さとりと約束をしてからこいしが来る日まで、私は来るべきときに備えて準備をしていた。
といっても、私自身がする準備はほとんどない。こいしが来るまでにしておくのは、心の準備くらいだ。
そんな私に反して、一番準備量が多いのは手伝いをしてくれることになっているパチュリーだろう。もともとは手伝ってもらう予定はなかったんだけど、お姉様から話を聞いて協力してくれると言ってくれたのだ。
少し不安な部分があったから、パチュリーが協力してくれることにはとても感謝している。
そして、前回こいしがここに来てから三日経った今日、私は妙にそわそわしながら椅子に座っている。こいしの気分が変わっていなければ、今日こいしは現れるはずだ。……前回、こっちが好き勝手言ってしまったから、不安はあるけど。
「フランドールお嬢様、こいしが館に入ってきました」
「あ。ありがと」
ついに、このときがやってきた。そわそわとしていた気分は一気に引っ込んだけど、代わりにかなり緊張してくる。
こいしが来たことをわざわざ伝えてもらう必要はないけど、心の準備をする時間が必要だろうと思って頼んでいたのだ。この緊張感にいきなり襲われていたら動けなくなっていたかもしれないから、頼んでいて正解だったかもしれない。
「いえいえ、これくらいお安いご用ですよ。大変でしょうが、頑張ってくださいね」
「うん」
咲夜は姿を消して、部屋の中には私だけとなる。私は胸に手を当て、ついでに目も閉じてゆっくりと深呼吸をする。
なんとなくだけど、緊張で大きくなっていた心臓の鼓動が少しは落ち着いたような、気がする。いや、こういうのは思い込みが大切だろうから落ち着いた。そういうことにする。
でも、そんな余計なことを思考の中に入れると、余計に心音が気になる。結果として、緊張している自分を自覚してしまい、元に戻ってしまう。
「……なにやってるの?」
そして、こいしが現れてしまった。一応、心構えができていたのか緊張している割には驚くことがなかった。まあ、上手くやるというのが最終目標だから、驚かないだけでは何の意味もない。
つむっていた目を開けてみると、こちらをいぶかしむように見るこいしの姿が映った。私の姿を見て警戒しているのか、まだ扉の近くにいる。
計画ではこいしは椅子に座っていることになっていたけど、こちらの方が都合がいい。そう思いながら、すぐに行動を開始する。
「魔法を使う準備」
ごく簡単にそれだけを言い、姿を消すと、一気にこいしとの間合いを詰めた。
警戒をしていたこいしは私の姿が消えた瞬間に一歩引いたみたいだけど、それ以上は動いていない。何が起こるかを見極めようとしたからだろう。そして、そうやってほとんど動かなくするのが、わざわざ姿を消してこいしとの距離を詰める理由だった。
「さとりに会って、話をしよう?」
こいしの目の前で姿を現した私は、こいしが逃げ出す前に手を掴んだ。たぶん、これで逃げられないはずだ。
「……こんな小細工が使えるんだ」
近くに寄ると身長差が如実に現れて、見下ろされつつ睨まれるという状況になってしまう。こうして正面から見下ろされるのも久々だけど、やっぱり迫力を感じる。でも、実際に手を出されたことはないから、怯えは出てこない。
態度が怖いだけなら、慣れてしまうとなんともなくなる。
「うん、魔法はそれなりに使えるからね」
パチュリーには才能があるなんて言われた。でも、種族的に相性の悪い魔法もあるし、そこまでがんばろうという気にはならなくて、なんとなく興味を持った魔法くらいしか練習はしていない。
「……そう。でも、フランに何を言われようとも会いに行くつもりはない」
私はなんと言われようともだいじょうぶだ。でも、さとりのことに関して一切の躊躇もなくそう言い切られると悲しくなる。
「さとりは、こいしのことを嫌ったりも、疎ましく思ったりも、拒絶したりもしないよ。だから、怖がらないでさとりに会いに行こう?」
「うるさい。なんの根拠があってそんなこと言ってるの」
「さとりの想いは本物だよ。私が保証する」
「そうじゃなくて、なんで私が怖がってるって思うのかってこと」
「それに関しては返す言葉もないんだよね」
さとりから話を聞いて、そうなんじゃないだろうかって思っただけだから。
「でも、怖くないなら会いに行けるよね?」
「会いに行く理由がない」
「さとりが会いたがってた。それだけでも、十分理由になるよ」
「……やだ」
なかなか頑固だ。でも、否定の言葉を口にするときに今までの勢いがなくなっているから、何か思うところはあるのだと思う。
