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 足を動かすことだけに意識を向けていると不意に腕を引っ張られた。そのせいで無意識に全てを委ねて歩いていた私は意識を取り戻す。

「どうしたの?」

 振り返って私の腕を引っ張ったフランへと声をかける。
 よく見ると、私がフランの手を引っ張っていたみたいだ。フランは私から二段くらい下の階段で足を止めていた。
 どうやら、私たちは階段を上っている途中のようだ。まあ、足元を見れば誰でもわかることだけど、無意識に全てを委ねている私は中々気付けない。

「こいし、見て」

 少しぼんやりとしたフランの口調。その視線は私の背後へと向いている。
 桜色の何かがひらひらと視線の中を舞う。出所を辿ろうと振り返ってみると―――

「わ……」

 桜の花びらの舞う光景が広がっていた。桜吹雪の向こう側には無数の桜の木が見える。
 先が霞むほどに長い、長い階段を挟むようにして桜並木が続いている。

 全ての桜から、はらはら、はらはらと花びらが儚く散っていく。そして、それらは暖かい風に飛ばされ舞い、吹雪の一部となる。
 そして、最終的に花びらたちは階段の上へと落ち、積もっていく。

 降り積もる花びらを見て今更のように足を踏み出しにくくなってしまう。こんなにも綺麗な桜の花びらを踏みにじるなんて勿体なさ過ぎるから。
 だから、足を止めてただただ見惚れる。

 地底では決して見ることの出来ない色鮮やかな幻想的な光景。
 フランもこういう光景を見るのは初めてなのかもしれない。

「……」
「……」

 私もフランも桜に見惚れたまま黙ってしまう。
 けど、言葉なんて必要ないだろう。
 こんなにも美しい光景を前にして声を出すなんて無粋な気がするから。

「……貴女達はこの冥界に何の用?」

 けど、不意に静寂を破るようにして警戒心の込められた声が階上から聞こえてきた。私は桜の方からそちらへと意識を向ける。フランは驚いて身体を震わせたみたいだった。

 階段の上に立っていたのは銀髪の少女。髪とコントラストを成すような黒いリボンが桜吹雪の中、揺れている。傍らには大きな霊魂が浮かんでいる。人間ではなさそうだ。
 彼女の着ている緑の服は桜色のこの空間の中では浮いている。まあ、私たちもあんまり他人のことは言えないけど。唯一この中で浮いていないのはフランの薄い紅の日傘と、彼女の腰に佩びられた二振りの刀。一本は長くて、もう一本は短い。
 二振りの刀は彼女がこちらに向ける警戒心とあわせて見るととても物騒に見える。

「えっと、私たちはこうふらふら、としてたらここに辿りついちゃったから用という用があるわけじゃないんだけど」

 私がそう答えると警戒の上に不審まで付け加えられた。けど、私の言ったことが真実だからこれ以上言えることもない。

「怪しいわね。幽々子様に仇なす妖怪? ……だとしたら、容赦はしない」

 銀髪の少女が長い方の刀を鞘から抜き、構える。完全にこっちを敵とみなしている。
 このままだと、確実に斬りかかられる。何とかして止めないと。

「ちょっと待って! 私たちは誰かに危害を加えようってつもりはないよ!」
「危害を加えるような輩に限ってそう言うわ。真実は斬ればわかるっ!」

 うわぁ、無茶苦茶な。こっちの言葉に耳を傾けるつもりはないようだ。
 というか、こっちに向かって走ってきてるし! 階段を駆け下りているとは思えないような速度だ!

 意識は完全にこっちに向いてるから、私たちから意識を逸らさせることは出来ない。
 けど、意識を逸らさせるだけが私の能力じゃない。

 誰かから攻撃を受けている、という強迫観念を強く強く表に出す。そうすれば、周囲に気を取られて私たちから意識を逸らさせるのも容易になるはずだ。

「っ?!」

 銀髪の少女が駆けていた足を止め後ろに跳躍する。視線は警戒するように周囲に向けられている。よしっ、今だ!

 私とフランを意識に捉えないよう無意識を操る。たぶん、これで見付からないはずだ。ただ、咲夜みたいな例外がいるからそう簡単に安心は出来ない。

 階段の上に音もなく足をつけた少女が辺りを見渡す。
 どうやら、私たちには気付いていないみたいだ。よかった……。

「何処へ? ……退いたのかしら?」

 銀髪の少女はまだ周囲に注意を払っている。けど、私たちを見つけられることはないはずだ。
 さっさとこんな所離れてしまおう、と足を踏み出した瞬間。

「そこかっ!」

 弾幕を放つと同時に少女がこちらへと跳ぶ。目の焦点はこっちにあってはいない。けど、恐らくこのまま突っ立っていれば弾幕に当たり、少女の刀に斬られるだろう。
 ど、どうなってるのっ?

 咲夜みたいに私の能力が効いていない、という感じではない。けど、どうしてこちらへと攻撃することが出来るの?

