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 上体だけを起こし、大きく伸びをする。
 まだ、半分ほど眠っている身体に新鮮な空気を送り込み、眠っている間に溜め込んでいた空気を全て吐き出す。これだけで、薄ぼんやりとしている頭が冴えてくる。
 欠伸をしている間に出た目尻の涙を拭いながら、ベッドから出る。裸足のまま絨毯の上へと足を降ろすと、足の裏にくすぐったさを感じた。けど絨毯があるおかげで、冷たい床に直接足を着ける必要がなくなるのだ。そう思うとこのくすぐったさも心地よい。
 まだ少しだけ眠っている身体が微かに揺れるのを感じながら、クローゼットへと向かう。一歩ごとに、新しいくすぐったさが生まれる。
 着替える為に動きながらも、何を着ようかと考える事はない。考えるのが面倒くさいというのもあるけど、一番大きな理由はそもそも興味がないという事だ。

 今まで、お洒落に興味を持つ事はなかった。
 そんな余裕なんてなかった。今のような安定した生活を手に入れるまで、その時その時を過ごすのに精一杯だったのだ。
 けど、お洒落に興味を持たなかった理由はそれだけではない。

 クローゼットの扉を開く。扉の内側には身嗜みを整える為の大きな鏡が取り付けられている。けど、そこに映っているのは私の部屋だけ。私の姿はどこにもない。
 そう、これが私がお洒落に興味を持たないもう一つの理由。吸血鬼である私は鏡に映らない。それ故に、鏡を見ながら細部に拘る事が出来ない。だから、着飾る事なんてどうでもいいと思うようになってしまったのだ。
 まあ、昔はそれでも櫛で適当に髪を整えるくらいはしていた。けど、最近はそういった大雑把な部分も含めて従者である咲夜がしてくれるようになったから、余計に気にしなくなってしまった。私がする事といったら、クローゼットの中から適当に服を選んで、それに着替える事くらいだ。大体同じ服を選ぶせいで、もう少し考えろと咲夜にはよく言われる。従う気はさらさらない。
 そんな事を考えながら、クローゼットの中へと適当に手を伸ばす。手に触れたハンガーに掛けられた洋服を何も考えずに引き寄せる。
 それは、赤色のドレス風の洋服だった。いつも着ている服だ。咲夜にまた何かを言われるかもなぁと思いながらも、選び直すのも面倒で、このまま着替える事にする。
 一番寝やすいからという理由だけで選んでいる薄い寝間着を脱ぎ、手早く洋服を着る。拘りがないから、着替えにはさほど時間を要しない。数分もあれば着替えは終わってしまう。
 後は、咲夜が来るのを待つだけだ。大体私の行動パターンは覚えられているから、私が呼ばなくても来てくれるのだ。

「おはようございます、お嬢、さ、ま……?」

 なんの前触れもなく鏡の中に咲夜が現れた。いつもの事だから、今更驚くようなことはない。
 けど、何故だか咲夜は驚いているようだった。目は見開かれていて、青色の瞳はどこか一点を凝視している。
 咲夜は決して動揺を表には出さないはずだ。いや、そもそも動揺することさえ珍しい。だから、余程の事が起こっているのだろう。私の視界にその余程の事が映っていないというだけで。

「咲夜? どうかしたのかしら?」

 振り返って聞いてみる。咲夜が何に驚いているのか興味があった。
 けれど、私の瞳に直接映る咲夜の顔からはすでに驚きは消えていた。いつもの澄ました表情を浮かべている。きっと、声もまた何事もなかったかのように平然としたものに戻っているのだろう。
 咲夜は、自分の感情を制御するのが上手なのだ。それでいて、自分の感情を抑制させ過ぎるということもない。割と素の表情も見せてくれる。
 誰に教えられるでもなくそう出来るようになったのだから、もともとそういう才能があったのだろう。

「いえ、お嬢様の頭に何かの耳が生えていたので、何事かと思いまして。何か、新しいお洒落の一種でしょうか?」

 咲夜の声と仕草は、私の予想通りだった。丁寧な言葉遣いに、聞き取りやすさを重視したゆったりとした喋り方。そして、大げさすぎない程度に傾げられた首。
 けど、その内容は私の予想の範疇を越えていた。

「耳?」

 咲夜と同じように首を傾げながら、頭の方へと手を伸ばしてみる。
 まず触れてみるのは、元から耳のある部分。けど、咲夜が言っているのはこれの事ではないだろう。普段は髪の中に埋もれてなかなか見えないとはいえ、見えたからといって驚くほどのものでもない。
 なので、ゆっくりと手の位置を上げてみる。
 そうすると、耳のある部分よりも少し上の位置から、髪の毛とは違った感触が返ってきた。髪の毛よりも堅く、けれど生き物特有の柔らかさを有した何か。
 指でその謎の物体をなぞってみる。どうやら、少しとがった三角のような形をしているようだ。そして、それは外側だけではなく、内側までも毛のようなものに覆われている。
 更には、私の意志に反して動いている。私が指を動かす度に奇妙なくすぐったさを感じて、それに反応するようにぴくりぴくりと動く。

「確かになんだか妙なものが付いてるみたいね」

 装飾品ではない。それには感覚があり、私と一体化している。決して普通の代物ではないだろう。

「お嬢様が何かをしたのではないのですか?」
「心当たりがないわね」

 手を降ろして、首を振る。狼などに変化することの出来る吸血鬼もいるらしいが、私は蝙蝠専門だ。それ以外に変化する事は出来ない。そして、蝙蝠の耳の内側にはこれほどの毛は生えていない。
 そういえば、なんの耳が生えているのだろうか。触っただけで分かるのは人間の耳と蝙蝠の耳くらいだ。それ以外は判別出来ない。見たところで分かるかどうかも怪しいけれど。

「そういえば、昨日お嬢様は猫になりたいと仰っていましたよね? あれが関係しているのではないでしょうか」
「確かに言ったけど……、関係があるとは思えないわね」

 願った程度でその何かになれるほど世界は優しくはないし、柔軟でもない。何百年と生きてきて、身に染みるほどその事を理解している。

「では、その辺りに何かヒントになりそうなものくらいは転がっているのではないでしょうか」
「ヒントねぇ」

 本当にあるのだろうかという疑いはある。
 けど、もしかしたら少しくらいは有益な情報があるかもしれない。すぐに無関係だと切り捨てて思考を放棄してしまうのは、愚か者のする事だ。
 だから、私が猫になりたいと言った前後の事を思い返してみる事にした。





「お姉様、咲夜、いってくるね」
「ええ、気を付けて行ってらっしゃい、フラン」
「フランお嬢様、気を付けて行ってらっしゃいませ」

 館の玄関先。紅色の大きな日傘を差したフランを咲夜と共に見送る。館の玄関は北向きに作られているから、日傘を差さずとも陽に当たることはない。

 最近、フランはよく外に出るようになった。
 フランは外に怯えを抱いていて、部屋から出る事さえもほとんどなかった。こちらに来て少し落ち着いてきた頃も、部屋とパチェの図書館とを往復する程度だった。
 けど、図書館によく訪れているアリスに、外に連れ出してくれるようにとお願いしたのが功を奏したようだ。少々手荒さも感じたけれど、実際に外の空気に触れてみる事で、過剰な怯えも消えた。今ではこうして、自ら外に出るようになってくれた。

 フランは、確実に自立してきている。
 今までは、私がフランを支えてきてあげた。けど、そろそろ私の助けは必要なくなるかもしれない。いや、むしろ私の存在がフランの自立を妨げてしまっているのではないだろうか。
 フランにとって、私は完全に内の存在だ。咲夜やパチェも十分に内の存在ではあるけど、私に比べればまだまだ外の存在だ。なんといったって、数百年は私が一人で支えてきたのだ。きっと、フランが私から外の刺激を感じたことをはないだろう。私がそうであるように。

 今のフランに必要なのは外の刺激だ。私のような完全に内の存在は不要だろう。
 それに、私という存在がフランを外へ向かわせるのを阻害してしまっているようにも思う。何か約束を交わしているわけでもないのに、フランは律儀に日暮れ前には帰ってきて、私にその日あった事を話してくれる。私に話をするのが楽しくて仕方がないといった様子で。

 だから、考えてしまうのだ。
 私がいなければ、フランは今よりももっと外へと向かうのではないだろうかと。
 私がいなければ、今以上に自立出来るのではないだろうかと。
 そして、私のせいでフランの成長が阻害されているというのなら、非常に申し訳ない。

