次にこいしが現れたのは、あれから三日後のことだった。

 その日も私は、部屋に一人でいた。この前と違うのは、声を出して本を読んでいるということと、こいしやさとりのことをあまり考えていないということ。声に出して本を読むことに慣れていないから、他のことを考えるような余裕がないのだ。
 本の中で、悩んでるときは身体を動かしている間はそのことを忘れられるというのがあったけど、こういうことなんだろうか。声を出すことが体を動かすことになっているのかというのは、微妙なところだけど。

 ちなみに、読んでいるのはこの前読んだのとは違う本だ。上手な人なら違うんだろうけど、私程度の実力なら同じ物を読んでも飽きられてしまうと思って本を変えたのだ。前回どの程度聞いてくれてたかもわからないから、途中から読むこともできないし。

 こうして声に出して本を読んでいると、黙読していたときには気づくことにできなかったことに気づくことができたりして結構楽しい。下手な自分の声が部屋の中に反響してもへこまずに続けられるのは、この楽しさがあるからかもしれない。

「フランドールお嬢様、紅茶とお茶菓子とこいしを持ってまいりました」

 明らかに不自然なのに、自然な様子を装って咲夜が突然現れる。
 顔を上げてみれば、不機嫌そうな上に不満そうな表情を浮かべているこいしが咲夜の背後にいた。咲夜から距離を取ろうとしているけど、咲夜に手を握られているせいで逃げられないようだ。

 咲夜はこいしの手を引っ張って無理矢理に私の正面に座らせると、どこからかトレイを取り出し、そこに乗せているものをテーブルに並べていく。
 今日のお菓子はチーズケーキのようだ。テーブルの真ん中に八等分された一ホールが置かれる。二人分にしてはかなり多いような気がする。でも、用意されているカップの数から、これ以上誰かが増えるということはなさそうだ。

「ねえ、咲夜。ケーキの量多くない? 誰か来るの?」

 紅茶を注ぎ終えたところを見計らって聞いてみる。

「いえ、こいしがどれくらい食べるかわからないので、多めに用意してみたんです。多いと感じたら残してもいいですよ。はい、どうぞ」
「そうなんだ。ありがと」

 咲夜は質問に答え終えると、紅茶の注がれたカップとチーズケーキが一切れ乗ったお皿を私の前に置く。それから、同様のセットをこいしの前にも置いた。こいしは俯いてテーブルを見たままで反応がない。
 咲夜に言われたことを意識して見てみると、確かに私だけといるときとは様子がかなり異なっているのがわかる。
 それは好意からなのか、敵意からなのかはわからない。私は、後者だと思ってるけど、咲夜はそうではないようだ。

「……なに?」

 私の視線に気付いたこいしが睨んでくる。好意は感じられず、敵意しか見えてこない。

「あ、えっと、まだ挨拶してなかったなぁって。こんにちは、こいし」
「……この前は、挨拶さえもされなかったけどね」
「う……、そうだったっけ。……ごめんなさい」
「……」

 こいしからの返事はなく、かなり気まずい雰囲気となる。過去の自分の行動を後悔するけど、今更どうしようもない。

「では、私はここで失礼させていただきます。お嬢様、頑張って下さいね」

 しかも、狙ったかのように最悪のタイミングで咲夜が部屋から出ていってしまう。いや、実際に狙っていたのかもしれない。こいしの分の用意ができた時点で咲夜がすることは終わっていたのだから。
 お姉様だけに向いていたはずの悪戯心が私にも向き始めたんだろうか。勘弁してほしい。もともと咲夜に頼るつもりはなかったとはいえ、なんのフォローもなしに出て行かれるとダメージが大きい。

「懲りずにまた下手っくそに読むつもりなの?」

 こいしの今までのしおらしさが消え、声に先ほどは抑えられていた険が出てくる。変に大人しくされているよりは、こうしていつも通りの態度をとってくれている方が幾分かはまし、のような気がする。……どっちもどっちかもしれない。
 こいしは不機嫌そうなまま、チーズケーキをフォークで大きめに切り分けて口に運んでいる。

