◇Flandre's side


「こいしのこと、よろしくお願いしますね」

 さとりにしばらくこいしを館で預かるということを伝えたら、随分あっさりとした様子でそう返ってきた。お姉様にもこいしを館に置いておくということ伝えたときはあっさりとした反応だったけど、それとこれとは別だ。お姉様にとっては全くの他人かもしれないけど、さとりにとってはそうではないのだから。
 それに、少し安心しているような気さえする。そのことも、こいしの様子と合わせて気にかかる。

「……正直に言うと、心を読めるようになったこいしに会うことが怖いんですよ」
「怖い?」

 さとりの対面に座っている私は、意外な言葉に首を傾げる。そういえば、こいしの様子も、怖がっているといえばそんな感じだったかもしれない。
 こいしに見られたくないことでも考えているということなのだろうか。でも、さとりがそんなことを考えているとは思いたくない。

「フランドールさん、私はこいしが目を閉ざすその直前までのことを知っています。こいしが何を考えていたかも含めて。なので、心を読めるようになったこいしを前にした私は、そのときのことを思い出してしまうかもしれません。その記憶を見たこいしが過去を鮮明に思い浮かべ、私がそれを見て、またこいしの目がそれを映し出し、際限なくその心を抉ってしまうかもしれません。……私が引き金となって、こいしの心に止めを刺してしまうかもしれないということが、怖いんですよ」
「そう、なんだ……」

 さとりが口にした起こり得る可能性のある未来は、お互いに心を読むことができるからこそ起こる弊害だった。心を読むことのできない私にはなかなか思い浮かばないことだ。無理やりこいしを連れてこなくて良かったかもしれない。
 ああ、もしかするとこいしも同じことを懸念していたから、さとりに会いたがっていなかったのかもしれない。本当はさとりに会いたいと思っているのかもしれない。

「……本来は、喜ばしいことなんでしょうけどね。私が純粋なら、過去に囚われることなく元に戻ったことを祝ってあげられたのでしょうけど」

 でも、純粋なままで他人の心を読み続けるということに耐えられるんだろうか。目を閉ざしたこいしと、他人に避けられ他人を避けているようなさとりの姿を見ているとそう思う。

「耐えられないでしょうね。なので、嘆きはしませんよ。私はこいしの姿を見ることのできる時をここで静かに待つばかりです」

 静かな笑みが強がりであるというのはすぐにわかった。でも、だからといって私が言えることもできることもない。ただこうして色々と考えて、余計にさとりの心を傷つけてしまうばかりだ。

「その程度で傷つきはしませんよ。むしろ、そこまで気遣っていただけると嬉しいばかりです。こいしも、その心遣いに救われているはずです」

 今度は本物の笑みを浮かべる。けど、すぐに真面目な顔つきとなる。私も姿勢を正す。

「フランドールさん。無理にこいしを私の所に連れてこなくても構いません。私はこいしが幸せであれば十分ですから」
「……前にも同じようなこと言われた」

 それを言われたのは、こいしがさとりのことを今とはまた別の理由で避けていたときだ。
 以前のは、気づきにくかったというだけで気づいてしまえばそう難しくない問題だった。けど、今回のに関しては、そういうわけにもいかない。なぜ、という問いに対しての答えはさとりの口から出てきている。けど、きつい条件に縛られて、どうすべきかという答えは出てこない。
 どうしてこの二人の間にあるものは、その距離を遠くするようなものばかりなのだろうか。やるせない気持ちが沸き上がってくる。

「フランドールさんは私のことを忘れてこいしに接してあげてください。その方が、こいしも私のことを気に揉まずにすむでしょうから」
「……今度は無責任なこと言ってる」

 出てきた声は思っていたよりも低いものだった。
 前とは違って、私にこいしを見捨てるという選択肢は存在しない。今のところ、こいしが頼ることができるのは私だけのようだし、それ以前に友達として助けてあげたい。
 だからといって、さとりを責めるつもりはなかった。何も思い浮かばない私と二人の間にある不条理への苛立ちが、私を少々攻撃的にしている。

