古明地さとりが傾けた酒瓶から静かに流れ落ちていく無色透明な液体が、小さなグラスを満たしていく。
 彼女は酒を口にすることよりも、こうしてグラスに注ぐ行為自体を楽しんでいるようだ。ぼうっとした笑みを浮かべながら、流量を最小にするようにゆっくりと傾きを加えていっている。そんなことに楽しみを見出してしまっているのは、彼女が酔っているからなのかもしれない。日に当たることのない真っ白な肌は赤みを帯びて、紫色の瞳はどこか切なげにとろんと微睡んでいる。
 時間をかけて、グラスは九割ほどが満たされる。そこで、さとりは酒瓶を机の上へと置き、グラスをそっと持ち上げる。目線の高さにまで持ってくると、その澄み具合を確かめるようにグラスを揺らす。途中でそれ自体が楽しくなってしまったのか、無意味に揺らし続ける。
 しばらくそうしたところで、一口二口とこくりこくりと飲み流していく。でも、途中からは思い直したように舐めるようにちびちびと味わい始める。そして、向かい側にある空っぽのソファをぼんやりと見つめる。
 もともとこの部屋には、彼女が一人で使うためのテーブルと来客用にソファが向かい合うように用意されたテーブルとがある。彼女は一人しかいないにも関わらず複数人用のテーブルに着いているということになる。
 わざわざこちらに座った彼女の瞳は、誰かがいることを求めているようだ。切なげに潤んだ瞳からは、今にも寂しさが溢れ出してきそうである。
 けれど、元来感情をあまり表に出さない彼女は鬱々とした感情を内に溜め込むだけで、外に溢れ出させたりはしない。代わりに、時折こうして滲み出させることで、爆発させないようにしていた。
 彼女のその行為を邪魔するものはいない。
 彼女のペットたちは、酒のにおいによって近づかない方がいいということを悟る。そして、来客があれば、さとりに伝えることなく追い返す。客人もある程度付き合いがある者は文句もなく来た道を引き返す。誰が言い出すでもなく、そういう決まりが出来上がっていた。
 グラスが空になる。
 さとりは酒瓶を再び手に取って、静かに注いでいく。先程と同じようにゆっくりと、しかしなみなみと。
 瓶を元の位置に戻しながら、紫の瞳は今にも零れそうな酒を湛えたグラスを困ったように見つめる。そこまで注ぎ入れるつもりはなく、さらにはどうしようかと悩んでいるようだ。元々の寂しげな雰囲気と相まって、泣き出しそうにも見える。
 しばらくして、零してしまってもいいという結論にでも辿り着いたのか、グラスの方へと手を伸ばした。
 しかし、少しふわふわと漂うような雰囲気で揺れていた手は何も掴まなかった。それはただ単に、目測を誤ったというわけではない。
 彼女の目線の先には、テーブルを濡らす酒の小さな水溜まりだけがあり、彼女の独酌に付き合っていたグラスは影も形もなくなっている。
 その光景を目にした彼女の瞳に、涙がじわりと浮かび始める。

「わわ……っ! な、なんでお姉ちゃん、泣きそうになってるのっ?!」

 直後、部屋の中にさとりのものではない少女の焦りを帯びた素っ頓狂な声が響く。

「こ、いし……?」

 さとりが顔を上げると、空っぽだったはずの席に彼女の妹であるこいしが腰掛けていた。その手には、中身が半分ほどになったグラスがある。

「うん? うん。可憐で天真爛漫でお姉ちゃんの妹なこいしちゃんですよ?」

 酔っている様子は全くないのに、そんな調子の良いことをすらすらと口にしていた。それが、誰からも掴みどころがないと言われる彼女の常だった。

「えーっと、もしかして、このお酒、ものすごーく楽しみにしてたとか? でもこれ、常備してるそんなに高くないお酒だよね?」

 こいしはそう確認を取りながら、グラスを傾けて水面を舐める。そして、姉の返事も待たずに自分の認識に間違いはなかったのだと納得するように一人で頷く。
 さとりはそんな妹の様子を呆然としたように見つめている。いつもならどれだけ驚いていようともすぐに返事をするところなのだが、反応がないのは酔っているが故だろう。

