青いソラに触れたいと思ってしまった。
触れられないことはわかっている。
触れに行くべきでないこともわかっている。
いや、それ以前に私はこれまで満たされていたはずだった。
これ以上は何もいらないと思っていた。
今が私の全てで、それで完成しているのだと思っていた。
それなのに、私は遠く遠くにあるそれに焦がれてしまっていた。
◇
「フラン、貴女にプレゼントをあげるわ」
私の部屋へとやってきたお姉様がそんなことを言ってきた。
何かをくれること自体は珍しくない。人形やぬいぐるみ、本やお菓子、いろんなものを持ってきてくれる。
部屋に閉じこもって、全然外に出ようとしない私への働きかけだというのにはなんとなく気づいていた。でも同時に、本心から私にプレゼントをしてくれているというのも知っている。
だから、私はお姉様からのプレゼントが煩わしいと思ったことはないし、お姉様のことが大好きだった。プレゼントをもらえることも、楽しみにしていた。
でも、今日は何も持っていなかった。何もないのに、何をくれるというのだろうか。
隣にパチュリーがいるけど、それが私へのプレゼントだとは思わない。
「じゃあ、パチェ、お願い」
お姉様が一歩後ろへと下がる。入れ替わるようにパチュリーが一歩前へと出てくる。
「なに、するの?」
魔力を練り始めたパチュリーにそう聞く。
「ちょっと模様替えを。すぐに終わるから、答えを知りたかったら少し待っててちょうだい」
いたずらっぽくそう答えると、詠唱に集中してしまう。
こうなってしまえば、どう話しかけようとも反応してくれない。
「お姉様」
「焦らない、焦らない。教えちゃったらインパクトがなくなるじゃない」
代わりにお姉様へと聞いてみたけど、パチュリーと似たような反応だった。お姉様はお姉様で意固地だから、一度喋らないと決めてしまうと、決して口を開いてくれない。
辛抱強く聞けば話してくれるかもしれないけど、それまでに終わってしまっているという可能性もある。
だから、釈然としない気持ちを抱えながらも、パチュリーの魔法が終わるのを待つことにした。
しばらくして、ランタンから溢れているのとは違う光が部屋の中を照らす。
ランタンの火よりも明るくて、でも眩しさは感じない。光源は、上?
その考えに至ると同時に、視線を上へと向けた。
煉瓦造りの天井に、見たことのない色をした四角が張り付いていた。
私が知っている色の中では青が一番それに近い。でも、単純にそうだと言い切れない複雑な色合いをしている。
白に近いようにも見えるけど、水色からはほど遠い。単色かと思えば、微妙に違う色をしているようにも見える。
不思議な色をしていた。
二人への疑念が吹き飛んでしまうくらいに、見惚れてしまっていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
ふと、この場にいるのが私だけではないことを思い出して、視線を下げる。ずっと固定されていた首が微かに痛みを訴えるけど、気にならなかった。
「どうやら、気に入ってくれたみたいね」
お姉様が微笑んでいる。ランタンよりも明るい光の下でそれは、いつもよりもずっと魅力的に見えた。
「あれは……、なに?」
声を絞り出すようにしてそう聞く。あの不思議な青に心を奪われてしまったのか、言葉を紡ぐのが難しかった。
「空よ」
「ソラ……」
それは、異国の言葉のようだった。私にとっては、全く接点のないものだったから。
「そう、空。外に出るのが怖い貴女でも、これなら気兼ねなく楽しめるでしょう?」
お姉様が天井を見上げる。私もつられるようにして、再び上を見る。
そこには変わらず、不思議な青がある。
「本当は南側に向けて、月も見れるようにしてあげたかったんだけれど、太陽も南を通っていくのよねぇ」
「そもそも、この部屋の位置からして、南に向けるのは無理よ。それに、星だって見ていてなかなか面白いわよ」
ツキにホシ。そのどちらもソラと同様に接点のないものだった。
天井に穴が空いた。言葉にすればそれだけのこと。でも、実際その場に立っている私には、どこか異世界に飛ばされてしまったような感覚が付きまとっている。地に足がついていないようで、現実感が乏しい。
