絶え間なく降り続く雨滴が大きな窓を次々と濡らしていく。それは幾筋もの流れとなって、外の景色を歪ませる。
 決して強い雨ではない。だから、雨が地面へと叩きつけられる音は、聞く者によっては静かだと感じられる程度のものだ。そして、その中にはそれを楽しみ、晴れているとき以上に心を弾ませる者もいるかもしれない。

「今日も雨なのね」

 紅魔館の主であるレミリア・スカーレットは、つまらなさそうに背中の蝙蝠のような翼を揺らしながらそう呟く。その向こう側にあるものを求めるように窓の方へと視線を向けている。紅い瞳には、恨めしげな色が見え隠れしている。
 これでも昨日は、雨特有の雰囲気を紅茶と共に楽しんでいたのだが、元来外に出て身体を動かすことの方が好きな彼女にとって、館の中に押し込められるというのは性に合わないようである。

「ですが、この館の周り以外では雨は降っていないようですよ」

 本当に何気ない口調でそう言いながら、レミリアの従者である十六夜咲夜も窓の外を見やる。どんな天候であれ、ただレミリアの世話をすることさえできればいい彼女にとっては、どうだっていいのだろう。
 けど、退屈を持て余しているレミリアにとってはそうではない。思わず聞き流しそうになっていたが、咲夜が口にしたことを理解して、そちらへと向く。

「それ、本当?」
「はい。門の向こう側には晴れ空が広がっていて、美鈴も不思議がっていましたよ」
「どうしてそれを昨日のうちに教えてくれなかったのよ」
「お嬢様が楽しんでいらしたので、邪魔してしまっては悪いかな、と」

 咲夜はレミリアに不機嫌そうに睨まれても、平然とした様子で答える。不敬というわけではないのだが、問題にならないのであれば思うままに振る舞うのが彼女だった。
 レミリアはそんな従者の反応に対して文句を返そうとするが、無意味だというのを思い出して、代わりにため息とする。多く世話になりながら、振り回されてもいるのだ。彼女以上に咲夜のことを知る者はいないだろう。

「まあ、人為的なものだって言うなら、こんなとこで腑抜けてても仕方ないわね。外に出られない憂さ晴らしついでに、この小さな異変を解決するとしましょうか」

 そう言いながら椅子から立ち上がる。既に決まった道筋ができているかのように、彼女の足取りに迷いはない。

「パチュリー様の所ですか?」

 咲夜はいつだったかレミリアの友人が館の周りにだけ雨を降らせたことを思い出す。彼女の中で不可思議な現象と図書館の主とは、等号で繋がれているのだ。
 けど、レミリアは足を止めて振り返ると頭を左右に振る。

「いいえ、パチェは元凶ではないわ。間接的に関わっている可能性はあるけど、主犯格とまではいかないわね。魔力をうまく隠そうとはしているけど、意識してみるとその流れが明確に感じられるのよ。知識も実力もあるけど、場馴れしていないといったところね。パチェがやるなら、もっと巧妙よ」

 高い魔力を持つ吸血鬼ならではの情報だった。咲夜にレミリアと同じ世界を感じることはできないが、その情報だけでも答えを導き出すには十分だ。この館において、複雑な魔法を使うことができるのは二人しかいないのだから。

「なら、答えは自ずと見えてくる、というわけですか」
「そう言うこと」

 咲夜が納得するのを見て、レミリアは部屋の扉を開いた。





「フラン? 犯行の動機を聞かせてもらうわよ」

 レミリアはノックもせずに妹のフランドール・スカーレットの部屋の扉を開け放つ。ベッドに横たわって傍らに閉ざした大判の本を置いて扉の方を見ていたフランドールは、足音によってか姉の接近には気づいていたようだ。けど、許可なく入ってくるとは思っていなかったようで、驚きを振りまくように身体を大きく震わせる。

「な、なんの、こと?」

 レミリアから顔を逸らすような露骨な態度は見せないものの、フランドールの視線は泳いでいる。驚きのせいもあるだろうが、それ意外の理由によっても動揺しているのが見て取れる。

「今、館の周りに降ってる雨の事よ。貴女がやってるんでしょう?」

 レミリアはベッドに近寄ると、その場に膝立ちになってフランドールの顔を覗き込む。フランドールは視線を逸らさないようにとしばらくは頑張っていたが、心の内まで覗き込んでしまいそうな紅い瞳を前にして、顔を逸らしてしまう。
 実際、事細かに読み取るとまではいかずとも、大まかにはその思考を読み取ることができているだろう。それくらい、フランドールの表情は分かりやすい。

「……知らない」
「白々しい。口元が汚れてるのに、何も食べてないと言うくらい白々しいわ」

 レミリアは靴を脱ぎ捨ててベッドの上に乗る。そして、フランドールの上へと乗りかかると、両手でその顔を固定して逃げられないようにする。

「貴女からこの館の上空に向かう魔力に気づいてないと思ってるのかしら?」

 お互いの瞳の中に自身の瞳が映り込みそうなほどに距離を詰める。必死に視線を逸らそうとするフランドールの瞳をまっすぐに見つめるレミリアには、それが見えているかもしれない。

「だ、誰かが、勝手に私の魔力を、使ってるの、かも……」

 これ以上誤魔化すのは無理だと悟っているのがその自信のない口調から窺える。けど、今更素直に認めてしまうこともできないようで、無駄な足掻きを見せる。

「ふぅん? そんなことが本当にできるかどうかなんて知らないけど、せめて私の目を見て言うべきじゃない?」

 更に顔を詰める。それによって、フランドールはベッドへと押しつけられるような格好となる。

「お、お姉様の瞳は人を操る力があるから合わせられない」
「へえ、それは知らなかったわ。でも何にせよ、誰かに操られてるかもしれないって言うなら、正体の分かってる私に操られてる方が都合はよくないかしら?」

 レミリアの声色は嗜虐的な色を帯びている。フランドールが分かりやすい反応を示すので、興に乗ってきているのかもしれない。もしくは、単純に鬱憤を晴らそうとしているのか。

