◇Flandre's side


 私が明確な意志を抱くようになってから、こいしの態度は少しずつだけど変わってきている。
 例えば、ふとした拍子に寂しそうな表情を浮かべるようになった。
 例えば、ぼんやりとしていることが多くなるようになった。
 例えば、私がそれに気づくと露骨に甘えてくるようになった。
 けど、まだこいしの口からさとりに会いたいといった類の言葉は聞けていない。いつだって、私の考えを否定するばかりだ。

 少しくらいは、私の望んでいる方に進んでいるとは思う。少なくとも、以前よりはさとりのことを考えるようになってくれているはずだ。
 ただ、それと同時に私も私で、このやり方が正しいのだろうかという疑問に行き当たることが多くなってきていて、こいしに反論を返される度に、決意が揺れる。
 それでも、さとりと想い描いた未来を描き直すことで、なんとか屈してしまわないようにしている。
 けどそれだけでなく、決意の揺れだけでなく、あれからだいぶ精神的に疲れてきているのも感じる。

「それなら、全部私の言うとおりにして楽になっちゃえばいいのに。理想にたどり着くことだけが幸せじゃないんだから」

 こいしが私の思考へと割り込んでくる。最近ではそのことに少しの煩わしさを感じるようになってきていた。
 こいしは私を操ろうとしているのかもしれないとさとりは言っていた。どうすべきか迷っていたときは、こいしの言葉がそのまま私の思考の指針となっていた。だけど、今は真っ向から対立するような形となっているから、操られていたという事実には実感が伴っている。

 とはいえ、拒絶の意志が沸いてくるほどではない。
 確実に起こると言えないとはいえ、自分の心が壊れるかもしれないというのを怖がるのは仕方がないと思う。自衛のために私の思考をこいしにとって都合のいい方向に持って行こうとするのも当然だと思う。だから、私はこいしに対して、拒絶のような意志を向けない。
 それでも、私がこういうことを考える度に、こいしはどこか怯えるような反応をして、少し勢いが弱まる。

 こいしはそうではないみたいだけど、私は誰もが幸せな未来を描くことで、そこに近づけるのではないだろうかと信じている。こいしが抱えているのは精神的な問題で、だからこそ、前向きであれば前向きな方に、後ろ向きであれば後ろ向きな方に振れていくのだと思う。

「……フランの考え方は、自己中心的だと思う。私が壊れたときのことを考えてくれてない」
「それは、……そうかも。でも、あんまり後ろ向きに考えてても、それが邪魔になると思う」

 同じような問答は何度繰り返したかはわからない。
 だけど、繰り返す度にこいしの声は一歩引いたようなものとなり、私の声は弱々しくなっていっていた。

 結果が出てくるまで、どちらが絶対的に正しいということはない。こいしも私も自分の主張することがより正しいと信じているからそれを主張して、もしかしたら相手の方が正しいのではないかと思って揺れている。
 こいしも私もこうして平行線の問答を続けることに疲れていた。けど、相手を説得できると信じて続ける。少なくとも、私はそういう姿勢で臨んでいる。

 もし、私たちが共倒れするのなら、どういった結末になるのだろうか。興味はなくても、現実的には起こり得るから、どうしても考えてしまう。

「フランを殺して私も死ぬ」

 隣に腰掛けたこいしが私の手を握りながらそう言う。
 物語なんかではよく目にする言葉だ。けど、真に迫る声でそう言われると、背筋に冷たいものが走る。

「冗談、だよね?」

 声の調子からは、本気なのかふざけているのかを窺うことはできない。けど、本気ではないだろうという願望から、私はそう聞いていた。

「さてさてどうだろうね。あ、フランだけを殺すのもいいかも。そうしてフランの死体を飾って、その姿を眺めながら、理想の振る舞いを想い描けばいいんだから」

 昏い声にびくりと身体が震える。こちらの方は本気なのだと、なぜだか直感できた。

「……そんな私は、つまらないと思わない?」

 逃げよう、とは思わなかった。そうされたいと思っているわけではない。ただ、ここで逃げてしまうのは最悪な選択肢だと思ったのだ。ただそれだけ。大人しく殺されるのも当然、そのうちの一つだ。
 どうすればいい、というのはわからない。こいしの言動から探っていくしかない。
 ……最悪、本当に殺されてしまうかもしれない。一度、逃げる方法はあるのに、その意志を奪われてしまったことがあるから、どうしようもないときはどうしようもない。

