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「ねえ、フランは海を見てみたい?」

 とある成り行きから日課のようになってしまった本の朗読を終えたとき、こいしがそんなことを聞いてきた。
 こいしと私は、私の部屋にあるテーブルに向かい合って座っている。テーブルには紅茶とお茶菓子であるクッキーの乗せられたお皿が置かれている。
 今日読んだ本の中に海が出てきたからそんなことを聞いてきたんだろうか。

「うん、見れるなら見てみたい」

 幻想郷に海はない。霧の湖という大きな湖はあるけど、本の中に描かれている海とはかけ離れているような気がする。

 いわく、海とは広大なものであるらしい。
 いわく、海とは全ての生き物の始まりであるらしい。
 いわく、海とは美しくかつ恐ろしいものであるらしい。

 何冊もの本を読み、いくつもの海の表現を見てきて私が海に抱いた印象というのはそんなものだった。きっとそれは表情豊かなもので一日中眺めていたって飽きないそんなものなんだろう。
 さっき読んだ本の中でも、そんな感じのことが書いてあった。

「ふむふむ、そっかそっか」

 私の答えを聞いて、こいしが浮かべたのは何やら意味ありげな表情。

「……こいし? まさか、海まで連れて行ってくれる、とか言わないよね?」

 今の話の流れとこいしの反応から察するに、そういった感じのことを考えているという可能性はかなり高い。とはいえ、幻想郷を覆う博麗結界はそう簡単に越えられるものではないはずだ。
 ……こいしなら案外簡単にすり抜けてしまえるんじゃないだろうかと思えてしまうのが恐ろしいところだけど。

「さーてね」

 こいしはそう言うと、クッキーを一枚掴んで口の中に放り込んだ。少し顔が幸せそうに緩む。そんな姿を隠さず見せてくれるのは、それだけ距離が縮まったということだろう。咲夜がいるときは、まだ表情の動きを隠そうとしているし。

 こいしの意味ありげな態度が気にならないと言うと嘘になるけど、今のところさほど問題はなさそうだから気にしないことにする。
 かなり口の堅いこいしが喋ろうとしないなら、私から聞き出すというのも難しいだろう。一度喋らないと決めると本当に全然喋ってくれないのだ。筋金入りの頑固者だから。

 そう思って、私もクッキーを一枚手にして一口かじったのだった。





 こいしは私に本の朗読をしてほしいとよくせがんでくるけど、基本的には私とは正反対のアウトドア派で、散歩をすることの方が多い。こいしと友達になってからは、私も連れ回されることが多くなった。
 景色を見るのは好きだから、そうやって連れ回されることはいやではなかった。
 それに、こいしは他人が苦手だから誰もいないような場所を選んで歩く。他人と付き合うのが苦手な私にとっても、それはありがたかった。

 でも、問題もある。

 いくつかあるけど、その中でも一番大きいのは、道なき道を無理矢理通ろうとするような無茶をしでかそうとすること。
 散歩の間は力を使って無意識に歩いてるようで、自分自身どこに行くかもわからないそうだ。だから、私のところに来たときに服が汚れてたり、一緒に歩いていると森の中へと連れ込まれそうになったりする。
 全く先の見えない森の中へと入っていこうとする度に、私はこいしの手を引いてその足を止めさせている。

 そして、今日もまたこいしは森の中へと入っていこうとしていた。わざわざ博麗神社の裏までまわって。
 そこまではまだいつも通りだ。妙な手間をかけて、無茶をしようとすることもよくある。だから、手を引っ張って止めさせればいい。
 でも、今回は引っ張っても止まらなかった。引きずってでも連れていこうとしているかのように足を進めようとしている。
 ただし、身長はこいしより小さくても、力に関しては私の方が圧倒的に強いようで、片手で日傘を持っていてもこいしを止めていられることができている。

「こいし?」

 いつまでも終わりそうにない引っ張り合いを続けていても仕方ないから声をかけてみる。
 そうすると、こいしは足を止めてこちらへと振り返ってきた。翠色の瞳に予想していなかった強い意志が感じられる光があったことに若干ながらも驚いてしまう。

