「あら? 貴女はどちら様?」
不意に誰かが話しかけてきた。その声はしわがれていてしっかりと意識を向けていないと聞き取れなくなってしまいそうだった。
首を動かして声のした方をぼんやりと見つめる。そこに立っていたのは人間のおばあちゃんだった。
白髪に皺の入った顔。そんな中、黒色の瞳が不思議そうな色を浮かべて私を見ている。
人間に声をかけられるなんてあの巫女以来だ。無意識にふらふらとしていると人間のいる場所にはあまり行きつかない。
……ということは、ここは人里かどこかなんだろうか。
今になって初めて私はぼんやりと周囲を見渡す。意識はあんまりはっきりとしていない。無意識ばかりが表に出ていることが多いから。
まず、あまり手入れの行き届いていない庭が目に入り、それから屋根の下の木張りの床を確認した。どうやらここはどこかの民家の縁側みたいだ。
私は家主に許可もなく縁側に座ってぼんやりとしていたようだ。
いつものことだからあまり気にしない。
「貴女、名前は?」
おばあちゃんが何の警戒も持たずに妖怪である私の隣に座って名前を尋ねてくる。
もしかすると、ぼんやりとしすぎた私の姿が警戒心を薄れさせているのかもしれない。
「古明地 こいし」
意識か無意識かのどちらかが答える。こんなことを考えている時点で無意識の方かもしれない。
「こいしちゃんね。……ねえ、ちょっと待っててくれるかしら? お茶とお菓子を用意してあげるから」
何故だか嬉しそうに言っておばあちゃんは家の奥へと向かって行ってしまう。
私は止めるタイミングを見つけえられなかった。いや、そもそも止めてどうするつもりだったんだろうかと悩む。
けど、すぐにどうでもいいか、と思考をやめてしまう。後に残るのは無意識と曖昧な意識だけ。
山で巫女や魔法使いに出会ってからほとんど無意識が支配していた私の意識は少しだけ意識を持つようになった。
それでもまだまだ無意識の方が強くて私自身が気付かないうちにどこかに行ってしまったりしている。今みたいにどこかに不法侵入していた事だって数え切れないほどある。
今だって、もしかしたら―――
「お待たせ、こいしちゃん」
木のお盆を持ったおばあちゃんが戻ってきた。どうやら私の無意識はここに残ることにしたようだ。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけるのよ」
差し出されるのはお茶の入った湯呑み。反射的に受け取って、無意識に息を吹きかける。
おばあちゃんは私の隣に間を空けて座りその間にお盆を置く。視線を向けてみるともう一つの湯呑みとお煎餅が置かれているのが見えた。
おばあちゃんがゆっくりとした動作で湯呑みを手に取る。
「こいしちゃんはどうしてここに来たのかしら?」
「さぁ? 気が付いたらここにいたよ」
お茶をすすってみるとまだちょっと熱かった。
「そう」
それ以上を聞かれる事はなかった。興味がないんだろうか。
そして、そのまま私もおばあちゃんも口を閉ざす。
あるのは、風の走る音、そして時折響くお茶をすする音とお煎餅を齧る音だけだった。
変化は何もない。普段の私ならつまらない、とでも思ってただろう。
けど、何故だか今日は居心地がいい、と思ってしまったんだ。
◆
そんな出会いが一週間前のこと。
今日も私はふらふらとお散歩をしてきた。けど、今の私は自分の意識で歩いている。
一週間前よりも前ならかなり珍しいことだけど最近では普通のことになっている。
私は自らの意志で足を動かしてどこかへと向かう。
目的を持って歩くというのが楽しい、と言うことに最近気付いた。
家が一軒見えてくる。私は玄関の方ではなく裏の方へと向かって行く。
「こんにちは、おばあちゃん!」
いつものようにおばあちゃんが縁側に座ってお茶をすすっていた。私はそっちに向かって駆け寄る。
「こんにちは、こいしちゃん。ちょっと待っててね」
おばあちゃんは挨拶と共に笑顔を返してくれると立ち上がって家の奥へと入って行った。
私はいつもの場所に腰掛ける。そして、そのまま空を見上げてみたりする。
一週間前から私はここに通うようになっていた。
最初の頃は半ば無意識に流されるようにここに来ていたけど、最近は私の意志の方が強くなっている。そのお陰か一週間前よりもぼんやりすることは少なくなってきた。
私の認識していない所で心は少しずつ変わってきてるみたいだ。
「こいしちゃん、お待たせ。……はい、どうぞ」
「ありがと」
お礼を言いながら受け取るとおばあちゃんが微笑みを返してくれた。多分、私も笑顔。
ふー、ふー、と息を吹きかける。ちょっと猫舌な私はこうしないと飲むことが出来ない。
でも、おばあちゃんはそんなことしなくても飲めるのだ。妖怪の私よりも舌は強いみたいだ。
ずずっ……、とお茶をすする。うん、美味しい。
でも、これが本命じゃない。
おばあちゃんが私とおばあちゃんの間に置いたお盆の中を覗いてみる。
そこには真っ白でまん丸なお饅頭が乗せられていた。
「今日はお饅頭よ。遠慮しないで食べてね」
「うん、頂きます」
頷いて一個手に取ってみる。ずっしりと重くて中に餡子が詰まってるんだろう事が分かる。
湯呑みを置いてお饅頭を両手で持つ。両手で持たないと持てないほど大きい、ってわけじゃない。でも、こうやって食べた方がなんだか幸福感が増える。
私は、お饅頭にかぶりつく。予想通り餡子が一杯だった。
甘さが口の中一杯に広がる。粒餡だったみたいで口の中につぶつぶも広がる。
甘さをある程度楽しんでから私は飲み込む。
「こいしちゃん、美味しい?」
「うん! 美味しいよ!」
両手持ちお饅頭によって増幅した幸福感で私の返事は弾んだものとなってしまう。こういう声を出すようになったのもおばあちゃんの所に毎日訪れるようになってからだ。
昔よりもちょっとだけ自分の感情に素直になれた気がする。
「そう、よかったわ」
おばあちゃんもお饅頭を手にとって少し食べると、「うん、美味しい」と笑顔を浮かべる。