「全然。今の私にとって、周りはうるさいばかりだから、私の思い通りになってくれる方がずっといい」

 こいしは私の手を離して立ち上がると、挑むように私の正面に立つ。私も、真っ向からその顔を見つめ返す。
 かと思っていたら、こいしは不意に私の身体をベッドの上へと押し倒した。そして、首元に手を添えられる。力は込められていないはずなのに、その存在だけで息苦しくなってくる。

「ねえ、フラン。これ以上フランの考えを押しつけないって約束してくれるなら、この手を放してあげる。でも、そうじゃなければ、この場でくびり殺す」

 冷たい目が私を見下ろしている。いつか押し倒されたときとは真逆の温度が私を見つめている。
 けど、不思議と怖いという感情は浮かんでこなかった。あのときは、こいしの執着に圧倒されていたけど、今は冷静に見返すことができる。
 どうしてだろうか。
 何かに引っかかりを覚えているような気がするけど、その正体をはっきりと掴むことはできない。

「余裕だね」

 こいしの手に力が少し込められる。実体を伴った息苦しさが私を襲う。
 まだ、完全に呼吸ができなくなったわけではない。しばらくは、だいじょうぶそうだ。
 けど、それでどうにかなるというわけでもなく、こいしの手のひらに私の手を重ねて、昏い光を伴った翡翠色の瞳を見つめていることしかできない。

「……ぁ」

 不意に、私はある考えへと至る。
 もしかすると、こいしは私に裏切られたと思っているのではないだろうかと。

 こいしが目を開いたばかりの頃は、無条件で甘えさせていた。けど、途中で私は、突然少々こいしを突き放すような態度を取るようになった。
 私は勝手にそれを正しいと思っていたけど、こいしからしてみれば、不意打ちのそんな行動は裏切りに映っても仕方ないかもしれない。
 なら、こいしが私を憎んで殺そうと思うのも、当然の流れかもしれない。

 許してはもらえないだろう。その事実に私はずきりと胸が痛む。知らぬ間に、取り返しのつかないことをしてしまったようだ。

「……ふざけたこと、考えないで」

 ぽつりと言葉が落ちてくる。

「私がフランを憎む? 何言ってるのっ? 私はっ、誰よりもフランのことが好きなんだから!」

 こいしが浮かべているのは今にも泣き出しそうな表情だった。
 けど、徐々に腕に体重をかけられていっているせいで、その意味を考えているような余裕はない。食い込んできている指が喉を圧迫していっている。
 今すぐ逃げるべきだろう。けど、今のこいしの腕から逃れてしまえば、そのままこいしが壊れてしまいそうな気がする。
 いや、殺されそうになっている場面で何を考えているんだろうか。私は苦しさの中で狂ってしまっているのだろうか。
 まあ、間違った行動をしているとは思わない。けど、自分の命と天秤をかけるべきことかと問われれば微妙なところだ。相手がお姉様なら、迷わず差し出しているんだろうけど。

「……なんで、フランはこんなときでも私を嫌わないの?」

 こいしの手から少し力が抜ける。それでも、死が遠ざかっただけで、苦しいことに依然変わりはない。
 か細く荒い呼吸を繰り返して、先程奪われた呼吸の分だけ取り戻そうとする。けど、必要な分はなかなか取り戻せそうにない。

 ここまでされて、私がこいしを遠ざけない理由は簡単だ。綺麗事を言えばこいしが好きだから。利己的なことを言えば私の世界を壊してしまうことがいやだから。
 まあ、こいしが好きだからこそ、拒絶が私の世界の崩壊と繋がるわけで、どちらの理由も共存している。こいしが私を必要としているのに比べれば弱いけど、私もまたこいしを必要としているのだ。
 それに、

「……まだ、私が、死んで、ないから」

 押しつぶされそうになっている気管を使って、なんとか声を絞り出す。

 殺す気がないわけではないと思う。けど、たぶんどこかに迷いや躊躇があるのだと思う。もし、それらがなくて、私に逃げる意志がなければとっくに殺されていることだろう。
 けど、実際にはまだ生きている。与えられているのは苦しさだけで、死はまだ遠い場所にある。