「フラン、私はどうしてもこの先に行きたい」

 声にも強い意志が込められている。普段は割とふわふわとした雰囲気のこいしには珍しいことだ。

「……なんで?」

 強い意志に圧倒されて無条件に頷いてしまいそうになりながらも、それだけは聞き出そうとしてみる。相手がこいしだからこそ、突拍子のない行動に振り回されないためにできるだけ情報を集めたい。

「この先に面白そうなものがあるから。フランは私のことを信じてついてきて?」

 首を傾げながらそう聞いてくる。でも、何をしでかすかわからないというのがわかっているから信じるのは難しい。
 でも、その一方でこいしが私に対して悪感情を抱いていないというのもわかっている。基本的には自分勝手だけど、私に対して悪くするつもりはないはずだ。
 そうやって、このままついて行っていいものかと悩みに悩んで、

「……わかった、ついて行ってあげる」

 頷いた。どうせ、よほどの事情でもない限り、強引なこいしを止めることはできない。

「やったっ。ありがとっ」

 こいしはなんだか嬉しそうな様子で抱きついてきた。日傘を落としそうになることはなかったけど、柄の部分が押しつけられて少し痛い。身長が同じか私の方が高ければこんなことにならなかっただろうな、なんて思ってしまう。

「日傘畳みたいから、そろそろ離れてくれる?」
「うん」

 お願いすると素直に離れてくれた。こいしは、少し傾いた黒の鍔広帽子の位置を直す。
 その間に私は、木陰の中に入って日傘を畳む。ちなみにこの日傘、私の身長と同じくらいの長さがある。それくらいないと、真っ昼間ならともかく、日が傾き始めたころに日光に当たってしまうのだ。
 そんな長大なものを持って歩くようなことはしない。畳んだ日傘は、レーヴァテインなんかを納めている魔法空間の中へと入れる。そんなに広い空間を作り出せるわけじゃないけど、ちょっとしたものを持ち運ぶには便利な魔法だ。

「よしっ、準備はいい?」
「うん、だいじょうぶ」

 なんだかやけに気合いが入っている気がする。そのことに不審を抱きながらも頷く。ついて行くと決めてしまった以上、それ以外の選択肢もないし。

 こいしは私の手を引いて何の躊躇もなく森の中へと入っていく。対して私は気が引けていた。でも、立ち止まることもできないので、羽をできるだけ小さく折り畳むようにしながら木々の群れの中へと入っていく。
 一歩進む度に草がかき分けられる音がし、数歩進む度に枝がしなる音がする。更には、十数歩進む度に枝が折れて草の上へと落ちる。そのうちの何本かに一本を私が踏みつけてしまい、乾いた音を立てる。

 こいしがどこに向かっているかというのは全くわからない。真っ直ぐ進んでいないというのはわかるけど、それだけだ。何度も何度も不規則に方向を変えているうちにどの方向に進んでいるのかさっぱりわからなくなってしまった。ほとんど外を出歩くようなことがないから方向音痴なのだ。まあ、空を飛べば自分の位置はだいたいわかるから帰れないことはないだろうけど。
 それにしても、本当にどこに向かってるんだろうか。こいしの様子は、何があるのかはわかってるみたいだけど、何も話してくれないから想像するしかない。
 また、どこか景色の綺麗な場所に連れて行ってくれるんだろうか、とか。

 不意に周りの雰囲気が変わるのを感じた。視覚的な変化ではない。魔力や霊力の流れの変化といった感覚的な変化だ。思わず足を止めてしまう。

「どうしたの?」

 私に手を引っ張られたこいしがこちらへと振り返る。こいしも私の感じ取ったものを感じただろうか。

「なんだか、周りの雰囲気が変わったなって」
「へぇ、さすがフランだね。わかるんだ」

 何やらこいしは感心している。この雰囲気の変化に気づいてはいないようだ。でも、その反応から何かを知っているんだっていうのは十分に伝わってくる。

「……どういうこと?」
「それはもう単純明快。私たちは幻想郷を出て、外の世界にやってきたってことだよ」
「え……?」

 言っていることの意味がわからなかった。言葉自体はとても簡単だ。でも、簡単には受け入れがたいほど、私の常識を逸脱していた。

「ま、百聞は一見に如かず、だね。聞いて理解できないなら見て感じる。それに、私自身こんな鬱々とした場所にいるのはうんざりだし」

 こっちの状態を察してくれたらしいこいしは、いまだこいしの言葉が呑み込めず呆然としている私の手を引いて歩き始める。先ほどまでの不規則な歩みとは正反対に真っ直ぐに進んでいく。
 思ったよりも早く明るい部分が見えてきた。随分と歩いたような気がしていたのに。いや、世界が違えば森も違っていると考えるのが普通か。さっきまでの過程はたぶん、なんの役にも立たないのだろう。

