暗い廊下に小さな人影一つ。
その影は、わざとらしく足音を響かせるように歩いている。
彼女以外には誰もいない。
でも、孤独は感じさせず、広く長い廊下に一人きりという特別な環境を楽しんでいるようだ。小柄な体躯に似つかわしくない大きな漆黒の翼が、機嫌のいい猫のようにゆったりと揺れている。
この広い館の主であるレミリア・スカーレットは、たまにこうして真夜中の館での散歩を楽しんでいる。面白いものが多いからと昼間に活動することが多い彼女だが、本能的なものには勝てず、度々夜を徘徊する。
何処まで歩いても、誰かと擦れ違うことはない。館の住民構成の大半を埋めている妖精メイドやホフゴブリンたちは昼間の活動が主であるから、この時間帯に出歩く存在は稀なのである。
と、不意にレミリアが足を止める。そこは、食堂の入り口だ。彼女は足を止めたまま耳を澄ませている。
誰かの気配を感じ取った彼女は口角を上げる。他人との関わりが大好きな彼女にそれを無視する理由はなかった。
レミリアが気配に導かれたのは、食堂の奥の厨房の更に奥にある薄暗い食料庫だった。年季を感じさせる食料棚が多数並べられており、目立った空きは見られない。どこから仕入れてきているのか、幻想郷の中でよく見かける食材だけでなく、西の方の国の食材も充実している。香料の強い香りに支配されたこの場所は、慣れない者には居心地が悪いだろう。
そんな食料庫には、一人の妖精がいた。ぶかぶかの子供っぽい寝巻き姿だが、こんな所にいて平気な顔をしていられるということは、この館に住み込んでいる妖精メイドの一人だろう。
「何をしているのかしら?」
音を立てないように静かに妖精メイドの背後へと近寄ったレミリアは、悪戯を仕掛ける子供のような表情を浮かべて声を掛ける。
「のわっ! ……って、お嬢様でしたか」
妖精メイドは背後から声をかけられて驚いたようだったが、声の主がレミリアだと気づいたところで落ち着いた様子を見せる。
「何をしてるかと問われれば、小腹が空いたので何か美味しいものはないかと探していたのですよ」
そして、悪びれた様子を一切見せることなく、自らの小さな悪行を主へと報告する。
「つまみ食いをしようとしてたのを主に堂々と報告するなんていい度胸ね」
「図々しいのと自分勝手なのが売りですから」
「貴女は確実に面倒くさいタイプね」
そう言いながらも、レミリアは彼女とのやり取りを楽しんでいるようだった。基本的に面白ければなんでもいいという主義なのだ。
「で、何かめぼしい物は見付けた?」
「いえ、残念ながら。甘い物が欲しいんですが、お菓子の残りとかは見つからないし、パンにジャム塗ってーっていうのは求めてるものと違うんですよねぇ」
妖精メイドはそう言って、辺りを見渡すような仕草をする。彼女たちがいる場所からは、何か手を加えたり何かに加えられたりするような物しか目に入ってこない。
「はあ。よく分からないけど、単にお腹を空かせているというだけでなく、雰囲気も求めてるということ?」
「そうそう、そんな感じです。こう、真夜中の秘密のお茶会とか憧れません?」
「私はむしろ、日傘を広げてやる真昼のお茶会に憧れてたわね」
種族的に普通なら行動時間が被ることのない彼女たちは、お互いにとっての普通を憧れとして口にする。ここでは、陰と陽の混じり合いが極々普通に起こりうる。
元々陰の気が強い紅魔館において、陽の気が強い妖精が多数いるというのは異常事態なのだ。しかし、最も強い陰の気を持つ主が陽への憧れを持っているおかげか、特に問題らしい問題は起こっていない。
「ああそうだ。お茶会に相応しいかは分からないけど、私が何か作りましょうか?」
「えっ! お嬢様が料理作ってくれるんですかっ?!」
レミリアが何気ない様子で口にした提案に対して、妖精メイドの声が色めきだつ。そうした反応を予想していなかったのか、レミリアは驚き気味だ。
「そんなに期待するものでもないわよ?」
「普段料理をしていないお嬢様に作ってもらえるという希少性そのものに期待してるので、真っ黒焦げの暗黒物質が出てきても喜びますよ」
本気とも冗談とも取れるような口調だった。少なくとも、そうした事態に直面するのは望む所といった様子だ。
「珍しいってのは、それだけで十分な価値があるわよね。……ふむ、なら暗黒物質を楽しんでもらおうかしらね」
「え゛っ!」
「冗談よ。他人に食べてもらえる程度の腕があることは保証するから安心しなさい」
レミリアは妖精メイドの反応に小さく笑いながら、食材の物色を始める。作るものは決めてあるのか、目当てのものらしいものを見付けると直ぐに厨房の方へと運んで行く。
「何作るつもりですか?」
何もすることがないらしい妖精メイドは、ちょこちょことレミリアの後ろに付いて歩きながら質問を投げかける。
「んー、フレンチトーストにしようかなと」
「ほほう。じゃあ、ハチミツたっぷりのやつとジャムたっぷりのやつがいいです」
「そういうのは自分で用意しなさい」