 私は混乱してしまって次の行動に移れない。

「こいしっ、下がってて!」

 代わりにフランが前へと躍り出る。両手でレーヴァテインを握り、周囲をいくつかの弾幕が舞っている。

 日傘は?
 私の疑問に答えるように軽い物が落ちるような音がする。視線を向けるとそこには紅色の日傘。

「フランっ!」

 大丈夫なのっ?、と言おうとして弾幕同士がぶつかり合いお互いを相殺しあう音が響いて声を出すタイミングを失う。そして、直後に硬質な物体同士がぶつかり合う音が響く。

 フランが大振りの刀をレーヴァテインで受け止めたまま銀髪の少女と対峙する。フランの横顔は少し苦しそう。
 陽の光に当ってしまっているせいだ。

 早く止めて、日陰をつくってあげないと。そう思うけど、止められるような雰囲気はない。下手に声をかけてフランの気を逸らさせてしまえばどうなるかわからない。

 どうすればいい?
 あの人に勝つ必要はない。一度逃げに入りさえすればフランの吸血鬼としての速さがあれば逃げることは出来ると思う。
 けど、どうやって隙を作るかだ。下手な逃げ方をすれば背中を斬られかねない。

 そうやって悩んでいる内に辺りに剣戟の音が響き始めていた。銀髪の少女が何度もフランへと斬りかかり、それら全てをフランがレーヴァテインで受け止めている。
 フランは防戦一方だった。そして、陽の当たってしまうここではいずれフランの方が負けてしまう。

 早く何とかする方法を考えないと。けど、どうすれば……。

 凶刃の響きを聞きながら考える。
 ……ああ、そうだ。一つ方法がある。

 その方法を実行すべく私は指を鳴らそうとして、失敗する。
 諦めて代わりに石段を靴のつま先で叩く。

 出来るだけ大きな音にするつもりだったけど、それほど大きな音にはなっていないだろう。けど、剣戟の音の中において異質なそれは浮いていて、きっと二人の耳にも届いたことだろう。
 だから、銀髪の少女がこちらを見る。

 フランがその隙をついて少女を大振りの刃ごと突き飛ばす。

「フランっ! 逃げるよ!」
「うんっ!」

 フランが頷いて身を翻し私の方へと飛んでくる。私は急いで日傘を拾い上げる。
 それから、私の方に伸ばされたフランの手を掴む。この後はもうフランに任せるしかない。

 右手で私の手を掴んだフランが急加速する。それに伴って腕に大きな負担がかかる。
 少しなら大丈夫そうだけどあんまり長い時間は耐えられそうにない。そう、思ったとき、


「あらあら、せっかくここまで来たというのに帰るなんて勿体ないわね」


 いつの間にか進行方向に誰かが立っていた。それを見たフランが急停止して私を階段の上に降ろす。
 そして、警戒するようにレーヴァテインを構える。

 前に立っていたのは周囲に霊魂を従わせた人だった。死装束のような衣装が死者を思わせる。たぶん、この人も人間じゃない。
 桜吹雪の中、桜色の髪が揺れている。こちらに向けられた顔には微笑みが浮かんでいて敵意は全く感じられない。
 フランもそれが分かったのか早々に構えを解く。けど、私を離すと同時に持ち替えたレーヴァテインはまだ右手の中。

「ふふ、ごめんなさいね。うちの妖夢のせいで無駄に警戒させてしまったみたいね」

 笑顔を浮かべる。どこか儚げな感じだけど、柔らかさもある不思議な笑みだった。声もまた幽玄な雰囲気をかもし出していた。

「でも、私がいれば妖夢が貴女達を襲うことはないわ。だから、早くその物騒な得物を収めて傘を差したらどうかしら? 吸血鬼である貴女に今の状態は結構きついんじゃないかしら?」

 あっ! そうだ。早くフランに日傘を返してあげないと!

「フランっ! 大丈夫?」

 慌ててフランの上に日傘を広げてあげる。
 ゆっくりと桜の花びらが傘の上に降り積もり始める。

「うん、まだ、大丈夫だよ」

 レーヴァテインを空間の内側に納めたフランが私から傘を受け取りながら笑顔を見せる。私はその顔をじーっ、と眺めてみる。

「こいし? どうしたの?」

 フランが不思議そうに首を傾げる。私はそれを気にせずフランの顔を見つめ続ける。
 ちょっと疲れているような感じがするけど、無理をしているような感じはない。ほんとに大丈夫そうだ。

「フラン、疲れたり、体調が悪くなったらちゃんと教えてね」
「うん、わかってる」

 もう一度笑顔を浮かべてくれた。

「幽々子様! どうしてこちらに!」

 背後から声。振り返ってみると銀髪の少女が刀を鞘に入れ階段を駆け下りている所だった。

「貴女が突然走り出すから追いかけてきたのよ。この子達に逃げられそうだったから先回りをさせてもらっちゃったけど」
「先回り? ということはやはりっ!」

 妖夢というらしい銀髪の少女が再び刀を構える。そして、フランも妖夢の前に立つと日傘を手放して再びレーヴァテインを掴む。

「妖夢、早とちりはよくないわ。私はただ単に一緒にお花見をしてくれないか、って頼もうと思っただけよ」
「花見?」

 フランと妖夢の声が重なった。二人の攻撃的な態度が薄れたうちに私はフランへと降り注ぐ陽の光を日傘で遮ってあげる。

「そ、お花見。一人でやるよりも二人の方が、二人でやるよりも四人の方が盛り上がるでしょう?」
「ですが! この二人は何の目的のためにここに来たのか分からないのですよ! そんな輩と花見など出来るはずがありません!」

