満月の浮かぶ夜の道。
その銀の輝きに照らされる小さな人影が二つ。
「ねえ、貴女は食べてもいい人間?」
黒髪の幼い少女の前に、同じくらいの年齢の金髪の少女が立ち塞がっている。
黒髪の少女は、完全に恐怖に支配されてしまっているようで、目を見開いたまま動かない。けれど、その腕に抱く竹の筒はよほど大切な物なのか、怯えながらも奪われまい、と力を込めているのが分かる。
対して、金髪の少女――宵闇の妖怪ルーミアは、そんな少女の反応が面白いのか、白い牙を覗かせ笑っている。
捕食者と被捕食者の関係が出来上がっている。
今では珍しい妖怪が人間を襲う光景。けど、珍しいというだけで、決してないわけではない。
妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。表向きには形骸化してしまったそんなやりとりも、時には現実へと成り代わることもある。
そうなった場合、人間の側に力がなければ呆気なく殺されてしまう。
「なーんて、冗談だよ」
「……え?」
けど、今回は現実ではなく、単なるからかいの一種であったようだ。
ルーミアが、笑みの性質を変える。人懐っこい子供が浮かべるような、邪気の全く含まれていない笑顔。
黒髪の少女は目の前の少女の急変に困惑している。安心していいのか、警戒していればいいのか分からなくなっているようだ。呆けたような表情がどこか間抜けだ。
「私は、人間を食べたりなんてしないよ。調理してくれる人がいないからね」
仮に調理してくれる者がいれば、食べる、とでも言うような言い方ではあった。ただ、今の少女にそのような細かい事を気にしている余裕はない。
「それよりも今は鰻を食べたい気分だね」
腰に括りつけた籠に触れながらそう言う。どうやら、今のところは少女を食べるつもりは全くないようだ。
「食べない、の……?」
目の端に涙を浮かべながら、か細い声で問う。
ここでまた驚かされてしまえば泣き出してしまいそうだ。それくらいに怯えている。
「うん、食べないよ」
笑顔のまま頷く。けど、黒髪の少女の顔に安堵の光は灯らない。一度感じた恐怖はそう簡単に拭うことは出来ないようだ。
対して、ルーミアは恐れられている事を全く気にしていない。
「貴女は、里の子供だよね?」
「う、うん……」
黒髪の少女は怯えながらも頷く。
「そっかそっか、それなら私が里まで案内してあげるよ」
ルーミアが少女へと近寄って手を伸ばす。けど、その手には何も触れなかった。
「怖がらなくてもいいよ。……なんて言っても無駄だよね。まあ、獣に襲われてもいい、っていうんなら置いてくけど」
あっさりと背を向けて歩き出してしまう。少女がどんな結末を辿ろうとも構わない、といった態度だ。
「あ……待、って……っ!」
黒髪の少女は、足をもつれさせながらも、月の下で輝く金色を追いかける。
金の中で赤いリボンがひょこひょこと揺れていた。
◆
移動式の屋台へと二つの影が入っていく。『鰻』と墨で書かれた赤い提灯がその屋台の目印となっている。
先頭が黒髪の少女で、その後ろがルーミアだった。少女がルーミアに押されて、という形になっている。
少女の顔に浮かんでいるのはどうしてこんな所に寄るのか、という疑問。
何故ならこの屋台、人里の中ではなく、人里から離れた夜道に立っているのだ。てっきり里に帰れると思っていた少女は首を傾げざるをえない。
「ミスチー、食材持ってきたよ」
「あ、うん、ありが……」
何やら作業をしていた店主のミスティア・ローレライは、顔を上げ動きを止めた。お礼の言葉も途中で途切れてしまっている。
それは、食材と称して差し出していたのが黒髪の少女だったからだ。ルーミアは口を開くと同時に、少女の肩を押さえて逃げられないようにしていた。
見かけ以上に肩に掛かる力は大きく、少女は逃げ出すことさえも出来ない。この状況に少女は、今にも泣き出しそうになっている。
「……残念ながら、うちでは人間を取り扱っていないので他を当たってください」
「いやいや、冗談だよ、冗談。本命はこっち」
