「お姉ちゃん、お店を開きましょう」
「……はい?」

 私の提案に返ってきたのは、素っ頓狂な声だった。

「だからっ! おーみーせー!」

 お姉ちゃんが仕事で使ってる大机に両手を叩きつける。何か作業中だったらしい書類をちゃんと避ける辺り私は偉い。

「……そんなに叫ばなくても聞こえてますよ」

 お姉ちゃんは顔をしかめながら両手で耳を塞いでいる。
 天井まで届く大きな本棚が二つと、仕事用の大机、それから滅多に本来の目的に使われることのない応接用のテーブルとソファしかない静かな部屋に私の大声が響くのは確かに迷惑だろう。だとしても、妹の必死の訴えにそんな反応を示すなんて酷い。

「知ってる。なんか理解が追いついてないみたいだったから、無理やり押し込めばわかってくれるかなって」
「理解というのは、そんな力押しで進めるものじゃないわよ。というわけで、分かりやすく説明してちょうだい」

 そんな要求をしてきた。まあ、元よりそのつもりだ。さっきまでの無駄なやり取りは、私なりのじゃれつき方なのだ。
 そこ、面倒くさいとか言わない。

「お姉ちゃんは旧灼熱地獄が活性化してから、うちの周りに屋台が立つようになったのは知ってるよね?」

 旧灼熱地獄の活性化に伴って、うちの周りでは間欠泉や高温の蒸気が吹き出るような場所が何箇所もできた。

 私は危険になったなぁということくらいしか思わなかった。でも、地底の妖怪の中にはそれを有効活用しようと考えたのがいたのだ。
 最初はたった一人が、サトリの存在に怯えながらも高温の蒸気を用いた料理を売るという商売を始めた。
 でも地霊殿に対する怯えは地底で一般的なものだから、客足なんてほとんどなかった。

 そう、ほとんどだ。

 その妖怪の宣伝が上手かったのか、はたまたどこにでも物好きはいるということなのか、ほんの少しだけど客がいたのだ。
 そこから口コミが次第に広がって、徐々に客の数は増え、真似をする者たちも出てきた。
 そして今では、蒸気を用いる調理法に『地獄蒸し』の名を与えられ、それを冠した料理を売る屋台が毎日いくつか立つようになっている。
 ただ、残念なことに問題を抱えているのだ。

「うちの敷地内だから一応知ってるわよ。それが?」
「その割には静かすぎると思わない?」
「言われてみればそうね。でも、静かなのはいいことじゃない?」
「よくないよ! あんな場所でご飯食べても美味しくないよっ?!」

 そうなのだ。
 美味しい料理のために集まる者たちはいる。でも、サトリの影に対する怯えはそう簡単に払拭できないし、その上無断使用と来ている。だから、あの周囲の空気は抑圧的で、息が詰まりそうになることがある。
 そんな状態だから、それなりに妖怪がいるのにしんと静まっているという異様な光景となっている。

 でもまあ、そのおかげで静けさを好む妖怪は多い。私も今更どんちゃん騒ぎができるような場所になってほしいとは思っていない。
 ただそう、もう少し穏やかな空気が流れていて、ゆったりとできるような場所になってほしいのだ。そうなれば、心の底から食べ歩きを楽しめるようになる。

 そんなことをお姉ちゃんへ無駄な身振り手振りを加えつつ伝える。

「……あんたの言いたいことは分かったわ。でも、どうして私たちが店をやるという発想になったの? 私が正式な許可を出せば済む話でしょう?」
「お姉ちゃん、自分が世を震撼させた妖怪だったってこと忘れてない?」

 今は自分の部屋にこもりきりで、全く他人と関わらない生活をしているけど、これでも昔はサトリの中でも最高峰の存在として扱われていたし、お姉ちゃん自身それを誇っていた。それを示すように、お姉ちゃんの名前は種族を表すさとりだ。
 それがこんなふうに腑抜けてしまったのは、私のせいなんだけど今は関係ない。

「それがどう関係してくるのか分からないわ」

 昔のお姉ちゃんなら伝わってただろうけど、今のお姉ちゃんには駄目だったようだ。
 サトリとしての自尊心が完全に抜け落ちてしまっている。でも、私はそんなお姉ちゃんが大好きだ。私の平穏に、妖怪としての鋭さなんて必要ない。

「しょうがない。それじゃあ、教えてあげましょう」

 気取った物言いをしながら、人差し指を立てる。

「お姉ちゃんはその第三の眼によって恐れられています。それこそ、怒らせてしまえば殺されてしまうんじゃないかって思われてしまうくらいに」

 物理的に殺されるのであれば、ここまで恐れられていないだろう。妖怪の頑丈さは折り紙つきだ。
 でも、サトリであればその頑丈な鎧を無視して、直接心を殺すことができる。人間なら植物人間、妖怪なら消滅。しかも質の悪いことに、完全に逃れようと思えば、心を閉ざすしかない。本当にやってしまえば、本末転倒というものだ。
 私みたいなのは例外中の例外だろう。

「一線を越えたら終わっちゃう。でも、その一線がわからない。だから、必要以上に抑え込んで、萎縮しちゃってる。だからね、お姉ちゃんが表に出て、ここまでなら許せますよー、っていうのを前面に出せば、もう少しまともな場所になると思うんだ」
「はあ」

 ものすごく気のない返事だった。

「お姉ちゃん、理解してる? それとも、やる気がないだけ?」
「やる気がないだけよ。だから、やるなら私抜きでやりなさい。ペットたちは仕事を割り振ってる子以外なら、好きなように連れて行っていいから」
「やっぱり理解してないでしょ!」

 本当は理解している上で、面倒くさいからという理由だけでああ言っているのだろうけど。
 どちらにせよ駄目姉である。大人しいのはいいけど、こういう部分は直して欲しい。

「そもそも、わざわざ店を開く理由がわからないわ。あんたの目的を達成するなら、私が直接出て行くだけでも十分でしょう?」
「それもそうかもしれないけど、折角なら色んなことやってみたいと思わない?」
「思わない。そもそも場所とかはどうするのよ」

 おっと、やる気がないと言うだけではなく、実行が不可能だと思わせることでやめさせようという算段のようだ。ペットたちくらいなら、その方法で容易く陥落できるだろうけど、私はそう簡単に負けない。
 そのために、今日この時まで用意をしてきている。

