館に着いたとき、辺りはすっかり真っ暗となってしまっていた。

「ただい――」
「ああっ、良かったわ。無事だったのね!」

 館の玄関扉を開いた途端に、誰かに真っ正面から抱きしめられた。声とその感触からお姉様だとすぐにわかる。
 お姉様はかなり私のことを心配してくれていたようで、抱きしめる腕にはいつも以上に力が込められている。でも、痛みは感じられない。しっかりと私のことを思いやってくれているのだとわかる。
 いつから私のことを待っていてくれたんだろうか。聞いても答えてくれないだろうけど、その腕に込められた力の分だけ待っててくれたんだろうなと想像はできる。
 胸がほんわりと温かくなる。

「お姉様、心配かけてごめんなさい」
「どうして貴女が謝るのよ。何かあったんでしょう? そのことについて話してくれる?」
「うん」

 お姉様が腕の力を抜いて顔を覗き込んでくる。私は頷き返して、抱きしめられたまま、今日あったことを話し始めた。
 木陰で寝ていたら知らない場所にいたこと。そこにこいしが助けに来てくれたこと。遊びに付き添わされたあと、こうして帰ってこれたということ。
 
 お姉様に話をしていて気づいたけど、私の中では連れ去られたことよりも、こいしに引っ張り回されたことの方が印象的になっているようだ。
 知らない場所に連れてこられていたとはいえ、あったのはそれだけで特に大したことはなかった。だから、こいしのことの方が印象的になるのも当然かもしれない。あれだけちぐはぐな雰囲気を纏っているのなんて、なかなかいないだろうし。

 そのこいしは、館までついてきてくれた。本当は地底の出口で私と別れるつもりだったみたいだけど、頼み込んだら非常に面倒くさそうな表情を浮かべながらもついてきてくれたのだ。まあ、実際には夜道に不慣れで、どこに進めばいいのかよくわからなくて案内してもらったという感じだけど。
 吸血鬼だから暗いのは平気だけど、外を歩き慣れてない私にとって昼の世界と夜の世界というのは全く異なる世界に見えるのだ。そもそも昼間だろうとも道がよくわからない。だから、私のよく知っている場所、要するに館の周辺まで連れてきてもらったのだ。
 こいしは地上を散歩することもよくあるらしくて、私よりもずっと道に詳しかった。

 そうして無事に館にたどり着いたけど、門が見えてきてそちらに気を取られている間にこいしはいなくなってしまっていた。私は門の傍で立ち尽くし、美鈴が話しかけてくれるまで動くことができなかった。
 どうしてお礼も挨拶も言う暇もなくいなくなったんだろうか。

「フラン? 大丈夫?」
「あ、う、うんっ。だいじょうぶだいじょうぶ」
「そういう慌てたような反応は大丈夫じゃない証拠よ。まあ、色々とあって疲れてるんでしょうね。夕食を食べたらゆっくりと休みなさい」
「うん……」

 そうかもしれない。
 お姉様にそう言われた途端にどっと疲れが出てきた。

 我ながら単純だなぁ、とお姉様に気づかれない程度に小さく苦笑を浮かべるのだった。





 パチュリーの図書館にある大きな丸テーブルの一つに本を置いて、ページを捲る。図書館にある本は大体大きくて手に持って読むのは難しい。

 地底にさらわれた翌日以降、外で本を読むことはなくなった。
 また同じことが起きるんじゃないだろうかと警戒しているのだ。これくらい警戒していれば、寝てしまうなんてこともないだろうけど、本を読むことに集中することもできない。
 だから、安心することのできる場所、自分の部屋か図書館で本を読むことにした。図書館なら大体パチュリーとこあがいるから、こっちにいることの方が多い。

 でも、私の話を聞いたパチュリーは、そこまで警戒する必要はないだろうと言う。
 私が連れて行かれた場所は地霊殿と呼ばれる建物で、古明地さとりという妖怪がそこの主らしい。名字からわかるとおり、こいしの親類で姉だそうだ。
 そのさとりというのは面倒ごとを起こす性格とは思えず、ペットたちの暴走だろうとのこと。

