無表情の代わりに頭に面を付けた妖怪、秦こころが、人間は滅多に通らない道をのんびりとした足取りで進んでいる。少し冷たくなってきた秋の風が彼女の長い髪を踊らせ、機嫌が良さそうな様子を演出している。
 実際、彼女の頭に付いている面は喜色を浮かべている。しかし、本当に彼女が抱いているのは期待だ。そうした細かな違いは、面からはわかりづらい。
 期待を胸に彼女が向かっているのは、人里で噂を聞いた秋桜畑である。秋になるとそこに大妖怪が現れると聞いた彼女は、興味を抱いてそこに足を運んでみようと思ったのだ。もし誰もいなければ、花でも眺めてみようかなーなどと暢気に考えながら。
 夏頃に異変を起こした彼女は、何人かから希望の面をなくしたことに対する解決策を与えられた。とある僧侶は感情を制御すればいいと言い、とある聖人は彼女のために新たな希望の面を与えた。しかし、彼女はいつまで経っても感情を制御することはできず、更には新しい希望の面によってただの道具に戻ってしまうことを嫌った。
 そして、最後に妖怪狸の大将が新たな希望の面を取り込み、その上で感情を見て回り表情を学べと言った。最初はその言葉に半信半疑だったものの、しばらくしてそれが最善だと知った。
 そのおかげで、こころは彼女のことを師匠として慕うようになっていた。
 今では、感情と表情の観察もすっかり日課となっている。あの夏の異変の時のように手当たり次第に決闘を申し込むようなことはせず、地道に色々な場所を歩いて巡っている。異変の時は感情が暴走していただけであり、もともとは大人しい性格の彼女にとってはこちらの方が性に合っているのだが、あの騒がしい異変での彼女を知る者たちは多少の違和感を抱いていた。
 しかし、こころはそんな他人からの印象などは気にせず、マイペースに活動を続けている。いつか自分の感情を自分の顔で表現するため。一応特定の者の前ではほんの少しだけ表情が動くのだが、まだまだ無表情と言われる程度のものだ。
 彼女が花畑に向かっているのもそうした活動の一環だ。花畑に現れる大妖怪とやらの表情を観察するのが彼女の目的だ。力を持つ妖怪ではあるが、人里にも顔を出すということを聞いて、大きな問題は起こらないだろうと高を括っている。
 しばらく秋の風のざわめきや、妖精たちの声を聞きながら歩みを進める。その間も、表情の観察は忘れない。表に出ている感情がわかりやすいという点で、妖精たちは彼女にとって教科書のような存在だった。
 そうやって脇見をしつつ傍目に少々危なっかしい足取りで進んでいた彼女は、人里の人たちから教わった花畑へと辿り着く。まだ時期が早いのか、花を付けた物はちらほらとあるばかりで、そのほとんどは蕾となっている。
 そんな花畑の中に、淡い赤色の日傘を持った少女の姿を見つける。しゃがみ込んだ状態で首を使い日傘を支えて、花に触れて何かをしている。彼女の傍らには大きな如雨露が置かれている。少し離れた場所には大きな桶といくつかの道具とが置かれている。
 あれが話に聞いた大妖怪だろうかと首を傾げる。大妖怪らしからぬ牧歌的な雰囲気を醸し出しているが、花が好きだという前知識と抑えられてはいるもののじわりと漏れ出ている威圧感とが話に聞いた大妖怪だということをこれ以上にないほどに示している。
 内心で頷きながらこころはその少女の方へと近づいて声をかける。

