「貴女に、名前を付けてあげるわ」

 大好きな、唯一知っている自分以外の声は、初めて聞く響きを持っていた。

「なまえ……?」

 それが何なのか知らなかった。『貴女』でしかないことに疑問を抱いたことがなかったから。

「そう、名前。貴女の名前よ。気に入ってくれると、いいんだけど」

 いつものように後ろから抱きしめながら頭を撫でてくれる。でも、いつもなら安堵感を得られるのに、今はそれがなかった。
 どこか、動きがぎこちないせいかもしれない。

「……ごめん、なさい」

 それに気付いた途端、謝っていた。
 また、傷つけてしまったんじゃないだろうかと思って。

「え? な、なんで謝るのよ」

 返ってきたのは困ってるような声だった。

「だって、なでかたが、いつもとちがうから、また、って」

 でも、違ったみたいだ。傷つけられたら、とっても優しくなるから。

「あー……、いや、うん。ちょっと、緊張してるのよ。いや、かなりかもしれないわね」
「きんちょう?」
「そ、気に入ってくれなかったらどうしようかって怖いのよ」
「こわいの?」
「でも、同時にどんな反応をしてくれるのかって考えると楽しみでもあるわね」

 何となく噛み合わない。でも、あんまり気にならない。お姉様がいてくれれば、抱きしめてくれていれば、それだけで十分だから。

「たのしみ……」
「そ、だから、聞いてくれる? 私が考えた貴女の名前。気に入らなかったら、受け取ってくれなくてもいいし」

 態度がまた少し堅くなる。それが伝播してきて、動いちゃいけないのかもしれないと思ってしまう。

「う、うん」
「貴女まで緊張しなくていいわよ」

 小さく笑いながら頭を撫でてくれる。今度は柔らかくて、安心できる手つきだった。徐々に体に入っていた力が抜けていく。

「フランドール」

 聞き慣れない音が耳をくすぐった。
 意味はわからなくとも、それがとても大切なものだというのは伝わってきた。手放してはいけないのだと一瞬で心の底から理解した。

「それが、貴女の名前。意味は――」





 音が消えて何も聞こえなくなった。
 視界が暗転し何も見えなくなった。
 お姉様に抱きしめられ撫でられていた感触がなくなり、暖かな布団の温もりへと置きかわっていた。
 だから、不安はさほど感じなかった。代わりに、微かな喪失感。ほんの少しの寂しさを覚える。

 さっきのは昔の記憶、だったんだろうか。それとも、私が勝手に捏造したただの夢だったんだろうか。
 記憶の引き出しを探ってみても、先ほどの夢と同じ場面は見つからない。似たような景色ばかりだから、他の記憶と混じってしまっているのかもしれない。
 とはいえ、夢の中のように私の言葉遣いがかなり幼かったときの記憶は一切ないのだけれど。

 ちなみに、私の記憶の中に両親はいない。気がついたときには、この地下室にお姉様と二人きりの世界にいた。
 お姉様の言動からして、居たには居たみたいだけどそこから良い印象は得られない。どんな感情を抱いているのかはわからないけど、良い方向の感情を持っているとは思えない。
 だから、お姉様が私に名前を与えてくれたというその夢を単なる妄想だと切り捨てることはできない。

 なら、あれが現実に起きたことだとして、あの続きは何だったんだろうか。それこそ考えたってわからない。覚えていないからこそ、あんなところで途切れてしまったのだろうし。
 これに関しては、お姉様に直接聞けばすぐにわかることだ。

 そう決めて、私は意識を手放してしまっていた。





 次に目が覚めたのは、両方の時計の針が天井を差してから、長針が一回りするくらいの時間だった。

「あー……」

 机の上の時計を見た私は思わずそんな声を漏らしてしまう。すぐに身体を起こさず、目を閉じたまま考え事をしてしまったのは失敗だったようだ。本を読むという趣味を持つまで一人でいるときはぼんやりとしているか寝ているかの二択しかなかったせいか、やけに寝付きがいいのだ。
 決まった時間に起きろと言われているわけではないけど、お姉様と一緒に朝食をとれないというのは残念だ。

 あんまり気落ちしてても仕方ないから、気を持ち直して着替えることにする。

 そうして、今日の予定を決める。
 朝食をとったら、お姉様に私の名前の由来を聞いてみよう、と。





「あ、おはようございます、フランお嬢様」

 食堂に行くと、一人の妖精メイドが駆け寄ってきた。咲夜が出てこないということは、買い出しに出ているか、お姉様とどこかに出かけているということだろう。

「うん、おはよう。咲夜は?」
「咲夜さんなら、レミリアお嬢様とどこかに出かけましたよ。たぶん神社でしょうけど」

 どうやら、朝食のすぐ後に聞きに行くということはできなくなってしまったようだ。朝食が終わったら図書館で本を読んで、お姉様が帰ってきたら名前の由来を聞いてみよう、と予定を修正する。うん、ほとんど普段通りだ。

「そうなんだ、ありがと」
「いえいえ。では、今すぐ朝食だか昼食だかよくわかんない食事の用意をしますから待っててくださいね」

 妖精メイドは厨房の方へと向かっていく。もしかして、お姉様たちが出かけてからずっと待っていてくれたんだろうか。だとしたら、悪いことをしてしまった。
 お嬢様として扱われることには慣れてしまったけど、こっちが悪いのにそういった様子を一切見せられないというのには、いつになっても慣れることができそうにない。
 最初は単に自分の気が小さすぎるだけかもしれないと思っていた。でも、最近では心のどこかで昔のお姉様を重ねてしまっているからではないだろうかと思っている。どんなに傷つけられても、一切私を責めなかったお姉様を。

 頭を振って考えることをやめる。あんまり昔のことを思い出していると暗い気持ちになりがちだ。でも、そのせいで大切なことも忘れてしまっているのだとしたらそれはそれで悲しい。例えば、私の名前の由来だとか。

 そんなふうに感情をマイナスのまま浮き沈みさせながら、広い食堂の中、厨房に一番近い席を選んで座る。普段はお姉様と向き合う形になる場所に座っているから、向かい側に壁しか見えないことに居心地の悪さを覚える。
 どうして今日に限って寝過ごすなんてことをしてしまったんだろうか。いや、今日だからこそ寝過ごしてしまったのか。あの夢を見ていなければ、いつも通りに起き上がってお姉様と食事をとって、今頃は部屋か図書館で本を読んでいたはずだ。そして、お姉様が出かけるか否かということは私にはさほど関係のないことだったはずだ。
 何かあるときに限って間が悪いというけど、あれは単にその何かのせいで間がずらされてしまっているということなんだろう。今の自分の状況を考えると、そう思わずにはいられない。