「よ、よくないっ」
「どうして?」
「そ、それは……」

 何一つ偽りを用いないレミリアを前にして、フランドールの嘘は尽きてしまう。代わりに、目を逸らし黙り込んで逃げる。
 レミリアは、フランドールの顔を見つめて言葉を待つ。フランドールは無言の圧力に屈しそうになるが、ぐっと言葉を飲み込む。反応は素直でも妙なところで捻くれているのである。
 結果として、時計の音だけが部屋の中に静かに響くようになる。レミリアはなんともないようだが、フランドールにとっては非常に居心地が悪いようだ。どことなくそわそわとしており、落ち着きがない。

「……変な意地張ってると、強硬手段に出るわよ?」

 けど、痺れを切らすのはレミリアの方が早かった。少しばかりの凄みを利かせた、けど悪戯っぽさも感じられる声でそう言う。別の手段があるのなら、わざわざ根比べに付き合う理由はないのである。
 フランドールは怯えるように一度身体を震わせるが、すぐに身体を固くして、何かに耐えるようにじっとする。

 レミリアはまず顔の拘束を解く。力の抜けた両の手は、すーっと頬、首、肩と順に滑り落ちていく。
 くすぐったいのか、フランドールは少し身体をよじらせるが、明確に逃げようという行動を取ろうとはしない。それどころか、どことなく喜んでいるようにも見える。
 レミリアの手は肩と腕の間辺りをなぞっていき、最後には脇の間へと入り込もうとする。ここでようやく、フランドールは抵抗らしい抵抗を見せる。脇をきゅっと閉じて、侵入を拒もうとする。
 けど、元々単純な力ではレミリアに劣る上、むず痒さのせいでうまく力を入れることができず、じわじわとした進入を許してしまう。多少先に延ばす程度の効果しか上げることができていない。
 そしてついに、指が脇の間へと埋まる。それでも、フランドールはレミリアの手を挟み込むことで足掻こうとする。けど、そんな無駄な努力を嘲笑うかのように、レミリアは器用に指先だけを動かす。
 そして、フランドールはそのくすぐったさに耐えるように、ばたばたと両足を上下させて暴れ始める。けど、布団がばふばふと音を立てるだけで、レミリアはびくともしない。分かりやすい効果が出てきていることに、満足の笑みを浮かべているだけだ。

「こ、降参! も、もう、嘘つかないから、や、やめてっ!」

 ついにフランドールが音を上げる。声の様子から、必死な様子が伝わってくる。よほどくすぐられるということに対して耐性がないようだ。
 レミリアはフランドールの言葉を素直に聞き入れて、手を引き抜く。
 頬を上気させたフランドールは、少しばかり荒れた息を整え始める。レミリアはそんな妹の姿を見下ろして、落ち着くのを待っている。

「それで? どうしてこんなことをしたのかしら?」

 三度、大きく深呼吸をし、最後に大きなため息のようなものを吐き出すまでを見届けてからそう問った。
 フランドールは少し逡巡を見せるが、抵抗しても無意味だというのをその身を以て思い知らされているため、黙秘を続けるようなことはなかった。

「……最近、お姉様が構ってくれなくて寂しいから」

 声はぽつりと静かに零れる。それが、一層言葉に真実味を付与している。
 けど、レミリアはそれを見ても平然とした様子のままだ。

「そうだったかしらね? でもそれだったら、私以外の誰かに関わればいいじゃない。今の貴女なら、好きなだけ外に出られるんだから」
「私はお姉様がいい」

 先ほどの声とは対照的に、明確な意志の込められた声だ。目の前にあるもの以外は見えていないとでも主張するかのようである。

「なら、これから一緒にどこかに出かける?」

 レミリアの声が少しばかり弾む。以前はこうして一緒に出かけようと誘うことは何度かあったのだ。けど、フランドールが出不精なせいで、ただの一度も頷くことはなく、レミリアも誘うのを諦めてしまっていた。
 だからこそ、フランドールの言葉は渡りに船だったのだろう。

「……やだ」
「どうして?」

 レミリアは若干落胆の色を見せる。答えは予想していたのだろう。けど、決して小さくはない期待から生まれ落ちた落胆は、彼女の意志に関係なく零れ出してしまう。
 そして、それは未練という形にも変わって、問いという形で口から出てきた。

「……怖いから」
「怖かないわよ。そりゃまあ、館の中よりは危険でしょうけど、そこまで気を張る必要まではないわよ」
「それもあるけど、……それ以上にお姉様が盗られそうで怖い」

 無意識的なのか、どこにも行かないでほしいと訴えるかのようにレミリアの服の裾をきゅっと摘む。それだけでなく、誰かに奪われそうになっている自分の物を掴むかのようでもある。
 どちらにせよ、見かけ相応の少女らしい弱々しい行動だ。

「私は貴女の物になったつもりなんてないわ。そもそも、誰かの物になるつもりもないわよ。私は私だけの物。だから、私の行動は全て私の意志に依るもの。その意味は分かるわよね?」
「わかる、けど、わかりたくない」
「はあ……、どうしたら納得してくれるの?」

 レミリアは呆れながらそう聞く。

「しばらく外に出ないで、ずっと私の相手をしてくれたら」
「却下。単なる貴女の我が侭じゃない」
「じゃあ、絶対に納得しない」
「へえ、いい度胸ね」

 お互いに紅い瞳を向け、睨み合う。けど、フランドールは場馴れしたレミリアの凄みに圧倒され、すぐに気勢を削がれてしまう。
 そして、怯えるように視線を逸らしてしまう。もはや、真っ向から対抗する意志は残っていないようだ。
 これでもレミリアは手加減をしている。恐らく、今のフランドールに対して彼女の凄みを全て見せつければ、意のままにすることができるかもしれない。
 けど、彼女は敢えてそうしない。どうでもいいものに対してはそれを使うかもしれないが、大切であるものほど遠回りになるような手段を用いる。そうして、自らの描く理想を実現しようとするのだ。

「ま、しょうがないから、今日は相手にしてあげるわよ。それで、何かリクエストは?」

 フランドールの様子を見て、少し態度を柔らかくする。今日の所は、自分の時間をフランドールに捧げることにしたようだ。
 なんだかんだと言いながら、根本の部分では甘いのである。そして、妹に対しては特に甘くなる。彼女が自分からここまで距離を詰めるのもフランドールくらいしかいないだろう。
 その一方で、彼女は妹をそっと突き放そうともしている。けど、それは決して矛盾したものではない。いわゆる、親心のようなものだ。本人にそうした自覚はないようであるが。