「お嬢様? どうかなさいましたか?」

 フランの姿が見えなくなっても動き出さない私を不審に思ったのか、訝しげに聞いてくる。

「……いいえ。どうもしてないわ」

 咲夜の方へと振り向く。
 わざわざ口にする必要もないだろう。こういう事は、ひっそりと胸の内だけで考えていればいい。不用意に表に出されても、周囲の者は困惑する事しか出来ないだろう。
 もし、口に出すとしても自分の中でどうすればいいかをある程度明確に決めてからだ。今は、まだ不明瞭で何一つ考えはまとまっていない。

「そうですか」

 それ以上言及してこようとはしてこない。従者としての立ち場を弁えているというよりは、私の感情に気付いたから聞くまでもないのだろう。
 咲夜は私といる時間が長く、やけに鋭い。だから、それくらい出来ても不思議はない。けれど、それでも察せれない時はある。そんな時は、遠慮なく聞いてくる。
 まあ、そうでなければ咲夜は私の従者にはなっていなかっただろう。本当の気持ちを隠されるというのはあまり好きではない。だから、咲夜のようにある程度好き勝手にしてくれる方が、私には合っている。

 みゃー。

 不意に、猫の鳴き声が聞こえてきた。左の方からだ。反射的にそちらへと視線を向ける。
 館を取り囲むようにしている植え込みの横、そこに真っ黒な毛の猫がいた。野良の割には毛並みが整っているように思う。
 黒猫は、ゆったりとした足取りでこちらへと向かって来ている。侵入者という割には、堂々としすぎている。まさに我が物顔といった様子である。
 まあ、荒らすつもりがないなら別にいい。猫が好きなフランが見れば喜ぶだろうし。

「いらっしゃい」

 しゃがみ込んで呼びかけてみる。大した理由はない。単にこのまま館に戻っても暇なだけだから、相手をしようと思ったのだ。
 黒猫は私が声をかけると同時に、歩を早めてこちらへと向かってきた。足の動きに合わせて尻尾が揺れている。
 言葉を理解しているのだろうか。それとも、今までの経験からそうすればいい事を知っているのだろうか。
 なんにしろ、黒猫が急いでくれたおかげで思っていたよりも待つ事はなかった。しゃがむ姿勢というのも、結構辛いのだ。
 私の傍まで来ると、迷いなく私の腕の中へと飛び込んできてくれた。出来るだけ優しく受け止めて、力を込めすぎないようにして抱き締める。毛に覆われた動物特有の、柔らかく暖かい感触が手や腕に伝わってくる。

「人慣れしてるのね、この子」

 猫の抱き方なんて詳しくは知らないけど、一番身体が安定しそうな抱き方へと変えながら立ち上がる。
 逃げ出そうとする様子はない。尻尾はゆったりと揺れていて、リラックスしているように見える。
 いいのかしらね、これで。

「ええ、時々館の庭に入ってきては、美鈴や妖精たちに遊んでもらっていますよ」
「へえ」

 妖怪に遊んでもらおうとするなんて、怖い物知らずな猫だ。
 まあ、うちの館には猫をいじめるような輩なんていない。弱い者いじめをするような卑劣な精神の持ち主は、この館には必要ないと思っている。そういう事をこの黒猫は、肌で感じ取っているのかもしれない。
 そんなふうに思いながら、黒猫の頭をゆっくりと撫でてやる。私の意志とは関係なく、この子の触り心地に自然とそうさせられた。それに気付いても、なおやめるつもりはない。
 手を動かすと、黒猫は気持ちの良さそうな表情を浮かべてくれる。フランの頭を撫でてあげる時と同じような感覚でしたのだけれど、猫にも有効だったようだ。

 しばらくの間、気持ち良さそうにしている顔を見ながら頭を撫でる。何度も何度も手を往復させる。
 けれど、繰り返されるうちに嫌になってきたのか、黒猫が頭を振る。私もある程度満足していたので、離してあげる事にした。
 しゃがみ込んで、そっと地面に降ろしてやる。そうすると、こちらに振り返ることなくマイペースに歩いて行った。尻尾がゆらゆらと揺れている。

「……猫になってみるのも、悪くなさそうね」

 立ち上がって、そんな事を呟く。

「お嬢様? どうかなさったのですか?」

 咲夜の顔を見てみると不思議そうな表情を浮かべていた。本当に私の考えていることがわからないといった様子だ。

「まあ、ちょっと、ね」

 黒猫がいた方へと視線を戻す。けど、そこにはもう何もいない。植え込みの下にでも潜り込んでしまったのだろう。

「ほら、フランも自立してきたでしょう? だから、ああやって気紛れに散歩をしてみるのも良さそうだと思ったのよ」
「それなら、今の姿でもよろしいのではないでしょうか?」
「まあ、そうかもしれないわね」

 本当は、レミリア・スカーレットという存在を消してしまいたい。私がいることによってフランはこの館に縛り付けられているのかもしれないのだから。
 けど、だからといって完全に消え去ってしまいたいとも思わない。まだ、フランの成長を見守っていたいという我が侭もある。
 最良の形としては、フランが私の事など気にしなくなり、私がフランを見守り続けられるようになる事だ。

 なんとなくだけれど、猫になる事でそれは叶うような気がしてしまったのだ。
 そんな事、ありはしないのでしょうけど。

「お嬢様? 何かご不満でもあるのでしょうか」

 何かを感じ取ったようだ。けど、正確な部分までは分からなかったようで、そう尋ねてくる。

「いいえ、そんなものありはしないわ。むしろ、満たされすぎてるんじゃないかと思うくらいよ。……どこかで、壊れてしまうんじゃないだろうかとさえ思ってたわ」

 実際、こちらの平穏な暮らしに完全に慣れるまで、起きる度に夢なのではないだろうかと思っていた。最近はなくなったけど、それでもまだ満たされすぎているとは思っている。

「けどね、私自身は満たされていようと満たされていまいとどっちでもいいの」

 どうだっていいのだ、自分の事は。

「では、何故お嬢様は猫になりたいなどと仰るのでしょうか」
「あの子の為になるんじゃないかな、とね」

 私が猫になってしまっただけで、フランが私を気にかけるだなんて事はなくなりはしないだろう。けど、今よりも無力な姿となるだけで、不必要にフランを助けてしまうような事はなくなるはずだ。そうすれば、自然とフランも私の事など気にかけなくなるのではないだろうか。

「そうですか」

 ここでようやく、咲夜は静かにそう言った。咲夜なりに私を気持ちを察してくれたようだ。

「……さ、こんな所に立っていても仕方がないし、中に戻りましょう?」
「はい」

 私は咲夜を伴って、館の中へと戻ったのだった。





 昨日の猫になりたいと発言した前後を思い返してみても、特に収穫のようなものはなかった。強いてあげるなら、なりたいではなく、なるのも悪くないと言っていた事くらい。
 どうでもよすぎる違いだ。

「やっぱり、ヒントになりそうなものはないわ」

 けど、誰かにこの発言を聞かれていて、余計なお節介をかけられたという事もあるかもしれない。ぱっと思いつくのは、いつどこで人の話を聞いているかわからない八雲紫か、時々妙な魔法の実験をしているパチェくらいだ。
 とはいえ、あのスキマ妖怪は私の戯言を気にかけるとは思わないし、パチェもするならするで事前に声くらいはかけてくれるはずだ。けど、パチェの場合は、魔法に失敗してここまで被害が及んでいることに気が付いていないとも考えられる。

「ま、後でパチェに聞いてみる事にするわ」

 パチェが原因だとしても、そうではないとしても聞きに行ってみる価値はあるだろう。パチェは一応、館の中では知識の量が一番豊富だ。原因のヒントくらいは見付けてくれるかもしれない。

「その前に朝食ね。咲夜、行きましょう」

 お腹も空いた事だし、まずは朝食を摂りたい。パチェの所に行くのはその後でもいいだろう。今すぐ何かする必要があるほど緊急の事態ではない。

「お待ちください、お嬢様。まだ、身嗜みを整えていませんわ」

 しかし、歩き出そうとした所で止められてしまった。
 煩わしさを感じながらも、櫛を取り出す従者の前で立ち止まるのだった。





「お姉、様……? どう、したの? その、頭の猫の耳みたいなの」

 食堂に入ると、驚きの表情を浮かべるフランに出迎えられた。紅い瞳は見開かれていて、おそらく私の頭の上を注視している。すれ違う妖精たちにも注目されていた。
 確かに物珍しさを感じるのもおかしくはないだろう。けど、自分では見る事が出来ないせいで、どうしてそんなに注目するのだろうかという思いも微かにある。
 それにしても、一目で猫の耳だと思うとはさすが猫好きね。それが正しいのか、先入観によるものなのかは分からないけれど。
 ちなみに、咲夜に聞いてみたところ、分からないと答えが返ってきた。

