「お嬢様! これは一体どういうことですかっ!」
紅魔館エントランスに悲痛さを帯びた追求の声が響く。その声の主はここのメイド長である十六夜咲夜だ。
「な、何よ。いきなり」
答えるのは困惑に満ちた声だった。彼女の主であるレミリア・スカーレットは、咲夜の勢いに押されたように一歩下がっている。
「やはりお嬢様をお一人で出歩かせるわけにはいきませんね。こうして、悪い虫が付いてくる事もあるようですし」
先程散歩より帰ってきたばかりのレミリアの手から、畳まれた大きな日傘を奪うようにして受け取る。いつもなら丁寧に受け取るのだが、今は怒り心頭な様子で杜撰な態度となっている。
「悪い虫ってなんの事よ。まあ、思い当たるのはこの子しかいないけど」
レミリアは振り返って足下を見る。そこには、土埃で汚れた白猫がいる。
咲夜のただならぬ気配。鋭くもどこかどろどろとしたもの。一言で言えば敵意を感じ取っているのか、牽制するように金と青の瞳でじっと見つめている。咲夜も同様に鋭い青色の瞳で睨んでいる。
「なんなのですか、そいつは」
「さあねえ。気が付いたら後ろにいたわ。ほっといたらどこかに行くと思ってたんだけど、結局最後まで付いて来ちゃったのよ」
レミリアはしゃがみ込んで、その頭を撫でてみる。咲夜へと向けていた鋭い雰囲気はそれだけで消えてしまう。けど、怯えたように後ろに下がろうとしている。
それを見て、レミリアはすぐに手を離す。そうすると、白猫は少し名残惜しそうに色違いの瞳でその手を追いかける。
レミリアはそれに気付くが、どうすればいいのかは思い浮かばないようで、白猫の方に視線を向けたまま目立った動きを見せない。
「それで、どうして咲夜はそんなに剣呑になってるのかしら? ただの猫でしょう?」
白猫の姿を観察しながら、咲夜へとそう尋ねる。今のところ、関心の大半は白猫の方へと向かっているようだ。
「ただの猫だろうとなんだろうと、お嬢様の後ろに付き従うのは私だけで十分です。誰であれ、その位置を譲るつもりなどありはしません」
「それは嫉妬、かしら?」
「ええ、そうですよ」
自らの気持ちを隠そうともせず、素直な従者だった。
「まあ、いつも自分が居る場所に他人がいたら良い気はしないわよね」
そう言いながら、レミリアは白猫へと手のひらを差し出してみる。白猫は白魚のような手を警戒するように見つめている。それでも気にはなるようで、小さな鼻を動かして人差し指のにおいを嗅ぐ。けど、まだ警戒心が勝っているようで、しばらくすると指から鼻を遠ざけてしまう。
「わかってくださったなら、そいつを即刻追い払ってください」
「特に悪さをされたわけでもないのに、追い払うのは気が進まないわねぇ。それにこの子、なんとなく咲夜に似てる気がするし」
今度は白猫の前で指を回す。思いついたことを片っ端から適当に実行しているだけのようだ。白猫は指先を両目で追いかけている。
「……私に、ですか?」
「そうそう。具体的に言ったら、こうやって勝手に付いてくる所くらいだけど、なんとなく昔の貴女を思い出すのよ」
咲夜の方へと笑みを向ける。咲夜にとっては完全に不意打ちだったようで、しばし動きを止めてしまう。
「どうかした?」
レミリアは立ち上がり、咲夜を真っ直ぐに見て首を傾げる。咲夜が呆けている姿を見て不思議に思っているようだ。
レミリアが立ち上がる際、白猫は少し残念そうにしていた。けど、少し心細そうに見上げるだけで、大した動きは見せない。
「い、いえ、お嬢様の笑顔が素敵だったのでつい見惚れてしまっていたのです」
「はぁ」
包み隠すことのない咲夜の返答に、レミリアはどう返すべきか困っているようだった。言われ慣れてはいるが、呆れだけはいつまで経っても健在している。
「……初めて会った頃に比べれば、随分と変わったわよねぇ」
代わりに、勝手に自分を追いかけてくる白猫によって想起させられた過去により、そんな言葉が漏れてくる。感慨が込められた一言だった。
「それもこれもひとえにお嬢様のおかげですよ」
「でも、選んだのは貴女でしょう? 最終的に私も選んだから、今も貴女はここにいるわけではあるけど」
「いいえ、選ばされたんですよ。お嬢様に出会ったその時に」
「……私から貴女に接触した記憶はないわよ?」
しばし考え込んでそう答える。
レミリアにとって、二人の出会いは紅魔館への帰路の途中だ。思い返してみても、そのことに相違はない。
けど、咲夜にとっては違うようだ。
「まあ、窓越しに擦れ違っただけですからね」
「それってやっぱり私はそんなに関係ないじゃない」
「いえいえ、お嬢様でなければ追いかけてはいませんでしたよ」
そう言われても、やはりレミリアは納得がいかないようだった。けど、どちらが出会いの起因であってもいいようで、それ以上の追及をしようとはしない。
「ねぇ、よければその時の事、聞かせてもらってもいいかしら? 貴女がどうして私に興味を持ったのか気になるわ」
それよりも、その時の咲夜の感情が気になっているようだ。
普段は過去に捕らわれることのないレミリアだが、昔の記憶が蘇り懐かしんでいる間に、その時の気分に浸りたいと思うようになったのかもしれない。
それは、咲夜も同様のようで、笑みを浮かべて即答する。
「ええ、構いませんよ。では、紅茶の用意をしてきますね」
「あ、咲夜、ちょっと待って」
普通に立ち去る相手に対してならかなり早いタイミングだが、時間を止めることのできる咲夜を呼び止めるには間髪を入れる間もない。長年共にいるレミリアは、呼び止める瞬間を感覚で覚えている。
「はい、なんでしょう」
「水とこの子が食べられそうな物も用意してくれるかしら?」
レミリアの言葉を聞いた咲夜は、露骨に不満そうな表情を浮かべていた。
そんな咲夜を睨むように見つめる白猫も、同様の表情を浮かべている。お互いにその存在を認められないようである。
一人と一匹の確執に挟まれるレミリアは、どこか暢気な様子でやれやれとため息をつくのだった。
「お嬢様、紅茶が入りました」
不満そうな様子を見せていたものの、咲夜は誰よりも敬う主のため真面目に仕事をこなした。
いつも通り丁寧な所作で紅茶の用意をし、いつも通りこだわりを持って美味しい紅茶を淹れ、いつも通り最高の紅茶を笑顔と共にレミリアへと出した。いつもと違う白猫への食事も言われたとおりに用意して。
「ん、ありがとう」
魚の切り身を食べる白猫を眺めていたレミリアは、前へと向き直る。それから、お礼を言ってカップに口を付ける。
