ぼーん……、ぼーん……
振り子時計が音を響かせて、朝が来たことを告げる。
私の部屋は、地下にある。だから、こうして時計が時間を知らせてくれないと、いつ起きるべきなのか、分からなくなってしまう。
不便だけど、それなりに愛着もある部屋だから、部屋を変えよう、とは思わない。
さて、起きよう、と目を開けてみる。けど、なんだか意識が不明瞭で、視界が微かに揺れているような感じがする。
目を何度かこすってみる。でも、視界の揺れは治らない。
なんなんだろ、これ。
仕方ないから、視界の揺れはそのままにして、ベッドから起き上がる。けど、そこでも違和感を覚える。
身体が、すごく重いのだ。立てれない、ってほどじゃないけど、ずっと立っているのは辛い、そんな感じ。
一歩、足を進めてみる。思ったように力が入らなくて、身体がふらつく。
ふわふわとした地面の上を歩いているようだ。
……なに、これ?
今まで感じたことのない感覚に、恐ろしくなってくる。早く、誰かのいる場所に行きたい、と思う。このままだと、不安に心が埋め尽くされてしまいそうだ。
私は急いで衣装棚へと近づく。足と同じように、力の入りにくい手に力を込めながら着替えを始める。
……力の入らない手も、怖かった。
◆
着替えを済ませて、私は重い体を引きずるようにして、一階へ続く長い階段を上がっていく。
一歩、進むたびに、身体の力が抜けていくみたいで、その感覚が嫌だった。
……本当に怖くて、泣きそうだった。
でも、泣き出したら、この場から一歩も動けなくなってしまいそうだから、我慢した。
こんな場所で立ち止まって、一人でいるなんて、嫌だ……っ!
私は、一段ずつ階段を上っていく。段差が無限に続いているかのように錯覚する。
でも、そんなはずはない。終わりは、あるはずだ。
辛いけど、一人でいるのも嫌だから、頑張ろう。そう、思って、足に力を入れる。
………………
無心になって階段を上がっていると、ようやく、ドアノブに手が届いた。私は、ノブを捻って、木製の扉を開ける。
「あ、フランドールお嬢様、おはようございます」
扉の向こうには、宙に浮いたまま、こっちに向かって頭を下げる、メイド妖精がいた。
あ、そっか。歩くのが辛いなら、飛べばよかったんだ……。
本当に、どうしたんだろうか、今日の私は。頭がすごくぼんやりして、上手くものが考えられない。
「……って、フランドールお嬢様っ! 顔が真っ赤ですよ!」
顔を上げたメイド妖精が、慌てたようにそう言う。その言葉に、私は反射的に自分の頬に、触れる。けど、顔の色がどうなっているかなんていうのは、わからなかった。
「メイド長に知らせてきますので、ちょっと待っててくださいね!」
「あ……」
一人にしないで、と言おうとしたけど、それよりも早くメイド妖精は、廊下の向こう側へと飛んで行ってしまった。
……待ってれば、咲夜が、来るんだよね。
置いていかれただけで不安に包まれる心を、落ち着かせるように、そう思う。
……それにしても、身体に力が入らない。起きたときよりも、酷くなっているような気がする。立っているのが辛い。
それに、なんだか寒くなってきたような気がする。身体が、内側から凍ってきているような錯覚を覚える。
……怖い、怖い。
だから、私は自分の身体を抱きしめるようにして、その場にうずくまる。
こうすれば、少しでも寒さを誤魔化せるような気がした。……恐怖に、耐えられる様な気がした。
自分を抱く腕に力を込めすぎて、身体が震え始める。それが、怖くて、一層強く、腕に力を込める。
心が、内へ内へと向かう。駄目だ、って分かってても、どんどん奥へと行ってしまう。
だって、自分を強く抱き締めすぎて、表に出る余地がないから。
「フランお嬢様、お待たせしました」
声がした。一瞬で、心が外を向く。
顔を上げると、そこにいたのは咲夜だった。見慣れたその姿に、泣きそうなほどに安心する。
もしかしたら、目尻に一滴分の涙くらい、浮かんでいたかもしれない。
「……咲、夜?」
漏れるようにして出てきた声は、なんだかとても弱々しかった。それが、私の不安を掻き立てる。
「少し、失礼いたしますね」
そう言いながら咲夜が近づいてきて、私のおでこに触れる。
あ、冷たい……。咲夜の手、ってこんなに冷たかったっけ?