「朝起きたら、生えてたのよ。原因は分からないわ」

 白いテーブルクロスのかけられた細長いテーブルのフランの向かい側に座る。
 ここが私の定位置だ。フランが部屋から出なかった時からこの位置に座っているから、一緒にいる時はフランの顔が見えないとなんとなく落ち着かないのだ。
 私が椅子に腰掛けるのに合わせて、朝食が用意される。クリームチーズを塗ったベーグル、湯気を立てる真っ赤なトマトスープ、そしてドレッシングをかけたサラダが今日の朝食のようだ。姉妹揃って小食だから、量はそれほどない。

「大丈夫なの?」

 驚きから一転して、今度は不安げな表情でそう問いかけてくる。眉尻が下がっていて、ちょっとした事で泣き出してしまいそうだ。
 朝からこんな表情を見ることになるとはねぇ。私は、フランと一緒に穏やかな気持ちでいる方が好きなのに。

「大丈夫よ」
「ほんとに?」
「ええ」
「……」

 フランの不安を払うように、断言的な口調で言う。私自身にはなんの不安もないのだから、簡単な事だった。
 けど、効果はなかったようで、不安は晴れていないようだ。むしろ、更に心配するようにこちらを見ているような気さえする。そんなに私の言葉が信用ならないのかしら。

「本当に大丈夫よ。身体が動かしにくいとか、体調が良くないとかそういう事はないから。後でパチェの所にも行ってみるし、そんなに心配しないでちょうだい」
「……うん、わかった」

 まだ不安はあるようだけど、頷いてはくれた。それだけ、パチェはフランにとって信頼に足る人物だということなんでしょうね。
 まあ、パチェはフランにとって魔法の師だ。それに私自身パチェに頼っている節もある。だから、私よりも信頼しているというのも当たり前といえば当たり前の事。
 私はこういった未知のことに関しては、ひどく頼りない。精々先ほどしたように、なんの根拠もなく安心させようとする事くらいしか出来ない。

「そんな事よりも、冷めちゃう前に早く食べましょう?」
「うん、そうだね」

 私の言葉が駄目なら、咲夜の美味しい料理でも食べて気分を変えればいい。
 スプーンを手にしながら、そう思ったのだった。





 朝食を摂った後、私たちはパチェの所へと向かった。フランは、私がどういった状態なのかを早く知りたいらしくて付いてきたのだ。
 気にせず自分のやりたい事をすればいいと言ったのだけれど、聞く耳は持ってくれなかった。
 やはり、私はフランの行動を縛ってしまっているのだろう。こんな事、気にかけるまでもない事なのに。

「え……、レミィ、どうしたのよ、頭のその耳は」

 相も変わらずテーブルで本を読んでいたパチェに話しかけると、例に違わず驚かれてしまった。
 顔を上げた時はどこか眠そうだった瞳も、私を視界に入れた途端に見開かれた。パチェのアメジスト色の瞳をここまで見たのも久々だった。パチェは、なかなか驚くような事がないのだ。
 けど、さすがに魔女をやっているだけあって、驚きから立ち直るのは早かった。いつものどこか眠そうな雰囲気には戻らなかったけれど、驚きの代わりに真剣な色を浮かべている。

「起きたら生えてたのよ。何か心当たりはない?」
「ここ最近は本を読んでいるだけだったから、私は無関係だと思うわ」

 どうやらパチェが原因ではないようだ。

「レミィ、ちょっと調べてみたいから、しゃがんでもらってもいい?」
「わかった」

 椅子から立ち上がり、こちらへと近寄ってきたパチェへと言われたままにその場にしゃがみ込む。見上げてみると、大真面目な表情を浮かべたパチェの顔が見えた。
 ついでに、ちらりとフランの方へと視線を向けてみる。不安げな表情の間に緊張の色が見て取れた。どんな答えが返ってくるのだろうかと身構えているのかもしれない。
 そんな少しばかり緊迫した空気の中、私だけは普段とそれほど心情の変化がなかった。周りに被害が出ていないからだろう。

 パチェの手が上の方の耳へと触れる。
 自分で触れたとき以上のこそばゆさを感じて、若干身体が逃げ出しそうになる。けど、ここはパチェの邪魔をしないようにと我慢をする。
 もともと存在しない部分に触れられるというのはかなり不思議な感覚だ。自分自身、咲夜、パチェと触られたけど、いまだに慣れる事は出来ない。

「……ざっと調べたところ、妙な魔力は感じないわね。ねえ、レミィ。感覚はあるんでしょう?」
「うん、あるわよ」
「自分で気付かないうちに中途半端に自分の姿を変化させてるって可能性はない?」

 パチェが耳から手を放す。私はそれにあわせて立ち上がり、パチェの目を見ながら答える。

「私が変化できるのは、蝙蝠だけよ。パチェは知ってるでしょう?」
「まあ、確かにそう聞いてるけど、レミィが気付かないうちにそういう力を身に付けた可能性もあるかもしれない」
「そうは言っても、私の意志じゃどうしようも出来ないわね」

 蝙蝠に変化した時は、自分の身体はしっかりと自分のものだと認識することが出来る。けど、頭に生えている耳は、全く自分のものだとは思えないのだ。それなのに、触れられたらその感覚が伝わってくるせいで、強烈な違和感がある。
 とはいえ、触れられない限りは気にならない。それは、自分の身体とは無関係なものだと意識の底から感じているからだろう。

「じゃあ、一度蝙蝠の姿に変化して、元に戻るのはどう? どういう感覚でするものなのかは分からないけど、もし仮にレミィの変化の力が暴走したものなら、姿を戻す時に一緒に戻るんじゃないかしら」
「まあ、試してみる価値くらいはありそうね」

 そう答えたけれど、その程度で戻れるとは思えない。言葉では説明しにくいのだけれど、この耳は私の意識から外れた場所にある。だから、私の意志で自身の身体を変化させたところで、変化している間は消えたとしても、元に戻ったら変わらずそのままだろう。
 吸血鬼の変化は、魔術的な側面も持っている。だから、元の姿は一切関係ない。だから、一度変化して、元の姿に戻れば変化する前そのままの格好となるのだ。そうでなければ、変化する度に服が脱げてしまい面倒くさい事になる。
 それでも、何事も試してみるのが一番という事で、蝙蝠の姿へと変化してみる事にする。

 少し念じるだけで変化は可能だ。私にとって、蝙蝠に変化するというのは指先を動かす事と大差ない。
 一瞬で自身の身体が縮まるのを感じる。それと同時に、視界も上下に揺れ始める。高度を維持するために羽ばたいているのだ。
 けど、今は蝙蝠に変化する事が目的ではないから、すぐに元の姿へと戻る。不安定だった視界が安定し、足の裏が地面に触れる。
 私に分かる変化は、いつも感じるその程度の事。その他の変化の確認は、目の前の友人に任せるとしよう。

「……駄目、みたいね」

 私の予測は正しかったようだ。
 だから、その結果を聞いて気落ちをすることはない。そもそも、耳が二つ増えたところで困る事はないから、別にこのままでも構わないとさえ思っている。

「パチュリー、お姉様は大丈夫なの?」

 けど、フランにとってはそうもいかないようだ。食堂を出る前よりもずっと不安そうな声になっている。今のフランにとって、最後の頼みの綱はパチェなのだ。だから、パチェの推論がことごとく外れている今の状況は、不安で不安で仕方がないのだろう。
 出来れば、その不安を取り除いてあげたいところだけれど、私にはどうする事も出来ない。私は、今頭に生えている耳がなんなのか全く分からないのだから。

「大丈夫と言ってあげたいところだけど、正直なところは分からないわね」
「じゃあ……っ!」
「まあ落ち着きなさい。私も自分自身の知識を完全に把握してるわけではないの。だから、少し時間をちょうだい。こあと、参考になる資料がないか、探してみるから」

 感情的になっているフランを宥めるように言う。最初は少し早口で、けど、次第に口調を遅くすることで、感情を徐々に抑えさせていく。
 パチェは自分の感情だけでなく、周囲の感情を制御するのも得意なのだ。

「別に、困ってる事はないから無理しなくてもいいのよ? フランも、そんなに心配する必要はないわ」
「レミィは黙ってて」

 気を使わなくてもいいという意味を込めて言ったのだけれど、パチェには一言で切り捨てられてしまった。何が気に入らなかったというのだろうか。

「それほど身構える必要はないでしょうけど、フランはレミィに何か異変が起きないか見張っててちょうだい。本人の危機感がかなり薄いみたいだから」
「……わかった」

 パチェの言葉にフランが深刻そうに頷く。油断したら何か重大な事が起こってしまう。そう思っているような表情だ。
 今の私の、何があっても受け入れようとしている心情とは正反対だ。

「私は別に、どうなろうともいいんだけれどねぇ」

 幸い、私以外に異変が起きているような者もいない。
 外の連中の安否はどうだっていい。私自身もどうなってもいい。館の者が無事なら、特にフランが無事ならそれでいいのだ。

