紅魔館勝手口付近。
 そこに、たくさんの猫が集まっている。黒、白、茶、ぶち、三毛とざっと見回しただけでも種々雑多に入り混じっている。

 そんな猫たちの中央に、一人のメイド妖精がいる。彼女は料理の乗った皿を地面に置いて、集まってきた猫たちの丸まった背中をとてもご満悦そうな表情で撫でている。時折、皿に張り付いた猫を抱き上げて、後ろの方で待っている猫も食べられるようにもしている。
 彼女が館の勝手口に猫を集めている元凶だった。

「こら。貴女はまたさぼってるのね」

 そんな彼女の傍に、音もなく一人のメイドが現れる。彼女の上司である十六夜咲夜だ。

「いいえ。何を言ってるんですか。こうして猫たちの世話をするのが私の使命なのですよ。それに、そうやって私を怒りながらも、咲夜さんこそ時々さぼっては猫たちの相手をしてるじゃないですか」

 他のメイド妖精ならさぼっている現場を見られた時点で、逃げ出すか仕事を再開するのだが、彼女は違った。弁を弄して、正面から堂々とさぼろうとしている。

「私はいいのよ。さぼった分は後でしっかりと取り戻しているのだから」
「ちゃんと仕事をするなんて偉いですね、咲夜さんは」

 時間を操ることのできる上司の答えに、仕事をする気はないと暗に告げたメイド妖精は営業スマイルを浮かべてそう返した。真面目に言い合いをするつもりはなさそうだ。

「そう、私は偉いのよ」

 そして、咲夜もその言葉に乗りかかる。何度も言い合いを重ねるうちに説得は無理だと悟っていた。そもそも、妖精がそこまで真面目に働いてくれるとも期待していない。
 それでも最初にわざわざ叱るのは、主であるレミリア・スカーレットのために働く者が一人でも増えてほしいという想いがあるからだ。

「では、そんな咲夜さんには、私特性の猫ご飯をわけてあげましょう。台所にお皿が置いてありますので、持ってきてください」
「ええ、ありがとう」

 そう言うと同時に、咲夜の手に小振りの肉団子の乗った皿が現れる。匂いを感じ取ったのか、メイド妖精の前にある皿に近寄ることができていなかった猫たちが、咲夜の足下へと集まってくる。

「相変わらず、揃いも揃って食欲に忠実ね」
「まあ、ここ以外ではまともな食事にありつけないでしょうからね。あ、いくらみんな必死だからって、いっぱいあげないでくださいね。太っちゃいますので」
「分かってるわよ」

 いつの間にか猫の世話係を進んでやるようになっていたメイド妖精の忠告に適当に頷きながら、しゃがみ込む。聞き入れるつもりがないのではなく、単に何度も聞かされたことだから聞き流しているだけだ。
 咲夜は肉団子を一個摘んで、猫が立ち上がってぎりぎり手が届くか届かないかの所に掲げる。そうすると、猫たちが一斉にそこへと向かって飛びかかっていく。
 懸命に手を伸ばしているが、どうやら届かないようだ。

「咲夜さん、あんまり意地悪なことしてあげないでくださいね」
「分かってるわよ」

 さっきと同じ調子で答えた。でも、こちらは聞き入れるつもりさえもないようだ。手の高さは変わらず、咲夜の周りに集まっていた猫たちは頑張って手を伸ばしている。
 メイド妖精はその姿を呆れたように見ていたが、もう一度言ったところで聞いてくれないことは分かっているので、黙っている。


 咲夜がようやく一つ目の肉団子を与えたのは、周りの猫たちが少し疲れた様子を見せ始めた頃だった。





 咲夜とメイド妖精の二人は、特に目立った会話をすることもなく櫛で猫たちの毛繕いをしている。お腹が満たされて満足したのか、大多数の猫たちは地面にごろりと転がってくつろいでいる。
 なんにもない日常にふさわしい、とても平和な光景だ。

 ぎぃ。

 不意に勝手口の扉が小さく軋む音を立てて内から開かれた。二人と何匹かの猫たちはそちらへと視線を向ける。

「あ、お嬢様。どうかなさいましたか?」
「別になんにもないわよ。猫の憩いの場がどうなってるか気になって覗いてみただけ」

 扉から現れたのは、紅魔館の主レミリア・スカーレットだった。
 彼女はこの空間のことを容認しているようだ。
 基本的に放任主義なのだ。長い間、館に住んでいたのは彼女と彼女の妹のフランドール・スカーレットだけであったから、大多数に指示を出すのが不慣れなせいで。