「お待たせしましたー。っと、わざわざ隅の席を選んでくれたんですか? ありがとうございます」

 壁を見つめてぼんやりとしていると、さっきの妖精メイドがワゴンを押して戻ってきた。載っているのは和食だ。館の造りと不釣り合いだけど、すでに見慣れた光景だから気にならない。手に入りやすい食材とお姉様の好みによってこうした光景は生み出されている。

 妖精メイドは手早く食事を並べている。咲夜だと時間を止めてやっているから、こうした作業を見ることができるのは稀だ。
 彼女は珍しく優秀なメイドのようで、物音をほとんど立てていない。聞こえてくるのは最低限の衣擦れの音くらいだ。だからこそ、咲夜が任せたんだろうか。

 丁寧にかつ迅速に用意をすませると対面の席に座った。その意図が掴めなくて、しばらく考え込んでしまう。

「あ、どうぞどうぞ食べちゃってください」

 笑顔を浮かべて、気軽な様子で勧めてくる。
 いや、そうじゃなくて。

「なんで私の正面に?」
「朝食は必ずレミリアお嬢様ととるようにしているフランお嬢様が寝過ごすのは珍しいなぁ、何があったのかなぁ、と」

 要するに自身の好奇心を満たしたいだけらしい。一応その理由には納得。
 でも、話しながら食べるのは苦手なんだけどなぁ。どちらかにしか比重を傾けられないから。

「食べてからでもいい?」
「ふむ、お嬢様として不作法な振る舞いはできないということですか?」
「ううん、食べながら喋るのが苦手だから」

 作法だとか行儀だとかについては全然頭になかった。今までそういうことを気にしたことさえもない。ずっとお姉様だけを見てきたから、それだけが私のお手本だ。

「生粋のお嬢様なんですねぇ……。その辺りはレミリアお嬢様とは違うんですね」

 それは、遠回しに私が箱入りだと言ってるんだろうか。いや、間違ってないけど。

「わかりました。では、私はお嬢様の食事をとる姿を見てますので、ごゆっくりと食べてください」
「気になるんだけど……」
「いえいえ、お気になさらず」

 その返事は間違っているような気がする。とはいえ、それを指摘したところでどうにもならないだろう。言い方を変えられるだけで。
 なんでここでは、優秀さに比例して悪い意味で口が達者になるんだろうか。

「……いただきます」

 諦めて両手を合わせる。
 妖精メイドは何が面白いのかにこにことした笑顔でこちらを見ていた。

 全然食事に集中できない。




「なるほどー、昔の記憶かもしれない夢を見てそのことについて考えてたら二度寝してしまったわけですね」

 食後、妖精メイドに淹れてもらった紅茶を飲みながら今朝のことを話した。大したことも起きてないし、わざわざ大きくして語る弁も持ち合わせてないから、まだ湯気が立ち上るのが見える。
 そういえば、紅茶を飲んでるときは割と喋れるんだよね。慣れてるから、かな?

「寝過ごしてもやっぱりその理由はレミリアお嬢様なんですね。さすがフランお嬢様、何があってもぶれませんね」

 感心してるみたいだけど、どちらかというと呆れの色が強い気がする。どうにも、私のお姉様への態度に対する評価はそういうものになりがちだ。まあ、私の思考はお姉様一辺倒で、ほとんどバランスが取れてないのは自覚してる。

「さすが、なのかなぁ」

 だから、妖精メイドの言葉どう受け取るべきなのか悩む。私自身この思考に否定的ではないのだから、もっと堂々とすればいいんだろうか。でも、それはなんとなく違うような気がする。

「さすがですよ。普通そんなに一人のことだけを想い続けるなんてできません。深い深い愛があってこそのものだと思いますよ?」

 真っ直ぐにそんなことを言われると恥ずかしい。いや、遠回しに言われても変わらないけど。
 居心地の悪さから逃げるように紅茶に口を付ける。咲夜が淹れたものに比べると少々香りが弱いけど、それでも心が落ち着いてくる。

「フランお嬢様って反応が可愛らしいのでいじりがいがありますよね」
「そんなこと、ないと思うけど……」

 ちょっかいを出されやすいような気はする。でも、それだけでもここで認めてしまうと余計にちょっかいを出されてしまうだろう。だから、否定するだけにしておく。
 わざわざ自分からいじられるような隙を見せたいとは思わない。

「顔を赤くしながら否定されても説得力がありませんよ」
「……」

 なんだか何を言っても無意味な気がしてきた。妖精メイドにさえも言い負かされるなんてどうなんだろうか。この館の中に私の安息の場は思っているよりも少ないのかもしれない。

「それにしても、お嬢様が見たと言った夢が本当だとしたら、咲夜さんともどもレミリアお嬢様から名前を授かったということになるんですねぇ」

 しみじみとした様子で言う。何に感銘を受けているんだろうか。
 でも、確かに彼女の言うとおりだ。夢のことばかりに気が向いていたから、咲夜と同じだということに気づかなかった。

「……あなたは、お姉様が私に名前を付けてくれたのは本当にあったことだと思う?」
「さあ? 私は過去も未来も考えずにそのときを生きる気ままな妖精なのでわかんないです。考えるのも面倒くさいですし。でも、そうですね。レミリアお嬢様が名付け親だったとしても、私は自然に受け入れますよ」
「そっか」

 どんな答えだろうとお姉様の言葉の前では霞んでしまうだろうから、特に何も期待は抱いていなかった。じゃあ、なんで聞いたんだろうか。
 ……もしかしたら、不安なのかもしれない。お姉様の返答によっては私の支えそのものが壊れてしまう可能性もあるから。だいじょうぶだと思いたいけど、臆病さのせいで払拭しきれない。

「大丈夫ですよ。レミリアお嬢様は、こっちが羨ましくなるくらいフランお嬢様のことを大切にしてますから。それこそ、私も大切にしてあげようと思うとくらい」

 私の不安が表に出てきていたのか、そう言って安心させようとしてくれる。その心遣いはありがたいけど、納得がいかない。

「いやいや。私をいじりがいがあるなんて言ってるのにその言葉は説得力がないと思う」
「好きな人ほどイジメたくなるというあの心理ですよ」

 確かによく聞く心理だけど、私には理解できない。私がお姉様をいじめたいなんて思ったことなんてないし。
 まあ、それより、

「……好きなの?」
「はい、好きですよ」

 真っ直ぐに返事が返ってきた。それをどう受け止めればいいのかわからなくて、視線が逃げてしまう。誰も見えなくなる。気配はしっかり感じるから一人になったという感じはしないけど。