でも、なんだか安心が出来る。不思議な冷たさだ。
「ふむ……。風邪、でしょうか。でも、吸血鬼が風邪を引くなんてことは……」
「……あ」
独り言を呟いていた咲夜の手が離れた瞬間、私は、思わず声を漏らしてしまっていた。
「私だけでは、どうにも判断が出来ませんね。レミリアお嬢様をお連れしてきます」
また、一人になってしまう。この、嫌な感覚は、私一人で耐えるには、あまりにも辛すぎる。
けど、私がそう思った直後、
「えっ? 何処よ、ここは……って、フランっ? 顔が真っ赤じゃない! どうしたのよっ!」
咲夜の隣に、何の前触れもなく現れたお姉様が、私の方へと詰め寄ってくる。
「え、と、お姉、様?」
私も私で、予想外のことに驚いて、はっきりとした言葉を紡げないでいる。まさか、咲夜が、お姉様に何も言わずに、ここまで連れてくるとは思っていなかった。
「すごい熱じゃない! どうして、出てきてるのよ!」
お姉様も、何の脈絡もなく私のおでこに触れてきた。何かの、おまじないなんだろうか、と思う。だけど、お姉様が触れてくれる安心感から、なんでもいいか、と思ってしまう。
「レミリアお嬢様。吸血鬼も風邪を引くものなんでしょうか?」
「フランっ、気分は悪くない? 頭が痛かったりしない? 喉は痛くない?」
咲夜がお姉様に話しかけてるのに、お姉様は私の方ばっかりに集中していて、聞いていないみたいだった。
咲夜は、諦めたように何も言わずに立っている。私のために、咲夜はお姉様をここまで連れてきたんだろうけど、それが裏目に出てしまったようだ。
「フランっ!」
「えっ? あっ、うん」
お姉様が、大きな声で話しかけてきて、驚いてしまう。そのせいで、私の返事はひどく曖昧なものになる。
「……フラン、大丈夫なの?」
ちょっと落ち着いたお姉様が、私の顔をじっと覗きこんでくる。眉が下がっていて、今にも泣きそうな表情だな、なんて思った。お姉様が泣いてる所なんて、一回も見たことがないのに。
お姉様の顔は、今まで見たことがないくらいに弱々しくて、見ているこっちまで不安になってくる。
もともとあった不安と混ざり合って、私は不安を抱えきれなくなる。
だから、私は、目の前にいるお姉様に、思いっきり抱き付く。不安を、恐怖を誤魔化すように。
けど、お姉様に抱き付く腕に、予想してたよりも力が入らなかった。その事実に、不安も恐怖も大きくなってしまう。
「フラン……?」
「……大丈夫、じゃない」
どうしようもないくらいの不安に苛まれて、恐怖で身体を震わせる。
「こんな、感覚、味わったことないから、怖くて、怖くて、仕方ない……っ」
お姉様にしがみついて、服の裾を掴む。後で、皺になるだろうけど、そんなことを気にしている余裕なんて、今の私にはない……っ!