 幽々子、というらしい人に向かって妖夢がそう言う。まだ私たちを襲撃者だと思っているようだ。

「目的ならあるわよ」

 答えたのは私でもフランでもなく幽々子だった。まだ自己紹介さえもしてないような間柄だよね? 私自身も分かっていないことの何が分かってるんだろうか。

「……一応聞きますが、どんな目的ですか?」

 呆れてるみたいだけど、慣れているような口調だった。あの人はいつもこんな感じなんだろうか。

「貴女たちは花見をしに来たのでしょう?」

 私たちへと向けて笑いかける。私は幽々子の問いに戸惑ってしまう。

「えっと、私自身なんのためにここに来たのかはわかってないんだけど」
「なら、無意識に任せてみればいいと思うわ。そうすれば、きっと頷くでしょうから」

 私がどんな力を持ってるのか知らないと絶対に言わないような一言。私は微かに驚きを感じる。

「もしかして、私のこと知ってるの?」
「ええ。地霊殿の主の妹、古明地 こいしでしょう?」
「うん、そうだよ」

 お燐とお空がよく地上の宴会に参加してるらしいから知られていても別におかしな話ではない。けど、向こうだけがこっちのことを知ってる、っていうのはなんだか妙な感じがする。

「で、そっちの子が紅魔館主の妹、フランドール・スカーレット。合ってるでしょう?」
「う、うん」
「よかったわ。合ってて」

 謎かけを解いた子供のような笑顔を浮かべる。なんだか不思議な雰囲気の人だ。

「ちなみに、私は西行寺 幽々子。で、貴女達の後ろにいるのが私の従者兼白玉楼庭師の魂魄 妖夢よ」

 ああ、やっぱりこの二人って主従の関係だったんだ。妖夢の言動からそんな感じはしていた。

「あの、幽々子様」
「ん? 何かしら?」

 妖夢が今まで私たちに向けていたのとは違う改まった表情を浮かべて幽々子へと近づき問い掛ける。

「本当にそのお二人は幽々子様に危害を加えるような存在ではないのですか?」
「少なくとも私はそう思っているわ。じっくりと眺めてみれば貴女でもそう思えるんじゃないかしら?」
「はい。では、そうしてみます」

 主の言葉に頷いて妖夢が私たちをじっと見据える。
 少し居心地が悪い。フランも同じように思っているのか少し身体を竦ませている。フランがカッコいいのは私を護ろうとするときだけのようだ。

 妖夢の視線はじっ、と私たちを捉えている。内面を覗かれているようなそんな感じがする。
 ただ、内面、といっても私やお姉ちゃんみたいなさとり妖怪が見る思考とは違うもの。その人の性質とかそう言うものを覗かれているような気がする。

「……ふむ、確かに、そのようですね」

 どうやら、私たちが害を与える存在でない、と認識してもらえたようだ。
 ……はあ、よかった。思わず内心で溜め息をついてしまう。
 すぐに斬りかかってきたから、疑われたままだとまた斬りかかってこられるんじゃないだろうか、と気が気でなかったのだ。とりあえず、これで一安心だ。

「……ご無礼を働き、申し訳ございませんでした」

 妖夢が先ほどまで私たちに使っていたのとは違うとても丁寧な口調で謝罪を告げながら深々と頭を下げる。

 ちょっと思い込みが激しいだけで、悪い人ではないんだろうなぁ。
 そう思うと赦してもいいような気がした。無闇に知り合いに斬りかかるようなことはしそうにないし。

「そんなに気にしなくてもいいよ。もう私たちを襲うつもりはないんでしょ?」
「はい。貴女方の方から手を出してこない限りは」
「なら大丈夫。私たちに二人に手を出す理由なんてないからね」

 フランに手を出された場合は別だけど、この二人がそんなことをするとは思えない。まあ、私のほうが守られてることの方が多い気がするけど。

「あ、あのっ。……私も貴女に斬りかかっちゃってごめんなさい」

 で、そのフランは顔を俯かせて妖夢へと謝っていた。

「いえ、貴女が謝る必要はありません。そもそも、私が勘違いをしていなければこのようなことにはなっていなかったのですから」
「でも、あそこで私がちゃんと話そうとしてれば、すぐにお互いに理解できてたと思う」
「多分、あの時の私は何を言われても信じようとしなかったでしょう。なので、貴女に非は一切ありません」
「そんなことない。私のほうも何か他にやり方があったはず」
「フラン、そこまでだよ!」「妖夢、そこまでよ」

 このままだと終わらない、と感じた私の声と幽々子の静かな声とが重なった。フランがびくっ、と身体を震わせ、妖夢は幽々子の方を見てそのまま黙りこくってしまった。

「二人とも悪気があったわけじゃないんだから何回も謝るだけ無意味よ。本当に申し訳ないと思っているのなら反省をしなさい。そして、同じことを繰り返さないようにするのよ」
「うん……」「はい……」