「レミィが良くても、私たちは良くないのよ。だから、勝手な事は言わないでちょうだい」

 珍しく少し怒ったような口調だった。そして、フランはどこか寂しげな表情を浮かべて、パチェの言葉に同意するように頷いている。なんだか、私だけが違う陣営にいるようで居心地が悪い。
 けど、パチェの怒りの表情の中には心配の色も見て取れる。その事が嬉しくて、私の意識に関係なく表情が緩む。

「レミィ……? なんで笑ってるのよ」
「ああ、うん、ごめん。パチェに心配してもらえてる事が存外に嬉しくてね」
「はあ……、自分の身に異変が起こってるっていうのに暢気ね」

 ため息を吐かれた上に、呆れられてしまった。心配の色も見えなくなってしまう。
 けど、同時に周りの空気も弛緩したようだ。真剣さも薄れてしまっている。緊張している状態よりは、こちらの方が私も変に居心地の悪さを感じなくていい。

「とにかく、レミィも何かあったらすぐに私の所に来なさい。私も何か分かり次第教えるから」
「うん、お願い」

 私を心配して動いてくれる。
 その事は非常に嬉しい。けど、時間を奪ってしまっているという事に申し訳なさを感じていた。





 あの後、パチェの邪魔になるかもしれないという事で私たちはすぐに図書館を後にした。去り際、パチェが小悪魔を呼び出して指示を出している声が聞こえてきた。
 私の為に時間を割いてくれなくてもいいと二人を止めたかった。けど、それは出来なかった。
 きっと、パチェはまた怒るだろうし、誰かの善意を何度も止められるほどの傲慢さも持っていなかった。私が偉そうな態度を取っていられるのは、何か気に食わない事がある時だけだ。

「ねえ、お姉様。……どうなってもいいって本当にそう思ってるの?」

 フランと並んで廊下を歩いていると、不意にそんな事を聞かれた。
 一瞬、なんの事を言っているのか分からなかった。けど、すぐに私が先ほど言った事だと気付く。

「ええ、そうね」
「なんで」

 思いの外強い語気で言葉が返ってきた。
 私は、思わず足を止めてしまう。私の足をそのまま縫い止めてしまうだけの強制力が込められていた。
 横を見てみる。けど、フランはいない。だから、そのまま後ろへと振り向く。
 さっきまで隣を歩いていたはずのフランは、数歩分後ろにいた。私は、身体ごとフランの方へと向ける。
 寂しそうな、けど強い意志も宿った紅い瞳が私を射抜くように見据えている。けど、それは非難の眼差しではない。私の視線を逸らさせないようにするような、そんな視線。

「なんでお姉様は、そんなに平気そうなの? なんで、自分のことを、大切にしないの?」

 泣きそうな声だった。
 泣きそうになりながらも、何かを訴えようとするような声だった。

「貴女が無事、だからかしらね」

 フランに何も起きていないのなら、それだけで十分だった。
 私にはフランしかいなかったのだ。フランがいたからこそ、今の今まで生きてこれたようなものだ。
 両親に裏切られ、その瞬間に寄る辺を失った。その代わりになるようなのがフランだった。フランが私の全てなのだ。
 だから、私が傷付くのは痛い事ではない。私の身に異変が起こるのは怖い事ではない。
 それらは、ただ岩のように耐えればいい。その最中に壊れてしまっても、フランが無事なら気になどならない。

「……私は、そんなお姉様が怖いよ。いつか、ふとした拍子に消えちゃいそうで、すっごく怖いんだよ!」

 フランが声を荒げる。内にある感情をぶつけてくる。
 それは、いつぐらいぶりの事だろうか。少なくとも、自らの力を制御出来るようになった後は、聞いていない。

「今もお姉様は、自分の身に変化が起きてるのに全然気にしてない。それどころか、受け入れてるような節さえもある。ねえ、お姉様はどうしたいの? このまま、猫になっちゃってもいいの? それとも……」

 そこで、フランの言葉は途切れてしまう。その先を口にするのをはばかっているようだった。けど、今までの会話の流れから少しくらいは予測することが出来る。
 だからといって、わざわざ口にしようとは思わない。フランも口にしたくない、聞きたくないからこそ口を噤んでしまったのだろうから。

「そうね。猫になるのも、悪くはなさそうね」
「……もう、誰とも話が出来なくなるかもしれないのに?」
「私は聞く側に徹するだけでも、満足よ」
「……誰かに伝えたいことはないの?」
「特にないわね。私が伝えたいことは全部伝えたわ」

 そもそも、私が伝えるべき事なんてなかった。私の役目は、フランが自分自身で前に進めるようになるまで支えてあげる事だけだった。
 だから、話をしたりされたりするだけでも、私は十分に満たされている。フランを縛り付けてまで、これ以上を欲しいとは思わない。

「そんな、ことない。そんなことないよ! 私は、もっとお姉様の話を聞きたい! お姉様の声を聞いていたいよ!」
「そう言ってくれて嬉しいわ。でもね、フラン。私は思うのよ。もう、貴女に私は必要ないんじゃないかって。私以外にも、フランを支えてくれる存在はいるのだから、私が出しゃばる必要なんてないんじゃないかって。私よりも咲夜の方が聞き上手だし、私よりもパチェの方が的確な助言が出来るわ」

 そして、どちらもフランを縛ったりはしない。

「それとこれとは全然別だよ! お姉様はお姉様、みんなはみんな! 私にとっては全然違う存在なんだよっ? どうしてそれが分かってくれないの!?」
「……」

 フランの声が廊下に響く。
 激しい怒気を前にして、私はどうしていいか分からなくなる。
 フランからは色々な感情をぶつけられてきた。だけど、ここまで純粋な怒気をぶつけられたのは初めてだった。
 だから、受け止め方が分からない。だから、私は立ち竦んでしまう。

「私、パチュリーの手伝いをしてくる! お姉様は、絶対に元に戻してみせるから!」

 そんな私を置き去りにしてフランは振り返る。
 廊下の向こう側へと、全力で飛んで行く。

 後に残ったのは小さな風だった。
 そして、風が止んでも、私は動く事が出来なかった。





 結局、フランは夕食の時間になってもパチェの手伝いをしていたようで、食堂には顔を出さなかった。昼食時は言わずもがなだ。
 私の方からフランに会いに行く勇気も湧かず、結局喧嘩別れのような物をして以来顔を合わせていない。
 あんなにも怒ったフランを見た事がないから、どうすればいいのかわからない。いつもなら、情けないけれどパチェに助言をもらいに行くのだけれど、傍にはフランもいるだろうから、図書館に向かう事は出来なかった。
 だから、一人ベッドの上でうじうじと考えて、気が付けば眠ってしまっていた。

 そして、翌日。違和感と共に目が覚めた。
 お尻の辺りが何やらもぞもぞとするのだ。手でその辺りを触れてみると、寝間着の柔らかい布越しに細長く、柔らかい物が触れる。
 少々寝ぼけた頭のままベッドから抜け出して、寝間着を少しずらし、それを引っ張り出してみる。
 それに直接触れて返ってきたのは、昨日触れた猫の耳らしい物と同じ感触だった。
 毛に覆われたような細長い物体を握ったまま、視線を下に向けてみる。そうすると、尻尾のようなものが視界に映った。私の髪と同じ色の毛に覆われている。咲夜いわく、真昼の月のような青。
 おそらく、猫の尻尾で間違いないだろう。どうやら、昨日に引き続いて今回は尻尾が生えてきたようだ。
 真っ先に思い浮かんだのは、これを見たフランがどう思うだろうかだった。また、慌てて私の事を心配するんだろうか。
 そして相変わらず、私自身には危機感が全くない。このままだと猫になってしまうというのが現実味を帯びてきたなとぼんやりと思うだけ。きっと、眠気のせいではない。ちゃんと意識が覚醒してもそう思っている事だろう。
 こんな事では、またフランに怒られてしまいそうだ。
 それは嫌だと思う。けど、そうやって怒られ続けて最終的にフランに嫌われて見限られてしまうなら、それはそれでもいいのではないだろうかとも思ってしまう。
 ただ、正面からフランに拒絶されてしまうのも嫌だった。

