「あっ」、という声が二人分、夕暮れ時の人里に重なる。
一人は人間の女の子だった。外で遊び始めて間もないだろう彼女は、道の出っ張りに足を引っかけたのか、まさに宙に身を投げ出されているところだった。
もう一人は妖怪の少女―秦こころ―だった。ちょうど転びゆく女の子の後ろを歩いていた彼女の表情には何も浮かんでいないが、代わりに驚きを表した面が頭に付いている。
そんな少女たちの前には、恐らく女の子の兄であろう少年が歩いているが、後ろの異変には気が付いていないようだ。
そして、女の子はお手本のように転ぶ。手をつくこともなく、身体の前面を地面へと叩きつける。
その音によって、少年は女の子の異変に気が付いたようだ。振り返ると、慌てたように女の子の方へと駆け寄っていく。そして、だいじょうぶか、だとか、痛くないかなどと声をかける。こころもまた駆け寄ろうとしていたが、少年の行動を見て見守ることにしたのか、途中で足を止める。
最初、女の子は歯を食いしばるようにして無言で頷いていた。でも、彼女にとってその痛みは許容範囲外だったのか、堤防が決壊するようにして泣き出してしまう。
少年は女の子の様子に狼狽えてしまっていた。なんとか泣き止ませようとしているものの、おろおろと放たれる言葉は、女の子の耳へと届かず、泣き声にかき消されてしまう。それでも少年は諦めようとはしないけれど、効果はないようだ。
「だいじょうぶ?」
見守るだけにしようとしていたこころが、二人へと話しかける。少年は今まで彼女の存在に気が付いていなかったようで、驚いたような様子を見せる。でも、すぐにそれは助けを求める表情へと変わっていた。
こころはそれを見て、任せろと言わんばかりに頷く。頭に現れているのは、引き締まった表情の面。その姿から感じられる頼もしさは、狼狽えていた少年を多少は落ち着かせる。
こころは霊力によって作り出された青白い扇子を取り出す。青白くぼんやりと光る扇子は、そこにあるだけで、場の雰囲気を塗り替える。更にそこに、こころがすぅ、と息を吸い込む。彼女の即席の舞台が出来あがる。
ばっ、と扇子を広げると、同時に小さな光の玉が打ち上がった。沈みゆく太陽にさえも飲み込まれてしまいそうな光だったけれど、こころの頭上辺りで小さな爆発音とともに七色に花開き、強く存在感を示す。
その音に驚いた女の子が泣き止む。恐る恐る顔を上げると、二発目の花が彼女の瞳を彩った。
女の子の瞳が、外と内の光によってきらきらと輝く。三発目の花は、彼女の心を奪い取っていた。女の子はもっとよく見るためか、痛みを忘れたように立ち上がる。
それから、こころは光の花とともに舞う。無数の花が七色をばらまき、少女を幻想的に照らす。女の子も少年もその演舞に見惚れていた。
剽軽な表情の面はさも楽しげで、こころの頭の上を飾っている。しかもそれだけでなく、同じ物が複数、周囲を踊っている。人ならざる者は、たった一人の女の子のために、幻想的な舞台を形作る。
最後にぱしんと軽快な音を立てて、扇子を閉じた。その場の全てが、しんと静まる。
しばしの余韻の後、二人の観客から拍手がまき起こる。女の子の頬に涙は残っていたけれど、顔はすっかり笑顔で彩られていた。
「けがはだいじょうぶ?」
こころは首を傾げながら、そう問いかける。舞っていた際の幻想性は、儚く消え去っていた。今はただ、親しみやすそうな少女性だけを纏っている。
女の子は転んでいたことと一緒に痛みを忘れていたのか、再び泣き出しそうになる。こころは、それを宥めるように話しかける。
「転んだくらいなら、たぶんだいじょうぶ。一応、けがの具合を見せてもらう」
そう言いながら、女の子の前でしゃがみ込んで、怪我がないかを見ていく。無表情だけれど、真剣だというのが纏っている雰囲気から窺える。その姿に釣られるように、女の子は固唾を呑むような表情を浮かべている。
女の子は、顔と膝を少し擦りむいたくらいで、血が出るほどの傷とはなっていない。痛みもそのほとんどが転んだ衝撃によるものだったのだろう。