「愛の告白をしたわけでもないのにそこまで露骨に反応してくれるなんて嬉しい限りですね」

 楽しげで嬉々とした声が聞こえてくる。喜んでいるのは本当のことなんだろうけど、同時に私をからかっているようだ。

「この館には私のようにいじったときの反応が良い人を気に入る傾向のあるのが多いので気をつけてくださいね」
「……うん、そうする」

 とはいえ、何をどう気を付ければいいのやら。全くと言っていいほど何も浮かんでこない。
 そんな私の思考を見抜いているかのように、妖精メイドは一人楽しげに笑っているのだった。





 あの後、妖精メイドに弄ばれてやけに疲労困憊させられた後、私はふらふらと図書館へと向かった。いつものように、一人で黙々と本を読んでいたパチュリーは少しもこちらを見ることはなかった。いつもどおりといえばいつも通りなんだけど、少しくらいはこっちに意識を向けて欲しかった。
 とにかく、ある程度元気になるまで休憩してから、適当に本を選んで読み始めたわけだけど、

「ねえ、フラン。なんだか集中できてないみたいだけど、何かあった?」
「え? あ、えっと、わかるの?」

 ぼんやりと本を眺めていると、対面に座っているパチュリーが不意に話しかけてきた。

「ええ、普段ならもっと食い入るように文章を追いかけてるもの」

 いつも本の方に集中してたと思ってたけど、意外とこちらにも気を払っていたようだ。ということは、私はパチュリーの読書の邪魔をしてしまっていたんだろうか。

「……もしかして、邪魔、だった?」
「何が?」
「私がここで本を読んでること」
「別にそんな事はないわよ。貴女が本を読んでる姿を見ているのは好きだもの。顔は真剣なのに、羽は楽しそうに揺れてるのも何だか面白いし」

 微笑みながらこちらを見る。珍しい表情を見せられたことと、自分でも気づいていなかったことを指摘された気恥ずかしさから、視線を逸らしてしまう。
 言われても全然思い当たらないくらい自覚がなかった。

「まあ、それはいいとして、本当にどうしたの? レミィが帰ってくるまで、話を聞いてあげる事くらいならできるわよ?」
「ん、大したことじゃないけど、夢を見たんだ」

 パチュリーにとってはしょうもないことかもしれないけど、聞かれたからには話した方がいいだろう。
 一度妖精メイドに話したからか、最初に話したときよりはまとまっていたと思う。

「レミィに名前を付けてもらえる夢を見た、ねぇ。まあ、あり得ないとは言い切れないわね」

 頬杖をついて私の話を黙って聞いてくれていたパチュリーがそう感想を口にする。

「パチュリーもそう思うんだ」
「も、って他にも話したの?」
「うん、朝食の用意をしてくれた妖精メイドに」

 時間的には昼食かもしれないけど、気にしないことにした。細かいことにこだわってても仕方ない。

「ふーん。まあ、レミィの態度を見てればそう思うのも自然かもしれないわね。咲夜の事も随分と愛してるみたいだし。……名前を捨てて私も名付けられれば貴女たちみたいに愛してもらえるようになるのかしらね?」
「え……っと、どうなんだろ」

 パチュリーは冗談を言っている様子はなく、本気でそう思っているようだ。だからこそ、どう答えればいいのかわからなくて、そんな意味のない答えとなってしまう。

「なんて、ありえるはずがないけど」

 私の困惑を察したのかどうなのか、自らの言葉を撤回する。なんとなくだけど、その声には諦めが込められていたような気がする。
 パチュリーはお姉様の友達という立場にいて、私たちとさほど扱いに差があるとは思えないんだけど……。

「そんな深刻そうに気にしないでちょうだい。現状に不満があるわけじゃないから」
「深刻に考えてるつもりはないけど……、パチュリーも私たちと同じように扱われてるんじゃないかなって」
「そう見えるなら、もっとしっかりと周りを見るようにした方がいいわよ。レミィの貴女と咲夜の扱いだけは全然違うから」

 そうなんだろうか。特別な位置にいるのはわかってるけど、扱いの差があるとは思っていない。パチュリーからしてみるとそんなことはないみたいだけど。

「フランは客観的だと割と鋭いのに、主観的になると途端に鈍くなるわよね」
「そう、かな?」

 どっちにも覚えがない。

「ええ。自分に自信がない証拠ね」
「それは当たってるかも」

 自信を失うような経験ばかりをしてたからだと思う。もしくは、自分を嫌いになっていたからか。
 今ではそのどちらもなくなってるから、こうして分析することができてるけど、じゃあその先どうすればいいかっていうことになるとわからない。そもそもどうにかしたいという気持ちからして、そんなにあるわけでもないし。
 パチュリーの言葉ではないけど、現状に不満があるわけではないから。

 パチュリーとしてはそれ以上言いたいことはないのか、読書に戻ってしまっていた。話を聞いてくれると言っていた割には淡泊だ。まあ、別にいいんだけど。
 私もさっきまで眺めていた本を読み直そうかと思ったけど、根本が何も解決してないから集中できるはずがなかった。

「……ねえ、パチュリーはお姉様の昔の話、聞いたことある?」

 少しためらってから、そんなことを聞いてみる。
 あの夢の気になるところは、聞きそびれた名前の由来だけではない。お姉様が私に名前を付けてくれる。その状況自体が異常なのだ。寝起きの私は違和感なく受け入れてしまってたけど。
 パチュリーは私の次にお姉様といる時間が長いから、何か知ってるんじゃないだろうかと思った。

「ないわね。出会ったばかりの頃のレミィは刺々しかったから話してくれそうな気配がなかったし、お互い慣れてきた頃にはさほど興味がなくなってたから」

 無視されたらどうしようかと思ったけど、思っていた以上に反応が早かった。もしかしたら、私が話しかけるのを待ってくれていたのかもしれない。パチュリーも私もお互いにあまり自分から話しかけることがないから、妙な間ができてしまっていたというだけで。
 でも、パチュリーは私の質問に対する答えは持ってなかったようだ。

「まあ、ろくでもない過去だっていうのは何となく想像ができるわね」
「……うん」

 両親がいたような態度は見せるのに一度も積極的に話してくれることのなかったお姉様。
 昔はしょっちゅう力を暴走させ、物心がついたときからお姉様と二人っきりで地下室に閉じこもりきっていた私。
 明るい過去を想像するにはあまりにも不釣り合いな私たちの状況。

「だから、もしレミィが過去のことも含めて話してくれたら、それをちゃんと受け入れなさい。その覚悟ができないなら聞かない方が賢明でしょうね」
「……じゃあ、聞かないようにする」