私たちの会話は大体このあたりで途切れてしまって後は、お茶を飲んだりお茶菓子を食べながらぼんやりするだけだ。
私がここに来るのはその時間のためだった。
地底にはない太陽がぽかぽかと暖かい。それに、おばあちゃんが隣にいてくれるとなんだか安心できる。
なんだか猫のように丸まってみたい。
青空を眺めているとふわふわと意識がぼんやりとしていく。無意識状態に陥ってぼんやりするのとは違う心地よさ。
暖かく柔らかいベッドの上で横になったときのような安堵感を覚える。意識が乖離していくのを感じながら私は意識を手放した。
◆
……少し硬いけど、安心できる感触。目を閉じたままその感触に心地よさを委ねる。
不意に話し声が聞こえてくる。
一つは聞き慣れたおばあちゃんの穏やかな声。もう一つは男の人っぽいんだけど、初めて聞く声だ。
目を開けてみると日に焼けた顔の男の人がいた。おばあちゃんよりは若そうだけど、里にいる人たちの中では歳を取ってるみたい。
「おっと、起こしてしまったようだな」
謝られる。だけど、寝起きでぼんやりしている私は反応できない。
「じゃあ、婆さん、オレは帰る」
「はい。いつもありがとうございます」
「気にするな」
短くそう言うと男の人は去って行ってしまった。
「……さっきのは?」
身体を起こしながら私は尋ねる。そのときに私がおばあちゃんの膝の上で寝てたらしいことに気付く。
重く、なかったかな。
「里の人たちが私のことを心配して見に来てくれてるのよ」
へえ、そうなんだ。……あれ? わざわざ誰かが見に来てくれる、っていうことは―――
「もしかして、おばあちゃんって一人暮らしなの?」
私は今更のようにそんな疑問を口にする。一週間毎日会っててそんなことに気付かないとは。
でも、昼間しかここには来てないから仕方ないか、と適当に納得する。
「ええ、そうよ。一年くらい前に一緒に住んでいた夫も亡くなってしまったのよ」
おばあちゃんの言葉に私はずきり、と胸に痛みを覚える。
思い出すのはペットたちが死んだ時。私は心を閉ざしていたときでさえこの時が嫌いだった。
もう動かないその身体を見るのはどうしようもなく悲しくて、辛くて、胸が苦しくて……。一度だけ死体に触れてみたことがあるけどそれだけで胸が張り裂けてしまいそうになった。
それからはもう、ペットが死ぬたびに私は逃げるように地霊殿から出ていた。それはきっと、ある程度意識を取り戻した今でも同じ。
……私とは無関係だった生き物の死体は全然大丈夫なのに……。
「こいしちゃん?」
おばあちゃんが顔を俯かせた私に声をかける。
私は顔を上げてみて疑問を抱く。私の視界に入ってきたおばあちゃんの顔が何故だか穏やかだったから。
どうして?
どうして、死を目の当たりにしたのに、自分の近しい人が死んだはずなのにそんなに平気そうなの?
どうして、心を乱さずにいられるの?
「どうして……」
そして、気が付くと私の口から疑問が漏れ出していた。おばあちゃんは私の漏らした言葉の意味がわからないらしく首を傾げている。
だから、私はそのまま思い切って聞いてみる。
「ねえ、どうしておばあちゃんは、人の死を話してるのに平気そうなの?」
ああ。言葉にしてしまってから後悔する。
本当は心の底で悲しんでるんじゃないだろうか、って。私がいるから悲しい気持ちを隠してるんじゃないだろうか、って。
第三の目を閉ざしてしまっている私にはそうだ、と断定することなんて出来ない。でも、私はそうだ、と決め付ける。
「ふふっ、それはね。あの人が死ぬ間際に幸せだった、と言ってくれたから。私といてよかった、と言ってくれたからよ」
今までに見たことないくらいに穏やかな微笑み。
悲しみなんて一切ない。苦しみも、痛みもない。ただただ、幸せ、と言う気持ちだけで溢れている微笑み。
私はその微笑みに見惚れてしまう。
そして、同時に私は思うのだ。
どうして、そんな風に笑うことが出来るんだろう、って。
◆
家に帰っておばあちゃんの言葉と微笑みの意味を考えてみたけど全く分からなかった。
食事中やお風呂に入ってるとき、ベッドに入る直前まで考えてみたけど答えもそれらしきものも見付からなかった。
答えが見付からないことが嫌になって、ベッドに横になってからは別のことを考えていた。
それは、おばあちゃんのために何をしてあげられるか。本人が何かをして欲しい、って言ったわけじゃない。けど、おばあちゃんの話を聞いてから私の心の中で何かもやもやとしたものが出来上がって何かをしてあげないと、という気分になってしまったのだ。
そして、私が思いついたのはおばあちゃんのためのお昼ご飯を用意してあげること。でも、私は料理なんてしたことない。それでも、私は出来ることをやってみた。
私が作ったのは焼き魚の入ったおにぎり。適当に焼いた魚をほぐして醤油をかけてご飯で包んだだけ、という非常に簡単なものだ。
初めて料理をしたにしては結構上手く出来たと思う。どれくらい火を通せばいいか分からなくて魚の表面はかなり焦げちゃってたけど、中まで焼けてたからよしとする。焦げた部分は捨てればいいからね。
そうやって、おばあちゃんと一緒に食べるお昼ご飯を用意した私はいつもよりも早い時間に、いつもよりも少し弾んだ気持ちでおばあちゃんの家を目指す。背中で誰も使わずホコリを被っていた鞄も揺れる。
どうして気持ちが弾むのかは分からない。何かを期待してるんだろうけど、何を期待してるのかは分からない。
けど、悪い気持ちじゃない。なんだか鼻歌を歌いたくなってくる。
ようやく、おばあちゃんの家が見えてきて……。
「あ……」
おばあちゃんの家からいい匂いが漂ってくる。
それが表す意味はとても簡単なことで、ああ、私はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろうか、と思ってしまう。
そう、おばあちゃんだって料理をするのだ。どうして私はそんな簡単な事に気付けなかったんだろうか。