「……フラン、大丈夫、落ち着いて」
「あ……」
お姉様が、私を抱き返してくれる。それから、ゆっくりと、頭を撫でてくれる。それだけで、全身から緊張が抜けていって、安心することが出来る。
「ごめんなさい。私、少し、取り乱しすぎてたみたいだわ。……一番、不安なのは、貴女なのよね」
ぎゅーっ、と私を抱く腕に力を込めてくれる。それに対して、私はお姉様の優しい声が、温もりが近くにあることに安心して、お姉様に抱き付く腕から、力が抜けていく。
あったかい……。
「大丈夫。貴女の傍には、咲夜や、パチェ、それから、私がいるわ。だから、安心してちょうだい」
お姉様の、優しくて、柔らかい声が聞こえてくる。
私は、知ってる。この声は、私の為にしか出してくれない、ってことを。だから、だから、私はこの声が大好きで、聞いていると、とっても安心することが出来る。
「……うん」
全身から力が抜ける。今の私は、お姉様に支えてもらって、立っている。
寒さも、身体の震えも引いてくる。意識は不明瞭だけど、お姉様にこうして支えてもらっている限り、不安はない。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
咲夜が話しかけてくる。そういえば、いるのを忘れてしまっていた。
ごめん、咲夜……。
「何かしら?」
お姉様が、私を抱きしめたまま、咲夜の方へと顔を向ける。私も、そのまま咲夜の顔を見る。
「お一つ、お聞きしたいのですが、吸血鬼も風邪を引いたりするんでしょうか」
「さあ? 知らないわ。でも、私たちは純粋な吸血鬼じゃないから、引くときは引くわよ」
あ……、これが、風邪なんだ。
本で読んだことはあるけど、こんなに不安になるものだったんだ。
「そうだったんですか?」
「ええ。まあ、今はどうでもいいことね」
そう言うと、お姉様は、もう一度、私の方へと顔を向けてくる。咲夜が、それ以上言及してくるような気配はない。
「フラン、お腹は空いてないかしら?」
柔らかい微笑みを浮かべてそう聞いてくる。
そういえば、私、起きたばっかりで何にも食べてないんだよね。
「うん、ちょっとだけ」
でも、いつもよりは、空いていないような気がした。
「そう、わかったわ。咲夜、私はフランをベッドに寝かせるから、その間に、軽い朝食の用意をしてちょうだい」
「かしこまりました」
礼をすると、咲夜はすぐに姿を消してしまった。
「さ、フラン、部屋に戻りましょ」
「わ……」
そう言いながら、お姉様が私を抱きかかえる。朝、立ち上がったときとは違う浮遊感が身体を襲う。恐怖は、ない。
お姫様抱っこ、なんてされたのは初めてだから、なんだか恥ずかしい。
でも、おんぶされたりするよりはいいかもしれない。お姉様の顔が常に見えて、安心できるから。
お姉様が地下への階段を下り始める。身体全体に、振動が伝わってくるから、きっとそう。
「……そういえば、フラン。どんなふうに調子が悪いのか、聞いてなかったわね」
私の顔を覗きこみながら聞いてくる。その間も、危なげなく階段を下っていく。
「うん。なんだか、身体に力が入らなくて、意識がぼんやりして、寒気が、するんだ。……ねえ、これが風邪の症状、なんだよね」
こんな感覚は初めてだから、すごく、不安になる。お姉様の腕を掴んだ手に、力がこもる。
「ええ、そうよ」
「お姉様も、風邪になったこと、あるの?」
「一度だけあるわ。小さい時、寒い日の夜に月を眺めていた、次の日に、ね」
そう言うお姉様は、懐かしそうな表情を浮かべていた。
私は、お姉様のそんな表情を見るとき、いつも羨望を抱いていた。だって、私には懐かしむようなことなんて、なんにもないから。
「あの頃は、私もまだまだ弱かったからねぇ」
「……じゃあ、私は、弱いのかな」
ぽつり、と呟くようにそんな言葉を零す。
小さな、小さな声だったけど、この体勢だから、お姉様には届いていた。
「まあ、そうね。でも、仕方ないわ。貴女には、強くなる機会がなかったのだから。体も、そして、心も」
ずっと、ずーっと、広いけど狭い部屋に閉じこもっていた私。だから、私は強くない。むしろ、弱くて当たり前。
私は、ようやく、自分自身の力と向き合えるようになったくらいの、弱い小心者なのだ。
「……でも、貴女は、これからどんどん強くなっていけるわ。外に出れば、障害もあるけど、得る物もあるのよ。まあ、その風邪は、最初の障害だった、とでも思っておけばいいんじゃないかしら」
お姉様が、私に微笑みかけてくれる。最初に、私を見たときに見せてた不安そうな表情はどこにもない。
……これが、お姉様の強さ、なのかな。
すぐに、自身の気持ちを変えることが出来る。うん、立派な強さだ。私には、そんなこと出来っこない。
と、不意に揺れが小さくなる。階段を降りきったんだ、と思う。
そういえば、扉はちゃんと閉めたかな?
