「あ、え、い、う、え、お、あ、お」
一音一音をくっきりと切り分けるようにして声にする。八畳の和室に響く自分の声で、意図した通りの声となっていることを確認する。こうして意識して声を出すのは、喋ったりするときには感じることのない気持ちの良さがある。その気持ちよさに流されて、続きも声にしてしまいそうになるけど、ぐっと堪える。今やっているのは、私のための発声練習ではないのだ。
「じゃあ、真似してみて」
私の目の前に立つ妖怪狸の少女であるキヌにそう言う。薄茶色のショートヘアの上で時折ぴこぴこと動いている耳と、狸柄のスカートから伸びる尻尾とが彼女が妖怪狸であるということをこれ以上ないくらいに主張している。彼女は私が勝手に師匠と呼んで慕っている二ッ岩マミゾウの部下のうちの一人だ。今は師匠に頼まれて、私が面倒を見ている。
キヌは真剣な表情を浮かべて私の言葉に頷いてくれる。今まで弟子を取るようなことはなかったから、こうして敬い混じりの反応をしてくれることに、不思議なこそばゆさを感じる。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お」
私の声を真似て、一音一音を区切りながら声にしていく。でもそれは、これから自分が出す音がどうなるかと確認しながらやっているようで、たどたどしい印象がある。舞台に立って大勢の人に声を届けるには不十分だ。
でも、私はその声に感心を抱く。別に、今は舞台に立つための練習をしているわけではないのだ。
「おー、前よりも良くなってる」
私の言葉に、キヌは嬉しそうに表情を綻ばせる。キヌは表情豊かで、私が表情を学ぶのに最適な存在でもある。師匠がそこまで考えて彼女のことを任せてくれたのかはわからない。
私は今、人の姿に化けられるようになってから日の浅いキヌに喋り方を教えている。本来は親のどちらかが妖怪狸ならその親が、そうでなければ師匠みたいな狸の頭やそうした役割を与えられた狸が人間の騙し方も含めて、人の姿での喋り方を教えているそうだ。
そうした慣習があるにも関わらず私がそうした役割の一部を任されているのは、キヌが他の妖怪狸たちよりも喋るのが苦手だったからだ。騙し方だとかは教えることができなくとも、声の出し方なら師匠よりも上手く教えることができるという自負がある。私の教えられる発声方法は、人の前に立ったときのためのものだから、普段喋るのには少々大げさかもしれないけど、これまでのキヌの経過を見る限りでは、別段問題はなさそうだ。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お」
キヌは再び基本の音を発する。今度はさっきよりもたどたどしさが抑えられている。喋るのが苦手だとは聞いていたけど、この様子だととっかかりがわからなかっただけなのかもしれない。
「その調子その調子」
こうして順調に前へと進んでいく姿を見ていると、嬉しいという感情が沸き上がってくる。それを原動力にして、もっとしっかりと丁寧に教えてあげようという気になる。
「じゃあ、次行こう」
キヌは私の言葉にこくこくと頷き返す。私はそのまま続きを始めようとしてやめる。よくよく考えてみれば、今やっていることに対して、先ほどの反応の仕方はあまりよろしくない。
「この時間は出来る限り喋るようにして」
今やっているのは喋る練習だ。普段の会話では身振り手振りで言葉を伝えるのは構わないけど、今はできる限り口を動かしてほしい。
「わかった」
音を意識しすぎて、平易な印象を受ける言葉が返ってくる。私や師匠の言葉にすぐに反応できるから、言葉を知らないというわけではないのだ。ただ、声を出すという行為に慣れていないというだけだ。教え始めの頃は少し間が出来てしまっていたのと比べると、随分とよくなっている。がんばってくれているから、自然と話せるようになるのもそう遠いことではないかもしれない。
私は笑顔を浮かべられるよう意識しながら、今度こそ練習を再開させる。残念ながら、表情が動いているような感じはしない。師匠の前だと、ほんの少しではあるけど動くんだけどなー。
「か、け、き、く、け、こ、か、こ」
キヌの声を牽引するように、くっきりと音を発していく。手本となる音だから手を抜くことはできない。私が出せる限りの最高の音を聞かせるようにする。
キヌは発音を自らの舌に刻み込むかのように、私の声に続く。洗練されていない声でも、そこに真剣さが混じっていれば、それもまた私の耳を心地よく震わせるのだった。
「おーい、お前さんら、そろそろ昼飯にするぞい」
発声練習を終えて、単語や文章を反復したり、実際に言葉を交わして会話をするなどして喋る練習をしていた所に、師匠が顔を覗かせる。いつの間にか昼になっていたようだ。キヌが真面目に取り組んでくれるから、私も時間を忘れて、教えることに徹してしまう。
「わかった。じゃあ、キヌ、続きはご飯食べてからにしよう」
「うん」
キヌが私の言葉に頷く。
それから、私たちは立ち上がって師匠の傍へと向かう。発声練習はできるだけ身体の奥から声を出すために立ったままやっているけど、それ以外の時は畳の上に座っている。自然と声を出す方法を練習するなら、立ったままやっても無駄に疲れるだけだ。
「こころ、キヌの進歩具合はどんな感じじゃ?」
廊下を歩きながら師匠がそう聞いてくる。後ろを歩くキヌの方をちらりと見てみると、緊張した面持ちでこちらを見ている。
悪いところがあったら言いにくそうだなーと思うけど、幸い軌道に乗り始めてからは特に問題もない。
「まだぎこちない部分はあるけど、確実に良くなってきてる。最初は私が教えて何とかなるのかなーって思ってたけど、この様子なら安心して教えてられる」