「……そうやって、無条件で信じられるフランはずるい」

 激情が引いて、ただただ弱々しい表情となる。

 そして、理解した。こいしがいつまでも会いに行くことを拒絶し続ける一番の理由を。
 それは、私が頼りないから。ぬいぐるみのように抱いて縋りつく相手としては優秀なのかもしれないけど、手を取って引っ張ってもらうにはあまりにも脆弱。

「……ごめ――んっ?!」

 謝るために口を開こうとした。けど、その音は途中で口の中にこもってしまう。
 こいしの顔が目の前に迫っていた。その意味を理解している余裕はない。首を強く圧迫されていて、呼吸ができなくなる。
 さすがに命の危険を感じて、こいしの下から逃げる。霧化した身体は、するりとこいしの腕を抜ける。
 ベッドの上、こいしの横で自分の身体を元に戻すと、咳混じりに喘ぐ。首元にまだこいしの手が残っているような気がする。

「謝らないで」

 こいしの方を見てみると、きっと睨まれた。わかりやすいくらいに不機嫌そうだ。
 私はこいしとの距離を詰めて、先ほどまで私を殺そうとしていた手を握る。放っておいたら、逃げられてしまいそうな気がしたから。

「その、えっと……」

 反射的に謝りそうになって口を噤む。そして、言葉を失ってしまう。どんな言葉ならこいしに届くんだろうか。
 いや、そもそも言葉は必要としていないだろう。心を読むことのできるこいしにとって言葉は飾りでしかないのだから。

 私に強さがあればよかった。どんなことを言われようとも、どんなことがあろうともぶれてしまわないだけの。
 そうであれば、少なくともこいしは私に頼っていられることができたはずだ。さとりに会いに行くことができるかどうかは別として。

 不意にこいしが立ち上がる。けど、私に手を握られているせいか、前には進まない。

「放して」
「どこかに行くなら、私もついて行く」

 私に失望して離れていくというなら、いやだけど受け入れるしかない。このときのことはいつまでも後悔することだろう。
 けど、だからといって、ここで無責任に手を放してしまうつもりはなかった。友達としては見限られているかもしれないけど、せめてさとりへの案内役は勤めたい。お姉様にも、中途半端は許さないと言われているし。

 そんなことを考えていると、更に険の滲んだ表情で睨まれた。思わずたじろぐ。けど、手は放さない。

「……私の話、聞いてた?」
「聞いてた」

 聞いたからといって、聞き入れるか否かは別の話だ。その意志を伝えるように、手に少し力を込める。

「そのことじゃない」

 ものすごく不機嫌そうな表情を見せられてしまう。どのことだろうかと首を傾げてみるけど、それで答えが出てくるほど私の直感は優れていない。

「むしろ変なところで鈍い気がする。普段は無駄に鋭いくせに」

 こいしがこちらへと戻ってくる。何をされるのかと身構えるけど、握っている手は放さない。それが狙いなのかもしれないし。
 けど、私に握られていない方の手で肩に触れてきたあたりで、ようやくこいしが何をしようとしているのかを悟る。それから、こいしが不機嫌になった理由も。

「私、あんまり自分に自信がないから、そういう行動は控えてほしいなぁ。今のこいしなら、私がどう思ってるかはわかるでしょ?」

 目の前に迫ったこいしへとそう言う。こいしは背後から私の分身に捕まえられているから、これ以上距離を詰めることはできないはずだ。
 さっきは防ぐ余裕がなかったから、不本意にも受け取らざるを得なくなったけど、気づいたなら防がないといけない。私はこいしと同じ想いは抱いていないのだから。

 さっき、正面切って誰よりも好きだと言われたことを思い出した。
 こいしの想いを忘れていたわけではない。ただ、情けない姿を見せてしまったから、愛想を尽かされてしまったのだと思っていた。
 けど、実際はいつもの逃げ癖が出てきただけのようだ。

「……うるさい、ばーか」

 こいしにしては珍しい直球の罵倒の言葉。かなり参ってるのかなぁと漫然と思う。

「そう思うなら、抱きしめるくらいして」

 不機嫌そうなまま、そんなことを言ってくる。

「まあ、それくらいならいいけど」

 分身を消して、こちらに倒れてきたこいしの身体を抱き止める。そのときにさり気なく顔を寄せてきたけど、それは避けた。

 こいしが目を開いてから、抱きしめるようなことは何度かあったけど、今回は一段とその身体を小さく感じる。こいしの方が私よりも一回り大きいはずなのに。
 なんとなく、こいしをあやすようにゆったりとした感覚で背中を優しく叩く。少しこいしが力を抜いていくのを感じる。