ルーミアは、作業を開始しようとするミスティアへ腰に付けていた籠を渡す。
肩から手が離れた途端に少女は距離を取っていた。けど、今更一人暗い夜道に戻るのも心細いのか、逃げ出そうとはしない。
「……はあ」
呆れたような溜め息を吐きながらも籠を受け取る。その様子を見たルーミアは満足げな笑みを浮かべた。本当に彼女の作る料理が楽しみなようだ。
「ね、ねえ……帰らない、の?」
少女が不安げに竹筒を抱きしめながら聞く。先ほどは、恐怖によって泣きそうになっていたが、今はまた別の要因によって泣き出しそうになっている。
「うん、お腹を太らせてからねー。食事は大切だよ。ほらほら、貴女も座って」
少し離れた場所に立っていた少女を引っ張って、無理矢理座らせてしまう。座らされてしまった少女は、不安げな表情を浮かべたまま、ルーミアを見返す。
見返された本人は、少女の様子を気にした様子もなく隣に座り、ミスティアの方へと期待の眼差しを向ける。
一瞬で少女の事は意識の中から消えてしまったようだ。真っ直ぐに食欲に忠実である。
そんな姿に苦笑を浮かべながら、ミスティアは籠の中から鰻を取り出す。
黒光りする身体をくねらせて細い手から逃げようとするが、すぐにまな板に押さえつけられ、頭に勢いよく細い包丁を突き立てられてしまう。
それを見た少女は、驚いて身体を震わせる。
「ねえ、ルーミアはその子、里まで連れて行ってあげるつもりなの?」
鰻を捌きながら話しかける。その手には、迷いもブレもない。手に捌き方が染み込んでるかのような手つきだった。
「もちろん。見つけたからには助けとかないと後味が悪いからね」
そう言って、少女の方へと視線を向ける。少女の方はとにかく帰りたいらしく、心細そうな視線を返す。
けど、ルーミアはそれを無視したのか、気付いてないのかその事に触れる事はない。
代わりに、少女の抱く竹筒を指差す。
「ずっと気になってたんだけど、その筒、何が入ってるの?」
「大がまの池の、水。お母さんが、病気、だから……」
「どういうこと?」
少女の言葉にルーミアは首を傾げる。池の水と病気に何の関係があるのか、と思っているのだろう。
「池の水を飲んだら、病気がよくなる、って、話を、聞いたから」
「ミスチー、あそこの水ってそんなにすごいものだったっけ?」
ルーミアの視線がミスティアの方へと向く。色々な妖怪や人間を相手にしているので、社会情勢から噂話に至るまで様々な話が入ってくるのだ。
それを知っているからこそ、ルーミアはミスティアへとそう聞いた。
「あー、それはあれだよ」
捌いた鰻を串に刺しながら少々言いにくそうにして、
「そういう迷信が里の中にあるらしいんだ。あそこの水って神事の時に使われてるから、そういう根も葉もない噂が流れてるんだと思うよ」
「ふーん、そうなんだ」
大して興味がないのか、反応はひどく淡泊なものであった。
けど、その話を信じていた者にとっては簡単に流せるものではなかった。
「迷信なんかじゃないもん!」
今までおどおどとした口調で喋っていた少女が、声を張り上げる。
突然の事に妖怪二人が少女へ顔を向ける。けど、二人に驚いた様子はない。二人とも酔っ払いの相手をする事に慣れているからこの程度で動じることはない。ひどい時には、暴れ出す者もいるのだ。大声を上げる程度で驚いていては切りがない。
ただ、原因を作ってしまったミスティアは申し訳なさそうな表情を浮かべていた。ルーミアに比べると、随分と人間くさい反応だ。
自分の信じていたものを否定された少女は、目に涙を浮かべて泣きそうになっていた。もしかしたら、その迷信が少女にとっての最後の支えだったのかもしれない。
「迷信なんかじゃ、ない、もん……」
そして、ついには泣き出してしまう。大粒の涙を何滴もテーブルの上に落ちる。嗚咽が零れる。
感情を辺りにまき散らして、一向に泣きやむ気配はない。
二人は黙っているから、少女の声だけが鳴り響く。
少々気まずい空気が流れる中、不意にルーミアが立ち上がる。
「ミスチー、やっぱりこの子、今から里に連れてくよ。だから、冷めててもいいから焼き鰻、用意しといてね」