なんとしてでも隠し通すつもりなのか、話してくれそうな様子は全く感じられない。
「残念。話し合いをして、こいしが自分の意志でさとりのところに行ってくれればよかったのに」
というわけで、話し合いをして同意の上でさとりのところへ連れていくというのは諦めて、最初から実行するつもりだった計画の方へと切り替える。
「……なにするつもり?」
「私が何を言ってもむだみたいだから、さとりのところまで連れていってあげる」
そう答えつつこいしの手を放す。そして、逃げ出す前にこいしとの距離を零にまで詰めて、正面から抱きしめた。
ただ、このままだと全然前が見えないから、こいしの腰の辺りに回した腕を調節しつつ浮かび上がる。これで、こいしの肩から前方を覗くことができる。端から見れば、私が抱きついているようにしか見えないかもしれない。
「……放して」
「だいじょうぶ、さとりは逃げも隠れもせずにちゃんとこいしのこと、受け止めてくれるよ」
「私は放してって言ってるの」
声は冷ややかで少々攻撃的な感じにはなっているけど、逃げ出すような雰囲気はない。
どうやらこいしの力では私を振り払うことはできないようだ。でも、気を抜いたときにどうなるかわからないから、常に注意は向けておく。
「あんなに想ってくれてる姉から逃げるなんて可哀想だよ。今までずっと読めてた心が読めなくなってこいしは不安で怖いかもしれないけど、ちゃんと向き合ってあげて」
「だから、知ったような口をきかないで」
「私は知ったような態度しか取れないから」
本当の気持ちを全然見せてくれないから、予測に予測を重ねていくことくらいしかできないのだ。それでも、いくつかのことは私なりに確信しているから、こうして行動に移した。
「……やっぱりフランは生意気で、余計なことしかしない」
「たぶん、こいしが素直じゃないからじゃないかな」
いつだったかと似たような答えを返しつつ、こいしごと浮き上がる。重さはそれほど感じず、問題なく地霊殿にたどり着くことができそうだ。
私みたいに動くことが少ないと吸血鬼なんていうのは日常生活での利点がないけど、こういうときはよかったと思える。まあ、力が強い妖怪は他にもたくさんいるから、吸血鬼であるのはあんまり関係ないけど。
そんなことを考えながら、扉の方へと向かう。両手は塞がっているけど、魔法で分身を作り出して扉を開けさせる。
「なにしたの?」
「私の分身で扉を開けただけだよ。ほら」
分身を背後、こいしの正面へと移動させる。
「魔法って便利だねぇ。あのとき、私に助けられる必要なんてなかったんじゃない?」
「まあ、そうなんだけど、あのときは混乱してたから。すぐに思い浮かばなかったんだ」
「はぁ……、そのときにすぐに思い浮かんでてくれればこんなことにならなかったのに」
こいしの後悔からくるため息が耳元をくすぐった。そんな些細なことで腕の力が緩みかけるけど、なんとか我慢する。
それにしても、確かにあのときの出会いがなければ、私が二人の問題に首を突っ込むようなことはなかったはずだ。
真っ直ぐ館まで帰って、たぶん外に出ることに怯えて、それでも時間が経てばまた外に出るようになって。それだけで終わっていたはずだ。
私はまだこいしやさとりと関わったことに対してどう思えばいいのかわからない。それは、今からの行動で全て決まるはずだ。
だから、私は適当な言葉を返すにとどめる。
「でも、そのおかげで、咲夜のお菓子を食べれるようになったんでしょ?」
「ま、そうだね。余計すぎるくらいに余計なおまけがついてきたけど」
「さとりとの話し合いがうまくいけば、私はこれ以上関わらないよ」
「なんでフランがそんなに偉そうなの」
「ん? そうかな?」
そうやって、無駄話をしながら地霊殿を目指す。最後の最後までなんだかへんてこな関係だったけど、いざ終わりが近づいてくると、なんとなく寂しいものがある。
そんな気持ちを表すかのように、今日の天気は曇りだった。
太陽に焼かれてしまわないようにと、パチュリーがやってくれたことなんだけど。
「ねえ、こいし。何してるの?」
「私はお姉ちゃんに会うなんて一言も言ってない」
地霊殿へと向かう途中、パチュリーのおかげとこいしのせいで障害はほとんどなかった。移動していた途中ですぐに気づいたけど、こいしが周りの人たちに私たちのことを気づかれないようにしていたのだ。
そして、それはさとりの部屋に着いた今も続けられていて、緊張した面持ちで椅子に座っているさとりがこちらに気づく様子は全くない。