「お姉ちゃんはもっと外に出るべきだと思う。さっき言った通りの現状だから場所はいくらでも余ってるよ」
「屋台の設営は?」
「よっぽど腕が良くないと続かない状態だから、使われなくなって放置されてるのがある。だから、それを使わせてもらう。あ、後で面倒ごとにならないように、穏和な妖怪を選んで許可は貰ってるから安心して」

 話し合いは特に問題もなく円満に終わった。その裏にはいくつかの敗北があったけど、面倒ごとにならないうちに記憶を消して逃げている。浅い付き合いだから、思い出されることもないだろう。

「……材料は?」

 そろそろ指摘するところがなくなってきたのか、お姉ちゃんの語調が弱まってくる。

「材料費は出資者がいるから心配なし。材料調達については特殊な材料がなければいつも通りでだいじょうぶでしょ」

 ちなみに出資者というのは、秦こころという付喪神だ。能をやってるおかげでお金は入ってくるけど、使い道がないと困っていた。そこにこの話を出したら快く出してくれると言ったのだ。
 彼女が一応師と慕っている化け狸もそのお金を狙ってるらしいけど、怪しいからと貸したりはしていないそうだ。
 私の方が信頼されているということである。ふふん。

「……用意周到ね」
「お姉ちゃんが頷いてから準備を始めたら、待たせることになるからね」

 もともと首を縦に振るという見込みが薄いのだ。それなのに、折角乗り気になったところでしばらく待ってほしいなんて言って、気が変わってしまったら大問題だ。

「……私の料理なんて売れるようなものじゃないわよ」
「売れるかどうかなんてどうでもいいよ。大切なのは、お姉ちゃんが危険な存在じゃないってことを伝えることなんだから」

 昔の私たちが避けられていたのは、私以外のサトリは問答無用で危害を加える妖怪だったからだし、今の私たちが避けられているのは、交流がなくてなんだかよくわからない存在だからだ。だから、もしかしたら、害意を持たずに交流を持てば、受け入れられるなんてこともあるのかもしれない。

 しばらくの間、睨み合い、というか見つめ合いが続く。
 この手の忍耐勝負で負けるつもりはない。望むのなら、一日でも続けてやろう。

「……はあ、分かったわ。私の負け。屋台の料理人として頑張らせてもらうわ。接客は任せるわね」
「何言ってるの。お姉ちゃんもちゃんとお客さんの相手しないと。屋台だよ? 屋台」
「面倒くさい……」

 とにかく他人との交流をしたくないようである。お姉ちゃん、割りと私のためにがんばってくれるのに、他人が関わるようなものには消極的になる理由がよくわからない。

「呼び込みとか和ませ役とかは私とペットたちでやるから、お姉ちゃんはちゃんと受け答えするだけでいいよ。それくらいはできるよね?」

 できないとは思っていないけど、ここまでのやり取りからそれすらもやりたくないと言いかねない。だから、ちょっと煽るような言い方をする。

「さすがにそれくらいは出来るわよ。……出来るわよね?」
「だいじょうぶだいじょうぶ、なんとかなるなる」

 今は引きこもりをやってるけど、決して対人能力がないというわけではないのだ。というか、もし対人能力がなければ私のように落ちぶれていたことだろう。
 それにも関わらずここまで自信がなさそうなのは、引きこもり歴が長すぎたからだろう。霊夢とかが来た時は普通に接することができてたみたいだから、そんなに不安にならなくてもいいのに。

「まあ、お姉ちゃんが失敗しても、私がフォローするから安心して!」

 あまりにも不安げだから、私に任せろとばかりに胸を叩いてそう言ってあげる。

「こいし……」

 お姉ちゃんが私を頼もしげに見てくる。でも、すぐに顔を俯かせて自分自身に呆れるような表情を浮かべた。
 多分、姉としてこんなことでいいのだろうかとでも思ったのだろう。私はそう思っていた。

「それで、お姉ちゃん、何作る?」

 私は妹として見ない振りをしてあげることにする。

「そ、そうね……、あまり長い間店の前に居座られたくないから、手に持って食べられるものがいいわよね……」

 何が何でも他人との交流はしたくないようである。ただの食わず嫌いなのか、本当に嫌なのかは、今後見極めることにしよう。
 心底嫌がってるなら、一緒にお店を回って姉バカっぷりを見せつけるくらいにしようか。私としては物足りないけど、無理強いもしたくはない。

「よし、それじゃあ、餡饅にしましょう」
「うん、いいと思うよ。それじゃあ、その方向で準備するから、材料教えて」

 お姉ちゃんが料理を作っている姿を眺めていたりはするけど、調理工程を見ているわけじゃないから、材料とかは全然覚えていないのだ。気付いたら、エプロンの結び目を追いかけていることも多々ある。

「ええっと、じゃあ、紙に書くからちょっと待ってちょうだい」

 そう言って机の中から一枚の紙を出すと、机の上の羽ペンを使ってさらさらと材料を書き上げていく。
 いつ見てもお姉ちゃんの書く字は、すらっとしていて綺麗だ。私が書くと、何故か全体的に丸っこくなってしまう。

「それじゃあ、これをお願い。始めるのはいつからになるのかしら?」
「色々やっとかないといけないことがあるから、明後日くらいからかな。がんばれば、明日からやれないこともないけど」
「宣伝とかも必要……、いや、どうせ誰も来ないでしょうね」

 宣伝に効果がないというのには同意だ。
 サトリに対する恐怖が根付いている中で、本人を伴わない宣伝は何の効果もないだろう。お姉ちゃんが直接出て行けば多少は効果も出てくるかもしれないけど、本人にあまりやる気がないのにそこまでやらせるのはなぁと思う。結局、うちの周りの雰囲気を改善できればいいのだから、無理をする必要はない。
 でも、伝えておけば興味くらいは持ってくれそうな知り合いもいるから、その人たちには伝えておこう。私が見習いたいと思っている人も多分来てくれるだろう。