 こいしに引かれている間に私は徐々にこいしの言っていたことを理解し始めていた。いや、正確には受け入れ始めていた。こいしの言っていた通り、単純明快で理解すること自体は簡単なのだ。単に、私の持っている常識から外れていたというだけで。
 どこか後ろめたさを感じながらも、この森を抜けた向こうにはどんな景色が広がっているんだろうかと胸を躍らせている自分がいることに気づく。
 足も気がつけば自分で前に進めている。

 こいしの後に続いて森から出る。
 開けた視界に映ったのは異世界でも何でもないように見えた。でも、過剰な期待が若干冷めてくると、すぐにここが幻想郷とは異なる世界だというのはすぐにわかった。

 目に飛び込んできたのは何年もの間放手入れもされずに放置され、随分と古びてぼろぼろになり、所々に苔が生えてしまっている神社だった。
 最初は、昔は博麗神社の近くに別の神社があってそれが打ち捨てられたものなのかと思っていた。でも、よくよく考えてみれば空から博麗神社を見下ろしたとき、そんなものは見えなかったのだ。これだけ開けた場所にあるなら絶対に気づいているはずだ。
 だから、これは博麗神社そのものなんだと直感した。雰囲気がどことなく似ているような、そんな気がする。もしかしたら、単なる思い込みかもしれないけど。

 ただまあ、それに関しては後でゆっくり見てみればいいとして、大きな問題が一つ転がっていた。
 それは、私たちのすぐ傍に一人の少女がいたということ。神社の方に気を取られていて気づくのに遅れてしまった。
 たぶん、こいしも気づいていなかったはずだ。気づいてたら、途中で足を止めてたはずだから。たぶん、こいしの場合は前に進もうという気持ちがばかりが先行していたのだろう。やけに、私を引っ張るように歩いてたし。

 光の当たり具合によっては茶色にも見えそうな色素の薄い黒髪のショートヘア、身長はこいしよりも高そうだ。服装は幻想郷では見慣れないもの。里の人間たちが着ている動きやすさ重視のものと、私たち妖怪が着ているデザイン重視のものの中間のような服だ。動きやすそうでもあって、デザインもそれなりにいい。スカートではなくズボンを穿いているけど、ちゃんと女の子っぽく見える。
 そんな彼女は私の周りでは珍しい、でも日本では標準である黒色の瞳を大きく見開いていた。

 と、不意にこいしが森の中へと駆け込む。手を繋いでいた私は、半ば引きずられるようにしながらそれに続く。
 逃げようという考えが浮かんできたのは、二歩目を踏み出したときだった。

「あっ……! 待ちなさいっ!」

 そんな声を投げかけられる。そう言われてしまうと、余計に心身共に逃げよう状態に入って、引きずられるようだったのが自分から進む形に変わる。
 ただ、思うようにはいかない。普段森の中を早く動くようなことはないし、背中の羽のことを考えないといけないから、すいすいと前へと進もうとしているこいしの足を引っ張ってしまう。
 背後の音が徐々に近づいてきている。

 相手から一瞬でも姿を見えないようにすれば、こいしの力で逃げきることは可能なはずだ。でも、私の羽が完全にネックになってしまっている。緑と茶色だけの薄暗い森の中で宝石じみた七色の羽は私の意志と関係なく自己主張をしている。
 邪魔だし目立つし全くいいとこなしだ。

「よしっ、捕まえたっ!」
「わっ?!」

 突然、後ろからの衝撃。
 一瞬、何が起こったのか把握することができなかった。でも、腰の辺りに回された腕を見て、どうやら先ほど目が合った少女に背後から抱きしめられたようだと気づく。それと同時に、狼狽してしまう。
 でも狼狽しながらも、どうするべきかというのは案外簡単に思い浮かんできた。