さとりは、私たち、正確にはこいしが現れるのを待っているようだ。
このまま扉の前に突っ立っていても事態は好転しない。なんとかさとりに気づいてもらわないと。
こいしの能力はその有効範囲がわかりにくいのが厄介だ。でも、限界はあるはず。現に、ぴったりとこいしにくっついている私はこいしを見落としたりしていない。
とにかく、こいしを抱きしめたままさとりの方へと近づいていく。こいしが抵抗するような様子はない。
ここに来るまでの途中、何度か不意を突くように逃げようとして、それらがことごとく失敗しているから諦めたようだ。でも、最後の最後まで力を使っての抵抗はやめないあたり、往生際が悪いことに変わりはない。
「さとり」
正面に立って呼びかけてみる。そうすると、ぴくりと身体を動かした。でも、目の焦点は私たちの方には合っておらず、扉の方を見ている。まるで、私たちが透明にでもなってしまったかのような反応だ。でも、さとりは気づいていないだけなのだ。こんなにも近くにいるのに。
でも、さとりは何かを感じ取っているのか、部屋を見回してそれからじっとこちらの方を見つめてきた。気づいてはいないけど、きっとそこにこいしがいるのだと信じているかのように。
「さとりっ!」
もう一度、それもさっきよりもずっと大きい声で呼びかけてみる。でも、その直後に口を手で塞がれた。頭も後ろから抑えられていて、こいしが逃げてしまわないようにと両腕を腰に回している今、そう簡単には振り払えそうにない。
首を何度か振ってみるけど、こいしの帽子が落ちるだけで手は離れない。
「……こいし」
いや、それだけじゃなかった。こちらの方をずっと見ていたさとりが椅子から立ち上がり、帽子を拾い上げた。
さとりの口からこいしの名前がこぼれた瞬間、微かにこいしの身体が強張るのがわかった。やっぱりさとりと正面から向き合うことを怖がってるようだ。
「こいし、そこにいるのよね?」
さとりが呼びかけてくる。それでもなお、こいしはさとりと向き合おうとせず、逃げ続けるつもりのようだ。
怖いから逃げたいという気持ちはよくわかる。私だってすぐに逃げ出したくなる。
でも、お姉様はそんな私を許してはくれなかった。優しい言葉や励ましの言葉はくれたけど、逃げることを肯定してくれるようなことは決してなかった。
だから、私は誰よりも尊敬するお姉様の真似をしてみる。言葉は封じられてしまっているけど、それだけで諦める程度の意志では動いていない。
こいしに気づかれないよう、おもむろに片方の腕をこいしの身体から離す。ずっと密着していたから、それだけで涼しさを感じた。これでは、こいしも気づいてしまっているかもしれない。
まあ、気にしない。どうせ遅かれ早かれ気づかれてしまうことだし。
腕を上げて、こいしの頭に触れる。本当ならさとりの役目だろうけど、そのさとりをこいしが避けているのだから私がするしかない。不満に思われる点はいくらでもあるかもしれない。
手がこいしの髪に触れる。その感触にくすぐったさを覚えながら、お姉様の手を思い出しながら不器用に手を動かす。
でも、案の定気に入らなかったようで、こいしは逃げ出そうとした。私の頭と口から手を離し、突き飛ばそうとしてくる。私なんかでは、こいしを安心させることはできない。
それはよくよくわかっていたから、ショックはさほど受けない。早々にさとりにこの役目を引き渡してしまおう。
片腕でもこいしをなんとか逃がさないようにしていたけど、不意にその力を抜く。
その瞬間、私はこいしに突き飛ばされ、距離が離れる。思ったよりも衝撃が強くて少々ふらついたけど、なんとか倒れずに自立した。
対して、こいしには自分の力では立っていなかった。驚いたような表情を浮かべながらも、こいしの真後ろに立っていたさとりが帽子を持ったままこいしを後ろから抱きしめていた。
「さとり。約束どおり、こいしを連れてきたよ」
「……はい、ありがとうございます。それから、おかえりなさい、こいし」
さとりの腕にぎゅっと力が込められる。こいしはそれに抗おうとはせず、大人しく腕の中に収まっている。正確には動けなくなっているという感じだ。
正面にいる私を睨んできてはいるけど、その翠色の瞳は微かに揺らいでいるように見える。
私は早々に退散した方がいいのか、それとも、もしこいしが逃げ出した場合に備えて、ここにとどまっているべきなのか。
結果がよくわからないうちに投げ出してしまうのはどうかと思い、とどまることにした。丸く収まりそうなところを見届けたら、すぐに出ていこう。