「……不条理な力を前にして泣きそうになった妹を慰めて」

 姉のそんな気持ちに気づいているフランドールは、言葉にしたのとは別の理由で泣きそうになりながらそう言う。ここでレミリアに否定されてしまえば、本当に泣き出してしまいそうだ。

「はいはい」

 それがわかっているのかいないのか、レミリアは適当な返事をしながら、表情を変えずにフランドールの金髪を梳くようにして頭を撫で始める。赤ん坊をあやすかのような柔らかな手つきだ。

「明日から、大人しく私を出かけさせてくれるかしら?」
「……」

 フランドールは何も答えない。けど、彼女の纏う雰囲気から、聞き入れるつもりはないというのはひしひしと伝わってくる。

「黙ってたら分からないわよ」
「……」

 やはりフランドールはうんともすんとも答えない。不機嫌そうにレミリアを見返すだけだ。ただ、撫でてもらえているというのは嬉しいのか、口元はほんの少し緩んでしまっている。

 レミリアは、これで少しは機嫌をよくしてくれればいいと思いながら、頭を撫で続けるのだった。





 翌日、館に二日ぶりの晴天が訪れる。
 フランドールはもう雨を降らせないとは一言も言ってはいないのだが、それでも一応聞き受けてはくれたのだろうとレミリアは思う。

「今日はいい天気になりましたね」

 館の玄関で薄紅色の大きな日傘の用意をしていた咲夜がそう言う。

「ええ、そうね」

 レミリアは上機嫌そうに羽をゆったりと揺らしながら答える。館から出られなかったのはたった二日だったが、それでも彼女にとってはこうして出かけるのが待ち遠しかったようだ。

「……でも、フランが付いてきてくれないっていうのは残念ね」

 けど、部屋へと向かったときの妹とのやりとりを思い出して、少し落ち込むような表情を浮かべる。
 実は、妹と並んで散歩をすることが彼女の夢であったりする。そして、あわよくばそれで出不精でなくなってくれれば、妹には極力構わないようにしようと考えている。けど、実現しそうな目処は全く立っていない。一番の障害はフランドールが精神的にも極度の引きこもりであるということだった。
 一度、自ら部屋から出たこともあるのだが、その時はフランドールが一人で外に出ることの安全性を証明する手段がなかったがために、雨を降らすことで館の中に閉じこめた。
 その雨が好奇心旺盛な人間を呼び寄せ、それがフランドールの安全性を証明することになったのだが、結局彼女がそれ以降、館の外へと出たことはない。けど、それは当然のことかもしれない。そのときだって単純に、自分がいきなり外に出ることで騒ぎを起こし、レミリアに帰ってきてもらおうということくらいしか考えていなかったのだから。

「お嬢様がフランドールお嬢様に外をお見せになられたいお気持ちは理解できますが、無理をして距離をお取りになられる必要はあるのでしょうかね?」
「私はあの子への影響が大きすぎるのよ。あの子は、私がいるというただそれだけのことで満足してしまう。だから、あまりこちらから関わるべきではないのよ。それに、こうして距離を取っていれば、そのうち追いかけてきてくれるはずよ」

 寂しさを滲ませながら滔々と話す。

「お嬢様がそう仰るなら、私からこれ以上はありません。折角のお出かけ日和にも関わらず、水を差すようなことを申し上げてすみません」
「貴女が謝る必要はないわ。私が話題に上げたような物なんだから」

 表情を隠し、澄まし顔を浮かべる。よほど親しい者でも、何を隠しているのかはわかりはしないだろう。

「こんなところで沈んでても仕方ないわ。さ、行きましょう」
「はい、お嬢様」

 レミリアは明るめの声でそう言って、玄関の大扉の取っ手へと触れる。その途端、

 さぁーーーーっ

 静かなさざめきが場を支配する。レミリアも咲夜も怪訝そうに動きを止めて、何の音なのかを探る。
 そして、ほぼ同時に二人の表情から怪訝が消える。よくよく聞いてみれば、ここ二日の間に聞き慣れてしまった音だった。

「こういう、出かけようとしたときなどに降る雨を遣らずの雨、と呼ぶらしいですよ」
「何を暢気なことを言ってるのよ」

 そう言いながら、レミリアは扉を開け放つ。視界を霞ませる程度の雨が降っている。けど、それにも関わらず周囲は明るく、非常に強い違和感が襲ってくる。

「……また、フランの仕業ね」

 じっと黙り込んで何かに集中するような素振りを見せていたレミリアは、行く手を遮る水のカーテンを睨むようにしながらそう言う。
 先日の雨と様子が違うのは、別の魔法も組み合わせることによって誤魔化していたからなのかもしれない。ここまで露骨になっているのは、誰の仕業かばれてしまっているからだろう。

「どうするんですか?」
「ここであの子の所に行ったら、思う壷よね。だったら、傘で雨を防いで突っ切るわ。今ならまだ流れ水もできていないし。というわけで日傘、こっちに渡してちょうだい」
「はいどうぞ。万が一の時はそのお身体を拾い上げますので、ご心配はなさらず」

 咲夜はレミリアに日傘を渡す。そして、代わりに一本の黒色の蝙蝠傘を手にする。お嬢様に護って頂いている気分になれる、と言って彼女が愛用しているものである。

「急がなきゃ大丈夫よ。さ、今度こそ行くわよ」

 レミリアは玄関先で傘を広げ、躊躇なく雨の中へと躍り出る。空から落ちるいくつもの水滴が、レミリアを館内へと押し戻すように何度も何度も傘を叩く。
 けど、レミリアはその訴えを聞き入れるような素振りは見せずに、悠然と歩を進める。
 そして、ある程度進むと音はすぐに途切れた。今度は日差しが雨に濡れた日傘を照らし始める。その隣では、咲夜がそっと傘を閉じている。

 レミリアは一端足を止めると、館の方へと振り返る。
 依然館は雨の衣に包まれている。ただ、雨足は弱まっている。代わりに、諦めきれないといった雰囲気を感じられる。けど、雨の範囲を広げて追いかけようとまではしないようだ。
 レミリアは、そこに妹の姿を重ねて小さくため息を吐く。けど、それ以上の動きを見せることなく館から視線を外した。ここでフランドールに対して行動を起こすくらいなら、まず館から出ることもなかっただろう。