「調理器具の確認とか屋台の使い勝手とかを確認したいから、早くても明後日からがいいわ」
「うん、わかった」

 お姉ちゃんに伝えておくことはこれくらいだろうか。

「こいし。私たちの屋台まで案内してくれる?」
「うん、いいよ」

 そういえば、場所を全然教えていなかった。

 何にせよ、今のところは順調に進んでいる。だから、今は前に進むことだけを考えることにしよう。





 地霊殿の周りは蒸気によって少し煙っている。でも、遠くにいる人の姿が影だけになるという程でもない。慣れてしまえば大して気にならなくなる程度のものだ。

 あれこれと準備を押し進めて開店当日。特に大きな問題に直面することなくここまで来た。
 煩わしい手続きが一切ないからというのが一番大きいだろう。鬼たちが管理している旧地獄街道の方でお店を開こうとしたら、面倒なことになるのだ。向こうの方はごちゃごちゃしてるから、仕方ないといえば仕方ないのだけど。
 でまあ、問題は開店後の今にある。

「誰も寄ってきませんね……」
「初めから分かってたことでしょう?」

 お空の落胆した声にお姉ちゃんの淡々とした声が返る。

 私の計画を聞いたお空は、絶対に上手く行くだろうだなんて無邪気にはしゃいでいて、お店を手伝うことにも随分と乗り気だった。でも、今はしょんぼりと肩は落ちて、大きな黒い翼も垂れ下がっている。
 手伝いに来てくれているのはもう一人いる。それは、今現在カウンターと椅子を拭いているお燐だ。彼女は大して期待していなかった側だ。
 というか、よっぽど考え方が真っ直ぐじゃない限り、期待なんて抱けるはずがない。
 流石、お空は太陽の神様の力を手に入れられただけある。正直に言って、その真っ直ぐさはすごく羨ましい。

 さて、発案者としてこのなんとも言えない白けた空気をどうにかしなければいけない。私の悪戯っ子な部分が視界も白んでるね、なんてつまらない冗談を口にしたがっているけど、ぐっと堪える。白い目を向けられてしまってはいたたまれない。

「こいし様は余裕そうですね。何か策でもあるんですか?」

 カウンターを拭き終わって暇になったらしいお燐がそんなことを聞いてくる。

「当然。じゃなきゃ、こんな分の悪い賭けなんてやってないって」

 お店を開くだけでうまくいくという期待はほんのちょっぴりしかしていない。本命はここからだ。

「というわけで、ちょっと呼び込みに行ってくる。しばらくは三人でよろしく!」

 緑のエプロンを外して、カウンターから出て行く。特に忙しくもないから誰も止めようともしない。ついでに言うと、誰の目にも希望の色は見て取れない。まあ、そんなものだろう。

 私はたったと駆けて、ある場所を目指すのだった。




 私が向かったのは、美味しそうな匂いを漂わせる屋台だ。上りには『地獄蒸し肉まん』と力強い字で書かれている。どうでもいいけど、ひらがなが混じると、なんとなく可愛らしい印象となってしまうのはなんなのだろうか。
 カウンターの向こう側には、厳つい顔の二本角の鬼が暇そうに佇んでいる。目を閉じているから、もしかしたら寝ているのかもしれない。
 関係ないけど。

「おじさん、こんにちはっ」
「……ん? ああ、古明地んところの嬢ちゃんか」

 やっぱり寝てたみたいで、私の挨拶に遅れて反応した。

「いきなり古明地のが出張ってきてなんのつもりなんだ? これを見る限り、俺たちを取り締まろうって感じでもないが」

 そう言いながら彼がひらひらとさせるのは、ここでの営業許可書証と諸々の注意書きの紙だ。昨日のうちに私が配っておいたものだ。
 まあ、私たちがここで商売をすることを認めているということと、大騒ぎしないで欲しいということを明確化させるためにやっていることだから、許可証はほとんど飾りである。
 今回が最初で最後の発行になるかもしれないから、もしかしたら老舗の証にはなったりするかもしれない。

「前々からこの辺りの重っ苦しい雰囲気をどうにかしたいって言ってたでしょ? だから、これはその一環」
「ふぅん?」
「で、うちの屋台に来て欲しいんだけど」

 私がそう言った途端、動きが止まった。そして、視線が逃げ始める。

「いやいや、冗談を言うんじゃない。古明地と顔を合わせるなんて、死にに行くようなもんだ」
「常日頃から言ってるけど、私のお姉ちゃんなんて単なる姉バカだよ? そりゃまあ、怒ると怖いけど普通に接してたらわざわざ殺すような真似なんてしないって」
「でもなぁ……」

 ものすごく渋っている。
 多分、彼の抱く恐怖はイメージからの産物だろう。経験からのものでないから、どこかで諦めもつくはずだ。

「なんか取っ付きにくい雰囲気あるかもしれないけど、あれは単に他人との付き合い方を忘れてるだけ。なんにせよ、お姉ちゃんは怖くないから。おじさんだって、もうちょっと落ち着いた雰囲気になってほしいでしょ?」
「ううむ……」

 眉間に皺を寄せて考え込んでいる。鬼らしくないなぁとは思うけど、だからこそこんな場所にいるのだろう。ここにいる鬼は彼くらいのものだ。

「まあ、今すぐ慣れろっていうわけじゃないから。こうほら、使わせてもらってるお礼を言いに行くような感じで?」
「……そうだな。筋は通しとかないといけないな」

 その言葉を聞いた瞬間、心の中でぐっとガッツポーズをする。少し変わっているところがあるとはいえ、彼も鬼の端くれだ。言葉にしてしまえば、必ず行動へと移してくれる。

「となれば善は急げだな。嬢ちゃん、少し店番を頼んでもいいか?」
「それはいいけど、私は連れて行かなくていいの?」

 私がいないからどうこうということはないだろうけど、彼としては私がいた方が安心はできるだろう。なんらかの弾みでお姉ちゃんに害意を持たれても、私がいればなんとかなるという認識を持っているだろうから。
 あと、どんなやり取りをするのか気になる。