もう一度キヌの方を見てみると、嬉しげに表情を綻ばせていた。硬い表情をしているよりはこうして柔らかな表情を浮かべてくれていると、私も気が楽になる。人の上に立つのは、中々負担が大きいのである。相手が緊張していればいるほどに。
私は一人でもこれだから、大勢の狸たちの上に立ってそのことに対する心労を見せない師匠は本当にすごいと思う。
「うむ、そうか。それは何よりじゃ」
師匠が満足げな表情を浮かべて頷く。私の働きは、まだまだ師匠の期待を裏切ってはいないようだ。そのことに安堵すると同時に嬉しさを感じる。ほんの少し顔から力が抜けているのも感じる。
そうやって簡単な報告をしている間に居間へとたどり着く。師匠が作ってくれた昼食の並べられた机の周りには、十何匹かの狸がいる。獣の姿のままなのが大半だけど、師匠やキヌのように人の姿となっているのがほんの少しだけいる。皆、料理の方へと視線を向けてそわそわとしていて、早く料理に手を付けたがっているというのが窺える。
師匠が空いた座布団の上に腰を下ろすと、私はその隣に座り込む。キヌは私の隣だ。
師匠の部下が全員集まるような場だと、座る位置も細かく決められているけど、今は緩い席なので誰もそうしたことは気にしていない。
「では、いただくとするかの」
師匠が手を合わせると、私も含めて人の姿をしているのがそれに続く。獣の姿のままなのの中にも、それを真似しようとしているのがいるけど、少々滑稽な姿となっている。身体の構造的に無理があるようにいつも思うけど、ああした努力が人の姿となったときに役立つのかなーとも思ったりする。
「いただきます」
師匠の声に残りの者たち全員で唱和する。獣の姿のままなのは鳴き声をその代わりとしている。
そして、師匠が手を離すと同時に、獣の姿のままの狸たちが一斉に食事にがっつき始める。それとは対照的に、人の姿をしているのはちゃんと箸を使って、落ち着いた様子で食べている。
私も箸を取って、師匠が作った鶏の唐揚げを取る。衣はさくっとしていて、肉には味が染み込んでいてとても美味しい。
師匠の所に居候させてもらうまでは、食べる必要がないからと食事を摂るなんてことはなかった。でも、こうしてついでに食事の席に混ぜてもらっているうちに、楽しみの一つとなっていた。
「そうじゃ、こころ。いつでもいいんじゃが、いつかキヌを人里に連れて行ってやってくれんかの」
唐揚げを噛みしめて飲み込んだところで、師匠が話しかけてきた。
「それくらいならお安いご用だけど、なんで私に? いつもは師匠が連れて行くか、一人で行かせてるのに」
師匠は人間社会を学ばせるためと言って、小物に化かした狸を懐に持ち運んで人里に足を運ぶことがある。そして、ある程度人間社会のことがわかれば、完全な人の姿に化けさせて、人の社会の中へと紛れさせる。ちなみに、完全な人の姿というのは本来の姿を連想させない上に、妖怪であると悟らせない姿のことを言う。師匠やキヌの今の姿は、それはそれで本来の姿らしい。
まあそれはいいとして、そうした流れができているにも関わらず、キヌのことを私に任せる意図が掴めない。
「お前さんの方が里に馴染んどるようじゃから、見え方も変わってくるんじゃないかと思っての。それに、こもりっきりで喋る練習をしててもつまらんじゃろう?」
どうやら私への助言でもあったようだ。でも確かに言われてみれば、事前に決まりきった文句を繰り返し練習したり、大して盛り上がらない世間話をするよりはずっと良いはずだ。キヌも全く喋れないというわけではないから、次からはそうしてみよう。
「確かに師匠の言う通りかも。じゃあ、次からはキヌを人里に連れて行って、実践形式で学ばせることにする」
「うむ、頼んだぞえ」
「キヌも、それでいい?」
隣に視線を向けながら聞いてみると、茶碗を持ち、箸をくわえたままキヌがこくこくと頷く。異論はないどころか乗り気のようだ。
じゃあ、どこに連れて行くか考えておこう。師匠の口振りからすると、私がよく行く場所へと連れて行くのが良さそうだ。
そうして、明日のことをつらつらと考えていると、
「頼んだとは言ったが、せめて食事を済ませてからにしたらどうじゃ?」
呆れたような声色で師匠にそう指摘されてしまう。知らずのうちに手が止まってしまっていたようだ。
初めて自分で世話をしている存在だから、そちらに集中してしまうのはしょうがないことなのだ。
◆
翌日、早速キヌを人里へと連れてきた。今まで来たことがないというわけではないらしいけど、自分の足を使って訪れるのは今回が初めてということらしい。きょろきょろと辺りを見回すその顔に、期待が滲んでいるのがわかる。
里の入り口付近に人はあまりいない。だからこそ、人外の私たちの姿はかなり目立っている。こちらが危害を加えるつもりがなければ誰も騒がないので、案外人通りが多い方が目立たなかったりする。
こちらに気づいた人は、笑顔を浮かべて挨拶をしてくれる。私は笑顔の代わりに、出来る限り明るい声でそれに応える。いつものことではあるけど、思っている以上に私のことを好意的に受け入れてくれている人が多いいんだなーと思う。
「どこか行ってみたいところとかある?」
あらかた挨拶がすんだところで、キヌにそう聞いてみる。
事前に行こうと思っている場所は決めてあるけど、折角だから希望を聞いてみようと思った。別にここに来るのが今日限りというわけでもないのだ。
「かんみどころ、に、いって、みたい」
前々から行ってみたいと思っていたのか、悩むこともなく即答だった。師匠の懐に入っていたら近づくことはあっても、口にはできないだろうから憧れを抱いていたのかもしれない。森の中にいたら、甘い物を食べる機会なんてほとんどないし。
「じゃあ、まずはそこに行こう。大通りの方は人が多いから、はぐれないように付いてきて」
キヌは私の注意に頷き返してくれる。でも、その直後に何かを思いついたような表情を浮かべた。
なんだろうか。
「て、つないだら、はぐれ、ない」