「ふむ……。じゃあ、独りで呑んでるのが惨めになってきたのかな? でも、それじゃあ、タイミングがおかしい気がする。……うん、めんどくさいからなんでもいいや」

 こいしは顎に手を当てて考え込んだかと思うと、すぐさま思考をあっさりと投げ捨てた。

「とにかく、見てるこっちが惨めな気持ちにされるくらい憐れな雰囲気が漂ってたから、このこいしちゃんが付き合って差し上げましょう」

 姉へと向けて辛辣な評価を下してグラスの残りを飲み干すと、身体を乗り出して、さとりの傍らに置いてある酒瓶を掴む。酒に強くはないのか、すでに頬が赤らんできている。

「といっても、あんまり残ってないね。一杯と半分くらいだけって言うのも物足りないし、グラスもないし取ってこようか」
「駄目っ!」

 こいしが立ち上がろうとした瞬間、さとりは悲鳴じみた制止の声を上げる。目の端では、先程よりも大きなった雫が溢れ出しそうになっている。

「じゃあ、お姉ちゃんが行ってきてくれる? このまま送り出すのは不安なくらいふらふらしてそうだけど」

 姉の突然の行動に動じた様子もなく、不可思議そうに首を傾げる。

「……嫌」

 さとりが子供のようにふるふると首を振ると、涙が零れ出して頬を濡らす。

「えー……、お姉ちゃんわがまま」
「……だって、貴女に行かせたらそのまま帰ってこなさそうだし、私が行ったらその間にいなくなっていそうだから……。……ぅぐっ、……ひっく……」

 そこまで言って、実際にその場面を想像してしまったのか、泣き出してしまう。こいしの登場によって、もともと不安定だった感情の抑えが利かなくなってしまっていたのもその原因かもしれない。

「やれやれ。お姉ちゃんは心配性だなぁ」

 グラスを置いて立ち上がったこいしは、姉の傍まで近寄って少し癖のある薄紫色の髪を優しく撫で始める。どちらが姉だかわからない光景となっている。

「だって……、だって……、こいしはいつもいつも、何も言わずにいなくなるじゃないっ!」

 さとりは涙を振りまきながら、悲痛さの込められた声でそう訴えかける。

「むー、最近はそうでもないんだけどなぁ。ほらほら、手繋いであげるから落ち着いて? 私がいなくなりそうだって思えば、潰れるくらいにぎゅっと握っていいから」

 こいしはさとりの手を握るが、さとりの表情が晴れることはなく、むしろ不安に彩られる。

「……そんなことして逃げられた日には、立ち直れなくなるわ」
「もー、めんどくさいなぁ。とにかく、追加のお酒と私のグラスを取りに行こう? 一緒に」

 諭すような口調で話しかけ、最後の言葉を強調しながら、さとりの手を引っ張って立ち上がらせる。そして、多少ふらつきながらもさとりが自前の足で立っているのを確認して、歩き出そうとしてふと立ち止まる。