その際に、白猫は顔を上げていたのだが、レミリアも咲夜もそのことには気付かなかった。白猫は寂しそうにレミリアの後ろ姿を見つめた後、食事を再開する。
「……うん。今日も貴女の淹れてくれた紅茶は美味しいわ」
「ありがとうございます、お嬢様」
咲夜は主の賞賛を受けて心の底から嬉しそうな笑みを浮かべる。そんな従者の反応を見て、レミリアは笑みを返す。
毎日繰り返されているやり取りだが、いつだって二人は笑みを忘れない。それが、二人の信頼の証であるから。時折、咲夜の悪戯心が疼いて、創作紅茶でレミリアを微妙な顔にさせることもあるが。
「ほら、咲夜も座って良いわよ」
「はい。失礼させていただきます」
律儀にレミリアの言葉を待ってから、咲夜は席に着く。レミリアをからかうような本当に敬っているのか疑わしい一面もある一方で、こうして極端なまでに忠誠を見せるのが彼女の従者としての在り方だ。
「では、僭越ながら私の過去話をさせていただきますね」
「ええ、お願い」
レミリアが頷くのを確認して、咲夜は静かに語り始めた。
◇
その日、幼い銀髪の少女は人を殺した。
そこに彼女にとっての異常は何もない。首から血を流し倒れている男も、鉄錆に似た臭いの漂う部屋も、手に人を切った感触が残っていることも、利き手に血と油で汚れたナイフがあることも。全部全部まとめて彼女の日常だった。日常となってしまっていた。
ある時までは、彼女も普通の幼い少女であった。
裕福な両親の元に生まれ、愛され、幸せを謳歌していた。
けど、彼女に芽生えた超常が全てを狂わせた。
野心家である父は彼女を道具だと言った。だから、使う側と使われる側となった。
信心深い母は彼女を悪魔の生まれ変わりだと言った。だから、拒絶する側とされる側となった。
それまでの知り合いは表に出なくなった彼女のことを忘れていった。だから、彼女もまた忘れ去った。
最初に失くしたのは感情だった。人として扱われなくなってから奥の方へと沈んでしまっていた。
次に失くしたのは意志だった。自分で考えることが煩わしくなってしまっていた。
最後に失くしたのは名前だった。誰にも呼ばれなくなってしまっていた。
そうして気付けば、彼女は命じられるままに殺す人形と成り果てていた。
今も無感情にナイフを男の服で拭いている。最初の頃は返り血で服を汚していたが、今ではそんなこともなくなっていた。殺す技術ばかりが彼女の中には蓄積していっていた。
と、不意に月明かりに照らされていた部屋に影が差す。彼女は反射的に時間を止め、警戒するように窓へと視線を向ける。誰もいない。少し欠けた月の姿が見えるだけだ。
けど、何もなかったと断じるには早い。窓を開け、首を出す。
右に首を動かすと、古い町並みが目に入ってきた。
何もないと判断し、今度は左の方へと視線を向ける。
そこで彼女は見つけた。月に照らされ夜空に美しく舞う姿。漆黒の翼を広げ圧倒的な存在感を醸し出す姿。紅色のドレスを高貴にはためかす姿。
彼女が今まで見た何よりも幻想的で魅力的な者がそこにはいた。顔は見えないが、それでも分からせられた。動かなくなったはずの心に、深く深くその姿は刻み込まれていた。
空を舞っていることに疑問は抱かなかった。
翼を広げていることに疑問は抱かなかった。
何故なら、自分自身が超常の存在であることを理解しているから、そういう存在もいるのだろうと自然に納得できていた。
けど、その在り方は彼女の考えていた範疇から外れていた。
自らの影に沈んでいくような境遇から、超常の全ては日陰者、光とは一切関係のないような存在だと思っていた。醜く卑しく忌避されるだけの存在だと思っていた。自分自身が外れた途端に、そんな扱いを受けるようになっていたから。
けど、今彼女の視界に映る紅は違った。月明かりに照らされ、誰よりも何よりも輝いている。美しく高貴に自らの存在を誇示している。
銀髪の少女は見惚れていた。自分と同じく外れた存在でありながら、全く異なる次元にいるような在り方に目をそらすことができなくなっていた。
そして、彼女の中で眠っていたはずの感情は奪われてしまっていた。
気が付けば、血色に塗られた部屋から駆け出していた。
紅を追いかけてみようと、ただそれだけを考えて。
◆
「それが、私が初めてお嬢様の姿を拝見させていただいたときの様子です」
「……割と悲惨な人生を送ってたのね」
少し悩んでレミリアは無難な感想を口にする。口にした本人は自分の言葉に納得していないようだ。まだ悩んでいるような素振りを見せている。
「なんですか、その微妙な言い方は」
「今更慰めの言葉は必要なさそうだし、労うのも違う気がするし、かといって何も言わないのもどうかと思ってね。まあ、今が幸せそうで何よりだわ。……って、これもなんだか今更ね。もういいわ、なんでも」
そして、面倒くさくなったのか、考えるのをやめてしまう。
そんな主の姿を見て、咲夜も苦笑を浮かべる。暗い過去を話したという割に、こちらも陰一つも見えない。
「もう私たちには全く関係のない話ですからねぇ。ただ読み聞かせをのんびり聞くような態度でいいですよ。大げさな感想も必要ないですし」
「まだ何か話すつもり?」
「折角ですから、昔のことを懐かしんでみるのも良いかと思いまして。お嬢様が嫌でしたら無理にとは言いませんが」
「いえ、いいんじゃないかしら。たまにはこうして過去に思いを馳せてみるのも。でも、ちょっとその前に」
そう言うや否や椅子に横座りになって、白猫の方を見る。切り身の乗っていた皿も、水の入っていた深皿も空っぽとなり、白猫はその前に大人しく座っている。じーっと金と青のオッドアイで、レミリアの紅の瞳を見つめている。
レミリアは屈むような体勢になりながら、白猫へと手を伸ばす。けど、自分から触れようとはしない。白猫が自分で触れてくるまで待つ。
白猫は最初にそうされた時と同じように、警戒するようににおいを嗅ぐ。それから、指先を見つめている。
そして、しばらくするとそっとレミリアの指を舌で舐めた。恐る恐る触れるような舐め方だった。
くすぐったかったのか、レミリアは身体をぴくりと震わせる。少し心を許してくれたのが嬉しいのか、顔には笑みが浮かんでいる。
白猫は再びレミリアの指を舐める。今度はなかなか離れようとはしない。
「ねえ、触らせてもらってもいいかしら?」
レミリアがそう聞くと、白猫はちらりと顔を上げる。けど、すぐに再びレミリアの指を舐め始める。ただ、レミリアの声に反応したというだけだろう。