「こんにちは」

 しかし、花をいじっている少女からの反応はない。

「えっと……、こんにちは!」

 少し待ってみてから、大きめの声で話しかけるがやはり反応はない。余程花の世話をすることに意識を割いているのだろうか。
 こころの頭に困ったような表情が現れる。しかし、彼女の目的は感情と表情の観察だ。そして、彼女は感情を全く知らないわけではない。まだまだ感情は面に依っているところがあるものの、自身の感情がないというわけではないし表情を見てそこに潜む感情が全くわからないということもない。だから、わざわざ話をする必要性はあまりないのだ。
 そのことに思い至ったこころは、少女の目線に合わせるようにしゃがみ込んで横顔をじーっと見つめ始める。普通なら気になってしょうがないだろうが、少女はやはり反応一つ見せずに花の相手をしている。
 その表情はどことなく嬉しそうだ。話に聞いたとおり、花のことが好きなのだというのが窺える。
 こころはそんな姿を見つめ続ける。もともとが無表情なせいもあり、その姿はどこか人形じみている。暗がりに置かれていれば、いくらかの人間を驚かすことができるだろう。
 しかし、今は日中でそもそも人通りがない。精々が鳥の止まり木として役に立つくらいだろうか。

「やっ、今日も人妖観察に精を出してるみたいだね」

 不意に背後から声をかけられる。その瞬間まで、気配といったようなものは一切感じられなかった。
 何の前置きもなく背後から話しかけられたこころの身体が大きく震える。頭には驚いた表情の面が現れている。人形のような雰囲気は秋の空へと飛び上がっていってしまったようだった。

「な、なんでここに?」

 暴れる心臓をなだめるように胸を押さえながら振り返ったこころの視線の先には、閉ざされた第三の目を持つ少女、古明地こいしが立っていた。何かするつもりなのか、もしくはこころの反応が面白かったのか、笑みの混じったからかうような表情を浮かべている。

「真剣そうにしてるから、ついつい声をかけてみようって思っちゃって。わかりやすい反応してくれてありがとう」

 まるで、隙を見せているのがいれば驚かせるのが当然とでも言うかのような口調だ。悪戯少女めいた雰囲気からは、その認識もあながち間違いではないのかもしれないが。
 こころとこいしは、因縁浅からぬ関係にある。こころが異変を起こすようになった原因である落とし物となっていた希望の面を拾ったのがこいしなのだ。
 こいしはその面への執着を見せ、こころは当然その面を取り返そうとした。よって、二人は頻繁に決闘を行うようになり、里でもよく見られる対戦カードとなっていた。
 しかし、新しい希望の面を手に入れ、それに取り込まれてしまわないようにと活動を始めたこころには必要のない物となった。更には、こころがそうした活動を進めるうちに、古い希望の面はその力を失っていき、ついにはただの面となってしまっていた。
 それでも、異変が落ち着いてしばらくしたときに、古い面は返してもらっていた。ぞんざいに扱われているのを知って、そのことを責め立てると、けろりとした様子で返すと言ってきたのだ。随分とあっさりしたものだった。
 そしてそれ以来、頻繁とまではいかないものの、こころは度々こいしに絡まれている。その理由はわからない。単なる気まぐれなのだろうと思うことにしている。

「からかうならもっと面白いのがいると思う。私はこの通り表情が動かないし」

 こころは困った表情を浮かべる面の下にある無表情を指さす。何をされても変化しないその表情は確かに面白味に欠けるだろう。
 しかし、悪戯に対する反応というのは表情だけで楽しむものでもない。

「でも、それ以外の反応はすっごく正直だから、十分からかいがいはあるよ」
「だからって、遊び道具にしないでほしい」

 こころは不満そうな表情の面をつけてそう訴えるが、こいしは笑って真面目に取り合おうとしない。聞き入れるつもりは一切ないということだろう。
 何を言っても無駄だと判断したこころはため息を吐きながら、花に触れていた少女の方へと視線を戻す。

「わっ」

 しかし、目の前に赤い瞳があるのに気が付いて身体を仰け反らせる。こいしが小さく笑い声を上げながら、こころの身体を支えている。それがなければ、地面に頭をぶつけていたかもしれない。

「何の害もないから放っといてあげたんだけど、あんまり騒がしくされると鬱陶しいわ」

 赤い瞳がまぶたに隠される。こころは、それが笑顔のためだというのを認識し、全身から発せられる気から好意的なものではないというのを理解する。
 対応を誤ればここから追い出される。それこそ、暴虐的な手段を用いてでも。

「ご、ごめんなさいっ。えっと、静かにしてるので、あなたの感情と表情を観察させてください」

 こころは慌てて頭を下げて謝る。完全に少女の放つ気に圧倒されてしまっている。
 こいしはそんな二人のやり取り、特にこころの反応を面白そうに眺めているだけだ。こころ以外と関わるつもりはないようである。

