きょろきょろと首を動かしながら人里の通りを歩く少女が一人。腰よりも下に伸ばされた長髪がその動きにつられて揺れている。さながら子供のような振る舞いをしているが、表情には何も浮かんでいない。好奇心、困惑、苛立ちといったわかりやすい表情はおろか、その人となりを表す表情さえも浮かんではいない。代わりに、一枚の女の能面が彼女に好奇心も困惑も苛立ちもないということを周囲に教えている。
彼女、秦こころは希望の面の持ち主を探している。けど、それはいつかのように取り戻すためではない。既に彼女の手元には新たな希望の面があり、六十六の面の一つとして馴染んできている。ただ彼女は、自分の一部であった面が今はどうしているのか気になっただけなのだ。見つからなければそれでもいいと思っている。だから、物探しをしている割には、焦りも困った様子も見られない。
こころは道を曲がり、路地へと入っていく。先の騒動以降面倒を見てくれている二ッ岩マミゾウから持ち主がよくいる場所を聞いてはいたのだが、当てが外れてしまったため、今は目的地を定めることなく適当にぶらついている。人通りの多いところは粗方見て回ったから、人の少ない場所を見て回ろうと思ったようだ。
と、視界に映った少年を見て足を止める。その少年は惚けたように屋根の上を見つめている。
こころはその姿を見て、一度首を傾げる。それから、何を見ているのだろうかと確認するため、その視線を追う。
そこには、鍔の広い黒色の帽子を被った少女の後ろ姿が見えた。身体に管状のものが絡みつくようになっていて、彼女が人間ではないと言うことを周囲に知らしめている。
その姿を見たこころの頭に目を見開き大きな口を開けた驚いたような表情の面が現れる。けど、すぐさま女の顔の面へと戻った。
屋根の上に腰掛けた少女には見覚えがあった。そして、彼女こそがこころが探している人物、古明地こいしだった。
こころの身体がふわりと浮かび上がる。少年はそこでようやくこころの姿に気づき、あらぬ方向へと顔を向ける。こいしを見つめていたことを見られたくないとでもいうかのような態度だ。幸い、こころは少年の挙動に対する興味はないようで、真っ直ぐに屋根の上へと向かう。
「……こんにちは」
こいしの隣に降り立って少し考えた後、無難に挨拶の言葉を口にする。いつかのように決闘を申し込みに来たわけではないのだ。
「ん……、誰だっけ?」
ぼんやりと里を眺めていたこいしは、こころの声に反応して横を向き、その顔を見て首を傾げる。そして、腕を組んで考え込み始めた。その様子から、こころのことを完全に忘れてしまっているというわけではなさそうである。
「……あー、思い出した。今更私に何の用?」
「希望の面はどうしてる?」
無表情ながらもどこかそわそわとした様子でそう聞く。既に取り戻す必要もなくなったものだが、かつては彼女の一部だったのだ。それが今はどうなっているのか、非常に気になってしまうのも当然のことだろう。
「希望の面? んー……、それなら部屋の中に投げてあるんじゃないかな」
こいしは少し考え込んだ後、なんてことのないようにそう言う。そして実際に彼女にとってはほとんどどうでもいいのだろう。彼女がその面を気に入っていたのは、面が周囲に与える希望に惹かれていたからこそだ。こころが新しい面を受け入れたことでただの面と成り下がってしまった今となっては、こいしにとって何の価値もなくなってしまっている。
そんな淡々としたこいしの振る舞いに対して、こころは目を見開き口を開けた面を頭に付けて仰け反る。それから、面は顔を真っ赤に怒らせた般若に変わり、こいしへと詰め寄る。
「なんてことをしてくれているんだ!」
激昂の声が響く。芸事に携わる彼女の声は、遠くまで届いたことだろう。その証拠に、彼女たちがいる家の周囲を歩いていた人たちは、一様に屋根の上を見上げている。
けど、どちらもそのことに頓着している様子はない。こころはこいしだけに意識を向けているし、こいしはそもそもどうでもいいと思っている。
「そこまで言うなら返してあげようか? どうせもういらないし」
こいしは空気を響かせる怒声を間近で聞いてもなお、平然とした様子でいる。まるで、先ほど聞こえてきた声は冷静そのものの声だったと言わんばかりに。
「え……?」
言われたことそのものもそうだが、それ以上に自他の感情の落差にこころは呆気にとられる。猿の面が少しばかり間抜けな様子を晒している。
「だから、返してあげるって。あ、でも、後日持って行くなんて面倒くさいことはしないから、あなたが私の所まで取りに来て」
「……どこに行けばいいかわからない」
気を取り直したこころはそう言う。老婆の面がいかにも困っている様子を演出している。
「地底でも目立つ場所にあるから、迷うことはないと思うよ。下手に歩いてたら、面倒ごとには巻き込まれるかもしれないけど」
言葉とは裏腹に楽しげな声音だ。こころの行く末に興味はないということなのか、もしくは面倒ごとに巻き込まれるのを楽しみにしているのか。
「一人だと不安だから案内してほしい」
こころは先ほどまで今にも敵対しそうな雰囲気を醸し出していたが、頭に老婆の面を付けてあっさりとこいしへとすがる。それぞれの面が司る感情への依存から少しずつ脱却しつつある彼女だが、まだまだその感情は子供っぽく移ろいやすい。だから、理屈に捕らわれることなくその場の感情に流されることもまだ多い。
彼女とて地底の話を聞いたことがないわけではない。元々の情報が少ないために、尾鰭や背鰭なんかが付いてしまっているものかもしれないが、良い噂は滅多に入ってこない。
「まあ、暇だから別にいいけど」