 しばらく私たちは無言でいた。
 何か伝えるべきことがあるような気がするけど、明確な形とはならない。また、私は迷ってしまっている。
 どこに進むべきかは最初から決まっている。けど、そこに至るまでの方法を見失ってしまった。私の頼りなさのせいで、お互いを追いつめるといういらない結果だけを残して。

「……私は、フランに頼りがいなんて求めてない。ただ、こうやってずっとフランに甘えてたい」

 ふと、こいしが声をこぼす。
 甘えるようでも、縋るようでもない、ただただ弱々しいだけの声。だからこそ、打算も何もない素直な言葉なのだとわかる。

「……だから、フランを私の好きなように変えてやろうって思った。……そうやって、私の方こそがフランを裏切ってた。
 なのに、フランは馬鹿の一つ覚えみたいに私のことを信じてて、真相を知った後も、殺されそうになった後も、全然私に対する嫌悪感さえも抱かないで、それでいて全然私の思い通りにはならないで、フランなりに信じてる未来を引き寄せようとしてて、そのくせ私の言葉に簡単に揺らいでて意味がわかんない」

 こいしの口から言葉が続々と溢れ出てくる。でも、それは私のことばかりだ。話の流れからして当然なんだろうけど、私が聞きたいと思っていることではない。こいしが裏切ったか否かはどうでもいい。私自身がそうされたと思っていないのだから。

「私のことばっかりだけど、さとりのことは?」

 流れを無視してそう聞いてみる。今なら、素直に答えてくれるとそう思ったのだ。

「……卑怯者め」

 じっとりとした声でそう言われる。けど、その程度なら気にもならない。

「手段は選んでられないってことで」

 実際、こいしはこちらを殺しにきたわけだし、私もどこで心のたがが外れるともわからない。昔とは比べられないくらいに安定しているとはいえ。

「……」

 こいしは答えようとはしない。言葉にすることを逡巡しているだけなのか、黙秘を貫くつもりなのか。
 どちらにせよ、私にできるのは待つことだけだ。素直に話してくれるにせよ、誤魔化されるにせよ。

 こいしの邪魔をしないように、できる限り頭を空っぽにする。こいしの肩越しに見える扉をぼんやりと見つめながら、こいしの背中を優しく叩く。聞こえてくるのは、時計が時間を刻む音とこいしの静かな息遣いだけ。
 何も起こらない時間が過ぎ去っていく。

「……私は、お姉ちゃんに会いたい」

 静かな空間にぽつりと落とされた声は容易く溶けていく。けど、そこに乗せられていた言葉はしっかりと届いてきた。
 以前、こいしがさとりを避けていたときには一度も聞くことのできなかった言葉。だから、あのときは始終自己満足のお節介でしかなかった。けど、こいしの言葉を聞いた今、少しはこいしの願ったとおりの行動となる。

「じゃあ、私はそのためにまたがんばる」

 何か行動を起こせるわけではない。けど、こいしの想いを明確に知った今、迷いが生じることはないだろう。
 結局、私の迷いの根元はこいしの本音がよくわからないということだった。

「……なんか生意気」
「こいしが頼れるのは今のところ私だけみたいだから、少々の無茶は見逃して」

 その言葉に返ってくる声はない。その代わりに、私へと抱きつく腕に力が込められる。
 私に任せてくれるということだろう。
 それに応えるように、私もぎゅっとこいしの身体を抱きしめるのだった。


◇Koishi's side


「こいし、だいじょうぶ?」
「……だいじょうぶじゃない、ちょっと吐きそう」

 地底の中心の離れ、地霊殿からは少し離れた何もない静かな場所。そこで私は、冗談でも何でもなく本気でそう言う。
 なんとか覚悟もできたからとここまで出てきたはいいけれども、お姉ちゃんと顔を合わせるその時が実際に近づいてくるとこの様だった。過去の記憶たちが憎い。