 そして、咲夜を伴って歩き出す。
 取り残された館は、駄々をこねたにも関わらず無視された子供のような佇まいをしていた。





「こんにちは。いつもぼんやりしてますけど、今日は心ここにあらずといった様子ですわね」

 博麗神社の母屋の縁側に腰掛けてぼうっとしていたレミリアの目の前に、幻想郷の賢者と呼ばれる八雲紫が現れる。彼女の背後には、空間が裂けたような跡が浮かんでいる。それはそっと閉じて、完全に繋ぎ目が合わさったときには、もう痕跡は何一つとして残っていなかった。
 紫は、レミリアから少し離れた場所に寄り添い合うように立てかけられた二本の傘へと視線を向ける。二本ともまだ少しばかり濡れているのが見て取れる。今の天気には似つかわしくないそれを見ても、特に何かを言及しようとはしない。

「偶にはそんな日だってあるわよ。年がら年中同じ私でなんていられないわ」

 何の前触れもなく現れる存在というのに慣れているレミリアは驚いた様子を全く見せることなくそう言う。ここの家主である霊夢も、彼女の従者である咲夜もお茶を淹れに行っているので、紫に対応するのは彼女一人だけだ。

「それもそうですわね。では、ここは一つ猫の話をしてあげましょう」

 そう言いながら紫はレミリアの隣へと腰掛ける。

「貴女の使い魔のこと?」
「あの子は私の物ではないし、あの子の話でもないですわ。人里でとある夫婦から聞いた話」
「まあ、誰の話だっていいんだけど、どうしてまた突然そんな話をするのよ」
「とある夫婦は一匹の猫を飼っていました」

 レミリアの疑問を無視して、紫は勝手に話し始める。ここ幻想郷において、相手の言動を無視するようなのは珍しくない。だから、レミリアはやけになって止めようとするようなことはせず、聞き流す姿勢を取る。

「その猫は奔放な猫にしては珍しく大人しい性格で、二人に迷惑をかけるようなことはほとんどありませんでした。二人から可愛がられ、幸せに暮らしていました。
 しばらくして、夫婦は子供を授かりました。当然、その二人は飼い猫よりも、我が子に愛情を注ぐようになります。さすがに忘れてしまうようなことはありませんでしたが、構う時間はめっきり減ってしまいました。
 突然、自分に対する優先順位を下げられた哀れな猫は、家のそこら中で爪を研ぐ、食べ物を荒らすなどの問題行動を起こすようになりました。唯一誉められる点といえば、子供には手出しをしようとせず避けていたことくらいでしょう。夫婦はその猫を叱りましたが、一向にやめる気配はありませんでした。
 けど、ある日妻の方はふと気づきました。最近、あまり構ってあげることができていない、と。子供の世話にも慣れてきて多少余裕のできてきていた彼女は、子供の世話をする傍ら、猫にも構ってあげるようにしました。
 するとどうでしょう。それを境に猫が問題行動を起こすことはなくなりました。それどころか、子供を避けるようにしていたその猫も子供の遊び相手となっていました。
 そうして、今でもその夫婦は平和な家庭を維持し続けているのです。めでたし、めでたし」

 そう締めくくり、自身に拍手を送る。レミリアはそんな紫の姿に胡乱な視線を送る。紫のどことなく得意げな笑みを見る限り、それさえも賞賛として受け取っているようだ。

「それで? もう一度聞くけど、私にそんな話をして何のつもり?」
「現状の問題を解決するために必要な方法を示唆する話は、存外何気ない会話から見つけることができるということですわ」
「わざとらしさしか感じられない。それに、それは私が何か問題を抱えているような言い草ね」
「問題は誰もが抱えているもの。違いはそれが無視できないほど大きいかそうでないかだけ。それはそうと、今日は貴女のメイドも傘を持ってきてるのですね。それも、日傘ではなく雨傘を。今日の幻想郷はどこもかしこも晴れですわよ。変な問題を抱えて、天気を操られていたりしない限り」

 紫の遠回しな言葉に、レミリアは心底面倒くさそうで嫌そうな表情を浮かべる。

「いい顔してますわ」
「……相変わらず悪趣味ね、貴女は」

 楽しげな紫の顔に対してため息を吐き、顔を逸らす。けど、紫はレミリアの顔の前にスキマを作り出すことで、その顔を正面から覗く。顔だけが浮かんでいる光景は恐怖小説の一幕のようである。レミリアは今更その程度で驚いたり、気味悪がったりはしないが。

「突き放すのも選択としては悪くないと思うけど、意地を張っててもしょうがないですわよ?」
「貴女には関係がないんだから、放って置いてちょうだい」

 レミリアは手で追い払うような仕草をするが、それを素直に聞き入れるようなのではない。にやにやとからかうような笑みを浮かべるだけだ。

「なら、公共の場に持ってこないことですわ。私みたいなのに遊ばれてしまいますから」
「なぁにが公共の場よ。ここは私の家よ」
「あたっ」

 紫の頭の上に木の盆が落ちる。あまり大きな音は響かなかったが、鈍い音が奥まで衝撃を伝えているということを主張していた。
 どうやら、台所から戻ってきた霊夢が盆を叩きつけたようだ。相手が妖怪だからこそ容赦がないのだろう。

「酷いですわね、霊夢は」

 紫は頭をさすりながら後ろへと振り向く。そこには、目を三角にした博麗霊夢が立っている。右手に盆、左手は腰に当てるという出で立ちとなっている。
 ちなみに、盆に乗っていたらしい湯飲みは、ちゃぶ台の上で湯気を立てている。

「勝手なこと言うあんたが悪いのよ」

 つんけんと言葉を投げかける。妖怪相手ならいつものことだが、歓迎している様子は一切ない。

「それからレミリア。あんたはしけた顔してるだけならさっさと帰れ」

 レミリアが来たその時は本気で追い返そうとはしていなかったのだが、休憩の時間までその雰囲気で侵食されることは許せないようだ。

「しけた顔をしてないなら、ここにいてもいいのかしら?」
「そんなわけないじゃない。でも、勝手に居着かれて空気を重くされるよりは何百倍もまし」
「霊夢は素直ね。ああいうのはからかって遊ぶのが一番だと思ってる私には無理だわ」

