その頭をずっと撫でててあげます。その、一匹になって寂しかった、という感情が心の中から消えてしまうまで。

 けれど、最近はその寂しさもすぐに消えてしまいます。その答えは黒猫の心を読めばすぐに分かりました。

 どうやら、私がいない間にこいしが部屋へと入ってきてこの子と関わってあげているようなのです。
 出会ったばかりの頃は、初めて顔を合わせた時のように手を噛まれてしまっていたようです。毎日のように、部屋の前や中に血が落ちていたので心を読むまでもなくそうだとは思っていましたが。
 けど、最近は血が落ちているようなことはありません。どうやら、何度もこいしに会う内にあの子の無意識の行動に慣れてしまったようです。

 いえ、そうではないですね。こいしが変わってきた、と言うべきかもしれません。黒猫の記憶の中のこいしは、初めて黒猫に触れられるようになった時、少し嬉しそうにしていました。
 ああいった感情を見せるこいしは、目を閉じて以来初めてです。

 黒猫に自分を重ねて、少し心が無防備になっているのでしょうか。
 なんにしろ、もしかしたらこの子がこいしを元に戻してくれるかもしれない。私は、そんな淡い期待を抱いているのでした。





「あ、お姉ちゃん。ねえ、見て見て!」

 いつもよりも早く見回りが終わったある日。いつもよりも黒猫と長く一緒にいられる、と思いながら部屋に戻ってみると、黒猫を抱いたこいしがいました。
 予想外の存在に驚いてしまいます。けれど、良く考えてみれば度々黒猫に会っているのですから、今までこうして出会わなかった方がおかしいと気付きます。
 もしかして、私がいないときをわざわざ狙ってきていたのでしょうか。その割には、今すぐ逃げ出そう、という意思も感じられませんね。
 こいしの行動はよくわかりません。

「ほら、噛まなくなったんだよっ。私ってペット使いの才能があるのかもっ!」

 こいしが、どれくらいぶりになるのか分からない満面の笑顔を浮かべています。私はその眩しさに思わず見惚れてしまいました。

「……よかったわね、こいし」

 この笑顔を見られた、というだけで近いうちにとても良いことがありそうな気がしてきます。いえ、この笑顔自体がとても良いことですね。
 ああ、妹の笑顔、というのはこんなにもいいものなのですね。

 私は、こいしの方へと近寄って、黒猫の頭を撫でてあげます。そこに込めるのは、こいしのこのような表情を見せてくれたことに対する感謝の気持ち。
 まあ、恐らくこの子は何もしてない、と思うのでしょうが。

 ん? どうやら、この子はこいしに抱かれているよりも、私に撫でられた方が安心できるみたいですね。
 それは嬉しいのですが、今はこいしに抱かれてあげてください。こいしのこんなにも嬉しそうな表情を壊すわけにはいきませんから。

「そういえば、お姉ちゃん。この子の名前って何ていうの?」
「名前はないわよ。本人も要らない、って言ってるから考えてないし」

 実際の所は考えていない、ではなく忘れていただけですが。名前がないことでの弊害も特にないですし、このままでもいいかな、と思ってしまっていました。
 我ながら、名前があったほうが親しくしやすい、と言っておきながら無責任ですね。

「ふむ、そーなんだ。じゃあ、私が考えてあげるよ」

 黒猫へと向けていた顔を上げてみると、再びこいしの笑顔が写りました。まあ、大方そう言うだろう、とは思っていました。
 対して、黒猫の方は驚いています。それが、普通の反応なのでしょうね。

「こいしは、こういう子なのよ」

 黒猫を慰めるようにその頭を撫でてあげます。私の言葉にも少しは納得してくれたようです。
 一応この子も、何日かはこいしと関わっていますからね。それだけの期間があれば、なんとなくこいしが何をやっても納得が出来るようになってくるでしょう。何をしでかすか、というのは中々分かるようにはなりませんが。

「チョコ、何てどうかな」

 チョコ、ですか。

「黒色だから?」
「そう、黒色だから」

 この子らしいかなり直感に任せた名前です。まあ、クロとか出てこなかっただけましですけど。
 黒猫の方は……、嫌がってはいませんね。もともと、名前に興味がなかったからかもしれません。