「え……?」

 とっさに自分の身体を霧化させて、その腕から逃れる。そして、すぐに元の身体に戻ると、こいしの手を掴み直した。
 驚きの声を漏らしていた少女は地面の上に倒れていたけど、それを気にしているような余裕はない。
 追われるなら逃げないといけない。

「こいしっ、行こうっ!」

 声をかけるとこいしは頷き返してくれた。あの少女の視界に私たちが映らなくなった瞬間にこいしは力を発動させていたとは思うけど、用心のために距離を取っておきたかった。
 臆病者は、そう簡単には安心できないのだ。




 しばらく森の中を走って、こいしが疲れ始めたところで足を止めた。歩いているときは疲れ知らずのこいしだけど、走ると私よりも早く体力が尽きてしまうようだ。逆に私は、長く歩くのはあまり得意ではない。
 背後を振り返ってみても誰もいない。どうやら、先ほどの少女を振り切ることには成功したようだ。こいしも能力を使ってるみたいだから、よほどのことをしない限りは見つかることはないはずだ。

 そんなことよりも。
 私たちはこのままここに留まっていてもいいんだろうか。結界から出てはいけないなんて話を聞いたことはないけど、まず誰も抜け出せないだろうと思っていたから決めていなかったということもありえる。

「……ねえ、こいし。このまま帰った方がいいんじゃないかな?」
「やだ。フランと海を見るまで絶対に帰りたくない」

 もともとこいしは意地っ張りだし、更には何やら強い意志まであるようでそう簡単には折れそうにない。私も意地っ張りだという自覚はあるけど、ありとあらゆることに対してというほどではないので、こちらが先に折れてしまうような気がする。
 始まる前から負けたような気分でいいんだろうかと思うけど、そういう性分なんだからどうしようもない。

「心配する必要なんてない。何回かこっちに来てるけど、今まで一度も誰かに何かを言われたことなんてないから」
「それは、そうかもしれないけど……」

 ただ単にこいしを見つけられなかっただけかもしれない。力を使っている間のこいしを見つけるのは生半可なことではないから。

「それに、フランは海、見たくないの? 私は知ってるよ? 海を見たいって言ってたフランが強い憧憬を抱いてたことを」

 そう、こいしの言うとおりだ。
 私は海に対して強い興味を抱いている。
 私は海を見てみたいと願っている。

 その熱は確かに本物で、臆病さに冷まされながらもいまだくすぶっていて、こいしに煽られて火勢を取り戻そうとしている。

「私がいればまたいつでもこっちに来られるけど、一回引いちゃったらなかなか前に進めないと思うよ? だから、今日ここで行っちゃおうよ。悩む必要なんてある? フランが海を見たいっていう気持ちは本物なんでしょ?」

 こいしの言葉に対する反論は浮かばない。むしろ、自身の内で燃え盛る思いを抑えるので精一杯だ。
 そしてそれは同時に、私の思いの強さの証でもあった。無視することは決してできない。

「うん、そう、だね。……でも、何かあったらすぐに帰ろう?」

 結局自分自身に対して嘘をつききれず、そう答えてしまっていた。煮え切らない言葉となっているけど、前者と後者、どちらも私の本音だ。

「よしよし、その言葉を待ってたよ。さあさあ、行こう行こう」

 私の心配を無視して、嬉しそうに私の手を引っ張り始める。その態度をなんだかなぁ、と思いながらも、こいしが本当に心の底から私と海を見に行くことを楽しみにしてるのを感じ取る。
 こいしは一人でも海まで行けるはずだから、自惚れではないはずだ。こいしも臆病ではあるけど、それは他人に対してだけで、それ以外に関してはかなり積極的に関わっていこうとする。

「ねえ、海までどう行けばいいのかわかるの?」
「知らない」

 予想していたとおりの言葉だったから、特に驚きといった感情は湧いてこない。こいしは基本的に行き当たりばったりだ。今日のように、大まかでも行き先が決まっている方が珍しい。

「じゃあ、どうやって行くつもり? 歩いて行くにしても、幻想郷よりもずっと広いはずだから、闇雲に歩いてても道に迷うだけだと思うよ?」

 でも、できるだけ慎重に行きたい私としては、そういう方針はあまり好ましくない。少しは慣れてきたとはいえ、今いるのは普段いる幻想郷ではなく、初めて訪れた外の世界だ。できる限り詳しく方針を決めておきたい。