「フラン、駄目じゃない。部屋の扉は閉めておかないと」
お姉様の顔の後ろに映る景色が、見慣れた私の部屋に変わった途端に、お姉様がそんな風に言った。どうやら、閉めてなかったみたいだ。
「だって、すごく不安で、すぐに誰かに会いたかったから……」
「別に、怒るつもりなんてないわ。だから、そんなに身構えないでちょうだい」
そう言って、お姉様が私のおでこに口付けをしながら、ベッドの上に私を降ろす。
おやすみなさい、を言うときには、お姉様はいつもこうして、おでこに口付けしてくれる。そして、すぐに離れていくはずなんだけど、少し顔を離したところ止まる。お姉様が浮かべるのは少し困ったような表情。
どうしたんだろうか、と、私は内心で首を傾げてしまう。
「フラン、……手を離してくれるかしら?」
「あ……、ご、ごめんなさい……っ」
お姉様の腕を掴んでいたことをすっかり忘れていた。私は、咄嗟にその腕を放してしまう。
それと同時に、離れて行くお姉様。
「心配しなくても、大丈夫よ。貴女のパジャマを取りに行くだけだから。その服では、寝にくいでしょう? 今日、着ていたのは、あまり温かそうじゃないし」
また、私の方へと顔を近づけて、頭を撫でながら、微笑みかけてくれる。そんなに、私は不安そうな表情を浮かべてたんだろうか。
だとすると、ちょっと恥ずかしい。今更かもしれないけど、自分の弱々しい表情、というのはあまり誰かに見せたいものではない。
「さて、フランのパジャマは何処かしらね」
お姉様が、衣装棚を漁る音が聞こえてくる。
私は、それを聞きながら、ぼんやりと天井を見つめる。身体に力が入らなくて、意識はいまいち明瞭としない。
……お姉様が近くにいる。だから、不安にはならない。
でも、早く戻ってきて欲しい、と思う。暖かさが、足りないから。
「……温かそうなのは、これね」
お姉様が戻ってくるのが足音でわかる。
たったった、と軽いけど、急いでるってことが分かるそんな足音だ。
「さあ、フラン。動くのも辛いでしょうから、私が着替えさせてあげるわ」
「え……?」
そう言うと同時に、お姉様が私の服のボタンに手を掛けようとする。
「お、お姉様、待ってっ。自分で、着替えるからっ」
私はとっさに身体をよじって、お姉様の手から逃げていた。
確認も取らずに、脱がされかけるとは思ってもなかった。
「大丈夫? 辛いんじゃないかしら」
「だ、大丈夫……っ。着替えるくらいは出来る、から」
誰かに、服を脱がされる、って言うのは恥ずかしすぎる。
「そう? まあ、フランがそう言うならいいけど」
お姉様が私に赤と青と白のチェックのパジャマを渡してくれる。そんなことに、ほっ、と一息ついてしまう。
「でも、一人で着替えるのが辛かったらちゃんと言うのよ? 手伝ってあげるから」
「う、うん……」
手伝ってもらう気はなかったけど、ここで拒否するのも悪い気がして、私は頷いてしまう。
お姉様は、椅子を私が横になっているベッドの隣に持ってきて、座る。
私はそれを確認してから、身体を起こす。一度、横になって力を抜いたせいか、起き上がるのさえも、億劫になっていた。
それでも、起き上がって、私は着替えを始める、まずは、頭で髪を結っていた紅いリボンを外す。次に、胸元の黄色いリボンを外して、一番上のボタンを外そう……、とした所で、私の手が止まる。
じっと、こちらを見る、お姉様の視線が気になるから。
「……お姉様」
「ん? 手伝って欲しいのかしら?」
ずい、と身体を近づけてくる。反射的に、布団で身体を隠してしまう。
「そ、そうじゃなくて、恥ずかしいから、向こうを向いてて欲しいなぁ、って……」
「そんなことが恥ずかしいの? まだまだ、子供ね、フラン」
「子供の方が、恥ずかしがらないと思うんだけど……」
時々、お姉様の価値観が分からなくなる。それとも、私の方がおかしいのかなぁ?