 気にならないということはないけど、無理してまで聞きたいとは思わない。

「ふぅん、一緒に過去を背負えるのは妹である貴女だけなのに、そんな返事でいいのかしら? 薄情な妹を持ってレミィも大変ね」
「で、でも、私がそんなもの背負えるとは思わないし……」
「それを決めるのは、貴女でも私でもなくレミィ。荷が重いと思えば話さないでしょうし、一緒に背負えるだけの存在だと思っているなら話すでしょう」

 全てを客観的に見据えるアメジスト色の瞳がこちらを捉える。ただ、今は平等性が崩れてしまっている。お姉様を中心として話を進めている。

「聞く聞かないは貴女の自由だけど、レミィがそれを話す事にどんな意味があるかはしっかりと考えておくべきよ」
「……うん、ありがと」

 でも、本質を逃していないから、すっと内へと入り込んでくる。いや、こちらに受け入れやすいよう都合のいいように言い換えてるのかもしれない。私だとどうがんばってもそれを見抜くことはできない。
 何にせよ、納得させられてしまったからには私は選択肢を失ってしまうしかない。

「どういたしまして。ま、色々言ったけどそんなに気負う必要はないわよ。一応、もう終わった事ではあるんだし」
「……難しいこと言うね」

 パチュリーにも言われたけど、自信がある方ではないのだ。些細なことでも気軽に請け負うことはできない。終わったこととはいえ、重大なことならなおさらに。
 お姉様のことなら、ある程度の無理をすることはできるけど。

「力を入れすぎてるからよ。もう少し力を抜けば、簡単に見えてくるわよ」

 そうなんだろうか?
 内心首を傾げながらも、素直に従って力を抜いてみようとしてみる。でも、どこに力が入ってるのかわからなくて、どうすればいいのか検討もつかない。

「というわけで、こあ、レミィが帰ってくるまでフランが力を抜けるよう相手をしてあげてちょうだい」
「はいはいさー」

 突然出てきた名前にぎょっとしていると、本の森の中からこあが飛び出してきた。意識外の事だったから何らかの対処をすることもできずに後ろから抱きしめられてしまう。
 というか、こんなことするくらいなら最初から会話に混じってればいいのに。いや、こんなことをしたいからずっと傍に隠れていたのか。悪戯に全力を向けるこあならそれくらいする可能性は十分にある。

「フランドールさん、して欲しいことがあれば一応リクエストはお聞きしますよ」

 囁きかけるようにそう聞いてくる。そんなことをされると危機感ばかりが与えられる。

「このまま離れてそっとしておいてほしいなぁ……」

 本を読めなくともぼんやりと時間を過ごすことはできるし、今この場で力を抜くことができたとしてもお姉様を前にしてしまえば、結局力んでしまうだろう。
 そもそも、こあに抱きしめられているというこの状況からして、身体が強ばってしまっている。何をされるかわかったものじゃないから。

「無理な相談ですね。パチュリー様のお願いは断ることができませんし、こんなにも可愛らしい餌をみすみす逃すわけがないじゃないですか」
「え、餌……?」

 不穏な印象しか伝わってこない単語だった。

「ええ、餌です。ここ紅魔館においてフランドールさんほど反応が素直な方はいらっしゃらないので、それに私は簡単に引き寄せられてしまうというわけです。パチュリー様がやれと仰ってるのでいつもの手加減も必要ないでしょう」
「……パチュリー、そういう意味で言ったんじゃないよね?」

 災厄を呼び出した元凶に助けを求める。……こんなふうに言い換えて違和感がないあたり、望み薄ではあるけど。

「そういう意味で言ったつもりはないわね。でもまあ、フランの硬さを和らげられるならこあの好きにしてくれて構わないわよ。私は、ここで眺めて楽しんでるから」

 楽しげにこちらを見るだけで、助けようという気は全くないみたいだった。それどころか、流れによっては混ざってきそうだ。
 周りに味方が全くいない状況に少しばかり泣きたいような気分になってくる。

「ふむ、パチュリー様の期待に応えるべくここは一肌脱ぐ必要がありそうですね」

 質問することによって墓穴を掘ってしまったようだ。
 身の危険を感じたらすぐに逃げよう。そう思いながら身を堅くしていることしかできなかったのだった。
 




「あ、そろそろレミリアさんが帰ってくる時間ですね」

 こあがそう口にすると同時に私は解放された。しばらくは、テーブルに突っ伏したまま動くことができなかった。

 喋りかけてくるだけで何もしてこないと思っていたら首筋を撫でてきたりと、妖精メイドにいじられたとき以上に精神的に疲れさせられた。
 あれでまだまだ手加減してるそうだから、本気を出したらどうなるのやら。考えたくはない。

 心なしか力の入らない足を動かして玄関へと向かう。そこでお姉様が帰ってくるのを待とうと思ったのだ。
 勝手に部屋に入るのは気が引ける。怒られはしないだろうけど、なんだかそうすることに罪悪感めいたものを感じてしまう。私の方からお姉様の領域に入り込むべきではないと思っているからかもしれない。

「おや、フランドールお嬢様、このような時間に出かけるつもりですか?」
「……っ!」

 予想していなかった声が聞こえてきて身体がはねる。そういえば、すでに帰ってきてるという可能性を考慮していなかった。

「帰って、たんだ。……お姉様は、部屋?」

 驚いて落ち着かない鼓動をそのままにそう聞く。少し心が前のめりになっている。自覚している以上に、お姉様に会いたいという気持ちが強まっているようだ。
 でも、同時にどこかで怖いとも思っている。

「はい、つい先ほど。お嬢様は自室でごゆっくりなさっていますよ」
「そうなんだ。ありがと」

 ゆっくりしているという言葉を聞いて、今更ながらに帰ったばかりなのに邪魔をしてしまうのも悪いかなと思ってしまう。少し時間を置いた方がいいだろうか。

「いえいえ、どういたしまして、ああ、それと、お嬢様が今朝食堂に姿を現さなかったことをご心配なさっていたようなので、今すぐ会いに行って差し上げてください。遠慮する必要なんてないですよ」
「……わかるの?」
「はい、フランドールお嬢様の表情は素直ですから」

 満面の笑顔でそう言われると反応に困る。さっきまで似たような笑顔を浮かべる大の悪戯好きに遊ばれてただけに。

「なんだか微妙な表情を浮かべてますね」
「いや、うん。咲夜の笑い方がこあに似てるなぁって思って」

 だから、少々身構えてしまう。

「ふむ。まあ、私がちょっかいを出すのはレミリアお嬢様だけですので心配をせずとも大丈夫ですよ。反応が面白そうだとは思いますが」

 お姉様のくだりを除けば、言うことがこあとかなり似通ってた。今はだいじょうぶそうだけど、不意に心変わりしたときに注意しないといけなさそうだ。
 とはいえ、こあ以上にどう注意すればいいのかがわからない。こあに対応できてるお姉様でさえ、少々振り回されてるみたいだし。

