地霊殿の主の私室。そこではここの主である古明地さとりが一人で本を読んでいる。聞こえてくる音は彼女がページをめくる音くらいなもので、人によっては耐え難いほどに静かだ。
と、そんな静寂に異音が一つ混じる。そうっと開かれる扉の音が、侵入者の存在を告げている。しかし、さとりは気づいていないのか赤の混じった菫色の瞳を下へと向けたままだ。
侵入者たるさとりの妹である古明地こいしは、部屋に入ったときとは対照的にたったったと軽快な足取りで姉の方へと近づいていく。そんな彼女の腕の中には、身体の大きなキジトラがいる。どこか眠そうな表情で大人しくしている。
こいしは彼だか彼女だかを机の上に乗せてじーっと見つめる。
キジトラはその視線を意に介した様子も見せず、その場で丸まると眠り始めてしまう。マイペースな猫のようだ。
こいしはその様子を見て一人で頷くと、たったったーと開け放されたままの扉から出ていく。
この間、さとりが自分の周りの変化に気づいた様子はなかった。本の世界へと没入している。
しばらくして、こいしが再びたったったと足音をさせながら戻ってくる。今度は黒猫が腕の中で顔をきょろきょろとさせている。
こいしが彼だか彼女だかを机の上に乗せてじーっと見つめる。
黒猫はまず丸まって眠っているキジトラへと視線を向ける。しかし、彼だか彼女だかに何かをするような素振りは見せず、さとりの方へと視線を向ける。そして、今度はそちらに向かって行き、本の上を横切って机の上からさとりの膝の上へと飛び乗る。そこで収まりのいい場所を探すように身体を動かした後、彼だか彼女だかもそこに丸まる。
こいしはその様子を見てまた一人で頷くと、たったったーと開け放されたままの扉から出ていく。
この間、さとりが自分の周りの変化に気づいた様子はなかった。ただ、身体の方は何かに気がついたのか、彼女の片手は黒猫の身体をゆっくりと撫でている。
またしばらくして、こいしがたったったと足音をさせながら戻ってくる。今度はサビ猫が腕の中で澄ました表情を浮かべている。
こいしが彼だか彼女だかを机の上に乗せてじーっと見つめる。
サビ猫は丸まって眠っているキジトラには目もくれず、一直線にさとりの方へと向かっていく。その際、当然のように本の上を横切る。そして、机の端へとやってきて、下へと視線を向けると一時停止する。
何やら考え込むような素振りを見せた後、彼だか彼女だかの視線は真っ直ぐ前へと向く。少し後ろに下がって本を踏みつけると、そのまま一気に前へと駆けて、しなやかな身体をぴんと伸ばして跳躍する。そして、さとりの肩に乗りかかると、今度は頭によじ登り始める。慣れているのか、手間取っている様子は見られない。
そして、頭頂へとたどり着くとどこか得意げな顔をこいしへと向ける。
こいしはその様子を見てまたまた一人で頷くと、たったったーと開け放されたままの扉から出ていく。
この間、さとりが自分の周りの変化に気づいた様子はなかった。サビ猫が駆け出したときに少し傾いた本の向きを直すだけだ。
またまたしばらくして、こいしがたったったと足音をさせながら戻ってくる。今度は白猫が腕の中でどこか不機嫌そうな表情を浮かべている。
こいしが彼だか彼女だかを机の上に乗せてじーっと見つめる。
白猫は神経質そうに周囲を見渡して、さとりの方を見るとゆらりと尻尾を揺らす。そして、ゆったりとした足取りでさとりの方へと近づいていく。しかし、黒猫やサビ猫とは違って本の上を横切ることはしない。代わりに、撫でろと言わんばかりに本の上で足を折り畳んで座り込む。
「……邪魔よ」
今度はさすがに気がついたようだった。読書に没頭していたところを邪魔されたせいか、若干声が不機嫌そうだ。しかし、白猫はさとりの感情の変化などどうでもいいと言わんばかりに本の上から動こうとしない。
そんな様子にさとりは呆れ混じりの溜め息をついて、しょうがないなぁといった感じの表情を浮かべて白猫の身体を撫で始める。こうしたやり取りは日常的なものとなっているのかもしれない。
「それでこいし、これはどういうことかしら?」