私の方へと手を差し出しながらそう言ってきた。確かにそうすれば、はぐれるようなことはない。
「それは名案」
というわけで、キヌの提案を蹴る理由は何一つないから、差し出された手を握る。少し体温が高い気がするのは、私が付喪神だからなのか、それともキヌの体温が少し高めなのかはわからない。ただ、その暖かさが心をほっとさせてくれるのは事実だった。
なんとなしにキヌの方を見てみる。すると、どことなく嬉しそうな表情が視界に入ってきた。最初の頃に比べると、随分と懐かれたものだなーと思う。警戒はされてなかったけど、距離がもっと開いていた。
と、視線に気づいたキヌがこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げる。
「ん、キヌは随分と私のことを気に入ってくれたものだなーと」
「こころ、が、しんけんに、あいてを、してくれる、から」
真っ直ぐにこちらを見てそう言ってくれる。私は自分に出来る限りのことをしているだけだけど、そんなふうに評価してもらえているんだなーと感慨を抱く。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。さて、立ち止まってても仕方ないから、そろそろ行こうか」
「うん」
キヌは笑顔を浮かべて頷く。その声はどことなく浮ついているのだった。
「いらっしゃい! おやおや、こころちゃんじゃない。その子はあんたの友達かい?」
キヌの要望通り、私がときどき向かう甘味処に入ると、鈴の音と共に店員のおばちゃんが木の勘定台の向こう側から出迎えてくれた。素朴ながらもはきはきとしたその声は、聞いていると元気が出てくる。
「んー、弟子というか教え子というか、大体そんな感じ?」
やることさえ明白になっていればいいと思っていたから、こうだと定義することはなかった。説明するときに少々面倒くさいから、決めておくべきかもしれない。弟子というのは大仰な感じがするから、教え子の方がいいだろうか。
「踊りを教えてあげてるのかい?」
「ううん、喋り方」
キヌが教えてほしいというなら教えても良いけど、今は喋れるようになるというのが第一だ。
「うーん……、そうかい。まあ、がんばりなさい」
何とも言えない調子での応援が返ってきた。まあ、妖怪狸は人間を騙すものだから、それを助長するようなことをしている私の行為は、受け入れがたいのだと思う。
そんな妖怪狸の大将と関係がある私が人里で受け入れてもらえているのは、どうしてだろうかと思って聞いてみたことがある。曰く、人を騙すことができそうになさそうだからとか、騙されやすそうだから狸には化かされることがなくなりそうでよかったからとか、逆に騙されやしないかと心配してそれどころじゃないからだとか。
……理解はできるけど、納得したくない。
「そんなことよりも、今日はどうするんだい?」
ちょっと居心地の悪さを含んだ空気を追い出すように世間話を終わらせる。私としても、変な空気が続くよりはありがたい。
「まだ決めてないから考えさせて」
「じゃあ、ゆっくりと考えておくれ」
そう言って、おばちゃんは勘定台の前に立ったまま待ち始める。
「キヌ、何にする?」
木の板を組み合わせたお品書きの方へと視線を向けながらそう聞く。キヌは私の視線を追って、墨で書かれた文字をじっと見つめる。私もそれを横で眺めながら、何にしようかなーと考える。
そういえば、文字は読めるんだろうか。教えてほしい、とは言われなかったから知ってるだろうとは思うけど。
「こころは、どれにする?」
「んー、最近寒くなってきたからあんまんに挑戦してみようかなー、と」
「……はじめて?」
「うん。今までこういうものって食べたことなかったから」
普通の食事さえすることがなかったのだから、当然こういったものもほとんど食べたことがない。つい最近までは、名前を聞いてもぴんんとこなかったものばかりだ。おばちゃんが丁寧に教えてくれたから、どういうものなのかくらいはわかるようになった。
「おんなじ」
こちらに声を向けられたのを感じ取って、キヌの方を見てみると嬉しそうな表情と共にじっとこちらを見ているのが視界に入ってきた。こんな些細なことでも嬉しいんだなーと思うと同時に、キヌのことがいじらしく思えてくる。
そして気が付けば、私の手はキヌの頭を撫で始めていた。柔らかな髪の感触が癖になりそうだ。キヌも気持ちよさそうに目を細めている。
「……それで、キヌは何にするか決めた?」
雰囲気に流されて、注文を何にするかと聞かれていたのを忘れかけていた私は、改めてそう質問する。心地よさの虜となった手は、今もなおキヌの頭に置かれている。
「じゃあ、こころと、おんなじの」
なんとなく予想していた通りの答えだった。
注文を伝えようとおばちゃんの方を向くと、ほのぼのとした表情が目に入ってきた。邪魔になっていたかなー、と思っていたけど、そうでもなかったようだ。
「あんまん二人分お願いします」
「はいよ。お代は――」
布巾着の財布を取り出して、おばちゃんに示された代金を支払う。ちなみに、私が出したのは本物のお金だ。時々、大通りの方で能を舞うことがあり、そのときにおひねりとしてもらったものだ。私は見てもらえるだけでも感謝しているし、満足もしているけど、突き返すのも悪いと思って受け取っている。
最初は使い道に困っていたけど、適当にお店に入るとかしてお金の使い方を覚えていった。生活するための貯蓄を考えなくても良いというのは楽でいい。
「うん、丁度だね。じゃあ、適当な席について待っといておくれ」
そう言って、おばちゃんは厨房へと姿を消す。
私は、どこに座ろうかとちらほらと他の客の姿が見える店内を見回す。本当は店先の長椅子に座って、人の流れを眺めているのが好きだけど、木枯らしの気配を感じさせる外にじっと座っているというのは苦行にしかならないだろう。だから、折衷案として窓際の空いた席にした。