「一応、こいしが来なかった間に練習はして、少しは上手になった、よ?」

 自信のなさが声にまで現れてきてしまっている。この時点でなんだか精神的に追いつめられてきている。

「どうせ、元があんなだったから高は知れてる」

 相変わらず言葉が刺々しい。でも、やめろとは言ってこないから、幸い退こうという気持ちは湧いてこない。一歩目を踏み出すなけなしの勇気を失う前にさっさと始めてしまおう。

「……耳障りにならない程度にはがんばるよ」

 こいしの刺々しさで心が折れてしまわないよう、強がるようにそう言う。ちょっと強がるのとは違う気もするけど、これが限界なのだ。
 始まる前から心が後ろ向きになっている。それでも、咲夜が部屋に来てから脇に置いていた本を手に取る。こいしに聞いてもらおうと思って、練習してきたのだから。

 小さく深呼吸をした後、ゆっくりと一文目を読み始めた。




「最悪だった」

 私が本を読み終えたときのこいしの第一声。

「聞き取りにくいし、途切れ途切れだし、全然感情が伝わってこない。ほんとに才能を感じられない。史上最悪につまんなかったよ」

 一度感想を言う間に、二度も最悪と言われてしまった。初めて朗読したときよりも酷い評価だ。
 でも、最初と違うのは一応最後まで聞いてくれたということ。最後までといっても、時間がかかりすぎるから始めの方の何章かだけ。
 ともかく、最後まで聞いて批評をする程度にはよくなったと考えても良さそうだ。そんな前向きな思いも簡単に砕かれてしまうほどの酷評ではあったけど。

「じゃあ、言いたいことも言ったし、私は帰る」
「……うん」

 気持ちが沈んでいた私の声はかなり暗かった。こいしには届いていないかもしれない。
 立ち上がったこいしはこちらに一瞥もくれずに真っ直ぐに部屋から出ていった。後に残ったのは、空っぽになったカップとお皿だけだった。
 なんだか意識がぼんやりとしている。意味もなく朗読していた本を抱く。強く批判をされたことがない私は、自分の中にある感情を持て余していて、どうしていいのかわからなくなっていた。
 ゆらゆらと意識が揺れ始めている。

「随分と酷い言い種だったわね。私は良かったと思うわよ。フランの朗読」

 でも、突然聞き慣れた声が聞こえてきて、そんな感情も驚きに覆い隠されてしまう。意識もはっきりとする。

「な、なんでお姉様がここにいるの?」

 開きっぱなしの扉の向こう側に、お姉様が立っていた。
 館の中での出来事を把握している咲夜がこのタイミングで現れるならともかく、お姉様が出てくるのはかなり意外だった。

「妹が頑張った成果を聞いてみたいと思ったのよ。咲夜から話は聞いてたからね」

 悪びれた様子もなく、平然とこちらへと近寄ってくる。こいしにあれこれ言われてへこんでいたから、お姉様が傍にいてくれるのは嬉しいけど、今はまだ困惑が大きい。

「……どこにいたの?」

 私の部屋へと続く階段は一つしかないから、確実にこいしと対面するはずだ。でも、こいしが扉を開いたときにお姉様の姿は見えなかった。あんまり扉から離れすぎると私の声は聞こえないだろうし。

「蝙蝠の姿で天井に張り付いてたのよ。こいしと対面して面倒な事になるのが嫌だったから」

 そう言いながら私の対面に、さっきまでこいしが座っていた椅子に座る。そこに座っている人の差が、私の安心感の違いとなる。

「また、傷付けられてしまったみたいね」
「うん……」

 こいしに地霊殿から追い返されたときと同じような声音だった。でも、あのときとは違ってお姉様との間にはテーブルがあって、触れ合ってはいない。
 それでも、紅い瞳は私を真っ直ぐに見てくれている。それだけでも十分に心強い。

「でも、こいしの言葉は気にする必要なんてないわよ。どうせ、素直になれなくて適当に批判してただけでしょうし」
「……そんなことないよ。こいしの言ってたことは正しいと思うよ」