「店番なら私じゃなくても、お燐とかでもいいでしょ?」

 地底の治安の悪さなら、誰も立たせずに離れるなんてことはできないだろうから、先にそんな提案をしておく。お燐も彼とは知り合いだったはずだ。

「……そう、だな。頼まれてくれるか?」
「うん、頼まれてあげる。じゃあ、お燐呼んでくるからちょっと待っててね」
「おう、よろしくな」

 というわけで、たったかたーと駆け出す。無闇やたらと急いでも仕方ないけど、走り出したい気分だったのだ。




「お姉ちゃん、紹介するね。この人はこの辺りで肉饅屋をやってて、私もよく食べさせてもらってるの」

 お燐と入れ替わるように肉饅屋のおじさんを屋台へと連れてきた。彼の手には、お店の商品である肉饅が入った小さな行李がある。

「あっ、おっちゃんだ。こんにちはっ」
「おおっ、お空ちゃんじゃないか」

 お姉ちゃんは心底興味がなさそうな視線を向けていたけど、お空が元気よく反応を示して硬直しそうだった空気を軟化させる。
 お空はその真っ直ぐすぎる性格と強大な力故に、地底では疎まれている側だけど、力押しで自分のペースに持っていって、気に入られていたりすることも多いという結構特殊な立場にいる。誰しもが毒気を抜かれてしまうのだ。
 私もこっちのペースを押し付けるタイプだけど、作っていたら駄目なんだろうなぁ。

 とりあえず、現状は私が出る幕はないようだ。安心して見ていよう。

「食べに来てくれたのっ? さとり様の作る料理はおいしいよっ! さあさあさあっ!」

 ようやくやってきたお客さんにテンションが振り切れているようで、蒸籠から取り出した餡饅を押し付けようとしている。
 前言撤回。安心して見ていることはできないようである。

「どうどう、お空、ちょっと落ち着いて。おじさんは阿修羅じゃないから受け取れないよ。というわけで、はいどうぞ」

 手土産を渡させるのが最初だろうということで、お空を止めた後に肉饅屋のおじさんに場を譲る。さり気なく引っ張り、お姉ちゃんの前に来るようにして。

「あ、ああ」

 一度流れが途切れたせいで、折角和やかになりかけていた空気が硬化する。更にさっきとは違って、私がお空を止めたから、彼女が助けに入ることはない。
 でも、彼はやると言ったのだからやってくれるだろう。だからこそ、彼を選んで声をかけたわけなのだし。

「……よろしく。今まで勝手に使わせてもらってたのは、今ここで謝らせてもらう。すまない。それと、それにも関わらず追い出すどころか、正式な許可を出してくれてありがとな」
「いえ、うちに迷惑をかけないのなら、好きにやってくれて構いませんよ。こいしにせがまれたので、こうして放置するのをやめただけですし」

 緊張した声と淡々とした声とが交差する。もうちょっとなんとかならないのかとは思う一方、交流が生まれているだけでも意味はあるのかなと思う。
 焦っても仕方ない、仕方ない。

「そ、そうか。ええと、そうだ。これ、うちの商品だ。良かったら食べてくれ」
「ありがとうございます。では、こちらも。お空、紙で包んであげて」
「はいっ」

 行李に入れられた肉饅と紙に包まれた餡饅の交換がなされる。中身を入れ替えてもわかんないだろうなぁとちょっとした悪戯心が疼く。
 まあ、流石にこんなところで、そんな無粋なことはしない。代わりに、一緒に店頭に並べるのも面白そうだなぁなんてことを考えるに留める。

「食べないの?」
「お、おう」

 どうすればいいのだろうかと手元を見つめていた肉饅屋のおじさんに、お空が期待に満ちてきらきらと輝く焦げ茶色の瞳を向ける。お姉ちゃんの料理が不味いわけがないから、今は催促くらいの効果しかないだろうけど。
 ちなみに、お姉ちゃんでもあの瞳には勝てなかったりする。純粋さとは武器でもあるのだ。防具を全て脱ぎ捨ててしまったかのうような危うさは伴うけども。

 まあ、それはどうでもよくて。

 肉饅屋のおじさんがお姉ちゃんの視線を気にしながら、餡饅に齧り付く。

「お……? これは美味いな」

 そう言って、今度は自らの意思で食べ始める。うむうむ、どうやら気に入ってくれたようだ。

「おおっ! よかったですね、さとり様!」

 お空が手を叩いて喜ぶ。無自覚なんだろうけど、場を盛り上げてくれるのは助かる。

「あ、……ええ、そうね……。……ありがとうございます」

 お姉ちゃんの薄紫色の瞳に興味の色が浮かび始めていた。
 きっとお姉ちゃんには嘘偽りのない賞賛の想いが届いていることだろう。こういうことに快感を覚えてくれるようになれば、積極的になるかもしれない。後でどうだったか確認してみよう。

「ふっふっふー、どう? お姉ちゃんは私のためなら、なんでも振り切れちゃうような人だからね。私専用って部分はあるけど、そうじゃなくても伝わってくるものはあるでしょ」

 お姉ちゃんの料理には、これ以上ないくらいに私への愛情が満ちている。心を喰らう必要のある私たちは、その想いを代替にして生き続けている。そして、そうした想いはサトリにとってはこれ以上にないくらいの調味料となる。

 でも、お姉ちゃんはそれだけでは満足せず、努力に努力を重ね続けていた。だから、私たち以外でも十分に美味しいと思えるものになっていなければおかしい。
 例えば、餡饅にも私の要望を聞き入れた改良がなされている。私がふかふかのものがいいと言ったから、生地がふっくらと膨らむように、それでいて一口目から餡子が口に入ってくるように側面は薄くなるようにと工夫が凝らされている。味の方は言わずもがなだ。お姉ちゃんは私のためにそこまでやるような人なのだ。

「ああ、そうだな。嬢ちゃんが引っ張り出したくなった気持ちもよくわかる」
「私としては、この界隈の空気が柔らかくなって欲しいだけだから、下手くそでも良かったんだけどね。それはそれで、私のフォローを付け加えたら、和やかな雰囲気を作り出せるだろうし」

 恐ろしいと思っていた存在が実はへっぽこだったというのも、親しみを持たれやすいと思う。とはいえ、あんまり弄られるようだと、頑なに引きこもりそうだから、芸によって評価される今のほうが断然いいだろう。

「それで、お姉ちゃんの方の感想は?」

 こっちだけ食べてもらうというのも失礼な話だから、受け取った行李を持ったまま突っ立っているお姉ちゃんへとそう言う。それに、礼儀云々を置いておいても、料理ができる者同士、感想を言い合うというのは付き合いのための第一歩となるはずだ。