「はーい!」
そう言って、妖精メイドは足早にレミリアから離れていく。そんな彼女の足取りに迷いはなく、何処に何があるのかを熟知しているかのようだ。
彼女が常習犯なのか、単に厨房周りの仕事をしているのかはレミリアには分からない。それに、どちらでも構わないと思っている彼女は無駄に元気な様子の妖精メイドの姿に呆れつつ、自分の仕事を進めていく。
途中、妖精メイドに聞きながら材料を一通り集めたレミリアは、妖精メイドから渡された淡い緑色のチェックのエプロンを身につけて厨房に立つ。厨房はかなり広く、一人で作業するには十分すぎるほどだ。作業せずに後ろから眺めているのが一人いた所で邪魔になるようなことは決してないだろう。
レミリアは元々エプロンを着けるつもりはなかったのだが、妖精メイドのぜひとも見てみたいという言葉に押されて流されていた。ちなみに、エプロンは妖精メイドたちが身に着けているものだ。
「着けてはみたけど、こんな姿の何が面白いのかしら?」
レミリアは首を傾げながら妖精メイドの方を見る。疑問を持ちながらも、否定する理由がなければとりあえず乗ってみるのが彼女なのである。
「普段見られないからこその価値があるとは思いませんか?」
「ああ、私の料理と同じ理由なのね」
その一言で納得したようだった。
「さてと、始めましょうか。かなり久しぶりだから極端な味の物体が出来上がっても勘弁してちょうだいね」
「えっ、いやちょっと、さっき他人に食べてもらえる程度って言いましたよねっ?!」
「美味しく食べてもらえるとは言ってないわよ」
レミリアは楽しそうに笑いながら、卵を一つ手に取るのだった。
妖精メイドは恐る恐るといった様子で、フォークに刺したフレンチトーストを口へと運んでいく。
彼女たちがいるのは、厨房の隣の食堂だ。白いテーブルクロスが掛けられた長テーブルが多数並んでいる。その内の一つの端の方に彼女たちは向かい合うように座っている。
妖精メイドの前には、フレンチトーストが並べられた皿と紅茶の入ったティーカップ、それからジャムやハチミツといったものが並べられている。彼女の対面のレミリアは前に置かれた紅茶には手を付けず、妖精メイドを眺めている。ちなみに紅茶は妖精メイドが淹れたものだ。
妖精メイドのフォークに刺されたフレンチトーストは、綺麗な焼き目に、一口サイズとなるように切り分けられた控えめな姿と一目にはなんの問題もなく美味しそうに見える。それだけでなく、甘い香りが誘うように鼻腔を刺激する。しかし、レミリアの悪戯な一言が彼女に警戒を抱かせてしまっている。
そのことを考慮しても、メイドが主に向ける姿としてはかなり失礼なものだが、当のレミリアは楽しげにその様子を眺めている。
ついに意を決したのか、妖精メイドは目をぎゅっと閉じてフレンチトーストを口の中へと放り込んだ。
「あっつっ!?」
出来立てであるが故に劇物にもなりうるそれは、味への警戒心にまみれている少女の口を熱で焼いた。目を白黒とさせながら、妖精特有の半透明の羽を忙しなく揺らす。
「何をやってるのよ」
呆れながらもそそくさと立ち上がったレミリアは厨房へと向かうと、水の入ったコップを持って戻ってくる。
妖精メイドはレミリアからコップを受け取ると、一息に水を呷る。余程急いでいるのか、口の端から水が若干こぼれている。
「……ま、まさか、こんな罠が待ち受けているとは……」
涙目になりながら、わざとらしいくらいに意表を突かれたような態度を取る。そういったことをする余裕はあるようだ。
「貴女が勝手に罠に仕立て上げただけでしょうに。まあ、無駄に不安を煽るような言い方をしたのは悪いと思うけど」
「まったくもってその通りです。でも、とりあえず強烈にまずいものではないということはわかりました。というわけで、改めていただきます」
もう一度フレンチトーストにフォークを突き立てると、今度は熱さに警戒するように息を吹きかけてから、一口だけ口にする。しばらく味わうような様子を見せていたが、表情に変化は表れない。
「……うーん、普通に美味しいです」
「微妙な反応ね」
「メイド長が作るのに慣れてるとどうしてもそっちと比べてしまって」
「ま、仕方ないことね」
予想していた答えだったのか、レミリアは特に気にした様子もない。それどころか、どことなく嬉しそうだ。
妖精メイドはそんな彼女の表情をじーっと見つめている。
「……何か付いてる?」
「ああっ! なんてことするんですか! 普段見られない表情なので存分に堪能しておこうかと思ったのにっ!」
レミリアが不思議そうな表情を浮かべて首を傾げると、妖精メイドは素っ頓狂な声を上げた。その内容に、レミリアは呆れの表情を浮かべる。
「それは悪かったわね」
「ぶーぶー。母性溢れるお嬢様を返してください」
「はいはい」
適当な返事をしたレミリアは、妖精メイドが淹れた紅茶に口を付けるのだった。
「ごちそうさまでした」
フレンチトーストが盛られていた皿をほとんど一人で空にした妖精メイドが手を合わせる。かと思ったら、すぐに目をこすり始めた。