 私がフランを殺しかけてから、しばらくが経った。
 その間に過ぎ去っていった時間は、私が目を開いてからは比べものにならないくらい穏やかで落ち着いたものだった。
 フランをより私にとって居心地のいい場所にするために無駄なことをすることもなく、フランと真っ向から対立することもない。フランもお姉ちゃんのことを考えすぎることはなくなり、自然体のまま私のそばにいてくれた。
 まあ、フランが少々強引だったのは、私が意地になっていたせいなのだけれど。自業自得というやつだ。

 フランが本を読んでいる間、私はフランの身体へと寄りかかって何も考えずぼんやりとする。そのときに、ふとお姉ちゃんのことを考えたりもする。それが基本的な日々の時間の過ごし方だった。
 お姉ちゃんに会いたいという気持ちは、フランにそれを吐露してからは日増しに強くなっていた。それでも、恐怖はその気持ちを駆逐して、私をフランの部屋へと押し留めていた。

 だから、私がこうして出てこれたのは、気まぐれが私を後押ししてくれただろう。そして今、その気まぐれは無責任に私のことを見捨てている。

「無理はしないで」

 心配を浮かべたフランが口にするのはそれだけだった。けど、心の方では私が戻りたいと言えば、戻る心積もりがあるということを訴えている。
 今の私には、前に進む道も後ろに戻る道も用意されている。選択する余地があるということが、私を楽な方へと進めようとする。どちらを選ぼうとも私を責めるのはいないだろう。

「……ちょっと、休ませて」

 フランが答える前に寄りかかる。イヤそうな感情一つ浮かべることなく、私の心配だけをして支えてくれる。
 お姉ちゃんに会いたいという意志と逃げ帰りたいという意志がせめぎ合っていて、どうしたいのかが決められない。いっそ、フランが無理矢理お姉ちゃんのところまで引っ張ってくれるか、気を遣って帰ろうと言ってくれればいいんだけど、フランは沈黙を守っている。心の方も私の選択を待っているだけだ。

 しばらく、沈黙が場を支配する。旧地獄街道から届く喧噪が微かに届いてくるくらいだ。
 フランは、寄りかかる私の身体を優しく抱きしめてくれている。ここ数日の間に、私は本当にフランに依存するようになってしまっていた。
 フランがいなくなれば本当に何もできなくなる。そして、フランがそばにいてくれさえいればどんな命令も聞けると思う。
 でも、フランがその強力な命令権を行使することはない。今は気づいていないだけだけど、結局気がついても使うようなことは絶対にないだろう。そう断言ができるくらいには、私はフランのことを知っている。

「……ねえ、お姉ちゃんに会ってだいじょうぶだと思う?」
「うん、だいじょうぶ」

 心の中では迷いを浮かべながらも、断言してくれる。
 フランの迷いを打ち消しているのは、私が消そうとした煌々と輝く希望の光。疲弊の中で一度は、くすんでいたけど今はまたその輝きを取り戻している。
 一時期はその光を疎ましく思っていた。でも、今はその光が私の道を照らしてくれている。
 お姉ちゃんも同じものを受け取ったようで、私たちの道はフランに照らされて、繋がっている。フランはそう信じてくれている。途中で断絶しているかもしれないと、心のどこかで思いながらも。

「……なんとか、行けそう」

 再度心の整理を行って、深呼吸。そうして、もう一度覚悟を手にしてそう言う。

「ん、じゃあ、行こうか」

 心配そうで不安そうで、けど同時に嬉しそうで期待の混じった複雑な表情で笑顔を浮かべてくれる。私のことで、そこまで色々な感情を見せてくれることに愛おしさを覚える。
 目を開いたばかりのときは、フランのことを嫌ってしまうのではないだろうかと思っていた。けど、実際には私の思い通りにしようとして失敗したあげく、余計に好きになってしまっていた。
 まあ、フランは自分の世界を守ろうとしてただけみたいだけど。私の想いに応えてくれる感情は、欠片も見つけられなかった。

 フランに手を引かれるような形で前へと進む。端から見れば、私が先導されているだけのように見えるだろうけど、実際は私が選んだ結果だ。引き返そうと思えば、さっきの休憩の時にそうすることができていた。

 地霊殿が近づいてくる。懐かしいという想いが去来してきて、胸が詰まりそうになる。
 長い間帰らないというのは、私にとっては頻繁とは言えないものの、珍しいと言えることでもなかった。
 でも、今は恋しさを覚えている。恐怖がなければ、駆けてでもお姉ちゃんへと会いに行っていたかもしれない。
 フランがいなければ、ここまで強い感情を抱くこともなかっただろう。