「すわり、にくい」
キヌが私の隣に座ってそう言う。尻尾を潰さないように浅く腰掛けているから、確かに疲れてしまいそうだ。
そういえば、師匠の家だと座布団か床に直に座るしかなくて、背もたれの付いた椅子は置かれていない。そのことに関して今まで気にもしたことがなかったけど、尻尾があるから置いていないのかもしれない。
座面と背もたれの間の部分に尻尾を通せば、座りやすくなりそうだ。そう思いついて、伝えようとする。
でも、それよりも一瞬早く、キヌの身体が白い煙に包まれた。煙が晴れると、狸の特徴が見えなくなったキヌの姿が現れる。
そして、邪魔するものがなくなったところで、改めて椅子に座り直す。
「おー、お見事」
妖怪狸たちにとって、耳と尻尾を消すのがどれだけ難易度の高いことなのかはわからないけど、目立った予備動作を見せることもなく、すぐさま姿を変えることの出来たキヌの手腕は鮮やかだと思う。
「ばけるのは、とくい」
誇らしさを声に乗せてそう言う。上手く化けられることを褒められるのは、妖怪狸にとっては大きな意味を持つことなのだろう。
「だから、あとは、うまく、しゃべれるように、なる、だけ」
ゆっくりと言葉を紡いでいく。そこに焦りは見られない。だから、前のめりになりすぎて転んでしまうことはないと思う。彼女なら、そのうちしっかりと喋れるようになるはずだ。
「それまで、キヌを導いていくから任せて」
「うん、たよりに、してる」
キヌは私への信頼がにじみ出ている笑顔を浮かべる。この信頼を裏切らないためにも、もっとがんばらないとなーと思うのだった。
お品書きを眺めてキヌにそれぞれどういう物なのかを教えながら待っていると、顔と同じくらいの大きさの白い饅頭の載った皿を三つ乗せた木の盆を持ったおばちゃんがこちらの席に向かってきた。
そこで私は首を傾げる。
「おまちどおさま! ゆっくりしていっておくれ」
おばちゃんは木の盆を私たちの前のテーブルに乗せると、すぐに離れて行ってしまう。私は慌ててその背中を呼び止める。
「ちょっと待って! 一個多い」
「おや? 確かにそうだねぇ。間違えるとは思えないんだけど」
こちらに戻ってきたおばちゃんは三つ並べられた皿を見て不思議そうに首を傾げる。確かに二人分をそう簡単に数え間違えるとは思えない。
と、そこまで考えて、とある人物の顔が思い浮かぶ。絶対にそうだという証拠があるわけではないけど、間違ってたら間違ってたでいいや。
「この一個多いのも買っていい?」
再び財布を取り出して、お品書きをちらりと確認しながらそう言う。
「それは押しつけちゃってるみたいで悪いわ。だから、貰ってちょうだい」
「ううん、それこそ気が引けるから買わせて。たぶん、素直じゃない知り合いの仕業だから」
おばちゃんの答えは予想通りのものだった。この先に押し問答が続くだろうと考えて、代金を彼女の手の中へと押しつける。そうすると、困ったような表情をこちらに向けられる。そんな表情を向けられると、私も困った面を返すことしかできない。こうやってややこしいことになるから、素直に姿を現せばいいのにと憤り混じりに思う。
「そうかい? まあ、こころちゃんがそこまで言うなら受け取っておくけど……」
納得もしていないし、変わらず申し訳なさそうだけど、受け取ってくれるようだ。
「とにかく、ゆっくりしとっとくれ」
おばちゃんはなんとも言えない雰囲気を吹き飛ばすようにそう言って、店の奥へと向かっていく。空気の流れを変えるのに手慣れてるなー、と思う。
それから、湯気を立ち上らせるあんまんが乗った皿を私とキヌ、それから向かい側の席の前に置く。
「しりあいって、もしかして、あのひと?」
「うん、だと思う。それ以外に考えられないし」
キヌの言葉に頷きながら正面をじっと見据える。
「こいし、いるなら出てきて」
誰も座っていない席へとそう呼びかける。正確には姿を消しているというわけではないけど、主観的にはそう捉えることしかできない。
「……」
あんまんから立ち昇る湯気の向こう側をじーっと見つめる。
「……」
そう簡単には出てこないだろうから、ひたすらに見つめる。
「……こころ。ほんとに、いるの?」
「んー……、どうなんだろ」
キヌの疑わしげな言葉を聞いて、私もいないのではないだろうかと思い始めてくる。早とちりだったかなーと思いながら、空席の前に置かれたあんまんをこちらへと引き寄せる。いないのなら、キヌと分けることにしよう。
そう思って、キヌに食べ始めようと言おうとして――
「わっ」
突然耳元に声が聞こえてきて、全身がびくりと震える。それほど大きな声ではなかったけど、驚かせるという役割を果たすには十分すぎるものだった。何が起きたのか理解できた今でも、心臓が飛び出てこんばかりに高鳴っている。
隣をちらりと見てみると、胸を押さえて鼓動を抑えようとしているキヌの姿が目に入った。
私もキヌも完全に気を抜いて、隙だらけとなっているところを狙われた。他人を驚かすのにかなり手慣れているということがわかる。
私は恨めしさを視線に込めながら振り返る。表情では伝わらなくとも、雰囲気だけでも伝わるようにと思いながら。
「あはははっ、二人ともいい驚きっぷりだったよ」
藍色の閉ざされた第三の目を胸元で揺らすサトリの少女、古明地こいしは世間話に対して笑い返すような声色でそんなことを言ってくる。でも、身振りは大笑いしているときのもので、少し癖のある不思議な色合いの髪がそれに合わせて揺れている。そんなわざとらしさが腹立たしい。単に注目を浴びないように声を周りに合わせてるだけなのかもしれないけど、そんなこと私の知ったこっちゃない。
「こーいーしー?」
表情に感情を込めようとしても、ほとんど思い通りにはいかない。その代わりに、お調子者を咎める怒りを声の中へと込められるだけ込める。