「チョコ」

 こいしが、短く名前を呼びます。黒猫を見る目は真剣で、一挙手一投足を見逃すまい、としているようです。
 その真剣な様子を見て、私はつい笑みを漏らしてしまいます。誰の目にも映っていないのでしょうけど、それでもいいのです。私が笑みを零すだけの光景がそこにある、というだけで大きな意味があるのですから。

「あ! お姉ちゃん、ほらほら、反応してくれたよ!」

 黒猫、もといチョコが尻尾を揺らした途端に嬉しそうに言います。たぶん、チョコを抱いてなかったら全身を使って嬉しさを表現していたかもしれません。
 それくらいに、嬉しさが周囲へと滲み出ています。

「チョコ〜」

 余程嬉しかったのか、今度は笑顔のままそう言います。そして、また揺れる黒色の尻尾。
 こいしは、ふふー、と小さく笑い声を漏らしながらチョコの首筋を撫でてあげています。

 今、私はこの微笑ましい光景に幸せを感じています。決して手に入れられない、と思っていた暖かい感情が湧き上がってくるのを感じます。

「チョコ」

 幸せを込めて、私もそう呼んでみました。こいしがそう呼んで、チョコがそれで反応したので私もそう呼ぶべきだと思ったのです。

「みゃ〜」
「あ……」

 今まで一度として鳴き声を上げたことのなかったチョコが鳴き声を上げてくれました。私に呼ばれたことがよっぽど嬉しかったようです。どうやら、この子自身、名前で呼ばれる、ということが嬉しいことだとは思っていなかったようですね。

 ……それにしても、相変わらずこの子にとっては私が一番、ということですか。
 私は気恥ずかしさを押し隠すようにして、チョコの頭を撫でてあげます。

「あ! お姉ちゃんだけずるい! チョコっ」

 こいしがそう呼びかけますが、チョコは尻尾を振るだけです。多少は嬉しがってますが、私に呼ばれた時には及びません。

「むー……」

 こいしが不満を露わにして頬を小さく膨らませます。こういう表情を見るのも本当に久しぶりです。

「……ま、仕方ないか。お姉ちゃんに助けられたんだもんね。お姉ちゃんの方が好きに決まってるよね」

 そう言って、こいしはチョコを抱いたまま肩を竦めます。

「でも、私が名前を付けてあげたんだよ。だから、それだけは忘れないでね」

 こいしの言葉にチョコは小さくですけど、鳴き声を上げたのでした。それを聞いたこいしは嬉しそうに小さな笑い声を漏らすのでした。





 チョコに名前をつけて以来、こいしは私の部屋に入り浸るようになりました。

 私が仕事をしている間はこいしがチョコの相手をしてくれています。とはいえ、チョコは私の傍にいたいようで、何度かこいしから離れて私の方へと向かってきます。
 どうしても仕事中でない動物には甘くなってしまう性分なので、私は自分が仕事中にも関わらず、チョコを抱きかかえてあげてしまいます。そうすると、大抵不満そうなこいしと顔が合ってしまうのですが。
 けど、すぐにそんな表情は引っ込めて、私の方へと寄ってくると、笑顔でチョコに話しかけたり、触れたりします。私が仕事を終えた後も、大体このような様子です。

 チョコは、こいしと関わることを嫌がってるわけではないんですよね。ただ私の方が好きだ、というだけで。
 私もそれが嬉しいからこそ、甘やかしてしまうのですし。

 それにしても、こいしはチョコと関わるようになってから、随分と表情豊かになってくれました。私があれこれ関わろうとするよりも、こいしの方から能動的に関わろうとする方が効果的みたいですね。

 だから私は、今のところは静かにこいしを見守っていよう、と考えたのでした。





「ねえ、あなたたち、私のペットになってよ」

 ある日、ペットたちの見回りをしていたらそんな声が聞こえてきました。そこは、灼熱地獄への入り口のすぐ傍でした。こいしの前には火焔猫と地獄鴉がいます。
 あれは、お燐とお空ですね。うちのペットの中では一番優秀な子たちです。妖怪としての力もそれなりにありますし。

 こいしが珍しく私の部屋に来ていない、と思ったらこんな所にいましたか。

「ねえ、いい?」

 どうやら、こいしはあの二匹をペットにしよう、と思っているようですね。チョコがこいしよりも私の方に懐いているからでしょうか。

 あの二匹は、仕事をしないといけないのにどうしよう、と困っています。
 さてと、どうしましょうか。あの二匹はかなりの働き者なので、あの二匹がいなくなってしまえば、仕事全体に影響が出てきてしまいます。
 けど、暇をしているペットが何匹かいるので、彼らに働かせたらおそらく何とかなるでしょう。