「とと、そうだ。このまま連れてったら、私が泣かせちゃったみたいだから」

 子供っぽくなった姉の方へと振り返り、その頬を服の袖で拭う。さとりは大人しくされるがままとなっている。

「うん、よしよし。さあさあ、いっくよー。転ばないように気をつけてね」

 さとりはこいしの声に無言で頷いて、少し引っ張られるような形で歩き始めるのだった。




 姉妹二人、隣り合って座り、それぞれのグラスで同じ酒を呑む。姉はその一滴一滴を味わうようにゆっくりと、妹は酒を呑むことそのものを楽しむようにこくりこくりと。
 だから、最初の時点ではさとりの方が酔いが深かったが、すでにこいしの方がそれを追い越している。それにも関わらず、こいしの方がしっかりとしているように見えるのは、酔い方の差によるものなのだろう。
 さとりから憂いは消えている。でも、時折鼻をすすったり、目の端から涙をこぼしたりと、ずっと泣き続けている。こいしに慰められているときに発した言葉によると、嬉しさから来るもののようで、止めることが出来なくなってしまったようだ。
 それに対して、こいしは穏やかな笑みを浮かべている。最初はそんな落ち着いた調子でさとりを泣き止ませようとしていたのだが、どうしようもないと、どうする必要もないと悟って、さとりの手を握るだけでそれ以上のことは何もしなくなっていた。
 そして、二人に共通するのは、幸せそうだということだ。言葉はなくとも、二人はそのことを共有し、心の奥底で繋がっている。
 ほとんど同時に二人はグラスを呑み切る。

「さてお姉ちゃん、お酒はなくなってしまったわけですが」
「……」

 さとりが悲しげな表情を浮かべて、妹の顔を見る。言いたい事があるけれど、言う事が出来ないといった様子でもある。

「もー、なんにも言ってないのに勝手な想像しない。寂しがり屋なお姉ちゃん?」

 こいしは笑みの種類を変えて、開いている方の手でさとりの頭を撫でる。

「そもそも、お姉ちゃんがこの手を握ってる限り離れるつもりなんてないから。それでどうするの? もう一本いっちゃう?」
「……こいしに任せるわ」
「主体性がないねぇ。まあいいや。じゃあ、お姉ちゃんちょっとしんどそうだし、一緒にお昼寝する?」
「……いいの?」

 さとりは不安そうに顔を俯かせながら、妹の顔色を窺うように上目遣いとなる。

「確かに私、外を出歩くのは好きだけど、お姉ちゃんといるのも好きだよ? さあさあ、柔らかボデーなこいしちゃん抱き枕を存分に堪能するのですってね」

 冗談めいた口調でそう言いながら立ち上がり、さとりの腕を引っ張って立ち上がらせる。けれど、足元の覚束ないさとりはバランスを崩して倒れそうになってしまう。

「と、とと、ととと、とっと。……ふぅ、危ない危ない」

 こいしはさとりに押し倒されそうになったところをなんとか堪える。

「……ぅう、ごめんなさい、こいし」
「気にしない気にしない」

 こいしはさとりをあやすようにしながらその身体を抱きかかえて、ベッドへと向かっていく。足取りは怪しいようなので、浮かび上がることでなんとか運ぶことができている。

「だーいぶ」

 そうして無事にベッドへと辿り着いたこいしは、さとりを抱えたままベッドへと飛び込む。二人分の体重をベッドが優しく受け止めて軋む。
 こいしはいったんさとりを離すと、手やら足やらを使って、自分たちの身体へと布団を掛けていく。
 さとりは間近にある妹の顔を見ながら大人しくしていたが、抱きかかえられていた時の安堵が薄れていくのに耐えられなくなったのか、こいしをぎゅっと抱きしめる。もしくは、甘えるように抱きつく。

「わわっ。気が早い、気が早いから!」

 こいしが焦ったような声を上げるが、反応はない。それも当然だ。さとりは、最愛の妹を決して逃がすまいとするように抱きついたまま眠ってしまっていた。もう既に彼女の限界は越えてしまっていたようだ。

「ほんと、お姉ちゃんはしょうがないなぁ」

 困ったような、それでいて優しげな笑みを浮かべながら、第三の目から伸びる管を動かして布団を整えていく。

「おやすみ、お姉ちゃん」
「ん……、おやすみ、なさい……」

 寝ていても反応をしてくれる姉の姿に微笑ましさを感じながら目を閉じる。
 こいしもまたすぐに穏やかな寝息を立て始めるのだった。



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