こいしはあっさりと首を縦に振る。彼女は彼女で感情にも理屈にも捕らわれていないせいで、風見鶏のようにその場の流れに身を任せることが多い。
そして、こころの返事も待たずに立ち上がる。付いてきてないならそれでもいいと思っているかのような態度だ。
「ちょ、ちょっと待って! 行く前に師匠と話をしてきたい」
「へえ、あなた師匠なんているんだ。会ってみたい」
少し身体を浮かび上がらせていたこいしはこころの言葉に振り向く。ここで初めて、こころへと興味らしい興味を向ける。恐らく、師という言葉に惹かれたのだろう。彼女の周りに師弟の関係を結ぶ者はいないのだ。
「いいよ」
短い言葉だったが、そこに感情はしっかりと乗せられていた。笑みを湛えた福の神の面が現れているというだけでなく、無表情だった彼女の顔にも、ほんの少しだが誇らしさ浮かんでいる。よほど師のことを慕っているのだろう。無表情でしかいられなかった少女も、少しずつ成長しつつある。
「じゃあ、早速行こうー」
そして、こころは片手を上げて上機嫌な様子で、里の外へと向かう。
こいしもまた「おー」と言いつつ、風に揺れる髪を追うのだった。
◆
「……なんだかイヤな予感がする」
人里から少し離れた場所にある森が見えてきたあたりで、こいしがそう漏らす。微妙に歩みが遅くなり、少しずつこころから距離が離れつつある。
「師匠はひねくれてるけど、根は優しいから怖がらなくてもだいじょうぶ」
「そういう類の予感じゃなくて、できれば会いたくない知り合いに会いそうなそんな予感」
そうは言いつつも逃げ出そうとはしないあたり、苦手だとは思いつつも嫌いだとは思っていないようだ。
こころはそんなこいしの反応に不思議そうに首を傾げる。けどそれだけで、深く追求はせず森の方へと歩みを進めていく。こいしはのろのろとその背中を追いかけた。
しばらく歩くと、大きな岩の置かれた広場へと出た。
その岩には大きな狸の尻尾を揺らす少女、二ッ岩マミゾウが腰掛けている。その周りには十何匹かの狸が集まっており、彼女はそれらへと向けて何かを話したり、相槌を打ったりしている。
こころはその中心へと小走りで駆け寄っていく。それとは対照的に、こいしはその場に立ち止まり微かな警戒心を向ける。
マミゾウがそんな妖怪少女二人に気が付く。狸たちも二人の少女の姿を認めると、逃げ出すものとその場に留まるものとにわかれる。
「おー、こころじゃないか。無事こいしを見つけられたようじゃな。それで、儂に何の用じゃ?」
「希望の面を返して貰うためにこいしの家まで行くことになった。だから、師匠にも付いてきてほしい」
こころの声音は若干柔らかなものとなる。頭の面が変わらずにそうした変化をするのは彼女にとって珍しい。それだけ、マミゾウに気を許しているということなのだろう。
「ほう、それはよかったの。じゃが、儂が付いていく必要はあるのかの」
「地底がどういう場所かよく知らないから、師匠に付いてきて貰った方が心強い。……いやなら、いいけど」
まだ断られてもいないのに、しょんぼりと肩を落とす。頭に付けられた老婆の面がより一層哀愁を漂わせている。
「いやいや、別に構わんよ。個人的にこいしの住んどる場所も気になるしの」
「よかった」
すぐさま面は明るい表情のものに変わった。それどころか、こころの顔にも嬉しさが滲んできている。
「さてと、というわけじゃから、今日はもう解散じゃな。儂に付いてきたいのはおるかの」
マミゾウが周りに残っていた狸たちにそう言うと、大半のものは身体を震わせるだけで目立った行動を起こそうとはしない。狸たちの間にも地底の噂は広まっているようだ。
けど、そんな中、若い一匹の狸が前へと出てきて、その身を一枚の葉へと変化させる。勇気のあるものなのだろう。もしくは、若さ故の無謀さを持ち合わせているのか。
「ふむ、お前さんだけか。まあ、喧嘩を売りに行くわけではないから構わんかの」
マミゾウは一枚の葉を拾い上げて、懐にしまい込む。彼女はこうして部下を持ち歩くことで、いざというときの戦術の幅を広げているのだ。今回は、一人でいるときとさほど変わらないかもしれないが。
「では、行くとするかの」
マミゾウの言葉に、こころはこくこくと頷き返す。そして、こいしの方へと向かうマミゾウの隣に並ぶ。
「こいしも待たせて悪かったの」
「何の師匠なの?」
謝罪の言葉を無視して、自らの疑問をぶつける。警戒心は鳴りを潜めているようだが、代わりにこころと話していたときよりも無感情な感じとなっている。
「……なんなんじゃろうな? こやつが勝手に呼んどるだけで、特に何かを教えてやっとるつもりはないんじゃが」
マミゾウは全くの意識外からの質問に多少口ごもりながらも、少々困ったような様子でそう答える。けど、どことなく嬉しそうな様子から、決して嫌がっているというわけではなさそうだ。
「師匠は私に生き方を教えてくれてる。だから、生き方の師匠」
マミゾウのことを話すこころは本当に楽しそうだ。このときだけは、彼女の表情にも彩りが添えられる。それだけ、マミゾウに向けられている感情は強いのだろう。
「だ、そうじゃよ。最初に会った時以降は、特に何かを教えたわけでもないのにの」
「そんなことない。師匠は今も色んなことを教えてくれてる」
こころが少しばかりむっとしたような表情を浮かべる。例え本人であれ、その活躍を否定されるのは許せないようだ。
「とりあえず、マミゾウが余計な世話を焼いて、こころが律儀にそれに恩義を感じて慕ってるってのはわかった」
「余計なんかじゃない」
こころは嫌味っぽい言い方をするこいしを睨む。こいしはそれを平然と受け流しつつ、再び棘を込めた言葉を差し向ける。
「頼んでもないのに手を差し伸べてくるのは余計じゃないの? こっちが要らないって言っても引っ込めようとしないし」