自分が世間知らずだ、っていう自覚があるから、自分の常識に自信が持てない。
「まあ、フランが嫌だ、って言うなら見ないようにするわ」
そう言うと、一回、椅子から立ち上がって、私に背を向けるように座り直す。
「ありがと、お姉様」
「これくらい、感謝されることでも何でもないわ。フランが頼んでくれれば、このままでも着替えを手伝ってあげるわよ」
「えっと、……遠慮しとくよ」
背中を向けられたまま、迫られても怖いし。
◆
「お嬢様、朝食の用意が出来ましたわ」
私が着替え終わって、お腹の辺りまでを、布団の中に入れたところで、咲夜が部屋に入ってきた。その手には、湯気を立てる料理が乗ったお盆がある。私の位置からだと、料理の姿を確認することは出来ない。
「ありがとう、咲夜。……って、なんだか見慣れない料理ね」
座ったままのお姉様が、咲夜からお盆を受け取って、そんな感想を零す。気になって、少し身体を乗り出してみると、お姉様が、私に見えるように、お盆をこちらに向けてくれた。
それは、ご飯をスープの中に沈めたようなものだった。タマゴとか、ニンジンとか、タマネギとかが一緒に浮いている。
「雑炊、というものですわ。身体の芯から温まりますので、今のフランお嬢様には、ちょうどいいかと思いまして。熱いのでお気をつけくださいね」
「大丈夫よ。私が適度に冷ましてあげるから」
あれ? お姉様が、私に食べさせてくれる、ってことが勝手に決まってる?
「そうですか、わかりました。では、私は仕事に戻りますので、何かありましたら、お呼びください」
そう言って、咲夜が姿を消す。そして、再び、私たちは二人切りになる。
「さてと、咲夜の作った雑炊とやらを食べましょうか」
お姉様がスプーンで一掬いすると、息を吹きかけて冷まそうとする。
やっぱり、お姉様が私に食べさせてくれることは、決定事項となっているようだ。
「さ、フラン、口を開けてちょうだい」
そして、スプーンを私の方へと、差し出す。
これはこれで、恥ずかしい。でも、着替えさせられる、っていうよりは恥ずかしくないし、なにより、何度も何度もお姉様の好意を断るのも悪い。
だから、私は恥ずかしさを感じながらも、お姉様の差し出してくれたスプーンを銜えた。恥ずかしさで、思わず目を瞑ってしまう。
口の中に熱さが広がってく。それと同時に、お姉様が、スプーンを引き抜く。
「どう、フラン? 美味しいかしら?」
お姉様の言葉にこくこくこくっ、と頷く。ほんとは、恥ずかしすぎて味もよく分からなかった。
「ふふ、そう、よかったわ。咲夜に伝えておくわね」
そう言いながら、お姉様は二杯目を掬っていた。やっぱり、一口じゃ、終わらないよね。
私が慣れるのと、食べ終わるのとどっちが先かな?
そう思いながら、私は一口目の雑炊を飲み込んだのだった。
◆
「ご、ごちそう、さま……」
羞恥心に耐えながら、ようやく食べ終わる。
最後のほうは、何とか味が分かるくらいには慣れてた。けど、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしくて、あんまり味わうことが出来なかった。
食べてる途中、優しい味付けで、食べやすいように、って工夫してくれてるんだ、ってことがよくわかった。だからこそ、味合わずに食べたことが非常に申し訳がない。
こんなことで恥ずかしさを感じる、もしくはお姉様の申し出を断りきれない私が悪いんだろうけど。
「フラン? 調子、悪いのかしら?」
私が悩んでたのが顔に出てたのか、お姉様が心配そうに私の顔を覗きこんでくる。でも、私が悩んでる、とは思ってないみたい。
「う、ううんっ、大丈夫っ」
何だか、妙な返事となってしまった。
うぅ……、お姉様に食べさせてもらってたときの恥ずかしさが抜け切ってない……。
「なら、よかったわ……」
お姉様は、胸を撫で下ろしている。心の底から私の心配をしてくれてるってことがよくわかる。
それは、嬉しい。嬉しいんだけど、お姉様の心遣いが重たいよぅ……。
そんなことを考えていると、お姉様が私の背中へと腕を回しながら、私のおでこを開いてる方の手で押して、座った姿勢の私を横にする。そして、お姉様が、私の上に覆いかぶさるような体勢になる。
そんな体勢のまま、布団が顔以外の全部に掛かるようにしてくれる。
「フラン、寒くはないかしら?」
「……うん、大丈夫。咲夜の料理のお陰で温まってるから」