 二人ともうな垂れてしまう。
 私が言いたかったことは大体言われてしまった。いや、それ以上に私が言う以上に様になっている。
 慣れてるのかな、こういうことに。

「ふふ、分かればよろしい」

 真剣な表情を浮かべていた幽々子が笑顔を浮かべる。けど、二人ともまだ顔を上げようとしていない。

「むむむ、何だか二人とも暗いわよ」

 眉間に皺を寄せ、少し口を尖らせながらそう言う。そんなことをしても綺麗な顔はあまり崩れていない。

「うーん……じゃあ、そうね、気を紛らわせるためにお団子でも食べましょう?」
「お団子?」

 突飛な発言に私は思わず首を傾げてしまう。
 フランも顔を上げて幽々子の言葉に反応していたけど、私のように疑問からではないようだ。何かを期待するように七色の羽がぱたぱたと揺れている。落ち込んでいても甘い物の話を聞くと元気になるようだ。

「あらあら、フランドールはお団子って言う言葉だけで明るくなっちゃったわね」
「ぁ、う、それは、えっと……」

 今度は恥ずかしそうに顔を俯かせてしまった。頬が少し赤くなっていて羽も落ち着きなく揺れている。

「ふふ、可愛い反応ね。これは、妖夢も負けてられないわね」
「……何にどう勝てと言うんですか」

 妖夢は妖夢で幽々子の言葉に呆れて暗さはなくなってるみたいだった。

 さりげなく二人の気持ちを入れ替えさせる話術を持つ幽々子に私は感心させられていた。





「フランドールさん、こいしさん、お茶をお淹れしました。どうぞ」
「……あ。ありがと」

 お酒を断った私たちのためにお茶を淹れてくれた妖夢へとお礼を言う。桜に見惚れていたせいで少し反応が遅れてしまった。

 湯呑みを受け取ってフランの前に置く。反応はない。

 幽々子にここ、桜の木の下に敷かれた敷物の所に案内されてからフランはずっと桜に見惚れている。
 そういえば、妖夢に邪魔される前にもフランは桜に見惚れてたよね。だから、まるでそのときに失った感動を取り戻そうとしているようにも見える。

 ……もしかしたら、フランは初めて桜を見るのかもしれない。確かな根拠があるわけじゃないけど、なんとなくそう思う。

 ちなみに私が桜を見るのはかなり久しぶりだ。私がこの目を閉じる前、まだ、私たちが地底に封じられていないときに毎年、お姉ちゃんと一緒に見に行っていた。
 まあ、だから、初めて見るだろうフランと比べると感動が薄れてしまうんだろう。

「二人ともこっちが見惚れてしまうくらいに桜に見惚れてるわね。そんなにうちの桜を気に入ってくれたのかしら?」
「うん」

 どう言葉にしていいかわからないから頷くだけにする。桜を見るのは初めてじゃないけど、ここまで綺麗で幻想的な光景を見るのは初めてかもしれない。

「ふふ、そう言ってくれると妖夢の苦労が報われるわ。ね、妖夢っ」

 幽々子が明るい笑顔を妖夢へと向ける。妖夢は幽々子の斜め後ろに座っている。そういえば、咲夜も何もないときはレミリアの斜め後ろに立っている。あそこが従者の立ち位置なんだろうか。

「いえ、報われるべきは桜達です。彼らはこの時期に咲き誇るためだけに一年を頑張ってきたのですから。私はただそれの手伝いをしたに過ぎませんよ」

 初めて会った時とは全然違う穏やかな声だった。
 妖夢もフランと同じで誰かの為に一生懸命になれる人なのかもしれない。あの時、フランが私の為に戦ってくれたように妖夢もまた幽々子の為に戦っていたんだから。

 それに、妖夢はここの桜を本当に大切にしているようだ。言葉の節々からそれを感じ取ることが出来る。

「貴女は謙虚ね。ねえ、こいし、そうは思わない?」

 何故か私の方に話題が振られた。出会ったばかりで妖夢のことはよくわかんないんだけど。
 でも、まあ、さっきの会話だけでなんとなくはわかった。

「うん、そうだね。褒められたんだから、もうちょっと喜んでいいんじゃないかな」
「ほらほら、会ったばかりのこいしにまであんなことを言われてるわよ」
「いえ、ですが、師匠にも及ばない腕でおごり高ぶるわけには行きませんから」

 妖夢は静かに首を横に振ってそう言う。

「妖忌と比べたら駄目よ。あの人は色々と規格外なんだから」
「それでも比べなくてはならないのです。幽々子様にお仕えする身として師匠の腕に追いつかなくてはならないのですから」

 妖夢の瞳には強い意思が宿っている。こんなにも強い意志を持っているからあの時、妖夢は私を見つけられたんじゃないだろうか、と思ってしまうほどに。

「別に私は今のままの妖夢でもいいのよ?」
「いえ、それでは私自身が納得できませんので」
「そう。なら、楽しみにしてるわ。貴女が妖忌を越すときをね」
「さりげなく難易度を上げるんですね。……いいでしょう。我が主、西行寺幽々子様の期待を叶えるべく全力を尽くしましょう」