「それは、あなたがひねくれてるだけ」
「まあまあ、落ち着くんじゃこころ。そやつには何を言い返したところでほとんど無駄じゃて。さっさと面だけ受け取るのが一番じゃぞ」
「……そう、かも」
こころは納得がいかないようだが、師の言葉だからか目立った反抗の意志は見せない。
「というわけじゃから、早いところ案内を頼めるかの」
「了解了解。じゃあ、はぐれないように付いてきて」
こいしは先ほどまでのやり取りなどなかったかのように、二人を先導するように歩き始めた。
◆
特に大きな問題に直面することなく一行は地霊殿にたどり着き、こいしの部屋へと案内されていた。
彼女の自室は種々雑多な物で飾られている。彼女の興味が向くままにこの部屋に集められ、そのほとんどが忘れ去られていく。彼女の姉がそれらの整理をしているのだが、それがなければこの部屋は混沌とした様相となっていたことだろう。今の状態でも統一感に乏しく、見る方向によって印象ががらりと変わってしまう。
「どこやったかなー。あ、あったあった」
こいしは部屋の中を見回すと、机の方へと駆け寄る。そこだけは、他と違って整理がされていない。そこは、こいしが現在気に入っている物、もしくはごく最近気に入っていた物だけが並べられている。
こいしはその机の端の方、今にも落ちそうな場所に置かれている子供の面を手に取る。うっすらと乗った埃から、そこに放置してしばらく経っているというのが窺える。
「はい」
そして、ぞんざいな手つきでその面をこころへと手渡す。部屋の混沌とした様子へと意識を向けていたこころは、不意に渡されたそれを取り落としそうになるが、慌てて掴み直して安堵のため息をこぼす。
それから、またなくしてしまわないようにするかのように、両手で大事そうに抱える。
「そんな大切そうにしてるのに、なんでなくしたの?」
「な、なくすなんて思ってなかったから……」
「ああ、元々は割と適当に扱ってたんだ」
「うぐ……」
何も言い返せないようで、言葉を詰まらせる。まさか本人もなくすようなことがあるとは思っていなかったのだろう。
「自分の一部なのに粗末に扱うなんて、被虐趣味でもあるの?」
「そ、そんなことはない」
「隠そうとしなくてもいいのに。あなたが望めば好きなだけ虐めてあげる」
「し、師匠……っ」
こいしの嗜虐的な笑みを前にして、こころはマミゾウの背後へと逃げる。ただ隠れるだけというつもりはないようで、その状態で牽制するようにこいしをじっと見つめている。無表情だからそれなりの威圧感はあるのだが、老婆の面のせいでそれも半減している。
「あんまり虐めてやらんでくれるかの」
「虐めやすそうだったからつい」
マミゾウの呆れた声に対して、こいしは一欠片も悪びれている様子を見せずに答える。隙があれば再び同じことをしでかしそうな様子だ。
マミゾウも何を言っても無意味だというのはわかっているようで、それ以上は何も言わずに、やれやれとため息をつくだけだ。師がそんな態度なので、こころはいまだにこいしを警戒するような態度を取っている。
そんな三人の間に、扉が三度叩かれる音が響く。
「こいし? 入ってもいいかしら?」
扉の向こう側から聞こえてきたのは、どことなく浮ついた調子を滲ませながらも、なんとか落ち着きを保とうとしているかのような声だった。印象はずいぶんと違うが、こいしの声質と似通った部分がある。
「お姉ちゃん? 何か用?」
こいしはマミゾウとこころの横を通り抜けて扉を開け、部屋の前に立っていた姉、古明地さとりを見つめながら首を傾げる。
「貴女が珍しく誰かを連れてきたと聞いたから、挨拶をしに来たのよ」
「何その人付き合いのない子供を持つ親みたいな発言」
「ふふ、正にそんな心境だわ」
さとりは呆れる妹に笑みを返す。こいしから外の話を聞く機会は多いとは言え、実際に関わりのある相手に会うことができるのがよほど嬉しいようである。
「ああ、これは申し訳ありません」
少しはしゃいだ様子を見せていたさとりは、非礼を詫びながらこころとマミゾウの方へと向く。
最初は落ち着いた態度を見せるつもりだったのだろうが、こいしと短いやり取りを行うだけで、簡単に内面の嬉しさが表に出てしまっていた。けど、それはそれでいいと思っているのか、取り繕おうという様子は見せない。
「初めまして。こいしの姉の古明地さとりです。うちの妹がご迷惑をおかけしてしまったようですね」
「初めまして、秦こころです。初めて会ったときはそう思ってたけど、今は気にしてない」
こころは丁寧に挨拶を返した後、さとりの言葉に首を横に振りながら答える。
もし、彼女がこいしと出会った時点で希望の面を取り返していたのなら、マミゾウと出会うことなく、自分自身の感情を抱くために奔走するということもなかっただろう。だから、真っ向から敵対しようだとかいう気持ちは一切ない。かといって、感謝しているというわけでもないのだが。
「そうみたいですね」
さとりの言葉に違和感を抱いたこころは首を傾げる。けど、何がおかしいのかがわからないから、指摘はできない。
「ああ、私は他人の心が読めるのですよ」
そう言いながらさとりは第三の目に触れる。こころは目と口とを開いた面を付けて驚く。ただそれだけだ。
「珍しいですね。心を読まれていることを知っても驚くだけですませてしまうなんて。まあ、まだ心が未熟なだけなのかもしれませんが」
そう言って、今度はマミゾウの方へと視線を向ける。
「そちらの方はこいしの面倒を見てくださったんですね。ありがとうございます」
深々と頭を下げ、感謝の言葉を口にする。言葉だけでは感謝をしつくせないほどのことをしたということをさとりはマミゾウの心から読み取ったようだ。