 紫は立ち上がって屋内に入ると、霊夢の方へと近付いて手を伸ばす。その一瞬だけを切り取れば、どことなく微笑ましげな雰囲気を感じられそうだ。

「撫でようとするなっ!」

 けど、盆を持った手で勢いよく振り払われる。人間なら、痛みでしばらくは動けなくなっていたかもしれない。けど、紫は叩かれた部分を手で覆いながら、楽しげな表情を浮かべている。
 霊夢は完全に紫の方へと警戒を向けている。さながら、悪戯を仕掛けられそうになっている猫である。

「お嬢様、どうなさるんですか? 猫に構いに帰りますか?」

 少し離れた場所から三人のやり取りを眺めていた咲夜が、相手にされなくなった主の傍へと近寄り、その場で正座をする。

「主の妹を猫呼ばわりしてるんじゃないわよ。フランはフラン、猫は猫、全く関係ない話よ。だから、私は帰らない。構って欲しいなら勝手に付いてくりゃいいのよ。怖い怖いって言って付いてこないのは、あの子の選択」
「珍しく長い愚痴ですね。そもそも、本気でそうお思いになっていらっしゃるなら、紫にからかわれるようなこともなかったのではないですか?」

 咲夜は不思議そうに首を傾げる。無条件に主の肩を持たないのが、彼女なりの従者としての在り方なのである。

「……うるさいわよ。私はこうするのが正しいと思ってるの。私が関わってもあの子を縛るだけなんだから」
「まあ、私は子育てをしたことがないので、どちらが正しいとも断言できませんけどね。はい、どうぞ」

 咲夜は持ちっぱなしだった湯飲みをレミリアへと差し出す。レミリアは片方の手だけを伸ばしてそれを受け取る。

「ありがとう。別に、子供を育ててるなんて意識はなかったわよ」
「でしたら、子を突き放す態度ではなく、妹を支える態度を取ってみてはいかが? 貴女の態度は、子に対するそれに見えますわ」

 霊夢の頭を撫でるために睨み合いをしていた紫がレミリアの言葉にそう言う。霊夢からは視線を外し、再びレミリアの方を見ている。立っている場所の関係上、背中に話しかけるような形となってしまっているが。

「そんなつもりはないって言ってるじゃない」

 レミリアは真面目に話を聞くつもりはないようで、正面を向いたままお茶を啜る。一応答えているのは、すぐにでも話を終わらせてしまいたいからだろう。
 けど、やはり紫はその意志を汲み取るようなことはしない。

「どのような意志で接していようと、実際にどう感じられるかが問題ですわ。だから――」
「あんたたち、レミリアの妹の話しかしないんだったら、レミリアんところに行きなさい」

 紫の言葉は、霊夢の言葉によって遮られる。

「ふむ、それがいいわね。素晴らしい考えだわ。さすが霊夢ね」

 紫は文句を言うどころか、笑顔を浮かべて霊夢の言葉に同調を示す。そして、霊夢を撫でようと手を伸ばす。今度は、懐から取り出したお札を投げつけられて、手が腕ごと後ろへと大きく弾かれる。
 けど、大きな動きに反して、手に貼り付いたお札を剥がす姿は余裕そのものだ。やせ我慢をしているのか、大げさな反応をしただけなのかは判別できない。

「こんな酷いことしなくてもいいじゃない」
「あんたが節操なさすぎるだけよ。ほら、さっさと行きなさい」

 霊夢は紫を追い払うような仕草を取る。次に下手なことをすれば、針でも飛ぶかもしれない。

「ん、そうですわね。レミリアの館へ参りましょう」

 案外あっさりと霊夢を諦めると、人一人分ほどの大きなスキマを作り出す。覗き込んでも無数の目のような物が見返してくるだけで、どこに繋がっているのかはわからない。
 けど、会話の流れからどこに繋がっているのかは簡単に予想できる。その上で、レミリアは自分には関係ないという素振りを見せ続けている。

「では、霊夢ごきげんよう」
「なっ、ちょっと――」

 その言葉と同時にレミリアの下にスキマが現れる。普段の彼女なら、飛ぶなりして対処できていたかもしれないが、紫に対する小さな敵愾心のせいか、動くよりも先に抗議を口にしようとしていた。
 その結果、内容が言葉になるよりも先にスキマの中にその小さな身体は消えていってしまう。それを確認した紫は、霊夢へと手を振りながら、自身の前に作っていたスキマの中へと入っていく。
 咲夜も二本の傘を回収すると、霊夢へと一礼をした後、主を飲み込んだスキマへと飛び込む。そして、二つのスキマはその痕跡もなく消滅する。

 けど、少しして小さなスキマが現れ、そこから湯飲みが現れる。先ほどまでレミリアが持っていたものである。
 霊夢はそれを拾い上げて、疲れたようなため息を一人で吐くのだった。





「――何するのよっ!」

 突然放りだされた割には意外と綺麗に着地したレミリアの抗議の言葉の残り半分が静かな部屋の中に木霊する。その音に驚いたのは二人。ここまで声が響くと思っていなかったレミリア自身と、ベッドに伏せていて異変に気づく間もなく大きな音に闖入されたフランドールだ。咲夜はさりげない動作で主の手から湯飲みを取り去り、紫はそれを受け取って小さなスキマの中に押し込んでいる。二人とも、至極冷静な様子である。

「お姉――」

 フランドールの心は驚きに支配されている状態ではあったが、それでも、レミリアの声にほとんど反射的に反応を示し、姉へと呼びかけようとする。けど、顔を上げ、見知らぬ姿が視界へと入ってきた瞬間、言葉を途中で切り、逃げるように再び伏せた状態となる。
 けど、少しすると身体を起こしてベッドに腰掛ける形となって、二人と向き合う。唯一目を合わせようとしていないのは、どことなく不機嫌そうな雰囲気を纏うレミリアだ。身体ごと、全く関係のない方向へと向いている。

「……あなたは?」

 フランドールは、予告なしに現れた訪問者に対する多少の警戒を抱きながらそう聞く。先ほど人見知りをするように逃げ出したのは、完全にレミリアとだけ相対する心構えとなっており、他人の存在を全く考慮に入れていなかったからだろう。