「お燐、お空。仕事の心配はしなくても大丈夫よ。仕事を持ってない他の子にやらせるから。だから、こいしの相手をしてあげてちょうだい」

 今のこいしに必要なのは、自分から他者に関わる事。だから、私はあの子が望むというのなら、それを出来るだけ叶えるようにしてあげます。

「お姉ちゃん、悠長にそんなこと言ってたらほんとに私のペットにしちゃうからね!」

 こいしはこちらへ、びしっ、と指を突きつけてそう言ってきました。
 そして、お燐とお空を抱きかかえると何処かへと走り去ってしまいました。二匹は、突然のことについていけず、混乱しています。

 私は活き活きとしたこいしの姿を見ながら、笑みを零すのでした。
 さてと、早く見回りを終わらせて、一匹で寂しがっているチョコの所へと戻りましょう。





 見回りを終え、部屋へと戻って来ると、チョコがゆっくりとした歩調でこちらへと歩み寄ってきました。心の中は切なさや寂しさで一杯になっています。何日か一緒にいて分かったのですが、この子はかなりの甘えん坊で寂しがり屋なようです。
 けれど、そんな心情も私の顔を見た途端に疑問へと変わってしまいます。

「こいしが変わってきてくれて嬉しいのよ」

 そう答えながら私はチョコを抱き上げます。包帯越しに暖かさが伝わってきます。まだ、傷は治りきっていないのです。

「ありがとう、チョコ。あなたのお陰だわ」

 感謝の言葉を口にしながら、口付けをしてあげます。動物たちへと感謝するときにはいつもこうしています。
 そして、チョコも感謝の気持ちを返してくれます。

「私は、どうしても動物を助けてしまう性分なだけよ」

 そう言うと、チョコもここにいるだけで、何もしてない、と返してくれました。

 ふむ、どうやらお互いに好きなようにやっていただけのようですね。それなのに、お互いにとってプラスになるとは不思議なものですね。





 それから、一年ほどが経ちました。
 包帯は一ヶ月ほどして無事外すことが出来たのですが、傷は消えることなく残っています。それだけ深い傷を負っていた、ということですね。
 途中で衰弱死などしなくてよかった、と心底安心しました。

 けれど、その傷はこの子の寿命を削ってしまっていたようでした。最近、この子の体力が随分と衰えてきたように思うのです。

 猫は、こうして誰かの元で手厚く飼われている限りは、十年以上は生きるはずです。けど、チョコはそれほど長く生きた猫のようには見えません。だから、やはり、傷のせいで寿命が削られてしまっている、と考えて間違いはないのでしょう。

 チョコ自身もそれは自覚しているようで、最近は初めて会った時よりも私の傍にいることを望んでいます。少しずつ衰えていく自分の身体に不安を覚えているのです。
 それがわかっていても私に出来ることは、この子を膝の上に乗せて、その身体を撫でててあげることだけです。
 もう、この子が死んでしまうのはどうしようもない事です。だから、この子の死を受け入れる準備をしておくことしか出来ません。

 けど、こいしはどうなのでしょうか。
 あの子は、自分とチョコとを重ね合わせているようでした。それに、チョコと関わることで、色々な表情を見せるようになってくれました。
 そのことから、チョコがどれだけあの子の心の中を占めているのか、というのは窺い知ることが出来ます。

 私に対抗するように他のペットたちと関わるようになっても、毎日チョコと関わることだけは欠かしませんでしたし。

 チョコがいなくなった時、あの子はどうなるのでしょうか。そして、私に出来ることはあるのでしょうか。
 最近はそんなことばかりを考えてしまうのです。





 私がチョコを膝に乗せて仕事をしていると、突然部屋へとこいしが入ってきました。私の傍へと近寄ると無言でチョコを抱き上げました。
 突然の事に私もチョコも驚いてしまいます。

 こいしへ声をかけようとしますが、それは出来ませんでした。何故なら、こいしの顔に何一つとして表情が浮かんでいなかったからです。
 けど、それは何処か意識して作られているようにも見えます。まるで、何か別の表情を隠そうとするかのように。