「何、ちと捜し物を手伝ってやっただけじゃよ」
謙遜するようにそう言う。彼女にとって、こいしの手伝いをしたということは当然のことなのかもしれない。面白半分といった部分も含めて。
こいしはそれに関してどう思っているかを口にしようとはしないが、不機嫌そうな表情を浮かべている。さとりはその辺りの事情もマミゾウの記憶から読みとっているようで、特に言及しようとはしない。
「それでも、私は最大限の感謝をしたいのですよ。今の私にできそうなのは、お茶を振る舞うことと、こころさんのことについて多少相談に乗って差し上げることくらいですが」
「大げさな奴じゃな。まあ、断る理由もないし振る舞われてやろうかの。こころはどうするんじゃ?」
「師匠が残るなら、私も残る」
こころはマミゾウの顔を見上げながらそう答える。親に頼り切りな子の姿を彷彿とさせる。
「はい。では、食堂の方へと参りましょう。あ、懐にいる子にも何かご用意しますよ」
そう言って、さとりは姿の見えない一匹の狸へと笑みを向ける。
「ほら、こいしも」
そして、さり気なく三人から距離を取ろうとしていたこいしを手招きする。こいしは少々不服そうにしていながらも、さとりの側へと寄って行っていた。
◆
「情操教育に、うちのペットたちと触れ合ってみるのはどうでしょうか。ここには多数のペットがいますから、気の合う子もいると思いますよ」
さとりが対面に座るこころとマミゾウへと向けてそう言う。さとりだからこそ見ることのできる現状に対する見解を述べた後のことだ。
こいしは三人の会話に興味がないようで、床の上にしゃがみ込んで元の姿に戻った狸へと果物やらお菓子やらを差し出している。狸はそれら一つ一つのにおいを嗅ぎ、気になったものがあるとこいしの手からそれを取っている。
「どういうのがいるの?」
こころ自身は動物に興味があるようで、首を傾げながらそう聞く。
「多いのは、猫や鴉ですね。それから、犬も結構いますよ。後は、大きな蜥蜴とか、少し厳つい表情をした鳥とか、まあ、探せばいろいろいると思います」
「へぇ……」
そう声を漏らすこころの額に付いているのは、先ほどこいしから返してもらったばかりの元希望の面だった。子供の面はこころなしか、それ自体が好奇心に輝いているように見える。既に新しい居場所を作っているようだ。
「好きなようにこの建物の中を歩いてくださって構いませんよ」
さとりが穏やかな笑みを浮かべながらそう言うと、こころは早速といった様子で椅子から立ち上がる。まだ面は馴染みきっていないのか、感情に振り回され気味のようである。
「師匠! 早く行こう!」
「お、おおう。いつになく気が急いておるの」
急にこころに腕を掴まれ、更に引っ張られたマミゾウは戸惑いの声を上げる。こころが今付けている面にはまだ気づいていないようだ。
「あ……っ」
不意にこいしが声を上げる。彼女の視線の先には、椅子から立ち上がらされたマミゾウの元へと駆け寄る狸の姿があった。
こいしに餌付けられつつあった彼だが、優先順位の入れ替えまでは起こっていなかったようだ。
「……私は今、大切な物を一つ奪われた」
どんよりとした様子でそう言う。
「元々お前さんの物じゃないじゃろうが」
「まあ、確かにそうだね」
一瞬前まで落ち込んでいたような姿を見せていたのに、今ではもうけろりとしている。単純に、素直に返すのが嫌だっただけで、大した執着はないのだろう。
マミゾウはその態度に呆れたような息をつく。けど、そうしたことに触れるだけ時間の無駄だとわかっているので、それ以上は気にしないようにする。それに、マミゾウの腕を引っ張るこころを無視し続けているというわけにもいかない。
「せっかくじゃからお前さんに案内してほしいんじゃが、どうかの」
「んー……、まあいいよ」
何を基準として考えていたのかを伺い知ることはできないが、とにもかくにもこいしは首を縦に振る。そして、しゃがんだ状態から立ち上がると、とてとてと歩いて二人の前へと出るのだった。
ペットを求めてさまよい歩き、最終的に三人が腰を落ち着けたのは扉が取り付けられていない、広い部屋だった。ペットたちがくつろぐためのソファや小さなベッドがいくつか置かれているが、今は空っぽだ。
床の上に敷かれた絨毯の上に三人は座り込んでおり、その周りにペットたちが集まっている。
こころは大型犬に囲まれて、福の神の笑みを頭に付けて、若干頬を緩めながらその子たちの身体を撫で回している。大型の犬を見るのはこれが初めてだったそうだが、ずいぶんと気に入ったようだ。さらには、彼女と彼女の周りの犬には元気盛りの猫たちがしがみついており、みゃーみゃーと騒がしい。
そんな舞い上がった様子のこころとは対照的に、こいしとマミゾウは基本的にペットたちの動きを眺めているだけだ。時折、近づいてきたペットたちをのんびりとした手つきで撫でているくらいである。肩や頭に鳥が止まったりもしている。
そして、狸はなぜだか子犬や子猫の遊び相手となっている。尻尾を玩具とでも勘違いされたのかなかなか苦労しているようだ。
「師匠たちと私の周りの様子が違いすぎる気がする」
動物に囲まれるという状況に慣れてきたこころは、ふと冷静に周りを見渡して、不思議そうに首を傾げる。こころの顔を覗き込んでいた真っ白な犬もそれに釣られるように首を傾げている。
「お前さんがはしゃぎすぎておるからじゃないかね」
「まあ、そうだろうね。臆病な子が多いし、それを誤魔化すための行動をとろうとはしないから」
思いついたことを適当に言っただけらしいマミゾウの言葉に頷きながら、こいしはちょうど近くへと寄ってきた大柄な茶トラの猫を撫でる。彼女の顔から、明確な感情を伺い知ることはできない。わかるのは、様々な感情が綯い交ぜとなっているということくらいだ。