不安感はないけど、意識が曖昧になっているような気がする。
二人の声が、遠くに聞こえる。
「まあ、私たちがあれこれ言うよりは、実際に見て色々と感じてみた方が良いでしょうね。じゃあ、邪魔しないように、私たちはこの辺りで退散させてもらうわ」
「何か不具合があったら、私かレミィに言ってちょうだい」
そう言い残して、二人は部屋から出て行ってしまった。
私は、いつもよりも明るい部屋の中にぽつんと取り残される。
自分の部屋なのに。
プレゼントが想像以上にすばらしくて、持て余してしまっているのだと、このときになってようやく気づいた。
◆
お姉様たちが出て行ってからは、ずっと天井を眺めていた。上を向いていたら首が疲れるから、ベッドを移動させ、そこに横たわって。
全く変化のないレンガと、少しずつ変化していっているようなソラが見える。
こうして時間をかけてよくよく見てみると、淡くグラデーションがかかっているのがわかる。でも、一点に集中してみたとたんに、それがよくわからなくなってしまう。
ぼんやりと、漫然とした意識で眺めることでその微妙な変化に気づくことができる。
そうやって、力を抜いて横たわっていると、四角く切り取られたそこへと吸い込まれていくような錯覚に襲われる。レンガがあるはずなのに、視界は青に染まって、意識が塗りつぶされていくような――
そのたびに横たわったまま頭を左右に振り、私をここへと呼び戻す。そして、再びソラへと意識を向けるのだ。ときには、金糸が視界の中に入っていることさえも気にせずに。
でも、青はいつまでも続かなかった。
時間を忘れて眺めていると、ソラが次第に紅へと染まっていく。私たちの名が世界に染み渡っていっているんだと、そんなことを思う。
でも、お姉様も私も世界なんて欲していない。お姉様なら手段として欲することはあっても、目的となることはないだろう。
そんなことを考えている間に、明度が落ちていき、紫、藍へと変わり、最後には黒に染まる。
青いソラとは違って、面白味のない色をしていた。だからといって、私は視線をそらそうとは思わなかった。
なぜなら、時間が進むにつれて少しずつ白い点が増えていっているのが見えたから。小さな光が、黒を飾り付けていく。
最初は数えられるくらいに少なかった。けど、一つ、二つと増えていくにつれ、どこまで数えたのか、どれが増えたのかがわからなくなっていき、最後には数えるのを諦めてしまった。
数え切れないくらいに無数の光。小さく儚いけれど、微かにまたたいているのに気づくと、とても綺麗なものに見えてくる。
こんこん。
私が首を振る時以外に音がなかった世界に、別の音が混じった。完全に自分だけの世界に浸っていた私は、驚いて身を竦ませてしまう。意識も部屋の中へと戻ってくる。
「ごめんなさい。邪魔をしてしまったかしら? でも、そろそろ食事の時間よ」
ベッドから身体を起こすと、夕食を持ってきたお姉様が部屋に入ってきているのが見えた。木製のトレイには、いつものように二人分の食事が乗せられている。
お姉様は、部屋から出ない私のために、わざわざ一緒に食事をとってくれているのだ。何度か私のことは放っておいてもいいと言ったにも関わらず。
別に、一緒に食べるのが嫌なわけではない。お姉様といられる時間が増えることは嬉しい。けど、私のために時間を使って欲しくないとも思うのだ。
「フラン、また何か余計な事でも考えてるんでしょう」
テーブルの上に湯気を立ち上らせるお皿、フォーク、スプーンを並べながらそう言ってくる。
なぜか、私の考えていることはお姉様には筒抜けなのだ。私は、お姉様が何を考えているのか少ししかわからないのに。
「うん……、毎回、よくわかるね」
「ふふ、貴女の姉だもの。表情からその辺りは読み取れるのよ」
そう言われて、お姉様の表情をじっと見つめてみる。けど、わかるのはなんとなく機嫌がよさそうだということだけで、それ以上は読み取れない。
「何か分かったかしら?」
食事の準備を終えたお姉様が見つめ返してくる。あの紅い瞳で私の内面まで覗いているのだろうか。