 いい従者関係なんだろうけど、客人を前にしてどうなのかな、と思う。
 ま、私は別にいいんだけど。

 そう思いながら、私はフランと共に桜の花を眺めていた。





「ねえ、お二人とも、そんなにうちの桜が気に入ったのなら、西行妖を見てみないかしら?」
「西行妖?」

 フランと私の声とが重なる。フランはさっき桜の魅力から開放されたばかりで少しだけぼんやりとしている。
 さっきの幽々子の言葉への鸚鵡返しも半ば無意識だった。

「そ、西行妖。うちにある大きな妖怪桜よ。ただ、封印されているせいで花はつけていないんだけれどね。それでも一見の価値はあると思うわよ」

 春になっても花をつけない大きな桜かぁ。
 興味はある。多分、フランもあるんだろうけど、一応聞いてみる。

「フラン、どうする?」
「私は、見てみたい。どんなに大きいのか気になるから」

 よし、なら見に行かない理由もないか。

「じゃあ、見せてくれるかな。その西行妖、っていう桜を」
「ん、わかったわ。案内するからついてきてちょうだい。妖夢、行くわよ」
「はい」

 幽々子が立ち上がって妖夢がそれに追従して立ち上がる。

「フラン、行こっか」
「うん」

 私たちも手を繋いで立ち上がった。





「わ……」

 白玉楼の奥へ奥へと案内され、視界に入ってきたのは遠目にも少し顔を上げないと下から上までを見ることが出来ないほどに巨大な木だった。花を咲かせていないから何の木なのかは分からないけど、幽々子たちの言葉を信じるなら桜の木なのだろう。

 周りに咲いている桜のような美しさは一切ない。だけど、何か有無を言わせないような圧倒的な雰囲気がある。
 もしも、この桜が花をつけたらどんなに美しくなるのだろうか。

「あれが我が家が誇る妖怪桜、西行妖よ」

 裸の桜の木を指差す幽々子の声が遠くのもののように聞こえる。意識がほとんどあの桜の方へと向いてしまっている。

「あの妖怪桜はね生者を死へと誘う桜なのよ」
「……え?」

 その言葉に驚いて思わず幽々子の方を見てしまう。フランも顔に驚きを浮かべて幽々子の方を見ていた。

「あらあら、そんなに驚くことないじゃない。よく言うでしょう? 桜には魔性の力が備わっている、と。それに、咲きさえしなければ全くの無害よ」

 笑顔を浮かべてそう言うけど、恐怖に近い感情は全く薄れなかった。
 ……けど、視線を西行妖の方に向けるとやっぱりその存在に圧倒されてしまう。花を咲かせていた頃はどれほどの生き物を誘ったのだろうか。

「妖忌―――ここの先代の庭師にして妖夢の祖父から聞いた話だけれど満開の西行妖はとてもとても綺麗だったらしいわ。意志の弱いものならば簡単に誘われてしまいそうなほどにね」

 幽々子が少しぼんやりとしたように西行妖を見つめる。そこに込められているのは、渇望、なんだろうか。

「幽々子は満開の姿を見てみたい、って思ってるの?」
「ええ。うちの桜だもの。一度くらい満開の姿を見たって罰は当たらないはずだわ」
「……この桜、ってもう咲かないの?」

 封印された、とか言っていたけどその封印を解いて咲かしたりすることは出来ないんだろうか。いや、この桜の持ってる力を考えたら咲かせるべきじゃないんだろうけどさ。

「咲かせようとすれば咲くでしょうけど、この前咲かせようとしたら紫に怒られちゃったわ。あの桜は絶対に咲かせるな、ってね。すっごく怒るものだから私は思わず頷いちゃったわ」

 望むことを止められたはずなのに幽々子は微笑んでいる。諦めだとかそういった後ろ向きな笑みでもない。

「なんだか、幽々子嬉しそうだね」
「あんなに必死そうな紫のことを思い出したら嬉しくもなるわ」

 微笑みが笑顔に変わる。目を細めて本当に嬉しそうに笑っている。

 紫とは確か、地底の妖怪たちと何かの約束を交わした妖怪だったはずだ。お姉ちゃんから名前だけは聞いてたけど、どんな妖怪なのかは知らない。とにかく、すごい妖怪だ、っていうのはよく聞く。
 幽々子はそんな紫と知り合いなようだ。しかも、単なる知り合いではなくとても親しい友人のような間柄なんだと思う。幽々子の声の響きからはそんなことが窺える。

「まあ、そんなわけで西行妖の満開の姿は絶対に見られないのよ」
「そうなんだ」

 ちょっと残念な気がするけど見たら死に誘われる、というのなら仕方がない。

「幽々子様、そういえば無縁塚にも妖怪桜がありますよね」

 会話の区切れがやってくるのを待っていたかのように妖夢がそう言う。

「ええ、あるわね。罪の花を咲かせる紫の桜が。でも、あれはあまりお勧め出来ないわ。特に、フランドールにはね」
「私?」

 自分の名前が出てきたことを意外に思っているのか首を傾げる。私もなんでここでフランの名前が出てきたのか分からない。

「あれは、感性の強すぎる子は見ない方がいいわ。うちの西行妖が魂を惹きつけるのなら、あの紫の桜は心を惹きつける。あまりにも強く惹きつけられれば帰って来れなくなるわ」
「魂の浄化をしている、と聞いたのですがそういった力も持っていたのですか?」