自分のしたことの無意味さに気付いてしまった私はふらふらと縁側の方に近づいていく。不思議とこの場から逃げようとは思わなかった。
いつものように私は縁側に腰掛ける。ここに座る直前、おばあちゃんが台所に立ってる姿が見えた。私はやるせない気持ちになってしまう。
おばあちゃんのお話を聞いたときとは違ったもやもやを感じながら鞄の中からお弁当箱を取り出す。
蓋を開け、中からおにぎりを一個取り出して私はかぶりつく。
おにぎりの形はとっても不恰好でちょっと軽く握っただけで崩れそうになってしまう。しかも、ご飯粒が手にべたべたとくっつく。
けど、そんなことにも構わず食べて切り身の入ったところまで進んだとき―――
「こいしちゃん? 何をしてるの?」
おばあちゃんの声。私がここにいることよりも私がここでお昼ご飯を食べていることに疑問を持ってるみたいな声。
「お昼ご飯食べてる」
振り返らないままそう答えてもう一口ぱくり。醤油の香り、魚のにおいが少し強い塩の味と共に口の中に広がる。ちょっと醤油をかけすぎたかもしれない。
「そうなの。でも、そんな所で一人で食べていても寂しいだけでしょう? 良かったら一緒に食べましょう」
おばちゃんの優しい声に思わず私は振り返ってしまう。手にはおにぎりを持ったままだ。
「……うん、そうさせて」
たぶん、ここで断ったらおばあちゃんは私を一人にしてくれると思う。でも、きっと家の中からずっと私のことを見てくれることにもなるんだと思う。
そんな妙な距離感を感じさせられるくらいなら一緒に食べる方が良かった。
「じゃあ、そうしましょう。それにしても、こいしちゃんの食べてるおにぎり、美味しそうねぇ」
家の中に入るために立ち上がった私におばあちゃんがそう言ってくれる。
「……一人じゃたぶん食べれないから、あげるよ?」
少し考えておばあちゃんの方にお弁当を差し出した。元々そうするはずだったのに何故だか躊躇が生まれてしまった。
「ありがとう。美味しく頂かせてもらうわ」
おばあちゃんの笑顔を見て私は胸の中にむず痒さのようなものを感じていた。
◆
「ねえ、こいしちゃん。何で、貴女は縁側で一人でお昼ご飯を食べていたの?」
おばあちゃんの作ったお味噌汁とか温かいご飯とか漬物とかと私の作ったおにぎりを交換して構成されたお昼ご飯を食べ終わったときおばあちゃんがそんなことを聞いてきた。
おばあちゃんの前にはまだお昼ご飯が残っている。それを見ると胸が締め付けられる。ぎゅっ、と傍らに置いた黒色の帽子を握り締める。
……おばあちゃんにされた質問はかなり答えにくい。結局は私が意地っ張りなだけだったのだ。
おばあちゃんの為に何かをしてあげたい、と思って行動したけどそれが報われない、と思い込んでしまった。でも、そのことが認められなくておばあちゃんの近くにいた。
こういうことは、あまり進んで話したくない。
嘘を吐こうかとも思った。だけど、おばあちゃんが私に向ける笑顔を見てるとそんな気持ちも溶けていってしまって嘘を頭の中で構築することが出来ない。
だから、私は諦めた。諦めて全部を話してしまおうと思った。
「……本当は、おばあちゃんのためにお昼ご飯を作ってあげようと思ったんだ。でも、おばあちゃんが料理してるのを見て、私、余計な事をしちゃったんだなぁ、って思っちゃって」
机の上に残されたお味噌汁やご飯を、そして、空っぽになったお弁当箱を見て、私の胸がずきりと痛む。おばあちゃんは私の作ったおにぎりを優先的に食べるようにしてくれていたのだ。
私も、おばあちゃんが作った物を頑張って食べてあげようとした。だけど、思ったように食べることは出来なかった。
私が縁側じゃなくてもっと別の場所で食べてればおばあちゃんの作った物が残ることなんてなかったはずなのに……。
「おばあちゃん、ごめんなさい……」
私はうなだれてしまう。
本当に申し訳なくて、どう謝ればいいのか分からなくて。
物音がした。
そして、私の頭の上に何かが乗せられる。
「ふふ、こいしちゃんは優しいのね。こいしちゃんが謝る必要なんて全然ないわ」
ああ、私は今頭を撫でられているのだ。
顔を上げてみると笑顔のおばあちゃん。どうしてそんなに優しいんだろうか。
「こいしちゃんが私のためにお昼ご飯を作ってきてくれた、って聞いてとっても嬉しかったわ。それに、一緒にお昼ご飯を食べられて楽しかったわ」
優しい優しい声。心にじんわりと何かが広がっていく。
「ねえ、こいしちゃん。迷惑でなければこれからも毎日、私のためにお昼ご飯を用意してくれるかしら?」
「ううん、全然、迷惑なんかじゃないよ。ぜひ、作らせてよ」
それがおばあちゃんの望みだって言うなら。それが私に出来る償いなら。
料理はお姉ちゃんから教えてもらおう。私一人で上達出来るとは思えないし。
「じゃあ、楽しみにしてるわね。でも、温かい物も欲しくなるでしょうからそういう料理は私が用意するわ。だからこいしちゃん、貴女は二人分よりも少ないくらいの量を用意してちょうだい」
「うん、わかった!」
頑張る、という気持ちを込めて頷いた。けど、それ以上におばあちゃんの料理が食べられる、という嬉しさの方が大きかったかもしれない。
◆
「ねえ、おばあちゃんって誰から料理を教えてもらったの?」
お互いにお昼ご飯の用意をすることを決めてから数日が経ったある日、ふと私はそんなことを聞いてみた。私が何の脈絡もなく疑問を口にするのはよくあることだからおばあちゃんもさしたる疑問も持たずに答えてくれる。
「私の母からよ。私よりもずっとずっと上手だったのよ」
「そうなんだ」
そう頷いておばあちゃんの作ってくれたお味噌汁を飲んでみる。味は濃くもなく薄くもなくちょうどいい。具は小さめで食べやすい。
「おばあちゃんの作った料理だってすごく美味しいよ。おばあちゃんのお母さんの作った料理ってこれよりも美味しかったの?」
「ええ。今の私でもまだまだ追いつけないくらいよ」
昔を懐かしむような表情を浮かべる。お母さんの味を思い出してるのかな?