「んー、山を下っていけばいいんじゃない? どっかで川を見つけてそれに沿っていけば更に確実になると思うよ」

 こういった場合、空を飛んで見下ろしてみようという案は決して出てこない。
 こいしいわく、それでは面白くないからだそうだ。初めて間近で見る景色と、一度遠くから見てから間近で見るのとでは全く衝撃が違うらしい。
 なんとなくだけど、その言葉には同感できるものがあるから特に反対することなく従ってきている。今回も一応そのつもりだ。

「じゃあ、まずは川を探すことからかな? ……川の近くを通るのはちょっと怖いなぁ」

 吸血鬼にとって流れ水は脅威なのだ。
 実際に触れたことがないから私にとってどうなのかはわからない。宝石のような七色の羽を始めとしていくつか例外もあったりするのだ。お姉様共々、十字架はなんともないし。
 だから、単なる先入観からそんなことを思っているのかもしれないし、本当に私にとって危険なものなのかもしれない。少なくとも、太陽光は私に対して攻撃的な態度を取っている。

「別に川のすぐそばを歩く必要もないから、大丈夫だと思うよ」
「あ、それもそうか」

 脅威に怯えすぎていたせいで、そういうふうに考えることができていなかった。沿って歩くと言われると、すぐそばを歩くようなイメージもあるし。

 そうやって、これからどうするかを決めながら私たちは森の外を目指した。




 狭く薄暗い森を抜ける。森の中へ入るときと同じように木陰に隠れるようにしながら、魔法空間から日傘を取り出して広げた。
 神社の裏に先ほどの少女の姿はない。とはいえ、もしかしたら表側の方で待ち伏せしているかもしれないということで、こいしの力で気づかれないようにしながら、神社の表へとまわる。

 予想通り、私のよく知っている博麗神社なら鳥居があるだろう辺りで、あの少女は腕を組んで立っていた。明らかに私たちが出てくるのを待っているような体勢だ。
 でも、少女がどれだけ注意を払おうとも私たちに気づくことはない。空間を丸ごと把握しているとかそういった超常的なことをしているなら別だけど、外の世界ではそういったものはほとんど失われたはずだ。だからこそ、幻想郷が存在しているわけだし。

 近づいてみるけど、反応はない。何も見落とさないように境内へと視線をやっているみたいだけど、肝心の私たちのことを見落としてしまっている。
 この様子だと、万が一ということもなさそうだ。

 そうやって安心したとき、私はあることに気づいた。
 それは、少女の顔にできている小さな傷。どの時点でその顔の傷ができたのかというのはすぐにわかった。
 私が霧化して彼女を振り払って転んだときだ。向こうが抱きついてきたのが悪いといえば悪いけど、同時に私にも責任があるような気がする。そのことが気になって足を止めてしまう。

 けど、それが他のいくつかの要因を一つに纏め上げ、一つの問題を起こす引き金となってしまった。
 こいしは少女との距離をできるだけ早くあけたかったようで足を早めていた。こいしも、そして私自身もこんなところで立ち止まるだろうとは思っていなかったから、強く手を握り合っていなかった。
 結果、こいしと私とを繋いでいた手は離れてしまう。そうなれば、こいしの力は私へ及ばなくなる。

「あ……」

 目の前の少女が私の存在に、私は今の状態に気づき声を漏らす。

「今度こそ捕まえたわっ!」

 先に動いたのは少女の方だった。距離を一気につめられて、再び抱きしめられてしまう。今度は、真っ正面から。そのおかげで、前の景色が全く見えない。
 とっさに先ほどと同じ手を使って逃げようとして、すんでのところでここが日の下であることを思い出す。陽に当たった瞬間に死んでしまうようなことはないけど、周りの状況をあまり把握してないから目標も定めずに動くのは怖い。

「は、放してっ」

 下手に動くこともできないから、声がくぐもってしまう。
 それでも、行動でどうにもできないなら言葉でどうにかするしかない。突然抱きしめてくる時点で、そんなことで解決できるかも怪しいけど。
 最悪の場合、陽に当たりつつ逃げるしかなさそうだ。痛みがあるのがわかってるから、相当の覚悟が必要そうだけど。