 こいしがチョコを抱く腕へと力を込めます。チョコは逃げようともせずにそれを受け入れます。
 チョコは、こいしから伝わってくる不安を感じ取っています。
 もしかしたら、こいしもチョコに死期が迫ってきているのは分かっているのでしょうか。不安で不安で仕方ないから、こうしてチョコを抱き締めているのでしょうか。

 私に出来ること、それは抱き締めて撫でてあげることだけ。私自身、チョコの死期を前にしてなんと声をかけられたいのか分からないのですから、こうすることしか出来ないのです。

 立ち上がると、こいしの後ろ側に回ってそっと抱き締めてあげます。
 反応は何もありません。
 そのまま、頭を撫でてあげますが、やはり反応はありません。

 けれど、代わりにチョコが小さく鳴き声を上げました。こんな雰囲気にしてしまって申し訳ない、というように。

 ……あなたは、悪くないんですよ。
 誰にもどうしようも出来ないことなのですから。





 こいしはチョコを強く抱き締めたその日から、また私の部屋へと入り浸るようになりました。ただ、前のように私が仕事をしてる間にこいしが構ってあげている、というようなことはありません。
 仕事中は、私の膝の上にチョコを乗せ、こいしはお燐かお空を抱いて私の座る椅子の背もたれにもたれかかっています。

 私がチョコを抱いててもいいのよ、と言っても首を横に振るばかりです。
 もしかしたら、チョコのことを考えてそうしているのかもしれません。こいしも、チョコがこいしよりも私のことが好きだ、ということを知っていますので。

 でも、だからと言ってチョコがこいしに抱かれることを拒絶することはないでしょう。
 それがわかっているから、こいしはお燐かお空を抱いているのでしょうか。無意識の内にチョコを抱き締めてしまわないように、と。

 ……自分勝手な子のように見えて、実はそうでもなかったんですね。チョコがいなければ、こんなことに気付くのもずっと後になっていたでしょう。
 私は、チョコに感謝すると同時に、優しすぎるこいしに寂しさのようなものを感じてしまいます。

 さて、私はこんな妹に何をしてあげるべきなのでしょうか。





「こいし」

 ある日、ふと思い立ってこいしに声をかけてみました。微かな温もりが伝わってくるのでまだ後ろにいるのでしょう。
 今日、こいしが連れて来たお空の暇そうな意志は伝わってきますが、それだけでは本当にそこにこいしがいるのかどうかは分からないのです。こいしなら、気付かれることなくお空を置いて部屋から出て行くことも出来ますので。

「……お姉ちゃん、何?」

 少し遅れて返事が返ってきました。私は振り返ることなく次の言葉を投げかけます。温もりだけでも感じられれば十分だと思っていますので。

「仕事に集中出来ないから、地霊殿の中でも散歩してこないかしら? チョコを連れて」

 そんな提案。
 そういえば、まだチョコをこの部屋から連れ出したことがない、と思い出したのです。そして、少し環境が変わればこいしもチョコを抱き締めてくれるんではないか、と思ったのです。

「…………うん」

 少しの沈黙の後、こいしが頷いたのが伝わってきました。
 チョコは初めて地霊殿の中を歩けることを楽しみにしているようです。楽しみにするほど面白いものはありませんが、そんなことを言うのは無粋でしょう。

 さてと、さっさと片付けてしまいますか。
 私は机の上に広がる書類を片付け始めました。





 机の上を簡単に片付けてから私たちは部屋を出ました。
 私がチョコを抱き、こいしがお空を抱いて。

「こいし。貴女が代わりにチョコを抱いてあげなさい」

 部屋を出て一歩も進まないうちに私はそう言いました。けど、こいしはもう既に進んでいくつもりだったようで、一歩私よりも進んで立ち止まります。
 そして、振り返って私の方へと向きます。

「……いいの?」

 ようやく、チョコを抱く意思を見せてくれましたね。とはいえ、一歩足を引いたような意思ですが。
 おそらくこいしの言葉は、チョコへと向けられたものなのでしょう。今までずっと、チョコに遠慮していたのですから。
 それは、チョコも分かってくれています。こいしに抱かれてもいい、という意思を私に見せてくれます。