「こいしちゃんは誰かから料理を教えてもらってるの? それとも、独学?」
おばあちゃんが私の作った玉子焼きを食べながら聞いてくる。
今日は今までで一番上手に巻くことが出来たと思う。失敗も少なくなってきたし結構上達してるんだなぁ、と感じる。それでも、まだまだ、っていう感じだけど。
「お姉ちゃんから教えてもらってるんだ」
初めておばあちゃんと一緒にお昼ご飯を食べた日の夜。毎日、誰かに食べさせてあげるなら料理の腕をあげよう、と思っていた私はお姉ちゃんに料理を教えて欲しい、とお願いした。
そうしたら、お姉ちゃんは今までに見たことがないような笑顔を浮かべて頷いてくれた。
私はそのことに驚いた。断られることはない、と思っていた。けど、あんなふうに笑顔を見せられるとは思ってもいなかった。
それ以来お姉ちゃんが笑顔でいる時間が増えたような気がする。私が原因なんだろうけどお姉ちゃんが何を思っているのかはわからない。
わからないけど、お姉ちゃんが笑顔ならそれでいいか、と思っている。
「こいしちゃんにはお姉さんがいるのね。どんな人なの?」
おばあちゃんは微笑みを全く絶やさないまま聞いてくる。それに釣られてか私の表情も緩んでるのがなんとなくわかる。
それにしても、どんな、かぁ。そういえば、お姉ちゃんのことを考えたことってあんまりない。お燐は話し下手でちょっとだけ人見知りだ、って言ってるけど私やペットたち以外といるのを見たことがないからそうだよね、とは頷けない。
まあ、他人の意見なんか気にせず私の印象でいいか。おばあちゃんもそういう意図で聞いてるんだろうし。
「お姉ちゃんはいっつも眠そうな表情をしてるけど、性格は全然そんなことないんだ。真面目な性格なんだよ。でも、冗談を言えば笑ってくれるんだ。それと、料理も上手なんだ 。私はお姉ちゃんが作ってくれるシチューが好き。あと、動物が好きで、動物にも好かれてるんだよ」
一度話し出してみると思っていた以上にお姉ちゃんのことが思い浮かんでくる。そのことに驚きを感じながらもおばあちゃんに私のお姉ちゃんのことを話していく。
その間、おばあちゃんはずっと微笑みを浮かべて私のお話を聞いていてくれていた。
「……こいしちゃんはお姉さんのことが好きなのね」
私がお姉ちゃんのことについて話し終わるとおばあちゃんが微笑みをそのままにそう言った。
……私はお姉ちゃんのこと好き、なのかなぁ? 心を閉ざしていたせいか良く分からない感情がいくつかある。好き、という感情もその一つだ。
何を持って好きというのか、どうしたら好きになるのか。そんな疑問は持たない。だって感情に何故、なんて無意味だから。
私がわからないのはどんな感情を好き、と呼ぶかだ。
あまりにも混沌としているいくつもの感情の中から一つの感情を見つけ出すのはとっても難しいことだから。
「よくわかんない」
答えながら首を横に振る。何となく申し訳ない気持ちになるのはどうしてなんだろうか。
「じゃあ、こいしちゃんはお姉さんのことをどう思ってるの?」
どう思ってる、かぁ。うん、それなら簡単。
「お姉ちゃんには感謝してるよ。家事なんかは全部お姉ちゃんがやってくれるからね」
本当はそれだけじゃない。お姉ちゃんは心を閉ざしてた私に毎日話しかけてくれていた。私が変わり始めたきっかけをくれたのは霊夢や魔理沙、それとおばあちゃんかもしれない。けど、お姉ちゃんが心を閉ざした私を放っていたらそのきっかけにさえも巡り合えなかったのかもしれないのだ。
「それに、お姉ちゃんと一緒に居るとなんとなく安心できるんだ」
いつも気を張ってるわけじゃないけど、お姉ちゃんの隣にいると力を抜いていられる。お姉ちゃんが近くに居ると無条件で心が休まるのだ。
「なら、こいしちゃんはお姉さんのことが好きなのよ。私も大好きな夫といられてすごく安心できたもの」
好きだと隣にいてくれれば安心できる、かぁ。
うん、なんだか納得できる理由だ。だったら、私はお姉ちゃんのことが好きで間違いないのかもしれない。
帰ったらちゃんと伝えとこう、っと。
「……あ」
あることに思い当たって私は小さく声を漏らしてしまう。
私はおばあちゃんの隣にいるとすごく安心できる。そうやって安心できるからこそ私はここに通っているのだ。
「こいしちゃん、どうかした?」
「えっとね! 私気付いちゃったんだ。私、おばあちゃんのことが好きみたい。一緒にいると安心できるから」
「そう。ふふ、嬉しいわね」
微笑みが笑顔に変わった。それを見て私もなんだか嬉しくなる。
「私もこいしちゃんのこと好きよ」
そして、その一言は私になんとも言葉に形容しがたい感覚を与えた。無理やり喩えるならペットの猫に首筋を舐められたような感じ。あの時と同じくらい抗いがたい感覚に襲われる。
けど、嫌な感じはしない。
ただ、受け入れ方が分からないだけだった。
むぅ、やっぱり感情って難しい。
◆
あれからまた何日かが経った。
その間も私は毎日お昼ご飯を作って、それを食べ終わればおばあちゃんと一緒に縁側に座ってぼんやりと過ごしたり、お話をしたりしていた。
お姉ちゃんと一緒にいるとき、もしくはそれ以上に穏やかな気分でいられた。
そして、今日もまた私はおばあちゃんの所へと向かう。
最近は最初の頃よりも少し早い時間におばあちゃんのところに向かっている。……少し、気がかりなことがあるから。
この頃、おばあちゃんが立ち上がるとき少し身体が揺れるのだ。何か大切な軸を失ってしまった人形のようにふらふらと。もしくは―――
いつも、もう一つのたとえが生まれる前に無意識に別のことを思考していた。
私はおばあちゃんが立ち上がるたびに大丈夫?、と聞く。けど、いつも大丈夫よ、としか答えてくれなかった。
考え事をしていたらいつの間にかおばあちゃんの家に到着していた。
「おばあちゃん! 来たよ!」
いつものように縁側からおばあちゃんを呼ぶ。いつもならすぐに返事が帰ってくるんだけど……。
「―――」
家の中から返ってくるのは沈黙、もしくは静寂だった。
ぞわっ、鳥肌が立つ。嫌な予感がする。
私は勝手に家の中に上がる。
「おばあちゃんっ!」
さっきよりも大きな声で呼ぶ。だけど、やっぱり返事は返ってこない。
怖い、……怖い!
どうして?
だって、……嫌な予感がするから。
その予感は何?
……。
居間を、台所を、物置を、玄関を見る。けど、誰もいない。おばあちゃんはいない。
縁側の方に戻って外に出る。玄関の周り。家の周り。やっぱりいない。この前、おばあちゃんの様子を見に来てた人が歩いてるのが見えたけど無意識に避ける。
やっぱりおばあちゃんは何処にもいない。
……ううん、違う。正確には私がいて欲しかった場所にはいない。
私はふらふらとした足取りでおばあちゃんの家の中へと戻っていく。廊下を進んで襖の閉まった部屋の前に立つ。
この部屋には一度も入ったことがない。だって、用事がないから。でも、何の部屋なのかは教えてもらっている。
恐る恐る襖へ手を伸ばす。
私は何を恐れてるの?
……。
この先は単なる寝室だと言うのに。
…………。
襖を開けると膨らんだ布団が目に入る。そして見慣れてるけど初めて見るおばあちゃんの顔。
「ああ、こいしちゃん、こんにちは……」
今までに聞いた事のないようなおばあちゃんの声に私は思わず駆け寄っていく。
「おばあちゃん、どうしたの……?」
おばあちゃんの枕元には木のお盆と湯呑み。それから見慣れない紙の袋。何が入ってるんだろうか。
何故か頭の中には弱って最後に動けなくなっていったペットたちの姿。
どうして? どうして今その光景が?
……やだ。嫌だ!
そんな想像なんてしたくもない!