 一歩進むごとに、前に進みたいという意志と、後ろに戻りたいという意志が一緒に強くなっていく。フランに引かれている分だけ、私は前に進むことができている。
 そして、最後まで止まることなく扉の前にたどり着いた。

「じゃあ、後はこいしが」

 フランに先頭を譲られる。私を一人にするなんていういらないお節介を焼こうとしていたら、その場で泣き崩れるかもしれない。それくらい、今の私の感情は不安定となっている。
 けど、フランはしっかりとわかってくれている。私の手を握ったまま後ろに立ってくれている。ただ、フランの緊張も伝わってきて、逃げ出したい気持ちが少し強くなってしまうけど。

 扉を叩いた後も逃げようと思えば逃げられる。そう自分に言い聞かせて、ドアノッカーで扉を叩く。これで、玄関の側にいるペットの誰かが、お姉ちゃんに誰かがこうして訪れたということを伝えに行っただろう。

 後は、待っていればそのうちお姉ちゃんが出てくるはずだ。けど、それまでに、どれだけかかるのだろうか。
 緊張だけでへたり込みそう。

「こいし、深呼吸してみて」
「う、うん」

 フランに言われるまま、息を大きく吸い、それを全部吐き出す。
 フランも後ろで同じことをしている。

「もう一回」

 再び同じことをする。もう一回とまた言われたので、繰り返す。

「……落ち着いた?」

 吐き出した呼吸の余韻をそのままにそう聞いてくる。

「……よくわかんない」

 あまり変わらないような気がする。でも、そんな私とは対照的に、フランの心はそれなりに落ち着いている。
 そんなことに気がつくと、私の方も多少落ち着いてくる。
 感情もだいぶフランに依存しているようだ。

「えっと、それなら、これは?」

 そう言いながら、フランが私の頭を撫でてくれる。これまで、なんどこうしてもらったかわからない。気がつけば、やたらと手慣れていて、身長差も関係なくなってしまっている。
 フランの手は、多少どころではないくらいに私を落ち着かせてくれる。別の理由から、その場にへたり込んでしまいそうだ。
 フランを落ち着かせるのに同じことをしたレミリアに感謝。苦手意識は払拭できないけど。

「どう?」
「すごく落ち着ける。このままフランに身体を預けて眠っちゃったい」
「いやいや、なんで寝ようとしてるの」

 呆れを浮かべたフランが手を止めてしまう。

「ケチ」
「何しにきたか覚えてる?」
「ん、覚えてる」
「ならいいけど」

 フランの澄ました態度がなぜだか面白くて、つい笑い声がこぼれてしまう。フランもそれにつられたように小さく笑う。
 いくら心が読めて、その意図がわかっていても、実際に作り出される雰囲気は私に不意打ちを仕掛けてくる。この少々滑稽ないつも通りが、結局私を一番落ち着かせてくれる。

 きぃ……。

 不意に和やかな空気の中に、扉の蝶番の軋む音が混じった。普段なら、なんてことのない音だ。けど、今の私にとっては不気味に響く。
 私の身体はびくりと震える。驚いたわけではなく、今まで抑えていた恐れがまとめて噴出してきたのだ。
 私の震えに気がついたフランは、私の手をぎゅっと握ってくれている。そのおかげで、私は逃げ出さずに、もしくはその場にへたり込まずにすんでいる。

「こいし……」

 扉の向こう側から現れたお姉ちゃんが、私の名前を呼ぶ。
 私の目はその心を――

「こいし……っ!」

 お姉ちゃんの感情が爆発的に大きくなったかと思うと、飛ぶようにしてこちらとの距離を詰めてきた。逃げる暇なんてなくて、真っ正面から拘束される。
 少し慌てたフランに後ろから支えてもらっていなければ、そのまま地面の上に倒されていたかもしれない。

「ああ、おかえりなさい、こいし。ずっとずっと待ってたのよっ!」

 お姉ちゃんらしくない感情にまみれた声。私の目はお姉ちゃんの溢れんばかりの歓喜を映し出しているけど、今のお姉ちゃんの様子を見れば誰にだってわかる。
 後ろでフランもお姉ちゃんの姿を珍しく思っている。落ち着いている、というか、大人しいといった姿が私たちが共通で抱いている印象だ。