「そんなに私の指が気に入ったの? まあ、目立った抗議を見せないなら触らせてもらうわよ」
もう片方の手を頭に向けて伸ばす。その手でそっと頭に触れると、白猫の身体がぴくりと揺れ、動きを止めてしまう。レミリアは刺激しすぎないようにと注意しながら、ゆっくりと手を動かしてその頭を撫でる。
しばらくしても、白猫は逃げ出すような素振りを見せない。それどころか、少しずつ身体の強ばりも緩んできているようだ。
「ふふ、もう触らせてくれるくらいに心を許してくれたのかしら? でも、そんなのでよくこれまで生きてこれたわね」
「お嬢様は、落ち着いていらっしゃる時は不思議な無防備さがあるので、それでつい心を許してしまうのですよ」
優しげな口調で白猫に話しかけるレミリアに対する咲夜の声は、こころなしか低い。聞く者によっては、殺意が込められているのではないだろうかと錯覚してしまうほどだ。
けど、咲夜の内なる感情はレミリアの方へと向かった。
「それより! 私の相手をしてくださったとき時よりもずっと優しそうなのはどう言うことですかっ!」
ため込んでいた不満を吐き出すように声を上げる。
白猫は不意の大声に驚いたのか、身体をびくりと震わせる。そうして、咲夜の方を睨むように見つめる。
お互いに顔は見えていないはずだが、咲夜はその気迫を感じ取ったのか牽制するように白猫のいる辺りへと鋭い視線を向ける。
そんな中、中心人物であるレミリアだけはかなり冷静な様子だ。白猫を撫でていた手を止めて、咲夜の方へと向き直る。それから、洋服で手についた土を払う。
「あの頃は、いろんなものに構ってる精神的な余裕はなかったからねぇ」
紅茶のカップを避けて、テーブルの上へと身を乗り出す。そして、白猫に舐められていた方の手で身体を支え、もう片方の手を伸ばして咲夜の頭を撫でる。
「……お嬢様、はしたないですよ」
「嫉妬を抱いて不機嫌になってる従者をなだめるのに、回り道をするのも惜しいと思ってね。大丈夫よ、貴女以上の従者はいないと思ってるから」
レミリアは我が子を見つめる母親のような笑みを浮かべる。咲夜はそんな表情から気まずそうに視線をそらす。けど、視界から出してしまうのはもったいないと思っているのか、そのそらし方は中途半端だ。
「……ありがとうございます」
「私こそお礼を言いたいところだわ。ありがとう、私のところに来てくれて」
それからしばらくの間、レミリアは頭を撫で、咲夜は頭を撫でられていた。咲夜が落ち着いたらしいのを見届けて、レミリアは手を止めて椅子に座り直す。
咲夜は物足りなさそうに主の手を目で追っていたが、従者の意地でもってぐっと抑え込む。
「そういえば、どうして私のところに居座ろうと思ったのかしら? 最初は追い払おうとしてたし、途中からは相手にもしなかったし」
「最初は、私以外に幻想の力を持った者がいるということに対する好奇心からでした。ですが、次第にお嬢様が私のことを気にかけてくださるようになってくださって、いつしかここ以外に居場所はないと思うようになっていたのですよ」
「ああ、そういえば鬱陶しいくらいに付きまとってくれてたわよね」
レミリアは皮肉を混じえて、懐かしそうに言う。
「はい、あのときはほとんど自棄だけで動いていましたからね」
◇
銀髪の少女は時間を止める動かすを繰り返して、闇夜を風のように駆ける紅の少女を追いかける。時間を止める力がなければ、すぐに見失ってしまっていたくらいに、その紅の少女は速い。
銀髪の少女は必要もないのに走る。殺害現場を離れ、石畳の上に足を下ろし、彼女を見上げた瞬間に不思議な昂揚に包まれて走り出していた。すぐに息は上がってしまっていたが、それでも少し歩くとすぐに走っていた。
歴史の感じられる家の建ち並ぶ一角から外れ、路地裏に入る。寝入る浮浪者たちの前の駆け抜け、町の外れへと出る。牧草地と思われる広い平原を真っ直ぐに走り、木々の生い茂る森の中へと入る。
そこで不意に紅の少女が止まり、地面へと降り立とうとした。漫然と追いかけているだけだった銀髪の少女は、考えていなかった事態に焦ってしまう。
自分に気付いたのか、それとも別の理由からか。
とにかく様子を見ようと、木の陰へと隠れて時間を動かす。
地面へと降り立った紅の少女は、鋭い視線を左右に動かす。敵が視界に入った途端に殺さんばかりの殺意と警戒心を抱いている。
それらを一本の木越しに感じながら、銀髪の少女は選択を誤ってしまったかもしれないと感じていた。すなわち、こちらの居場所に気付いた瞬間に殺されてしまうのではないだろうかと思っていた。
「そこにいるのは誰? 今すぐ帰るなら見逃すけど、そうでなければ容赦はしない」
けど、意外にも飛んできたのは銀髪の少女を傷つけるものではなく、凛と澄んだ声だった。ただし、常人では動けなくなるほどの殺意が込められている。下手な動きをすれば、動く間もなく殺すつもりがあるというのが感じ取れる。
そして、銀髪の少女もまた足を震わせ動けなくなっていた。一方的に殺すことに慣れていても、殺されるかもしれないという状況は初めてだった。心が奥深くに沈んでいたときなら、恐怖を感じることなく動けていたかもしれないが。
けど、殺されたくない理由がないことにふと気付いてしまう。どうして殺されることに恐怖する必要があるのだろうかと疑問を抱く。
そして、その疑問が彼女の恐怖を取り払った。気付けば、足の震えも収まっていた。
迷うことなく崖から飛び降りていくような気持ちで、木の陰から飛び出る。
その時、彼女は初めて紅の少女の顔を確認した。背中を見た時点でそうだろうとは思っていたが、予想通り漆黒の翼を大きく広げる少女の顔は美しかった。殺意の滲む鋭い紅の瞳でさえ、それを一層引き立てるものとなっているように思える。
「……子供?」
紅の少女は、自分より少し高いくらいの背丈の少女の姿を確認して訝しむ。だからといって殺意と警戒心が解かれることはなく、油断無く銀髪の少女の動向を観察している。
「私に何の用? ずっと付けてたみたいだけど」
「何もない」
「何もない? ……本当に?」
紅の少女の視線が更に鋭くなる。まるで、心の底をその瞳で見通そうとするかのように。
「うん、本当」
銀髪の少女は淡々とした様子で頷く。恐怖さえなくなってしまえば、今まで感情を出していなかった彼女の対応はそんなものとなる。そもそも、誰かと問答することさえ、とても久し振りなことだった。
紅の少女は、依然として銀髪の少女を観察している。けど、殺意は消え警戒心だけが残っている。空っぽな少女の様子を見て、すぐにどうにかすべき存在でもないと判断したようだ。