「こいしちゃん、私は、大丈夫よ。ちょっと、調子が、悪いだけだから」
おばあちゃんが笑顔を浮かべる。
それを見ていると何とも言いがたい感情が浮かんできて―――
耐え切れなくなって私は立ち上がる。
何かを、何かをしてないと……。
「ねえ、おばあちゃん。私に何かして欲しいことない?」
頭が上手く回らない。だから、私以外に私がどう動くべきかを聞いてみる。
「そうねぇ……。なら、水を、入れてきてくれるかしら。少し、喉が渇いたから」
「うん、わかった」
頷いて木のお盆から湯呑みを取ると私はゆっくりとした足取りで寝室から出て行った。
◆
「はい、おばあちゃん」
思った以上に水を入れるのが早く終わってしまった。
何度もここに通ってて水瓶がどこにあるか分かっていた、っていうのだけが理由じゃない。
色々と考えようと思っていたはずなのに頭は空回りばっかりしていて役に立たなかった。ただ、おばあちゃんに言われたことを実行しよう。それだけに向かって動いていた気がする。
「ありがとう、こいしちゃん」
そう言いながらおばあちゃんが身体を起こそうとする。
私は水の入った湯呑みを木のお盆の上に置くと慌てておばあちゃんに寄って起きるのを手伝ってあげた。
その時に触れた身体から伝わってきた温かさが何故だか私を必要以上に安心させる。私の涙腺を緩ませてしまうほどに。
おばあちゃんは私にお礼を言ってお盆から湯呑みを手に取る。それからひどく緩慢に水を飲んでいく。
昨日と全然違うおばあちゃんの動きを見ているとせっかく手に入れた安心がぼろぼろと崩れていく。必要以上だと思っていたのに既に不足している。
「ごちそうさま。美味しかったわ。こいしちゃんが、入れてくれたおかげね」
いつもの笑顔を浮かべる。けど、やっぱりどこかに弱々しさがある。
「ううん、そんなことないよ。誰が入れても同じだから」
私は小さく首を振る。おばあちゃんの言葉に対してなんだろうけど、別のことに対しても首を振っていたような気がした。
「そんなこと、ないわよ」
私の言葉を否定するおばあちゃんもまた笑顔だった。
……何かの感情が大きく揺れた気がした。
感情が不安定すぎて、少し、気分が悪い。
昔に心を読む私を否定されたときとは全然違う。あの時も確かに私は気分の悪さを感じていた。
けど、あの時は全力で逃げた。逃げて逃げて逃げたその先は私の部屋の中だった。
けどっ、今の私は逃げない、逃げられない。
おばあちゃんから逃げたくないから、感情が私を縛り付けるから。
立ち竦む。何処に行くべきか分からなくなった私は何も出来ない。
「……ねえ、こいしちゃん。昔、私の夫が寝込んだことがあったのよ」
不意におばあちゃんが口を開く。私は道に迷って突然知らない人に声をかけられた子供のようにおばあちゃんの顔を見る。
「そのとき、夫も、歳を取っていたから、周りの人たちは、もう駄目なんじゃないかって、思ってたわ。でも、私だけは、絶対によくなる、って信じてた。そう信じて、看病をしていたら、ある日、突然、元気に、なったのよ。周りの人たちは、皆、驚いていたわ。けど、私は、全然驚かなかった」
「……なんで?」
私の口から出た言葉は何故だか少しかすれていた。
「絶対に、助かると、信じていたからよ。だから、驚く必要なんて、全く、なかったの。だから、こいしちゃんも、そんなに、心配しないで、ちょうだい。そんな顔をしてたら、よくなる病気も、悪く、なっちゃうわ」
「……うんっ。わかった。信じるよ、おばあちゃんは、絶対によくなる、って」
そう言いながら無理やりに笑顔を浮かべた。
「ええ、お願い、ね」
逆におばあちゃんの微笑みは柔らかかった。
―――ああ、どうしてこんなにも不安な気持ちが広がっていくんだろう。
◆
陽が沈んでいき、世界が赤く染まり薄暗くなっていく。
私の前でおばあちゃんが安らかな寝息を立てている。その表情を見ていると何故だかとてつもない不安に襲われる。
だから、私の手は無意識におばあちゃんの手を握っていた。
皺のたくさんある手、細い指。だけど、温もりは確かに伝わってきていて安心できる。
握る手にぎゅっと力を込める。そうすると、おばあちゃんの手が優しく握り返してくる。そんなことも私を安心させてくれる。
「……こいし? どうしてお前がここに?」
不意に真っ直ぐと通る女の人の声が聞こえてきた。
部屋の出入り口のほうに視線を向けてみるとそこには背中の辺りまで伸ばした長い銀髪の女の人が立っていた。頭には箱みたいな形をした変な帽子が乗せられている。
里の警備をしながら寺子屋で人間の子供に勉強を教えている慧音だ。毎日里に足を運んでるから慧音とは何度か里の中で会っている。
初めて会ったときに私の能力を教えてあげたくらいでそれ以降はあまり話はしていない。挨拶くらいはちゃんとしてるけど。
慧音が寝室の中へと入ってくる。そして、私とおばあちゃんの手を見て何かに気づいたようだった。
「ああ、お前が文子殿の看病をしていてくれたのか」
文子? ああ、おばあちゃんの名前か。初めて会ったときは私だけが名乗っていておばあちゃんの名前を聞こうとしていなかった。
でも、なんで今までの間に一度も名前を聞こうとしなかったんだろうか。
『おばあちゃん』というその響きに私が何かを感じていたから?
「こいし?」
何も答えない私に慧音が不審そうに首を傾げる。
ぼんやりとしすぎだ、私!
自らに渇を入れるようにそう思って、さっきの慧音の言葉に答える。
「あ、うんっ、私がみててあげたんだ。看病っていえるかどうかはわかんないけど」
「いや、弱っている者にとって傍に誰かが付いている、と言う事はこれ以上ないくらいに心強い。だから、お前のやったことは十分看病と言えるさ。……忙しい私の代わりに看ていてくれてありがとう」
慧音が頭を下げる。誰かに頭を下げられるなんて初めてだ。
だから、戸惑いが生まれた、気がしたんだけど他の感情の中に埋もれてしまう。
「ううん、私が居たい、と思ってここにいるだけだから」
出てきた言葉はひどく淡白なものだった。他のものに気を取られてしまっているから。
「そうか……」
そのまま私も慧音も黙ってしまう。慧音は私の顔からおばあちゃんの方へと視線を移す。私もおばあちゃんの顔を見る。
静かな静かな部屋。聞こえてくるのはおばあちゃんの静かな寝息。それを聞いているとなんだか安心して気持ちが落ち着いてくる。
だけど、おばあちゃんの穏やかな寝顔を見ていると何故だか不安になってくる。まるで、まるで―――
「こいし、一つ聞いてもいいか?」
「……うん、何?」
おばあちゃんの寝顔を何かと連想しかけた思考が一度止まり慧音の言葉へと向く。だけど、視線はおばあちゃんを捉えたままだ。
「どうしてお前は文子殿の看病をしようと思ったんだ?」
「おばあちゃんのことが好きだからだよ」
考えるよりも先に口が開いていた。驚きはしない。私が思っていた通りのことを言ってくれたから。むしろ意識も無意識もおばあちゃんのことが好きだっていうことが嬉しかった。
「そうか……」
慧音の声は何故だか悲しげなものだった。
どうしてそんな声になるの?