味はよく分からなかったけど、熱はちゃんと伝わったみたいで、身体の芯からぽかぽかと温かい。こうして、横になっていると、すぐに睡魔が襲ってくるくらいに心地が良い。
「ふふ、そう。でも、寒くなったりしたら、ちゃんと言うのよ? 咲夜に、新しい毛布を用意させるから」
「うん……」
じょじょに睡魔が濃くなってきて、意識が薄れてくる。今は、身体に力が入らない感覚も逆に心地良い。
それは、きっと、身体が温まって、そして、隣にお姉様がいるから。
「じゃあ、おやすみなさい、フラン」
お姉様が、私のおでこに口付けをすると、離れて行く。無意識に、手が伸びていって―――
「……あっ」
慌てて引き戻そうとした所で、お姉様にその手を握られてしまった。
突然のことに驚いて、ちょっとどきどき。お姉様の微笑みに、つい見惚れてしまう。
「私は、いなくなったりしないわ。その証として、この手は絶対に話さないように握っていてあげる。だから、安心して眠ってちょうだい」
「……ありがと、お姉様」
手から伝わってくる温もりが、内側からの温かさよりも温かくて、自然と、私の意識は落ちていった。
◆
「―――フラン……」
お姉様の声が聞こえてきた。それで、意識が覚醒したのか、それとも、聞こえてくる前から覚醒していたのかどうかはわからない。
とにかく、私は目が覚めた。
寝惚けた頭で、呼ばれたんだから返事くらいはしないと、と思いながら瞼を開けると、
「……っ!」
目の前にお姉様の顔があった。
それはもう、睫毛の一本一本が確認できるくらいに近かった。
えっ? ど、どうなってるのっ?
ほとんど反射的に、お姉様から離れようとする。でも、私の身体は動かない。身体に力が入らない、っていうのとは違う。
そして、私はようやくお姉様が私を抱き締めてるって事に気付く。しかも、片手で器用に。
もう片方はお姉様と私の間で、私の手を握り締めてくれている。寝る前にした約束を、眠っても、守ってくれてるようだ。
というか、お姉様は私を抱き締めてるだけじゃなかった。お姉様の顔や腕ばっかりに意識が集中してて、今まで気付かなかったけど、私の足はお姉様の両足に挟まれてしまっている。完全に逃げられないような状態になってる。
なんで、こんな状態になっても私は気付かなかったのっ。
そんな風に思うけど、何かが出来るわけでもない。私もお姉様も同じ吸血鬼のはずなのに、力が全然違うのだ。
……今まで、ずっと引きこもってきたのが原因なんだけど。
そんなことよりも、これから、どうしようか。
もう一度寝ようにも、間近で聞こえてくるお姉様の寝息に、どきどきしてしまって、寝ることが出来ない。
こんなに近くで、誰かが無防備な姿を晒していたことなんてないのだ。
だから、私の心は、お姉様の寝顔が間近にある、ただそれだけのことで落ち着きをなくしてしまう。
落ち着かないから、無駄な足掻きだと分かってても、身を捩じらせてしまう。ちょっとでも離れられれば、落ち着くことが出来るだろう、と思って。
そして、それが失敗だった。
私が身体を動かそうとすると、逃げようとする私を押さえ込むように、私を抱き締めるお姉様の腕に力を込める。その結果。
近いっ、お姉様の顔が近いっ。
今にも唇同士が重なってしまいそうなくらいにまで、距離が縮まってしまった。視界には、お姉様の瞼と、その周りしか見えない。もう、迂闊には動くことが出来ない。
色んな意味で、心臓がどきどきとしてきて、落ち着かない。
私を包み込むようなお姉様の体温が、心地いい。私の唇に直接吹きかかる息が、くすぐったい。そして、お姉様の鼓動までが伝わってくるような密着具合に、戸惑いを覚える。
お姉様に抱き締めらたことは何度かあるけど、ここまで近づいたのは初めてだ。
せめて、眠気がきてくれれば気を紛らわせれるのに……。
けど、そう思えばそう思うほどに、頭が冴えてきてしまう。お姉様を起こせばいいんだろうけど、小心者な私は、そんなことが出来ないでいる。お姉様に悪いかなぁ、と思って。
出来るのは、ただ、お姉様に握られてない方の手を胸の前で握って、何事もないよう祈ることだけだ。
けど、大抵こういうときに限ってばかり何かが起こるもので―――
不意に、お姉様の腕に一層力が込められる。
わ、私、なんにもしてないよっ、とうろたえるけど、それでどうにかなるわけではない。
だから、必然のようにお姉様との距離が完全に零になって、
「―――っ!」
私の唇に柔らかいものが触れた。―――唇が触れた。
誰の?