「なら、さっさと帰りなさい」
「私に帰る場所なんてない」
そんなことを告げてどうなるのだろうかという思いはある。それに、実際は帰る必要性を見出せなくなってしまったというだけだ。
ただ生きるだけなら、親とも呼べない両親の所に帰ればいい。けど、銀髪の少女はその生きたいということに対する意味を失ってしまっていた。正確には、自分がそうなっているということに気づいてしまった。
だから、いっそのこと自分と同じ側にいる紅の少女に付いていき、流れるままになってみようと自棄になっていた。それと同時に、自らの感情を引き出した彼女についていけば何か見つかるのではないだろうかとも思っていた。彼女に付いて行こうと決めた流れは、雛鳥が親を決める方法に似ていた。
「そう。だとしても、用がないのなら私には付いてくるんじゃないわよ」
「勝手に付いてく」
そこにどんな感情を乗せるべきかも決めず、淡々とそう言う。ただ、せっかく見つけたこんなにも魅力的なものを、そのまま手放してしまうのももったいない気がした。
紅の少女は、面倒くさそうにため息をつく。
かと思うと、銀髪の少女へと腕を伸ばした。そして、手のひらから紅い鎖が延びる。
銀髪の少女は予想どころか、常識さえも外れていた現象に対してどうするべきかわからなくなってしまう。
その結果、時間を止めた時には両足に鎖が巻き付き、歩けなくなってしまっていた。そして、紅の少女は夜の森の中へと消えようとしている。
銀髪の少女は懐からナイフを取り出し、断ち切ってみようとする。けど、何を素材としているのかわからないその奇妙な鎖には傷一つ付けることができない。
次に、鎖の周りの時間の経過を早めて、朽ちさせようとする。けど、常識とは異なった物質だからか一切形は変わらない。
そして、最後のあがきとばかりに足を適当に動かしてみる。当然のごとく鎖はびくともせず、彼女の足を拘束し続けていた。
現状ではどうしようもないと判断し、紅の少女の方へと視線を向けて、止めていた時間を再び動かす。その姿は目で追う間もなく消えてしまう。
ここで諦めてしまうか否か。
その答えは考えなくても出ていた。
しばらくして、紅い鎖は空気の中へと溶け込むように消え去った。
それと同時に、銀髪の少女は歩き出す。今更、前触れもなく鎖が消える程度のことは気にもならない。それよりも、彼女が気にするのは紅の少女の行方だ。
彼女が足を向けるのは森の奥の方。陽動のためにここまで誘われたのかもしれないという可能性も十分にある。けど、この深く生い茂った森は、現代に馴染めない超常が隠れ住むにはちょうどいいような気がした。
だから、銀髪の少女は迷うことなく森の奥へ足を進める。それも、獣道とさえも呼ぶことができないような、木と茂みに覆われたような場所へと。
一度、茂みの中へと入ってしまうと、どこを見渡しても同じような景色にしか見えない。けど、生きる目的がないことに気付いて自棄になっている彼女にとって、それは些細なことでしかなかった。
最悪、森から出られなくなり死んだとしても、仕方がないと受け入れるだろう。紅の少女を見つけられなかったことに、後悔はするかもしれないが。
そんな心構えで、銀髪の少女は当て所もなく夜の森をさまよう。ただ、直感に従って奥へ奥へと進んでいく。
木の枝が肌を傷つけ、木々の根により隆起した地面が体力を奪い去ろうとする。何事も手際よく片付けてきた彼女に持久力はあまりない。蓄積された疲労は、容易に溢れ出しそうになる。
それでも、時折休憩を挟みながら前へと進む。
救いを求めるでもなく、望みを絶つためでもない。ただただ、もう一度あの紅の少女に会いたいという衝動だけで前へと進む。
そのうちにどんな感情があるのかは彼女自身も知らない。けど、久々に湧き出てくる衝動に逆らう術も、必要性もわからなかった。
そして、不意に視界が開ける。
目の前に見えるのは赤煉瓦で作られた塀。ツタがそこら中に張っており、蹴飛ばせば簡単に崩れてしまいそうな印象がある。
直感がこの向こう側に紅の少女がいることを告げていた。けど、絶対にそうだという保証はない。とにかく、塀にそって歩き入り口を探してみることにする。
森とほとんど同化しているような部分が多いので歩きづらい。けど、森の中を突っ切ってきた彼女にしてみれば、それは今更のことだった。できる限り塀から離れないようにして、歩き続ける。
しばらくすると、塀と同様にツタに覆われた鉄格子の門を見つける。その向こう側には、古めかしい紅い館が見える。人の姿は見えない。
紅い館は紅の少女を連想させた。
そうであるという証拠はまだ見つけられていない。けど、銀髪の少女の直感はそうであると確信している。
なんであれ、入って確かめればいい。
そう決めて、錆び付いて動かしにくくなっている門を彼女の全体重をかけて押す。けど、銀髪の少女の力だけでは動かせないほどに、錆び付いてしまいツタに絡み付かれていた。
門を開けるのは諦め、ツタを登って門を越えることにする。彼女の体重では切れてしまわないほどに、ツタは頑丈だった。
敷地内に入っても、誰かが駆け寄ってくるようなことはない。銀髪の少女は、悠然とした様子で敷地内を進んでいく。
手入れのされていない植え込み。塀と同じようにツタの這う石畳。紅の館自体も地面付近の壁面はツタに完全に覆われてしまっている部分がある。
廃墟の如し様相。長年放置されているかのような出で立ちをしている。
けど、よく見てみれば、玄関の周りや少ない窓の周辺は綺麗にされていて、誰かが住んでいるという形跡は見られる。
銀髪の少女は真っ直ぐに進み玄関の大扉の前に立つと、鉄でできた取っ手をそっと握る。少し踏ん張って引っ張ってみると、門とは違い意外にすんなりと扉は動く。
「何をしているのかしら?」
子供が一人通れるほどの隙間が開いた瞬間、闇の中から鋭く澄んだ声が聞こえてきた。声の主は月夜の明かりの下に出てくる。それは、銀髪の少女が追いかけていた紅の少女だった。
不意の登場に銀髪の少女は驚きを浮かべる。けど、そういうこともあるのかもしれないと納得して、心を安定させる。
紅の少女との出会いによって、一度空っぽとなってしまった少女は簡単には立ち止まらない。空っぽだからこそ、止めるものが何もない。
「ここはお前のようなのが来るところじゃない。さっさと出て行きなさい」
「いや」