「私は八雲紫。聞いたことはあるのではないかしら?」
「幻想郷の管理をしてる妖怪、だったけ?」

 記憶を探るようにしながら答える。外界との繋がりを断ってはいるが、何も知らないというわけでもない。知識や情報の収集は割合好きなのだ。

「まあ、そんなところですわ」
「……そんな大物が、私に何の用?」

 少しばかり腰が引けたような態度となる。自分の同等の相手であれば、普通に接することができるようだが、多少なりとも自分よりも上だと認識すると遠慮がちな態度となってしまうようだ。レミリアだけは例外として。

「特にこれといった用があるわけではありません。レミリアが大切にしている妹君に会ってみようとそう思っただけですわ」

 紫はフランドールの方へと近付いていく。フランドールは不意に近付いてくる彼女に困惑の表情を向けるばかりだ。だから、二人の距離は当然のように縮まる。
 紫はフランドールの当惑を楽しんでいるような表情を浮かべながら、その頭を撫で始める。
 フランドールは逃げるように身動ぎをする。けど、本当に逃げてしまっていいのかもわからないし、そもそもどこに逃げればいいのかわからなくて動くことができない。
 レミリアは視界の端で二人の動きを見るなどの気にするような素振りを見せているものの、目立った動きを見せようとはしない。

「姉君とは違った方向で素直な反応ですわね。これはこれで、からかいがあって好きですわよ」

 紫は悪戯っぽさを感じさせない笑顔を向ける。けど、フランドールはさすがに不穏なものは感じるようで、本気で逃げ場所を探し始める。
 とはいうものの、できるのはレミリアの方へと助けを求めるような視線を送ることだけなのだが。もし、ここでレミリアがもう少し素直な態度を見せていれば、母親の後ろに隠れる子供のように背中に隠れていたかもしれない。

「……他人の妹にちょっかいを出そうとしてるんじゃないわよ」

 フランドールの懇願を無視しきることはできなかったようで、レミリアは少しどすを利かせた声でそう言う。

「あらあら、おっかない声ですわね」

 対して紫はおどけた様子を見せるだけで、レミリアの声は全く堪えていないようだ。
 レミリアは更に紫を睨む。向けられた当人は変わらず飄々としたものだが、その視線の向こう側にいるフランドールは少しばかり怯えた様子を見せる。
 内にいるレミリアしか知らないフランドールにとって、レミリアのそうした本心から刺々しい姿を見るのは初めてだ。だから、怯えてしまうのも仕方のないことだろう。

 妹の異変に気づいたレミリアはため息を吐く。そして、ベッドへ近付くと、紫の手を払いのけて、ベッドに乗るとフランドールを抱きしめた。
 そうすると、フランドールは身体を弛緩させ、レミリアへと身体を預ける。先ほどまでとは違い、完全に安心しきっているようだ。
 レミリアもレミリアで落ち着いているようで、背中の羽が脱力したように下がっている。

「ふふ、お熱いことですこと」
「どうしてそういう茶化し方になるのよ」

 レミリアの呆れるその声は、比べものにならないくらい柔らかなものとなっていた。さながら、フランドールという薬物に依存する中毒患者のようである。異なる点と言えば、摂取しすぎたところで身体的な悪影響がないということくらいだろうか。

「それが一番らしいと思いましたので」

 二歩、三歩と後ろに下がって距離を取る。二人の傍に自分の居場所はないと悟ったのだろう。

「そうやって、依存できる相手がいるというのは羨ましい限りですわ。一方的ではなく、相互的だというのは端から見ていて少々不安になりますけど」
「だから、突き放すのよ。この子が一人になっても大丈夫なように」

 そんな言葉とは裏腹に、レミリアの腕には力が込められる。感情が理性を上回ってしまっているせいだろう。
 そして、フランドールはフランドールで不満そうに羽を揺らしている。会話に割り込むべきではないと思っているから、レミリアの言葉に対して態度で抗議しているのだろう。
 今現在、二人にとってこの上なく満たされるべき状態となっている。けど、レミリアの描く未来が気に入らないフランドールは、レミリアのように刹那的に今このときだけを満足していることはできないようだ。

「その様子では一切根拠を感じられませんけどね。どちらかというと、貴女自身が妹を捨て去って、自立したつもりでいようとしているように見えますわ」
「かもしれないわね。まあ、それならそれでもいいわ。フランを縛る私がいなくなるということには変わりはないのだし」

 レミリアは自虐的にそう言いながら、腕の力を緩める。けど、そうすると、今度はフランドールがレミリアへと抱きついて縋りつく。レミリアはフランドールの肩に手を乗せて優しく引き剥がそうとするが、当然その程度ではびくともしない。

「ねえ、咲夜。貴女の主、ものすごく面倒くさいわ。……って、いないわね」

 紫は心底うんざりしたような表情を浮かべて、咲夜から同意を得ようとした。けど、いつの間にか姿を消してしまっていた。自分がこの場にいる必要はないと判断したのだろう。
 仕方なく二人の方へと視線を戻す。姉に抱きつこうとする妹と、そんな妹をそっと引き剥がそうとする姉。本人たちには全くその自覚はないようだが、その姿はまさに仲睦まじい姉妹のものである。
 紫は自らに休養を与えるようにその姿を眺めている。よくよく見てみれば、口の端に素直な笑みを浮かべているのが見て取れる。

 しばらくして、レミリアの面倒くささに対抗する気力が回復したのか、再び口を開き始める。

「私は閉じた世界も悪くはないと思いますわよ。時々、外から流れを取り込みさえしていれば、腐るようなことはありませんし。幻想郷という閉じた世界を見ている私がそれを保証しましょう」
「……それは、お姉様から外の話を聞き出せっていうこと?」

 紫の言葉にフランドールが反応を示す。

「素直な猫ちゃんは飲み込みが早いですわね」

 フランドールは理解のできない言葉に首を傾げる。けど、紫はわざわざ説明するつもりはないようだ。

「貴女の理想に近く、姉君も納得しうる方法はそれでしょう。そもそも、今までそういった話をしていなかったというのが意外ですが」
「……お姉様が頻繁に出かけるようになってから避けられてるみたいだったし、実際に話を聞いて誰かに盗られていってるっていうのを聞くかもしれないのが怖かったから」
「その様子では誰にも盗られることはないと思いますわよ。そこまでいじらしい様子を見せられると、奪ってみるのも面白そうですが……、後がおっかなさそうなので、やめておきますわ」

