「……何だか、かいだことのないにおいがする」

 海の近くにあるという駅で電車から降りたときの最初の感想はそれだった。
 どう表現していいのかわからないけど、たぶんこれが海のにおいだと思う。本に海の近くでは独特のにおいがする、みたいなことが書いてあったからそう思っているだけだけど。

「確かに、知らないにおいがなんとなーく混じってるね」
「たぶん、海のにおいでしょうね。私はまだわからないけど」

 電車の中で少し疲れた様子を見せていた二人だけど、海が近くなってきたからか元気を取り戻している。
 あの後、二人は不毛なおかずの取り合いをしていた。それは、私の方にも飛び火してきたけど、もともと昼に食べることはないし、あまり美味しくなかったから気にしていない。

「さ、後は少し歩けば海が見えてくるはずよ」

 未花が歩き出す。それを追ってこいしと私も手を繋いだまま並んで歩く。

 改札にいた人に最初に乗った駅でスタンプを押してもらった切手を渡して駅から出る。
 そこに広がっていたのは、電車の窓からちらりと見えたほとんど見知らぬ場所だ。
 道なんてわかるはずがないから、周りの景色を眺めながら未花についていく。

 黒いアスファルトの道。それを挟むように建てられた家。ぽつりぽつりと点在する商店の建物。
 いろいろとあるけど、人の気配はほとんど感じられない。

 最初の駅の周辺は家がちらほらと建っていた程度だったけど、ここはそれに比べると家の密度は圧倒的に多い。それなのに、人の気配があまり感じられないというのは不思議な感覚がある。家が多いというのはそれだけ近くに人もいることだと思っているから。
 みんな、電車に乗ってどこかに行ってしまったのだろうか。打ち捨てられた感じはしないけど、空虚さがある。

 歩みを進めていく度に、家の密度は低くなっていく。それに合わせて、空虚さも薄れていき、代わりに初めてのにおい。未花いわく、海のにおいが強くなってくる。
 海が近づいてきていることを実感して、胸の鼓動が高まってくる。
 電車で移動している間も楽しかったけど、一番の楽しみの前には簡単に霞んでしまう。

 深呼吸して高ぶりすぎている気持ちを抑えてみようとしてみる。
 でも、感動するためにはそんなことをする必要なんてないのかもしれない。こういうときは、自分自身を抑える癖をつけてしまっているのは損だと思ってしまう。

 ある家の角を曲がった途端にぶわっ、と強い風が吹いてきた。

 咄嗟に日傘を掴んでいる手に力を込めて、持って行かれないようにする。抱きかかえるようにして支えたから、前は見えなくなっている。
 でも、風の強さに慣れてしまえばちゃんと支えられるようになる。うっかり日傘を飛ばされてしまわないように慎重に、ゆっくりと顔を上げる。

「わぁ……」

 視界の中に飛び込んできたのは、空の向こう側まで続いているきらきらと輝く大きな、とても大きな青色の宝石だった。
 夜空に輝く星のようにあちこちに光が点在している。でも、それは止まっているのではなく、明滅を繰り返しせわしなく動き回っている。まるで、止まっている暇はないとでも言うかのようだ。
 まぶしくて目をそらしそうになってしまうけど、そんなことをしてしまうのはあまりにももったいなくって、まぶしいのも我慢して目を開き続ける。その輝きを目に焼き付けようとする。

「フランっ!」

 不意に正面からこいしに抱きしめられた。こいしの身体に遮られ、海は見えなくなってしまう。突然輝きを失った私の目は、しばらく暗闇の中で何も見つけられない。
 何度かまばたきを繰り替えして、ダイヤの形をしたボタンを見つけた。

「こいし……?」

 なんでいきなりこんなことをするんだろうか。
 海に目を奪われていたせいで、少しぼんやりとしている意識の中でそう思う。

「見惚れるのはいいけど、ちゃんと自分の身は案じて。……フランは、ふとした拍子に消えちゃいそうで怖いから」
「こいしにはあんまり言われたくないなぁ」

 こいしは掴みどころがないし、どこか存在感が希薄だから。

「……でも、心配させてごめんなさい。それと、ありがと」

 たぶん、知らず知らずのうちに日傘を傾けてしまっていたのだろう。そんな私を守るためにこいしはこうしてくれたんだと思う。日傘の支えになるし、こいし自身が私を陽から避けるための盾となるから。

「謝るなら次から気をつけて」
「うん、わかった」

 もしかしたら、また同じことをしてしまうかもしれないけど、できる限り気をつけよう。誰かに心配をかけさせるのはいやだから。

「なんだか私だけ完全に除け者ね」

 事態が落ち着いてきたところで、未花がそんなことを言ってくる。

「そう思うなら、諸悪の根元であるフランを抱き締めればいいと思うよ」
「な、なんでそうなるの?」
「フランはもっと自分を大事にすべきだと思うから」
「そういうことなら、協力は惜しまないわ」