そう言いながら、館の中へと入る。銀髪の少女の影により、紅の少女の姿は見えづらくなる。けど、銀髪の少女にとって、そこにいるという事実があれば十分だった。どのような感情を抱かれているのかを知りたいとは思わなかった。
ただ自分を道具以外の何かとして見てくれていれば、十分すぎるほどに十分だった。
「この周りでうろちょろされると鬱陶しいのよ」
「なら、私を殺して。そうすればうろちょろできなくなる」
「そう。なら、指を一本ずつ折って、腕も足も間接ごとに折って、身体に小さな穴をいくつも開けて、痛みにもがいているところを見下ろしながら殺してあげましょうか?」
紅の少女は淡々と温度を感じさせない声で告げた。闇に慣れてきた目は、彼女の顔に酷薄な表情が浮かんでいるのを捉えていた。
その光景に銀髪の少女は足が竦む。本能が目の前の存在に対して怯えていた。けど、逃げない。逃げ出せないわけでもなく、自らの意志でその場に留まる。
ここまで美しい存在が、誰かを痛めつけながら殺す時にどのような表情を浮かべるのか気になった。それを抜きにしても、彼女に殺されるならそんな終わり方もいいのではないだろうと思っていた。
「それでもかまわない」
だから、真っ直ぐに見つめ返して躊躇なくそう言う。
その途端、紅の少女の顔から酷薄な笑みは消えてしまう。代わりに心底面倒くさそうな表情が浮かんでくる。けど、それも一瞬のことで、鋭い視線が怠惰を切り裂き、表へ出てくる。
その間、殺意は一度も出てこなかった。
風を切る音とともに、一本のナイフが銀髪の少女の横を通り抜けた。扉に突き立つと同時に、浅く切られた頬から血が流れ始める。
最初、銀髪の少女は自分の身に何が起きたのか理解できていなかった。けど、生温い液体が顎の下まで流れてきたところでようやく気付く。痛みに気づいたのも、その時だった。
切られた頬をなぞりながら考えたのは、この人は優しいのではないだろうかというそんなことだった。
あれだけの迫力でもって殺すと言っておいて、結局付けられた傷は頬に作られた浅い傷一つだけだ。まるで、できるだけ傷つけずに追い払うかのように。
紅の少女は動きを見せない銀髪の少女を恐怖で動けなくなっていると判断し、館の外へと押し出そうとする。けど、単に考え事をしていただけの銀髪の少女は押し出される前に、押し出そうとする手から逃れる。
紅の少女は、銀髪の少女を一瞥する。けど、特に何を言うこともなく視線を逸らし、ナイフを回収し扉をしっかりと閉める。そして、少女の存在をなかったことにするように、銀髪の少女に背中を向けて館の奥へと向かっていく。
銀髪の少女は迷うことなくその背中を追いかけた。
どこまで付きまとえば、殺されるのだろうかとそんなことを考えながら。
◇
「よくそれだけして、あの頃の私に殺されなかったわねぇ」
レミリアは他人事のようにそう言う。咲夜に対する呆れがその感想の大半だ。
「あの後、あんなことをして下さったりとお嬢様は根がお優しい方なのですよ」
「あれは、まあ、気の迷いみたいなものよ。あれがきっかけで貴女の事を気にするようになったのは事実だけど」
笑みを浮かべる咲夜と、少々居心地が悪そうにするレミリア。過去の自分の行動を引き合いに出されて優しいと言われるのは苦手なようだ。
その気恥ずかしさを誤魔化すように、彼女の膝の上でくつろいでいる白猫の身体を撫でる。一匹で床の上にいるのが嫌になったらしく、咲夜が話をしている間に彼女の膝の上に飛び乗っていた。
「咲夜、ちょっと席を外させてもらうわ」
レミリアはふと何か思いついたように、白猫を抱いて立ち上がる。白猫は一瞬怯えたように身体を竦めたが、暴れるようなことはなかった。動けないほど緊張しているのではなく、それだけ心を許してきているといった感じだ。現に、尻尾はゆったりとした様子で揺れている。
「お待ち下さい。そいつを連れてどこに行かれるつもりですか」
「こうやって抱いても逃げなくなったから、身体を拭いてあげるくらいはしてあげようかなぁとね。この子の身体、汚れてるでしょう?」
白猫を見下ろしながらそう言う。咲夜はそんな主の姿を見て、複雑そうな表情を浮かべるが、すぐに従者の顔へと戻る。
「では、私が用意をしますので、お嬢様はそこでお待ち下さい」
そう言って、咲夜は姿を消す。そして、何枚かのタオルと水を張った桶とを持ってすぐに戻ってくる。
「……どうぞ」
そして、レミリアと白猫とを見て逡巡を見せた後、持ってきた物を差し出す。レミリアに働かせたくないと思っているが、自分では触れられないからと葛藤した結果だ。それに、今日出会ったばかりの猫が優しくされているというのも面白くなかった。
無理に触って白猫をこの場から逃がすという考えが浮かんだりもしたが、主が望まないことはすべきでないと振り払った。
「ありがとう」
レミリアは白猫を床に下ろし、笑みを浮かべてそれらを受け取る。咲夜は、そんな笑顔を見ただけで不満の大半を吹き飛ばされてしまう。
レミリアは咲夜のそんな心情に気付いていないのか、あえて無視しているのか、それ以上構うことなく、受け取ったそれらも床に下ろしてその場に座る。
タオルを一枚水の中に浸して、ぎゅっと絞る。それから、白猫を抱き上げて腿の上に座らせる。
「大人しくしててちょうだいね。暴れてるのを綺麗にしてあげられるほど手慣れてはないから」
安心させるようにそっと話しかけながら、丁寧に白猫の身体を拭いていく。顔の周り、耳、首回りと順番に。
白猫はレミリアの手つきが心地いいのか、目を細めてくつろいでいる様子だ。
「お嬢様は意外と他人の世話をするのに慣れていらっしゃいますよね」
「まあ、私がフランの世話をするしかなかったからねぇ」
しみじみとした様子で答えながら、タオルを再び水の中へと浸してすすぐ。そして、またぎゅっと絞って、今度は胴を念入りに拭いていく。
咲夜はそんな主と白猫の姿をじっと眺めている。少しの嫉妬と多大な羨望を込めて。
「咲夜? 羨ましいなら、今夜は背中を流してあげましょうか? もしくは、髪を洗ってあげるとか。いや、折角なら全身を洗ってあげてもいいわよ」
「い、いえ、さ、さすがにお嬢様にそこまでしていただくのは悪いです」
珍しく慌てた様子を見せて視線をそらす。頬も赤く染まっており、非常にわかりやすい反応だ。
「別に遠慮しなくても良いわよ。まあ、恥ずかしくて嫌だって言うなら、強制はしないけど」
「……で、では、背中を流すのをお願いできるでしょうか」
このまま、遠慮し続けてこの機を逃してしまうのはもったいないと思ったのか、控えめにそう頼む。