やめて欲しい。
不安になるから、怖くなるから。
「……ねえ、おばあちゃんはよくなるよね」
不安に、恐怖に耐えれなくなって顔を上げて慧音に問い掛ける。
「……っ」
私の顔を見た途端に慧音が声を詰まらせる。
そのことが、私の中の何かを崩れかけさせる。
「……きっと、よくなる。お前が看病してやってるんだから絶対だ」
「ぁ……」
慧音が私の頭の上に頼もしそうな手を置く。
ああ、もう、駄目だ。私の中の嘘が崩れていってしまう。
皆が皆、あまりにも優しすぎるから……。
◆
その次の日から私はもっと早い時間からおばあちゃんの所に行くようになった。
薄暗く肌寒い陽の昇りきっていないそんな時間におばあちゃんの所に行く。
こういう時間に訪れると毎朝、毎夕おばあちゃんの様子を窺いに来ていた、という人たちがおばあちゃんの家の中に居る。……皆、弱ってしまったおばあちゃんの世話をするためだ。
主には料理や洗濯、掃除といった家事全般をやっている。私が出来るのは料理ぐらいだからそれを手伝っている。
話を少しだけ聞いて分かったことなんだけど皆自分のことをしないといけない忙しい中こうしておばあちゃんの世話をしてきているのだそうだ。皆の中で暇なのは私だけ。
だから、大体の家事が終わると皆おばあちゃんの家から出て行く。その時に皆が私によろしく、と言う。
そうして、家の中には私とおばあちゃんの二人だけになってしまう。
料理以外何も出来ない私はずっとおばあちゃんの傍に居てあげる。日に日に弱っていっているのが分かるけどあえて気付かない振りをしている。
そして、おばあちゃんは毎日、日光浴をすることを望んでいる。だから、いつも私が身体を支えて縁側まで連れて行ってあげて私がお茶やお茶菓子の用意をしている。硬い物は食べれないらしいから最近はお煎餅を食べていない。
「こいしちゃん」
いつものようにおばあちゃんと並んで縁側に座っていると名前を呼ばれた。初めて会ったときよりも随分と弱々しくなってしまっていた。
空を眺めていた私はその声に悲しさを覚えながらおばあちゃんの方に視線を向ける。
「遠い、未来のことかもしれないけど、私が、死ぬ時は、笑って送って、ちょうだい。もし、死に目に、会えなかったら、私の身体に、笑いかけてちょうだい。私もそうやって、夫を見送ったのよ」
おばあちゃんが微笑む。それを見ているとどうしようもない感情が浮かんできてそれに耐えられなくなった私は俯いてぶらぶらと揺らす足を見つめる。
おばあちゃんが死んだときに笑う?
……そんなこと、出来るはずがない。
死んでしまうかもしれない、そう思うだけでも辛くて辛くて仕方ないのに。
実際におばあちゃんの死を目の当たりにしてしまえば私はどうしてしまうんだろうか。
でも、おばあちゃんは人間で私は妖怪。だから、いつかは必ず永遠の別れが来てしまうのだ。
「こいしちゃん」
ふわり、と身体が包まれる。気が付くとおばあちゃんに優しく抱き締められていた。
「私は、幸せよ。すごく、すごく、幸せよ。こいしちゃんが、私の家に来てくれて、よかったわ」
優しい声。優しすぎるくらいに優しい声。
私はその声で胸が苦しくなってくる。どうしようもない。何も出来ない。
ただただ出来るのはまばたきの回数を増やすことくらい。
「こいしちゃんは、私にとって、孫みたいな、存在よ。可愛くて、優しくて、料理も上手。それに、こいしちゃんは、私がこうして、ちょっと体調を崩しただけで、心配して、ずっと、傍に居てくれるわ。こんなにも、こんなにも幸せなのに、どうして、泣かれる必要が、あるのかしら?」
視界がぼんやりと滲む。胸がもっと苦しくなる。
「おばあちゃんの、わがまま……」
そう、そうだ。おばあちゃんはなんてわがままを言ってくれるんだろうか。
残される方は、辛いのに。苦しくて、寂しくて、悲しいのに!
「わがままで、ごめんね。でも、今までずっと幸せだったのだから、最後も、幸せでいたいわ。……こいしちゃん、もし、その場で笑うのが難しかったらまたいつか、時間が経ってからでもいいわ。それか、こいしちゃんの中で、私が、辛い存在に、ならなければ、いいから」
……おばあちゃんは、わがままなんかじゃ、ない。わがままなのは、私だ。
辛いのが嫌で、苦しいのが嫌で、寂しいのが嫌で、悲しいのが嫌で、逃げようとしていた。
おばあちゃんが自分から何かを望んでくれたのなんてこれが初めてなんだ。だから、私は……遠い、未来、そのときが来たときに絶対に笑ってみせる!