「あ、ええ、そうね。……では、頂きますね」

 お姉ちゃんは行李をカウンターに置くと、蓋を開いて肉まんを一つ手に取る。
 それから、小さく口を開いて真っ白な皮へと齧り付く。もっと豪快に行けないものなのだろうか。まあ、彼が作る肉饅は中がぎっしり詰まっているから、問題はないのだけれど。
 もくもくと口を動かして、飲み込もうとした所で顔を赤くして顔を背けられた。三人全員から注目されることに耐えられなかったようである。

「……ん、こいしが気に入るのも納得ですね。美味しいです」
「おお、そうか。嬢ちゃんと違って拘りが強そうだから不安だったんだが、口に合ったようで安心だ」

 肉饅屋のおじさんが安堵の笑みを浮かべる。ちょっとはお姉ちゃんへの警戒心も薄れてきているようだ。
 とはいえ、看過できないこともある。

「何その私が拘りのない適当妖怪みたいな言い草」

 自覚はあるけど、他人にそれを言われて受け入れられるのとはまた別問題だ。文句の一つや二つくらい言いたい。

「おっと、確かに今のはそう受け取られかねないな。別に他意はないぞ」
「うちの宣伝とお姉ちゃんの無害をちゃんと証言してくれるなら、許してあげよう」
「宣伝は構わないが……」

 言い淀まれてしまう。お空は不安げな表情を浮かべている。そんな状況でも、お姉ちゃんは泰然とした態度を維持している。

 今のは流れとして頷くべき所だろうと思うけど、仕方がないと思う部分もある。
 今のところ何事もなかったとはいえ、地底において恐怖の象徴みたいになってるお姉ちゃんを無害だと言い切ることはまだできないのだろう。彼は鬼だから尚更に。

「別に無害だったってことを殊更に言わなくても、おねえちゃんはこんな感じの人だった、くらいで十分。言葉だけで認識が変わるとは思ってないから。重要なのは、興味を持つきっかけを作ること。ここに来てくれれば私とお姉ちゃんの漫談で心を鷲掴みにするから」
「そんなことしないわよ」

 すぐさま否定されてしまう。知ってた。

「えっ、やらないんですかっ?」
「やりません」

 せっかくお空が興味を持ってくれたのに、それさえも拒絶してしまう。

「まあ、そうだな。料理が美味かったことと家族には気に入られているようだってことは伝えておくよ」
「うん、それでよろしくっ」

 とりあえずこれで、一歩目を踏み出すことができたと考えてもいいだろう。




「だぁれも来ませんね……」

 お空が沈んだ声でそう漏らす。先ほど同じようなことを言った時に比べて声が重い。あんまりこの状態が続くと泣き出してしまいそうに見える。これくらいでは、まだ泣かないことは知ってるけど。

 残念ながら、屋台の店主の一人をこちら側に引き込むだけでは足りなかったようだ。私の見通しが甘かった。
 まあ、お客さんが来て欲しいというのはついでの要求だから、現状維持でも構わない。
 とはいえ、本懐である雰囲気の軟化も果たされていない。相も変わらず、ぴりぴりとした空気が漂っている。

 もっとあいさつ回りに言ってくるべきなのかなぁ。
 とはいえ、一人ずつここに連れてきて、警戒心を解いてくれるのは彼くらいのものだろう。地底では鬼以外の妖怪は、大抵他人のことを信用なんてしない。言葉だけを重ねても疑われてしまうだけである。そんな相手を前にして、お姉ちゃんが隙を見せるとも考えられない。

 むーん、お姉ちゃんが皆へと歩み寄っていってくれるのが一番なんけど、今のところ全く期待できない。
 なら、どうしてもここに来たくなるくらいインパクトのあるものを用意するのがいいだろうか。そうすれば、お姉ちゃんのことを警戒しつつも近づいてくるようにはなってくれるはずだ。その後のことは、そのときになって考える。
 口に入るまでその衝撃は伝わらないから、料理が美味しいだけでは足りない。もっとこう、距離に関係なく伝わるものでないといけない。

 なーにかなーいっかなー。

 そうやってあれこれと考えながら、きょろきょろと周りを見てみる。

 屋台の近くにいるのは、地霊殿の関係者だけだ。お姉ちゃんは椅子に座ってぼんやりとしていて、お空は寂しげに俯いてる。お燐は完全にやる気を失ったのか、カウンターに突っ伏している。
 士気は完全にぼろぼろだ。提案者として、罪悪感が湧いてくる。私まで嘆いていたらどうしようもなくなるから、何も感じていない振りをするけど。

 屋台から視線を外して、もっと遠くへと視線を向ける。
 こっちをちらちらと見ている人が多いから、目線はよく合う。だから、両手を振って愛嬌を振り撒いたりしてみるけど、その途端に目を逸らされてしまう。
 私に目を付けられたからではなく、連鎖的にお姉ちゃんに目を付けられてしまうことを恐れているのだろう。普段なら、大抵は私を見落として、それ以外は普通にお話をしてくれる。

「おやあれは」

 こちらへと近づいてくる影を見つける。あの下腹部が膨らんだように見える特徴的なシルエットは、地上と地底を結ぶ竪穴の辺りを住処にしている土蜘蛛のヤマメだ。伝えておけば来てくれるだろうと思っていた私の読みは当たっていたようだ。
 建築の知識がある彼女は、地底の建造物の多くに関わっているからか顔は広い。それに加えて、鬼以外の地底に住む妖怪にしては話し上手で、場を盛り上げるのが得意なのが特徴的だ。そのおかげで、人気者となっている。
 ちなみに地底に住んでいるのは、大体他人が苦手か、喋るのが苦手か、粗野で粗暴で自分勝手かのどれかに当てはまる。どうしようもない場所である。

「やあ、こんにちは。全く繁盛してないようだね」

 全く悪びれた様子もなく朗らかにそう言ってくる。発言が皮肉っぽいという部分では、全くもって地底の住人らしい。
 こんな物言いは日常茶飯事だから、お空はお客さんの来訪に喜んで翼を揺らして、お燐はだるそうに身体を起こすだけだ。いちいち気を悪くなんてしてたら精神が持たない。

「お姉ちゃんの愛想が悪くってね。みーんな、お姉ちゃんのこと誤解して怖がっちゃって、全然近づいてこないや」
「確かに何を考えてるのかわからないって表情で、近寄りがたい雰囲気はある。まあ、それは置いといて、一つ貰えるかい?」