「ううん。機嫌がよさそうだなっていうことくらいしかわかんないや」
「それだけ分かれば十分よ。後は、現状と経験から考えてみれば分かるはず」
現状と経験。重要そうな単語を二つ抜き出して、それらを意識して考えようとしてみる。
「まあ、それよりも夕食にしましょう? 考えるのは後で出来るかもしれないけれど、温かい料理が食べられるのは今だけよ?」
お姉様によって私の思考は遮られてしまった。でも、お姉様の言うことももっともだ。冷めた料理よりは温かい料理の方がおいしい。
だから、ベッドから立ち上がり、食事の並ぶテーブルを目指すのだった。
◆
「初めて見る空はどうだったかしら?」
夕食を食べ終わったとき、お姉様がそう聞いてきた。
「どう、言葉に表せばいいのかはわかんないけど、一言で表すなら、すごく、綺麗だったよ」
「それは、よかったわ」
お姉様が嬉しそうに微笑を浮かべる。そして、やっぱり機嫌がよさそうなのだった。
食事の間にどうしてお姉様の機嫌がいいのかと考えてみて、一応答えらしいものは見つけた。ただ、自信が持てないから口にしようとは思わない。それに、わざわざ言う必要もないと思う。
「参考までに聞いてみたいのだけれど、どの時間帯の空が一番印象的だったかしら?」
「一番最初の」
迷うことなく答えた。
青から白点の散りばめられた黒までをずっと眺めていたけど、一番のお気に入りは最初に見た、不思議な色合いをした青だった。不意打ちで見せられて衝撃が大きかったからかもしれない。
今も目をつむれば、瞼の裏側にあの青が焼き付いているような気がする。
本物よりも、ずっと劣化したものなのだろうけど。
「そう。分かったわ、ありがとう」
「なんで、お礼なんて言うの?」
私は、聞かれたことを聞かれたままに答えただけだ。
「大事な質問に答えてくれたからよ。これで、次のプレゼントも思いついたわ」
そう言って、笑顔を浮かべる。
じっとその顔を見つめてみても、わかるのはどこか嬉しそうだということだけで、真意は見えてこなかった。
◆
お姉様が食器を片づけて、部屋から出て行った後もソラを眺めていた。明かりがない方が綺麗に見えると言っていたから、ランタンの火は消している。真っ黒な天井に、四角く不自然な場所ができあがる。
でも、その不自然さも四角の中へと意識を集中させていると、気にならなくなってくる。
最初は、お姉様が来る前とさほど変わらない量の白点しか見えなかった。でも、ベッドに横になり、ぼんやりと眺めていると、次第にその量は増えていっているように感じた。
そして、目が暗所に慣れた今、先ほどまでとは比べものにならないくらいに無数のホシが輝いている。みんながまとめて自分の存在を一生懸命になって唱えているようにも見える。
一人で部屋にこもって何もしようとしない、あたかも存在しないようにしている私とは大違いだった。
でも、だからといって彼らの姿が羨ましいだとかは思わなかった。すごいとは思っても、この生き方は私が選んだのだから、羨望を抱く理由など何一つとしてないのだ。
だから、ぼんやりと眺めていられる。綺麗だなんてのんきに考えることができた。
◆
目を開いて視界に入ってきたのは、不思議な青と綿の塊のような白。一瞬、自分がどこにいて、どうなっているのかがわからなかった。
でも、慌てて身体を起こそうとしたところで、視界に映っているものは昨日プレゼントされたものだと思い出す。昨日は、ソラを眺めたまま眠ってしまったようだ。
と、布団がかけられていることに気づく。
誰がかけてくれたんだろうか。思い浮かんだのは、お姉様と咲夜の二人。
視線を、食事をとるときに使う丸テーブルではなく、本を読むときに使っている壁際に置かれたテーブルへと向ける。人形やぬいぐるみの中に埋もれるようにして置かれた時計が、朝食の時間がとっくに過ぎてしまっていることを教えてくれる。
少なくとも、食事を運びにきたお姉様がこの部屋に入ってきていたはずだ。布団をかけてくれたのかどうかはわからないけど。
どちらにせよ、部屋まで来たなら起こしてくれてもよかったのに。