「これくらいなら、ちょっとおまじないをかければだいじょうぶ。痛いの、痛いの、飛んでけー」
言葉の節に合わせて指を回して、最後に光の玉を空へと向けて飛ばす。女の子は、その光を目で追いかける。涙の気配は完全に消え去っていた。
「よし、これでだいじょうぶ。今度は転ばないように気をつけて」
女の子はその言葉を確かめるように、手足を動かす。それから、こころを見上げて、満面の笑顔を浮かべると、
「うんっ。ありがとう、おねーちゃん!」
そう元気よく告げた。
「どういたしまして」
こころの表情はぴくりとも動かないけれど、頭の面が代わりに微笑み返している。その姿は、近所の子供たちに懐かれるお姉ちゃんそのものだ。
「あなたは、その子がまた転んだりしないように、手を繋いだりしてあげて」
「う、うん」
こころに諭された少年はぎこちなく頷いて、女の子の手を掴む。若干赤くなっているのは、致し方ないのだろう。女の子は手を握り返しながら、少年の様子に首を傾げている。
「あ、そうだ。あなたたちに、これをあげよう」
少年の様子に全く気が付いていないこころは、どこからか面を取り出して、女の子と少年にそれぞれ一つずつ渡す。女の子が受け取った物は笑顔を、少年が受け取った物は優しげな表情を浮かべていた。
「これなに?」
女の子がじーっと手元の面と向き合ったまま問いかける。首を傾げているのは面の方だった。
「それは、あなたがもっと魅力的に笑顔を浮かべられるよう後押しするもの。それと――」
ぼうと面を見つめる少年の方へと視線を向ける。
「――あなたのは優しさを後押しするもの」
そっと響く声で告げる。こころに多かれ少なかれ魅了されていた二人には、託宣のように聞こえたかもしれない。
「二人ともそんなものは必要ないかもしれないけど、これも何かの縁と言うことで」
「ありがとう」
女の子と少年の声が重なる。二人とも片手で大切そうに面を抱えている。
「どういたしまして。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うんっ。ばいばい、おねーちゃん!」
女の子は元気よくぶんすかと手を振って、
「う、うん。またね、おねえちゃん」
少年は控えめに手を振って、家路を歩いて行った。
「自分の本体の一部あげちゃうなんて、お人好しだねぇ」
女の子と少年の姿が見なくなったところで、不意に少女の声がこころへと話しかけた。
「あれは本体とは別だから問題ない」
こころは平然と答えながら、声のした方へとちらりと視線を向ける。そこに立っていたのは、閉ざされた第三の目を持つ古明地こいしだった。
大抵の人妖は、突然彼女に話しかけられると驚くのだが、こころはすっかり慣れきってしまっていた。
「ふーん。そんなもんに効果あるの?」
こいしは、こころの隣に並ぶように立ってそう聞く。視線は、女の子と少年が去って行った方に向いている。
「どうなんだろ。多少は私の力が宿ってるみたいだけど、効果はあるかもしれないし、ないかもしれない。興味あるの?」
こころはこいしの方を見て首を傾げる。こいしの表情からは何も読み取ることは出来ない。
「ないのに聞くと思う?」
「じゃあ、聞き方変える。欲しいの?」
こころは何かを感じ取ったのか、一歩踏み込むように問いかける。
「いらない。私は今のままで十分満足してる。ほら見て、この完璧な笑顔」
こいしはにっこりと可愛らしい笑顔を浮かべる。作り物めいたそれは確かに魅力的ではあったが、充足しているかどうかは伴っていない。むしろ、どことなく空虚な印象を与える。
「作り笑いが完璧なのと、満足してるかどうかは関係ないと思う」
「それはこころの判断基準であって、万人に共通する認識じゃない」
笑顔を消して、無表情に断ずる。こころは怯まず、あくまでマイペースに告げていく。
「そうかなー。でも、聞いてもないのにわざわざ満足してるって言うのは、自分に言い聞かせてるように聞こえる」
「それは、人の心を勝手に動かそうとする不届き千万な物を押しつけられないようにするための賢い予防線」