「はいはい、このくらいのことで怒らない怒らない。こんな些細なことに捕らわれてる間に、せっかくのあんまんが冷めちゃうよ? 怒りの熱と違って、美味しい物の熱は普遍的に価値ある物なんだから」
こいしはそう言いながら、いつの間にか手に取っていたあんまんへとかぶりつく。何を言っても無駄なんだろうなーと思うと、怒る気も失せてくる。それに、こいしには言われたくないけど、もっともな言葉ではある。
「……キヌ、冷める前に私たちも食べようか」
ちょっぴり疲れを滲ませた声でそう言う。
少し時間が経って落ち着いたらしいキヌはこくりと頷き返して、あんまんを両手でそっと持ち上げる。それから、危険の有無を確かめるように鼻先へと持ってきてにおいをかぎ始める。人間でも同じようなことをする人はいるけど、元が狸なせいか動物っぽい印象を受ける。
そして、あんまんの白い柔肌へとかぶりつく。口をあまり開けていなかったせいで、餡には届いていないようだ。ある程度租借して口に入れたぶんを飲み込むと、本懐を遂げるように、再びあんまんへとかぶりつく。
今度は予想外の熱さにでも襲われたのか、目を白黒とさせている。でも、火傷するほどではなかったようで、ゆっくりと表情は弛緩して、笑顔が広がっていく。どうやらあんまんの味はキヌの口に合ったようだ。
笑みをそのままに、それでいてどこか真剣に見える表情も浮かべながら、息を吹きかけて一口一口を味わっていっている。
さて、いつまでもキヌが美味しそうに食べているのを眺めていないで、私も食べるとしよう。
あんまんを手に取り、両手で包み込んで、しばしその温かさに和む。そして、手のひらに温度が馴染んだところで、口元へと運んでいく。キヌが一口で餡にたどり着いていなかったのを思い出しながら、気持ち大きめの一口でかぶりつく。
すると、目論見通り少し多めの生地と一緒に餡が口の中へと入ってくる。焼け付くような熱さの餡は、そうなることを知らなければ驚いてしまうのも仕方がないと思う。熱い餡の危うさを事前に知っていた私は、舌を熱さに慣らせながら、餡の甘みを楽しむ。甘さが幸せの素であるということを知ったのはつい最近のことだ。もったいないことをしていたものだと思う。
「じー……」
しばらく幸せを噛みしめるように、一口一口を大切にして食べていたら、後ろからそんな声が聞こえてきた。それをわざわざ口にするのはどうなんだろうか。
「えーっと、なに?」
振り返ってみると、半分ほどになったあんまんを持ったままこちらをじっと見つめるこいしと目が合った。そこに込められている意図はさっぱりわからない。
「べっつにー」
言いたいことがあるけど、素直には言いたくないといったところだろうか。慣れてくるとわかることも増えてくるけど、面倒くさいことに変わりはない。
あんまり気にしても仕方がないかなー、と思うことにして食べかけのあんまんへと向き直る。でも、二口くらい口にしたところで再びこいしの方へと振り向く。一度気にすると、気にしまいと思っても意識の端に引っかかってくる。
「向こう側空いてるから座ったら?」
それならいっそ、視界の中にいてくれる方が良かった。そっちの方があまり気にもならないし。
「ここでいい」
「疲れない?」
「背もたれ借りるから」
そう言うなり、私の背中へと寄りかかってきた。背もたれ扱いされている、というわけではないと思う。
となると、
「一人で座ってるのが寂しいから?」
向かい側の席に座ったところでそう距離が離れるわけではないけど、その位置から私の横に誰かが座っているのを見れば、多少なりとも疎外感があるかもしれない。
「そんなことあるわけがないじゃん」
「そう?」
まあ、素直に答えてくれるとは思っていなかった。だから、刺々しい印象の言葉は気にしないことにする。視線と気配という不確かなものではなく、重みと温かさで存在を伝えてくれるようになったから、あまり気も散らなくなったし。
もしかしたら、気にかけてほしかったのかなーと思う。確認はしないでおこう。
さあ、今度こそ食べることに集中しようと思っていると、キヌがこちらに椅子を寄せて寄りかかってきた。ちらりとその表情を窺ってみると、口を尖らせてる。
……面倒なことにならなければいいなー。
◆
店員のおばちゃんの微笑ましげな表情に見送られながら店を出る。左右にはこいしとキヌがいる。二人ともが私の腕を掴んでいるから歩きづらい。自分が嫉妬に挟まれるようなことがあるとは思っていなかった。
幸いなのは、二人がいがみ合ってはいないということだろうか。だから、私も大して構えることもなくいられる。二人に挟まれてるからあんまり寒くないなーと思う余裕さえある。このまま当初の予定を追っていくという形でいいだろう。
「キヌ、他にどこか行ってみたいところはある?」
その前に、他にも要望がないかを聞いてみる。
「ん……、いまは、ない」
少し考え込んでから、こちらを見上げてそう答えてくれる。
「そう。じゃあ、次は私がよく行く場所に行ってみよう」
「よく、いくばしょ?」
「うん。ここからもうちょっと行ったところの広場。時々、そこで踊らせて貰ってる」
行き先を指さそうとするけど、腕は上がらなかった。忘れていたわけではないけど、反射的な行動というのは抑えにくい。
「こころの、おどり、みたい」
「他に何かやってる人がいなかったらね」
広場では私以外にも芸の類をやってる人がいることもある。有名なのでは、アリスさんの人形劇とかプリズムリバー楽団のライブとか鳥獣伎楽の歌のような何かとか。後は芸ではないけど、早苗さんによる宗教勧誘とか白蓮さんによる説法とか神子さんによる修行の勧めだとか。そんな感じで、人里の外に住む者たちがよく使ってる。
文化が妖怪もしくはそれに近しい者に依存しているなーとは思うけど、幻想郷の仕組み的には仕方ないかなーとも思う。人間の味方でありたいとは思うけど、わざわざ自分たちが存在するための土台を壊そうとは思わない。