 一度その紫の桜を見たことがあるらしい妖夢がそう聞く。

「ないわよ、そんな力。そうね、ただそれだけの魅力がある、ということよ。西行妖が生者を死へと誘う力を持つようになる前、数多の人間を魅了し自ら命を断たせたようにね」

 幽々子が再び西行妖を見つめる。

「……けど、とある歌聖に魅入られなければこの桜はただ長生きな桜として咲けていたのかもしれない。そこだけはあの桜とは違うわ」

 幽々子の言っていることの意味はよく分からなかった。だけど、この桜の持ち主として何か特別な思い入れがあるらしいことはわかった。
 何も花をつけない桜へと向けられる視線はどこか切なげだったから。





「じゃあ、幽々子。私たちはそろそろ帰るね」

 あの後、私たちは元の場所に戻ってお団子を食べたりお茶を飲んだりしながら適当に色んなことを喋っていた。
 私たちが今までに行った場所のこととか、幽々子の友達の紫のことと。まあ、大半は妖夢の失敗談とかになってしまってたけど。どうやら、幽々子は妖夢のことをからかうのが好きなようだ。当然、妖夢は嫌がっていたけど、幽々子の話術により丸め込まれていた。

「ええ。また気が向いたら来てちょうだい。春以外に来たら見るものなんてないけど妖夢の作った美味しい料理でもご馳走するわ」
「うん、楽しみにしてるけど、妖夢はいいの? 私、何の前触れもなく来ることの方が多いんだけど」
「大丈夫ですよ。そういうのには慣れてますから」

 笑みを浮かべてそう言ってくれる。私たちに気を遣っている、という感じでもなかった。
 そういえば、幽々子の友達の紫は何時何処でも現れる神出鬼没な存在だ、とか言ってた。私みたいに気配を完全に失くしていつの間にかその場所にいる、とかじゃなくて空間を飛び越えてやってくるらしい。咲夜に近いような存在なのかもしれない。時間を止めて移動するのと空間を飛びえ越えるのは同じような気がするし。

「ああ、そうそう。紫の桜の魅力に捕らえられて逃げられなくなったら見ないように意識しなさい。無意識を操れる貴女ならそれくらいのことは簡単でしょう?」

 幽々子がそんな助言をくれた。

 なんでそんなことを、と思ったけどその理由にはすぐに思い至った。
 無意識に身を委ねてお散歩をしている私は私自身にも何処に行くかはわからない。けど、実はある程度予測することが出来るときもある。

 例えば、フランに会ったばかりのときフランを無理に外に連れ出そうとしてフランに拒絶されたことがあった。その翌日、フランに近づかないようにしようと思ってお散歩に出たけど私が向かったのはフランの所だった。
 そんな感じに行かないようにしよう、と思っていても行ってしまうときがある。あの時は無意識下でフランをあのままにしておけない、と思っていたようだった。
 今回の場合も危ない、とは聞いていても無意識下ではそう思っていないかもしれない。綺麗だ、という言葉が印象に残っていて見に行きたい、と思ってしまうかもしれない。私自身自分の無意識は完全に把握できていない。
 だから、無意識を操る、といっても自在に操れているわけではないのだ。なんとなく操れているだけ。

「ありがと、幽々子。もしもの時は幽々子の言葉を思い出すよ」
「どういたしまして」

 幽々子が柔らかく微笑む。私たちといる間、幽々子はほとんど微笑んでたような気がする。

「さ、フラン。帰ろっか」
「……あ、うんっ」

 桜に見惚れていたフランに声をかけて私たちは長い長い階段を下っていった。





「こんにちはっ、こいし!」
「うん、こんにちは、フラン」

 いつものようにフランの部屋の扉を叩くとフランが笑顔で迎え入れてくれた。うん、今日も元気みたいだ。
 それに、今日は晴れてたし良いお散歩日和だ。まあ、吸血鬼であるフランにとって陽の光は大敵だけど、日傘を差せば問題はない。雨が降ってたり、曇っていていつ雨が降り出すか分からない状況よりはずっとましだ。

 ……ただ、今日はちょっと気にかかることがある。それは、昨日幽々子たちから聞いた紫色の桜のこと。
 妙に記憶の中にこびりついていて嫌な予感しかしない。

「ねえ、フラン。今日はお散歩に行くの、やめにしない?」

 弱気な気分になってそんなこと言ってしまう。でも、フランの安全を考えるならそうするのが最善だろう。

「昨日幽々子が言ってた事、気にしてるの?」

 フランが首を傾げながら聞いてくる。

「うん、そう。近づかない方がいい、って言われてる場所に近づくわけにはいかないからね」
「だったら、こいしの無意識を使わないで散歩すればいいんじゃないかな?」

 あ、そっか。わざわざ無意識の状態でお散歩をする必要もないんだよね。今までお散歩の目的地は無意識任せだからそんなふうに普通にお散歩をする、っていうことを忘れていた。

「うん、そうだね。じゃあ、どこか行きたい場所とかある?」
「ううん、こいしが決めていいよ」

 それじゃあ、無意識に任せて―――っていうわけにはいかないんだよね。うーむ、今更だけど私たちって主体的に動いてなかったんだなぁ、と思わされる。私の無意識が私たちを引っ張ってくれているというかなり特殊な状況だったから気付きにくかったんだろうけど。