「ありゃ、意外。逃げないのね」

 どうやら特に考えなしにもう一度私を捕まえたようだ。もしかしたら、逃げられてもかまわないと自棄になっていたのかもしれない。

「うん、そうね。私の質問に答えてくれたら放してあげるわ。簡単でしょう?」
「……内容によると思う」
「まあ、それもそうね」

 正面から抱きしめられているせいで顔は見えないけど、手の動きから肩を竦めたのはわかった。

「あなたは何者? その変な羽は作り物だと言われても、まあ納得しないこともないけど、さっき私の手をすり抜けていったのは何? 人間業じゃないわよね?」
「え、っと……」

 さて、どう答えるべき何だろうか。本当のことを話してもいいんだろうか。
 いや、それ以前に幻想がほとんど失われた外の世界で信じてもらえるんだろうか。
 口を開く前から考えることが多い。

 少し考えてみたけど、上手な誤魔化し方は思い浮かばない。
 いきなり抱きしめて行動を止めてきたりと、彼女は押しが強い。更に、私は誤魔化すのが苦手だ。そんな私がそんな相手に問いつめられれば簡単にボロが出てきてしまうだろう。
 だったら、先に正直に話してしまった方がいい気がする。気がするだけで、本当にいいのかどうかなんてわからないけど、このままずっと悩んでいたってしかたないだろう。
 沈黙し続けてしまったがゆえに、状況が悪くなってしまうのもいやだし。

「……吸血鬼」
「え……?」

 私の答えを聞いた瞬間、彼女の身体がびくりと震えた。一瞬、私に回された腕の力が緩んだ。でも、すぐに元通りとなってしまう。
 私の言葉を聞いたとき、彼女が抱いたのは恐怖だったんだろうか。今まで誰かに怖がられたことはないけど、私の力のせいでそんな感情が向かってくるだろうという心構えはできていた。だから、さほど傷つくことはない。
 まあ、そもそもその恐怖は私の力とかいった個人ではなく吸血鬼という種族へと向けられたものだったし。

「同性の血は、吸わないんだったわよね?」
「えっと、ごめんなさい。自分で血を集めたりとかしたことがないからわかんない」

 幻想郷に来る前はお姉様に任せっきりだったし、幻想郷に来てからは紫が届けてきてくれたものを飲んでいる。だから、私はどこの誰の血を飲んでいるのか一切知らないのだ。

「……私の血を吸うつもりはないの?」
「うん」

 探るような言葉に頷く。そもそも、一度も誰かから直接血を吸ったことがないし教えてもらったこともないから、吸い方さえ知らない。

「なら安心ね」

 腕に力を込められてしまった。対応を間違ってしまったかもしれない。
 今更、実は吸うなんて言っても気にされない気がする。噛みついたりすれば信憑性が増すかもしれないけど、他人に噛みつけるほどの度胸はない。知り合いなら、なおさら噛みつけないけど。

「さて、もう一つ聞きたいことがあるんだけど、吸血鬼なあなたはこんなところに何しにきたのかしら?」
「海を見に来たんだ」

 その質問は迷うことなく答えることができた。人に知られても問題はないし、説明のしようがないくらいに単純明快なものだったから。

「それだけ?」
「うん、それだけだけど……、どうしたの?」
「いや、別に。単に私が変な先入観を持ってたってだけよ」

 やけに残念そうにそんなことを言いながら放してくれた。それと同時にそばにいながら姿を隠していたこいしが現れる。正確にはこちらに気づけるようにした、だけど。
 他人の前に出るのが嫌なようで、私の後ろに隠れている。でも、身長差のせいであまり隠れられていないんじゃないだろうか。まあ、一人で立っているよりは精神的に楽なんだろう。
 できることなら、私もそっち側に立ちたい。私も他人に関わるのは得意ではないのだ。トラウマを抱えてるこいしに比べればずっとましなんだろうけど。
 こいしと私とでは、他人という存在に抱いている感情が違いすぎるのだ。私はわからないからなんだか怖いという感じだけど、こいしは拒絶されることを知っているから明確な恐怖を抱いているんだと思う。

「っと、もう一人も現れたわね。そっちは……、幽霊?」

 突然、何もない場所から現れたように見えたこいしをそんなふうに思ったらしい。
 なんで私の時はそう思わなかったんだろうか。抱きつけたから?