 こいしが前にいるからどうなっているかわからないけど、未花の足音が後ろ側へと移動していっている。だから、次にどうなるかがわかったけど、たぶん逆らっても無意味なんだろうなと思った結果、私は大人しくしていることにしたのだった。

 それからしばらくの間、前後から二人に抱き締められていた。





 ざざぁー。
 ざざぁー。

 水と砂との境が前後する。
 そのたびに、水のかき混ぜられる音、砂が流される音が聞こえてくる。音が途切れることはなく、でもそれをうるさいとは思わない。耳の奥底にいつまでも残っていそうなその音に心地よささえ感じる。

 においもそうだけど、間近で見るとただ大きいだけの湖ではないんだというのが実感できる。

「はぁ……、おっきいねぇ……」

 こいしが溜め息ともつかない言葉をもらす。私がさっきよりは心を奪われていないというのを感じているのか、今度はこいしがかなり無防備になっている。
 でも、帽子はちゃんと押さえているし、私とは違って驚異がすぐそばにあるわけではないから、私から何かをする必要もなさそうだ。
 だから、私は日傘を支えることに意識を向けつつ、景色とこの場の雰囲気を堪能することにしよう。

 と、思っていたらこいしが私の手を離してふらふらと海へと近づき始めた。今のところ、周りに私たち以外はいないからだいじょうぶだとは思うけど、少し不安になってしまう。

「こいし? 何するつもりなの?」
「見てるだけっていうのはつまんないから、触ってみようかなって」

 くるりと振り返って私の問いに答えてくれると、また海へと向かい始めた。ときどきかなり突飛なことをすることがあるから止めた方がいいんだろうか。とはいえ、止めるのも悪い気がするから見守ることにする。
 いざというときは、魔法を使って何とかしよう。

「海に近づくんならせめて裸足になった方がいいんじゃない? 濡れたままの靴なんて履いてても気持ち悪いだけだと思うわよ」
「おっと、それもそうだね」

 波が爪先に触れるか触れないかのところで、未花がそう助言をする。こいしも私も靴のことを考えていなかった。

 こいしは未花の言葉に素直に従って、その場で靴を脱ぎ、靴下を丸めてその中へ入れる。せめて浮いてから靴下を脱げばよかったんじゃないだろうか。黒い靴下に白い砂がたくさん付いてしまってる。
 でも、そんなことは全然気にしてないようで、海の方へと小走りに向かっていった。その躊躇なさがこいしと私の大きな違いなんだろうと思う。
 ちょうど水が引いていったところだから、それを追いかけていくような感じになっている。最初はさくさくと乾いた音が聞こえてきたけど、今はぺたぺたと濡れた音が聞こえてくる。

「ひゃっ、冷たいっ」

 水がさっきよりも勢いをつけて戻ってきた。こいしの足首くらいまで浸かっている。それに合わせて、こいしの楽しそうな声が聞こえてきた。
 実際、楽しんでるんだろうなぁ。私もせめて触ってみることができればいいんだけど、流れがあるから無理だと思う。だから、こいしの楽しいっていう気持ちを感じながら、私も楽しい気持ちになってみようと思う。

 かしゃり。

「羨ましい?」

 いつの間にかカメラを取り出していた未花がそんなことを聞いてきた。位置的に、私の後姿と海に足を浸けて楽しそうにしているこいしを撮ったんだと思う。

「うん、ちょっと。でも、騒ぐのは得意じゃないから、こいしが楽しそうにしてるのを見てるだけでも十分だよ」

 こいしはしゃがみ込んで海の水に触れている。スカートの後ろ側が地面に触れているから、水が押し寄せてくる度に水を吸ってしまっている。少し無頓着じゃないだろうか。

「こいし、スカート濡れてるよ」
「わかってる!」

 ならいいか。いや、いいんだろうか。

「見かけの年齢はこいしの方が上なのに、中身はほとんど同じって感じよね。いや、フランの方が少し上っていう感じかしらね?」
「そうかな? 普段は振り回されてばっかりいるけど」
「ふーん。でも、精神年齢が少し上の方が振り回されやすいっていうのはあるんじゃないかしら?」
「そうなの?」

 私の周りにいる人のほとんどがこちらを振り回してくるから、そうだとは思えない。その人たち全員より自分の方が精神的に大人だとも決して思えないし。むしろ、私はかなり子供だと思ってる。

「さあ? 私もそんなにたくさんの人と付き合ってるわけじゃないから良く分かんないわ。何となくそう思うってだけで」
「そっか。でも、どっちが上かなんてのはどうでもいいよ。こいしも私も気が合うから一緒にいるっていうだけだから」