「ん、了解」
ミスティアが頷くと、ルーミアは少女の手を取る。
「さてと、帰るよ」
泣くだけで、返事もしようとしない。
だけど、しばらくすると泣きながらも立ち上がったのだった。
◆
月明かりだけが頼りとなる夜道。少女は、すすり泣きながらもルーミアに手を引かれている。
ついさっきまで泣き声をあげていたのだが、泣きすぎで疲れてしまったようだ。片手で竹筒を抱いたまま、従順にルーミアの後を追う。
少女が泣いている間、ルーミアは一切気にかけていなかった。歩く速度をあわせていたこと、手を握っていたことを除けばいつも通りの姿だった。
「こうして満月を眺めてると昔、人間を襲ってた頃の事を思い出すね」
不意に、月を眺めながらそんな言葉を零す。本当に懐かしそうな声で。
少女はその言葉に不穏を感じ、怯えたように足を止める。けど、声から危険が伝わってこなかったからか、逃げようとはしない。
ルーミアは引っ張ってまで進んでいくような事はせず、その場で立ち止まる。
「今日みたいに、満月が綺麗な夜に私は親子連れを襲ったんだ」
静かな声で話し始める。
「私が現れた途端に、親の方が子供に逃げろ、って叫びながら向かってきたんだ。
戦い慣れをしてる感じじゃなかった。でも、強かったよ。私を怯ませてその間に逃げる隙を作られるくらいにね」
少し、間を置く。思い出の余韻に浸るように。
「まあ、何が言いたいか、っていうと、親っていうのは子供が居れば強くいられる、って事」
そう言って、ようやく少女の方を見る。
「だから、根も葉もない話を信じて心配をかけさせるよりは、傍にいてあげる方がずっといいと思うよ」
笑顔。人喰いではなく、まるで心配ばかりをかけさせる子供を見守る大人のような笑顔。
少女は、その顔に見惚れ、警戒心を完全に解く。
月を背負った姿はとても様になっていた、のだが、不意に鳴り響く腹の虫の鳴き声によって全て台無しとなってしまう。
「あー、やっぱりミスチーの所で食べてくればよかったなぁ……」
今までの様子とは一変して、見かけ相応の表情を浮かべ、腹をさする。声には後悔の念がこもっていた。
少女は、ころころと変わる雰囲気に戸惑いを覚える。掴み所がない。
「ねえ、貴女の腕、一本貰ってもいい?」
更に一転。
ルーミアは妖しげな表情を浮かべる。それを見た少女の心のうちに恐怖が浮かぶ。
本能的に後ずさる。しかし、手を掴まれているせいで逃げる事は叶わない。それに、今までの会話のせいで本気で逃げよう、と思うことも出来ない。
様子が二転三転とする妖怪の少女を前にして、どうしていいのか分からなくなっている。どれが彼女の本質なのか見極めることが出来ない。
「別に利き腕じゃなくてもいいんだよ。食べる側としてはそんなに大きな違いはないから」
ルーミアが一歩、踏み出す。それにあわせて少女は一歩下がる。もう一歩踏み出すと、更に一歩下がる。二人の距離は縮まらない。
そんなことをを繰り返すうちに、少女の足は道から逸れ、生い茂った草を踏みつける。
それでも、止まらない。理性ではなく、本能によって後ずさっているから。
「逃げようとしてるみたいだけど、どこに行くつもりなの? 私はこの手を離すつもりはないし、何より、そのまま行くと木にぶつかっちゃうよ」
「あ……」
直後、少女の背中は木へとぶつかった。
ルーミアが一歩前に進む。少女はそれ以上下がることが出来ない。そうして、今になってようやく理性も危険を告げ始める。
だけど、もう遅い。まだ逃げ道はあるが、追いつめられた少女にはもうそれに気付くだけの余裕はない。
「逃げるときは、どう逃げるかもちゃんと考えとかないと。そうしなと、今みたいになるよ」
もう一歩埋めて、二人の距離は零になる。
「……うそ、でしょ?」
不意に、少女が震える声でそう言った。
その言葉に、ルーミアは首を傾げる。
「どういうこと?」
「あなた、が、わたしを、食べるの……。さっき、料理されてないものは、食べない、って言ってた」
必死に言葉を紡ぐ。自分の身を守るため、口を動かす。
この行動は間違っている、とルーミアへ発言と行動の矛盾を指摘する。