「うーむ……、満たされて眠気がやってきました」
「なら、直ぐに部屋に戻って眠ればいいわ。寝坊すると咲夜に怒られるわよ?」
「ふふふ、それに関しては、お嬢様の夜のお相手をしていたとでも言えばどうとでもなります。……ふあ……」
そう言ってから今度は欠伸をする。
「ぐぬぬ。お嬢様との逢瀬の時を邪魔するとはとんだ出歯亀野郎ですねっ!」
「何をそんなにムキになってるのよ」
「せっかくならもっと話をしたいなー!とか、お嬢様が淹れた紅茶を飲みたいなー!とか思うわけですよ! ……はあ」
眠気に抗う気力も果てたのか、最後には溜め息が出ていた。
「……ぬー。お嬢様はこの後どうするんですか?」
「んー……、特に眠気も感じないし、また適当にうろついて面白いものでもないか探してみるわ」
「それなら、一緒に寝ませんか? なんだか寝付けないのは、寂しいからだと思いますよ」
「ふーん? 貴女はそうなのね」
レミリアが悪戯っぽい笑みを浮かべながら問いかけると、妖精メイドは若干慌て始める。
「な、何を言ってますか。確かに私は寂しさで目を覚ましましたが、それはお腹の寂しさであって、静けさに寂しさを感じていたわけではありませんよ?」
「ふむふむ。静寂が苦手なのね」
「……ぼーけーつー」
そう言いながら、妖精メイドはテーブルの上へと突っ伏す。隠そうとしていたことがバレてしまったことへの羞恥からか、顔は赤く染まっている。
「……お嬢様、私を辱めた責任を取って一緒に寝てください」
「自分から暴露するような真似をしておいて何を言ってるのよ。まあでも、別にいいわよ。貴女……は個室じゃなかったわね。じゃあ、私の部屋に来なさい。狭いかもしれないけど」
「えっ、いいんですかっ。ありがとうございます。じゃあ、すぐ行きましょう」
「その前に片付けね」
椅子から立ち上がった妖精メイドはレミリアの腕を取って引っ張ろうとするが、びくともしないレミリアは冷静に告げる。
「ああ、そうですね。咲夜さんに怒られるかもですし」
妖精メイドは怒られること自体も楽しむ悪戯っ子のように笑みを浮かべながら言う。レミリアも同じような表情を浮かべている。それでも、二人はやるべきことはやろうとする辺り、メイド長へと負担を掛け過ぎないようにしようという共通意識があるようだった。
食器の片付けを終えた後、レミリア一行は彼女の部屋へと向かった。
彼女の部屋には天蓋付きの大きなベッドがあり、真ん中に漆黒の棺桶が鎮座している。
「おっも……っ!」
自分で開けてみたいと言った妖精メイドが棺桶の蓋を開けようとしているが、少しずつしか動いていない。かなり重いようだ。
「この様子だと、閉める頃には日が昇ってきそうね」
レミリアは横から棺桶の蓋を片手でひょいと持ち上げる。見た目は幼い少女であるが、吸血鬼としての並外れた力はしっかりと有している。
棺桶の内側には綿の入れられた布が付けられており、外側からは想像できないほどに居心地の良さそうな空間となっている。
「おおー。中は中で素敵空間。ではでは、おじゃましまーす」
妖精メイドは部屋の主よりも先に棺桶の中へと入り込む。それだけで、もう一人入るには狭そうだが、レミリアは気にせず隣に入り込みながら蓋を閉める。
「おおう、真っ暗ですね」
二人はほとんど密着する形となっているが、暗闇を見通す瞳を持つレミリアにも目の前の妖精メイドは見えていない。妖精メイドからは、言わずもがなである。
「そういう風になるように作られたものだからねぇ」
「……こんな所に一人でいて寂しくないんですか?」
「そう思うくらいだったら棺の外で寝てるわよ。貴女はやたらと私を寂しがり屋にしたがるわね」
「だって、私だけ寂しがり屋のレッテルを貼られるなんて不公平じゃないですか」
「はいはい、馬鹿な事言ってないでさっさと寝なさい」
そう言って、レミリアは妖精メイドの頭を優しく叩く。
「はーい。あ、せっかくなので頭撫でてもらってもいいですか? お嬢様が眠たくなったらやめても構わないので」
「うん? まあ、別にいいわよ」
「わーい、ありがとうございます」
レミリアが手を動かし始めると、妖精メイドは控えめな声で喜びの声を上げる。そして、レミリアへと抱きついた。
レミリアは冷静にそれを受け止めて、手を動かし続ける。
「これで絶対に寂しくなったりしませんね」
「それは良かったわね」
「はい。……では、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
安心感のおかげか、妖精メイドは目を閉じるとすぐに寝入ってしまう。間近で彼女の呼吸を感じられるレミリアはそのことに気がつくが、手を止めようとはしない。
しかし、しばらくすると動きがなくなる。
代わりに二人分の寝息が混ざり合うのだった。
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