「……違う」

 否定はするけど、それ以上何かを言おうとすることもない。いまだにお姉様や咲夜を苦手視してるくらいで、完全な他人となると全然駄目なのだ。

「えっと、こいしは覚り妖怪なんだ」

 代わりに私が答えておく。
 あまり他人と話をしたくないなら、無理して話す必要はないだろう。そして、そう考えてしまうと私が答えるしかなくなる。

「ってことは、考えてることがわかるっていうわけ?」

 警戒されるかなと思ったけど、むしろ興味を持ったようだ。躊躇も何もなく一歩こちらに近づいてきた。それと同時に、こいしが身体を震わせる。
 あの日以来こいしは、さとりか私、それから地霊殿のペットたち以外がいるときは随分と臆病になってしまった気がする。そうでなければ、かなりマイペースに周りを振り回してるんだけど。

「ううん、こいしは心を読めないんだ。代わりに、無意識を操ることができるよ」

 さっきも私が答えたし、そのまま私が答えることにする。

「んー……?」

 よくわからなかったようで首を傾げている。正直に言えば私もよくわかっていない。感覚的になんとなく理解しているような気になっているだけだ。
 でも、おそらく一番わかってるだろうこいしは口を噤んでいて、自分から説明する様子はない。だから、ちゃんと説明することができなくても私が説明しないといけないようだ。
 説明すること自体、苦手なんだけどなぁ。まあ、やってみるしかない。

「えーっと、さっき私たちが突然現れたように見えたよね?」
「うん」
「でも、私たちは実際には姿を消してたわけじゃなくて、あなたが気づいてなかっただけなんだ。こいしが私たちのことを無意識に無視するようにさせて」
「うーん? わかるような、わからないような」

 首を傾げられてしまう。でも、理解を諦めたわけではないようで、人差し指をこめかみの辺りに当てて考え込んでいる。

「……要するに、そっちの都合のいいように認識をずらしてるってこと? 騙し絵の中に隠されてる絵をどんな人にでも見えたり、見えなくさせるみたいに」
「そんな感じ、なのかな?」

 的確な例えのような、そうでもないような。こいしの力は実体がないから、ものすごく説明がしにくいし、理解もしにくい。
 こいしは何も言ってこないから、間違ってはいないのだろう。たぶん。

「うーん、なんというか地味ね。すごいとは思うけど」

 少女が漏らしたのはそんな感想だった。やけに反応が淡白というか、思っていたよりも私たちのことを自然に受け入れているような気がする。

 やけに私たちのことを知っていることはまだなんとか納得がいく。幻想としてではあるけど、外の世界では私たちのような存在について描かれているものがある。私の部屋にもそういった類の小説が置いてある。
 でも、幻想は幻想であり現実とは違うはずだ。だから、例えこうして目の前にそういった存在が現れても、受け入れがたいのではないだろうか。夢だと思ったり、なんらかのトリックが隠されているのではないだろうかと思ったり、捻くれた受け取り方をするのではないだろうか。
 私が今まで読んできた本の登場人物たちはそうだった。

「ん? 吸血鬼のあなた、不思議そうな顔してるわね。どうしたの?」
「えっと、私たちのことを自然に受け入れてるなって思って。いつか私たちみたいな存在に会ったことがあるの?」

 可能性としては零ではないはずだ。でも、聞いておいてなんだけど、彼女の反応は初めて私たちの存在を見たかのようなものだった。今まで一度でも会ったことがあるとは思えない。

「……言われてみればそうね。私はどういう反応をすべきだと思う?」
「えーっと……?」

 そんなことを聞かれてもすごく困る。今更驚かれて、存在を否定されたり、幻扱いされるのもいやだ。

「私自身、よくわかんないのよ。こんなことを言うのもなんだけど、私の常識から言えばあなたたちの存在は完全に異常なもの。でも、あなたに言われるまで、自然に受け入れている自分に気づけないほどに、自然に受け入れてたのよね」

 それから、少し屈んでじーっと私たちを見つめてくる。私は一歩後退りしそうになるけど、こいしが更に身体を寄せてきたせいで下がれなかった。
 黒い瞳に私たちの姿が映っているのがわかるくらい、真剣にこちらを見ている。と、思っていたら姿勢を正した。