「ええ、いいわよ」

 笑顔を浮かべ、チョコをこいしの方へと差し出します。

 こいしは少し逡巡した後、お空を放します。それから、チョコと私を見て、ほんとに良いの?、と再度確認してきます。
 私は頷いて、チョコは尻尾を揺らしたようです。私の腕を尻尾が撫でたのが分かりました。
 私たちの反応を見てこいしは、おずおずとチョコを受け取って抱き締めます。
 お空は手持ち無沙汰となった私の肩に止まります。

 チョコは久しぶりにこいしに抱き締められたからか、尻尾を振って喜んでいます。こいしも喜んでいるのを感じ取ったのか、口元を微かに緩めます。

 これで、別れ際にこいしは後悔しないで済むのでしょうか。
 そんなことはわかるはずがありません。

 それでも、私はただただ大切な妹とペットに今だけは楽しい気分でいて欲しい、と願わずにいられないのでした。





 あの散歩以降、こいしは再び一人で私の部屋に来るようになりました。そして、以前のように私が仕事をしている間、チョコに構ってあげています。
 いえ、あれは構っている、というよりも、その存在を、温もりを確かめている、という感じですね。こいしは、ただチョコを抱き締めてじっとしているだけなのですから。

 私も、最近はチョコを抱き締めるときはそのような感じです。まだそこにいることを暖かさから、心臓の鼓動から、安心する気持ちから、感じ取るのです。
 そして、チョコの存在を私の記憶に出来るだけ鮮明に刻み込みます。
 近いうちにそれを感じ取れなくなる、ということを知っていますから。


 そして、ある日、チョコの容態が急変しました。それは、私がお風呂に入ろうとした時のことでした。
 急にチョコが苦しみ始めたのです。

 とは言っても、苦しんで暴れるということはなく、ただ苦しい、という感情がこっちに伝わってくるのです。
 恐らく、暴れる体力さえも残っていないのでしょう。最近は自分の足で歩くことさえ、滅多にありませんでしたから。

 私は大慌てでチョコの方へと駆け寄ると、その身体を抱き締めてあげました。その身体からは力が抜けていて、まるで死んでいるようにさえも見えました。
 覚り妖怪である私がそれを見て、死んだ、と勘違いすることはありません。けど、その瞬間が目前まで近づいているのは嫌でも分かってしまいました。

 もう、長くはないでしょう。ならば、その短い時間の為に私の時間を注いで上げましょう。この子が事切れるその瞬間まで傍に居てあげるのです。この子から貰ったものをそれだけで返せるとは思えませんが、最後まで何かをしてあげたいのです。
 そう決めながら、私は膝の上に乗せたチョコの身体を撫でてあげます。大丈夫、まだ暖かいですし、心臓の鼓動も弱々しいですが伝わってきます。まだ、終わっていないことを確かに感じられて、私は安堵します。

 こいしを呼んでくるべきなのでしょう。けど、あの子が今何処にいるのかが分からないので、探しようがありません。
 チョコを抱きかかえたまま探しに行くわけにもいきません。
 迷った結果、私はいつものように椅子に座ります。あの子なら、来てくれる、何処かでそう思いながら。

 と、不意に扉が開けられます。

「あ……」

 その向こうにいたのは、こいしでした。あまりのタイミングのよさに思わず声が漏れてきてしまいました。もしかすると、あの子の無意識が虫の知らせのようなものを発したのかもしれません。
 あの子にとっても、チョコは特別となっているのですから。

 チョコは、こいしが来ることが分かっていたのでしょうか。それほど驚いた様子もありません。むしろ、最後の最後にこいしが来てくれて喜んでいるようです。
 尻尾の揺れ幅が大きくなります。

「こんばんは、こいし」
「……うん」

 私の挨拶に頷いて答えると、チョコが弱り始めた時にいつもいた位置へと付きます。私の座る椅子が小さく軋みを上げます。

「ねえ、こいし。チョコのことを見てあげてなくて良いの?」

 チョコを撫でながら、背後のこいしにそう聞きます。
 どうして、今日はその場所を選んだのでしょうか。

「……うん。ここで、傍にいてあげるよ」
「もう少し、傍に居てあげてもいいのよ」
「……ううん、このままで、いいよ」

 返ってくるのは短い返事。少しばかりその声は震えているように思いました。

「……この姿勢だと落ち着けるから」

 再び、椅子が小さく軋みます。少し姿勢を変えたのでしょうか。

「そうですか……」

 それきり、私たちは黙ってしまいます。
 時計が規則正しく刻む音と、時折椅子の軋む音だけが響きます。

 私の手は、無意識にチョコの身体を撫でています。その最後の温もりを感じるように。
 けど、こいしはこれを感じ取ることが出来ないんですよね。チョコとの距離を開けてしまっているせいで。