でも、お腹が空いているということはない。食事をとるのは趣味のようなもので、少量の血さえ摂取すればお姉様も私も一日は持つ。姉妹揃って、必要なエネルギーが少ないのだ。
だから、起きあがらず、視線を再び上へと向ける。昨日、私の心を奪った青と、触れたら柔らかそうな白とが見える。
変なふうに眠りに落ちてしまったせいか、少し身体が重いような気がする。でも、こうして横になっていれば、そんなものはあまり気にならない。
白がゆっくりと流れていっている。昨日とは違って、わかりやすい変化があるからか、時間の流れを感じる。
でも、それはとてもゆったりとしていて、一秒が引き延ばされていっているような感じだ。
それを、もどかしいとは思わない。少しだけ身体の重い感覚とあわさって、心地よささえ感じる。
穏やかだなぁ。
さっきまで寝ていたはずなのに、眠気がじんわりと湧き出てくる。もう少し見ていたいけど、この眠気には抗えそうにない。少しずつ、瞼が下がってきているのがわかる。
あの白いふわふわを抱きしめたら気持ちよさそうだな――。
◆
不意に暗くなったような気がして、反射的に瞼を開く。今度は、眠りに落ちてしまっていたんだという自覚があった。
「あら、おはよう、フラン」
目の前にお姉様の顔があったこと、突然声をかけられたことに驚いて、身体がびくりと震える。
お姉様は私のそんな反応を気にした様子もなく、微笑を浮かべている。
「お、おはよう」
驚きで過剰に働く心臓の鼓動を感じながらそう言う。
「よく眠ってたわね。まあ、昼間に眠っている方が本来の吸血鬼らしいのでしょうけど」
私の顔をのぞき込んできたまま言う。
お姉様の生活パターンにあわせて生活をしている私にとって、朝だとか昼だとかいうのは関係ない。時計は置いてあるけど、それはお姉様と生活パターンを合わせるためのものだ。
「寝るのも惜しんで夜空を眺めていたのかしら?」
「うん。ずーっと眺めてたよ」
眠りに落ちる瞬間に気づかないくらいに、真剣に見ていた。
心を奪われて、時間が経つのも忘れて見惚れていた。
「それくらい熱心に眺めていられるのなら、もっと大きな空を見てみたいとは思わないかしら?」
「ううん。私には、これで十分」
こんなに満たされているのに、これ以上を望むなんていうのは罰当たりな気がする。
私は、今ここにある幸せを噛みしめていられればいい。
お姉様が私のことを想ってくれていることを感じていられればいい。
自ら何かを望もうとは、ちっとも思わない。
「そう。貴女はもっと我が侭になってもいいと思うのだけれどねぇ」
お姉様が、私の髪を撫でるように梳く。その心地よさに身をゆだねてしまいたいと思うけど、すぐに手は離れてしまう。
「まあ、それよりも昼食にしましょう。一食抜いて、お腹空いてるでしょう?」
お姉様が身を引く。
そうすると、隠れていたソラが見えてきた。
眠ってしまう前と変わらず、不思議な色合いの青の中、白い綿毛が穏やかに流れていた。
◆
昼食をとり終わった後も、変わらずソラを眺めていた。
食事をしている間に綿はどこかに行ってしまったのか、初めて見たときと同様に、四角は青く塗りつぶされていた。
今までにいろんなソラの顔を見てきたけど、やっぱりこのソラが一番好きだった。
ずーっと向こう側まで続いていそうな気がする。それなのに、手を伸ばせば触れることのできそうな感覚をこちらへと与えてくる。
本当に、不思議な色合いをしている。
吸い込まれていくような感覚に身を任せ、いつまでもいつまでも眺めているのだった。
◆
ソラを眺めていたら、昨日はあっという間に過ぎ去ってしまった。
今回はちゃんと意識のあるうちに布団に潜り込んで眠った。朝食のときにお姉様にそのことを話したら笑われてしまったけど。
そして、今日も今日とてベッドに横になりソラを眺める。でも、今日はあまり気乗りがしなかった。
四角く切り取られたソラは、不安を煽ってくるような灰色をしていた。のしかかってくるような重量感さえ感じる。
見ていて気分のいいものではなかった。目をそらしたくなってしまうようなソラ模様だった。
それでも私はソラを眺める。