「おおう。全然驚いてくんなかった」
こいしはおどけた様子を見せながらそう言う。驚かせたかったかのような口振りだが、微塵も残念がっているようには見えない。
「この程度で驚いてたら心臓が持たないわ」
さとりは片方の手で黒猫、もう片方の手で白猫を撫でながら余裕そうな表情を浮かべて言う。妹のことがよくわからないと彼女はよく口にするが、それでも付き合いは長いのである。
さとりに撫でられている黒いのと白いのは、機嫌が良さそうにゆったりと尻尾を振っている。サビ猫はそれが羨ましいのかさとりの頭をぺしぺしと叩いてる。しかし、残念なことにさとりは第三の手を持ってはいない。
「ふぅん。それはそれは大層な自信がおありのようで」
「……まだ何か仕掛けてるのかしら?」
さとりは白猫と黒猫とを撫でるのをやめて、サビ猫を机の上に降ろしながら問う。周囲に警戒を向けているようだが、こいしが力を使っているならばさとりにはどうすることもできない。
「ふっふっふー、さてさてどうでしょう。何か仕掛けたかもしれないし、なんにも仕掛けてないかもしれない」
「それは仕掛けてるという口振りね」
「いいの? 断言なんてしちゃって。ここで私がなんにも仕掛けてませんでしたって言っちゃえば、恥をかくのはお姉ちゃんなのに」
「備えあれば憂いな――ひあっ?!」
言葉の途中でさとりの口から素っ頓狂な声が漏れてくる。どうやら、いつの間にか足下まで寄ってきていた三毛猫に足を舐められたようだ。
「ちょ、ちょっと! やめ、なさい!」
動揺のせいで膝の上の黒猫をうまく処理できず、言葉によって三毛猫を止めようとすることしかできない。しかし、三毛猫はそれだけで止まるほど気の利いた性格はしていない。
「それで? 備えあれば何?」
こいしはさとりの反応を楽しむようににやにやとした笑みを浮かべている。思い通りに事が運んで満足しているというのもあるかもしれない。
「そんなことよりこの子を止めてちょうだい!」
「えー、やだー」
そう言いながらもさとりの近づく。しかし、さとりに救いの手を差し伸べるためではなかったようだ。伸ばされた手は、机の上で丸まって眠っているキジトラへと触れる。
彼だか彼女だかはちらりとこいしの方を見たが、それ以上特に何をするでもなく再び眠りについてしまう。
その間に、さとりは自力で黒猫を膝の上からどけて、椅子を少し後ろへと下げると、足を椅子の上へと上げて膝を抱える。三毛猫はさとりの足を見上げて物足りなさそうに「なー」と鳴く。黒猫の方はある程度満足していたのか、それとも飽きていたのか、今度は白猫にじゃれつき始める。絡まれた白猫は乗り気ではないものの追い払う気もないのか、なすがままとなっている。
「自力でなんとかできて良かったね」
純朴な妹を演じるようにわざとらしく満面の笑みを浮かべる。さとりにはその裏に浮かんでいる悪戯娘の笑みが見えているようだが。
「まったく、自分から仕掛けといて良かったねじゃないわよ。あんまりからかうようなことをしないでちょうだい」
呆れたような態度を見せて少々迷惑そうな口調だが、こいしを追い出そうとはしない。なんだかんだと許してしまう辺り、猫に対する態度とあまり変わらない。
「ずっと本読んでて疲れてるかもしれないお姉ちゃんに癒しの提供」
「本を読んでるとき以上に疲れたわ」
「ふむ……、もっと連れてこようか? 暇そうにしてたのまだまだいたし」
しばし考え込んだかと思うと、そんな提案を投げ掛けた。
「連れてくるのはいいけど、明らかに私の邪魔をさせるような位置には連れてこないでちょうだい」
「りょうかーい。ではでは、しばしのお待ちを」
くるりとその場で無意味な回転をしてから、たったったーと部屋から出ていく。
さとりはその姿が見えなくなるまで視線で追ってから本の続きを読もうとする。しかし、その上にサビ猫が乗ってきて、さとりの視線を独り占めしようとするかのようにごろりと横になって腹を見せる。
今日はもう本を読むことはできそうにない。その代わりのように、さとりは両手を使ってサビ猫の腹をわしゃわしゃと撫で始めるのだった。