「ふぅん? 観察してるだけでいいの? 感情も表情も学ぶのに必要なのは、観察じゃなくて実践よ。というわけで、そろそろ開花しそうなこの子たちの世話を手伝いなさい」

 こころは少女の有無を言わせない言葉に不意をつかれてきょとんとする。けど、すぐさま少女の放つ気によってそれが意味することを悟り、慌てて何度も頷く。頭の面は怯えている。

「あ、私は秦こころ。えっと、あなたの名前は?」

 けど、ふと自己紹介をしていないことを思い出したこころは自ら名乗った後、無防備に首を傾げる。多少危機感が薄いのは彼女の暢気さが引き起こしている弊害だろう。

「風見幽香。この幻想郷に咲く全ての花を愛するフラワーマスターよ。貴女に花の魅力をみっちり教え込んであげるから、覚悟しなさい」

 そう宣言する幽香の表情は花に触れていたときと同様、見かけ相応の少女らしいものだった。同時に周囲に振りまかれる気迫は大妖怪のものであったが。




「観察はいいの?」

 水の入った大きな桶を持って歩くこころへとこいしが話しかける。今は幽香に命じられるまま指さされた桶を持って、近くの池へと行ってきたその帰りだ。
 一見、少女の細腕には非常に辛そうな桶だが、こころは割としっかりとそれを持っている。さすが妖怪といったところだろう。しかし、腕力がある妖怪というわけでもないので、足元は少々ふらついている。

「したいのはやまやまだけど、逆らうのは怖いから」

 笑顔なのに迫力があった様子を思い出して身体をぶるりと震わせる。主導権は完全に幽香に握られてしまっている。
 こいしも幽香に手伝えと言われたのだが、のらりくらりとやりかわしてこころの賑やかし役をそのまま続けている。彼女の手綱はまずその存在を認識するところから難しい。

「意気地なし」

 からかいの色を込めることなく淡々とそう評する。

「で、でも、幽香さんの表情を見て同じことをしてれば、同じような感情を抱いてその表情を浮かべる糸口になるかも、って」
「そうやって、自分自身を納得させて逃げるんだ」
「うぐ……」

 逆らうのが怖いなどと言っている時点で、自らの意思が弱いのは明白なのだ。だから、指摘されてしまうと言葉に詰まることしかできない。

「ま、でも、自分以外の世話をするっていうのは、感情に働きかける部分は大きいだろうね。結果をその場で得られるなんてことは滅多にないけど」
「……私をけなすようなことを言う必要性は?」
「情けないっていうのは事実でしょ?」

 不満そうな面を付けているこころに向けて、こいしは首を傾げる。仕草自体はあどけないが、一連の言葉に容赦はない。

「……だって、あの気迫には勝てそうにもないし」
「私は付喪神程度に負けるほど柔じゃないわよ。ほらほら、水を待ってる子たちがいるんだからきりきり働きなさい」
「はいっ!」

 こころは幽香の厳しい声を聞いて、慌てて花の傍へと駆け寄る。こいしと話ながら歩いているうちに、花畑の近くに戻ってきていたようだ。危うい足取りだが、転びそうになったりしないくらいに平衡感覚は優れている。
 桶を地面の上に降ろすと、幽香が使っていたのとは別の如雨露を手に取ってそれに水を入れる。そして、花の植えられているところへと近寄ると、あらかじめ幽香に教えられていたとおりに、そっと葉を押し上げながら直接土の上へと水を撒き始める。
 幽香はちらりとこころの様子を見やり真面目に作業をしていることを確認した後、自らの作業へと戻る。今の彼女がしているのは、元気のない花を探し出し、少しの手助けをしてやることだ。
 こころは別の花の前へと移動する間、幽香の表情を観察する。そこに、自分に向けられていた威圧感といったものは少しも見られない。穏やかな笑みを浮かべて、まるで我が子にそうするように一輪一輪を大切に丁寧に調べている。
 そこにあるのは、紛れもない花への愛情だ。自分は厳しく当たられているが、それでも自分も花を大切にしようという気持ちを抱く。自分もそういう表情を浮かべたいという願望からというのもあるし、花の世話をするのもなかなか楽しいと思えるようになってきているのもある。
 頭に付いているのはたおやかな微笑を浮かべた女性の面だ。