「おはようございます、お嬢様」

 自分の身体に生えた尻尾を見ながら、つらつらと考え事をしていたら咲夜が現れた。どうやら、結構な時間考え事に没頭してしまっていたようだ。

「ええ、おはよう」

 顔を上げて挨拶を返す。尻尾は見えているはずなのに、今日は驚いた様子がない。いつも通りの非常に落ち着いた雰囲気を纏っている。

「なんとなく予想はしていたのですが、案の定でしたね」

 ああ、驚いていないのは事前に身構えていたからか。それに、今更耳も尻尾も変わらないのかもしれない。

「ええ、着実に猫に近づいていってるわね」

 耳、尻尾ときて次はなんだろうか。髭が生えるか、爪を好きなように伸び縮みさせるように出来るか、はたまたそのまま一気に猫の姿になってしまうのか。
 色々と予測は出来るけど、このまま止まるという事だけは考えられなかった。このままそうなる事を望んでいるからだろう。

「これは、今後の為の用意をそろそろ始めた方がよろしいのでしょうかね」
「何を用意するっていうのよ」

 首を小さく傾げる咲夜へとそう返した。私が猫になったからといって、何か必要な物が生じるとは思わない。
 ああ、部屋を自由に出入りするための猫用の小さな出入り口は必要そうね。四六時中部屋の中に閉じこもっているつもりはないし。

「そうですねぇ。……首輪、でしょうか」
「首輪、ねぇ。必要ないわね」

 咲夜は少し考えた素振りを見せたけど、ほとんど反射的に言っているのではないだろうか。首輪が必要な物だとは到底思えない。
 そんな物を付けてなんの意味があるというのだ。飼い猫ではあるまいし。

「いえいえ、首輪に『紅魔館』と書いておけば、お嬢様が道に迷った時も安心ですよ。それに、首輪に名前を書いておけばすぐに誰だか分かりますし」
「やっぱり必要ないわ。それよりも、扉の横か下の方に小さい出入り口の方が必要そうじゃないかしら?」
「ああ、言われてみればそうですね。そちらも検討してみます」

 私と同様に、咲夜にもまた危機感がない。何故なのかは分からないけど、今は咲夜と共にいるのが一番居心地が良さそうだ。

 フランもパチェも、これくらい気にしなければいいのに。
 少し真剣に考え始めた咲夜を見ながら、そんな事を思うのだった。





 尻尾のせいで、四苦八苦しながらもなんとか着替えを済ませた。咲夜の提案で、スカートを少しずらし、代わりに裾の長い服を上から着る事でなんとか解決した。気にはなるけど、じきに慣れるでしょう。
 そうして、いつもよりも落ち着かない気分で食堂へと向かったけれど、そこにフランの姿はなかった。どんな反応をし、どんな事を言われるのだろうかと身構えていただけに、拍子抜けだった。
 咲夜によると、まだパチェの手伝いをしていて、私の姿を元に戻す方法を探してくれているそうだ。
 そうして頑張ってくれている事は嬉しい。けれど、私などの為に行動を縛られてほしくはない。私の事など気にせず、自由にしてほしい。

 それを伝える為、朝食を摂った後、図書館を目指そうとした。けど、昨日のフランとのやり取りが蘇ってきて、なかなか足は図書館の方へと向かない。むしろ、足を動かす度に図書館から離れた方へと向かって行っている。気がするなどという事はなかった。
 端的に言えば、怒ったフランを見るのが怖かった。私から離れてほしいとは思いながらも、拒絶はされたくないとも思っている。
 まあ、昨日のあれは拒絶ではなかったけれど。むしろ、私が離れてしまう事を恐れていたようだった。
 だけど、私がずっとこんな態度を取っていれば、愛想を尽かして私の事などどうでもよくなってしまうかもしれない。それはそれで別によかった。だけど、面と向かって拒絶される事だけはされたくなかった。
 だから、私はフランから逃げている。図書館とは真逆の方向へと向かってしまっている。
 それでも外に出ないのは、フランから逃げたくないという気持ちがあるからだろう。中途半端な気持ちが、私を館の誰も来ないような場所まで誘ってしまった。
 戻れないという事はない。無駄に広いとはいえ、無限の広さがあるわけでもないし、内装も頭の中に入れてある。だから、私が決心さえすれば図書館へはすぐに向かう事も出来る。
 けど、意識も身体も図書館へと向かおうとはしない。

「お嬢様」

 不意に咲夜の声が思考へと割り込んできた。悩んでいるだけで、一向に前へと進もうとしない思考を破棄して、意識を外に向ける。

「どうかしたのかしら?」
「はい、ご質問をと思いまして。お嬢様、青と赤、どちらがよろしいでしょうか」
「赤、だけど、なんの質問?」

 答えを返してから、質問の意図を尋ねる。どうせ、赤以外を選ぶとは思わない。

「お嬢様の為にご用意しておく首輪の色です。お嬢様の毛の色に似合う青か、お嬢様のお好きな赤かで迷っていたのですよ。予想通りの答えではありましたが、参考にはなりました」
「いや、ちょっと待ちなさい」

 一人納得をしている咲夜をとっさに呼び止める。この従者は早めに呼び止めておかないと、すぐに姿を消してしまう。

「はい? なんでしょうか」
「私はいらないと言ったはずよね? それなのに、どうして用意を進めてるのよ」
「もしかしたら、必要になるかもしれないではないですか。それに、猫になったお嬢様が言葉を発する事が出来るとも限りませんし」

 咲夜の中でも、私がこのまま猫になってしまう事として確定しているようだ。しかも、フランやパチェとは違って、それを止めようと言う様子は一切見られない。むしろ、その時の為の準備まで進めている。

「……ねえ、咲夜。貴女は、私がこのまま猫になってしまってもいいと思っているのかしら?」

 気が付けば、そう聞いていた。フランとパチェの思いはその言動から分かったけれど、咲夜がどう思って動いているのかは分からなかった。

「どちらでもいいというのが私の思いですね。私はお嬢様がどのようなお姿になろうとも、その生活を快適にするために付き従うだけです」

 フランともパチェとも違った立場からの言葉。
 咲夜はどこまでも私の従者だった。だからきっと、いつまでも付いてきてくれるのだろうと思った。

「でも、そうですね。フランお嬢様の為には、元の姿に戻ってほしいとも思っています」

 けど、同時にフランの従者でもあった。

「元の姿に戻れるなら、それでもいいわ。けど、他人の時間を削ってまで戻る必要はないと思うのよ。もうあの子に私は必要ないから。むしろ、あの子の成長を妨げているようにしか思えないわ」

 どうして、咲夜にこのような事を言っているのだろうか。
 いや、考えるまでもない。私が、フランに会いに行けないからこんな所で自分の考えを吐露しているだけだ。理由だけがあって、意味などない。

「お嬢様、あまりご自分の価値を貶めない方がよろしいですよ。そのような態度をお取りになるから、フランお嬢様に怒られてしまうのです」
「……もしかして、昨日のやり取りを聞いていたのかしら?」
「いいえ、フランお嬢様からお聞きしたのです。フランお嬢様は強く言い過ぎたと後悔していらっしゃいましたよ。それから、謝りに行きにくいとも仰っていました。理由は違えど、昨日の今日で会いに行けないという点では同じですね」

 微笑ましい物を見るような表情を浮かべる。そんな視線を向けられることに居心地の悪さを感じて、私は視線を逸らしてしまう。余計な事を口にして、余計なものを掘り起こしてしまったと苦い気持ちになる。

「今回の確執の原因は確実にお嬢様の方にあると思います。なので、一つだけ言わせていただきます」

 その言葉に、逸らしていた視線を再び咲夜の方へと向ける。
 咲夜は表情を変えていた。付き従う者ではなく、向かい合う者としての表情を浮かべている。

「他の誰でもない、レミリアお嬢様にしか出来ない事はまだまだたくさんありますよ。なので、意地を張らず、ご自分に素直になってください」
「意地になんてなってないわよ」

 私がフランにとって、すでに邪魔な存在でしかないというのは明確な事実だ。だから、私は素直に身を引こうとしている。少々唐突ではあるし、歪ではあるけど間違ってはいないだろう。
 だから、意地はどこにもない。

「そうですか? まあ、お嬢様がそう仰るのなら、そういう事にしておいて差し上げましょう」
「別に貴女に認められなくても、事実は事実よ」
「分かってますよ」

 それが適当な言葉だという事は、しっかりと伝わってきた。忠実な時はとことん忠実なのに、そうでない時はとことん掴み所をなくしていなされてしまう。

「ではでは、お聞きしたいことも聞けましたので、私は仕事の方へと戻りますね」

 そう言うなり、咲夜は姿を消してしまった。

 別に何かを言おうってつもりもなかったんだけれど、せっかちな上に逃げ足の早い従者だ。





 結局、私はあのまま図書館に行く事が出来ないまま一日を潰してしまった。昨日の結果は、私の意気地なさを露呈させてしまっただけだった。
 いや、私が意気地なしなのは、既に分かっている事だ。けど、それを突きつけられるような事があると、やはり気持ちは沈んでしまうものだ。
 それから、フランから逃げているという状況も気分的に嫌だった。