 確かにそれなら、連れて行かれた後にどうこうとかはなさそうだけど、連れて行かれるかもしれないという懸念が消えるわけではない。よって、私はこのまま外に出ることはない。
 臆病だから、なかなか本当の本当に安心することはできないのだ。

 そうやって外から逃げて本の世界に入ろうとするけど、なんとなく集中することができない。
 ページを捲っては意識が本からそれ、文字を一行追っては内容が入ってこなくて結局何度も読み返したり。
 そんな状態だから、全体の内容を掴むことなんてできない。

 こうして注意力が散漫になってしまっている原因はわかっている。
 それは、こいしのことを気にしてしまっているから。私といるだけで楽しそうにしていたこいし、散歩の間も力を使っていることを指摘されて百八十度態度を変えたこいし、そしてお礼や挨拶をする間もなく姿を消したこいし。
 なぜか、こいしの姿が頭から離れないのだ。

 とはいえ、どうしていいのかもわからない。
 こいしの住んでいる場所はわかっているから会いに行くことは簡単だ。でも、会いに行ったところで私にできることはあるんだろうかとも思う。
 向こうが会いに来てほしいと言っていて会いに行くならまだしも、こっちから勝手に会いに行くとなると、図々しいんじゃないだろうかと考えてしまう。
 それ以前に、こいしと私の相性は最悪みたいだから、会いに行くとこいしの機嫌を悪くしてしまうような気がする。昨日のやり取りから、それはほぼ明らかだ。

 私がこいしに関わるという必要性は全くないのだ。あの日あのとき偶然出会っただけで、このまま忘れてしまったところで、問題は一切ない。むしろ、会うべきではない。

 本当、どうしてここまで気にしてしまっているのだろうか。

 助けてもらったというのは確かに衝撃的なことではあるけど、ただ私に興味を抱いて遊んでみたかっただけということ、あそこがこいしの家だということを知った今ではそれも相当薄れてしまっている。

 でも、よく考えてみれば、どうしてああやって自分の家の中の人たちに気づかれないようにしていたのだろうか。散歩をしている間も周りの人たちに気づかれないようにしていて、まるで人目に付くことを嫌っているかのようだった。
 ああ、もしかしたらこの疑問がこいしを気にしてしまっている原因なのかもしれない。
 
 そうやって、自分の中のもやもやとした部分が少しばかりすっきりとしたとき、

「フラン」

 不意に誰かが私を呼んだ。世界で一番聞き慣れた声だから、誰なのかはすぐにわかった。

「お姉様? どうしたの?」

 全く読み進めることのできない本から顔を上げて振り返ってみれば、ぱっと思い描いたイメージ通りお姉様がいた。喘息持ちのパチュリーが発作を起こしてないかどうかを見に来るから、図書館でお姉様を見かけることは多い。
 でも、本を読んでいる私のことを気遣ってか、話しかけられることは滅多にない。だから、首を傾げる角度はいつもよりも大きくなっている。

「ここ最近、ずっと考えごとをしてて上の空みたいだから、相談に乗ってあげようと思ってね。自分でなんとかしようとするのが悪いとは言わないけど、一向にまとまらないときは誰かに相談してみた方がいいわよ。一人では限界があるのだし」

 そう言いながら、お姉様は私の対面の席に座る。お姉様とはこうした位置関係となることが多い。お茶会をするとき、食事のとき、今みたいに不意に私の話を聞いてくれるとき。
 お互いにそう決めたということはなく、自然とそうなっていた。

「さすがお姉様。わかるんだ」
「流石も何も、メイド妖精たちでさえも気付いてるわよ」
「えっ、……そうなの?」
「ええ、そうよ。まあ、そうやって、本を開いたまま何十分も固まってたら当然だと思うけれどね」

 お姉様が私の手元を指さす。
 思わず開きっぱなしの本を見下ろしてしまうけど、それで何かが変わるということはない。確かにそうかもと納得ができるだけだ。

「それで、あれから何を考えていたのかしら? 貴女を館まで連れて帰ってくれたっていうこいしとかいうやつの事?」

 顔を上げてみると、お姉様が紅い瞳でじっとこちらを見ていた。心の中を覗かれるような視線。でも、そのことに不快さを感じることはなく、むしろそのまま私の内面を見ていてほしいなんて思ってしまう。