「……いえ、フランドールさんの言い分ももっともですよ。すみません」
「……ううん」

 さとりにかける言葉は何も見つからない。代わりに私の思考がさとりを苛み続けているのを感じ取る。

「……ごめんなさい。私、そろそろ帰る」

 椅子から立ち上がりながらそう言う。これ以上、ここにいることに耐えられなかった。

「はい。……気をつけて、帰ってください」

 申し訳なさそうな声を聞くなり、私は逃げるようにさとりに背を向けた。


◇Koishi's side


 フランのベッドに横たわり、布団に顔を埋める。決して邪な思いからだけではない。こうして、フランの残滓でもいいから感じていなければ自分自身を保てなくなってしまいそうなのだ。
 フランの傍では安心できると確信した私は、同時に完全にフランに依存するようになっていた。気がついたのは、フランが部屋から出て行って少ししてからだ。
 フランがいなくなったことによってできた間隙を、心の奥底から滲み出てきている過去の記憶がじわりじわりと埋めていっている。それは、同時に色んな負の感情を撒き散らし、私の心を浸食していく。

 布団のシーツをぎゅっと握りしめる。それだけで負の方向に大きく振れる感情が収まることはない。今度はそのまま布団を抱きしめてみる。それでも、私の不安や恐怖は消え去らない。それどころか、フランが傍にいないということを今以上に理解してしまい、かえって辛くなる。

 早く帰ってきて欲しい。
 私を受け入れてくれる暖かな心に、私を支えてくれる小さな身体に寄り添わなければ、寒さに凍えて死んでしまう。
 私は弱い。目を閉ざしたことが間違いだとは思っていないけど、その選択をしたのは私の弱い心だ。そのときは、正しさなんて求めずただただ逃げたがっていた。
 だから、誰の心も見えないという状況を失い、今の状況下で唯一の支えであるフランが離れた今、私は過去に、不安に、恐怖に苛まれていることしかできない。

 こんこん。

 不意に、扉を叩く音が響いた。私はその音ではなく、それが意味することに恐れて震える。
 フランが自分の部屋に入るのにノックをするはずがない。だから、扉の向こう側にいるのが、フラン以外の誰かであるというのは明白だ。
 弱い弱い私は怯えて震えていることしかできない。今はフラン以外の心をはっきりと見ることができないとはいえ、よく知らない誰かと相対するのは怖い。

「こんにちは。……っと、ちゃんと話ができる状態ではないみたいね」

 扉の開く音の後に聞こえてきたのは、フランの姉であるレミリアの声だった。顔を見ていたら、心の中がはっきりと見えてしまいそうな気がして顔を上げることはできない。だから、姿は見えない。

「まあ、別にいいか」

 レミリアの声は、こんな私の姿を見てもマイペースに響く。感情の大半は興味や関心といった具合の物だ。けど、微かに敵意を浮かばせていることに気がついて、身体が竦む。

「もてなすつもりはないけど、好きなだけくつろいでちょうだい。もし、何か不満があればフランに伝えておいて。手間がかかりすぎなければ、応えるようにするから」

 何を言われるんだろうかと身構えていたけど、レミリアの口から出てきたのは、私に積極的に関わるつもりがないという通知だった。
 でも、穏やかではない感情を抱えていてそれだけで終わるはずがなかった。

「それと、もう一つ。貴女がフランに不利益しかもたらさない存在だと判断したら、フランに貴女のことを諦めさせてここから追い出すから、覚えておきなさい」

 敵意が明確に顔を覗かせる。私はそれが怖くて、身体を強張らせていることしかできない。今は脅しのためのナイフでさえも、凶刃となり私の心を切りつける。
 ただ、幸いだったのはその敵意がフランを想っての物であったということ。私そのものを否定するための物でなければ、心が壊れない程度には耐えることはできる。
 今まで私はフランに対して好き勝手やってきた。だから、そうした感情を向けられるのも仕方がないと思っている部分もある。問答無用で追い出されなかっただけましだとも言える。ただ、それでも受け止めきる余裕が全くないというだけで。