 こいしと友達になるまでの過程に色々とあって、そのことの事後経過が少し気になっているというのもある。
 それでも、気が合わなかったらこいしと一緒になってこんなところまで来てしまうこともなかっただろう。

「ま、それもそうね」

 未花も私の言葉に頷いてくれた。

 と、不意にこいしが立ち上がってこちらへと振り向き、こっちに向かって歩いてくる。水を十分に吸って少し重そうになったスカートとさっきまで海に浸されていた手の指先から水滴がぽつぽつと落ちている。
 少しだけいやな予感がする。でも、逃げるにしてもどこに逃げればいいかわからないから動けない。
 未花も何かを感じ取ったのか、カメラを構えている。何があっても最後まで見ているつもりのようだ。
 できれば私を助けてくれる方向で動いてほしかった。

「こいし、せめて手を振って水を落としといた方がいいんじゃないかな」
「そう? せっかく初めて海に触ったのに、それはもったいないと思わない?」

 足を速めるでも遅くするでもなく、こちらとの距離を詰めてくる。私はそれから逃げるようにじりじりと後ろに下がる。

「私は濡れたままなのはいやだから、すぐに乾かしたいって思うよ」
「まあ、フランはお嬢様だからそう思うのが自然だろうね」

 完全に逃げてしまおうって思ってるわけじゃないから、少しずつ距離が詰まってきている。

「……こいしは、いやじゃないの?」
「ずぶ濡れなのは嫌だけど、手とか足とか末端の方が濡れてる感触は割と好きだよ」
「そう、なんだ」

 そんな会話をしている間に、こいしの顔は目の前まで来ていた。近づくにしても、近すぎる気がする。

「というわけで、海の冷たさをフランにプレゼントっ!」
「ひあっ?!」

 予想はしていたけど、本当に冷たくなった手で触れてきた。

 かしゃり。

 その瞬間を狙っていたかのようにシャッターを切る音が聞こえてきた。

「な、なんで背中に手、入れてるのっ」

 一つ予想外だったのは、手を掴んでくるか、首筋に触れてくるか位の物だと思っていたのに、抱きつくと同時に襟の部分から手を突っ込んできたということ。冷たさを感じた途端、全身に一気に鳥肌が広がっていくのがわかった。
 今も、冷たさに耐えようとするけど、どうしていいかわからず、とにかく羽をばたばたと揺らしている。何の解決にもならない。

「一番反応が面白そうだと思ったから。うん、予想通り面白い反応してくれたね。そのときの顔が見れなかったのは、残念だと思うけど」

 海の水に触れていたときとは比べものにならないくらい楽しそうな声だった。

「そうだろうと思って、ちゃんと撮っといたわよ」
「そうなんだ。じゃあ、落ち着いた頃に見せてよ」
「ん、了解」
「だったら、今すぐ手を抜いて見せてもらってよっ」
「手が暖まるまで嫌」
「……」

 何を言っても無駄になりそうだったから、無言でその場にしゃがみ込んでみた。でも、こいしはその動きに合わせてきて離れる気配がない。それどころか、覆い被さられるような形になってしまって逃げ場がなくなってしまう。

「この後はどうするつもり?」
「……うぅ」

 どうしようもなかった。

 かしゃり。

 未花は私を助けるつもりがないようで、シャッターの音だけが無情に響いた。




 しばらくしてからようやくこいしは手を引き抜いてくれた。その瞬間、脱力して倒れようかと思ったけど、さすがに地面に直接倒れられるほど無頓着にはなれなかった。
 代わりに、批難するようにこいしに視線を向けてみたけど、全く気にされなかった。それどころか、海沿いを歩いてみようと提案してきたのだった。
 そんなこいしの調子のよさに私は呆れることしかできなかった。でも、私もそうしてみたかったから、異論を挟むことはなかった。

 そんなわけで今、私たちは海沿いを歩いている。

 こいしの手が常温に戻るまで背中に手を入れられていたせいか、今もまだ冷たい手に触れられているようなそんな感触が残っている。まあ、濡れたままの手を入れられたせいで、その部分だけ濡れているからっていうのもあるんだけど。

 こいしは波の感触が気に入ったのか、裸足のまま波が足に触れる部分を歩いている。波の音に混じって、ぺたぺた、ぱしゃぱしゃと二種類の足音が交互に聞こえてくる。ゆっくり穏やかにさざめく波の音と比べると、間が抜けている感じがしてちょっと面白い。
 こいしの靴と靴下は私が預かって魔法空間に納めている。こいしが自分で持って歩いてたら、ふとした拍子にどこかに忘れてしまいそうな気がしたから、預かっておいたのだ。