「お、お姉ちゃんっ、と、とりあえず、落ち着いてっ」

 そんなことよりも、これまでにないくらい力を込めて抱きしめられているせいで苦しい。私もフランに似たようなことをしたことがあるけど、姉妹そろって恋しく思った相手を絞め殺さんばかりに抱きしめる癖でもあるんだろうか。

「あ……、ごめんなさい。……それから、おかえりなさい。帰ってきてくれてよかったわ」

 捕縛するような抱擁から、優しく包み込むような抱擁へと変わる。私も身体から力を抜く。
 こうして落ち着いてくると同時に、お姉ちゃんの心が見えてくる。一番大きいのは私に会えて嬉しいと思っている感情的なもの。それを引っ張るように、フランが残して時間の流れとともにその輝きを増していった光が煌々と輝いている。どうやら、これがお姉ちゃんを暴走させたようだ。
 そして、そんな眩しいものたちとは対照的に、お姉ちゃんの目に映った私の不安や恐怖が過去を呼び覚まして、光を飲み込もうとその姿を濃く大きくしていっている。

 お姉ちゃんに抱きしめてもらうところまでは、うまくいっていると思っていた。いや、そんなことを考えてもいなかった。
 でも、思考が不幸を呼ぶ。考えすぎることが、小さな幸せを大きな不幸に飲み込ませてしまう。
 逃げる余裕もなくて、お姉ちゃんに縋っていることしかできない。そのお姉ちゃんも、私の心を見て狼狽して、光を揺らがせている。
 無数の過去が私を襲ってくる。私たちの間で記憶が共有され共振し増幅していっている。
 私に向けられた罵倒、拒絶、追いやるための石。
 お姉ちゃんが見た惨めでぼろぼろで壊れかかった私の心。
 光は隅に追いやられていき、心がどす黒く塗りつぶされていく。心の傷から溢れ出てくるのは闇そのものだった。

「こいしっ!」

 けど、そんな闇を切り裂くように光が割って入ってくる。
 お姉ちゃんとともに閉ざされかけていた意識は、半ば存在を忘れかけていたフランの方へと向く。

「私はこいしやさとりと一緒にさとりの作ってくれた暖かいココアを飲みたい。二人が幸せそうにしているところを側で見ていたい。だから、こいしも想像してみて、眩しいくらいに幸せなで、心穏やかになれるような光景を。
 一人で難しいなら私も手伝う。さとりだって一緒に考えてくれる。私は外から好き勝手なことを考えて、こいしはさとりと一緒にそれを基にして想い描いて」

 そんな勝手なことを言いながら、フランが私を後ろから抱きしめる。ここまでされたなら忘れることもないだろう。

 フランが今まで何度描いていたかわからない幸せの光景をいくつもいくつも思い浮かべる。フランらしく、私がお姉ちゃんへと甘えているようなのばかりだ。それは自分の願望を私たちで置き換えただけなのではないだろうか。
 お姉ちゃんはフランの思考を受け取って、必死に私たちの未来を思い描いている。暗い過去に飲み込まれてしまわないようにしながら、闇を取り払おうとしている。

 私は、二人から流れ込んでくる光景を受け取るだけだった。そうすることしかできなかった。
 内側からは暗いものばかり浮かんできている。外側からはそれとは対照的なもの、対照的にしようとしているものばかりが注ぎ込まれてきている。
 二人と同じように幸せな光景を思い浮かべてみようとするけど、うまくできない。かといって、暗い過去ばかりを思い出すというわけではない。

 なにも思い浮かんでこないのだ。

 まあ、それもそうだ。私は大好きな二人に挟まれて、こんなにも想われている。
 幸せを頭の中で妄想して作り出す必要なんてない。現実にそれはあるのだから。

 気が付けば、暗い過去は私を追い立てるものではなくなっていた。
 心の傷は変わらず残っている。私はこれからも拒絶されることを怖がる。私を肯定してくれる人がいる限り。
 過去は過去と割り切ることができただけ。過去をまるで今現在起こっている事象のように感じることがなくなったというだけ。

 それを理解して、私の恐怖はどこかに溶けていった。
 後に残るのは脱力感。色んな部分の力が抜けて、私は温かな世界の中心で泣いていることしかできなかった。


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