「……やっぱりさすがだよ、お姉様は」
「そうかしらね? 悩めそうな事なんてそれくらいしかないと思うけど」
「そうかな?」
「さあ? 他がどう考えてるかなんて知らないし」

 私としては、お姉様が特別すごいんだと思いたかったんだけど、私の思考はわかりやすいのか他の人にまで簡単にばれてしまうようだ。ちょっと残念。

「まあ、そんな事はどうだっていいのよ。私が知りたいのは、貴女が何をどう悩んでるか。他人との関係に関してどれくらい助けになれるかは分からないけど、話を聞くくらいならしてあげられるわよ?」

 そんなことはない。私の交流が広がったのもお姉様のおかげだ。お姉様がいなければ、いつまでも閉じた世界のままだった。
 そもそも私に関するどんなことにも始まりにはお姉様がいる。それくらい、私の中でのお姉様の存在感は大きいのだ。
 でも、今はそんなことを声高に主張したって仕方がない。だから、代わりに相談に乗ってもらう。その中で、お姉様はちゃんと役に立ててるんだと知ってほしい。わかってほしい。

「うん、お姉様の言う通りこいしのことを考えてたんだけど――」

 先ほどまで考えていたことを言葉にする。とはいえ、具体的なことはあまり考えていなかったから、こいしに対する印象とかそういったものばかりとなってしまう。
 それでも、お姉様は真剣に聞いていてくれた。

「会いに行けばいいじゃない」

 私が話し終えたときにお姉様が私に向けてきたのは、そんな極簡単な言葉だった。余計な修飾は何一つ付いていない。

「で、でも、どうしていいかわからないんだよ?」
「数日考えてもわからない問題の答えが、考える時間を増やしただけで出てくるとは思えないけどねぇ。無駄に時間を過ごすよりは実際に会いに行って、話を聞きに行く方がずっと有意義だと思うわよ?」
「……たぶん、私が会いに行ったら、また機嫌を悪くすると思う」

 それに、余計なことを聞かれるのをものすごく嫌っているような態度をしていたし。

「んー、まあ、確かにそれはありそうね」

 そう言って、お姉様は考え込む。

「……咲夜のお菓子で機嫌をよくする、とかはどうかしら?」
「え……、突然そんなのを持っていくなんて不自然じゃないかな」

 そもそもお菓子のひとつふたつでこいしとの最悪の相性がどうにかなるとも思えない。食べている間は上機嫌でも、私が話しかけた途端に不機嫌になることだって十分に考えられる。

「大丈夫よ。館まで案内してもらったお礼とでも言っておけば、何も不自然な所はないわ」
「それは、確かに不自然さはないかもしれないけど……、お菓子だけで相性の悪さってどうにかなるのかな?」
「心配性ねぇ。まあ、駄目だったら駄目で別の手段を考えてみればいいんじゃないかしら? ねえ、パチェ、その時は貴女も一緒に考えてくれるでしょう?」

 そう言って、私の背後に目配せをする。
 意識せずにほとんど反射的に振り返ってみると、そこには本を抱えたパチュリーがいつの間にか立っていた。今まで全然気配を感じなかったから驚いてしまう。

「いいわよ。レミィの頼みなら断れないしね」
「ありがとう。それと、今日もちゃんと元気そうね」
「ええ、おかげさまでね」

 お姉様の言葉に笑みを浮かべて答える。普段はあまり感情の変化を見せないパチュリーも、お姉様の前でだけは雰囲気が柔らかくなる。友達同士だからだろう。

「まあ、きつい態度を取っていたとしても、本心までそうだとは限らないし、しつこく付き纏ってみるのもいいと思うわよ」

 本をテーブルに置きながら、パチュリーはお姉様の横に座る。二人ともこちらに視線を向けてきているから、少々居心地が悪い。
 お姉様の視線だけなら全然大丈夫なんだけど、それ以外となるとよく見知った相手だろうとも、とたんに耐えられなくなる。

