◇Prologue


 寒空の下、一冊の本を広げたまま木陰で木の幹に寄りかかって眠る少女が一人。葉をつけない木の隙間からこぼれる陽は全て、少女では支えるのが難しそうな紅色の大きな日傘によって遮られている。
 夜空に現れたばかりの満月のような金の髪、東洋人からはかけ離れた端正な顔立ち、そして、抱きしめれば簡単に折れてしまいそうな華奢な体つき。見かけの年齢はまだまだ幼いが、美少女と呼んでそれを否定する者はいないほどの美貌。けど、背中の七色の宝石のようなものが垂れ下がる蝙蝠の翼の骨格のような異形の羽が、見る者によっては、そうした肯定的な言葉を否定的なものへと変えてしまうかもしれない。幸いにも、この界隈では変わり者として見られはするが、迫害といったものは受けていない。単純に他人との関わりが少なすぎるせいなのかもしれないが。
 そんな彼女、フランドール・スカーレットは冬の冷たい空気もものともせず、穏やかな寝顔を見せている。
 それもそのはずだ。魔法の扱いに長ける彼女は、冬の冷気を春の陽気へと変えている。だから、今にも凍えそうな環境にいても、彼女は気の抜けた表情で眠っていることができる。

 実は、とある事件の後からはこうして外で昼寝をするようなことはなくなっていた。しかし、たまたま眠気が強かったのか、それとも月日の流れと共に警戒心も流れてしまったのか。なんにせよ、フランドールは自前の春の中で無防備な姿を晒している。門番の監視の目をかいくぐりさえすれば、簡単にさらえてしまうことだろう。

 そんな彼女が眠る紅魔館の裏庭に、黒い鍔広の帽子を被った少女が現れる。首をきょろきょろと左右に忙しなく動かして何かを探しながらも、どこか薄ぼんやりとした雰囲気を纏っている。胸の辺りで揺れる作り物めいた大きな目は、フランドールの羽とは違い、正真正銘の迫害の証である。けど、彼女の気配はそんな証を抱えながらも、見逃されてしまいそうなほどに希薄だ。
 ふわふわとした雰囲気の彼女、古明地こいしはフランドールの姿を翡翠色の双眸で見つけた途端、笑みを浮かべる。そして、翠と青を混ぜ込んだような銀髪を楽しげに揺らしながら、そっとフランドールとの距離を縮めていく。起こしてしまわないように抜き足で。はやる気持ちを抑えるように差し足で。自分の考えたことを実行するために忍び足で。
 彼女の様子は、第三の目を除けばごくごく普通の少女のものであった。そして、一途に恋をする少女のようでもあった。不自然に薄ぼやけた気配は、いつしかはっきりとしたものとなっていた。

 こいしはフランドールの正面にたどり着くと、日傘を拾い上げて、フランドールに陽が当たらないようにしながらしゃがみ込む。そうして、間近でフランドールの整った顔をじーっと見つめる。その表情はぼんやりと見惚れているようでもあって、はっきりと細部まで観察するようでもある。
 そうしてしばらく眺めた後、こいしは更に顔を近づけようとする。けど、

「こいし……」

 少しばかり非難の込められたフランドールの声によって、それ以上近づくことはできなかった。けど、こいしは離れようとはせず、至近距離を保ち続けたままとなる。

「ありゃりゃ、起きちゃったんだ」
「うん、不穏な空気を感じたから」

 フランドールは紅の双眸で、悪戯っぽい色を湛えた翡翠色の瞳を見つめ返す。寝起きにこいしの顔が間近にあることに驚いた様子はなく、代わりに呆れの色が浮かんでいる。

「不穏な空気とは失敬な。私はただフランの寝顔にときめいて、これはキスの一つや二つ間違ってやっちゃってもいいかなぁと思ってただけ」
「私にとっては、まさにそういうのが不穏なんだけど」
「恋は健全な感情」
「だからって行為を押しつけるのは不健全だと思う」

 こいしはフランドールに対して慕情を抱いているが、フランドールがこいしに対して抱いているのは友情だ。だから、仲がいいようには見えるが、基本的に求めるものがすれ違っている。けど、お互いにそのずれを認識しているので、齟齬が生じるようなことはない。