「もしかしたら、あなたたちから胡散臭さっていうのを感じなかったからかもしれないわね。特にあなたからは、信じても大丈夫そうっていう、そんなオーラが出てるし」

 視線はこいしではなく私の方に向いていた。
 こいしにも似たようなことを言われたことがある。そんなに、疑われにくい雰囲気を出してるんだろうか。なんとなく自分の姿を見下ろしてみてもわからない。

「で、まあ、それに加えて私はあなたたちみたいな存在に興味を持ってるのよ。だからっていうのもあるかもしれないわ」

 私たちのような存在を調べたりするような人たちのことをオカルト愛好家って言うんだったけ。彼女もそのうちの一人のようだ。
 趣味でやっている人から本気で追いかけている人まで幅広くいるらしいけど、彼女はただの趣味としているようだ。信じていないと言っていた点からもそれはわかる。

「ねえ、こんな機会滅多にないだろうし、良かったらあなたたちのことについて色々と教えてくれない?」

 でも、彼女は信じていない存在に出会って、それを受け入れた。
 だから、彼女のその要求は当然ともいえるべきものだろう。放してはくれたけど、完全に私たちを解放するつもりはないようだ。

 こいしの方へと視線を向けると、ふるふると首を横に振り返された。まあ、こいしならこういう反応をすると思っていた。
 こいしはこのまま彼女といることをいやがりそうだけど、折角私たちのような存在を肯定しているような人を見つけられたのに、そのまま逃げてしまうのは合理的ではないような気がする。

「別にいいけど、一つ私のお願いも聞いてくれる?」
「内容によるわね。一介の女子高生にできることなんて限られてるから」
「海まで案内してくれないかな?」

 知らない世界に来たのなら、案内をしてくれる人がいた方が安心できそうだ。
 他人は苦手だけど、嫌いなわけではないから一度喋れば慣れが出てくる。だから、こうしてお願いをすることもできるのだ。

「フラン……」

 背後からかなり不満そうな声が聞こえてきた。やっぱりこいしは知らない誰かがいるのはいやなようだ。
 でも、私なりに誰かに案内してもらう必要性を感じているから説得するしかないだろう。

「勝手に決めてごめんなさい。でも、外の世界は幻想郷に比べたらずっと広いから、案内してくれる人は必要じゃないかな? 日没までには帰らないといけないから、あんまり時間もかけてられないし」

 門限が決まってるわけではないけど、お姉様が心配するかもしれないと思って私の中でそう決めている。

「……」
「……こいし?」

 黙ったままなかなか返事をしてくれない。こいしなりに何かを考えてるんだろうか。

「……まあ、フランの言うとおりか。肝心の海を見れないんじゃ本末転倒だしね」
「じゃあ、あの人に案内してもらってもいい?」
「いいよ。……話をするのは全部フランに任せることになるけど」
「うん。任せて」

 渋々といった感じだけど、私の意見に納得はしてくれたようだ。
 せめて話をするくらいになってほしいとは思うけど、難しいかな。

「どうやら、意見はまとまったようね。私の答えを聞きもせずに」
「あ……、ごめんなさい」

 こいしの方にばかり気を向けていたから、答えを聞かずにすっかり案内してもらう気になってしまっていた。

「いいわよ、気にしないで。それで、案内の方だけど喜んで引き受けさせてもらうわ。代わりに、あなたには私が満足するまで質問に答えてもらうけど」
「……お手柔らかにお願い」
「気が向いたら手を抜かせてもらうわ」

 そういうふうに言う人は大体気が向いてくることがない。外に出るようになってまだ数年。それでも結構いろんなことがわかってきている。
 頼む人を間違えたかなぁ。とはいえ、他に頼める人もいない。

「ああ、そうだ。名前を言ってなかったわね。私は糸川未花。よろしく、フランにこいし、でいいのかしら?」
「うん。よろしく、未花」

 まあ、悲観的になっていても仕方がない。
 それよりも、海に行ける。そのことを楽しみにしている方がよほど建設的だろう。


 こうして、私たちは海へと向かうことになった。

 これは、散歩になるのか、冒険になるのか、旅行になるのか。
 何にしても、楽しめればいいなとそんなふうに思うのだった。


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