 そう言いながら、代金ぴったりの硬貨をカウンターの上に置く。
 メニューは私の手作りである。がんばった。

「まいどありっ。お姉ちゃん、よろしく」
「はいはい」

 やる気のない返事をして立ち上がる。動きがのっそりとしているせいで、先に動き出していたお空に仕事を奪われてしまっている。お姉ちゃんをダメにしている原因の一つである。

「それにしても、目撃情報が滅多にないあんたが店をやるなんて意外だねぇ。何か企んでるのかい?」
「全部妹が勝手に企てたことだから、わざわざ私に話しかけずこいしに聞いて下さい」

 愛想のあの字も感じられない態度のお姉ちゃんの横から、お空が紙に包んだ餡饅をヤマメへと手渡す。そして、指示待ちの状態となる。鴉のはずなのに、犬っぽい。

「はっはっは、つれない主様だ。それで、どういう意図があるんだい?」

 お姉ちゃんの態度を笑い飛ばしながら、こっちに話を振ってくる。そう言えば、一方的に伝えるだけ伝えて質問は受け付けていなかった。

「ここの雰囲気が居心地のいい場所になってほしいなぁって思ってね。この辺りって静かだから大人しい妖怪に人気になってくれそうだけど、うちがすぐ近くってことで空気が堅いでしょ? だから、こうやってお姉ちゃんが表に出てきて、危なくないですよー、ここでは気を抜いてもいいんですよーって伝えるために、交流の場を設けようと」
「でも、皆警戒したままで、誰も寄ってこないと」
「そうそう」
「そりゃまあ、恐怖の象徴がこうやって仏頂面で突っ立ってたら近づきにくいでしょうね。私もあんたからさとりの話を聞いてなければ、ここには来てなかったわ」

 そこまで言った所で考え込む。突然どうしたのだろうか。

「……ふむ」
「……やりませんよ、そんなこと」

 ヤマメが漏らした声に対して、お姉ちゃんはじっとりとした目線を返す。読心を捨て去った私には、何に対してそんな反応をしているのかさっぱりだ。

「何考えたの?」

 どっちが答えてくれてもいいんだけど、お姉ちゃんは答えてくれそうにないから、ヤマメの方に聞く。

「歌うなり踊るなりすれば、珍しがって集まってくるんじゃないかなぁとね。地上だと歌を歌う店主のいる屋台があるんでしょう?」
「うん、あるね。へんてこりんな歌を綺麗な声で歌う屋台が」

 もったいないなぁとは思うけど、彼女はそれが売りだと思っているのだろうから、余計な口出しをしたことはない。
 まあ、酔ってしまえば聞き入ることも難しくなるのだから、力を入れたものが聞き流されるよりはいいのかもしれない。

 それは置いといて、ヤマメが考えたのは、それを真似して客寄せをしてみたらどうかということだろう。
 私としては面白そうだと思うし、やってみるのも全く構わない。どうせこのままでは何の成果も得られそうにないから、やれることはやってやれだ。

「お姉ちゃん、やってみよ?」
「歌も踊りも知らないわよ」

 まあそうだろう。私は一度もお姉ちゃんがそういったことをしているのを見たことがない。鼻歌も聞いたことがないし、小躍りしているのを見たこともない。嬉しかったりすれば表情に出てくるくらいだ。
 でも、知らないはやらない理由にはならないだろう。芸で稼ぐつもりはないのだから、洗練されている必要もない。

 必要なのはただ一つ。

 あそこは楽しそうだと思わせること。そうして、親しみを抱かせること。そこまで出来れば、完璧だ。
 それに、最悪笑いものになってしまっても、それはそれでこちらに対する遠慮がなくなるだろう。お姉ちゃんを宥める必要は出てくるだろうけど。
 怒ると怖い、の典型的なタイプなのだ。

「だいじょーぶ。私が教えてあげるから。どっちがいい?」
「へぇ、あんたって歌も出来るのね。折角だから聞いてみたい」

 お姉ちゃんに聞いたのに、反応を示したのはヤマメだった。
 私って踊れると思われていたのか。やたらと身振り手振りを大袈裟にしているから、そのせいだろうか。

「お姉ちゃんは?」
「……まあ、聞くだけならいいわよ。絶対に歌わないからね」

 念入りにそう答えられた。
 一緒にやろうという気はないようだ。

 妹を売りに出すなんて酷い姉である。
 きっと私は見世物にされてしまうだろう。そして、お姉ちゃんはそんな私を横目に、売上が伸びたことをほくそ笑むのだ。
 でも、私はそれでも構わない。お姉ちゃんを支えるため、お姉ちゃんにお世話になった分に報いるため、擦り切れるほどに喉を震わせるのだ。

「そんな酷いこと絶っ対にしないわよ。……私の事、そんなに信用できない?」

 冗談まがいで上記のことを口にしてみたら、私の両肩を抑えて力強くそう宣言してきた。でも、その直後には心底情けない表情を浮かべていた。

「いやえっと……。ごめんなさい、冗談です」

 私はそうやって謝ることしかできなかった。お姉ちゃんの気弱な表情は、いちいち私の罪悪感を刺激してくる。古明地さんの家では、姉が妹に甘いのなら、妹は姉に弱いのである。色々と引け目もあるし。
 それでも普段は私の方が身勝手に振る舞うことが出来るのは、お姉ちゃんの包容力のなせる技だろう。

 閑話休題。

「それはさておき、私の歌を所望する方がいるようなので、特別に歌って差し上げましょう。合いの手などはご自由に」

 それが相応しいかは置いといて。

「あー、あー、あー」

 こころの真似をするように、声の調子を確かめようとしてみる。声が出てるから問題ないということくらいしかわからないけど、素人だからあんまり気にしない。
 遊びの中だとか耳に入ってきた歌を真似て口ずさむくらいで、たった二人とはいえ、注目されている状況で歌うようなことはなかった。だからといって、緊張というものはない。いつだったかの夏の異変で知ったけど、私には注目されたいという願望が結構あるようなのだ。
 単に逃げたがりの心が、不快な感情を見ないふりをしているという可能性も否定はできないけど。