どうしてだろうか。自分自身にもわからない。
ただ、目をそらそうとしても、胸の中で何かが引っかかって身体を動かせない。そんな、状態だった。
と、ソラから何かが落ちてくる。外からものが入ってこないようにしているらしいから、それがここまでくることはない。
灰色、もしくは透明なそれは真っ直ぐに落ちてきている。なんだか、いやな感じがする。
しばらくして、落ちてきているものが水なのだと気づく。吸血鬼は流れ水が苦手だから、いやだと思うのだろうか。
少し、それとは違うような気もするけど、やっぱりよくわからない。
とても静かだった。
今までも静寂の中に身を浸していたはずなのに、一層静かに感じた。
落ち着く静けさではない。嫌気がさすような、そんな静けさだ。
ソラの表情が変わりやすいというのは、今まで眺めていたことからわかっていた。けど、こんなにもいやなものを見せてくるとは思ってもいなかった。
これ以上見ているのがいやになって、壁の方へと目をやる。薄暗い部屋が目に入ってきたから、魔法でランタンに火を灯す。炎の赤が、部屋の中を照らす。
見慣れた光。でも、だからこそ、灰色のソラを見て荒んだ心を落ち着かせてくれる気がする。
もやもやとしたものが胸の中を覆っているような気もするけれど。
起き上がって、本でも読もうかと思った。でも、起き上がるのがひどく億劫で、結局そのままゆらゆらゆれる赤を見つめる。
でも、すぐに瞼を閉じてしまう。
何かを失ってしまいそうな気がして、怖かったのだ。
◆
眠りから覚める。
昨日はあれ以来、一度もソラを見ることなく一日を過ごしていた。
お姉様が来たとき以外は、ずっとベッドで横になっていた。
今日は、明るかった。ソラはあの青を取り戻したようだ。
そう思って、私は寝返りを打ち、天井を見上げた。
直後、目も心も意識もまとめて奪われた。
不思議な青が四角の中に戻ってきていた。
けど、それだけではない。
それは、ずっとずっと、最初に見たものよりもずっと澄んでいた。
眩しいくらいの青色をしている。
目はそらさない。
そらすことができない。
もし、瞳が焼かれてしまうのだとしても、構わないと思った。
気がつけば、手のひらをソラへと向けていた。
手が傘となって、光を遮る。
青いソラに触れたいと思ってしまった。
触れられないことはわかっている。
触れに行くべきでないこともわかっている。
いや、それ以前に私はこれまで満たされていたはずだった。
これ以上は何もいらないと思っていた。
今が私の全てで、それで完成しているのだと思っていた。
それなのに、私は遠く遠くにあるそれに焦がれてしまっていた。
心の想いに従って、手を握る。
けど、何も触れない、何も掴めない。
返ってくるのは私の手の感触。空虚な、手応え。
腕から力が抜け、ベッドの上へと落ちる。
身体からも力が抜けているような、そんな気がする。
私は気づいてしまった。灰色のソラを見て、どうしてあんなにもいやな気分になってしまっていたのか。
重苦しさもいやだった。けど、決してそれだけではなかったのだ。
青いソラが見えないのがいやだった。
あんなものに青が覆い隠されてしまっているのがいやだった。
私は、青いソラが見えることを望んでいた。
瞳の中をあの青で染めたいと望んでいた。
けど、そんなことを思うなんて分不相応だ。
これ以上を望んではいけない。
私は現状に満足している。
そのはず、なのに、どうしようもないくらいにソラの青に見惚れてしまっている。いつか隠されてしまうのなら、この手の中に持っておきたいとさえ思ってしまっている。
誰に向けるでもなく首を左右に振る。そんな考えを持つべきではないと自分自身に言い聞かせるように何度も何度も首を振る。
だけど、自分の想いに気づいてしまった時点で、加速度的に想いが大きくなってきてしまっている。ソラしか見えなくなってきている。
このままではだめだ。
青に魅入り、気持ちを抑えられなくなってしまう。
だから、私は手を天井へと向けて腕を伸ばす。視界に、ソラが映らないようにする。
ごめんなさい。
心の中でそう謝って、手を握りしめた。今度は、手の中に破壊の象徴があった。