 冗談でそんなことを言う紫をフランドールは睨む。けど、レミリアのそれに比べると可愛らしいもので、当然のように受け流している。
 フランドールも牽制のつもりで睨んだだけで、紫への興味はほとんどないようだ。すぐに、フランドールを引き剥がそうとしているレミリアと向き合う。
 そして、しばし考え込むような仕草を見せる。紫の言葉が信用に値するものか推し量っているのだろう。

「お姉様、私に外の話をしてくれる時間を作って。そうしたら、大人しくしてる」

 紫に言われたとおり、レミリアが本気で突き放そうという状況から信じることにしたようだ。フランドールの声の中に迷いはない。

「……それでフランが余計に外に出る可能性が減ったら意味がないじゃない」
「無駄な意地を張って不和をもたらしてしまうかもしれない方が無意味だと思いますわよ。緩流による変化をのんびりと眺めながら、確実にそれに対応していくべきですわ。確かに一度激流によって、わかりやすく良い変化を得られたようですが、果たして今回もそれはうまくいくのでしょうか?」

 紫が二人の会話に割り入る。完全にフランドールの肩入れをしているというわけではないが、大まかにはフランドールの望む形の意見を持っているようだ。

「うまくいかせるのよ」
「ふふ、条件によってはそれでもいいのかもしれませんが、今の貴女では本当にただの理想止まりですわ」

 責めるような口調だが、その声は弄ぶようなものとなっている。フランドールを擁護するような発言をするときとは、明らかにその声色が違っている。

「貴女はフランドールを突き放すつもりでいながらも、目前にすると突き放せないでいる。それが、彼女に期待を抱かせて、貴女の望む自立から遠ざけてしまっている。その自覚はおありかしら?」
「……うるさいわよ」

 フランドールからも紫からも顔をそらし、誰もいない壁の方を見る。

「あらあら、先ほどまでの威勢の良さがなくなりましたわね。たまたま、図星を射抜いてしまったようですね」
「お姉様、逃げないでこっち向いて」

 からかい混じりながらも正論を口にする紫と、全く混じりけのない真っ直ぐな態度で端的に要求をぶつけるフランドール。お互いに態度か言葉を交換すれば、レミリアも多少は対処しやすくなっていたかもしれない。押し返せるかどうかは別として。

「ちゃんと前に向けられるようになる矯正なら手伝いますわよ」

 紫の正面とレミリアの背後に手が一本通りそうなほどのスキマが二つ現れる。紫がそれぞれに腕を一本ずつ突き込むと、レミリアの頭を挟んでフランドールの方へと向かそうとする。けど、吸血鬼の怪力でもって無理やり抵抗する。

「紫、私が代わりにするから、お姉様が逃げないようにして」
「了解ですわ」

 紫が不敵な笑みで答える。
 そして、スキマを広げて、身体全てをレミリアの後ろへと移す。それから、顔を挟むのはやめて、羽交い締めにする。フランドールはそれと入れ替わるようにレミリアから離れて、顔を向けている正面へと移動する。
 けど、レミリアは反対側へと顔を向けてしまう。フランドールはそれを追いかける。レミリアは再び逃げる。フランドールは諦めない。レミリアも諦め悪くまた無関係な方へと向く。
 痺れを切らしたフランドールは、紫がそうしていたように、先日レミリアにそうされたように両頬を両手で挟む。
 無理やりに首の向きを変えられるという事はない。意地でも、抵抗を続けるようだ。けど、フランドールが視界に入ってきて逃げようとするが、思うようには動かない。

 と、不意にレミリアが驚きの表情を浮かべる。そして、すぐに理解の色が浮かんできて悔しそうな表情を浮かべる。フランドールはその一連の流れを不思議そうに眺めていた。

「自身の姿の境界が曖昧というのも厄介なものですわよね」
「……あぁ、なるほど」

 フランドールはしばらく紫の言っていることの意味がわからなかったようだが、その能力を思い出すことで納得する。
 そして、絶対にレミリアが逃げられないのだと理解すると、真っ正面からレミリアを見つめる。

「お姉様、私の目がちゃんと見れるように素直になって」

 レミリアはフランドールにそう言われても何も答えようとはしない。フランドールはそんな姉をじーっと見つめる。先日とは完璧に立場が入れ替わってしまっている。
 けど、次第にその視線はぼんやりとしたものとなってくる。

「見惚れてしまってますわよ」

 紫のどこか微笑ましげな声にはっと我に返る。そして、何かを振り払うように首を振ると再び真っ直ぐにレミリアを見つめ直す。レミリアがそうしたときと比べると、随分と間の抜けた様子である。
 それを目前にして、レミリアは大きなため息を吐く。

「……お姉様?」
「どうしてこんなことになったのかなぁとね」

 遣りきれないと言った声でそう言う。フランドールから逃げていた視線も、正面から紅い瞳を見据えるようになる。けど、普段の射抜くような力強さはなく、諦念したような力ない視線だ。

「お姉様のやり方が間違ってたから」
「迂遠なやり方で引き留めようとした貴女には言われたかないわよ」
「でも、お姉様も似たようなことしてたし、私のはちゃんと成功してる」

 フランドールは嬉しそうな笑みを浮かべる。

「私のやり方だって一回は成功してるのよ。だから、おあいこ」
「私のは二回。昨日お姉様が構ってくれたのと、今こうしてお姉様が身動きできなくなってるの。私のせいでここに連れ戻されたんでしょ?」
「そうですわよ。姉君を引き留める嘆きの涙を見ていることに耐えられなくて、このように協力して差し上げようと思った次第ですわ。乙女の涙を見て見ぬ振りなどできませんから」
「……白々しい」

 レミリアは苦々しげな表情を浮かべる。紫にその顔は見えていないだろうが、楽しげな笑みを浮かべているところから、雰囲気は伝わっていることだろうことは窺える。
 フランドールもまた微妙な表情を浮かべる。紫の真の目的がわかっているからだろう。利害が一致しているから助けてもらっているだけで、別段信頼しているとかそう言うわけではないのだ。