「レミィはそうだったわよね?」
「別に取りたくてきつい態度を取ってたわけじゃないわよ。私たちの所に来るのが敵ばっかりだったから自然とそうなってただけ」
「ええ、知ってる」

 少し拗ねたようなお姉様の様子に、パチュリーがおかしそうに答える。パチュリーと話しているときのお姉様は対応がどこか子供っぽくなる。そこに、お姉様の友達であるパチュリーと妹である私との差が生まれる。
 甘えることはできるけど、頼ってもらえることはない。そのことを少し残念に思う。

「だから、フランが気にしているこいしも、何か事情を抱えてるんじゃないのかと思うのよ。私たち、というか魔理沙が対峙した時は誰にでも関わっていきそうな雰囲気は持っていたし」
「……もしそうだとしたら、余計に会いに行きにくいよ」

 そんな他人を避けたがるような事情を抱えている人と関わることができるとは思えない。そのことばかりを気にしすぎて、ぎくしゃくした感じになってしまうと思う。もともと相性が悪いのだから、もはやどうしようもないほどの溝ができてしまうのではないだろうか。

「レミィに一目惚れした私は、何か事情を抱えてそうだと思ってもしつこく関わってみたわ。だから、出会ったその日からこいしのことを気にしているという事は、フランも一目惚れしたのではないのかしら? その勢いがあればどうとでもなるわよ」
「……その表現は誤解を招く気がする」

 なんとなく言いたいことはわかるけど。
 要するに、出会ったそのときに仲良くなりたいと強く思ったとか、そういうことを言ってるんだろう。
 でも、私の中にそういった気持ちはないと思う。本当に純粋にこいしのことが気にかかっているだけなのだ。どうしたいという気持ちは、全然ない。

「そうかしら? でも、レミィとなら恋仲になってみるのも悪くはなさそうね」
「私はそんなのごめんよ。恋だと愛だとか難しい事考えるのは面倒だし」
「とか言いながら、子供たちにはしっかりと愛を注いでるのよね」
「ん? ……ああ、そうね。気が付けばそうなってたから、特に何かを考えてた訳じゃないけれど」

 お姉様は首を傾げて少し考えた後、パチュリーの言ったことの意味を理解したようだ。
 私はすぐに理解できた。お姉様の反応を見ていると、誰かにどれだけ大きな影響を与えているかという自覚がないんじゃないだろうかって思うことがよくある。

「一人は予想以上に立派に育ってくれたんだけど、もう一人はまだ私の力を必要としてるのよねぇ。いつになったら、立派になった姿を見せてくれるのかしらね」

 試すような、問いかけるような視線をこちらに向けてくる。このときばかりは、お姉様の視線でさえも真っ正面からは耐えられなくて、わずかに視線をそらしてしまう。
 そんな私の様子を見たお姉様におかしそうな笑みを浮かべられてしまって、余計にいたたまれなくなる。

「まあ、でも、今まで他人に興味を抱くような事がなかった貴女が、今は少し交流があっただけの他人に興味を抱いてる。きっかけはともかくとして、今回の事は絶好の機会なんじゃないかと思うのよ」

 お姉様が穏やかそうな表情を浮かべる。そんな顔をされると、何でも言うことを聞いてしまいそうになる。たとえ、心の底から無理だと思っていても。

「だから、貴女は明日、こいしに会いに行きなさい。お礼もせずにそのままという訳にもいかないでしょう?」
「う……、そう、だよね」

 しかも、逃げ道を塞がれてしまった。言い訳しつつなんとか逃れようとか考えるけど、何も思い浮かばない。
 だから、悩んで考えて私なりに延ばせるだけ延ばしたあげく、

「……わかった、明日行ってみる」

 仕方なく、そう決めたのだった。
 私の返事を聞いたお姉様は満足そうな笑みを浮かべていた。
 ここで悔しいとか思わない時点で、私はお姉様には絶対に勝てないんだろうなぁ。


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