「そんなに怯えられると調子が狂うわねぇ。別に怖い事を考えているつもりはないんだけれど」

 少し困ったような、けどやっぱり暢気な様子の声。敵意は鳴りを潜めている。私に敵意を向けることに執着はしていないようだ。
 そのまま、沈黙が場を支配する。時計が時を刻む音だけが響きわたる。レミリアの気配と私の恐れとが混じり合って居心地の悪い空間となる。

 ……いつになったら、出て行ってくれるんだろうか。

 レミリアが私に対して言うことがこれ以上あるとは思えない。敵意を隠しもせずに見せてきたのだから、今更言葉に躊躇することもないだろう。そもそもそうした感情なら、見ることができるはずだ。
 けど、今のレミリアが浮かべているのは、困惑と興味と関心とそれから――

「ねえ、本当に心の中が見えているのかしら?」

 疑念だった。
 別にやましいことを指摘されたわけでもないのに、身体が反応を示す。そしてそれが、質問への回答となってしまう。

「見えていないみたいね。でも、その様子だとフランに嘘をついたというわけでもなさそうだけど……」

 レミリアが好奇心に火を灯らせる。まだしばらくは出て行ってくれそうにない。どうしてこんなに私に関わってくるのだろうか。早く一人にして欲しい。そうして、フランが帰ってくるのを待ち焦がれている方がましだ。

「……出てって」

 私は布団に顔を押しつけたままそう言う。柔らかな布に音の大半が吸い込まれて、自分の耳にも聞き取りづらくなる。
 それでも、時計の音くらいしかないこの部屋では、しっかりとレミリアの耳にも届いていた。

「私はここの主で、貴女は客人。礼を尽くすつもりがあるならともかく、そんな気はさらさらないから聞き入れるつもりはないわ」
「……ここ、フランの部屋」
「ええ、そうね。だから、フランに出て行けと言われたら素直に出て行くわよ」
「……いつまでいるつもり」
「フランが帰ってくるまで」

 私の突き放すような態度を前にしても、レミリアは態度を変えず居座り続ける。その胸に浮かんでいるのは、……親近感?
 思いも寄らない感情を見つけて、私はしばし他人が近くにいるという恐怖を忘れてしまう。どうしてそんな感情を向けられているんだろうか。

「どうせ暇なんでしょう?」

 その問いを聞いて、私はふと我に返る。そして、首を左右に振ってその言葉を否定する。レミリアにすぐ出て行ってほしいからというのもあるけど、フランがいない時点で暇を感じているような余裕はない。

「じゃあ、私の暇つぶしに付き合ってちょうだい。私は暇で暇でしょうがないのよ」

 私は首を先ほどと同じ方向に振る。けど、それに対してはなんの反応もなかった。諦念といった類の感情は見えないから、勝手にここに居座ることを決めたのだろう。
 出会った頃のフランを思い出す。違うのは、そうして勝手な行動をするのがとても自然だということ。そしてだからこそ、質が悪い。

「ああ、そうそう。貴女の今の状態がどんな感じかなんとなく察しはついたわ。フランの心だけが見える。そういう感じでしょう?」

 レミリアはどこか弾んだ様子の声でそう言った。心の方も声と違わず喜色に染まっている。答えにたどり着けたことがそんなに嬉しいんだろうか。
 私はレミリアの子供っぽい感情の動きに意表を突かれて、つい素直に頷いてしまう。

「一応、それだけフランのことを信頼してくれているということかしら」

 違った。レミリアの喜びは、フランへと向けられたものだった。

「ま、だからといって、温情をかけるつもりはないけど。さっき言ったとおり、フランに対して害しかないと思えば追い出すわ」

 攻撃的な言葉の割に声は柔らかい。感情も特に変わりはなく、喜色に染まっている。
 ちゃんと話をしたことはないけど、面倒くさい性格なんだろうというのがよくわかる。どうしてフランはこんなのが好きなんだろうかと思ったけど、よくよく考えてみれば私も似たようなものだった。
 フランは面倒くさい性格が好きなんだろうか。

 ふと思い浮かんだその疑問について真剣に考えてみようと思ったけど、レミリアの気配に邪魔をされてうまく考えることはできなかった。


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