 そんな、下向きの気分のまま眠って迎えた翌日。例によって、私の身体に違和感が訪れていた。
 けど、昨日とは違って具体的な正体を掴む事がすぐに出来なかった。
 耳と尻尾は今も変わらずある。頬の辺りには何も生えてきていない。爪も自由に出し入れ出来るようになっている様子はない。ここまで調べたのだから、身体が完全に猫になってしまっているという事も、当然ながらない。
 違和感を抱えたまま首を傾げる。どこかがおかしいのに、どこがおかしいのかが分からない。
 とにかく、全身くまなく触れてみて、どこかおかしな部分はないか探ってみようとして、ようやく違和感の正体に気付いた。

 背中に、何もない。

 吸血鬼の証である蝙蝠のような翼がない。どうやら、何かが増えるとばかり思っていたせいで、なくなっている事に気付けなかったようだ。
 ほとんど象徴のようなもので、飛ぶ時には必要としないものだ。だから、意識する事がほとんどなかったのも、なかなか気付けなかった原因だろう。

 なんにしろ、猫化は着実に進んできている。今までは猫に必要な物が生えてきた。けど、今回は猫に不必要な物が消えてしまった。
 ここから後戻り出来るのかは、分からない。けど、猫になる事への心構えくらいはしておいた方がよさそうだ。まあ、今の身体に未練があるわけでもないから、必要はなさそうだけれど。
 とりあえず、起きて早々布団に潰されてなければいいとだけ思っておこう。眠っている間に小さな身体になってしまえば、ベッドから出ることさえも苦労しそうだ。
 とにもかくにも、こうして考えていても仕方がない。
 なるようになる。そう思うしかないのだろう。

 そう考えながら、ふらふらとクローゼットへと向かう。尻尾が何度か太股の辺りにぶつかる。
 心なしか、身体が少し重たくなったような気がする。翼が消えたのだから、普通は逆なのではないだろうか。
 その重さが嫌で、身体を浮かしてみようとした。けど、身体が浮かび上がる事はなく、足は床に着いたままだった。
 どうやら、翼が消えてしまっただけでなく、吸血鬼としての力も消えつつあるようだ。これで、身体が少し重くなった事も納得が出来る。

 そして、次に起こった事もさほど驚くべき事ではなかったのかもしれない。

 クローゼットの戸を開けた途端、誰かと目が合った。
 それは、少女の姿をしており、紅い瞳を見開いて驚いたようにこちらを見ている。銀に青をまぶしたような髪の中に、獣のような一対の耳が立っていた。
 そこまで観察して、目の前にいるのが誰なのか、鏡の中に映り込んでいるのが誰なのかが分かった。
 それは、私だ。今まで自分の姿を見た事がなかったから、本当に誰だか分からなかった。けど、翼が消え、浮かぶ事さえ出来なくなった時に、予感くらいはしていたのかもしれない。
 突然、見知らぬ姿が映った事には驚いたが、鏡に私が映っている事に対しての驚きはなかったのだから。

 私は思わず鏡の中の自分を見つめてしまう。
 自分自身の姿というのが珍しかった。私の動きに合わせて動く自身の像が面白かった。
 私が興味深げな表情を浮かべれば、同じ表情を返してくる。手を伸ばしてみれば、同じように延ばし返してくれる。だというのに、鏡に触れても返ってくるのは冷たく硬い感触だけで、なんとも不思議な感覚を植え付けられる。
 ついでに、その場でくるりと回ってみる。そうすると、同じ速度で、けれど逆方向に回る。
 そんな些細な事が面白いのか、鏡の中の私は笑みを浮かべていた。尻尾もゆらりゆらりと揺れている。

「おはようございます、お嬢様」

 けど、咲夜の声が聞こえてきた途端に、身体が大きくはねる。鏡の中の私は身をすくませて、笑みとは打って変わって驚きの表情を浮かべていた。尻尾がぴんと立っている。
 見られて困るような事をしていたわけではないけど、子供っぽい姿を見られるのにはどうしても気恥ずかしさを感じてしまう。だから、いきなり咲夜が現れた事に驚いてしまった。

「お嬢様? どうかなさいましたか?」
「い、いえ、なんでもないわ」

 せわしなく働く心臓を宥めるように、ゆっくりと息を吸いながらそう答える。私の背後に立つ咲夜は、不思議そうな表情を浮かべているだけだ。
 私が鏡の前で何かをしていたとは思っていないようだ。

「それにしても、今度は翼が消えて鏡に映るようにまでなってしまいましたか」
「ええ、そうみたいね」

 咲夜が物珍しそうに私の姿を観察する。けど、すぐに姿勢を整えて背後に立つ。

「お嬢様、パチュリー様から伝言があります。朝食を摂ったら図書館まで来るようにとの事です。パチュリー様たちが、お嬢様の事に関して何か分かったそうですよ」
「……どうしても行かないといけないかしら?」

 昨日逃げ続けていた私が今日、フランに顔を合わせられるとは思えなかった。
 もう今更元の姿に戻る気もないし、このままでいいのではないだろうか。私が逃げ続けていればあの二人も諦めてくれるでしょうし。

「ええ、そうでしょうね。パチュリー様に、もしもお嬢様が来るのを拒むような態度を見せたら引きずってでも連れてこいと言われていますので」
「貴女は、私の味方よね?」

 既に私は逃げる気になっている。愛想を尽かされるまで逃げるつもりだ。
 ただ、その為には咲夜がこちら側に付いていなければいけない。咲夜に時止めを使われてしまえば、逃げられないのは目に見えている。

「そうですね」

 一瞬、これで大丈夫だ、と思った。

「けど、勘違いをしてはいけませんよ。私は、お嬢様を幸せにする為の味方であって、いかなる命令でも聞き入れるという味方ではありませんから」
「それは、従者の姿として間違ってはいないかしら?」

 もともと命令に忠実であったわけではないし、私自身それを望んでいるわけでもない。でも、今だけは私の命令に忠実であってほしいと思う。非常に都合のいい考えだと分かっていても。

「そうは思いません。主をより幸せな方向へと導こうとする姿こそ、従者が心得るべき姿勢だと思っています」

 鏡の中の咲夜が完璧な笑みを浮かべた。
 それに対して、視界の端に映る私は諦めの表情を浮かべている。尻尾も力なく垂れ下がっている。

 どうあがいても、考えを改めさせるのは不可能そうだった。





 一人、図書館を歩く。
 ここに入るなり、咲夜は姿を消して仕事へと戻ってしまった。私をここまで連れてくるほどにフランとパチェに肩入れをしている割には、最後まで見届けようという気はないらしい。
 咲夜の姿が見えなくなった瞬間、逃げてしまおうかと思った。けど、どうせ逃げようとしたところで咲夜が戻ってくるような気がしたから諦めた。それに、いつまでも逃げ続けているわけにもいかない。
 いい加減、腹を括ることにしよう。

 そう思って、パチェがいつも本を読んでいるテーブルを目指した。きっと、二人はそこにいるだろう。
 案の定、二人はいつものテーブルにいた。何もせず私を待ってくれていたようで、すぐに私に気が付いた。

「お姉様……っ!」

 フランは、私の姿を見た途端に絶句した。何を言えばいいのか分からなくなるほどにショックを受けているらしい。
 対して、パチェは睨むように私を見ている。

「えっと、パチェ……?」

 友人のただならぬ雰囲気に、つい及び腰となってしまう。これ以上、二人の方へと近づけなくなってしまう。かと言って逃げることも出来ない。このまま背を向けてしまえば何をされるか分からない迫力がある。

「……レミィ。私は、貴女がここまで馬鹿だとは思ってなかった」

 開口早々、非難されてしまう。全く身に覚えがないから、困惑することしかできない。
 何故、パチェはそんなにも機嫌が悪そうにしているのだろうか。

「私は最初、今回の件はレミィ以外に原因があるものだと思ってた。けど、フラン、それから咲夜の話を聞いてると、どうもそうとは思えないのよ」

 椅子から立ち上がったパチェが、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。パチェが足を止めたのは、私の数歩前だった。

「そうは言われても、私は今の状況をどうしようもないわよ?」

 私の意志では元の姿に戻ることはできない。それは、初日にいくつか試してみたのだから、パチェも分かっているはずだ。

「当たり前よ。貴女自身が何もしようとしていないんだもの」

 パチェが私の方へと人差し指を突きつけてくる。フランは、不安そうな表情を浮かべて、私たちのやり取りを見ているだけだ。

「言わないと分からないようだから言ってあげる。まだ、いくつか推論の域を出ない部分もあるから、間違っているかもしれない。だから、その時は謝るわ。けど、そんな推論抜きにしてもレミィに言っておきたいことがあるの。それを理解出来なかったら、ぶっ飛ばしてあげる」