「……難しい顔してる」
こころはこいしの表情をじーっと見つめる。自らが浮かべる表情の参考にしようとしているのかもしれないが、恐らく何の役にも立たないことだろう。どうしようもない現実に直面し、それに心を折られ、逃げ出した者の表情は学習から浮かべられるものではない。
「私ほど単純なのはいないと思うけど」
こいしは全ての感情を消し去って、自虐的にも聞こえてきそうな言葉をただの事実として口にする。こころはその感情の動きを目の当たりにして、何も言えなくなってしまう。
「さてと、そろそろペットたちと遊ぶのも飽きてきたし、別のことでもしようかな」
そして、場の空気を変えるようにそう言いながら立ち上がり、こころの方へと近づいていく。こいしの周りに集まっていたペットたちは、思い思いの方向へと散開していく。何かを感じ取っているのか、追いかけるようなのはいない。
「というわけで、立って」
「何するつもり?」
こころはそう言って首を傾げながらも無防備に立ち上がる。彼女に引っ付いていた猫たちがその突然の動きに振り落とされる。
「あなたの表情を動かす方法を思いついたから、それを実践してみようかなと。じゃあ、次は両手を上げて」
「えっと、こう? ……あっ」
こいしに言われるままに大人しく従っていたが、何かに気づいたのか、慌てて両手を下げる。けど、こいしも行動に移るのは早い。こころの腕が下りきる前に、脇の間へと手を差し込んでいた。こいしを逃がさないようにしているようにも見える。
「なんか中途半端な状態になったんだけど。ほらほら、早く両手を上げて」
「い、いやっ」
相も変わらず無表情だが、首を大きく左右に振って脇をきゅっと締めて必死な様子を見せている。その場から動くことができれば逃げ出すことができるのだろうが、周りにいるペットたちを気遣って動けないでいる。
ただ、そうして気遣われているペットたちのこころを見つめる視線は、玩具の投下を待つようなものとなっている。こいしの行動の感化を受けて、遊びたいと思い始めてしまったのかもしれない。犬は大きく尻尾を振り、猫は尻尾をぴんと立て、揃って無垢な瞳を輝かせている。
「へぇ、私に逆らうんだ。素直に従ってくれたら、少しは温情をかけてあげようと思ってたんだけど」
こいしが嗜虐的な笑みを浮かべると、こころはたじろぐように身体を少し仰け反らせる。
「し、師匠……っ」
こころは事態を傍観しているだけのマミゾウへと助けを求める。ほんのわずかにだが、涙目となっている。
「あー……、すまんが嫌な予感がするから、ここで傍観しておるよ。まあ、そう悲惨なことにはならんじゃろうて」
「しぃーしょぅー」
諦めず最後の頼みの綱に手を伸ばすが、顔を逸らされてしまう。マミゾウは、二人の周囲に集まっているペットたちの雰囲気の変化に気づいているようだ。残念ながら、自らの身を挺して守るほどの間柄ではないのだ。
「さてさて、全ての希望が潰えたところでお楽しみの始まりとしようか。さあさあ、みんな好きなようにやっちゃっていいよ!」
こいしの号令に応えて、周りの動物たちが二人へと殺到する。さながら、武将の采配の向けられた方へと向かう軍勢のようである。ただし、向かう先にその武将がいるのだが。
「な、な、なにっ?」
突然の事態に驚いたこころは身を竦ませる。そのせいで、隙が生まれる。
こいしはその隙を逃さずこころを床の上へと押し倒す。こころの背後にいたペットたちは、倒れてきたこころの身体を危なげなく避け、顔を舐めたり、頭をすり付けたりし始める。
それらは愛情表現の現れではあるが、まとめてそんなことをされれば喜んでもいられない。
「ちょ、ちょっと、や、やめ」
こころは動物たちを振り払おうとするが、傷つけてはいけないという自制心のせいで、手は全く役に立っていない。それどころか、そうやって顔の辺りに持ってきた手を使って遊んで貰っていると勘違いしたペットたちによって追いかけられ、甘噛みされてしまう始末だ。
更に、正面の方にいた動物たちは、足の上に乗っかったり、スカートの中に潜り込んで足の辺りを舐めたり、身体をすり付けたりしている。
一応、じゃれついた際に傷つけないようにと躾はされてはいるようで、牙を突き立てようとするのはいない。妖怪を遊び道具として扱っていけないとは教わっていないようではあるが。
こころはくすぐったさにばたばたと暴れ始める。けど、それで離れていくほどペットたちは大人しくない。そもそも、こいしや大型の犬に乗っかられたりしているせいで、あまり大きく動けない。
「わっ、ちょ、く、くすぐったいくすぐったい」
こいしもそんな声を上げる。ペットたちはこころとこいしも等しく遊び道具として見ているようだ。だから、見境がない。
こいしはこころとは違って楽しげな声を上げている。そんな声に釣られるように、二人にじゃれつくペットたちはなかなか落ち着かない。
「と、止めて止めて!」
「む、ムリ! この子たち、一回暴れ出すと、止まんないから!」
こころが必死に懇願するが、こいしの一言が絶望へと押し返した。ゆっくりとその言葉を理解している余裕はないようだが。
そうして二人は疲れ果てて動けなくなるまで、遊び道具とされ続けられるのだった。
「二人とも大丈夫かの?」
マミゾウが、ペットたちに囲まれてぐったりとする二人を見下ろしながらそう聞く。こころは額を手で押さえながら荒れた呼吸を整えており、こいしはその上でうつ伏せのまま少し荒くなった呼吸を繰り返している。
ペットたちは満足がいったのか、二人に寄り添うようにしていたり、乗りかかったりしているが、暴れようとするのはいない。