しばらくして、さとりの部屋は猫まみれとなる。サバトラにハチワレ、ブチ猫、茶トラ、その他色々と様々な模様の猫が一所に集まり、各々が好き勝手にしている。それなりに行儀はいいようで、ある程度の秩序は保たれている。
「……真面目に数えたことなんてなかったけど、こんなにいたのね」
三毛猫を抱き上げて首元を撫でていたさとりが呆れた様子で言う。猫たちに懐かれてはいるが、彼女は基本的に放任主義で世話も目に付いたのだけに餌を与えて構ったりする程度だ。だから、この屋敷の主でありながらペット事情は全く把握できていない。一匹二匹紛れた程度で気づくことはないだろう。
「他にもまだまだ見かけたよ。逃げられちゃったけど」
こいしはさとりの横で双子の長毛猫の前で指を動かして遊びながらそう言う。
「これで全部じゃないというのは恐ろしいわね」
「とりあえずの目標は全部の猫をこの部屋に集めることかな」
「まあ、好きにしてちょうだい」
特に害はなさそうだと判断したのか、投げ遣り気味にそう告げる。彼女自身、少なからず気になっている部分もあるのかもしれない。
「じゃあ、最近寒くなってきたし、お姉ちゃんが寝てる間にベッドの中に詰めとくね」
味気ない反応がつまらなかったのか、そんな提案へと変える。
「それはやめてちょうだい」
「えー」
こいしは不満そうな声を上げる。さとりの言葉を真面目に聞くつもりはなさそうである。
「えーじゃありません」
「にゃー」
全く似せる気のない鳴き真似をする。しかし、その声が気に入らなかったのか、こいしに遊ばれていた長毛猫の片割れが「みゃー」と声を上げる。
「みゃー」
今度はわりかし猫に近い声となっていた。長毛猫は先ほどよりも少し高い「んみゃー」という満足げな鳴き声を上げる。もう一匹の方は、何をやっているんだろうかという視線を片割れとこいしへと向けている。それはさとりも同様だった。
「なんかお姉ちゃんの目が冷たい」
「猫の指導を受けてよくわからないことをしているのだから、冷たくもなるわよ」
「ふむ、お姉ちゃんには猫度が足りないということか。ほらほら、お姉ちゃんも先生の真似して」
「なんでそんなことしないといけないのよ」
比較的に良識を持っているさとりは、こいしの誘いを拒否する。しかし、長毛猫が「ふみゃー!」と抗議の声を上げる。
さとりはそれを無視するように三毛猫を撫でることへと集中し始める。しかし、三毛猫はそうやって逃げるために相手にされるのが嫌なのか、さとりの手から逃げ出すと机の上から飛び降りてしまう。
そして代わりに、長毛猫がさとりの前へとやってくる。さとりは立ち上がって逃げようとするが、こいしに行く手を阻まれる。
「どいてちょうだい」
「いたいけな猫の願いを叶えることこそが私の使命! お姉ちゃんがこの子の指導を受けて猫の鳴き声を極めるまでここは絶対に通さないっ!」
妙な乗りでさとりの前へと立ちはだかる。物理的にどけるのに苦労はしないだろうが、きっぱりと諦めさせるというのは不可能だろう。
「どうせあなたは私の反応を見て楽しみたいだけでしょう?」
「さてさて。でも、その子がお姉ちゃんに是非とも鳴き真似を極めてほしいと願ってるのは真実でしょ?」
「多少悪乗りが含まれてるけど、確かにそうね。でも、私にそこまでする義理はないわ」
きっぱりと言い捨てる。そんなさとりに対して、長毛猫は悲しげに「うにゃー」と鳴く。
「うっ……、そ、そんなこと思ってもやらないものはやりません」
長毛猫の思考が流れ込んできたらしいさとりが若干たじろぐ。あまり他者を寄せ付けない能力ではあるが、それ故に遠慮なく迫ってくるのへの対処は苦手なようだ。
「今ここで無理して突き放して後で後悔するくらいなら、今ここでその子の願いを聞き入れちゃった方が楽なんじゃない? 多少の恥はかくだろうけど、それくらい安い安い」
こいしは楽しげにそう言う。さとりが狼狽えているのを見ているだけでも面白いのかもしれない。