 パチェの視線がより鋭いものとなる。敵意が、見え隠れしているように見える。

「いや、ちょっと、パチェ? 言ってることが無茶苦茶じゃないかしら?」
「かもしれないわね。でもいいの、個人的に貴女の考え方が気に食わないっていうのもあるから」

 全く私の言葉に対する答えになっていない。パチェにしては珍しく、無茶を押し通してくる。

「で? 聞く気はあるのかしら?」

 きっと断って逃げようとしたところで、魔法で私を捕まえようとするのだろう。視線からそれを感じる。
 そう思うと、突きつけられた指が銃口に見えてくる。パチェの魔法は、どこから出てくるのか見当がつけられないものが多いけれど。

「……わかったわ。聞くから、その指を突きつけるのをやめてくれる……?」

 私がそう言うと、パチェは無言で指を下ろしてくれた。少しだけ、威圧感がなくなる。

「じゃあ、まずは二つほど確認。咲夜から聞いたのだけれど、レミィは猫になってみたいと言ってたそうね」
「うん、言ったけど、正確には、なるのも悪くないだったわ」

 魔女であるパチェは、言い方のちょっとした違いにもかなり気を使う事がある。だから、些細な違いではあるけれど、訂正を入れておいた。

「そうなの? けどまあ、今重要なのは言い回しではなくて、レミィ自身の心情だから細かい違いはどうでもいいわ」

 どうやら、いらぬ気遣いだったようだ。

「で、もう一つ。レミィはフランに、もう自分は必要ないと言ったそうね」
「うん、言ったわ」

 極力、フランを視界に入れないようにしながら答える。フランの顔を見てしまえば、どんな表情を浮かべればいいのか分からなくなってしまいそうだったから。

「そう……」

 パチェがため息をつく。

「……私の憶測ではね、レミィの猫になるのも悪くないという意識と自分はもう不要だと思っている意識が、今回の件の原因だと思っているのよ」
「でも、私は猫に変化する力なんて持ってないわよ?」
「今まではそうだったかもしれない。けど、猫になるのも悪くないという意識がそういう力を発現させたのかもしれない」
「……そうしようなんていう意志は全くないわよ?」
「深層意識っていうのは、何をやらかすか分からない時があるのよ。今回も貴女が自分を不要だと思う意識が勝手に力を使った可能性は十分にあるわ」
「…………」

 これ以上、何を言い返せばいいのか分からなくなって、口を噤む。

「でも、そんな事はどうだっていいの。もしかしたら、間違っているかもしれないのだから。一番重要なのは――」


「――貴女自身に戻る意志があるかどうかなのよ」


 アメジスト色の瞳に、鋭さを滲ませてこちらを見据えてくる。
 私の答えを聞き逃すまいという、強い意志が見えている。

「……ない、わ」

 私が元の姿に戻る必要性などない。猫の姿だろうと問題ない。
 フランに対して言ったように、私は既に不要の存在だ。そんなものが、元の姿に拘る必要などあるのだろうか。

「……そう。なら、私からこれ以上言える事はないわ」

 淡々とした、けど怒りを含んでいるような声でそう言って私から離れる。そうして、椅子に深く腰掛けてしまう。ひどく疲れているように見えた。
 そして、フランが入れ替わるように私の前に立つ。紅色の瞳が、寂しそうに潤んでいる。

 どうして、そんな表情を浮かべるのだろうか。
 フランは、私の事なんて気にかけるべきではないのに。

「お姉様……」

 パチェに引き続いて、今度は何を言ってくるのだろうか。そう思い、身構えてしまう。
 けど、私が身構えるのは全くの無意味だった。向かってきたのは言葉ではなく、フラン自身の身体だったから。
 突然の事にどうしていいのか分からず、そのまま呆然と突っ立っている事しか出来ない。そうしている内に、フランとの距離は零となり、抱き付かれた。フランに抱き付かれる事に対して身構えておかなかった事を後悔する。
 抱きつかれた時の衝撃が思っていた以上に大きくて、もしくは思っていた以上に私が弱くなってしまっていて、そのまま床の上に倒されてしまう。
 腰を強かに打ち付ける。尻尾の方は何とか難を逃れたようだけど、付け根の辺りに痛みを感じる。

「フラン……?」

 痛みを感じる。けど、それ以上に困惑が大きかった。
 私に呼ばれても、フランは反応を返してくれない。代わりに、私に抱き付く腕に力が込められる。

 痛みを感じるほど強くはない。
 けど、逃げ出せないと思えるほどには強い。

 そういえば、久しぶりに抱き付かれてしまったような気がする。
 だけど、私は抱き締め返さない。頭も撫でてはやらない。それらはもう、この子には不要のものだから。

「……お姉様が元に戻るまで、絶対に、離さないから」

 しばらくして、フランが口を開いてくれた。私の胸に顔を埋めるようにしているから、表情を見る事は出来ない。

「どうして……」
「だって! お姉様は口で言っても、分かってくれないから! でも、だからって他にどうすれば分かってくれるかも分かんなかった。……私は、嫌だよ。お姉様の声が聞けなくなるなんて……」
「……そんなもの、貴女にはもう必要ないわ」

 フランはもう一人で歩いていける。私の言葉なんて必要ない。それどころか、私がいなくなっても大丈夫だ。私はいなくなるべきなのだ。

「……」

 私の言葉に反論するように、フランの腕に力が込められる。身体の内側へと食い込んでしまうのではないだろうかというくらいに、きつく締め付けられる。

「……っ」

 そして、本当に腕が食い込み始めてきた。食い込んできた分は、痛みに変わって、強すぎるくらいに神経を刺激してくる。
 フランは無自覚の内に力を込めているのだろう。今までは、それでも何とか耐えることが出来ていた。けど、今は吸血鬼としての力も弱まってきていて、身体的にかなり弱くなってしまっているようだ。
 このままでは、加減を忘れて私に抱き付くフランに傷付けられる。それは、なんとしても避けなければならない。

「フラ……ン……」

 呻くようになんとか名前を呼ぶ。
 フランのせいで、誰かが傷付くようなことがあってはいけない。今のフランが外に出られるのも、誰も傷付けないという自信があってこそなのだから。

「あ……。……ごめん、なさい……」

 私の呻き声に気付いたのか、腕の力を緩めてくれる。けれど、最初の宣言通り、決して離そうとはしない。しっかりと、抱き付いてきている。

「なんともないわよ。このくらい」

 フランを安心させるように、柔らかい声で話しかけながら頭を撫でてあげる。
 腕を動かした時に、痛みを感じた。吸血鬼の力を失っているというのなら、鬱血くらいはしているかもしれない。
 けど、その痛みは隠す。この子が私の痛みを知る必要はない。

 この子の為になるというのなら、
 この子が前に進んでくれるというのなら、
 この程度の痛みは、痛みにすら届かない。

「……嘘、だよね」

 けど、気付かれた。

「本当は、痛いんでしょ? 私のために、そうやって平気な振りをしてくれるんだよね」

 いや、気付かれないと思っていた事自体が間違いなのだろう。
 フランは聡い。きっと、私よりもずっと聡い。だから、私が隠し事をしても、その度に見抜いていたのだろう。

「……そういうのは、もういらないよ。お姉様が私に気を使ってくれる必要なんてない。だから、お姉様がしたいようにしてよ。私に気を使って、必要なくなったなんて言わないでよ」

 再度、腕に力が込められる。けど、今度は慎重だった。
 その柔らかさが、痛みに変わってしまわないように力を込めている。

「気を使ってるつもりなんてないわ。私は、私のしたいようにしているだけよ」
「……なら、これからは私のわがままを聞いて。私、今までお姉様にお願いを聞いてもらったことがないから、聞いてほしいんだ」

 前後の繋がりのない、本当に場当たり的な言葉だった。
 けど、フランがこうして私に対して何かを要求してくるのは初めてだ。願望を口にすることはあっても、それを誰かに頼む事は決してなかった。

「……聞いて、くれるよね」

 不安そうに聞いてくる。
 断られたらお終いだというふうに聞いてくる。
 ……そんな風に聞かれて、断れるはずがないじゃないか。私は、フランに弱く、そして甘いのだから。

「……わかったわ、聞いてあげる」
「じゃあ、お姉様は私の傍にいて。ずっと、なんていうことは言わない。お姉様が嫌なら離れてくれてもいい。……でも、そうじゃないなら、傍にいて。私の話を聞いて、それに何か感想を言って。不要な存在だなんて、言わないで。お姉様は、お姉様。代わりなんて、いないんだから」

 まくし立てるように言う。必死になって言葉を紡いでいるのだというのが伝わってくる。

「……本当に、私なんかのことが必要?」
「なんか、なんて言わないで……っ! 私は、本当の本当にお姉様のことが必要だと思ってるんだから! 絶対にお姉様がいてくれないといけないって思ってるんだからっ!」