「ねえ、こいしも一緒に作業しない?」

 その気持ちを誰かと共有したいと思ったこころは、傍をふらふらしているだけのこいしを誘ってみる。

「私は見てるだけで十分」
「そう?」
「そ」

 こころは残念がるような表情の面を付けてじーっとこいしの顔を見つめていたが、やりたくないなら無理に誘わなくてもいいかと判断して水やりを再開する。
 幽香はそんな二人のやり取りを興味なさげにちらりと窺っていた。




 夕暮れ時。
 明日も天気が良くなることを人々に教えるように、世界は茜色に染まっている。
 一人でいたときのこころは、この風景に対してなんら思うところもなかったが、色々な人と関わるようになってからは、ほんの少しの寂しさと多くの期待を抱くようになっていた。

「お疲れ様。今日はこのぐらいで許してあげる。明日もちゃんと来るのよ」
「はい」

 こころは幽香の言葉にこくりと頷く。彼女の無表情な顔には汗が浮かんでいるのが見える。その顔を彩るように、面は満足げな表情を浮かべている。
 彼女は初めての花の手入れを楽しんでいた。幽香に脅されていたという事実は、気がつけばどうでもいいこととなっていた。
 幽香はそんな彼女の様子を見て、何やら一人頷いている。その意味がわからないこころは首を傾げることしかできない。

「なんでもないわ。じゃあ、またね」
「はい、また」

 幽香は日傘を持っていない方の手をひらひらと振りながら立ち去っていく。こころも手を振り返しながら、その背中を見送る。

「ふぅ……」

 こころは幽香の姿が見えなくなったところで、大きくため息を吐いた。それと同時に、全身から力が抜ける。少しばかり背が縮んだように見えるのは、伸びきっていた背筋が少し曲げられたからだろう。

「何? さっきまで楽しそうにしてたのは演技だったの? そんな器用なことできるんだ?」

 手を土で汚したこいしが揶揄するような口調でこころへと話しかける。幽香にはほとんど意識にも入れられていなかった彼女だが、こころの姿に感化されたのかいつの間にやら雑草をむしっていたのだ。

「楽しかったのは本当。でも、幽香さんが離れた途端、急に疲れが出てきて……」

 幽香から常に放たれていた大妖怪独特の凄みは、じわじわとだがこころの精神へと疲労を与えていた。それが、緊張が解れることで表に出てしまったというわけだ。
 人前に立つのには慣れているが、間近で放たれる強者の威圧というのはそれとはまた別のものだ。

「この小心者め」
「いやえっと、幽香さんには悪いかなー、と思うんだけど、身体の方が勝手に」
「ふぅん、小心者ってのは否定しないんだ。後、そんなの気にするだけ無駄だと思うけどね。あれは、わかってる上でやってるって態度だったから」
「そうなの?」

 驚いた表情の面を付けて首を傾げる。こころの脳裏に焼き付いているのは、花のことに本気になる幽香の姿だけで、そうした策略を仕掛けてくるような印象はない。
 幽香のあの態度は、自分の好きなものを他の人にも好きになって欲しいといったものだと感じていた。

「信じる信じないは勝手だけど。じゃ、私は帰る」
「うん、ばいばい」

 こころはふわふわとした足取りで立ち去っていくこいしへと小さく手を振る。
 そして、背中が小さくなったところで、彼女も自らが厄介になっている家へと足を向けるのだった。





 翌日。
 こころは幽香に言われたとおりに花畑へと向かっていた。昨日はいくらか咲いていたので、今日はもっと咲いてるかなー、と暢気に考えながら。
 幽香には少々苦手意識を抱いてはいるが、花の世話をすること自体には好印象を抱いている。今まで誰かに助けられてばかりいたので、自分も何かをしたいという気持ちが強まっているのだ。