 だとして、どこに行こうか。
 決めながら歩けばいいかな。もしくは、どこかに行くでもなくぶらぶらと歩くだけでもいいかもしれない。

「じゃあ、風に任せて適当に歩こうか」
「結局、いつもと変わらないんだね」
「いやいや、今日はちゃんと周囲に意識を向けながら歩くよ。だから、いつものお散歩とはちょっと違うよ」
「ふふ、そっか」

 フランが小さく可笑しそうに笑う。
 ま、フランのこの笑顔の為に頑張ろうか。何をっていうのはよくわかんないけど。

 ……そういえば、無縁塚ってどこにあるんだろうか。





 適当にうろうろと歩いたり、風任せにふわふわと飛んでいたりしていると物寂しい雰囲気のする道に辿りついた。

 背後を振り返るとさっき飛んで通り越した森が見える。

 ここは、どこなんだろうか。

「……なんだか、寂しい場所だね」

 フランがぽつりとそんな感想を漏らす。私と同じ印象を抱いているみたいだった。
 私の手を握るフランの手にきゅっ、と力が入る。ここの雰囲気に感化されてフランも寂しい気持ちになっているんだろうか。

 この道にはあまり長い間いないほうがいいかもしれない。フランの心にあまりいい影響を与えていないみたいだから。

 そう思いながら歩を進めていく。
 木々に囲まれた細く長い道を進んで行く。

「あ……」

 私とフランが同時に声を上げる。
 視線の先には、木々に囲まれた小さな空間がありその真ん中の方に―――


 紫の花を咲かせる桜があった。


 昨日見た桜とは比べ物にならないほどに美しい。
 ただ、昨日の桜が咲き誇っていたのに比べて、こっちの桜は静かに慎ましく咲いている。

 はらはら、はらはら、と紫の花びらが落ちる。小さな風が吹いているはずなのに花びらは舞わない。
 静かに、ただただ静かに散っていくだけ。

 それは、まるで涙のよう。感動したときに流れる暖かい涙ではなく、悲しいときに流れる冷たい涙のよう。

 視界の端に映る大きな石はまるで墓石のようだった。身内のいない者へと申し訳程度に置かれた墓石。
 ……いや、まごうことなくあれは墓石なのだろう。

 ここは無縁塚。縁者のいない死者の眠る墓。

 ああ、絶対に近づかない、と決めたはずなのに結局私はここまで来てしまった。
 後悔が浮かんでくる。だけど、そんな感情はここを満たす悲しさに満たされてしまう。

 今なら幽々子の言った近づかない方がいい、という言葉の意味がしっかりと理解できる。ここは、簡単に近づいていいような場所ではない。

「ぁ……ぅ……ぁ……」

 不意に嗚咽のようなものが聞こえてきて桜から意識がそらされる。

 あ、危ない。もう少しでここから抜け出せなくなっている所だった。いや、今はそんなことよりも!

 声のしてきた方、フランの方へと視線と意識を向ける。

 紫の桜に目を奪われたままフランは泣いていた。両の目から涙を流し、小さく嗚咽を漏らしながら。

「フランっ!」

 名前を呼びながら肩を揺する。けど、反応は返ってこない。
 たぶん、私よりも感受性の強いフランはこの場の悲しい雰囲気に完全に呑まれてしまっている。早くここから連れ出さないと取り返しのつかないことになる。

 今からフランの意識を桜から逸らさせることは出来ない。あまりにも強く意識を縛られてしまっている。
 だから、他の無意識を操らせてもらう。

 私がフランの身体を軽く押すと一歩後ずさる。もう少し強く押すと一歩、二歩と後ずさる。

 いくら意識が縛られていようとも身体がバランスを保とうとする無意識はしっかりと働く。だから、私はその無意識を操って少しバランスを崩しただけで大きく体勢を取り直させるようにする。

 私はフランの前に立って視界をふさいであげる。そして、私は焦燥に駆られながらフランの身体を押して来た道を戻るのだった。





「こい、し……?」

 物寂しい道を半分くらい戻ったところでフランの瞳がようやく私を捉えたようだった。

「フラン! よかっ……た……?」
「こいし!」

 内心で胸を撫で下ろしていると突然フランに抱きつかれた。フランの身体は小刻みに震えている。

「……フラン、大丈夫?」

 静かな声で聞きながら頭を撫でてあげる。なんだか今までの中で一番フランを小さく感じる。

「……うん。大丈、夫」

 小さく頷きながら答えるその声は身体と同じで少し震えていた。

 どうしてあげるのが最善なのかは分からないけど、頭を撫でながら私も抱き返してあげる。
 そうしたら、フランの震えがより一層大きくなった。





 しばらく抱きしめてあげながら頭を撫でてあげているとフランの震えが収まった。

「こいし……」

 不意に小さな声でフランが私の名前を呼ぶ。腕を放して顔を見てみようとしたけど、フランの腕に力が込められたからやめた。

「何? フラン」

 代わりに私が出せる限りの優しい声でフランに話しかける。

「あのね、私、あの桜を見てたら、嫌な想像を、しちゃったんだ」

 ゆっくりとフランが話し始める。その声は少し震えていた。
 私はフランを落ち着かせるように再び頭を撫でてあげる。

「こいしがいなくなっちゃうこと。私が、壊すわけじゃない、本当に、唐突に、いなくなっちゃうの。それが、すごく、すごく、悲しく、て……っ」

 話しているうちにあの桜を見ていたときに感じた感情を思い出したのかフランが声を詰まらせる。

「……フラン、ごめんね。こんな所に連れてきちゃって」

 フランが小さく首を横に振る。けれど、私はそれを無視する。

「でも、大丈夫。私はいなくなったりしないよ。フランが望む限り一緒にいてあげる」
「……うん」

 腕の中でフランが頷く。

「……でも、こいしが、どうしても、私から、離れたくなったら、それでも、いいよ。でも、そのときは一言くらい、何か言って欲しい。ただ、何も言わないでいなくなられるのは、嫌だから……」