「それだけでいいのかしら? まあ、追加オーダーはいつでも受け付けてるから、好きな時に言ってちょうだい。今日でも明日でも、それ以降でも」
レミリアは楽しそうに言いながら、咲夜の方に集中して止まってしまっていた手を再び動かし始める。基本的に咲夜の方がその場の雰囲気の主導権を握っていることが多いので、こうしてわかりやすい反応を見ることができるのが楽しいのかもしれない。
「……お嬢様。落ち着かないので、あの後のことを話してもよろしいでしょうか?」
「まあ、お好きにどうぞ。貴女がどんな気持ちで居座り続けてたのかも気になるし」
昔の素直でない自分の行動を語られるのは、やはり気恥ずかしいようだ。けど、懐古に浸っている彼女はそう思いながらも、当時の咲夜の想いを聞いてみたいようだ。あの時は、取るに足らないと思っていたが、今ではかけがえのない存在となっている一人の少女の大切な想いを。
「あの後、私は――」
咲夜は少し取り乱している心を落ち着けながら語り始める。
何よりも大切な宝物のことを話し始める。
◇
紅の少女は無言で館の奥へと歩いていき、銀髪の少女もその背中を無言で追いかける。
薄暗いせいか、それとも足取りがゆったりとしているせいか、紅い館の廊下は外から見た印象よりも長く感じる。
エントランスから見た時、廊下は綺麗になっているのとそうでないのとがはっきりと分かれていた。今、二人が歩いているのは綺麗になっている方だ。普段使っている道だけを綺麗にしているのかもしれない。
不意に紅の少女が足を止め、扉を開ける。銀髪の少女はその背中を追って部屋へと入っていく。
二人が入った部屋は、ベッドとタンス、それからテーブルと椅子のセットと必要最低限の物しか置かれていなかった。紅の少女は真っ直ぐにテーブルの方へと近づくとたった一つだけの椅子に座る。銀髪の少女はその後ろにまわり、床の上へと直接座った。
そして、二人とも声を発しようとしないので、部屋の中から音が消える。紅の少女が強硬手段に出ないので、持久戦へともつれ込んだようだ。どちらが先に折れるかという、そんな静かな戦い。
銀髪の少女は、漆黒の翼を眺めながらこれからどうなるのだろうかと考えていた。
そこにどうしたいという意志はなかった。紅の少女を追いかけようという衝動に駆られてここまで来ただけだ。
美しく幻想的な姿に魅了されていた。そこに自分の意志はない。そのはずだ。
けど、彼女は拒絶されているにも関わらず、依然として紅の少女を追っている。そこに何か自分でも気付かない目的があるのだろうか。そこに自らの意志があるのだろうか。
実父により意志を奪われた少女は、そのことに対する判断をすることができない。
銀髪の少女は頭を抱えて考えるのをやめてしまう。自分で考えることを放棄していた彼女は、あまり長い間考え事をするのが得意ではないようだ。
そんな折、不意に彼女の腹が空腹を訴える。
静寂が俗っぽい音によって崩された。そしてそこに紅の少女のため息が混じる。それによって、空気は完全に白けたものとなってしまう。
それからしばらくして、紅の少女は椅子から立ち上がり、真っ直ぐに扉の方へと向かっていく。その背中から発せられる空気はなんとなく丸くなっているようだった。
銀髪の少女は、その意味を考えずに背中を追いかけた。
紅の少女が向かったのは大きな食堂だった。長い間使われていないようで、紅の少女が歩く場所以外には埃が降り積もっている。逆に言えば、通り道だけは掃除が行き届いており、二人が上を歩いても埃一つ飛ばない。
その道を通り抜けてたどり着いたのは、これまた大きな厨房だった。こちらは、ある程度掃除が行き届いているようで、汚れの方が珍しいくらいだ。
紅の少女は更に奥へと進み、食料庫らしき部屋へと入る。冷媒装置の類はどこにも見当たらないのに、空気はひんやりとしている。少女はそのことに首を傾げつつ、辺りを見渡してみる。
大きな棚がいくつも並べられているが、使われているのは出入り口付近の物だけだ。一人なら一週間は持ちそうなほどの食料が並べられている。それを見て、銀髪の少女の腹の虫が再び鳴き声を上げる。更には、食べ物を目にすることで、唾液も多く出てきていた。それを飲み込むと、思いの外喉が大きく音を立てる。
紅の少女はそれらのことに構うことなく、棚へと近づく。食パンやベーグル、フランスパンと言ったものが並べられている。
銀髪の少女はその姿を視線で追おうとして、一カ所浮いた雰囲気の場所があることに気付く。
そこにあるのは、赤い液体の入った医療用のビニールパックだった。
なんとなく興味の引かれた銀髪の少女はその一角へと近づき、一つ手に取ってみる。
それには、採血日と記されたシールが貼ってあった。それを見て、中身が血液だと悟る。
棚から食材を取っていた紅の少女はその様子を一瞥するが何も言わない。すぐに、棚から必要な食材を選ぶ作業に戻ってしまう。
銀髪の少女もとある単語が頭に浮かんでいたが、口にせず輸血パックを棚へと戻す。それを確認したところで今更何も変わらないと思っていた。
紅の少女は必要な物を確保できたのか、食材を抱えて食料庫から出て行く。銀髪の少女は疑問を置き去りにして紅の少女の背中を追った。
「はい。これでも食べてお腹を落ち着かせなさい。後ろで何度も鳴らされてると鬱陶しいから」
心底面倒くさそうな表情を浮かべながら、サンドイッチの乗った皿を少女の膝の上に乗せる。少女はそれを落としてしまう前に手で支える。
「あ、ありがとう」
ずっと紅の少女が料理する姿を厨房の床に足を抱えて座り、追いかけていた少女だが、声にはその対応の意外さに対する困惑が込められている。どこかそうしてもらえるのではないかという期待があるにはあったが、それでも実際に自分に対するものだとわかると意外性の方が大きい。
けど、身体の方はそんなことに頓着するほど回りくどくはなく、今まででもっとも大きく腹の虫を鳴かせる。少女は、少し顔を俯かせながらも両足を伸ばし、その上に皿を置いて安定させる。
そして、ハムとチーズと新鮮なレタスとで作られたサンドイッチを両手で掴み、一口かじる。
別段特筆すべきほどの味がするものではない。一般的な家庭で作られるものと大差はないだろう。けど、彼女は純粋にそれをとても美味しいと感じた。理屈ではなく、感情がそう言っていた。
その感覚に内心首を傾げながら、ゆっくりと食べ進める。
そんな彼女の隣に、紅の少女が腰を下ろす。何も言わず、何もしようとしない。ただただ静かに座っているだけだ。