「あっ」

 突然、こいしがばしゃばしゃと音を立てながら走り始めた。途中でしゃくしゃくという音に変わって、一歩進む度に足に砂が付着していっている。
 こいしが何に反応したのかはすぐにわかった。

「なんか見つけた」

 こいしが拾い上げたのは、凸面型で扇の形をした物体だった。確か、貝殻とかいうもので海によく落ちているものだっただろうか。あれが二枚合わさって、その中に生き物がいるらしい。

「結構綺麗な貝殻ね。それをお土産代わりに持って帰ったらいいんじゃない?」
「へぇ……、これが貝殻なんだ」

 こいしは拾った貝殻を裏返したりしながら、しげしげと眺めている。私も近くで見てみたいからこいしの方へと近づいてみる。

「あ、フランも見てみたい? じゃあ、これあげる」
「え? ……いいの?」

 見せてもらうだけでいいと思っていたのに、あげるとまで言われて困惑してしまう。わざわざ、日傘の下まで伸ばしてくれた手を見ていることしかできない。

「いいのいいの。探して見つかるものなら、また探せばいいし。それに、私の好きな誰かに物をあげたっていうだけでもそれは十分大切な思い出になる。だから、遠慮せずに受け取ってよ」

 すごく真っ直ぐな視線を向けられる。そこまで言われると、受け取らないのが悪く思えてしまう。
 見惚れてたみたいだから貰うのは悪いかなと思っていたのだけど、余計な気遣いだったらしい。

「うん、ありがと」
「どういたしまして」

 こいしから貝殻を受け取ると、すごく嬉しそうな表情を浮かべた。なんで私なんかのためにそんな表情を浮かべられるんだろうかと思ってしまう。
 何となく聞きづらいから、聞こうとは思わないけど。

「でも、これと同じくらいの物、見つかるかな?」

 そんなに歩いたわけじゃないからよくわからないけど、少し見回してみた限りでは見つからないから、簡単に見つかるものではないと思う。

「見つける。フランだけじゃなくて、お姉ちゃんにもあげたいから」
「そっか、そういうことなら、がんばらないといけないよね。私も……」

 がんばって探してみよう。そう言おうとして、ふとあることに気づく。

「……お姉様に海に行ってきたなんて言ったらどう思われるかな?」

 こいしの勢いに流されたり、私の興味を煽られたりして深く考えずにここまで来てしまった。怒られることはないとは思うけど、何もないというのもありえないはずだ。
 とはいえ、ここまで来てしまったら黙っていることもできない。

「そんなの気にするだけ無意味じゃない? フランのことだから、全部正直に話すんでしょ? 私と散歩に行った日は、レミリアにその日にあったことを楽しそうに話してること知ってるよ」
「え? 何で知ってるの?」

 知られて困ることではないけど、どうして知ってるんだろうか。
 館の中にこいしがいるなら、力を使っていようとも咲夜が見つけて教えてくれているだろうし、そもそもこいしがそういうことを知ったきっかけとか意図とかがわからない。

「……別に」

 何が別になのかはわからないけど、あんまり聞かれたくないみたいだ。私から視線をそらしている。

「そんなことよりっ! 歩いてるだけっていうのもつまんなくなってきたから、貝殻探しをしよう? フランもレミリアへのお土産を用意すべきだよっ。考える必要のないことを考えたって無意味だから」

 やけになって話題をそらし始めた。別に無理して追求しようっていうつもりはないんだけどなぁ。

「うん、そうだね。うんと綺麗な貝殻を見つけてお姉様を喜ばせよう」

 とはいえ、お姉様はそういうものにあんまり興味がないみたいだから、喜んでくれるかどうか。

「じゃあ、善は急げ! 流されちゃわないうちに、一番いいやつを見つけるよ!」

 そう言って、こいしは私の手首を掴んだ。でも、私の手にはまだ貝殻が握られたままなのを思い出したようで、特にそれ以上何かをしてくるようなことはなかった。
 私の手に貝殻がなかったら走り出してたんだろうなぁ。
 この風の中、歩いているだけなら日傘の揺れを最小限に抑えることができるけど、走ってしまうとたぶん支えきれなくなる。力でこいしに負けることはないけど、少しでもバランスが崩れることさえも怖いといえば怖い。
 まあ、自分の姉のためにがんばりたいというのは、私もよくわかる。でも、私にとって姉のためというのは自分の身を守ることもかなり重要なのだ。お姉様が、私のことを心配してくれているのはよくよく知っているから。

「こいし。急ぎたいのはわかるけど、傘を持ってるからゆっくりお願い」
「おっと、そうだったね。ごめん」

 やけに聞き分けがいいときとそうじゃないときがあるけど、その二つの違いはなんなんだろうか。
 そんなことを考えながら、こいしに貰った貝殻を魔法空間に納めて、改めてこいしと手を握った。


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