そんなの、この状況では一人しかいない。
そう、私は、お姉様とキスをしてしまったのだ。
柔らかい感触。そして、初めての行動。
そんな色々が混じって、頭は沸騰間近。風邪の熱だとかが、吹き飛んでしまいそうなくらい。
とにかく、逃げようとしてみる。けど、抱き締められてるせいで逃げることなんて出来ない。だからせめて、足をばたつかせようとするけど、当然のように動かない。
そして、最後に羽をばたばた。意味があるはずがない。
あ、そうだ。
ようやく、私は首を動かせばいいんだ、ってことに思い至る。
というわけで、どうにか脱出。視界に天井が映る。
ほっぺたにお姉様の唇が当たってるけど、これはまあ許容範囲。時々、やってくれてる。
それよりも、顔に集まった熱をどうにかしたいけど、この状況ではどうしようもない。
というか、この状態は首がかなり辛い。でも、元に戻すとお姉様の唇が待ってるしなぁ、という訳で我慢。
……なんで、お姉様は私がここまで暴れても起きないんだろ。
実は起きてるんじゃないだろうか、と思ったけど、聞こえてくるのは実に穏やかな寝息。そのことには、一安心。もし起きててこんなことしてる、っていうんなら、今度からお姉様との距離の取り方を考えないといけないから。
それにしても、お姉様はどんな夢を見てるんだろうか。こんなにも、私を強く抱き締める夢、ってどんなものなんだろうか。
いや、そもそも、夢なんか見てなくて無意識の行動なのかもしれない。それはそれで、嬉しいような恥ずかしいような。
……うぅ、そろそろ首が辛くなってきたよぅ。
でも、顔の位置を戻すっていうことも出来なくて、どうしようもない。ベッドに顔を押し付けてればよかった、と思ったけど、もう後の祭りだ。
あー、だんだん首に力が入ってこなくなるー……。
そして、ついに、頭が枕の上に落ちる。けど、私の唇に、何か柔らかい感触が触れるようなことはなかった。
どうやら、私が頭を上げている間に、お姉様が私を抱く腕から、少し力を抜いてくれたようだった。
「はあ……」
安心して、ため息が漏れてきてしまう。とは言っても、すぐにでも触れてしまいそうな距離だから、油断は出来ない。
……自分のベッドで寝るのに、なんでこんなに気苦労があるんだろ。
その原因の顔を見つめてみるけど、当然のように答えてはくれない。その代わりに、すごい心地良さそうな顔だなぁ、という思いを抱かせる。
私って、そんなに抱き心地がいいのかな、なんて考えてしまう。自分で自分を抱き締めることなんて出来ないから、確かめようなんてないけど。
と、お姉様が少し身体を捩じらせる。同時に、私も身体を硬くする。けど、結局何も起こらなかった。
というか、警戒を抱いても、逃げようとしないと意味がないよ……。そう、思うんだけど、根が臆病だからか、どうしても逃げるより先に身体が竦んでしまう。
警戒心を抱きながらも、私はお姉様の顔をじっと見つめる。それがしたい、ってわけじゃなくて、それしかすることがない。
色々とあって、睡魔は全て吹き飛ばされてしまった。お姉様から伝わってくる温もりも、眠る前には心地よかったのに、今は気恥ずかしさを覚えるものでしかなくなっている。
「……フラン……」
お姉様が、寝言で私の名前を呼ぶ。最初は、少し寝惚けてたからか何も思わなかったけど、改めて聞いてみると、くすぐったい。
寝てる間も、私のことを考えてくれてるんだなぁ、って思うと、嬉しいし、なんだか恥ずかしい。そんな想いが同居して、くすぐったさとなるのだ。
「お姉様」
何となく、呼び返してみる。
特に反応が返ってくることはなかったけど、別に良かった。返ってくるとは思ってなかったし。
ただ、私が感じたくすぐったさを行動に表すとするなら、こうすべきだと思っただけなのだ。
「あ……」
不意に、私の手を握る手に力が込められた。私の声に反応したのかどうかは、定かではない。
……眠ってても、こんな約束を守ってくれてるんだよね。
初めての感覚に不安になってた私の為、なんだろう。