 とにかく、咲夜がお姉様にだけと言っている間は、私に手を出してくることはないだろう。私と同じで咲夜にとってもお姉様は特別な存在なのだから、そう簡単に変わることもないと思う。
 その点に関して言えば、咲夜は私と近い存在だから不安はない。

「ねえ、咲夜がお姉様から名前を付けて貰ったとき、どんなことを思ったの?」

 だから、聞いてみたいと思った。私と近い存在が何を思ったのか。
 状況が全く違うというのは理解している。私の名前はお姉様に付けられたものでない可能性があることもわかっている。
 それでも、聞いてみたかった。

「端的に言えば嬉しかったですよ。居場所も名前も捨てた私にとって、そのどちらも与えられた瞬間なのですから。ですが、それはほんの副次的なもので、本当に心を支配していたのはお嬢様の傍にいても良いのだという喜びでした。あのとき初めて、私は心の底から笑みを浮かべることができたのです」

 たぶんそのときに浮かべていただろう笑顔を浮かべている。先ほどまであった意地の悪そうな様子は一切なくなっている。
 これは、お姉様という光があるときにだけで現れるものなんだろう。たった一人のためだけに用意された専用の表情。

「そう、なんだ」

 答える声は詰まっていた。たぶんそれは羨ましさのせいだと思う。お姉様から与えられたものをそれだけ嬉しそうに口にすることができることに対する。

「それにしても、突然どうしたんですか?」

 不思議そうな表情を浮かべてほんの少し首を傾げる。さっきまでの表情の名残は感じられない。本当に切り替えが早い。

「お姉様に名前を付けて貰う夢を見たから」
「今までの様子から察するに、ただの夢なのか現実にあったことなのかわからないといった感じですかね?」
「うん」

 洞察力の鋭い咲夜ならこれだけ情報があれば気づいて当然だろう。

「ふむ。もしそれが現実にあった事だとすれば、私はしばらくここで足止めをしているべきですかね」
「え?」

 意味がわからなくて、素っ頓狂な反応をしてしまう。

「レミリアお嬢様に愛されたいと思っているのは、貴女だけではないということですよ」

 それは、知っている。咲夜は言動の節々からそれが見て取れるし、パチュリーもそういったことを言っていた。
 理解できないのはどうして足止めをしようとしてるのだろうかということ。

「お嬢様、名前を与えられるという事はどういった意味を持つと考えますか? 愛されているという事以外で」

 不意打ちのようにそんな質問を投げかけてくる。困惑して体勢を整えられていないところを狙ってきたかのようだった。

「う、え……。……守るべき子供だと思われてる?」

 何がなんでも何か答えないといけないような気がして、なんとか答えを捻り出す。大抵、名前は親から貰うものなのだから。
 とはいえ、パチュリーもお姉様から名前を貰いたいと言っていたから違うような気もする。

「良い答えです。では、お嬢様の所へ行くのを許可しましょう」

 でも、咲夜にとってはそれが正しい答えだったようだ。満足げに頷いて笑みを浮かべる。

「……咲夜の気に入らない答えだったら、どうするつもりだったの?」

 今この場だけではなく、今後一切お姉様に近づけられなくさせられる。そこまでされそうな気がする。

「どうもしませんよ。もしかしたら、私の感性に合わないだけでお嬢様好みの答えだという可能性も否めませんし。答えてくれる、その事が重要だったんです。なので、何も答えてくれなければ答えを用意できるまでお嬢様の所に行かせないくらいはしていたかもしれません。私の数少ない優位性を何も考えていないようなのに易々と渡したくはありませんから」

 何か予感めいたものがあってとっさに答えたのは正しい判断だったようだ。

「フランドールお嬢様は同志でありライバルなのです。ですから、くれぐれも私を失望させるような言動をしないようにしてくださいね。そうでなければ、貴女の事を応援していますから」
「ありがとう、でいいのかな?」

 誰かからライバル宣言をされたことがないからどう受け止めていいものか困る。
 でも、私も密かに咲夜のことを同志だと思っていたから、同じように思ってくれていたことは素直に嬉しい。私のお姉様への想いの強さを認められたようで。

「では、どういたしましてと返しておきましょう」

 今までの親しげな態度と打って変わって、丁寧な態度となる。
 間違ってはなかったようだけど、咲夜にとっては満足できない返しだったようだ。
 とはいえ、私が咲夜に抱くのは尊敬だから、ライバル心を抱くのは難しい。

「っと、無駄話はここまでにしておきましょうか。お嬢様が部屋から出られたようですし」
「え、どこに向かってるかわかる?」

 館の空間をいじっている咲夜は同時に、館の中で起きていることの大半を把握することができている。館の中ならどこで呼びかけても現れてくれるのは、そのおかげだ。

「フランドールお嬢様の部屋だと思いますよ。ご心配なさっているって言ったじゃないですか」
「あ、うん。そういえば、そう言ってたね」
「そういうわけなので、早く顔を見せて安心させてあげてください」
「うん。ありがと、咲夜」
「いえいえ」

 咲夜と別れて、きた道を戻っていく。私の部屋はお姉様の部屋よりも奥にあるから、戻る速度によって背中に追いつくか正面ではち会うか変わってくる。
 ようやくお姉様から話が聞けると思った私は、追いつくくらいの気持ちで長い廊下を急ぎ足で進んでいった。





「お、お姉様っ。おかえり、なさい」

 お姉様の部屋から離れた廊下。私の部屋へと続く階段への扉の方が近い場所。
 なんとかお姉様の背中に追いついたけど、これから聞くことを考えると緊張してしまって、思った通りに言葉が出てこなかった。

「ん? ええ、ただいま」

 こっちに気づいたお姉様が振り返って、近づいてくる。その姿は落ち着いていて、私とは対照的だ。
 いや、微かに心配の色が見て取れる。

「朝食の時、食堂に顔を出さなかったけど、大丈夫? 調子が悪かったりしない?」

 気遣うような視線をこちらに向けながら、手が額に当てられる。柔らかい手つきで、そこから安心が広がっていくようだった。さっきまであったはずの緊張も解け始めてしまっている。
 ただ、このままだと何もかもどうでもよくなってしまいそうだから、その分だけは気を引き締める。

「うん、だいじょうぶ」
「そう、よかったわ」

 ほっとため息をつきながら手を離す。本当に私のことを心配してくれていたみたいだ。そのことが、どうしようもなく嬉しい。

「でも、どうしたの? 遅くまで本でも読んでたのかしら?」

 手は離されてしまったけど、距離はそのままそう聞いてくる。

「ううん。夢を見て、そのことを考えてたら二度寝しちゃったんだ」
「夢、ねぇ。考え込んでしまうくらいに意味深な夢?」
「うん。お姉様が私に名前をくれる夢。でも、その意味を聞く前に目が覚めて、聞きそびれちゃった。……ねえ、お姉様は私の名前の由来を知ってる?」