「むぅ……」
こいしの言葉に対する反論は思い浮かばないが、納得もいかないようで、小さくうなり声を漏らしている。諦めてしまうという選択肢はないようだ。
「それにしても、そのお人好しっぷりはなんなの? 端から見てて気味悪い」
「私は元々道具だから、他人の役に立ちたいって気持ちになりやすいのかも。あと、異変の時にいっぱい迷惑をかけたから、その償いをしたいっていうのもあるかも」
こいしの悪口を気にした様子もなく答える。
「確かに幻想郷中の人間、妖怪の心をめちゃくちゃにしてたよね」
「うん。こいしには特に悪いことをしたと思ってる」
「なんのこと? むしろ私はあの異変を最大限に楽しんでたけど」
「それは確かにその通りだったと思う。でも、それは私の希望の面のおかげでしょ? ……中途半端に夢見させちゃったのは、悪いかなって」
最後の方は、少し沈んだものとなっていた。
こころが初めて見たこいしは、明るく皆の中心にいる人気者だった。でも、異変が収まると――正確には旧希望の面が力を失っていくに従って、こいしの存在は忘れ去られていき、彼女自身も中心から輪の外側へと消えて行ってしまっていた。
こころにとって、あの異変での心残りはこいしのことだけだ。それ以外は、概ね満足できる終わりを迎えた。だからか、異変の最中はライバル視していた彼女のことも、今は親身になりたいと思ってしまう。
「じゃあ、私が新しい希望の面が欲しいって言ったらくれるの?」
「あげられないけど、代わりにちょっとした手助けくらいは出来る物は渡せる」
「ふーん」
「こいしは前に進む勇気さえ持ってれば、上手くやれる気がする。あの異変の時だって、ちゃんと人気者になれてたんだから」
「勝手な憶測で私の望みを捏造しないで。私は人気者になんてなりたくない。独りで平気」
「という訳で、これをあげる」
こころはこいしの言葉を無視して、外の世界から流れ着いたという面を取り出す。鮮やかな色合いながらも安っぽく、けれどだからこその親しみやすさがある。山の上の巫女曰く、子供にとっての英雄の顔を象った物という話だ。
「話聞かないのは、私の特権なんだけど」
「私もこいしの話を聞き流すのは得意」
頭の上に無駄に偉そうな表情を浮かべた面を付けてそう言う。こいしはそれに無表情を返す。
「本気で新しい希望の面にするつもりで持ってたものだから、他のに比べて、私の力が強く宿ってるのは保証する。受け取っといて損はないと思う」
「ゴミ捨て場ってどこにあったっけ」
こいしは面を受け取りながらそんなことを言う。それでもこころは慌てない。のんびりとした様子で、諭すように答える。
「こいしの部屋のゴミ箱にでも捨てとけばいいんじゃないかな。それなら、捨てたことを後悔しても、すぐに取り戻せる」
「私は一度捨てた物には決して目を向けないのです」
「何を捨てたのか忘れるから?」
「そうそう」
「……まあ、いいや。それはこいしの好きにして」
こいしに面を渡せることが出来ただけでも満足なのか、これ以上言っても無駄だと判断したのか、それ以上無理に面を持っているよう強制しようとはしない。
「わかった。灼熱地獄にでも投げ入れとくね」
そう言って、こいしは何歩か前へと進む。こころからは、背中しか見えなくなってしまう。
「ではでは、お腹が空いたから私はこのへんで。また面白そうなことやってたらいじりに行くからよろしくねー」
ひらひらと手を振りながら歩き去っていく。どことなく面を大切そうに抱えているように見えたのは、果たしてこころの理想が作り出した幻想なのかどうなのか。事実を知るのは、当の本人だけである。
そして、こいしの未来を想いながら、こころもまた家路に就くのだった。
◇
「あなたにこれをあげる」
人里で人気者の秦こころ。
彼女はたまに、自らの持つ面を誰かへと与える。
その人の感情をより魅力的にするために、もしくは足りない感情を与えるために。
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