 これから私は歌うのだと宣言するように息を吸う。何を歌うかは決めていないけど、私の無意識が勝手に選んでくれることだろう。

 声が歌となって、喉から溢れ出てくる。
 私の無意識が選び取ってきたのは、童歌だった。

 人間の子供たちの中に紛れ込んで遊ぶことの多い私は、いくつもの童歌を何度も歌っている。だからこそ、この選択は当然とも言える。
 遊ぶためではなく、聞かせるためだからその部分は意識して声を張る。思ったよりも声が通って、そのことが楽しい。色んな人と遊んだ頃の思い出を楽しさにして乗せておく。
 一時のものでしかなかったとしても、私にとっては大切なものだ。

 しばらくして、声の調子が静かなものへと移り変わる。
 これは、夕焼けのことを歌った民謡だ。どうやら私の無意識は終わりへ向かいつつあるようだ。綺麗な夕焼けを表現しつつも、終わりの物悲しさを示している。
 私の中に去来するのは、一人残された時の虚しさや悲しさだ。
 ああ、泣きたくなんてないのに涙が流れてくる。

 そうて、終わりに入る。
 静かに落ち着いた子守唄。眠りにつくための一日の終わりの歌。
 明日は何か楽しいことがあればいいなと願いながら、ベッドに潜り込むのだ。まあ、そうした願いなんてほぼ全て裏切られ続けてしまったのだけれど。

 最後の音を存分に響かせて、声を止める。

 深呼吸をして、余韻に浸る。
 そして、いつの間にか閉じてしまっていた目を開ける。


 ……ふむ。


「皆々様方、ご静聴ありがとうございます」

 能を舞う友達の真似をして、恭しく頭を下げて慇懃な台詞を口にする。

 すると、万雷の拍手が巻き起こった。

 まあ、それは言い過ぎだけど、見える範囲内の全員……じゃなくて、お姉ちゃん以外が拍手をしてくれているのは見える。お姉ちゃんはどうやら、呆けたように私の方を見ているようだ。

 それにしても、まさか希望の面を失ったこの状態でも、賞賛混じりの注目をこんなに浴びるとは。静かな場所だから声が通りやすかったというのはあるんだろうけど。
 自然と口元が緩む。やっぱり、色んな人に認められるというのは幸せだ。

 とと、そうだ。この機会だから、言いたいことを言っておこう。

「皆さんに一つお願いがあります!」

 拍手が止んだ所を見計らい、屋台から出て語りかける。舞台上からの声は物理的にだけでなく、精神的にも届きやすくなるのを利用させてもらう。

「ここにいる間、もっと気を抜いて頂けないでしょうか。お姉ちゃん……、古明地さとりのことが怖いのはわかりますが、この辺りに入るくらいのことであなた達に危害を加えるつもりはないですし、私が絶対にそんなことさせません。ただ、ここに静けさを求めて来ている方も多いと思うので、あんまり騒ぐのは自重してほしいなぁ、とは思いますが」

 ここまで話してみたところ、反発の意思は見受けられない。静かな雰囲気に誘われた妖怪ばかりだろうという読みは間違っていないようだ。

「というわけですので、皆でここを居心地の良い場所にしましょう。よろしくお願いしますっ!」

 ぺこりと頭を下げ、一通り見回した後に屋台の中へと引く。舞台から降りることによる区切りを作るその代わりだ。
 実際、効果はあったようで銘々が元の場所へと戻っていく。でも、それぞれの間に会話が生まれていて、雰囲気も柔らかくなってきている、気がする。
 こっちを見ているのと目が合ったから、手を振り返しておく。今度はぎこちないながらも手を振り返してくれた。うむうむ。

「……こいし、大丈夫?」

 視線をお姉ちゃんたちの方へと戻そうとしたら、お姉ちゃんが断りもなく目元から頬までの辺りをハンカチで拭き始めた。ああ、そういえば涙を流していたんだった。
 抵抗する理由もないから、大人しくされるがままとなる。

「だいじょうぶだいじょうぶ。単に昔のことを思い出しちゃって感傷に浸っちゃってただけだから。歳を取るってやだねぇ」

 ふざけた調子でそんなことを言ったら、不安そうな表情を浮かべられてしまった。
 私としては、わざわざ真面目に向き合う必要もないんだけどなぁ。でも、他人からしてみれば、強がっているように見えてしまうようだ。

「……ほんとのところは、昔のちょっと辛かった時を思い出しちゃっただけ。今は平気だから、そんなに心配しないで。今も引きずってたら、皆に注目されてることに気づいた時点で、賞賛に気づかず逃げちゃってたと思う。だから、ほんとにだいじょうぶだよ」

 そう言いながら、いつの間にやらお姉ちゃんの方へと手が伸びていて、頭を撫でていた。少し癖のある髪だから、文句なしに触り心地がいいとは言えないけど、不思議と手が止まらなくなる心地よさがあった。
 次第にお姉ちゃんの表情が和らいでいって、最終的に気持ち良さそうなものになる。姉のプライドとかはないようだ。
 とか思っていたら、突然慌てたように私から離れて、あらぬ方を向いていた。単になかなか我に返ることができなかっただけのようだ。

「あ、いやそのえっと、これはその……」

 ヤマメに対して何か弁解をしようとしているけど、内容は全く伴っていない。心が読める相手に対してここまで狼狽えているのは珍しい。
 白い肌に朱が浮かんでいるのが見える。

「ああ、気にせず続けてちょうだいな。言わなくても分かってるでしょうけど」

 ヤマメはヤマメでにやにやとお姉ちゃんを眺めている。楽しそうで何よりだ。
 ちなみに、お燐とお空はほのぼのとした笑みを浮かべている。そういえばいつだったか、私といる時にふと見せるお姉ちゃんの無防備な表情が好きだとか二人とも言っていた。

「……こほん。今は客をもてなす側なので、私情を挟むわけにはいきません」
「今まで全くやる気なんて感じられなかったけどね」

 取り繕おうとするお姉ちゃんに対して、私は横からそんなことを言う。お姉ちゃんの味方をしたいとは思っているけど、嘘は良くない。

「……うぐ」

 何を言っても墓穴になるだけだとでも悟ったのか、蒸籠の方へと逃げていった。ヤマメの思考は届いているだろうから、効果はあるのやら。

「それにしてもあんた、意外に歌上手いんだねぇ」

 話題を変えるという点では意味があったようだ。お姉ちゃんを弄り続ける趣味はないし、ここは乗っておこう。

「そりゃまあ、上手くなるための努力は欠かさなかったからね」

 遊びに関することが上手ければ、結構仲良くなれるのだ。だから、歌に限らず、お絵描きや身体を動かす遊びの練習なんかはずっと続けてきた。
 第三の眼のせいで避けられて、結局独りぼっちになってしまうのだけれど。