 夢は現実にあったことなのかどうかとどちらを先に聞こうか悩んでいたけど、こちらを先に聞くことにした。気持ち的にこっちの方が聞きやすかったから。
 昔の話を聞くだけの覚悟はまだできていない。それをいつ持てるのかと聞かれると私自身でもわからないけど、この話が終わるまでに覚悟を決めるべきなんだろうというのはわかっている。

「……覚えてないのね。まあ、ずっと昔の事だし仕方ないのかしらね」

 答える声は残念そうな響きを持っていた。この様子だとお姉様が名付け親ということでいいんだろうか。
 思っていたよりもあっさりとしていて、拍子抜けしてしまう。いきなり疑問の一つが解消されてしまうとは思っていなかった。
 でも、だとするとその先の疑問が湧いてくる。

「こんなところで話すのもなんだし、貴女の部屋で話しましょうか」
「……うん」

 答える声は、お姉様に声をかけたとき以上に緊張で硬くなっていた。




 部屋に入ると中央に置かれたテーブルに向かい合って座った。いつからこうするようになったかは全然覚えてないけど、お姉様と改まったような話をするときはいつもこうして向かい合っている。

「まず先に言っておくわ。夢で見たとおり、貴女に名前を付けたのは私よ」
「そう、なんだ」

 態度から察していたとはいえ、ちゃんと言葉にして言われると妙な感じがする。和やかな雰囲気で言うのならともかく、どこか神妙な様子だから余計に。

「それで、由来なんだけれど……」

 ようやくこのときが来たかと身構える。じっとお姉様の顔を見つめて、夢の続きを待つ。

「……」

 でも、お姉様は黙ってしまったままで何も言おうとしない。雰囲気作りのためにためているという様子でもない。

「……お姉様?」

 もしかして、言いにくい理由でもあるんじゃないだろうかと思って不安になってくる。
 例えば、口にするのもはばかられるくらいにひどい由来だとか。お姉様に限ってそんなことはないと信じたい。

「あー……、こうして改めて伝えるのも気恥ずかしいなと思ってね。うん」

 言われてみればお姉様はどこか落ち着きをなくしたように視線をこちらに向けようとしてくれない。珍しい態度だなとは思うけど、なんだかつい最近似たような姿を見たような気がする。

「……あ」

 思い出した。夢の中でお姉様が名前を告げようとしていたときだ。
 後ろから抱きしめられていて表情は見えなかったけど、ちょうどこんな雰囲気だった。
 本当にあの夢は現実にあったことなんだなぁと実感する。ただ夢のときは私が気に入るかどうかを気にしていた。でも、今は気恥ずかしさだけを感じているようだ。
 だから、きっと悪い意味は込められていない。今の私は忘れてしまっているけど、昔の私は気に入っていたんだと思う。

「お姉様、私を後ろから抱きしめたら言えるようになるんじゃないかな。夢の中でそうしてたみたいに」

 お姉様のことだから、少し時間を置けばちゃんと言ってくれると思う。だからこれは、単なる私のわがままだ。最近、そんなふうに抱きしめられることもなかったし。

「夢の中ねぇ。私にとっては現実にあったことなんだけれど」

 どうやら、私の見た夢は現実とさほど違いがないようだ。

「まあ、いいわよ。今日くらいは特別という事にしておいてあげましょうか」

 完全に見抜かれてしまっていた。なんとも据わりが悪い気持ちになってくる。
 まあ、とにもかくにも私の望み通りになったからよしとしよう。

 お姉様が椅子から立ち上がってベッドの方へと向かう。私もそれに付き従うように立ち上がる。こうして会話の途中に移動するのは初めてだから、なんだか変に緊張してしまう。
 よくよく考えてみれば、お姉様に抱きしめられるのは私の感情が不安定になっているときだけだった。今は平常とは言い難いけど不安定というわけでもない。冷静でいられる程度には安定しているけど、落ち着かないといった感じだ。

「フラン?」

 ベッドに深く座り込んだお姉様が、立ち止まったままの私を見て首を傾げている。

「あ、ご、ごめんなさいっ」

 慌てて近寄って、飛び込んだりするようなことはせずにゆっくりとお姉様の前に座る。そうすると、すぐに片方の腕が回され、空いてる方の手で髪を梳くようにしながら後頭部を撫で始めてくれた。
 それだけでのことで、心は落ち着きを取り戻していく。据わりの悪さもなくなって、ここが私のいるべき場所なんだと認識する。

「どうかした?」
「ん、……私が落ち着いてるときに抱きしめられるのって初めてだなって」
「まあ、できるだけ甘やかさないようにしてたからねぇ」

 手が側頭部へと移り、髪と頬とを交互に撫でるような形となる。

「そうだったんだ」

 全然気づいていなかった。力とともに精神も落ち着いてくるに従って、なんとなく距離を取られていっていたような気はしていたけど、そういう理由があったんだ。

「ええ、そうだったのよ。だから、今日は本当に特別よ」

 そこで、お姉様の手が止まる。代わりに両腕で抱きしめられて、体温が近くなる。私が何よりも身を委ねることのできる温度に包み込まれる。

「貴女の名前の由来は――」

 話し始めのその声はとても穏やかだった。大切にしまい続けているものを語るようなそんな声だった。
 私は一言一句聞き漏らすまいと聴覚に全神経を向ける。暖かさをしっかりと感じられないのはもったいないけど、聞き逃してしまうことはさらに許せないことだった。

「Flamme d'or」

いつもと違う調子で響く私の名前。

「フランス語で『黄金の炎』という意味よ。そのままだと名前らしくないから、音だけ持ってきたのだけれど」

 単なる私の名前として認識していたものが、お姉様の言葉によって意味を持ち、重みを増し始める。
 でも、どこまで重くなってもきっと私はそれを背負える。他の誰でもないお姉様が付けてくれたものなのだから。

「貴女の力は壊すだけでなく、何か別のことに役立つようになってほしい。炎のようにただ焼き尽くして灰を生み出すだけでなく、その灰でまた新しい命を育むのようなそんな存在になってほしいと願った」

 それは、子の成長を願う母親のような言葉だった。

「それから、貴女がいなければ今の私はいなかった。暗い闇の奥の奥に沈み込んで心を閉ざしていたかもしれない。けど、貴女は暗い坑道の奥深くで光輝く黄金のように私を照らしてくれた」