だから、だからこそとっても嬉しい。
お姉様のおかげで、もう一抹の不安さえも残っていない。
それでも、私も手を握る手に力を込めてみた。
ぎゅーっ、と握ってみると、お姉様の手の温もりを強く感じる。
この温もりだけは、私をとても安心させてくれた。
だから、誰にも届かないと分かっていて、私は笑みを浮かべてみた。
◆
ぼーん……、ぼーん……
真っ暗な世界に、振り子時計の音が聞こえてくる。
瞼を開けて、真っ暗だった世界に光が灯る。
「あ、フラン、起きたわね」
真っ先に映ったのは、お姉様の顔だった。でも、私から少し離れてて、ちゃんと顔全体が視界に映っている。
でも、お互いの手は、まだちゃんと握られたままだ。温かさも、しっかりと伝わってくる。
……私はいつの間にか眠ってしまってたようだ。
でも、いつ眠ってしまったのか、まったく記憶に残っていない。お姉様の手を握って、穏やかな気持ちになってたのは、覚えてるんだけど……。
でも、そんなことよりも、だ。お姉様に聞きたいことがある。
「ねえ、お姉様。なんで、お姉様も横になってるの?」
「ん? 椅子に座って、手を握ってたら、フランの腕が冷えてしまうでしょう? だから、フランの腕を冷やさないためにも、私も布団に入らせてもらったわ。あまりにも暖かいから、一緒に眠ってしまったみたいだけれど」
私を、抱き枕代わりにしてたことは、覚えてないのかな? それとも、意図的に話そうとしてないだけ?
「でも、フラン。ほら、私、眠っている間もちゃんとフランの手を握っててあげたのよ」
そう言って、嬉しそうに笑う。
手どころか、私自身も離そうとしてなかったんだけど……。
私は、そう言い返したいんだけど、あの時のことを思い出すと、どうしても言葉にならない。
「フラン? どうかしたかしら? ……もしかして、体調が?」
「な、何でもないっ。それに、体調は、よくなってるよ……っ」
咄嗟に答えた言葉だけど、嘘はない。実際に朝よりは、意識がはっきりしてきているのだ。
力が入るかどうかは、寝起きだし、まだ起き上がってもいないから、よくわかんないんだけど。
「そう? なら、よかったわ」
お姉様が微笑む。と、思ったら、すぐに顔を少しそらした。
そして、その顔は少し赤くなっている。……心当たりがあるから、私も少し顔をそらしてしまう。
「……フラン、一つ、聞きたいことがあるんだけれど、いいかしら?」
「う、うん……」
お姉様が、そらしていた顔を、こっちに向ける。私は、相変わらず少しだけ、そらしたままだ。
やっぱり、こういうのが強さの違いなのかなぁ、なんてぼんやりと思う。
「……私、貴女のことを思いっきり抱き締めてたみたいだけど、苦しくは、なかったかしら?」
「えっ? う、うん。だ、大丈夫、だったよ……。ちょっと、目を覚ましたら、お姉様の顔が近くて、びっくり、したけど」
「それは、悪いことをしたわね。ごめんなさい」
……どうやら、お姉様は、私とキスしたのには気付いてなかったみたいだ。それが、いいことなのか、悪いことなのかはよく分からない。
そんなふうに思っていると、お姉様が、顔を近づけてきた。
唇が触れた瞬間を思い出して、身体を硬くしてしまう。けど、お姉様の唇が触れたのは、私のおでこだった。
それが分かった途端に、私の身体から一気に力が抜けた。
「? フラン、どうかしたかしら?」
私から離れたお姉様が、私の顔を覗きこんで首を傾げる。
「な、なんでも、ない……っ」
私は、お姉様から顔をそらしながら、首を左右に小刻みに揺らした。動揺しすぎて、なんだか挙動不審だ。
……これから、お姉様がおでこにキスしようとしてくれるたびに、私、こんな反応をするのかなぁ。
顔が微かに火照っているのを自覚しながら、そんなことを思う。
……そのときは、お姉様の手でも握って落ち着こうかな。
―――私は、何よりも温かいものを放すまい、と、ぎゅっ、と手に力を込めた。
Fin
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