「でも、ここに咲夜もいるのは意外だったわね」
「そうですか?」
「ええ。誰にも見られない場所で休憩してるものだと思っていたから」

 咲夜の主であるレミリアは、咲夜が休憩している姿をほとんど見たことがない。
 それもそのはずだ。勝手口付近が猫の集会所となる前は、時間を止めて休憩していたのだから。咲夜と同じ力を持ち、かつ一瞬の差もなく同時に時間を止めることができなければその姿は絶対に見ることができなかっただろう。

「一度世話をしてみて、案外楽しかったので暇があればここに来てるんですよ」
「へぇ。今までは見てるだけだったけど、今度世話してみようかしらね」

 従者の様子にレミリアは興味を引かれたようだ。咲夜の手元にいる猫のほうへと視線が向いている。

「今度と言わず、今からどうですか?」
「いや、今はいいわ。紅茶が飲みたい気分だし。ああ、そうだ。紅茶を淹れようと思ってるんだけど、貴女たちもどうかしら?」

 咲夜の言葉に首を振り、代わりにそう聞く。

「いいんですか? じゃあ、お願いします」

 横で二人の会話を聞いているだけだったメイド妖精は、突然振られた申し出にも遠慮した様子なくそう言う。上司の目の前で堂々と仕事をさぼったりと、神経はかなり図太いようだ。

「あ……」

 咲夜は、何かに気づいたように小さく声を漏らす。それから、抱いていた猫を地面に降ろすと、慌てたように立ち上がり駆け寄る。

「咲夜? どうかした?」
「お嬢様を放っておくなどという不実なことをしてしまい、申し訳ありません」
「何の事?」

 レミリアは、咲夜が何に対して謝っているのか分かっていないようで、小さく首を傾げている。

「お嬢様が紅茶をご所望なさっていることに気づかず、こうしてさぼっていたことです」
「いつもちゃんとしてくれてるんだから、それくらい別にいいわよ。それに、偶には自分で淹れないとやり方を忘れるでしょうし。というか、貴女って変な所で真面目よね。仕事をさぼってる事は申し訳なく思うのに、その反面、紅茶に毒草を混ぜるような悪戯をしても平然としていたり」
「お嬢様に構うのが私の仕事ですから」

 何の疑いもなく、そう言い切った。世話をすると言わないのが、彼女らしさである。

「はあ、よく分からない仕事ねぇ」

 レミリアは咲夜の言葉に呆れていた。でも、自分の従者はこういうものだと理解しているから、それ以上疑問を重ねるようなことはしない。

「それより、貴女も紅茶はいる?」
「お嬢様のお手を煩わせるわけにはいきませんので、私が淹れてきます」
「そんな事気にしなくていいわよ。さっきも言ったけど、私がやりたいと思っててやるんだから」
「……お嬢様は私の存在意義を奪うのですか?」
「なんでそんなに情けない表情を浮かべるのよ。別に貴女を追い出すつもりなんてないわよ」

 咲夜の浮かべる表情にレミリアは苦笑を浮かべる。けど、それはすぐに優しげな微笑へと変わった。
 レミリアはふわりと浮き上がって、咲夜の頭を優しく撫で始める。

「いつも世話になってるから、甘えさせてみたいっていう思いもあるのよ。まあ、私の淹れた紅茶が不味くて、どうしても自分で淹れたいっていうなら、まあ仕方ないけど。どうかしら?」
「……そんなことを言われたら断れないじゃないですか」
「素直じゃない返事ね」