 なんだかそれは寂しくないですか? いくら顔を見せられないような状態とは言え。
 けど、どうすればいいのかがわかりません。あまり押し付けがましくなってしまうと、こいしも逃げ出してしまうでしょうし。
 そうなれば、もっと寂しいことになってしまいます。

 だから、私は下手に手を出すことが出来ません。それに、チョコ自身がこのままでいい、と思っているのです。その存在を感じられるだけで、十分だ、と。

 ……それなら、このままそっとしておいてあげるのがいいのかもしれません。
 私自身は納得できないのですが。





 長いような、短いような、もしくは、止まったかのように感じられる時間が過ぎていきます。誰もが口を開こうとせず、ただただ沈黙を守るだけの時間でした。
 部屋に響くのは、時計の針の音と、こいしが身体を少し動かしたときに響く椅子の軋む音だけ。

 けれど、この変化のない時間も終わりが近づいてきています。少しずつですが、チョコの意識が閉じていっているのです。
 この、意識が閉じてしまった時に終わってしまうのでしょう。結局私は、こいしをチョコに触れさせる方法を思いつくことは出来ませんでした。

「……ありがとう、チョコ」

 最後に何かを伝えておきたくて、私はそう言います。あまり長く語るわけにもいかないので、短く簡潔に、です。
 けど、この一言には、私の傍を選んでくれて、こいしを変えてくれてありがとう。そんな想いを込めています。
 全てではないですが、伝わってはくれたようです。チョコの心を読み取ってそれを知りました。

 チョコも、感謝の気持ちを浮かべてくれます。
 ……ああ、ごめんなさい。そんなに大きくては受け止められそうにありません。

 チョコの感謝は本当にごく簡単なもの。助けてくれてありがとう。居場所をくれてありがとう。たったそれだけ。
 けれどもそれは、私が今まで受けてきたどんな感情よりも大きくて、受け止め方が分からないのです。

 そうしている間にも、意識が閉じていき、そして――

 ――さようなら。

「……ええ、さようなら。ゆっくり、休みなさい」

 私の言葉が届いたのかどうか。それはもう、確認することは出来ません。
 けど、最後の最後まで穏やかだった。それだけでもいいのかもしれません。

「チョコ、いっちゃったんだ……」
「ええ……」

 私がそう頷いた途端、背中にあった暖かさが消えてなくなりました。
 慌てて振り返りますが、そこには誰もいませんでした。

「……こいし」

 けれど、例えこいしがそこに残っていたとしても、私はどのような表情を浮かべるべきなのかわからなかったのです。

 いつの間にか、頬が冷たく濡れていたのですから。





 今の今まで穴を埋めるために使っていたスコップを置いて、土の上に直接座り込みます。
 目の前には木を組んだだけの簡単な墓があります。彫られているのは、『チョコ』というあの子の名前。

 ここは、地霊殿の中庭の隅にある薔薇園の傍です。薔薇は花をつけていません。
 墓を作る場所、といったらこの場所しか思い浮かばなかったのです。

 座ったまま目の前の小さな墓を見つめます。あの子を埋めるだけの穴を掘るのには苦労させられたのですが、達成感は全くといっていいほどありません。
 なんだか、虚しさしかこみ上げてきませんね。かと言って、あの子をあのままにしておく、というわけにもいきません。

 頭がぼんやりとしています。何をすればいいのか、何を考えていいのか分からないのです。
 だから、何をすることもなくチョコの墓を見つめ続けます。

 そういえば、寿命で逝ったものを見送るのは今回が初めてなんですよね。今までは、皆誰かの手によって殺されてしまうか、私の知らない所で死んでいるかのどちらかでしたから。
 どうしようもない感情が内で渦巻いているのはそのせいなのでしょうか。誰かに殺された、というのなら、その誰かへと激情を向ければ良い、知らない所で死んだのなら、それほど強い感情は生まれませんから。