「ごめんなさい、私はあなたを理解してあげられなかった」
さとりが静かに話し始める。こいしを抱きしめて、きっとずっとずっとため込んでいた気持ちを言葉にしていく。
「私はあなたが知らずのうちにどこか遠くへ行ってしまうのではないだろうかと怖かった。だから、あなたが目を閉ざしてから私はできるだけあなたに関わろうとした。そうすることで、あなたを私の近くに繋ぎ止めようとした。あなたがどんなことを考えているのか、考えようともせずに、ね。
だから、あなたが私に顔を見せなくなったとき、そんな私を嫌ってしまったんだろうと思ったわ。そうやって、また私はあなたが何を考えているのかしっかりと考えようとしていなかった。
でも、そこにいるフランドールさんが気づかせてくれたわ。あなたが私と関わることを怖がっているのではないだろうかと。私があなたと関わるのを怖がっているように。
私にとっても、そして、きっとあなたにとっても心が読めるのは当たり前で、心が見えないのは異常で、恐ろしいこと。でも、あなたは心を読む力を捨ててしまった。
他人の心を読めない世界なんて私にはわからない。……でも、あなたの心が読めない世界はとても心細いわ。昔は私を好きでいてくれたけど、心を閉ざしてしまってからはそれが全然わからないから」
さとりの想いをこいしは静かに聞いていた。いつの間にか私の方を睨むのをやめて、代わりにその顔は無表情となっている。
何を思って、何を感じているのだろうか。私にはそれを窺い知ることはできない。
「……こいしは、あなたを守れなかった私を恨んでいるの? 憎んでいるの? 嫌っているの? ……それとも、今でも好きでいてくれているの?」
そう問う声はとても不安そうで、声が震えているのが伝わってくる。心を読むことのできるさとりにとって、答えが返ってくるまで何もせずに待つ時間なんていうのは未知のことなのだろう。
なら、不安になるのも頷ける。しかも、質問の内容からすでに後ろ向きの気持ちになっているということもよくわかってしまう。
「……」
こいしは何も答えようとしない。本心を言葉にするのが怖いのだろうか。それとも、私の見込み違いでさとりのことはどうでもいいと思っているのか。
いや、後者はないはずだ。今までのこいしの反応からそれはないと思いたい。そうじゃないと、私がさとりにしてしまったことはあまりにも残酷すぎるから。
私は、祈るような気持ちでこいしを見つめる。せめて、今何を思っているのかそれだけでも口にしてほしい。
じっとこいしの顔を見る。
「……お姉ちゃんは?」
私の願いが届いたのか、それとも何か覚悟ができたのか、こいしはおずおずと不安を隠そうともせずにそう問いかけた。自分の方から正直な気持ちを言うのが怖いのかもしれない。
「え……? ……あ。ええ、大好きですよ、こいしのこと」
さとりはなんだか素っ頓狂な声を出したかと思ったら、慌てたようにそう言った。これはもしかすると、
「お姉ちゃん?」
「……ごめんなさい。いつも心を読んで会話をしているから、あんまり省略されると意図をなかなか掴めないのよ。これでは、嫌われてしまっても仕方ないですね……」
そう言ってさとりは落ち込み、こいしを抱きしめている腕からも力が抜けている。
さとりのその反応にこいしは小さく呆れたようなため息をつく。無表情だった顔にも感情が表れ始める。そこにある感情を読みとる前に、こいしの視線はさとりの手の方へと向いてしまったから、どんな顔をしているかはわからない。
「……嫌いになれるわけがない。お姉ちゃんのおかげで、私の心は外に向き始めたんだから……」
ようやく今までずっとはぐらかされてきた、こいしのさとりへの想いが言葉にされた。おずおずとそして恥ずかしげで小さな本当に小さな声だったけど、すぐそばにいるさとりにはちゃんと届いたことだろう。
「こいし……っ」
その証拠に、さとりは驚いたような、でも嬉しさが滲み出てきているような表情を浮かべると再び腕に力を込めた。こいしは恥ずかしそうに身をよじる。
この様子なら、私はもう必要ないだろう。
後は、二人っきりで今まで距離をあけていた分しっかりと話をしてほしい。
私は音を立てることもなく部屋から消えた。
最後の最後にこいしがこちらを見てきていたけど、何かを言ってくるようなことはなかった。
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