◇Flandre's side
ぽちゃん。
こいしが落とした角砂糖が淹れられたばかりの紅茶の水面を突き破り、小さな音を響かせて沈む。それが、更に二度続く。
こいしがそれほど甘い紅茶が好きだというわけではない。こいしは、砂糖の入っていないミルクティーと共に、甘いお菓子の味を楽しむのが好きだ。だから、今こいしの前にあるティーカップはこいしのものではない。私のものだ。その代わりに、こいしのものが私の前にあるということはなく、こいしの前にはカップが二つある。
かしゃかしゃ。
ティースプーンの先とカップの底とが擦れ合う音が響く。ここからでは見えないけど、角砂糖は崩れ、温かい紅茶の中へと溶けていっているのだろう。何度となく見てきた光景だから、音を聞けば頭の中にその情景が浮かんでくる。
こいしが私に同じ感情を抱かせると宣言して以来、こうして献身的な態度を見せることが多くなった。一度、力尽くでも自分の物にするような態度を取られたから、この変わりようは意外だと思っていた。
でも、こいしがふと見せる臆病さを考えてみれば、それは別段おかしなことでもない。どちらも私に離れてほしくない。そうした感情が起因となっているのだろうから。
「はい、どうぞ、フラン」
「ん、ありがとう」
こいしは一切曇りのない笑顔を浮かべながら、甘い紅茶の入ったカップをこちらへと差し出してきた。
この笑顔が信頼だけで成り立っていたなら、私はむずがゆさを感じるだけで、こんなにあれこれ考えたりすることはなかったんだろうなぁと思う。どう転んだって、こいしの想いには応えられないだろうから、一途な様子を見せられると、気恥ずかしさよりも申し訳なさが先立つ。
私はこいしが混ぜてくれた紅茶に口をつける。砂糖の甘さと共に紅茶の香りが鼻を抜ける。口を離した後、自然とため息が漏れてきた。まあ、あれこれ悩んだりはしているけど、こうして紅茶の味を楽しめる程度には余裕がある。こいしの想いは本物ではあるけど、今はそこに必死さが付随していないからだろう。
「どう?」
「うん、おいしい。さすが、咲夜の淹れた紅茶だと思う」
こいしが聞きたい言葉はわかっているけど、こいしのように入れ込んでいるわけではないから、さすがに口にはしない。
「ほう、わざわざ喧嘩を売るような言い方するんだ?」
「あんまり濁した言い方をしても、遠回りするだけで結局行き着く場所は同じだからいいんじゃない?」
「私としてはその過程も楽しみだったんだけど」
「思い通りにならないっていうのも、十分楽しめる要素だと思う」
「まあ、確かにね。でも、それがフランだってのは気にくわない。フランは私の物になって大人しく従順になってればいい」
内容の割には軽い調子の声。でも、一度切望の色を乗せた声で同じようなことを言われたことがあるから、冗談でないことを知っている。今現在、その優先順位がどのようになっているのかはわからないけど。
「今更こいしに従順な私の姿なんて想像できる?」
「万が一でも可能性があれば想像できるのがこの私。フランはそういう素質がありそうだから」
「だとしても、それがこいしに向かうことはないと思う」
私と目線の高さが同じくらいのこいしに、そうした態度を取ることはないだろう。そもそも、お姉様以外にそうした態度を取る自分の姿を想像することができない。
「はっきり言ってくれるねぇ。まあでも、だからこそ落としがいがあるってものなんだろうけど」
こいしが楽しそうに笑う。なんでこんなややこしい関係になったのかなぁと思うときもある。でも、そうした面倒なことを考えなければ、こいしの明るい表情はけっこう好きだ。それに、出会ったばかりの頃の刺々しい態度を知っているから、平和だなぁと暢気に考えることもできる。
「……なんか気の抜けた顔してる」
「ん、こいしの楽しそうな表情を見てると平和だなぁって。いろんな表情を見た気がするけど、その表情が一番好き」
「ぅぐ……っ。……フランは、不意打ちでそういうこと言うところが卑怯」
頬に朱を滲ませたこいしがたじろぐような様子を見せる。
……どうやら、またやってしまったようだ。どうにも、こいしをときめかせるようなことを無自覚に言ってしまうことがよくある。別にそうしたい感情がどこかにあるわけでもないのに。
「私は思ったことを口にしただけなんだけどなぁ」
私としては、こうした雰囲気は好ましくない。だから、わざとらしく気にしてないような素振りを見せて、早々に崩してしまうことにする。こいしがわかりやすく狼狽してくれるおかげか、思いの外冷静でいられることが多い。
「この意気地なしめ」
「意地でも今の関係を続けようとしてるのが、今の私なんだけど」
結局はお互いに意地っ張りだということなのだろう。どちらかがどちらかの感情に引っ張られていたら、こんなややこしいことにはなっていなかったかもしれない。
「全く、いつになったら次のステップに進めるのやら」