 少し可笑しそうに言って手を止める。それからしばらくじっと咲夜の青色の瞳を見つめて、何も言ってこないことを確認してから地面へと降りた。

「じゃあ、淹れてくるからちょっと待ってなさい」

 レミリアは勝手口の中へと消えていく。それを見送る咲夜は、少し居心地が悪そうだ。主に世話をされるというのは、彼女にとってはかなり受け入れがたいことのようだ。

「いつもは咲夜さんがお嬢様を振り回してると思ってたんですが、実際は振り回されてあげてたんですかね?」

 二人のやり取りを見ていた妖精メイドは、抱き上げていた猫にそう聞く。当然だけれど、返事はなかった。





「お待たせ。っと、そういえばテーブルなんかのことを考えてなかったわね。……今の咲夜を甘えさせるのは難しそうねぇ」

 ティーセット一式を乗せた鉄のトレイを持ったレミリアは勝手口の周りの光景を見て、残念そうに言う。
 草地の日陰となった部分に、木製の丸テーブルと三人分の椅子が用意されていた。テーブルには、いくつかのお茶菓子が並べられている。
 椅子の一つにはメイド妖精がすでに座っており、テーブルの上のお菓子を食べようとしている猫を止めている。

「お嬢様は、細かいところで結構抜けてますからね」

 レミリアを見送ったときの居心地の悪そうな様子はどこへやら。代わりに、主を世話することに喜びを見出している従者の表情を浮かべている。

「残念ながらそうみたいね。まあ、また機会を見つけて、その時に頑張るとするわ」
「でしたら、私は必ずしやお嬢様の隙を見つけてみせますわ」
「貴女は時々、努力の方向性を間違ってる気がするわ」
「そんなことはないですよ。主の不出来な部分を補うのも従者の大切な役目なのですから」

 テーブルの方へと歩き出したレミリアに咲夜は追随する。レミリアの手には、ティーセットの乗ったトレイがあるので、その歩みはいつもよりも遅い。

「それに、今回はせっかくお嬢様が紅茶を淹れてくださるのですから、最高の場を用意せねばならないと思いまして」
「そこまで期待するものでもないわよ。咲夜の淹れた紅茶には勝てないし」
「いえいえ。私にとってお嬢様の紅茶は特別ですから。お嬢様に教えていただいたからこそ、今の私の紅茶があるのですよ」
「貴女なら誰に習っても美味しい紅茶を淹れられるようになってると思うけどねぇ」
「そんなことは絶対にありえません。私の淹れる紅茶の半分はお嬢様への愛でできてますから」
「私以外に淹れた時に味の質が半減しそうな割合ねぇ」

 レミリアは、臆面もなくそんなことを言う咲夜に呆れている様子だった。従者揃って滅多なことで照れるようなことはない。

「そういったことはなきにしもあらずですわ」
「じゃあ今度、フランに淹れた紅茶を飲んでみようかしらね」
「その時は、こっそり入れ替えておきますのでご安心ください」
「そういうことを堂々と宣言してるんじゃないわよ」
「私はいつでもお嬢様に対しては誠実であらねばならないと思っていますので」

 そんなやり取りを交わしながら、二人はテーブルまでたどり着く。メイド妖精はどこか楽しげな表情を浮かべて二人の様子を眺めている。

「二人とも仲がいいですよねぇ。咲夜さんなんて私たちと話をしてるときと全然様子が違いますし」
「ええ、私は月の明かりを浴びることで輝けるもの」

 その言葉に嘘偽りは一切ないと証明するかのように、生き生きとした表情で答える。

「それを聞いたお嬢様はどう思ってますか?」
「どうって言われても、随分前からそう思われてるっていうのは分かってるからねぇ。まだそんな気持ちを抱いてるのかって呆れるばかりね」

 ティーカップを並べて、紅茶を注ぎながら答える。テーブルに乗っていた一匹の猫が興味深そうにその様子を眺めている。

「酷いですね」
「酷いですねぇ」

 二人のメイドが声を揃えてそう言う。けど、世界で誰よりもレミリアを慕っていると自負しているメイドはそれだけでは終わらない。

「ですが、そうやって淡泊な反応をしながらも、真摯に受け止めてくださっているということはよく知っていますよ」
「そうだったかしらね?」

 誤魔化すように答えながら、カップを並べていく。ふわりと香りを広げる紅茶に猫たちは興味を引かれているようだが、美味しいものだとは思っていないようだ。食べ物が出てきたときに比べれば、随分と大人しい。