 チョコの事ばかり考えてしまうのは、そのせいなのでしょう。これは私たちにとって初めてのことなのですから。

「あの子は、私たちにとって、特別な存在、だったわね」

 私はゆっくりと口を開きます。誰かにこの言葉を届けるように。声が少々震えている気がします。
 かと言って、このまま黙ってしまうつもりはありません。

「私自身、ずっと、あの子のことが気になってたし、こいしも、随分と気にかけていたわね」

 チョコはずっと私の部屋に居て、私は暇さえあればあの子を見ていました。こいしも毎日顔を合わせて、あの子に受け入れられるようになっていました。
 私もこいしも、あの子にこいしを重ね合わせていたのです。

「そのお陰で、こいしも、随分と心を開いてくれたわね」

 こいしが、様々な表情を浮かべるようになってくれて、私は本当に嬉しかったのです。だから、チョコには伝えきれないほどの感謝の念を抱いています。

「あの子も、たくさん、感謝してくれていたわ。けど、私たちも、たくさんお礼を言いたかったわよね」

 どう言葉にして良いのか、分からなかりませんでした。言葉にしてしまうと、一つも伝わらないような気がしてしまったのです。
 だから、直前になってあのような短い言葉しか告げることが出来ませんでした。

「ねえ、こいし」

 不意に、私の肩が濡れます。不規則に、まばらに、けれど途切れることなく肩が濡れていきます。
 けど、振り返ることはしません。

 ただ、その冷たい水の受け皿になることが出来れば良い。内に溜め込んで塞ぎ込むようにならないで欲しい。
 チョコが、そのような事を望むとはとても思えませんから。

 勝手に流れ出す涙を拭くこともなく、私はそう思うのでした。





 あの日以来、こいしの放浪癖は以前よりも酷くなってしまいました。けれど、それはあの子が再び心を閉ざしてしまったから、というのが理由ではないでしょう。
 私と出会えば、ちゃんと話はしてくれますし、ペットたちの相手もしているようです。

 けど、チョコの死には相当ショックは確かにあったようで、表情の変化が乏しくなってしまいました。おそらく、それを解決できるのは時間だけなのでしょう。
 それに、他のペットたちと触れ合うことで少しずつですが、表情も取り戻しているようです。ただ、死別を恐れるかのように、深くは関わっていないようです。


 時は流れて、今は巫女やら魔法使いやらがここに侵入してきた数日後。

 私は、薔薇園の横に作ったペットたちの墓場にいました。
 あれから、長い長い年月が経ちました。その間に、何匹ものペットたちが死に、何匹ものペットたちが新しく入ってきました。
 ペットの死に慣れた、というわけではありませんが、チョコを見送ったときほどのショックを受けたことはありませんでした。やはり、放し飼いにしていると、情の深さが違ってくるのでしょうか。
 私の部屋に住まわせ続けたのは、後にも先にもあの子だけでしたからね。

 ……まあ、最近はちょっとばかし厄介な力を手に入れたお空と、その親友のお燐を家族同然のように扱っています。今は関係ないことですが。

 墓の手入れが終わった後は、チョコの墓の前に腰を下ろします。スカートが汚れてしまいますが、毎日続けていれば気にならなくなりました。

 いつもこうやって、何もせず時間を潰します。短くとも十分くらいはこうしています。毎日来ていれば特に話してあげることもありませんからね。
 ただ、こうしていてあげれば、あの子が寂しがることはないかな、と。あの子は私の傍にいることが何よりも好きでしたから。

「お姉ちゃん」

 不意に、こいしの声が聞こえてきました。私の方から話しかけることはあっても、こいしの方から話しかけられたのは何年振りでしょうか。チョコがいなくなってから、あまり話しかけてこなくなったんですよね。

「おかえりなさい、こいし」

 いつもと何か様子が違うことを感じ取りますが、特に言及したりはしません。きっと聞くだけ無粋でしょうから。

 私がそう思っている間に、こいしは無言で私の隣に腰を下ろします。こうして、ここに並んで座るのは初めてですね。
 やはり、こいしの身には何か変化があったようです。

「……さよなら、チョコ」

 その一言を聞いて、こいしの中で一つ折り合いが付いたのだ、ということが分かりました。

 そっと、隣のこいしの肩を抱いてあげます。
 今の私に出来るのは、小さく肩を震わせる妹を優しく抱き締めてあげることなのでしょう。
 今ここで、全ての感情を曝け出させるためにも。

 少しして肩の震えが大きくなり、ついには小さな墓の前に長い年月閉ざされていた感情が慟哭となって溢れ出てきました。


Fin



後書き

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