二人の間には少し距離が空いている。それでも、少女は何か暖かいものを感じていた。
何か具体的な言葉にしてみようとして最初に思い浮かんだのは、居心地がいいだった。
「……おいしかった、ありがとう」
全てのサンドイッチを食べ終わった銀髪の少女は、おずおずといった様子で、空になった皿を紅の少女の方へと差し出す。
「そう」
紅の少女は素っ気ない返事をして、皿を受け取って立ち上がる。流しに皿を置くと、水桶で水瓶から水をすくい取り、そこに布巾を浸ししっかりとしぼるとそれで皿を拭く。
少女はその非現実的な紅の少女が作り出す日常的な光景に目を奪われる。
彼女が日常的な光景を見たのが初めてというわけではない。自らの超常の力に気付く前なら、毎日のように見かけることができていた。
だから、彼女の中には懐かしさが去来していた。その想いは少女の心の器を容易に一杯にし、溢れ出してきてしまう。
例えばそれは、涙という形で。
溢れた想いに気付いたのは、頬が濡れた頃だった。切り傷に涙が触れて痛みを思い出す。けど、それ以上に少女は自分の身に起きていることに驚き戸惑っていた。手の甲で何度も何度も拭うが、止まる気配はない。
皿を洗い終わり振り返った紅の少女は驚きを浮かべる。そのまま無視しようとするが、失敗してしまう。一度手を差し出してしまったことで、戻れなくなってしまっていた。
「なんで泣いてるのよ」
ため息をつきながらそう聞く。ため息は必要のないことに関わっていこうとしている自分自身に対するものだった。
「わかんない」
答える声に混じっているのは困惑ばかりだ。自分の身に起きていることが全く理解できていないようだ。
理解できない自身の涙に恐怖さえ浮かんでくる。
「……はぁ。しばらく待ってなさい。用意が出来た時には落ち着いてるかもしれないけど」
けど、紅の少女は何かを察したのかため息を吐く。追い出そうとしながら、その相手の心中を察せてしまったことに自分自身で呆れているようだ。無視をするのは、完全に諦めてしまっていた。
再び少女に背を向けると小さなヤカンを手に取り、そこに水を入れる。そして、コンロのような装置の上に乗せると、通常はバーナーが取り付けられている部分に並べられた赤い宝石が熱と光を放ち始める。
紅の少女はそちらに意識を向けながら、ポットやカップの用意をする。
少女はその非現実と日常との混じった光景を、涙を流しながら見つめていた。
「はい、どうぞ」
手慣れた様子で二人分の紅茶を用意した紅の少女は、カップの一つを銀髪の少女に渡す。銀髪の少女は両手を伸ばしてそれを受け取る。彼女の涙は、紅の少女が紅茶の用意をしている間に止まっていた。
紅の少女はそれらのことを確認してから、彼女の隣へとそっと腰を下ろす。
「心を落ち着かせるには、紅茶がいいらしいわよ」
素っ気ない態度でそう言いながら、カップに口を付ける。けど、紅茶をしばらく味わったところで、始終仏頂面だった顔に笑みが浮かんでくる。満足できる出来だったようだ。
銀髪の少女はその無防備な表情を不思議なもののように見る。その視線に気付いた紅の少女は、すぐに視線をあらぬ方向へと向けて不機嫌そうな表情へと逆戻りしてしまう。
少女はそのことを残念だと思っていた。
そして、その感情は彼女を更に困惑させる。自分がそんなことを考えるなんてあり得るのだろうかと。
けど、両手で包んだ暖かさがそれは確かなことだと教えてくれていた。それでも、最終確認を取るように一口飲んでみる。
少し熱い、けど無理をする必要がない程度のその温度からは心配りが感じられる。けどそれは、紅の少女の紅茶に対するこだわりから来るのかもしれない。
比較的現実的な思考をする彼女はそう考える。けど、心のどこかではこうして紅茶を飲んでいることに居心地の良さを感じている。いつまでもこうしていたいと思っている。
「ねえ」
少女が声をかける。けど、紅の少女は何も言おうとしない。
聞く気がないのか、先を促しているのか判別がつかないまま続きを口にする。
「私はあなたのそばにいたい」
口に出してそう言ってみる。自らの意志によるものなのか、紅の少女の魅力に流されてそうしたいと思ったのかは判断ができない。
けど、感情がそうしたいと訴えているのだからそれでいいのではないだろうかと思っていた。前向きな感情を抱くことそのものが、とても久し振りなことだったから。
「……そばにいたら、そんなふうに思うようになってた」
その言葉を聞いた紅の少女はなんとも言えない表情を浮かべる。嫌そうで面倒くさそうで、けど拒絶や拒否はないそんな表情。
「だからそばにいさせて。ここから出て行けっていうこと以外ならなんでもするから。特に誰かを殺すのは得意だから、私を使って」
初めて自らの意志で誰かを殺すと宣言した。自分にはそれしかないから。それ以外には何もできないと思っているから。
「今更そんなのはいらないわよ」
紅の少女はその言葉を切って捨てる。けど、明確な拒絶も見せず、再び紅茶を口に含む。
銀髪の少女はその横顔を探るようにじっと眺める。その間も、紅の少女は視線を意に介さず、紅茶をゆっくりと口にしている。そこから感情を読み取ることはできない。
結局、途中で諦めて彼女も紅茶をゆっくりと飲み始める。
「……その代わり、家事の手伝いをしてくれると助かるわ」
紅の少女に似つかわしくない小さな声に、銀髪の少女は自分でも気づかないくらいに小さな笑みを浮かべていた。
◇
「それから、私は一生懸命に家事を覚えました。お嬢様から与えられる居心地の良さに応えられるようにと。その結果、気付けば私がこの館の家事を取り仕切るようになっていました。まあ、お嬢様が私を受け入れてくださったことに比べれば、それもほんの些細な出来事なのですが」
そこで咲夜は一息つく。喉を労るため紅茶を飲もうとするが、持ち上げたカップは空になってしまっていた。
「紅茶が欲しいなら入れてあげるわよ」
綺麗に汚れが拭き取られ純白の毛を揺らす白猫を床へと下ろしタオルで手を拭いていたレミリアが立ち上がりながらそう聞く。もともとそうするために、早い段階で準備をしていたのかもしれない。
「それくらいは自分で……、いえ、よろしくお願いします」
「うん。素直でよろしい」
レミリアは少し皮肉っぽさを滲ませながらも、どこか嬉しそうな様子で頷く。そして、ティーポットを取って、咲夜の隣に立つ。