その途端、壊れる音が響く。ぱらぱらと小さな石が、私の手や顔、身体の上に落ちてくる。昨日のソラから落ちてきていた水を思い出す。
いやな気持ちが積み重なっていく。昨日と違うのは、落ちてくる物が私に触れること、その気持ちの大半が自己嫌悪だということ。
しばらくして、石は落ちてこなくなる。
静かになって、音がなくなる。
手をどけてみれば塞がれた穴だけが見える。
ソラは、もう見えない。
これでいいのだと自分に言い聞かせる。
だというのに、私は塞がれた穴の向こう側ばかりが気になっていた。
◆
ベッドを部屋の隅に戻し、壁に背をつけ、大きなクマのぬいぐるみを抱きしめていた。
石の片づけは咲夜が何も言わずにやってくれた。申し訳なさを感じながらも、心が不安定に揺れていたから話しかけてきてくれなかったのはありがたかった。話しかけられたところで、何を言えばいいかわからなかったから。
ぬいぐるみを抱く腕に、ぎゅっと力を込めて、膝を抱えるようにする。こうしていると、次第に自分が小さくなっていっているようなそんな錯覚を抱く。
「あら、塞いでしまったのね」
ノックとともに部屋に入ってきたお姉様の第一声はそれだった。手には昼食の乗せられたトレイ。
もう、そんな時間になってしまっていたようだ。
「ごめん、なさい」
クマの頭に顔を埋めるようにして答える。お姉様の顔を見ていられなかった。
さらに、自分の身体が小さくなっていっているような気がする。
「ん? 別に謝らなくてもいいわよ。貴女にあげたものなのだから、貴女の好きにしてくれていいわよ。まあ、こう言っても気にするんでしょうけど」
トレイをテーブルに乗せる音が聞こえてくる。
そして、しばらくするとベッドが沈み込んだ。
お姉様がすぐそばにいる。
「何があったかは、聞くだけ無駄かしら?」
頭に手が触れる。
私は、お姉様の問いに無言で頷く。
「なら、勝手に考えて、勝手に解釈させてもらうわ」
声色が変わる。
内面へと語りかけてくるような、優しい声になる。
「また、面倒くさい事でも考えていたんでしょう? それで、自己嫌悪を抱いて、あの窓を壊す事で逃げた」
当たりだった。やっぱり、お姉様に隠し事はできないようだ。
「でも、貴女は分かってるんじゃないかしら? そんな事をするだけ無意味だという事は。現に貴女はこうして塞いでしまってるわけだし」
お姉様の言うとおりだ。
あのプレゼントを壊しただけではなんの解決にもならなかった。むしろ、瞳に焼き付いた青が、強烈に心の中で光を見せている。もう一度見たいと、強く強く望んでしまっている。
でも、私に何かを望む権利なんてない。
現状に満足していなければいけない。
そうでなければ、今の幸せは簡単に壊れてしまうかもしれない。
「まあ、ほら、んー……」
途中でお姉様が言葉に詰まってしまう。私は思わず顔を上げてしまう。
思っていた以上に近い位置に顔があった。紅い瞳には真剣な色が浮かんでいて、私はその顔に目を奪われてしまう。
「……よく分かんないってのに、説得してみようっていうのは無理があるわね。降参。貴女が何を考えてたか教えてちょうだい」
「勝手に、考えてくれるんじゃなかったの……?」
「手応えがありそうならそれでもよかったんだけれどね。全然、効果がないみたいだから直接聞いてみる事にしたわ。さあ、答えてくれる?」
お姉様の瞳がじぃっとこちらを捉える。逃げることはできなくて、私は捕らえられてしまっている。
だから、答えることしかできなかった。いつまでも視線に耐えられるほど強くはないから。
「……青いソラが、ほしいって思ったの」
最初はぽつりと、囁くような声で言葉をこぼす。
「いつまでも、綺麗な青のままじゃないから、その綺麗な青をいつまでも見ていられるように、手元に置いておきたいと思ったんだ」
私の想い。
私のわがまま。
「……でも、そんなことを望んでいいはずがないよね。今の私はこんなに満たされてるのに、これ以上を望むなんて間違ってるよね」
だから、ソラから目をそらして逃げた。
これ以上望んでしまわないように目の届かないところへとやった。