「ほっぺたとかはいいよね? もしくはおでことか」
「……だめ」

 フランドールは少々悩んだ末に、首を横に振った。こいしに対する信頼がもう少し高ければ、首は縦に振られていたかもしれない。

「えー、なんで? フランが元々住んでた地域って親しい人たちにはそういう挨拶するんだよね? ……私が勘違いしてただけで、そういう間柄ですらなかったの?」

 とぼけたような態度を取っていたかと思うと、少し間を空けた後に目を伏せてフランドールを上目遣いに見る。妙な間と脈絡のなさのせいで演技だというのはバレバレだ。けど、そうした萎れた態度に対する耐性のないフランドールは、分かっていながらもあたふたとしてしまう。
 閉じた世界を望む彼女の知り合いは、片手で数えられるか否かといったところだが、その内に含まれる者はその誰もがひねくれているか強い心を持っていた。だから、弱気な態度に接する機会が全くと言っていいほどなく、今のようにしどろもどろとなってしまう。以前は、そのひねくれ者の中にこいしも含まれていたのだが。

「いやえっと、そういうことじゃないんだけど、こいしは余計なことまでしそうな気がするから」
「……例えば?」

 萎れた態度は継続中である。

「吸付いたり」
「……たり?」
「舐めたり」
「……たり?」
「……噛んだり?」

 ぱっと思いつかなかったのか、続きの言葉が出てくるのにしばしの時間がかかった。

「ふむ。それをやってほしいわけだ」
「いやいや」

 こいしは不意に元の調子に戻って、得心がいったように頷く。フランドールは呆れたような表情を見せながら、意図的な勘違いを否定する。最初の頃は、疲れのようなものも一緒に浮かんでいたのだが、慣れによって随分と薄れていた。

「私はいつでも大歓迎」
「じゃあ、気が向いたときにさせてもらう」

 フランドールはこいしの笑顔をそう言ってかわす。

「今すぐでもいいのに」

 こいしはこうして無駄口を叩き合っているだけでも満足なようで、乗り気でないフランドールの様子を見ても満足そうだった。ただ傍にいることを肯定してもらえているだけで幸せそうだった。
 フランドールは相も変わらず呆れた様子を見せているが、それでもどことなくこいしとのやり取りを楽しんでいる。なんだかんだと言いつつも、彼女もこいしといる時間が好きなのである。
 そのまま二人は沈黙する。フランドールはまだ眠気が残っているのか、目の焦点がどこかぼんやりとしている。それに対して、こいしは熱心な様子で紅の瞳を覗き込んでいる。
 そんな二人の姿は、年来の友人同士にも見えたし、初々しい恋人同士のようにも見えた。

「あ、こいし。今更だけど、寒くない?」

 ふと、フランドールの目がぱっちりと開く。もしかすると、今の今まで本当に半分くらいは眠っていたのかもしれない。

「だいじょうぶ。フランの周りは暖かいし、私に気づいてからその範囲も広めてくれてるし」

 こいしはフランドールの気遣いににへー、と締まらない笑みを向ける。彼女がそうした表情を見せるのは、フランドールただ一人だけだ。彼女の姉にも、ここまで無防備な表情を見せることはない。
 我が侭な思想からこいしを引っ張って、気がつくと絶大な信頼を得ていたフランドールとしては、そうした事実に対して複雑な思いを抱いているようだ。自身もこいしが自分に向けるのと同じかそれ以上の信頼を寄せる相手がいるだけに。

「ん、そっか。でも、この格好のままでいるのも辛そうだから、中に入ろうか?」
「フランを襲ってるみたいでどきどきできるから、このままでも問題ないよ」
「……中に入ろうか」

 フランドールは襲うという言葉で思いの丈をぶつけられた時のことを思い出してしまったようだ。なんとも言えない表情を浮かべながら、こいしの肩を押しやる。

「ありゃ、間違っちゃったか」

 こいしは少し残念そうに、けど同時にどこか怯えるような色を見せながら、そのまま立ち上がる。その代わりに、空いた方の手でフランドールの手を取って立ち上がらせる。立ち上がらせること以上に、そのまま手を繋いだままにしていることが目的のようではあるが。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 こいしはフランドールへと笑みを返す。その裏では、フランドールの指の間へ自身の指を絡ませようとしている。フランドールはそれを受け入れるべきか否か悩んでいたが、結論を出す前にがっしりと掴まれてしまっていた。振り解いてしまうのは悪いと思ったのか、特に何をするでもなく、握られたままとなる。

 それが二人の距離だった。
 それは、フランドールにとっては近すぎて、こいしにとっては遠すぎる距離だった。


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