「……師匠が見捨てた」
こころは恨めしげにマミゾウを見つめる。怒っているというわけではないが、老婆の面が悲しげな様子を醸し出している。
「いや、すまんかったの。ここまでとは思っとらんかったんでの」
「なら、途中で助けてくれればよかったのに……」
「荒事は苦手なんじゃよ」
「……むー」
こころは若干不満そうな表情を浮かべる。面は子供の面に変わっている。マミゾウに助けてもらえるということを、子供のように純粋に期待していたのだろう。
「お前さんが本当の危機に直面しとるときは助けてやるから、それで勘弁してくれんかの」
マミゾウはペットたちの涎で多少べたつく頭を撫でる。それだけで、こころの表情はいつもの無表情へと戻り、面もいつもの女性のものに戻る。
「……誤魔化されてるような気がするけど、それで許してあげる」
「これでも誠意は見せとるつもりなんじゃがな」
「マミゾウは基本的に詐欺師っぽいからじゃない?」
こいしが困ったような笑みを浮かべるマミゾウに対してそう言う。俯せのまま喋られことによる振動がくすぐったいのか、こころが少し身体を捩らせる。
「まあ、否定はせんよ。それが、化け狸の生き方じゃしな」
「なんか開き直ってるし」
「そ、そのままの状態で喋らないでっ」
声の振動によるくすぐったさに耐えられなくなったようで、こころは身体を捻る。こいしは特にそれに抵抗しようともせず、自ら身体を回転させて仰向けとなり、絨毯の上に寝転がった。そして、そのまま動かなくなってしまう。ペットたちは機敏な動きでその身体を避けていた。
「二人とも、風呂に入った方がいいんじゃないかの」
二人の姿を見比べていたマミゾウが話題をそらすようにそう言う。けど実際、二人ともペットたちの唾液まみれとなっており、随分と酷い有様だ。
「だねぇ。ただ、しばらくは動きたくない。負ぶってくれるって言うなら、ありがたくその背中使わせて貰うけど」
「私も同じく」
二人して立ち上がる体力も残っていないようだった。ニ対多数で相手側が満足するまで遊ばれていたので、当然のことだろう。
「では、二人が動けるようになるまでの間に、着替えの用意をさとりに頼んでくることとするかの。お前さんの姉君はどこにおるんじゃ?」
「部屋か仕事部屋、じゃないかな。私の部屋の隣かその隣」
「了解じゃ」
頷いて少し急ぐような足取りで部屋から出ていく。ペットたちが再び暴れ出すのではないだろうかと懸念しているのだろう。
「ねえ」
マミゾウが出て行ってしばらくして、こころがこいしへと呼びかける。声色は真剣味を帯びている。
「……ん?」
疲れによるものなのか、いつも以上にぼんやりとしていたこいしの返事は少し遅れる。
「あなたにとって、希望の面はどういうものだったの?」
「今更聞くんだ」
「……難しい顔してるあなたの顔を見てたら気になった。聞いてる余裕なんて全然なかったけど」
「私ほど単純なのはいないって言ったはずだけど。というか、それとお面とどんな関係があるの?」
誰にも見られていないにも関わらず、こいしは澄ました表情を作り出す。
「なんとなく関係がありそうな気がしただけだから、どんなって聞かれると困る」
「ふぅん。まあ、どういうものだったかってぐらいなら答えてあげてもいいけど」
自分で聞いたにも関わらず、興味なさそうな返事をする。質問を拒否しないところから、なんとなしに聞いてみただけのことだったのだろう。
「うん、お願い」
「私に充実を与えてくれる希望そのものだった、と思う」
不明瞭な言葉となるのは、彼女自身よくよく覚えていないから。どんなことにでもなんとなくで関わり、そのほとんどに意味を見出すことができないから、いつだって彼女の記憶は薄ぼやけている。
「思う?」
「過去のことに捕らわれてたって仕方ないし、記憶なんてどうせ尾鰭がつくんだから断言なんてできない」
思い出という言葉さえ否定しかけない後ろ向きな言葉に、こころはそれ以上何も聞けなくなってしまう。
「そうだ。人生の先輩から一つアドバイス」
こいしが億劫そうに身体を動かして、こころに覆い被さる。お互いの顔しか見えなくなるほど至近に迫る。
「感情なんて持つだけムダ。どうせ傷つけられて最終的には壊されるしかないんだから」
こころよりも更に無表情に告げる。声にも仕草にも、そして纏う雰囲気にさえも感情を乗せていない。虚無的に事実だけが言葉となって出てきている。
「……そう、なの?」
それに対してこころは、無表情ながらも怯えるような仕草を見せる。
「そう」
「……でも、私はただの道具には戻りたくない。私は自分の心で感じることの楽しさを知ってしまったし、道具に戻ったら師匠と話をしたりできなくなるから、いや」
こころは怯えながらもそう言い返す。ただの道具であったときとは、比べものにならないほどの世界の広さに彼女は希望を見出している。こいしとは正反対に。
「へぇ。後悔しても知らないよ?」
「どうせただの道具に戻っても後悔する。それに、傷つけられて壊れるかもしれないなら、そうならないくらいに強くなればいい」
「そんなのすぐに折られちゃうと思うけどねぇ。ま、精々がんばればいいと思うよ」
これで話は終わりだとばかりに、そのまま腕から力を抜いてこころの上に横になる。わざわざこころの横に身体を下ろすのは面倒くさかったようだ。
「……でも、あなたには壊される前に逃げるっていう選択肢があるんだから、それは絶対に忘れないで」
今にも消え入りそうな声は文字通りこころの胸に響いた。そして、どこか弱々しさを内包した言葉は、胸の中へと溶け込んでいく。
そして、こころは一片も聞いたことのないこいしの過去を思い描こうとする。
「……あなたは……」
――どんな経験をしたの?