「そんな事ないと思うわよ。満足も幸せも望んでこそ得られるものだもの。だからむしろ、どんどん望んでいくべきだと思うわ」
その言葉には力があった。
でも、本当にそうなのだろうかと思ってしまう。
「それにしても、空が欲しい、ね。いい望みじゃない。子供っぽくって、でも壮大で。心の底からそんな事を望めるなんて羨ましいわ」
言い回しは皮肉っぽく感じるけど、目の前のお姉様からはそんな様子は伝わってこない。だから、私は少し困惑していた。
「こ、子供っぽい……?」
「ええ、子供っぽいわ。なんにも知らない、無垢で微笑ましい子供みたい」
お姉様が笑みを浮かべる。
「貴女は本当の空を知らないから、そんな事が言えるのよ。あんなちっぽけなものは、本当に一部分でしかないわ。うん、いい機会だから今すぐ外に行って空を見てくるべきね」
お姉様は一人で頷いて、私の手首を掴む。私はとっさに掴まれていない方の腕で、ぬいぐるみにしがみついてしまう。そうしたところで、どうにもならないとわかっていながらも。
「えっ、で、でもっ!」
「行きたくないのかしら?」
「それは……」
行きたくないという思いは確かにある。でも、同時にお姉様の言う本物のソラを見てみたいという思いもある。
いつもなら、簡単に拒否の言葉が出てくるのに、今は相反する気持ちがぶつかりあって、自分の意志を言葉にすることができない。
「不安に思う必要なんてないわよ。どうせ外と言っても館の敷地内だし、私もついてる。まあ、それでも不安なら、そのぬいぐるみを抱いてきてもいいわよ」
私が迷いを抱いていることに気づいているのか、いつもとは違って私を外へと引っ張り出すような言葉を並べていく。容赦なく畳みかけてくる。
「……お昼ご飯は、どうするの?」
せめてもの抵抗にそんなことを聞く。どういう答えが返ってくるのかわかっているのに、反論が返ってきたら諦めようという気持ちを抱いて。
「咲夜にしばらくの間、冷めないようにしてもらうしかないわね」
予想通りの答え。
「抵抗は、それで終わり?」
そして、お姉様は私が無駄な抵抗をしていることに気づいているみたいだった。
めったに見せることのない、いじわるそうな笑みを浮かべている。
「……うん」
観念して、頷いた。
「よし、なら、行きましょうか」
そのときお姉様が浮かべていたのは、心の底から嬉しそうな笑みだった。
◆
お姉様に手を引かれて廊下を歩く。
ぬいぐるみは置いてきた。代わりに、手をぎゅっと握ってもらっている。
初めて部屋から出たという緊張。本物のソラを見られるという期待。
ふたつの感情があわさって、心臓が高鳴っている。
部屋から出ることに対しての恐怖は不思議となかった。期待が私を引っ張ってくれているからなのかもしれないし、お姉様の手から温もりが伝わってきているからなのかもしれなかった。
とにかく、身体は強ばっているけど、それが恐怖からでないことはわかっていた。
長い、廊下を歩く。
終わりがないのではないだろうかと思わされる。
けど、そんなことはないのだろう。
向かうべき先があるからこそ、お姉様は迷いなく進んでいるのだろうから。
そんな私の考えを証明するかのように、お姉様が廊下を曲がる。その先には今まで見てきた扉の中で一番大きな扉ある。意匠も他に比べて、豪華になっているように思う。
「フラン、ここから先は目を瞑ってくれるかしら?」
不意に立ち止まったお姉様がそう言ってくる。
今更、お姉様の言葉を疑うつもりはない。だから、迷いなく瞼を閉じて、握る手にも力を込める。
そうすると、お姉様も力を入れ返してくれた。
これなら大丈夫だと、強く確信する。
お姉様がゆっくりと歩き出す。
手を引かれるまま、それについていく。
扉の開かれる音が聞こえてくる。
それと同時に、黒の世界が明るくなる。
でも、お姉様がいいとは言わないから、瞼は閉じたまま。
そのまま、前へと進む。
ある程度進んだところで、不意に空気が変わる。周囲に空気の流れがあるのを感じる。
とうとう外に出てしまったようだ。
でも、まだ瞼は開かない。
「この先は段差になってるから、ちょっと抱き上げるわよ」