―――だというのに、頬を伝うこの冷たいものは何なんだろうか。
◆
数日が経った。おばあちゃんは目に見えて弱ってしまいもう起き上がることも出来なくなってしまった。
そんなおばあちゃんに私はずっと付きっ切りだ。地霊殿にも帰っていない。
お姉ちゃんは心配してるだろうけど、そんなことに構っている余裕もなかった。多分、今の私はおばあちゃんの姿が見えなくなっただけでかなり不安定になる。おばあちゃんの傍に居るからこそ自分を保っていられた。
「こいしちゃん、私なんかに構わないで、帰ってあげないと、お姉さんが、心配、するわよ。私は、大丈夫だから」
おばあちゃんからそんなことを言われたけど絶対に聞き入れずにおばあちゃんの手をぎゅっ、と握り締めるだけだった。
「こいし、あまり無理をすると倒れるぞ。私たちがいる間くらいは休んでおけ」
また、慧音からはそんなことを言われた。最初は聞き入れるつもりはなかったんだけど、慧音が、私たちがいない間に倒れて万が一があったらどうするつもりだ、と諭され折れることとなった。
慧音や里の人たちが来たときだけ私はおばあちゃんの隣で寝させてもらっていた。でも、それ以外のときはずっと起きている。
そして、そうやって何日かが過ぎて―――
不意に誰かに頭を撫でられるのを感じた。
ああ、私は寝てたんだ、と理解しかけて―――
「おばあちゃん!」
私は慌てて意識を覚醒させた。無理やりの覚醒に頭が少しくらくらする。けど、そんなことは気にしていられない。
「ああ、こいしちゃん、起こしちゃった、かしら?」
おばあちゃんの穏やかな声が聞こえてきた。そのことに全身の力が抜けそうになるくらいの安心感を覚える。
よかった……。
私が少し身体を起こしてもおばあちゃんは私の頭を撫でたままだった。ちょっと逡巡して、撫でやすいように、と身を屈める。
「ううん、私こそ寝ちゃっててごめん。私が寝てる間に、調子が悪くなったりしなかった?」
「ええ、大丈夫よ」
おばあちゃんが笑顔を浮かべる。
「むしろ、今までにないくらいに気分がいいくらいだわ。だから、少しお話をしましょう」
「うん、いいよ」
そういえば、おばあちゃんが寝たきりになってしまってからはちゃんとお話が出来てなかった気がする。
……胸の奥で何か嫌な予感がするのは気のせいだ。
「いつか、言ったかもしれないけど、私は本当に、幸せよ。色々と、あったけど、夫に出会って、それなりに、穏やかな生活を送って、夫が亡くなった後も、里の人たちに支えてもらって、そして、こいしちゃんに出会って……。私には、勿体なさ過ぎるくらいに良い一生だったわ」
おばあちゃんが私の頭を撫でながら髪を梳く。なんだか、抑えられない感情が溢れそうになってくる。
何かを、言わないといけない気がする。具体的に何を言うべきなのか分からないけどここで伝えたいことを伝えておかないと後悔してしまうような気がする。
「おばあ、ちゃん……」
ああ、なんだって私の声は掠れてしまっているんだろうか。そう、別になんでもない。おばあちゃんは言いたいことを言っただけ。私も言いたいことを言うだけ。それだけ、それだけのはずだ。
深呼吸。大きく息を吸って、息を吐く。落ち着いた、気がしない。
もう、どうしようもないからこのまま口を開くことにする。
「私も、おばあちゃんに会えて、よかったよ。おばあちゃんのお陰で、好き、っていうのが、どんな気持ちなのか、わかったから」
一緒に居ると心地よいと感じられて、いつまでも一緒に居たいと思えて、絶対に失ってしまいたくないという気持ち。
大切な、大切な、気持ち。
でも、本当はそれだけじゃない。私がこうして自分の意識をはっきりと持ってお話していられるのもおばあちゃんのお陰。私の力については何も教えてないから言ってもわからないだろう。だから、言わない。
おばあちゃんに会ってなければもう少し、もしくはもっと時間がかかっていたかもしれない。
私はこのことにも本当に本当に感謝しているのだ。
「ありがとう、おばあちゃん。大好き、だよ」
おばあちゃんへの気持ちを全て込めてそう言った。
なんで全てを込める必要があるの?
ここを逃したら伝える機会なんてないだろうと思ったから。
「ふふ、私も、こいしちゃんのことが、大好き、だわ」
おばあちゃんが笑う。笑顔を浮かべる。
なのに、なのに、こんなときに限って私の視界は滲んでその笑顔がはっきりと見えなくなってしまう。
「こいしちゃん、幸せに、なるのよ…………」
おばあちゃんの手が私の頭の上から滑り落ちていく。
そして、ばさ、と小さく音がする。
「え……」
小さく響く私の声。それ以外の音は一切ない。
「おばあちゃん……」
呼ぶ。けど、反応はない。
「おばあちゃん」
肩を揺する。やっぱり、反応はない。
「おばあちゃんっ!」
声を張り上げる。けど、やっぱり、反応は、ない。
「……」
俯いておばあちゃんは寝てしまっただけなんだ、と自分に言い聞かせる。
また、お話を聞かせて欲しい、と思いながら手を握る。
けど、だけど……握った手は徐々に、徐々に冷たくなっていく。いつか、触れたペットの亡骸から伝わってくるのと同じ温度。
……ああ、おばあちゃんはもう、死んで、しまったのだ。
そう認めることしか出来ない。
ただただ頬を伝う冷たい何かの感触を感じていることしか出来なかった。
そして、徐々に徐々に意識が閉じていく―――
◆
「―――し、こいし!」
大きな振動を感じる。それと、誰かが大声で私の名前を呼んでいる。
「けい、ね……?」
声のした方へと意識を向けてみるとそこには私の肩に手を置いた慧音がいた。
「ああ、そうだ。私だ。……こいし、こう聞くのも間違ってるかもしれないが、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
昔の私を取り戻しかけていた気がする。慧音が声をかけてくれていなかったら私は再び心を閉ざしてしまっていたかもしれない。
「こいし、文子殿は……」
「あ……」
慧音の言葉で私は誰の手を握っていたのか思い出す。自然と視線が下に向く。
おばあちゃんはとっても穏やかな表情を浮かべていた。今にも私の名前を呼んで微笑みかけてくれそうなほどに。
けど、ぎゅっ、と手を握ってみても冷たさしか感じない。生き物の温もりは感じられない。
「おばあちゃん、幸せ、だったん、だね……」
「ああ、そうだろうな」
隣で慧音が頷いた気配が伝わってくる。その頷きに、そうだよね、と胸中で呟く。
だから、おばあちゃんの言葉を思い出して笑ってみる。幸せでよかったね、と祝福を込めて笑顔を浮かべてみる。
おばあちゃんのあの穏やかな微笑みを思い出しながら。
「ねえ、慧音。私、笑えてる、かな……」
おばあちゃんの眠っている布団の上にいくつもの水滴が落ちる。ああ、もう、誰が水を零してるんだろうか。布団って干すの、大変なんだよ。
「大丈夫だ。しっかりと、笑えている」
慧音が静かに答えてくれる。
それに対して、私は震える声で「よかった……」と返すことしか出来なかった。
◆
縁側に座って足をぶらぶらと揺らす。
横にはお茶の入った湯呑みとしっけたお煎餅が置かれている木のお盆が置いてある。
……けど、隣には誰もいない。
しっけたお煎餅を一枚取って齧ってみる。硬い。中途半端にしっけているせいでだいぶ頑張って噛まないといけない。これは歯に優しくない。
でも、私はそのまましっけたお煎餅を食べていく。
さわさわと吹いてきた風が私の前髪を揺らす。気持ちのいい風だ。