 それは、共に歩む姉としての言葉だった。

「そんな思いを込めて、私は貴女にフランドールと名付けた。あの頃の貴女は何も知らなかったから簡単に受け入れてくれたけど、……今改めて由来を聞いてみて、どう思う?」

 背後から聞こえてくる声は少し不安げだった。滅多に誰かに見せることのないお姉様の弱い部分。
 気がつけば両腕に微かに力が入っていて、すがりつかれるような状態となっている。
 でも、どうしてお姉様はそんなにも不安そうにしてるんだろうか。

「素敵な由来だと思うよ。だから、これからはもっと大切にするし、今度は絶対に忘れないようにする」

 これが、私の素直な感想。

「ありがと、お姉様」

 お姉様の願いはまだ叶えられていない。私がお姉様にとってそんなにも重大な存在だったという自覚もない。
 それでも、感謝の気持ちはある。私の名前にお姉様が私の存在を認めてくれているという証が刻まれている。それは、この上ない名誉だった。

「……どういたしまして」

 お姉様は安堵のため息をこぼした。
 私はお姉様の手の甲をそっと撫でる。いつも撫でたり抱きしめたりしてくれるお返しのつもり。これだけだと、今まで与えられた分には全然足りないだろうけど。

 お互いに黙ったまま手の甲を撫でていると、不意にお姉様の手が裏返った。そして、私の手は握られる。私もそっと力を込めて握り返す。

「……ねえ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 そうしてようやく私は一つの覚悟を決めた。もしかしたら、お姉様は私がもう一つ質問しようとしていたことに気づいてたのかもしれない。
 手を握ってくれたことからそう思う。

「ええ、いいわよ」
「なんで、お姉様が私に名前を付けたの?」
「……つまらない話になると思うわよ?」

 それは遠回しに聞かない方がいいと言ってるのか。それとも、本当につまらないと思ってるのか。

「……それでも、お願い」

 私が答えた瞬間、お姉様の手に少し力が込められた。聞くべきことではなかったのかもしれない。
 それでも、聞かないといけないことだと思う。
 すでに終わったことでも、気にする必要のないことでも。こうして話すことに気が進まないというのは、お姉様にとって重荷になってしまっているということだろうから。

「話すのが辛いかもしれないけど、聞きたい。お姉様だけに辛い思いはさせたくないから」

 結局はそういうことなのだ。私はほんの少しでもお姉様の支えになりたいだけだ。
 知りたいという気持ちはほんの少ししかない。

「……随分と頼もしい事を言うようになってくれたわね」

 お姉様の小さく笑う声が聞こえてくる。間近で聞こえてくるそれは不思議な響きを持っていて、どこかこそばゆさを感じさせる。

「分かったわ、話してあげる。貴女にも無関係な事ではないしね」
「ありがと、お姉様」
「お礼を言われるような筋合いはないわね。私がこれから話す事は貴女が気にする必要のなかったはずの事なのだから」

 と、不意に背後からお姉様が離れる。完全に寄りかかっていたから、そのまま為す術もなく、後ろに倒れ込んでしまう。

「……お姉様?」

 見上げるような位置にあるお姉様の顔に向かって問いかける。ちゃんと確認ができないから憶測にすぎないけど、私の頭は太股の上に乗っている状態になっているはずだ。
 握り合った手はそのままだけど、もう片方の手は額の上に乗せられていた。

「どうせ話すなら、顔を見ながらの方がいいでしょう?」
「……うん」

 たぶん、お姉様は私の様子をしっかりと見るためにこうしたんだろう。もし、話のどれかがきっかけとなって私の心が不安定になってしまうかもしれないから。
 もしくは、お姉様自身がどこかで挫けてしまわないようにするため。感情を抑えているような表情を見ると、こちらの方が可能性が高いかもしれない。
 そうだとしても、私からできるのは手を握ってあげることくらいだ。

「端的に言えば、貴女は両親から何も与えられていなかった。名前も知識も言葉も。だから、私が貴女にそれらを与えなくてはいけなかった。いや、こうして今も生きてるという事は、食事くらいは与えてたのかもしれないわね」

 お姉様の声は淡々としていて、一切の感情が込められていない。両親という言葉もどこか他人行儀でそれを認めたがっていないかのようだ。

「この部屋に放置されて、私にもその存在を知らされていなかった。弟だか妹だかが生まれるというのは知ってたけど、流産してしまったと聞かされてたのよ。私はそれを疑う事なく信じてたわ。あの頃は、疑うなんていう事は知らなかったから。
 だから、流産したという話を聞いたのと同時期に、地下室に近づくなと言われたことにも疑問を持たなかった。何か危険な物を手に入れて、それを厳重に収めてるのかもしれないというくらいにしか考えてなかったわ。
 でも、何年か経って私は貴女に出会った。何となく両親に不信感を抱くようになって、言いつけを破ってこの部屋へと侵入をしたの。反抗期だったせいなのか、それとも何かを感じ取っていたのかは今でもわからない。でも、それが大きな転換期だった」

 お姉様の表情に少しの感情が現れる。それは、どこか優しげで私の方に向いている。

「貴女はただ部屋の中にいるだけだった。石が敷き詰められただけの床に座っているだけで、こちらにぼんやりとした視線を向けてくる以外にはろくな反応をする事もなかった」

 なぜだかその姿は容易に想像することができた。時間の流れを感じることもなくただ時を過ごす。私のその状態に一切の違和がない。
 ……ああ、まだ力も感情も制御できなかった頃の私がそんな感じだったからだろうか。もしかしたら、私がぼんやりとしやすいのはその何もなかった時期の名残なのかもしれない。

「最初は人形みたいだと思った。それくらい、反応が乏しかった。話しかけても、触っても全然反応しなかったのよ。口元に指を持っていったときは噛まれそうになったけど」

 意識してやっているのか無意識にやっているのかはわからないけど、額の上に置いていた手の指で頬を撫で、唇をなぞってから離れる。

「今では過剰なくらい反応してくれるようになったわね」

 頬を撫で始めたくらいから、くすぐったさに身体をよじらせていたことを言ってるんだろう。いまだに触れられたときの感覚が残っているような気がする。

「……わざわざ試したの?」
「いや? 勝手に手が動いてたのよ。ごめんなさい」

 笑みを浮かべて頭を撫でてくれる。あんまり謝られたような気がしないけど、別に良いかと思ってしまう。もともといやだったというわけでもないし、それで少しでも気が紛れたのなら嬉しいくらいだった。

「話を戻すわね。それから私はしばらく貴女を眺めていた。なんだか見覚えがあるような気がしたから。まあ、血が繋がってるんだから当然よね。けど、妹は死んでいると聞かされてたから、その考えは浮かんでこなかった」