「わっ」
こっちが頷く前に、手を繋いだまま正面から抱き上げられた。足が宙に浮く。
「お、お姉様?」
「んー?」
すごく近くから声が返ってくる。
「なんで、返事も待ってくれなかったの?」
「あー、ごめんなさい。貴女が外に出るなんて言ってくれたから、舞い上がってたみたいね。驚かせて悪かったわ」
「……ううん、大丈夫」
お姉様が、いろいろと考えてくれているのは知っていた。でも、それが態度として表れてくるのは初めてかもしれない。
だから、強く強く感じる。今日は、大きな転換期となるだろうと。
世界が揺れる。
お姉様の温かさに包まれたまま、揺れにあわせて世界が豹変していくのを感じる。
空気の流れが変わる。周囲が少しずつ明るくなっていく。
「さてと、この辺でいいかしらね」
そして、私は床とは違った、不安定な場所へと下ろされる。お姉様の温もりが離れたことに少し肌寒さを感じる。
でも、今の私の意識は全く別の場所に向いていた。
「フラン、目を開かずに、上を向いて」
ゆっくりとした、私を落ち着かせようとする声が聞こえてくる。
私はその言葉に従って上を向く。光が、強くなったような気がする。
胸の高鳴りが大きくなってきている。
心がざわついて、落ち着かなくなってくる。
「じゃあ、目を開いてもいいわよ」
言われた通りに瞼を、開いた。
「わぁ……」
視界を埋めつくさんばかりの青がそこにはあった。
抱えきれないほどに大きな大きなソラがあった!
青い世界に飲み込まれてしまいそうになる。
私が大好きになった不思議な色合いの中に溺れてしまいそうになる。
「っと、大丈夫?」
ソラにばかり意識を奪われていて倒れそうになった私を、お姉様が背中から支えてくれる。いつの間にか手を放してしまっていたのか、背中にはさっきまで握っていたはずの左手が添えられている。
私に気を使ってくれているのか、お姉様の顔は見えない。青い、青いソラだけが視界を塗りつぶしている。
「……お姉様の言ってたことの意味、わかったよ」
欲しいとか欲しくないだとか。
望むだとか望まないだとか。
瞳に映っているものはそんな次元に置いていていいものではない。
「ソラは、私にはどうしようもできないんだね」
そう、あれは、私にはどうしようもできない。
ただ、そこにあることを受け入れるしかない。
私なんかの感情なんかに左右されるものではないのだ。
だけど、卑屈な気持ちにはならない。
これだけ綺麗なものを見せつけられると、いっそ清々しくなる。
ソラをほしいだなんて思っていたことがばからしくなってくる。
それくらいに、本物のソラは大きくて広くて、果てがなかった。
「私の言った事、半分しか分かってないじゃない」
不意に、お姉様が私の腰に手を回して正面から覗き込んできた。
半分?、と首を傾げそうになる。でも、お姉様の言葉を思い返してみて思い出した。
でも、私がそんなことを言ってしまっていいんだろうか。
いやな顔をされるとは思わないけど、図々しくはないだろうか。
「……また、私にソラを見せてくれる?」
結局、少し不機嫌そうな表情をしているお姉様に後押しされるようにして、ためらいながら、後ろめたさを感じながら、初めて自分の願いを言葉にしてみた。
「ええ、いいわよ」
私の大好きなソラの青を背にして、大好きなお姉様が笑顔を浮かべてくれたから、これでいいのかなと、そう思うことができた。
小さく切り取られたソラから始まって、
私は切れ目のない大きなソラへと繋がった。
私の望みがここまで繋げてくれたのだろうか。
まだ、そう思うことはできない。
まだ、望みを持つことがいいことだと思えていないから。
だから、私はこのソラの下にいようと思う。
幸せを感じていられるこの場所で、今まで以上の幸せが続けば私が望むことは間違っていないと思えるだろうから。
私は、空へと向けて幸せへの願いを放り投げてみた。
自信がなくても、お姉様の言葉を信じて願うだけ、願ってみた。
――どうか、もっと幸せになれますように。
Fin
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