 最初のときに比べればよくなっていたかもしれないけど、それだけだ。絶対的な視点から見れば底辺レベルのものだった。

「まあ、私も朗読のプロって訳じゃないから、私の評価が正しいとも言えないわ。でも、つまらないなら咲夜のお菓子を食べ終わった後もわざわざ最後まで聞いたりするものかしらね? 確か、初めての時は途中で帰ったんじゃなかったかしら?」

 確かにそれはそうだ。でも、それには何か別の理由があるのかもしれない。そんな風に、否定の言葉を探そうとしていると、

「なんなら、咲夜の感想も聞いてみましょうか。一番客観的な立場から物を言えるでしょうし」

 お姉様がそう言うのに合わせて、咲夜が虚空から現れた。当然のように、こいしとのやり取りも含めて一から話を聞いていたのだろう。

「ふむ、そうですね。こいしの言っていた事も的外れという訳でもないですね。前回何度も噛んでいたので、それを意識していたのでしょうがそのせいで途切れ途切れになって聞き取りにくくなっていたように思います。感情面に関しては言わずもがなですね。そのような余裕はなかったでしょうから」

 傷を抉るような遠慮のない言葉だった。お姉様にも言いたいことははっきりと言っているから、当然私に対しても容赦がない。
 私は俯いて、でも咲夜の言葉からは逃げないようにと耳を傾ける。敵意を感じられないから、幾分かは耐えられる。

「しかし、最悪というほどのものでもありませんでしたよ。前回あれだけ酷かったにも関わらず、短時間の間に物語を聞くことにある程度は集中させられるようになっているのですから、もっと練習すれば格段に良くなると思います」

 後半のその言葉によって気持ちが最低辺まで落ち込むということはなかったけど、沈み込んでいるということに変わりはない。

「相変わらず容赦なく手厳しいわねぇ」
「たとえレミリアお嬢様であろうとも、プラスになると確信していればどんなに聞くのが辛いことだろうとも言葉にするのが私の信念ですから」

 服従しているのではなく、純粋に忠誠心だけで動いているからこその言葉なんだろう。

「それに、フランドールお嬢様自身下手な慰めは望んでいなかったようでしたし」

 そう、なんだろうか。
 ……うん、そうなんだろう。ただ慰められたいと思っていたら、お姉様の言葉だけで満足していたはずだ。
 へこまされはしたけど、まだこいしのことを諦められてはいない。だから、立ち止まってはいられないのだ。

「慰めようとしてたのは事実だけど、思ったことを言っただけよ。私だって場合によっては厳しい態度で接するつもりよ」
「お嬢様はフランドールお嬢様のことを溺愛なされていますからね。知らぬうちに色眼鏡をかけてしまって、どうしても評価が甘くなられてしまうんですよ」
「そうかしらね?」

 沈んでた気持ちも少しだけ浮かび上がってきたから顔を上げてみる。そうすると、納得いかないような表情を浮かべて首を傾げるお姉様の顔が見えた。

「当事者の感じ方がそのまま第三者にも当てはまることなんて稀なことですよ。ですから、お嬢様は素直に従者の言葉に耳を傾けるべきです」
「自分から望んで従者になったのに、生意気なことを言うのね」
「自ら選んだからこそ、少々生意気でいられるのですよ」
「……まあ、それもそうかもしれないわね」

 お姉様は咲夜の悪戯っぽい言葉に若干呆れた様子を見せながらも、口元をゆるめて小さく微笑む。咲夜もそれに応えるように笑みを浮かべた。
 そんな二人を良いなぁ、と思いながら眺める。羨ましいのではなく、優れたものを見られて満足するようなそんな感じだ。

「そういえばフラン。古明地姉妹の問題を解決したいと言ってたけど、解決した後はどうするつもりなのかしら?」

 二人の表情に見惚れていたら突然、お姉様がこちらを向いた。私はもう関係ないと思っていたから驚いてしまう。

「え? えっと、たぶん関わることは、なくなるんじゃないかな」

 もともとこいしと私は相性が悪いから、用もないのに関わり続けるなんていうことはないだろう。きっとその方がお互いの精神衛生にいい。さとりに関しては、よくわからない。まだ、一度しか顔を合わせていないし。
 でも、なんで突然そんなことを聞いてくるんだろうか。