顔を赤くしたまま、今にもため息をつきそうな声でそう言う。でも、その後に浮かべるのは幸せをまぶした笑みだ。
「まあでも、そういう言葉を聞けるだけでも私は幸せなのか、も――っ?!」
「……こいし?」
何の前触れもなく、こいしの笑みが一瞬で凍えた。何かに驚いたように、もしくは何かに怯えるように身体を震わせていた。
こいしが怯えるようなものは大体把握しているつもりだけど、今はそうしたものは何もないように思える。そもそも、何かが起こったようには見えなかった。
いや、そうじゃない。こいしの第三の目が少し開いて――
「あ、あはは、な、なんでもない、なんでもない。うん、幸せすぎてちょっと意識が飛びかけただけで、どうってことないって」
こいしはわざとらしく笑って誤魔化す。第三の目を確認しようとしたけど、うまい具合にこいしの手が邪魔になってしまっていて、その様子を窺うことはできない。
一瞬だけ見えた目は本当に微かだけど開いているように見えた。でも、見間違えたという可能性もないわけではない。
「ねえ、こいし――」
「ごめんっ、フラン。用事思い出したから帰るねっ」
確認させてもらおうとしたら、慌てたように立ち上がって背を向けられてしまう。その理由が今この場に適当にでっち上げたものだというのはすぐにわかった。
「えっ? あ、うん」
でも、こいしの勢いに負けて反射的に頷いてしまっていた。そして、止めないといけないという意志が湧いてくる前に、こいしは逃げるように部屋から出ていってしまう。
一人残された私は、しばらく動くことができなかった。
◇Koishi's side
フランの部屋から逃げ出した私は、ほとんど衝動的に空を駆けていた。目的地なんて何もない。ただ誰もいない場所へと行って一人になりたかった。
だというのに、紅魔館から飛び出て、湖を越えて、ほとんど誰も寄りつかなさそうな場所にまで来ても、私は止まらない。いや、止まれない。止まったらその瞬間に過去に追いつかれてしまいそうで、止まることができない。
それは、声であり映像だ。私の心を、突き刺し、抉り、刻もうとする、どろどろと淀んだ穢れまみれの心たちだ。それが私を追いかけてきている。
ああ、でもわかっている。それはただの過去の幻影に過ぎないのだと。私が切り捨てたものの残骸に過ぎないのだと。
心の古傷が生み出す幻聴。心の不具合が原因の強迫観念。
私は冷静。突然心の声が聞こえてきて取り乱してしまっただけだ。そう判断ができるほどに落ち着いている。どこかに向かおうとしていた身体も止まり、文字通り地に足を着ける。
そして、深呼吸。本当はこのまま現実から目をそらしてしまいたい。そうして、少し不満はあるけど概ね満足している日常の中へと身を投じたい。
でも、私の持つ呪われた目はそれを許してはくれない。今もすでに、木々の揺れる音に混じって、話し声のような雑音めいたものが聞こえてくる。脳裏を異物がかすめる。
首を振るようにして左右を見回してみると、木々の間を妖精が飛んでいるのが見えた。
そちらにじっと目を凝らし、耳を澄ませる。ふつふつとこみ上げてくる吐き気も厭わず、意識を集中させる。
そうして聞こえてくるのは、話し声のような雑音だった。見えてくるのは、輪郭の存在しない不明瞭な物体だった。その正体を見抜くことはできないけど、大まかになんであるかは知っていた。
私は第三の目を掴んで自分の顔へと向ける。思わず刃物でも突き立てたくなるくらいに見つめてみると、本当にうっすらと瞳が覗いているのがわかる。一瞬しかそれを確認できなかったはずなのに、フランはこのことに気がついているようだった。
「……」
目を握りつぶそうと手に力を込める。鈍い痛みが、徐々に食い込んでいく指の周りから広がっていくけど、気にしない。気にならない。
今はまだ、はっきりと見ることができるのはフランの心だけのようだ。たぶんそれは、私がフランに対して心を許しているからだろう。だから、もしかするとお姉ちゃんやペットたちの心も見えたりするのかもしれない。
でも、このまま昔のように、誰彼構わず心を盗み見ることができるようになってしまう可能性もある。周りから意識的、無意識的問わず向けられる敵意に悪意に嫌悪。それらを感じずにすむのなら、物理的な痛みの方がずっとましだろう。
それに、私が心を許している人たちでだって、裏では何を考えているかわかったものではない。お姉ちゃんが何を考えていたかなんて忘れた。フランも結局の所は他人でしかない。
「……っ!」
でも、フランとお姉ちゃんの顔が浮かんだ瞬間に、私の手からは力が抜ける。潰れた目を見て、きっと二人は私の心配をするだろう。その場面を想像すると、私はそれ以上動けなくなる。それだけでなく、その場に崩れ落ちる。
そして私は、世界が少しずつ闇色に染まっていくことに涙する。
私の手にした幸せはなんと脆いことだろうか。
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