「とりあえず行ってみようか」
「うん」
キヌがこくりと頷く。
「こいしも行くよ」
「ん」
こいしにも声を掛けると、短い返事だけがあった。なんだかしおらしい気がするけど、どうかしたんだろうか。
「こいし? 調子悪い?」
「全然そんなことないけど? というか、ここで突っ立ってるのも飽きたから、さっさと歩いて」
私はこいしにせっつかれて歩き始める。
うーむ、キヌにばかり話しかけてるからいじけてるのだろうか。だったら、自分から話しかけてくればいいのになーと思うのだった。
中央に大きな楠が植えられた広場には、人垣ができあがっていた。その隙間から聞こえてくるのは、明朗に物語を紡いでいく声だ。先にこの広場を使っている人がいたようだ。
その声の人物が見せているもののファンである私は、自然と人垣へと吸い寄せられていく。正面から近づいていくのは難しいけど、側面からなら割と簡単に距離を詰めることができる。
人垣の向こう側で行われているのは、人形遣いであるアリス・マーガトロイドさんによる人形劇だ。人形一体一体の動きは細かく、表情も精巧だ。それでいて、人形特有の愛嬌は損なわれていない。
耳に入り込んでくる物語を聞く限りでは、すでに終盤を通り越して締めに入っているところのようだ。最初から見ることができなかったのは残念だけど、人形の動きだけでも見る価値は十分にある。
「――ありがとうございました」
アリスさんが礼をすると、拍手の音が響き始める。私もそれに続こうとしたけど、例によって実行することはできなかった。
アリスさんが顔を上げると、観客の一部が前へと出てアリスさんの方へと近づいていき、お金などを差し出し始める。
アリスさんは舞台の裏に隠していたらしい籠を人形に持たせて、傍らに浮かべる。そして、観客たちにそこに入れるようにと言って、それぞれの人に向けて笑顔を浮かべて礼を述べている。中には、そんなアリスさんに見惚れている人もいた。アリスさん、顔の作りが綺麗だからなー。
アリスさんの観客は徐々にさばけていく。でも、広場にいる人は減らない。私の周りの人の密度が増えていっている。
「次はこころちゃんが能を見せてくれるのか?」
どうやら、アリスさんの観客から私の観客へと変わったようだ。元からここで踊るつもりだったけど、期待があるとなればやる気もそれだけ増えてくる。
「二人とも、終わるまで離れてもらってていい?」
「うん。こころ、がんばって」
キヌはすぐに私から離れると、ぐっと両拳を握りしめて私の応援をしてくれる。
それに対して、こいしは少し躊躇するような様子を見せてから、無言で私から離れて、観客の最前列へと混じった。
私は観客から少し距離を取って、必要な領域を確保する。それから、一対の扇子を取り出すと、周囲に渦巻く期待を取り込むようにすっと息を吸い込んで、精神を張り詰めさせる。観客たちも静かになって、私を見つめてくる。
「では、始めさせていただきます。演目は――」
始まりの区切りを入れる。そして、声の調子を変えながら物語を唄う。面と全身を使って登場人物たちを舞で表現する。
能を舞っているときは、私から私たちとなる。秦こころという妖怪の主体である私は自身を俯瞰して、私以外の私たちにそれぞれの役割を任せる。
でもそれは、私が踊っていないというわけではない。能を舞うことの楽しさ、それを見た人々からの賛辞を受けるという喜び。それらは紛れもなく私のものだ。私たちの活動は私に集約されて、私のものとなる。以前の私は私たちを表現するための媒体でしかなかった。
場面が変わる。扇子を納めて一本の薙刀を取り出す。勇壮な調子で唄いながら、演武によって観衆たちの視線を翻弄する。その数の分だけ、うまくいっているということを保証してくれている。
そうして私は、舞に唄にと更に没頭していく。
「ありがとうございましたー」
演目が終わって、観衆へと礼をする。ぴんと張っていた周囲の空気が弛緩して、続けて拍手の音が沸き上がる。どれだけ人前で舞うことに慣れても、この瞬間の価値は色褪せない。充実した表情を浮かべてくれている人が多くいれば、それだけ私も満たされる。
拍手も収まってきて、さてキヌたちと合流しようと舞台を畳もうとする。観客がいてそこで演じる者がいればそれだけで舞台としては十分だと思う。まあ、私は用意するものがほとんどないからそう思えるんだけど。
「こころさんっ、今日も最高でした! これ、受け取ってください」
キヌとこいしの向かおうとするけど、おひねりを渡そうとしてくる人に阻まれてしまう。今、私の前に立ちはだかっているの一人だけど、その後ろには控えがいる。
受け取らずに立ち去らせてくれるような雰囲気ではないなー。
「えっと、さっきアリスさんにも渡してたけど、だいじょうぶですか?」
遠慮せずに受け取るようになったとはいえ、そのことを考慮すると気が引ける。
「大丈夫です。こころさんが気に掛けるようなことではありませんから」
でも、こちらの気遣いと関係なくはっきりとそう言われる。後ろの人たちもそれに同意するように頷いている。考えを改めて立ち去ろうとする人はいない。そういう人はとっくに離れた場所にいるのだろう。
いくら言っても聞きそうにないから、諦めて適当な面を一枚裏返して私の前に浮かべる。何度か手で持ちきれなくなって、あたふたしていたときに思いついた方法だ。
「ありがとうございますっ」
お礼を言うのはこっちの方のはずなのになー、と思いながら一人一人に挨拶やお礼を返していく。
そして、私の周りが落ち着いた頃には、面の中にそれなりの小銭が貯まっていた。うーむ、無理して出してくれた人がいることを考えると使いづらい。でも、使わないわけにもいかない。師匠が言っていたけど、こうした貨幣は使われなければいけないらしい。なんとも複雑だ。