「偉い偉い、今日もちゃんと来たわね。この子たちが綺麗に咲くことができるようにちゃんとしてあげるのよ」
「はい」

 前日よりも花を付けたものがいくらか増えた花畑で、笑顔を浮かべた幽香に出迎えられる。先に作業を始めていたようで、手には如雨露が握られている。
 こいしに言われたことが少々引っかかるものの、言葉通りのものは感じられない。だから、こいしのちょっとした戯れ言だったのだろうかといった認識に落ち着く。少し怖いけど、根はいい人といった印象だ。

「じゃあ、今日も水やりをお願いするわね」
「はい」

 楽しげな表情の面を付けて頷くと、道具の置かれた一角へと小走りに寄っていくのだった。




「幽香さんは、どうして花が好きなんですか?」

 開花を目前に控えた秋桜たちに水をやりながらそう聞く。昨日はこうして雑談を振る余裕はなかったのだが、昨日と今日とですっかり慣れてしまっていた。割合神経は図太い方なのである。

「これといった理由はないわよ。姿が可憐だから、手が掛かるのが可愛いと思えるから、花を咲かせ自らの姿を誇るためだけに生きている姿が素敵だからとか色々と言い様はあるけど、どれも単なる後付けでしかない。私は花を愛するために生まれた存在。それだけで、十分ではないかしら?」
「はい、そうかもしれませんね」

 こころはその言葉に感銘を受けて、一度だけ大きく頷く。

「私はこうしてこの子たちの世話をしていれば満たされる。それによって、この子たちも綺麗に咲き誇ることができる。そして、それを見た私はその姿を見せてくれたことに喜んで、もっと頑張ることができる。決して私が手をかけなければいけないほど弱くはないんだけれど、そうした共生が私たちの繋がりなのよ」

 幽香は柔らかな手つきで、秋桜の葉を撫でる。彼女の表情はとても優しげでどこか儚げ。ひっそりと咲く花のような笑みに、こころは観察することも忘れてしばし見惚れてしまう。

「手が止まってるわよ」
「あ……、は、はいっ」

 慌てて返事をして、作業へと戻る。
 幽香はそんなこころの様子をおかしそうに、けれど同時にどこか満足げな様子で見ているのだった。





 そして、更に翌日。こころは今日もまた花畑へと向かっていた。昨日もそうだったが、昨日の別れ際にちゃんと来るようにと言われていた。いつ一面の秋桜を見られるかわからないので、断る理由はなかった。
 のんびりとした歩調で秋桜畑への道を進んでいく。今日もまた穏やかな天気だ。こういうときは気分が良くなってくる。

「……重い」

 しかし、不意にそんな気分の良さを引っ張るかのような重みを背中に感じて足を止めた。いつの間にか首の前に手が回されている。こういうことをするようなのに、一人だけ心当たりがあった。

「案外気づくの遅かったね」

 こころの声に応えたのは、一切悪びれた様子のない声だった。背中にかかる重さとは裏腹に、その声は非常に軽い。

「……こいし、何してるの?」
「他人の後頭部見てるだけってのもつまらないから、気づけるようにしてみた」

 こころの耳元に口を近づける。こころは耳にかかる息に少しのむずがゆさを感じる。

「そうじゃなくて、なんで私の背中に乗ってるのかってこと」
「歩くのが面倒くさいから運んでもらってる」
「運んであげるって言ってないんだけど」
「そもそも、運んでほしいって言った記憶自体がないね」

 こいしのそんなあっけらかんとした態度にこころは呆れる。そして、どうせ降りろと言っても降りないんだろうなーと考えると、「よいしょ」と一つ掛け声を出しながら、こいしをしっかりと担ぎ直して再び歩き出す。重いとは言ったものの、しっかりと担げばなんら問題がないほどに軽く、そのことに内心驚く。面にそれは現れているが、すぐに元の女性の面に戻っていた。
 こころはこいしのことを少々面倒くさい不思議な存在だとは思っているが、決して嫌ってはいない。むしろ、自分とは違って表情豊かなくせに、感情を持っていないというその在り方に興味を持っているくらいだ。ただ、関わり方がわからないので、自分から積極的に関わろうとはしていないが。