「そうですよ。私に名前をくださったときにそう言ってくださったじゃないですか」
「そうだったわねぇ」

 とぼけたような声音で、しかし否定をしようとはしない。
 どうやらレミリアとしては誤魔化しきりたいようだが、証拠を握られているせいで逃げられないといった様子だ。

 レミリアはカップを並べ終えると、空いている椅子に座る。彼女は別段意識せず行動しているのだが、動作の一つ一つに気品が滲み出てきている。

「そういえば、咲夜さんの名前ってお嬢様につけて貰ったんですよね。適当につけた名前だと思ってたんですが、何か意味があるんですか?」

 メイド妖精はレミリアの方へと視線を向ける。けど、答えるつもりはないようで、カップに口を付けて黙っている。
 それでもメイド妖精は諦めずにじっとレミリアを見つめる。それでも、レミリアは一切動じた様子を見せようとしない。カップをテーブルに置くと、涼しげな表情を浮かべたまま猫を眺め始めて、一切反応を示そうとしない。

「全然、喋ってくれそうにないですね」

 根負けしたメイド妖精は呆れたように言って、咲夜の方を見る。

「お嬢様は頑固だもの。間違ってるとお思いにならないと、絶対に曲げようとしなさらないのよ」

 少し可笑しそうに言う。レミリアはそれにも反応を見せようとはしない。

「それは残念です。できれば名付け親本人から聞きたかったんですけど。では、咲夜さん、お願いします」
「ええ」

 そう答えながら、咲夜はレミリアへと断りを入れながら席に着く。
 話し出そうとする咲夜を止めない辺り、単に自分で話すのが気恥ずかしいだけなのかもしれない。超然とした態度からは、それを臆面も感じさせていないが。

「十六夜のある夜にだけ咲くことができる。それが私の名前よ」
「全く元の名前と変わってないですね」

 名前の順番を少し入れ替えて文章にしただけだ。詩的な印象を持つ文章になっているので、何も知らない者が聞いても、その文章に込められている意味はわかりそうにもない。

「だって、いきなり答えを教えたらつまらないじゃない。それに、これでも結構答えに近いと思うわよ」
「まあ、咲夜さんの言うことも一理ありますね。ではでは、妖精的直感でしばらく頑張ってみます」
「ええ、頑張ってちょうだい。それと、お嬢様が淹れてくださった紅茶も冷えないうちにちゃんと味わっておくのよ」
「おっと、それもそうですね」

 思考にふけようとしていたメイド妖精は、咲夜の言葉にすぐさま意識を紅茶の方に向ける。けど、答えが気になるのか意識の端で思考を巡らせているようで、少しばかりぼんやりとしたような視線となっている。
 そんな状態のまま、ティーカップを持ち上げて口をつける。少しぼんやりとした状態でも、味を感じればしっかりと意識は外へと向いたようだ。

「おおっ? 咲夜さんの紅茶に匹敵しそうなくらい美味しいですね」

 少しばかり失礼な褒め方だが、館の中での飲食物関係は咲夜が基準となっている。それは、基本的には自分たちで食事を作るメイド妖精たちも変わらない。
 だから、それは紅魔館においては最高の褒め言葉となっているのだ。

「へぇ、それは光栄ね。しばらくやってなかったけど、案外忘れないものなのね」
「お嬢様、そこでお喜びになられてはいけません」

 褒められたレミリア自身は嬉しそうだったが、敬愛する主が自分よりも劣っていると言われた従者は納得がいかないようだ。

「じゃあ、咲夜の紅茶は最高ではないということかしら?」
「う……、それは……」

 主が常に一番であってほしいというという思いと、主に常に最高のものを与えたいという思いがぶつかりあって言葉につまってしまう。
 レミリアはそんな咲夜の反応を可笑しそうに眺める。

「やっぱり咲夜さんは世話をする側にいないと弱いみたいですね」
「……うるさいわよ。それよりも、ちゃんと考えたかしら?」

 二人のやり取りを興味深そうに見ていたメイド妖精の言葉に、咲夜はばつが悪いのを誤魔化すように少しきつい口調でそう言う。大胆不敵なメイド妖精は少々きついくらいの口調を意にも介していない様子だが。

「話題を変えるためにまともに考える時間を与えてくれないなんて酷いですね。でもまあ、咲夜さんの言葉をヒントにすればすぐにわかりました」
「へえ、言ってみてちょうだい」
「十六夜がお嬢様のことで、その月の明かりに照らされている間、つまりは傍にいる時だけ咲夜さんは咲夜さんでいられるということですよね。……これって、ある意味お嬢様からの告白ってことになりますよね」