「こころ、すごく、よかった」
こちらに駆け寄ってきたキヌが、茶色の瞳をきらきらと輝かせて私を見上げてくる。そんな素直な賞賛に、私はついつい頭を撫でて応えてしまう。
「ありがとう」
キヌは心地よさそうに目を細める。キヌの相手をしていると、妹がいるとこんな感じなのかなーと思うことが多々ある。
と、不意に背中の辺りに重みがかかる。私のではないけど、実際に妹をやってるのが私に相手にされなくていじけているようだ。
「人気者ねぇ」
「アリスさんの人気もそんなに変わらないと思う」
「いやいや、そういうことじゃなくて、今の貴女の周りのこと」
キヌとこいしのことを指さされて、私の勘違いに気が付く。人気というよりは、気に入られているという感じがする。まあ、大した違いではないと思うけど。
「二人同時に相手にするのって、意外と大変」
「端から見ててもそう思うわ。それで、その子は?」
アリスさんが指さすのは、私に頭を撫でられていたキヌだ。
「師匠の部下の一人。ちゃんと喋れるようになるように面倒を見てる」
そう言いながら、キヌをアリスさんへと向かい合わさせる。喋る機会はできるだけ作ってあげないと。
「キヌ、です。はじめ、まして」
ぎこちない声とは対照的に、綺麗な動作でお辞儀をする。
「初めまして。私はアリス・マーガトロイドよ」
アリスさんはにこりと笑顔を浮かべて、キヌの自己紹介に応える。かと思うと、すぐにこちらへと視線を向けてきた。
「それで、師匠って確かあの狸の大将のことだったわよね? ということは、その子も妖怪狸?」
「うん」
そういえば、キヌは耳と尻尾を隠したままだった。なんとなく物足りなさを感じていたのはそのせいだったようだ。
「なら、将来騙されないように気を付けとかないといけないわね」
アリスさんはキヌの姿を自らの脳に刻み込むように、じっくりと観察をし始める。それに対するキヌの態度は実に堂々としたものだ。今とは別の姿を用いるつもりでも、そこまで平静を保っていられる精神力はすごいと思う。
「いまのすがたを、おぼえても、むだ」
「ふーん、やっぱりそうなのね」
納得したような態度を取りながらも、観察をやめようとはしない。何か一つくらい特徴が残ると思っているのだろうか。それが正しかろうが正しくなかろうが、今の私にできるのは、二人を見ていることだけなんだけれど。
「まあ、なんであれいつか私を騙すようなことがあれば、絶対に見抜いてあげるわ」
「のぞむ、ところ」
なんとなくだけど、アリスさんが悪乗りしてキヌがそれに乗っかかっているという印象を受ける。私にはわからないけど、二人の間で何か通じ合うところがあったんだろうか。
「相性良さそうだね、あの二人」
「うん。そのうち共謀して何かやらかしそう」
そう言葉にしてみると、なんだか嫌な予感がよぎった。キヌがどういうことを好むのかというのはまだ把握し切れていないけど、アリスさんが好きなのは他人をからかって、その反応を見て楽しむことだ。高確率で私の方へと被害が向かってきそうだ。
「お望みなら、私も荷担してあげようか?」
相変わらず私に寄りかかるような体勢のままだから顔は見えない。でも、悪戯を企むような表情を浮かべている姿を容易に想像することができる。
「いやいや、それはやめて」
三人同時に相手にするというのはきついものがある。そもそも、こいしとアリスさんのどちらもが、一人だけを相手にしたところで勝てる気がしない。
「ふーん、つまんない返答だねぇ。じゃあ、しょうがないから、そんな事態に陥ったときは、仲間でいてあげよう」
「うん、頼りにしてる」
わかりやすく助けてくれるということはないだろうけど、なんらかの助けにはなってくれると思う。
「……そうやって無条件で他人を信じてたら、足下掬われるんじゃない?」
「こいしならだいじょうぶかなーって思ってる」
「む……」
言葉に詰まったような声が聞こえてきた。それと同時に、私の背中へと頭を押しつけてくる。
相変わらず素直じゃないこいしなのだった。
あの後、キヌに私たちの様子を気づかれて嫉妬されたり、アリスさんにからかわれたり、人形劇を見たいと言ったキヌの要望にアリスさんが応えてくれてその劇を見たりしているうちに時間は過ぎていった。まだ暗くなり始めてはいないけど、夕飯を作るのを手伝うために、そろそろ帰らなくてはいけない。師匠を始めてとして料理をできるのがごく僅かだから、台所は慢性的な人手不足なのである。私もまだ包丁を握り始めたばかりなのだけれど。
「キヌ、そろそろ帰らないと」
アリスさんが人形を動かしているところをしゃがみこんで間近で見ているキヌへと声を掛ける。キヌはこちらに向かって頷くと、立ち上がってアリスさんと向き合う。
「ありす、きょうは、おもしろかった。ありがとう」
「どういたしまして。機会があればまた見てちょうだい。歓迎するわよ」
「うん。またいつか、みせて」
キヌとアリスが笑顔を見せ合う。お互いに波長が合っていたようで、短い時間の間に随分と仲良くなったように思う。予定になかった出会いは、キヌにとってはかけがえのないものとなったようだ。師匠が望んでるものとは違うんだろうけど、キヌの充実した表情を見ていると、それでも別に良いかなーと思えてくる。
「娘を見守る母親みたいな雰囲気」
こいしが視界の端からひょっこり顔を覗かせてくる。表情がそうなっていたわけではないだろうけど、ついつい触れて確認してしまう。
「そんなふうに見える?」
「見える見える。背中がそんな感じだった。正面から見たら、全然そんなふうには見えないけどね」
ふうむ、やっぱり表情はそう簡単に動かないようだ。まあ、のんびりとやっていけばいい。今のところ、焦る理由もないのだし。
「なに、やってるのっ!」
と、キヌの怒ったような声が割り込んできて、私の片腕を取る。すると、こいしも若干不機嫌そうな表情を浮かべたかと思うと、空いている方の腕に腕を絡めてきた。最後の最後も結局こうなってしまうらしい。