「ちょろいね、こころは」
「いや、そんなことはない、はず……」

 こころは足の動きを意識せず緩めながらそう言う。彼女に多少の自覚はあるが、素直に認めようという気にはなっていない。
 あの夏の異変の時も、切羽詰まった状況だったとはいえ、人に言われるがままの行動を繰り返して迷走していた。盲目的に信じているとまではいかないものの、その身の軽さは危うさをはらんでいる。

「いやいや、ちょろいちょろい。だから、その隙を付け入られないように気を付けた方がいいよ。他の人の言うがままになっちゃってたら、私が利用できなくなっちゃうから」
「……こいしは、私のこと気遣ってくれてるの?」

 それが心配のための言葉だとすれば、あまりにもひねくれたものだが、警告はしっかりと入っているので、それ以外だとも思いがたい。こういうのもちょろいと言われる理由なのかなーと思ったりもするが、あまり改める気にはならない。

「そんな訳ないじゃん。ほらほら、足が止まってる。早く行かないと、あの短気そうな花の妖怪を待たせることになっちゃうんじゃない?」
「あ、うん」

 こころは誤魔化されているというのを感じ取りながらも、それ以上は追求しない。どうせこれ以上追求したところで、彼女の話力ではどうしようもない。
 だから彼女のことも、これからのんびりと知っていけばいいのだ。機会も時間もたくさんあるのだから。




 こいしに急かされるまま足を踏み入れた秋桜畑は、その様相を一変させていた。
 先日まではちらほらと花を咲かせているだけで、どこか地味な印象だったが、今日はほとんどの花が自らの姿を周囲に見せつけるよう咲き誇っている。涼やかな秋の風に揺られて、全ての花たちが踊っている。
 こころはその光景に目を奪われていた。呆然とその場に立ち尽くし、自分が世話をしていた花たちに魅了されている。心も奪われてしまう。
 こいしはこころの腕から力が抜けると同時に、地面の上へと降り立つ。そして、茫然自失としているこころの背中を押して、色彩豊かな畑との距離を詰めさせる。こころの鼻に、秋桜の甘い香りが触れる。

「こういう花畑を見るのは初めて?」

 こいしがこころの背中へと寄りかかりながら囁きかける。意識を半ば奪われているこころには、その声がまるで託宣のように聞こえてくる。

「……ううん、何度も見たことある。でも、ここまで何も言えなくなるのは初めてかも」

 答える声は陶酔しきったものとなっていた。面もまた力の抜けた表情の物となっている。自分自身の感情を育みつつある彼女の感性は、子供のように事物を針小棒大に受け取る。だから、感情の処理が追いつきにくくもなっている。
 こころはしばしの間、秋桜たちが生を謳歌する空間のただ中で意識を漂わせる。そして、感情が少し落ち着いてきて周りを見渡す余裕が出てきたところで、首を左右に動かして、自らを囲う花々へと視線を向ける。頭の面は嬉しそうにしている。

「少しの間だったけれど、自分が世話をした花が咲いているという光景はどうかしら?」

 こころが抱いている感情が出てくるのを待っていたかのようなタイミングで、日傘を広げた幽香が現れる。今日は圧倒的強者としての威圧はなく、代わりに物語や絵画の中の人物のような幽玄な雰囲気を纏っている。

「ん、嬉しい」

 こころは少しぼんやりとしたまま答える。
 そんなこころへと、こいしは腕を回して抱きつく。なんだろうかと内心首を傾げるとともに、こころの意識の焦点が花から遠ざかる。

「なら、その感情のために貴女の一生を花たちに捧げてみようという気はないかしら? 心配せずとも、私がちゃんと手助けしてあげるわよ」

 幽香は誘うように笑みを浮かべている。こころはそこに意図的な物を感じ取るが、漠然としているせいでその内容は読み取れない。しかし、何にせよ彼女は自分の言いたいことを言うだけだ。

「時々手伝うくらいならいいですけど、一生を尽くすつもりはないです」
「どうしても?」
「はい」
「それは残念ね。まあ、気が変わったらまた声をかけてちょうだい。私はいつでも歓迎するから」