「へぇ。あんたでもそういうことするんだ」

 本気で驚いてくれちゃってた。
 適当に生きているように見せかけているから、そんな評価になってしまうようである。

「失敬な。こいしちゃんは努力の妖怪ですよ」
「ふぅん? まあ、上手いんならどっちでもいいんだけどね」

 そもそもどうでもいいと思っているようだった。

「そういえば、ここって酒が置いてあるんだね」

 ヤマメがそう聞いてきた瞬間に、お姉ちゃんの身体がびくりと震えた。ヤマメは何やらよからぬことを考えているようだ。
 幻想郷においてお酒は必需品だから仕方ない。




「結構客の入りが良くなってきたんじゃないかい?」

 アルコールで顔を赤くしているヤマメが、お姉ちゃんへと思念を送るのを中断してこちらへと話しかけてくる。羞恥からかヤマメに負けないくらい赤らんでいるお姉ちゃんは、ほっと安堵の息を吐いて餡饅の仕込みに集中し始める。
 若干手元が危うげな雰囲気だけど、今まで問題を起こしていなかったのだからだいじょうぶだろう。

「ヤマメのおかげだろうねぇ。私の働きも小さくはないだろうけど」

 私たちへの注目が集まって、この辺りの雰囲気が多少は良くなってきたというのは私の功績だ。それは間違いない。
 でも、妖怪たちが私たちの所にやってこれるようになったのは、ヤマメのおかげでお姉ちゃんの態度が隙だらけになっているの大きいだろう。
 地底でも恐れられる妖怪というイメージは型なしである。
 ほんと、どんな思考をぶつけ続けていたのやら。

 その辺りの考えについても簡単に伝えておく。

「あっはっは、いやいや、ここまで分かりやすい反応をされると、弄り倒したくなっちゃってねぇ」

 お姉ちゃんがヤマメを睨んでいる。若干潤んだ瞳と赤い顔のせいで恐ろしさの欠片もないけど、追い詰めすぎると何やるかわからないから、この辺でヤマメは止めておこう。
 酔っ払ってるから、直接口で言うよりは別の話題を投入する方が効果的だろうか。

「実は私、あなたのファンだったんです」
「……はい?」

 唐突すぎたせいか、訳がわからないといった表情を浮かべている。これくらい衝撃的なら、お姉ちゃんへの意識も途切れるだろう。

「まあ、ファンって言い方はちょっと冗談じみてるけど、あなたに憧れを抱いてるっていうのはほんと」
「……からかわれているようにしか聞こえないわね。姉の仇討?」

 全然信用されてない上に、お姉ちゃんへの意識が戻り始めていた。
 むー、あんまり湿っぽい感じになるのは嫌なんだけどなぁ。まあ、その時はその時で、お酒の勢いで適当に誤魔化そう。
 お仕事中? どうせほとんどボランティア的な物だから、そんなもの気にしない。

「いやいやほんとだよ。あなたって、土蜘蛛っていう私たちと比べても、遜色ないくらいに避けられかねない妖怪でしょ? なのに、会う人ほとんどから気に入られてるから、羨ましいなぁって思ってたんだ。それに併せて、ほんの少しくらいの希望は持ってもいいのかなぁって」

 土蜘蛛は周囲にいる者を病気にしてしまう。妖怪相手でもそれは変わらない。
 一応長時間一緒にいなければだいじょうぶらしいけど、それが理屈でわかっても心情的にはなかなか納得できないものだ。

 でも、ヤマメは種族の欠点を自らの振る舞いで気にされない程度のものにまで抑えている。
 その姿に私は希望を見出していたのだ。

「こうやって、お店を開こうって思えたのもあなたのおかげ。種族自体が嫌われてても、振る舞い方で周りからの見られ方が変わるんなら、一回くらいはがんばってみようかなって。この辺の雰囲気が悪いって問題もあったから、丁度良かったしね。
 以上、私があなたに憧れる理由でした。なんともつまんないものでしょ?」

 自虐的にそう言って、後ろ向きの空気にならないように誤魔化す。後でお姉ちゃんへのフォローは必須になるだろうけど、それは家に帰ってからでいいだろう。ヤマメにあれだけ弄られた後だから、人前では落ち着いていてくれるだろう。

「ま、冗談じゃないってのは分かったわ。それで、今回の試みはあなた的には成功なのかしら?」

 踏み込まれすぎないという点では、地底は居心地のいい場所かもしれない。

「さあ、どうだろうね。今はこの辺りの雰囲気も良くなってるけど明日どうなってるかはわからない。こいしちゃんの人気もわからない。でも、また今度おんなじことをしてみようかなって思えるくらいの収穫はあったかな。まあ、またお姉ちゃん引っ張り出して、何度か続けていくうちに答えを出すので、それまで待っていただけると嬉しいのです」
「えっ」

 お姉ちゃんが驚いてるけど無視である。

「じゃあ、私もその時はさとりで遊ばせもらいましょうかね」

 せっかく話題を逸らしたのに、元に戻ってきてしまっていた。
 私の力及ばず守りきれなかったことをお許し下さい。

「まあ、程々にね。お姉ちゃんを泣かせるようなことしたら許さないから」
「おお、怖い怖い。じゃあ、余計なことをしないうちに今日の所は帰りますかね」

 そう言って、追加で食べた餡饅とお酒のお代を置いてそそくさと帰っていく。怖がらせるつもりはなかったんだけど、まあお姉ちゃんへの被害を軽減できたということで別にいいか。

「あ、いらっしゃいませーっ!」

 ヤマメと入れ替わりに新しいお客さんがやってくる。
 お姉ちゃんへと向ける視線に若干の怯えが見て取れるけど、きっとだいじょうぶ。私とお空とお燐がいれば、和やかな会話をすることはできる。
 最悪、私がお姉ちゃんを弄ることで隙を作り出せば効果があることはヤマメが実証済みだ。

 この様子なら、目標達成も難しくないかもしれない。
 そう思うと、俄然やる気も出てくるのだった。



短編置き場に戻る