「うん、そうだね。確かに私はそう言ったよ。そして、貴女の言ってることは正解。単なる冗談だよ」
破顔一笑。
その顔を見た途端に、少女はその場に崩れ落ちてしまう。心のどこかでは大丈夫だろう、とは思っていても非常に緊張していたのだ。仕方のないことだろう。
命をかけた綱渡りを平常心で行える者は滅多にいない。
「……いじわる」
「私にとって人を食べるのは、魂に刻まれたような行為だからね。実際に食べるまではいかなくても、どうしてもそういう素振りは見せちゃうんだ。まあ、それよりも反応が面白い、っていうのもあるんだけど」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる。けど、その表情はすぐに引っ込めて、少女へと手を伸ばす。
「さてさて、今度こそ真っ直ぐ帰るよ。大丈夫? 立てる?」
「……うん」
頷いて、少女は立ち上がる。
恐怖はもう、どこにも残っていなかった。
◆
二人で手を繋いで歩けば、程なくして里が見えてきた。
「なんだか里の方が騒がしいね」
陽が落ちてしばらくすれば、ほとんどの火が落とされるのだが今日は里のあちこちが明るい。祭り、という雰囲気ではなく、いくつもの火がとどまることなく里の中を行き交っている。
外から見る限り、里が襲われただとか、災害が起きただとかいった様子は見られない。
「なにか、あったのかな……?」
「さあてね。ま、何にしろ入ってみるしかないよね」
不安そうに問う少女に対して、ルーミアは軽い口調で答える。あまり危険のようなものを感じないからだろう。
先ほどまでとは変わらない歩調で、少女の手を引いて里へと近づいていく。
里の入り口まで近づいた時、柵の傍を歩いていた数人の男がルーミアたちに気付いた。全員が篝火を持っている。
ほとんどが、ルーミアと少女へと同じくらいの割合で視線を向けていた。けど、その内の一人が真っ直ぐに少女を見ていた。
「――っ!」
男が少女のものであろう名前を口にしながら、駆け寄る。その際、ルーミアはさりげなく少女の手を離し、距離を取る。
少女は嬉しそうな表情を浮かべ、父親であろう男は泣きそうな表情を浮かべかけ、
「どうして一人で里の外に出てたんだっ!」
険しい表情を浮かべて怒鳴った。一瞬、少女は何を言われたのかわからなかったようだ。呆然としたように、父親の顔を見ていた。
けど、次第に怒られたと理解して、泣き出してしまう。
「ご、ごめん、なさい……っ。でも、お母、さんのために、池の水を、取ってきたかった、から……」
「バカ野郎……。それで、もしも何かがあってお前が死んじまったら、意味がないだろ……」
父親も、抑えきれないほどにあった不安や心配が安心に変わって溢れ出してきたのか、少女を抱擁する。それだけで、少女の顔にも安堵が浮かんできた。
ルーミアは少し離れた位置で、そんな二人を笑顔で見守っている。
と、父親が顔を上げる。
「あんたが、こいつをここまで連れてきてくれたんだろう。ありがとう」
「いいよいいよ、別に。今度外で会ったときに、大人しく食べられてくれればそれでね」
そんな発言を投げつける。だけど、少女も男たちも怯んだ様子を一切見せない。
「ありゃ、皆妖怪慣れしてるんだね。……んー、つまんないねぇ」
残念そうに呟きながら、背を向ける。
「ま、私に感謝してる、って言うんなら、またいつか美味しいもの食べさせてよ」
「わかった。好きな時に訪ねてきてくれ」
少々の呆れを浮かべながら、男は頷く。
「うん、お腹が空いたときにふらりと立ち寄るよ。あ、でも、勢い余ってあなたたちの事を食べちゃうかもね」
そう言って、一人の妖怪少女は去っていく。
ひらひらと手を振って、人を食ったような態度で飄々と。
「冗談だけど!」
そして、里の者たちに背を向けたまま送った言葉には、親しみが込められていた。
何故なら、それが彼女なりの人間との付き合い方なのだから。
Fin
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