 フランの語気が強まってくる。それに合わせて、再び腕に力が込められる。私へと縋り付いてくる。
 でも、痛みはない。感情を高ぶらせながらも、私なんかを気遣ってくれている。

「私は、お姉様のおかげでここにいられるっ! お姉様が私を認めてくれたから今ここにいる! ……だから、私にとってお姉様はいないといけない存在なの……っ! これからも、いてほしい存在なの……っ。そんなお姉様が自分自身の存在を蔑ろにする姿を見るのは、辛いし、苦しいし、悲しい、よ……」

 そのまま、フランの声は嗚咽の中に沈んでしまう。けど、言葉を失っても、私からは離れない。むしろ、一層力が込められてきている。
 少し痛いほどに。けれど、壊れないほどに。

 フランを泣かせてしまった。

 フランの嗚咽を聞きながらそう思う。
 少しずつ、胸の辺りが濡れてきている。

 フランは私を必要だと言ってくれた。

 だから、フランは怒っていた。
 だから、フランは泣いている。

 けど、自身が必要な存在だと認めてしまってもいいのだろうか。

 その事が、フランを縛り付けてしまうのではないだろうか。
 その事が、フランの成長を邪魔してしまうのではないだろうか。

 いや、悩むまでもない事、か。
 私が自身のことを必要ないと言うから、フランは私の傍から離れられなくなってしまっている。私が自身の必要性を否定する事こそが、フランの邪魔をしてしまっている。

 確かに私の存在がフランが前に進むのを邪魔しているのかもしれない。
 けど、フランは言った。言ってくれた。
 私のおかげで、今があるのだと。
 なら、どうしようもない事ではないか。私の存在なんていうのは。

 私は意固地になりすぎていた。
 フランの気持ちなんて、何一つ考えていなかった。
 自分の事だけを考えて、勝手にやり遂げただなんて思ってしまっていた。
 私はなんと愚かで我が侭で傲慢だったのだろうか。

「フラン、ごめんなさい」

 だから、謝った。謝って、嗚咽をこぼし続けるフランを抱き締めてあげた。腕は痛むけど、そんな事はどうでも良くなるくらいに抱き締めた。
 フランと私はほとんど背丈は変わらないはずなのに、随分と小さく感じた。

 ああ。この子はまだこんなにも小さかったのか。もっと、大きくなっているものだと思った。
 そう言えば、まだ前に進み始めたばかりなのよね。なら、小さく感じてしまうのも当然の事か。

 そもそも、私は急ぎすぎていたのか。まだ私がフランを支える必要があるというのに。

 私はまだまだフランを抱き締めてあげられる身体でいなければいけない。
 フランの話を聞いて、それに答えてあげられる身体でなければいけない。

 そう思ったとたん、私に不必要なものが消え、必要なものが戻ってくるのを感じた。





「お嬢様方、紅茶の用意が出来ました」

 カーテンの開け放たれた、けれど陽は差し込んでこない私の部屋。
 咲夜の手によって、私たちの前に湯気の立つティーカップが用意される。

「ありがと、咲夜」

 フランが咲夜へと向けて笑顔を浮かべる。

「……」

 あの日以来、フランは私から離れなくなってしまった。いや、これでも一応、少しずつは私から離れるようになっている。私が元に戻ってから数日は一時も離れようとせず、同じベッドで寝るような有様だった。それに比べればましになってきている。
 後、半月もあれば以前のように一人で散歩に行くようになるでしょう。きっと。
 けど、なんだかんだで、私はこうしてフランと一緒にいる事に安らぎを感じている。そして、どうやらフランも同じようなものを感じてくれているようなのだ。
 我ながら勝手な話だ。フランの為になるだなんて勝手に決めつけて、結局フランを傷付けていたなんて。

 後からパチェにも散々怒られた。あの時になって気付いたけど、私の視界の中にはフランしかいなかったようだ。
 パチェだって、私を必要としてくれていた。私は、自身の存在意義を蔑ろにすると同時に、パチェの事まで蔑ろにしてしまっていたのだ。謝るだけで済むような事ではない。
 実際、パチェに魔法で吹っ飛ばされかけた。フランが途中で止めに入ってくれたけど、私は甘んじて受けるつもりだった。
 傷付けたはずの妹に助けられるなんて、ね。
 本当、私というのはどうしようもないやつだったようだ。
 内心で溜め息を吐きながら、カップに口を付ける。

 ちなみに、猫になったのは私自身の変化の力原因だったみたいだけれど、今は少しも猫に変化する事は出来ない。頑張れば出来るようになるのかもしれないけれど、頑張ろうという気はない。

「お姉様? 何、考えてるの?」

 向かい側から、紅い瞳が私をじぃっと見つめてくる。そこには、警戒するような色が浮かんでいる。
 フランがずっと傍にいるのは、何も私が一度猫になりかけてしまった時の不安が拭い去れないからだけではない。私がまた、自分を不要な存在だと思ってしまわないよう監視をする為でもあるのだ。
 一緒にいた時間は誰よりも長いから、お互いに相手が何かを考えているというのはすぐに分かるのだ。まあ、フランは何を考えてるかまではまだまだよく分からないようだけど。
 そこは経験の差という事なのかしらね。

「あの子の名前」

 全く関係のない事を口にして誤魔化す。ばれるならばれるで構わないけれど、好き好んで自分を情けないと思っていたとは言いたくない。
 自分を不要だと思っていたけれど、もともとそれなりの自尊心はあるのだ。

「ほんとに?」

 身を乗り出すようにして、疑いの眼差しを向けてくる。テーブルの上にはティーカップが乗せられているから、実際に身を乗り出すような事はしない。

「ええ、本当よ」

 フランの瞳を見つめ返したまま、白を切る。
 そのまま、私たちは動きを止める。咲夜は、何も言ってこない。

 と、不意に鈴の音が聞こえてきた。ちりんちりんちりん、と響く小さな音は、足下まで迫ってくる。
 良いタイミングね。

「いらっしゃい」

 ティーカップをテーブルに置く。それから椅子を少し後ろに引いて、足下へと呼びかける。
 そうすると、一匹の黒猫が私の膝の上へと跳んできた。私に向かって一声鳴いた後、丸まってしまう。首には小さな金色の鈴が付いた赤色の首輪が巻かれている。

 この子は、私の姿が元に戻ってから咲夜が連れてきた猫だ。私がいつしか抱いた猫でもある。
 もしかしたら、咲夜はもともとこの子を連れてくるつもりで、準備を進めていたのかもしれない。私がそう言っても咲夜ははぐらかすのだけれど、いきなり連れてこられたとは思えないくらい咲夜に懐いていた事といい、やけにタイミングが良かった事といい、そうとしか思えないのだ。

 最初は咲夜に懐いていたこの子も、私の方へと世話が丸投げされてからは、私に懐いてくれている。猫の育て方なんて知らなかったから、パチェの図書館には世話になった。

 この子との出会いの経緯を思い出しながら、首を撫でてあげる。そうすると、初めて会った時よりも気持ちよさそうな表情を浮かべてくれる。頭を撫でられるよりは、首を撫でられる方が喜んでくれるという事を知ったのは、つい最近の事だ。

 と、ふと負のオーラのようなものを感じて顔を上げると、不服そうな表情を浮かべるフランと目が合った。はぐらかされて、不満なのだろう。

「大丈夫よ」

 黒猫を撫でる手を止めて、フランを真っ直ぐに見つめる。ここで頭を撫でてあげられればいいのだろうけど、手を伸ばすには遠いし、立ち上がるには黒猫が邪魔になるから、諦めるしかないようだ。
 その分、言葉に気持ちを込める事にする。

「貴女を不安にさせるような事なんて考えてないわ」

 自らの愚かさにはきちんと気付かされた。
 フランにはまだ私が必要なのだという事も分かった。
 いや、そもそも自身は必要か不要かを考える事自体が間違っていた。

「それに、私はこの子の世話もしないといけないから、そんな事を考えてる余裕もないわ」
「うん、そっか」

 頷いて、笑顔を浮かべてくれた。そこに浮かんでいるのは安堵だった。
 私は二度とフランの表情を不安で曇らせるわけにはいかない。今はまだ、不安が晴れきっていないけど、もし不安がなくなった時、再び不安にさせないようにしよう。

 その為には、余計な事を考えないようにしよう。
 もし、再び自身を不要だと思ってしまったなら、フランとの時間を増やそう。そうして、自身を必要ないだなんて思ってしまう思考を洗い落としてしまおう。


 きっと、そうする事でフランは滞りなく、前に進んでくれるようになるだろうから。


Fin



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