風の音に混じって鳥たちの楽しそうな囀りも聞こえてくる。
今日はなんだか世界全てが穏やかになってしまっているようだ。
「こいし」
どこまでも真っ直ぐに届きそうな声が私の名前を呼ぶ。最近は私のことを知っている人が多くなってきたけど、声で誰が呼んだのかはわかる。
「おかえり、慧音。……皆は?」
おばあちゃんの死が里中に広まった翌日、つまりは今日、おばあちゃんのお葬式があった。私はお葬式には参加したけど埋葬をする所までは見届けようとは思わなかった。
この家以外にいるおばあちゃんを私は知らない。だから、おばあちゃんがこの家から運び出された時点でおばあちゃんとのお別れは済んでしまった。
後のことは皆に任せて、私だけここに残らせてもらったのだ。
「皆ならまだ文子殿の傍にいる。私は皆からお前を慰めろ、と言われてな。……それと、個人的にお前に謝っておきたいことがある」
「謝りたいこと?」
首を傾げてしまう。私には何のことを言っているのかさっぱり検討がつかない。謝られる側のはずなのに。
まあ、それよりも立ったまま話すのもなんだよね。
「ああ、そうだ。私は―――」
「慧音、座って話そう? 立ってたら、疲れるでしょ? お茶を入れてくるから座って待っててよ」
先に急ごうとする慧音を止めて私は食べかけのお煎餅をお盆の上に置いて立ち上がる。
「あ、ああ、わかった」
慧音が頷いたのを確認して私は家の中へと入っていく。お湯はさっき沸かしたばっかりだからまだ熱いくらいだ。
少しも迷わず湯呑みを取り出してお茶を注ぐ。……私も、随分この家に馴染んだものだ。
湯呑みにお茶を入れて縁側の方に戻る。
「慧音、お待たせ。……はい、どうぞ」
縁側に座っていた慧音へと湯呑みを手渡す。おばあちゃんから湯呑みを受け取っていた日々を思い出す。
「ありがとう」
お礼を言う慧音の隣に腰掛ける。けど、隣にいるのがおばあちゃんじゃないからなのか落ち着かない。
「それで、慧音。私に謝りたいことって?」
「ああ、前に私がこいしに文子殿は大丈夫だ、って嘘をついただろ? そのことを謝りたくてな。……すまない」
慧音に頭を下げられる。
「いいよ、謝らなくて。嘘だって気付いてたし、騙すのが目的じゃなかったんでしょ?」
「まあ、そうだが……教鞭を執る者として嘘をつくわけにはいかないからな」
本当に嘘をついたことを後悔しているみたいだった。なんとなくお姉ちゃんのことを思い出す。そういえば、もう何日も家に帰ってないなぁ。
「真面目なんだね、慧音って」
「ああ、周りの者からはよく言われるよ」
私が笑うと慧音も小さく笑い返してくれた。それから、慧音が自嘲気味に口を開く。
「ははっ、私がこいしの事を慰めに来たはずなのに、私の方が慰められるとはな」
「まあ、私は慰められる必要なんてないからね。……でも、そうだね。時間があるんならちょっと私のお話を聞いて欲しいかな」
そう言ってからお煎餅の最後の一欠けらを口の中に放り込む。最後の最後まで硬かった。
「ああ、話を聞くくらいならお安い御用だ」
表情を改めてこっちをじっ、と見つめてくる。改められると逆に話しにくいなぁ。まあ、慧音がそういうことはきっちりしたい性格だから仕方ないんだろうけど。
「慧音、そんなに改まらないでいいよ。気楽に聞いてて。そんなに真面目なことを話すわけじゃないんだから」
仕方ないから、といってそのままにはしたくなかった。出来るだけこの場の雰囲気に合わせるようにして欲しい。
和やかで落ち着ける雰囲気に。
「む、そうか」
そう頷いた途端、慧音の周囲にあった緊張が和らぐ。あれ? 思ったよりも力を抜くのは慣れているようだ。人の前に立つことが多いからかな。
まあ、なんでもいっか。とにかくこれで話しやすくなった。
「……私がおばあちゃんと初めて会ったのはこの縁側なんだ。そのときの私は今の私よりもぼんやりとしててあんまり感情を表に出してなかった。でも、気が付けば私はおばあちゃんの所に通うようになっていた―――」
話しながら私は笑顔を浮かべる。いつかおばあちゃんが自分の夫のことを話したときに浮かべていた穏やかな笑みを浮かべようとしてみる。
「何日か通って、私はおばあちゃんが一人暮らしだ、って事を知った。その時に、何かをしてあげないと、って思うようになったんだ。そこで、私が思いついたのはお昼ご飯を作ってあげる、ってことだった。まあ、失敗しちゃったんだけどね―――」
苦笑が混じる。今の私はあの時の私よりも少しは考えてから行動できるようになったのかな? そうだと、いいな。
「でも、なんと言ったっておばあちゃんとの思い出は縁側でお茶を飲みながらぼんやりしてたことだね。おばあちゃんの隣は、とっても、居心地がよかった。毎日でも、一緒にいたいと、思える、くらいにね。……好き、っていう、気持ちを、教えてくれたのも、おばちゃん、だった」
なんでだろう。笑顔を浮かべているはずなのに視界が滲んでいく。声も掠れていく。
「私は、おばあちゃんが、大、好き。いなくなっても、ずっと、ずっと、ず、っと……」
溢れる涙が止まらない。頬を止め処なく冷たい雫が伝う。やっぱりおばあちゃんとの約束は守れそうにないみたいだ。
「笑う、って難しい、ね……」
必死に笑顔を浮かべようとする。だけど、おばあちゃんのあの穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶたびに涙が溢れて、笑顔も崩れていく。
「ああ、そうだな」
慧音の声が静かに混じる。その中に、私の小さな嗚咽が混じる。
耐えられなくなった私はその場で俯いてしまう。零れた涙がスカートを濡らす。
ごめんね。おばあちゃん。今の私はまだ笑えないみたい。
でも、いつかはきっとおばあちゃんがそうしてたみたいに、おばあちゃんのことを思い出しながらも穏やかな笑顔を浮かべられるようになるから!
だから、だから、今だけは泣かせて、もらうね……。
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人里に住むとある老婆が亡くなってからいくつかの年月が流れた。
老婆が住んでいた家は今もなお残されている。けれど、誰も住んでいない。
代わりにとある妖怪が定期的にその家に訪れては家の手入れをしている。
彼女は誰も使わないというのに家の隅々まで手入れをしていく。
けど、そのお陰で老婆が亡くなったあの日からほとんど老朽化が進んでいない。もしかすると、里の中で最も長く建ち続ける建物になるのではないかとさえ噂されている。
彼女は家の手入れが終わると縁側に座ってお茶を飲んだりお茶菓子を食べたりしている。それらは彼女の里の知り合いが彼女に分けてあげたものだ。
また、彼女が縁側にいると時々里の子供達が彼女の周りに集まる。
彼らは彼女の事を「こいしお姉ちゃん」と呼んで慕っている。
けど、そう呼ばれると彼女はいつも恥ずかしそうにする。けど、同時にどこか得意げでもあった。
彼女がよく彼らにしてあげるのは話を聞かせてあげる事。
昔、その家に住んでいた老婆の事を話すのだ。
彼女の話す内容は刺激を求める子供にとってはとても詰まらない内容だろう。
けど、子供達は誰も退屈せずに彼女の話に耳を傾けている。
だって、彼女はあんなにも穏やかな笑みを浮かべているのだ。
誰もが彼女の笑みに魅了されているのだ。
―――こいしはおばあちゃんのために笑えるようになったのだ!
Fin
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