 そんな言葉とは裏腹に私に抱き付く腕にぎゅっと力が込められる。私から離れまいとするように。私が何処かへ行ってしまわないように。

「そんな心配はいらないよ。私がフランの前からいなくなりたい、って思うようなことはないんだから。……でも、もし、未来の私がフランの前からいなくなりたい、だなんて思ってたら無理やりにでも止めてくれればいいよ。どんな手段を使われようとも私がフランを責めることはないと思うからさ」
「うん……」

 微かに頷くとそのまま私に身体を預けてきた。
 私もフランを抱く腕に力を込めた。少しでも早く悲しさが薄れてくれれば良い、と思いながら。





 完全にフランが落ち着いてから私たちは紅魔館へと戻った。

 フランが落ち着いた、と言っても私からあんまり離れたがらなかったからほとんど寄り添いあうようにしながら帰ったんだけどね。
 フランから伝わってくる暖かさを感じながら、これでフランが安心してくれればいい、と思っていた。私にはそういう些細なことしか出来ないから。

「じゃあ、フラン。私は帰るね」
「あ……、うん」

 フランを部屋まで送り届けて、帰ろうとした私へのフランの反応は鈍かった。帰って欲しくないのかな?
 なんとなく後ろ髪を引かれるような思いを感じながらも私はフランの部屋を後にしようとした。けど、腕が引っ張られた。

 何かと思って振り返ってみるとフランが私の服の裾を掴んでいた。自分で気が付いていないのか私の顔を見るフランの顔には不思議そうな色が浮かんでいる。

「ぁ……、ご、ごめん、こいしっ」

 私の視線を追いかけてようやく自分が私の服の裾を掴んでいたことに気付いたようだ。慌てて手を離して私に謝る。

「帰って欲しくないなら、今日はずっと一緒にいてあげようか?」

 一歩踏み出した足を戻して、フランの方へと戻る。
 お姉ちゃんのこともちょっと気にかかるけど今のフランを放っておくことも出来ない。

「う、ううん、いいよ。私は、大丈夫だからっ。帰らなかったらさとりだって心配するだろうしっ」

 フランが笑顔を浮かべる。けど、それが無理をして浮かべたものだとすぐにわかった。
 けど、今無理やり残ってもフランに気を遣わせるだけだろうしなぁ。

 うーん、どうしようかなぁ。フランをこのままにして帰るのも気が引ける。
 何か出来ないかな、と少し考えて一つ思い付く。

「じゃあ、フラン。次に私が来るときまでこれを貸しといてあげるよ」

 言いながら私が差し出したのは私がいつも被っている黄色いリボンのついた黒色の帽子。私の代わりだと思ってくれればいいなぁ、なんて。あんまり効果があるとも思えないけど。

「いいの? それ、こいしのお気に入りなんでしょ?」
「うん、いいよ。私の代わりだと思ってくれればいいなぁ、と思ってるんだけど、駄目、かな?」
「ううんっ、全然そんなことない。ありがとっ、こいしっ」

 さっき浮かべていた無理をした笑顔とは違う心からの笑顔を浮かべて私から帽子を受け取る。

 それから、フランは嬉しそうに私の帽子を抱き締めたのだった。

 これで大丈夫かな、と私は少し安心することが出来た。


◆Flan's Side


 こいしの帽子を傍らに置いて私はベッドの上に横になる。

 今日、こいしと別れてからお風呂に入るとき以外はずっと抱いていたから手放すと少し寂しい感じがする。そして、同時にあの綺麗過ぎる紫の桜を見ていたときの悲しい気持ちを思い出しそうになってしまう。

 だから、帽子を置いた方へと手を伸ばす。そうすると、ちゃんと触れることが出来た。それだけでこいしが傍にいてくれる、そう思うことが出来る。

 本当は、こいし本人がいてくれた方がよかった。でも、こいしが帰ってこなかったらきっとさとりが心配するだろうから一緒にいて欲しいなんて言えるはずがなかった。
 だから、足りない部分は想像で補う。

 こいしの帽子に手を触れたまま私は目を閉じる。
 真っ暗になると嫌な感情が浮かび上がってくる。

 だから、だから、想像する、思い返す。今日、こいしが私の頭を優しく撫でてくれたことを。抱き締め返してくれたことを。

 そうすると、少しずつだけど心が落ち着いてきて嫌な感情も沈んでいってしまう。
 こいしが傍にいてくれる。そう思えば思うほど安心することが出来た。

 ……おやすみなさい、こいし。


Fin



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