「気を付けて帰りなさいよー」
里の外へと向けて歩く私たちの背中に、他人事のような声を投げかけられる。まあ、実際アリスさんにとっては他人事でしかないんだけど。
「こいしは、いつまで付いてくるつもり?」
帰路の途中、いつまでも離れる気配のないこいしにそう聞いてみた。家まで付いてくるつもりだというのなら、それはそれで別にいい。ただ、意地を張って離れられなくなっていたりしないかなーと思ったのだ。
「こころには関係ない」
即答が返ってくるあたり、意地だけで付いてきているというわけではないようだ。それなら、あまり気にしないようにしてあげようか。
「まあ、夕飯に一人くらい増えたところでどうってことないと思うから、遠慮はしなくても良いよ」
折角だから、遠回しにそう誘ってみる。
「何勝手に私がこころの傍に居たがってるように思ってるの? 私はちょっと寒いから、手近なところにあった暖房器具に身を寄せてるだけ」
酷い言いようだった。まあ、嫌いな相手にわざわざくっつくようなことはないだろうから、別段傷付きはしないけど。
「こいしって、猫っぽい」
猫は飼い主を暖かい棒として扱っているのもいるという話をなんとなしに思い出しながらそう言う。こいしに対する猫のようだという評価は、そう間違ったものではないように思う。
「そんなこころは犬っぽい」
「面のこと?」
犬は尻尾を過剰なほどに振ることで自らの感情を周囲に振りまいているが、私の場合は頭の面が今のところは周囲に感情を知らしめている。それ以外は、別段犬らしいところもないかなーと思う。
「それだけじゃなくて、されるがままなところとか。うちにいる犬も割とそんな感じの子が多いし」
その言葉を聞いて脳裏によぎったのは、マイペースに構えながら、ちょっかいを出してくる猫の相手をする大型犬の姿だった。私たちの関係に割と近いような気がする。そう言う意味では、私は犬なのだろう。
そんなことを思っていると、正真正銘の狸に腕を引っ張られる。猫にじゃれつかれる犬のイメージに、身を寄せてくる狸の姿が追加される。受け入れられる面積が広くて良かったという話では決してない。
「こころ、わたしとも、はなし、して」
そう言ってせがんでくる。ここで要望通りキヌに話しかければ、こいしの機嫌を損ねそうだ。そして、こいしと話し続けていれば逆の結果が待っているだけだろう。天秤を揺らし続けるのは、精神的にあまりよろしくない。
「んー……」
話題を探す振りをして、最善の策を探す。要は私と片方のどちらかだけでなく、三人で話すことができればいいわけだ。別に私以外の二人を話させるのでもいいんだろうけど、折角なら私も混じっていたい。
「じゃあ、次に人里に来たときにこういうものが見たいとか食べたいとかある? こいしも何かあったら言って。参考にしてみるから」
「……八方美人め」
こいしが小声で私をそう評する。確かにそんな感じだけど、二人がちゃんと向き合っててくれたら、八方というか二方を気に掛ける必要もなかったはずだ。どっちの方が大切だとかなんだとか決めないといけない関係だというわけでもないのだし。
「じゃあ、私洋菓子店のパフェが食べたい」
私を酷評したかと思うと、そんな要望を出してきた。無茶な、というのが頭につく要望だ。
「今の季節だと売りに出されてないから」
あれだけふんだんに果物を使ったものは、よほどの保存技術がない限り年がら年中出せるものではない。もう少し早ければ、秋の果物で彩られたものが食べられたんだろうけど。
「なに、それ?」
キヌがこいしの言葉に食いつく。もしかして、今日の一件でお菓子好きにでもなってしまったんだろうか。
「アイスクリームの上に、果物とか生クリームとか乗せて飾り立てたデザートのこと。更にトッピングには、ジャムとかチョコとかシリアルとかが使われてる。その見かけはデザートの王様とも言えるべきもので、豪華さは他の追随を許さないほど。一度は食べてみないと絶対に損するよ」
やたら饒舌に解説をする。キヌがこいしが言葉にしたもののうち、どれだけのものを実際に食べたことがあるかはわからないけど、その語り口から美味しそうなものであるというのは確実に伝わっているだろう。かくいう私はパフェが食べたくなってきた。話には聞いたことはあるけど、まだ食べたことはないのだ。
そして、なんとなくこいしの狙いが読めてしまう。
「こころ、ぱふぇ、たべてみたいっ。いつ、たべれるように、なるの?」
期待混じりの声でそう言われる。一応、私がこいしに向けた言葉も耳に入っていたようだ。さすが上手く騙すことが一人前の証である妖怪狸だというべきか、感情に流されているように見せかけて隙がない。
「来年の夏くらいかなー。もしかしたら、もう少し早まる可能性もあるかもしれないけど、私も詳しいところはわからない。こいし、どうなの?」
私も純粋に疑問に思ったからこいしの方へと視線を向けると、若干つまらなさそうな表情を浮かべているのが目に入ってきた。やっぱり、上げて落とすつもりだったようだ。なんというか、非常に非難しづらい地味な嫌がらせだ。
「ちょっと早めの時期だと、花見パフェとかいって団子を乗せた変わり種があるね。まあ、冬が空けたばっかりだから、物足りない感じにはなってるけど。あとは――」
予想に反して丁寧に答えてくれている。これも先ほどの嫌がらせの一種なのかもしれないけど、私もキヌも少し得意げなこいしの声を聞き漏らすまいと耳を傾けざるを得なくなる。
適当に振った話題だったけれど、思いの外私の思惑通りに働いてくれている。私たちは一つに固まって寒さをしのぎながら、家路を進んでいくのだった。
Fin
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