 言葉にすることで恥ずかしくなってきたのか、若干顔を赤くしている。でも、今はまだ好奇心が勝っているようで、二人の方へと視線を向けたままだ。

「そうなるわね」
「私は咲夜から言われたことをそのまま名前にしただけよ」

 喜色を浮かべる従者と訂正を入れる主。やはり二人とも、そう簡単には照れたりはしない。

「ですが、お嬢様が私の想いを受け止めてくださっているということに代わりはありませんよね?」
「まあ、ねえ」

 レミリアの歯切れが悪くなってくる。咲夜に比べてレミリアの方が若干照れやすいようではあるようだ。

「一つ疑問があるんですけど、どうして十六夜なんですか? 十五夜とか望月の方がお嬢様のイメージにぴったりな気がしますが」

 そんな二人の様子を微笑ましそうに眺めていたメイド妖精は、ある一つの疑問を投げかけた。小さな疑問、ふとした疑問。彼女にとってはただそれだけのものだった。
 けど、聞かれた側にしてみればただそれだけ、で済ませられるようなものではなかった。

「それは、お嬢様が人間である私を傍に置くことを躊躇していたからよ」

 その言葉に今までの喜色はなく、どこか申し訳なさが含まれていた。
 それは微弱な変化で、そして今この場の雰囲気に似つかわしくないからこそメイド妖精がその変化に気づいた様子はない。

「あー、確かにここって妖怪ばっかりで人間は一人もいませんよね。だとしたら、居心地が悪いかもと思うのも、当然、です、よね……」

 けど、他の妖精よりも聡い彼女は考えることで気づいた。ある一欠けらの可能性を見つけてしまい、それによって咲夜の表情の変化に気づいてしまった。

 残っていた紅茶を飲み干して、立ち上がる。

「なんだか私はお邪魔虫みたいですね。お嬢様、紅茶美味しかったです。では、失礼させて貰います」

 そう言って、小走りに館の中へと戻っていった。
 残された二人は突然態度を変えたメイド妖精に呆然とさせられていたが、その意味に気づいて我に返る。

「咲夜のせいで変に気を遣われちゃったわね」

 ずっと咲夜を見てきていたレミリアも咲夜の表情の変化には気づいていたようだ。

「申し訳ありません。このことは、私最大の引け目ですので」

 咲夜は困ったように苦笑を浮かべてそう言う。

「で、いつから貴女は気づいてたのかしら?」
「お嬢様から名前を頂いて、これからもっと頑張ろうとベッドの中で嬉しさに身悶えしていたときですね」

 何を、とは問わない。そんな必要がないくらいにお互いに考えていることは筒抜けなのだから。

「……早いわねぇ」
「お嬢様の嘘はわかりやすいですから」
「でも、気づいていても貴女は何も言ってこなかったわね」
「言うだけ無意味ですから」
「ま、それもそうね」

 いつも通りのお互いに煙に巻いていくようなやり取り。でも、いつもの軽妙さは感じられなくなっている。

「ああ、でも、一つだけ言わせておいてください」
「……何かしら?」
「私が死にそうになっても、しっかり受け入れてちゃんと死なせてくださいね」
「……どうしてもそうしたいなら、死期を悟った時に私の手の届かないところに行きなさい」

 手で追い払うような仕草をしながらそう言う。本気でそうしてほしいと思っているわけではないが、できることならそうしてほしい。そんなふうに取れる態度だ。

「それは無理ですね。猫でさえも本当に信頼できる人がいれば、その人の傍で死ぬのですから。看取ってほしいなどというわがままは申し上げませんが、散りゆくその時まで月明かりの気配だけでも感じますよ」
「……本当、生意気なことを言う従者よね」

 呆れたような、けれどどこか寂しげな表情で、月の傍でだけ生き生きと咲き誇る一輪の花を見る。
 いつしか、月にとってもかけがえのない大切な存在となっていたその花を。

「控え目に生きて後悔をしたくはないですから」
「そう」

 一点の曇りもない、ともすれば子供のようにさえも見える笑顔を浮かべる咲夜を見ながら短く答える。

「……なら、私は何も言うことはないわ」

 想いを押さえ込むような声音だった。
 本当は言いたいことがあるのに、言えなくなってしまっているようなそんな様子だった。

「……お嬢様。仰りたいことがあるなら、仰ってください」
「言ってもどうせ聞き入れないじゃない」
「ええ、そうですね。ですが、ため込んでおくのも毒だと思いますよ。このような話をする機会もないでしょうし、今のうちに遠慮せず仰ってください」