「そう。友人になろうとは思わないのかしら?」
「思わないよ。こいしとの相性はかなり悪いし……」
「ふーん? 何か問題を抱えてるから、変に刺々しくなってるだけなんじゃないかしらね? 現に貴女が見た限りでは、貴女以外とは誰ともまともに喋ってないんでしょう?」
「うん、そうだけど……」

 初めて会ったときは、力を使って周りの人たちに一切気付かれないようにしていたし、前回や今回、咲夜がいるときはどこかしおらしかったりもした。

「だったら、こいしは貴女のことを特別視していると考えるのが自然な事ではないかしら? まあ、あんな態度取られてて苦手意識を持つのも分からないではないけど。私なら関わるのも嫌になるわね」

 そう言った後、なぜかお姉様はあごに手を当てて考え込んでしまう。少し困っているように見える。

「……お姉様? どうしたの?」
「あー、いやいや、なんでもないわ。気にしないでちょうだい。まあ、あんまり私が口出しすべきではないわよね。貴女の好きなようにしなさい」

 突然なんだか投げやりな口調になった。

「お嬢様、理想と現実のギャップにお気付きになったからといって、中途半端なところで投げるのはどうかと思いますよ」
「やっぱりそうよねぇ……」

 お姉様が咲夜の指摘にため息をつく。私一人だけが話についていけず置いていかれている。話題の中心はこいしと私のことのはずなのに。
 お姉様は再び悩む素振りを見せ、しばらくしてから真っ直ぐにこちらを見つめてきた。

「フラン、私は貴女に親しい友人がいてほしいと思っているのよ」
「うん」

 反射的に頷いてしまってから、そもそも自分には友達と呼べるような存在がいただろうかと考える。
 ぱっと思い浮かんだのは、よく図書館に本を借りにくるアリスと盗みにくる魔理沙。話をすることはあるけど、たまたま会ったからそのついでといった感じで、お姉様とパチュリーほどの距離の近さは感じない。もしかしたら、二人の距離が特別で、それがお姉様の言ってる『親しい友人』なのかもしれない。
 だからといって、アリスと魔理沙の二人を友達に含めてもいいのかというのもよくわからない。まず、友達という存在自体がよくわからないから。

「そこで、フランがこいしの事をなんだか気にしてるみたいだし、これをきっかけにすればいいと思っていたんだけれど、冷静になってみればあんなのが貴女の傍にいるのは不安なのよねぇ……」

 私が友達というものについて悩んでいることに気づいている素振りはなく、こいしのことをあんなの呼ばわりしている。でも、こいしの感じが悪いというのは確かではある。

「だから、私はあまり考えない事にしたわ。それに、そもそも他人の友人関係に私が口出ししたって仕方のない事だし」
「結局丸投げするんですね」
「だって、それ以外に選択肢がないじゃない」

 少しだけばつが悪そうに、なのにしっかりとした口調でそう言う。簡単に揺らいでしまう私とは根本的に在り方が違うんだろうと思う。

「で、フランとしては問題が解決したら、関わりたくないというわけね」
「え? 別に関わりたくないということもないけど……」
「じゃあ、どうしたいのかしら?」
「……わかんない」

 成り行きに任せていれば、そのまま関係が終わってしまうということは予想できる。でも、お姉様が聞きたいのはそういうことではないだろう。

「……ねえ、友達ってどういうものなの?」

 そして、私はそんな質問を口にしていた。

「咲夜はどう思う?」

 お姉様は、質問を受け流すかのように咲夜に言葉を投げかける。何か意図があるんだろうか。

「……。いえ、分からないです」

 しばらく考え込んだ咲夜がそう返す。

「私にお聞きになられるより、お嬢様がお答えになればよろしいのではないですか?」
「いろんな意見を聞いてみたいと思ったのよ。友人の捉え方なんてそれぞれでしょうから」

 お姉様はそう言って、居住まいを正す。私だけではなく、咲夜の方にも意識を向けているようだ。

「そうね。私にとって友人というのは、煩わしくて自分勝手。でも、悪くはない、そう思えるような存在よ」

 お姉様の言葉は、私にはあまり理解できなかった。
 それは、咲夜も同様のようだった。


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