「ええ、私以上に清廉潔白な存在はいないでしょうね」
「貴女がそうなら、世界は眩しすぎて目が開けていられないでしょうよ」
「紫! 邪魔しないで! あと、お姉様もこれ幸いとばかりに乗らないで!」

 フランドールは怒り顔で、レミリアの顔をぐいっと引き寄せる。二人の間には鼻先が触れ合ってしまいそうなほどの距離しかなくなる。ある意味、二人だけの世界となる。

「ごめんなさい。反応が良いので、ついついからかいすぎてしまいましたわ。ここからは、大人しく援護射撃をするだけにとどめるとしますわね」
「うん、そうして」

 フランドールは紫の方へと意識を向けないまま頷く。レミリアの方へとじぃっと集中している。頑なに見て見ぬ振りをする心に穴を穿ち、そこに自分の想いを流し込もうとするかのように。

「お姉様、私を遠ざけようとしないで。絶対に外に出ないでとは言わないけど、ちゃんと私を見て私に構って。そうじゃないと、またお姉様を縛り付ける方法を考えちゃうから」
「それは勘弁願いたいところね。私を館へと縛り続けてたら、何をしでかすかわからないわよ? それこそ、貴女を嫌ってしまうかもしれない」

 その言葉にフランドールは怯えるように身体を震わせる。フランドールにとって、それはこの上ないほどの脅し文句だろう。
 それ以上の言葉を紡ぐことを躊躇してしまう。

「貴女の妹に対する想いがその程度なら、とっくに関わるのもやめてしまっているのではなくて? ここまで面倒くさいのを相手にするには相当の思い入れが必要なはずですわ」

 そんなフランドールに代わり、紫が話しかける。今までのどこか煽るような口調とは大きく異なって、諭すようなものとなっている。

「それに、外の話を聞かせることで、フランドールも外に興味を抱くようになるかもしれませんわよ。敬愛する姉君が楽しそうに、それでいて大切な妹君を意識の中心に据えさえしていれば」
「……そうかしらね?」

 そして、レミリアもまた反論しなくなる。少しずつ、考えが変わりつつあるようだ。

「少なくとも猫は新しい家族を受け入れましたわよ」
「それとこれとは全く別の話じゃない」
「今まで構ってくれていたものを奪い取るという意味では大差ないと思いますわ。ああ、それと、もし不安があるのでしたら、私が協力しますわよ」
「嫌な予感しかしないから遠慮しておくわ」

 紫を受け入れることはやはりできないようである。

「それは残念ですわね」

 大して残念ではなさそうにそう言って、会話は途切れる。フランドールは少々怖じ気付いたような態度を取っているものの、諦めることはできないようで弱気を湛えた瞳でレミリアの顔を見つめる。
 再び沈黙が訪れる。先ほどとは違って、フランドールの視線は窺うようなものだ。レミリアも露骨に視線をそらすことはせず、目線を合わせようとしている。

「……分かったわよ。フランに外の話を聞かせるためにできるだけ関わるようにしてあげる。それで二人とも文句ないでしょう」

 ため息混じりにそう言う。二人の言い分を全面的に受け入れることはできないものの、ある程度納得はできたというところだろう。

「うんっ。ありがとうっ、お姉様っ」

 フランドールはぱっと笑顔を開かせてレミリアへと抱きつく。離れる暇のなかった紫も巻き込んで。

「ふふ、良かったですわね」
「あ、紫もありがとう。お姉様の説得を手伝ってくれて」
「これくらいお安いご用ですわ」

 そう言いながら、レミリアを解放して離れる。フランドールはそれほど強く抱きしめているわけではなかったようで、紫は簡単に二人から離れることができた。
 そして、その瞬間フランドールの腕にぎゅーっと力が込められる。そんなあからさまな態度の違いに紫は苦笑いを浮かべる。
 レミリアはただされるがままとなっているだけだ。妥協とともに脱力して、何もかもが面倒くさくなっているのかもしれない。

 紫はレミリアの顔が見える方へと移動する。

「なんとも言えない表情ですわね。ここは素直に幸せそうな表情をすべきでは?」
「わざわざ覗くんじゃないわよ。用がなくなったならさっさと帰りなさい」
「まだ貴女の幸せそうな表情を眺めさせていただくという用事が残ってますわ」

 そう言って、純粋そうな笑みを浮かべる。けど、この流れではそんな笑顔こそが非常に胡散臭い。

「フラン。何か壁みたいなの出せない?」
「ん、任せて」

 フランドールが頷くと、濃い霧のようなものが二人を覆い隠す。外からはもちろん、中の二人も何も見えなくなっているだろう。顔が見えるか見えないかをさほど気にしている風ではない二人にとっては、関係ないことなのかもしれないが。

「恩知らずですわね。まあ、いいでしょう。弄る相手を増やせばいいだけのことですし」

 ねっとりと絡みつくような声色に、フランドールは大きく身体を震わせる。霧からはみ出た羽の先端からでも、その様子は窺うことができる。

「楽しみにしていてくださいませ。では、今日のところは帰らせていただきますわ。それではご機嫌よう」

 二人には見えていないだろうが、悪戯っぽい笑みを浮かべてスキマの中へと消える。
 しばらくして、霧が晴れる。けど、フランドールの表情は曇っており、それどころか、今にも雨が降り出しそうな状態となっている。

「私しか見てなかったってのは要反省ね。まあ、悪いようにはされないはずだから大丈夫よ。いざというときは、私がどうにかするから」

 レミリアは、呆れたような表情を浮かべながらフランドールの頭を撫でる。それだけで、フランドールの目元は和らぐ。

「この様子じゃあ、外に出すのはちょっと不安ね」
「じゃあ……っ!」
「顔を輝かせるな。これから頑張らせるのよ。具体的なことは何にも考えてないけど」

 嬉しそうな表情を浮かべるフランドールの両頬を摘んで引っ張る。けど、変な顔となるだけで、元の表情は変わらない。

「わはひも、いっほに考える」
「どうせ邪魔するだけでしょうが」

 そう言いながら、嫌そうな表情を見せないフランドールの頬をこねくり回す。今はレミリアも真面目に考えるつもりはないようだ。

 どこか醒めたように見えるレミリアと感情を隠さず振りまくフランドールとは、そんなふうにしてしばらくじゃれ合っているのだった。


 二人が並んで外に出るようになるのは、また先のお話。


Fin



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