こころはそう口にしようとしていた。けど、こいしの空っぽな姿を思い出すと、声にすることは憚られる。
そしてどうすることもできず、師匠ならこういうときどうするんだろうかと考えていた。
◆
地霊殿の十何人と入ることができそうな浴室。浴槽に張られた湯は沸かしたものではなく、地熱によって暖められた温泉を引いてきたものだ。
こころは湯煙によって白く染まった中空をぼんやりと眺めている。ここまで広い湯に浸かるのはこれが初めてなのだが、それを堪能している余裕はないようである。端から見れば、普段との違いはあまりわからないのだが。
「どうしたんじゃ、ぼんやりして。疲れたのかの」
先ほど身体を洗い終えたばかりらしいマミゾウがこころの隣に腰掛ける。他称こころの師匠というだけあって、ほんのわずかな変化でもしっかりと見抜くことができるようだ。
「それもあるけど、こいしに言われたことが気になって」
そう言いながら、こころが視線を向けるのは脱衣所に繋がる扉の方。こいしは髪と身体を洗うなりさっさと出て行ってしまっていた。
「儂でよければ聞いてやるぞ」
「……いつかは感情が壊されるって、本当? 師匠を見てるとだいじょうぶそうって思えるけど、こいしを見てると不安になって」
こころの言葉は水面へと向けられる。まるで、ゆらゆらと揺れる自分自身にでも話しかけているかのようだ。
実際、自分自身で答えを出したいと思っている節もある。けど、一人で考えていても仕方がないというのも、また事実だった。
「境遇によりけり、といったところじゃな。儂より長生きしとって心は健常そのものといった者もおれば、その逆もしかりじゃよ。まあ、全員が全員というわけではないが、考えすぎる奴ほど折れやすい傾向はあるの。気楽に生きるのが一番じゃということじゃな。じゃから、そんなに深刻に考え込んで身構える必要はありゃせんよ」
マミゾウはこころの不安を鎮めるように優しくぽんぽんと頭を叩く。どんな言葉よりも、その行動がこころを最も落ち着かせる。師匠がいてくれるからだいじょうぶだ、と。
「しかしまあ、あやつは本当に後ろ向きな考えばっかりしとるんじゃな。希望の面を持っとった時はかなり前向きじゃったのにの」
「うん。生意気な感じがするとは思ってた」
正直に頷くが、その後すぐに顔を伏せてしまう。
「……でも、あの姿を見てると私の管理不届きのせいで可哀相なことをしたかなとは思う」
間接的にではあるが、こいしに希望を与えたのがこころであれば、奪い取ったのもこころだ。今までそんなことを気にしてもいなかったのだが、希望も絶望も何も感じていないような姿に希望を抱いていたときの姿を重ねて、罪悪感が浮かんできたようだ。
「お前さんは自分のことを考えておけばいいんじゃよ。それに、あやつの手に渡った希望の面は力を失いこそはしたが、希望の欠片は残していった。今はそれを探して拾い集めとるところじゃよ」
「そうなの?」
顔を上げる。救いのない物語の中に光を見出した子供のように。
「そうじゃよ。儂も手伝ってやったしの」
「……師匠は誰にでも優しいんだ」
こころの頭に子供の面が現れる。その下に見える彼女の表情は若干不機嫌そうだ。
「かもしれんの。特に行き先を失って迷っとる子供は放っておけんみたいじゃ。あやつが聞いたら怒るじゃろうがな」
マミゾウは一人愉快そうに笑い、その声が浴室の中に響きわたる。
「とはいえ、今はお前さんのことを優先させとるよ。一人で放っておくのは不安じゃしの」
「そうなんだ」
こころの表情がわずかに明るくなる。子供のような嫉妬心は、自分が一番だということだけでも満足するようだ。
「さてと、のぼせる前に上がるとするかの」
マミゾウは心中でこっそりとため息を吐きながら立ち上がる。嫉妬が変な方向に向かわないでよかった安堵しつつ、思っている以上に依存されてしまっているようだと苦笑しながら。
「うん」
師匠の心中を露とも知らず、こころもマミゾウに続いて立ち上がる。
「あ、そうだ。この後、こいしと少し話をしてもいい?」
「ん? 別に構わんよ。儂もちと確認したいことがあるしの」
「うん。ありがとう」
こころは感謝の言葉を返すと、少し足早にぺたぺたと音を立てながら、脱衣所を目指すのだった。
「こいし、私のことを気遣ってくれてありがとう」
風呂を出て部屋にいるこいしを見つけ出したこころは、そう言いながら頭を下げる。こころが着ている服は新しく用意されたものではなく、風呂に入っている間に洗われたものだ。地霊殿には太陽と同等のものを発生させることのできる者がいる。
「今更お礼言うの? もしかして、あの短い時間の間に気が変わった?」
こいしの言葉には、揶揄するような響きが込められている。ちなみに、彼女は服を着替えている。ここは彼女の家なのだから当然といえば当然だが。
「……あの時はちょっと雰囲気に圧倒されてたから、言うタイミングを失ってただけ。私自身を捨てるつもりはない」
「へぇ、そう。なら、あなたにしっかりした感情が芽生えることを楽しみにしてる。そのときは、私が根も残らないように徹底的に摘み取ってあげるから」
「……こいしの意図がわからない」
こころは湯船に浸かっている間、こいしは案外優しい性格なのではないかと思っていた。けど、今彼女の前にいる姿は、そうした思いとは間逆の雰囲気を見せている。
だから、困惑して何が正しいのかわからなくなってしまう。
「ふふ、私に意図なんてないよ。気まぐれで花に水をやることもあれば、気まぐれで花を踏みにじったりもする。全ては私の気分次第。ああでも、面白そうかどうかっていう意図はあるか。だから、全てはそれ次第。あの時のあなたが戸惑ってる姿、面白かったよ」
こいしに満面の笑みを向けられて、こころはたじろぐ。本能的な部分で身の危険を感じたようだ。
「なんというか、偽悪的な態度じゃな」
横で二人のやり取りを聞いているだけだったマミゾウが、圧倒されつつあるこころを見かねて口を挟む。口の端は微かな笑みを形作っている。
「へぇ、どの辺りが?」