 安心させるようにゆっくりとした口調で告げる。受け入れはしないけど、それを否定せず受け止めると。

「……わがままでしかないわよ」
「構いません。従うかどうかは別として、従者は主のわがままを聞くものですから。それに、私も自分勝手なわがままを言いましたしね」
「……」

 逡巡するように沈黙する。従者は何も言わず、主が口を開くそのときをじっと待つ。
 しばらくして、レミリアの中で何か折り合いがついたのか、咲夜の瞳を見つめながら口を開く。

「……幸せに生きて、最期は幸せに笑って死になさい。不幸になることは絶対に許さない。最大限の努力をして幸せを掴んで、不幸を避けなさい」
「本当は、もっと別のわがままが聞きたかったんですけどねぇ。というか、そのわがままでしたら、私のわがままな思想に基づいて既に実行中ですよ」

 咲夜は、筒抜けなのに本当の気持ちを見せようとしない主に呆れているようだった。

「それを言うくらいなら、貴女を押し倒して無理矢理血を飲ませてるわよ」
「お嬢様は強引ですね。ああ、でも、お嬢様の血はどのような味がするのかは気になりますね」
「貴女が味を確かめてみたいなら、別にいいわよ」

 そう言いながら、レミリアはいつも持ち歩いているナイフを取り出す。咲夜の持つ銀のナイフとは違ってその刀身は鋼でできている。
 ナイフの切っ先で手のひらを少し深く切ると血の線が浮かび上がり、すぐに手のひらに一掬いの血がたまる。人間が同じことをすれば既に溢れてしまっているかもしれないが、治癒能力の高い吸血鬼ではそのようなことにはならない。

「どれだけ私たちの血を飲んだときに吸血鬼となってしまうかは知らないけど、少しくらいなら大丈夫なんじゃないかしら?」

 誘うように言いながら、血を溜めた手を咲夜のティーカップの上へと伸ばす。曖昧な態度を取ったとしても、紅茶の中へとその血は注がれていくことだろう。

「折角ですが、遠慮させてもらいます」
「そう、残念ね」

 けど、咲夜はきっぱりと断った。
 そのことをレミリアは少しばかり本気で残念がりながら、血を日向の方へと飛ばす。重力を無視して真っ直ぐに飛んでいった吸血鬼の血液は、日光に当たった途端に灰になって消えてしまった。

「今ので、ふとした拍子にお嬢様が暴走する可能性があるというのがはっきりしてしまいましたね」
「ええ。今は抑えられてるけど、どこかで溢れ出してしまうかもしれない。だから、どうしても人間のままでいたいって言うなら、不用意な事は言わないようにしときなさい」

 次は、押し倒して同意の言葉を聞く間もなく無理矢理飲ませてしまうかもしれないと暗に告げている。

「そう言いながらも、お嬢様はなんだかんだと手を出さないと信じてますよ」
「貴女は私を心労で殺す気かしら?」
「いえいえ、そんなことはしませんよ。お嬢様に先に死なれてしまっては私が人間であり続ける意味がなくなってしまいますから。月がなければ咲くことのできない花が、どうしてその月を壊してしまうことができるでしょうか」
「まあ、そうよね」

 ため息一つ。そこには、呆れと諦めが混じっていた。咲夜の言葉もまた真実なのだ。いくらレミリアが暴走したとしても、一欠けらの理性さえ残っていれば自らを抑止してしまうだろう。

 それから、二人は黙る。これ以上の会話は無意味だとお互いに分かっているから。

 咲夜は今まで一度も触れていなかったティーカップを持ち上げる。先ほどまで湯気を上げていなかったが、咲夜の手が取っ手に触れた途端に湯気が立ち上り始めた。
 愛しの主の淹れた紅茶を少し口へと含みゆっくりと味わう。もし仮に、主の血を飲むようなときがくれば、きっと同じようにすることだろう。

「……やはり、お嬢様の紅茶は最高ですね」
「そう、ありがとう」

 二人は同時に微笑み合う。先ほどまでのやり取りはなかったかのように。
 けど、お互いがお互いを必要としあっているというのは滲み出てきてしまっていた。


Fin



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