 一時離れていた手は再び私の頭の上に戻ってきて、ゆっくりと撫で始める。
 心なしか私のことを話しているときは暗さも薄れているような気がする。

「そうこうしてるうちに両親が来て、私は部屋から追い出されたわ。叱られて、そのついでのように貴女の事を教えられたわ。私の妹だとか、危険な力を持ってるだとかね。
 正直なところ、初めて聞いたときは貴女のことを怖いと思ってたわ。だから、閉じ込められているのも当然だと思ってた」

 それが普通の感想だろう。人妖関係なく自分が傷つけられるかもしれないと思えば怖いはずだ。
 でも、お姉様は私の傍を選んでくれている。それは、どうしてなんだろうか。

「けど、一人になって貴女のことを思い出してみると、不思議と心が落ち着いてきたのよね。そのときは、その理由が分からなかった。だから、もう一度貴女に会ってみようと思ったの。怖かったっていっても、その時のは又聞きの恐怖だったしね。
 そうして私は二度目の邂逅を果たした。相変わらず貴女は全然反応を返してくれなかったんだけれどね。話しかけたり、見つめたり、傍に座ったり、撫でたり、抱きしめたり。思い付いた事を片っ端からやってみてた。貴女の力の事なんてすっかり忘れ去って。でも、見つからないよう、長居は控えようというのはちゃんと覚えてたわよ?」

 そう言って少し悪戯めいた表情を浮かべる。
 やっぱり私のことを話しているときだけはどこか生き生きとした表情を浮かべている。
 その意味を考えると、嬉しい以外でどんな感情を浮かべるべきだというんだろうか。

「それから何度か貴女の所に通う内に、落ち着く理由が分かってきた。貴女の傍でだけは気を抜く事ができるから。貴女みたいに露骨にひどい扱いを受けてたわけではないけど、両親というよりは従うべき主といった感じだったから、居心地はよくなかったのよね。それに、やっぱり妹がいる事を嬉しいとも思ってたんだと思うわ。反応が乏しくてもね」

 お姉様が優しげな笑みを浮かべる。私はその表情に引き込まれそうになってしまう。

「気づいてしまえば私の気持ちは貴女へと傾いてた。何度か力の暴走に巻き込まれたりはしたけど、それでも見捨てようという気にはならなかった。パチェとか咲夜にはよく言われるんだけど、私って意地っ張りらしいのよね。でもまあ、そのおかげで今があるんだっていうんならそう言われるのも悪くはないわね。
 で、貴女を救ってあげようと思った私は両親に貴女をちゃんと育てるように言ってみたわ。でも、聞き入れるような態度は全く見せてくれなかった。両親にとっては、単なる兵器でしかなかったのよ。だから、私はそれ以上の説得は諦めて、そのまま対立するようになって、なんだかんだとあったうちに貴女と二人っきりになってしまった」

 よほど喋りたくないことなのか、対立中に何があったのかは省略されてしまった。でも、現在の状況から大まかなことは想像することができる。
 それだけでも十分だろう。細かいことを知ったとしても意味がない。もしそれがお姉様にとっての重荷になっているのなら、またいつか聞き出せばいいだろう。

「その後はもう貴女といる時間を気にする必要もなかったから、言葉やら必要そうなことを教えてあげた。少しずつだけど、感情を見せるようになってくれた貴女を見ていると感慨深い物があったわ」

 私はお姉様に育てられたんだなぁという別の感慨深さを感じる。
 夢の中の私の喋り方がやけに幼かったのは、言葉を覚えたばかりの頃だったからなのかもしれない。

「その合間合間で貴女の名前を考えてたわ。もしかしたら両親のつけた名前があったのかもしれないけど、その時にはすでに知る術もなかったから。そうして、考えに考えて思い浮かんだのが、フランドール。今の貴女の名前よ」

 そうして私はフランドールとなり、今に至る。

「とまあ、これが私が貴女に名前付けるようになるまでの経緯。必然的に出会ったときのことから話す羽目になったけど」

 そこまで話してお姉様は疲れたようなため息をつく。ずっと喋り続けていたから疲れたのかもしれない。もしくは、昔のことを思い出して憂鬱になっているのか。
 でも、聞いていたこちらとしては、憂鬱となるような点はあまり見受けられなかった。
 なぜなら、

「実際に体験してたお姉様にとっては辛いことだったのかもしれないけど、お姉様の話しぶりからだと私にばっかり意識が向いてたんだなぁっていう印象が強いような気がするんだけど」

 こちらが想像していたよりもずっと軽い語り口だったように思う。最初はあまり気の進まなさそうな様子だったけど、私のことになると懐かしさを感じているようだった。
 だからたぶん、今では本当に過去のこととなってしまっているということなんだろう。

「へぇ、随分と他人事な感想を言ってくれるわね」

 お姉様が少し低い声でそう言いながら片方の手で私の頬をつつく。痛くはないけど、追いつめられてるようなそんな印象を植え付けられる。

「お、お姉、様? 怒ってる……?」
「怒ってないわよ。ただ、一緒に背負ってくれるようなことを言ってたのにそんなので大丈夫なのかしら?」
「が、がんばるっ」

 お姉様の手を握った方の手に力を込めながら答える。

「今から頑張ってどうするのよ。ま、貴女の感想を聞いて、私も背負い込みすぎてたかもしれないって思ったからいいんじゃないかしら? そんな感想を言われるなんて予想外だったわよ」

 苦笑しながら、今度は私の髪をいじり始める。見えないけど、指に髪を巻きつけたりしてるようだ。
 お姉様って結構手癖が悪かったんだろうか。さっきから、空いてる方の手が同じ場所にいる時間が短い。

「……ねえ、やっぱり私って頼りない?」
「ええ、全然頼りないわね」

 自覚していても、そこまではっきり言われるとへこむ。
 私のそんな心情を察したのか小さく笑いながらも頭を撫でてくれる。

「でも、出会ったときから貴女は私の支えだっていう事は変わらないわ。貴女と過ごせて私は幸せよ。それに、いつかはちゃんと頼りになる存在になってくれると信じてる」

 その言葉に偽りも虚飾もない。本当にそう思ってくれているんだろう。

「だから、貴女は黄金の炎でありなさい。何かを創り出すきっかけであり、傍にいる者たちを照らし出すような存在でありなさい」
「……うん、任せて、お姉様」

 私は一人のためにあればそれで十分だと思っている。でも、その一人がそれ以上を望むというなら応えてみようじゃないか。

「ええ、楽しみにしてるわ、フランドール」

 でも今は、微笑むその姿を私が照らし出しているということだけを誇りに思いたい。
 自信のなさを補えるのは、それだけなのだから。


Fin



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