「お前さんの言動は脅しまがいの忠告ばかりで、実際に害を与えるようなことはしておらん所かの」
「どんな恐怖を与えられるんだろうかって身構えてれば、それだけで精神は削れてくからね。後は、弱ったところに直接精神攻撃を仕掛ければ、それでお終い。弱っていくところでちまちまとちょっかいをかけていくのも楽しそうだけど」
「そう長々と説明するのも偽悪的じゃと思うがの。どうせ認めやせんのだろうじゃが」
「そりゃあ、覚えのないことを認めるなんてできないからね」
笑顔で答えるこいしの姿に、マミゾウは面倒くさそうにため息をつく。こころのために本音を引きずり出したいと思っているようだが、一筋縄ではいかない。
「……結局、こいしは私をどうしたいの? 逃げる選択肢もある、なんてさっきの態度と全く噛み合わないことも言ってたし」
今度は、マミゾウが話している間に少し落ち着いたらしいこころがこいしへと質問を向ける。こいしが微かに見せた弱々しさ。それが、気遣ってくれているのだとこころに確信させていた。
「それは……」
こいしが言葉に詰まる。
「そんなことも言っとったのか。本当、素直じゃないやつじゃな。もしかして、さっさと風呂を出たのもこころのことをじっくり考えたかったからなのかの」
「そんなことないっ! 適当なこと言わないで!」
「じゃからそれは、図星を言われたときの反応じゃと言ったじゃろう? ま、こちらとしては分かりやすくて助かるがの」
マミゾウはこいしの反応を面白がって笑う。こいしは不機嫌そうな様子でマミゾウを睨んでいる。こころは一人事態の変化に付いていけず、蚊帳の外となっている。
「えっと……、師匠、どういうこと?」
自分の告げた一言が何かを引き起こしたらしいということまでは理解できるものの、それ以上がよくわからないようだ。
「ひねくれ者が、ふとお前さんに向けてしまった本音のせいで自滅しただけじゃよ。素直に振る舞っておれば、こんな煩わしいことをせずに済むのにの」
「ああもうっ、うるさいっ! さっさと帰って! もう用事ないんでしょっ!」
誤魔化しきれないところまできたが、だからといって素直に認める気にもなれず激昂する。
「そうじゃな。気が向いたら、こころと関わってやっとくれ。気難しいのを相手にするときの参考になるじゃろうしな」
こいしはそう言うマミゾウへと追い払うような仕草を見せる。いち早く視界の中からいなくなってほしいようである。
マミゾウはそれに対して、ニ、三のからかいを返そうとしたが、こころを見てやめる。
「あ、えっと……、今日はありがと、う? その、さよなら」
急な展開に戸惑いながら、それだけ告げて手を振る。こいしは不機嫌そうな表情のままながらも、小さく手を振り返す。
こころは手を振り返してくれたのがどういった心情からのものかはわからないが、多分悪いものではないのだろうと決めて、先に行ったマミゾウの背中を追いかけるのだった。
◆
あれから数日。
その間、こころがこいしと関わるようなことはなかった。マミゾウもまたしかりである。
「あ」
感情と表情を学ぶために人里をふらふらとしていたこころは、ふとこいしの姿を見つけて足を止める。いつかのように、空を見上げていた少年の視線をなんとなしに追いかけてみたら見つけることができたのだ。どういう関係なのだろうかと思いもしたが、すぐにその思考は頭のどこかへと追いやられてしまっていた。その少年がこいしに恋をしているのだと知るのは、また後のことである。
こころはこいしの姿を見たまま、二つの面を交互に出したり消したりしている。
一つは老婆の面。あんな別れとなってしまった故に、どう話しかければいいのかわからず躊躇している。
もう一つは子供の面。純粋な好奇心が何をしているのだろうかと気にかけている。
そして、最終的に子供の面が彼女の頭に残る。こころは、悩んでいたわりに迷いなく宙へと浮かび上がり、こいしの横へと降り立つ。
けど、こいしの反応はない。その隣に腰掛けてみても、気づいた様子さえ見せない。
「何を見てるの?」
こころの声を聞いてようやくこいしは反応をする。ちらりと横を見るだけの些細な反応ではあったが。
こころはこいしからの返事を待つ。けど、いくら待っても返答を拒絶する言葉さえ向けられない。
「なんで私に関わろうとしてくるの?」
無視されているのだろうかと思い、立ち去ろうかとしていたところでこいしに話しかけられる。中途半端な姿勢だったために転びそうになっていたが、なんとか元の位置に腰を下ろす。
「……えっと、何となく気になった、から?」
安堵のため息を吐きながらそう答える。思ってもいなかった質問を突然向けられたというのもあるのか、その声は少々たどたどしい。
「後、師匠があれは照れ隠しだって言ってたから、どういうことなんだろうかって気になってたというのもある、かも」
「……余計なことを」
こいしの表情が不機嫌そうになる。それと同時に、どこか希薄だった存在感が明瞭なものとなる。
「こいしは、私のことをどう思ってるの?」
「何でもかんでも素直に信じて、こっちの好きなようにできそうなやつ」
「そ、そんなことは……」
「この前、私の言葉を大して疑いもせず従ってくれたのは誰だった?」
「うぐ……」
反論しようとしたところに事実を突きつけられて言葉に詰まる。
「……だから、気遣ってくれたの?」
「弱点をイジられて感謝するなんて、特殊な性癖だねぇ」
「師匠も言ってたけど、意地悪するだけならあんな助言はいらなかったんじゃないの?」
「疲れてたから適当なこと言っただけ」
「それって、本音――」
「うるさい」
こころの言葉はこいしの普段よりも低い声によって遮られる。それに怯えたようにこころの身体は小さく震える。
「不愉快だから帰る。じゃあね」
こいしはすくっと立ち上がって、飛び上がる。
こころはその姿を見て呆然としていたが、師匠の言葉を思い出す。そして、頭には笑みを浮かべた福の神の面が現れているのだった。
Fin
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