今更さとりが妹のそんな言動に対してどうこうといったことはないものの、依然としてさとりに憐れみを誘うような鳴き声を向け続ける長毛猫に対してはどう対応していいのかわからなくなりつつあるようだ。ちなみに、片割れの方は愛想を尽かしたのかサビ猫と遊んでいる。
「……わ、わかったわよ。あなたの鳴き声を真似ればいいんでしょう?」
ついに長毛猫から向けられる感情に耐えきれなくなったさとりが折れる。声の様子から、決して乗り気になったわけではないというのが窺える。
長毛猫は機嫌が良さそうに尻尾をゆったりと左右に揺らし始める。そして、さとりの方を見て「みゃー」と一度鳴く。
「みゃ、みゃー……」
羞恥に濡れた声は猫の声には似ても似つかなかった。そもそも、素の声で鳴き声に似せようというのが土台無理な話だろう。
「あはははっ、全っ然、似てないっ」
こいしには大受けだった。あまりにも滑稽だからといった様子ではあるが。
「なっ、そ、そんなに笑うことないじゃない!」
さとりは顔を赤く染めてそう反論する。しかし、こいしはそんなものこどこ吹く風といった感じで受け流している。
「ほらほら、もう一回もう一回。今度は笑ったりなんてしないから」
笑いの残滓がある声には全く信憑性がない。しかし、長毛猫の再び手本を見せるように「みゃー」と鳴く姿を見せられてしまえば、無視することもできない。
「地声じゃあ絶対に鳴き真似なんてできないから、裏声を使ってみるといいよ。お姉ちゃんの声、私と結構似てるからそれだけでも良い線いけるって」
こいしは羞恥を引きずってなかなかもう一歩を踏み出そうとしないさとりへ、割と真面目な助言を与える。
そうした具体的な指示を与えられて、再びやってみようという気持ちになったのか、さとりの纏う雰囲気が変わる。そして、一つ息を吸うと、
「……みゃ、みゃー」
羞恥に負けているというのは変わらずだったが、こいしの助言に従ったおかげか、か細いながらも猫の鳴き声に近づいていた。
「おおっ、さっきよりも全然ましになってる。そんな声聞かされたら、思わず連れて帰っちゃうかも」
長毛猫も合格だとでも言うように尻尾をゆらゆらと揺らしている。
「……絶賛されてもそれはそれで反応に困るのだけれど」
恥ずかしさから逃げるように身を縮こまらせる。しかし、一人と一匹はさとりの心情を慮って放っておくようなことはせず、じーっとさとりを見つめる。
「……何よ」
少し睨むようにこいしを見つめ返す。長毛猫の方は心を読めばいいので問いかける必要もない。ちなみに、長毛猫は新たな弟子に強い関心を抱いているだけである。ペットとして飼い主に対してそうしたものを抱くことに対する如何は置いておいて。
「そうやって恥ずかしがってる姿を見るために、次はどうやって遊ぼうかなぁって」
「実の姉を遊び道具として見ないでちょうだい……」
「ふっふっふー、どうしよっかなー」
こいしは上機嫌な様子でその場でくるりくるりと回る。さとりの苦言を受け流そうとしているようにも見える。
さとりはそんなこいしに溜め息を向けるだけだ。ほんの少し頬が緩んでいることから、楽しそうな様子を見ていられるのは嫌ではないのだろう。もしかすると、心の内側ではそのために悪戯の対象とされるなら安いものと思っているかもしれない。
「まあ、今のところはこのくらいで勘弁しといてあげようか。それでは次回をお楽しみに!」
「いやちょっと待ちなさいっ!」
制止の声がこいしの足を縛ることはなかった。自由を踏みしめ、それでいてたったったーと軽快な足音と共に部屋から飛び出ていってしまった。
「……あの子が楽しそうにしているのは別にいいんだけれど、やっぱり気苦労はあんまり抱えたくないわ」
さとりはいつの間にか足下に寄ってきていたキジトラの思考にそう答えるのだった。
その日の夜、こいしはさとりの部屋へと侵入し、布団の中へと猫を押し込もうとした。しかし、事前に警戒していたさとりの手によって、猫を詰め込む前に布団の中へと引きずり込まれてしまうのだった。
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