咲夜がカップをソーサーの上に置くのを確認してから、それらをテーブルの端へと寄せて、ポットから紅茶を注ぎ始める。咲夜がポット内の時間を止めていたので、最適な温度は今でも保たれている。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
お互いに笑みを浮かべてのやり取り。昔の二人からは想像もできない光景だろう。
白猫は不満そうに尻尾を揺らしながらも、大人しくその光景を見ている。それくらいに、今の二人の間には入りづらい。
その代わり、レミリアが自分の席へと戻った瞬間に膝の上へと飛び乗った。そして、その場で身体を丸める。
「この子、咲夜よりずっと甘えたがりのようね」
膝に乗った白猫を撫でながらそんなことを言う。白猫はその手つきが心地良いようで、くつろいだ様子を見せている。レミリアもまた毛の触り心地が良いようで、手を止めようとしない。
「それは、今のお嬢様が昔と違って露骨に優しさを見せているからですよ」
「なら、あのときの私が貴女に優しく接していたら、もっと甘えたがりになってたのかしら?」
「もっと、というの少々語弊があるように思いますが、甘えたがりにはなっていたかもしれません」
「その場合にも、貴女は私の従者になっていたのかしらね? 従者以外の姿って言われても想像はできないけど」
レミリアは咲夜の別の姿を思い浮かべてみようとしているのか、思案顔となる。けど、いくら頑張っても、従者としての姿しか浮かんでこない。それだけ、咲夜の従者としての働きぶりは板についている。
「どうでしょうかね。本当に私の心を動かしたのは、家事をなさるお嬢様の姿でしたし、ここしか私の入る場所はないのではないだろうかと思ってこうしているわけですし」
「前半は分かるけど、後半が良く分からないのだけれど?」
「お嬢様に対する役割ですよ。パチュリー様は友情を抱いて友人、フランドールお嬢様は血の繋がりでもって妹。なら、そこに忠誠を誓うことで従者となって対抗するのは当然だとは思いませんか?」
「いや、当然とか言われてもよくわからないわ」
少し呆れが混じった様子で自身の不理解を示す。レミリアは、誰よりも咲夜のことを理解していると思っているが、時々今のように理解が追いつかなくなるときがある。その時は大抵、今のように質問はしながらも努めて理解しようとはしない。
わかればいいし、わからなければそれでもいいといった具合だ。
「お嬢様は求められる側ですから、わからないのかもしれません。お嬢様は誰かを追いかけたことがありますか? もしくは、振り向いて欲しいと思ったことがありますか?」
「少しニュアンスが違ってくるかもしれないけど、あるにはあるわよ」
「そうなんですか?」
咲夜は意外そうに首を傾げる。
「ええ。私は自分の世界にあるものを手放したくないと思ってるわ。そして、できる限り出て行って欲しくないと思ってる。まあ、強制するつもりはないけどね」
咲夜の方へと少し寂しそうな笑みを向けて言う。咲夜は、その表情から逃げるように顔を逸らす。
「……目の前でそんなことを仰るのは卑怯だと思いますよ」
「人間だからを理由にして我が侭を貫いてる貴女には言われたくないわよ」
レミリアは感情を隠すように澄ました表情を浮かべる。声もどこか淡々としたものだ。
対して、咲夜は少し動揺を見せている。
「ぐむ……、それを言われると何も言い返せません」
「ま、始まりも貴女の勝手からだったんだから、終わりも貴女の勝手でいいのかもしれないわね」
一転してレミリアは何かを悟ったような態度でそう言う。諦めているとも言えるかもしれない。
そして、ふと寂しげな表情へと戻ってしまう。
「……本当はこんな気分になりたかったわけじゃないのに、ままならないわねぇ」
「では、昔話をするのもここら辺りで切り上げましょうか」
「そうね」
そう言うやいなや、レミリアは少し残っていた紅茶を飲み干して、トレイの上にカップを乗せる。
それから、膝に乗っていた白猫を下ろして立ち上がる。白猫は、ゆったりとした足取りでレミリアの足を追いかける。
「お嬢様、後片付けは私がしますので、気になさらないで下さい」
「いやいや、今日くらいは私にさせてちょうだい。動いてないと、余計なこと考えて落ち込むわよ」
「お嬢様らしからぬ脅し文句ですね。でもまあ、そういうことなら了解しました。お嬢様が落ち込んでいらっしゃる姿は見たくないですから」
笑みを浮かべて、注がれたばかりの紅茶を一気に飲み干す。それから、カップをレミリアの持つトレイに乗せると、椅子から立ち上がりレミリアの後ろに立つ。
「ゆっくりしてくれててよかったのに」
「いえいえ、お嬢様の後ろが私専用の居場所ですから」
「貴女専用にした覚えはないんだけれど」
「私が勝手に決めましたので。というわけで、あなたにこの場所は譲らないわよ」
咲夜はその場にかがみ込んで白猫を抱き上げる。レミリアから離れたくないからか、逃げるような素振りは見せないが、尻尾は不満そうに揺れている。
「咲夜として、それは許容範囲なの?」
「今日は存分にお嬢様成分を補給できましたので、少しばかり寛大な心を持とうかと」
「ふーん?」
咲夜の価値観がよく分からないのか首を傾げる。けど、特に何かを聞くこともなく、部屋から出る。白猫を抱いた咲夜もその後に続く。
「ああ、そうだ。夕食作るのを手伝おうと思ってるんだけど、いいわよね?」
レミリアは、廊下を歩いている途中でふと振り返ってそんなことを言う。
「ふむ。お嬢様は咲夜成分が不足していらっしゃるのですね」
「何よ、そのさっきから出てくるなんとか成分っていうのは」
「好きな人とともに過ごすことで補給できる成分ですよ。欠乏すると、やたらとその人と一緒にいたくなります」
「そういう変な価値観の出所は小悪魔?」
「はい、そうですよ」
先程までの少し寂しげな雰囲気はなかったかのように、二人は和やかな様子で歩く。寂しがっている時間をもったいないと思っているのかもしれない。
「じゃあ、そうね。ちょっと寂しい気分になって咲夜成分が足りないから、今夜は髪を洗うのも追加しましょうか」
「えっ! ……ま、まぁ、それくらいならいいですが」
「ふふ、今日はいつにもまして素直なのね」
今にも弾んだ足取りで歩き出しそうなレミリアと、恥ずかしそうに顔を俯かせる咲夜。
そんな二人の間で、白猫は小さく鳴き声をあげるのだった。
これは自分の功績なのだとでも言うかのように。
Fin
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