 あっさりとこころが首を縦に振ったのを見て、幽香はさして残念そうではない声色でそう言う。その態度を見て、こころは若干の警戒を抱く。何を気を付ければいいのかはわからないままに。
 しかし、幽香が矛先を向けたのはこいしの方だった。視線には獲物を射殺すような鋭さが込められている。

「それにしても、最善のタイミングを奪い取るなんて無粋なことをしてくれるわね」
「私はたまたま一緒にいただけ。想定外に対処できない計画を作ったあなたが悪いのに、八つ当たりしないでほしい」

 こころの背中に抱きついたままこいしはそう言い返す。単に動くのが面倒なのか、こころを盾としているのかは判然としない。
 二人に挟まれているこころは、おろおろと成り行きを見守っていることしかできない。もし二人がぶつかり合うようなことがあったとき、最も被害を受けるのは彼女だろう。

「八つ当たり、というのは確かにそうね。あなたの言うとおり、私の見通しが甘かったわ」

 幽香はこいしをじっと見つめる。まるで肉食獣が獲物を狙い澄ましているかのような視線にこころがたじろぐ。この状況である程度冷静でいられるだけでも、褒められるべきことなのかもしれないが。

「ま、花たちが自らを誇っているときに争う以上の無粋はないわね。しょうがない、今日のところはここで手を引いておくわ」

 そう言うなり、幽香は二人から興味を失ったように花畑の方へと視線を向け、喜ばしげに表情を綻ばせる。こころを捕らえようとしていた甘い毒を放つような雰囲気も、こいしから獲物を取り返そうとする獣のような殺意も完全に消え去っている。こころは張りつめていた意識が緩むのを感じると同時に、安堵のため息をつく。
 そして、ようやく幽香に誘導されかかっていたことに気付く。事前にこいしのおかげで意識を幽香の方へとはっきり向けることができていたが、一人で来ていたなら雰囲気に飲まれて、幽香の誘いに頷いてしまっていたかもしれない。

「……」

 こころは振り返ってこいしの表情を見つめようとする。しかし、こいしは背中から離れて、ふらふらと花の方へと近寄っていってしまう。
 それでもこいしの心情を推し量ってみようとするが、花の前でしゃがみ、花を撫でる姿からは何も読み取ることはできない。正面に回ったところで、また逃げられてしまうだけだろう。
 だから、その代わりに一面の花畑とご満悦そうな笑みを浮かべた幽香の顔を眺めていることにするのだった。





「こいし、今日はありがとう」

 こころは花畑からの帰り道で、斜め後ろを歩くこいしへとそう言った。何か意図があったのか、それとも単に気まぐれからのものだったのかはわからないが、こころはあの場にこいしがいてくれたことに感謝している。今更のように礼を言うのは、幽香の前では言いづらかったからだ。

「何のこと?」

 覚えていないのか、それとも誤魔化そうとしているのか首を傾げる。声からも表情からも、どちらなのかを読み取ることはできない。

「私が幽香さんに誘導させられそうになってたのを止めてくれたこと」
「そういうところがちょろいって言ってるの。私は最近お気に入りの玩具を奪われたくなかっただけ」

 こいしはそう言いながら早足でこころを追い抜かし、眼前に立ちはだかる。そして、こころとの距離を詰めると、両手を伸ばしこころの両目尻を下げる。それは、幽香が花を見ているときに浮かべていた表情だ。こころは遊ばれていると思うだけで、それに気がついてはいないが。

「いきなり何するの」
「玩具で遊ぶのは当然でしょ? 変な顔ー」

 そう言いながら両目尻をこねくり回し始める。さすがにそれを気にせず放っておくことはできず、こころは首を左右に振ってその手を拒絶する。頭には怒り顔の面がくっついている。

「他人の顔で遊ばないで」
「玩具のくせに生意気な。ま、いいや。じゃあ、私はこの辺で」

 そう言ってこいしはこころの顔から手を離すと、ふわりと浮き上がって道から外れる。
 こころは釈然としない気持ちを抱えたまま、その後ろ姿を見送ることしかできないのだった。


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