あなたはだあれ?
膝と手を床についた体勢で鏡の中に映る誰かへと向かってそう問い掛ける。
けど、答えてくれない。
当たり前だ。音として響かず、頭の中に浮かび上がっただけなのだから。
「あなたはだあれ?」
私が口を動かすと鏡の中の誰かも口を動かす。
けど、響く音は一つきり。重なる音は一切ない。
それも当たり前だ。鏡に映っているのは私の虚像。
私自身であり、私自身ではない嘘の姿。
虚像だから手を伸ばしても返ってくるのは鏡の冷たく硬い感触だけ。だというのに、目の前のそれは正確に私を映し出している。
あなたはだあれ?
もう一度、心の中で問い掛ける。今度は私自身に向かって。
……。
待ってみてもだあれも答えてくれない。まあ、仕方がない他でもない私へと向けられた質問で、私自身が答えようとしないのだから。
……ふむ、少々面倒くさいけど答えてみようか。
私はフランドール・スカーレット。ここ紅魔館の主レミリア・スカーレットの妹。普段は地下に閉じ込められていて余程のことがない限り外には出られない。出る気がない。
時々、自分の意思に反して物を壊してしまうときがある。
……こんなもの、かな。
ピシッ
不意に鏡にひびが入る。どうやらまた、のようだ。
ひびが徐々に大きくなっていき私の姿が細かく切り裂かれていく。そして……
パリンッ!
小さく音を立てて鏡は完全に砕けてしまった。鋭く高い音を響かせながら小さな鏡がその場に降り積もっていく。
無意識に握り締めていた右手を開く。
鏡にはばらばらに砕け散った私が映っている。綺麗な鏡に映る私よりもこっちの方が私らしい。
私の意志に反して周りにあるものを無差別に壊してしまうバラバラな心。愛しいお姉様も、大好きな咲夜も私の意志に関係なく壊そうとしてしまう。
周りの家具だってそうだ。どれもこれもほとんど原型を保っていない。この鏡だったものは咲夜が用意してくれたものだけど、三日と持ちやしない。初日に壊れなかっただけましっていうものだ。
テーブルも、椅子も、ベッドもぬいぐるみも服も靴も全部ぜーんぶ等しく壊してしまった。この部屋にあるもので壊れていないのは私の身体と、この部屋くらい。
あなたはだあれ?
自分以外の全てを壊して生き続ける私はだあれ?
床にぺたん、と座り込んで問い掛ける。
…………
答えは返ってこない。それは、私の中に私以外がいないと言う何よりもな証拠。
私の中にもう一人の私がいればいいのに……。そう思えば私は自分自身に落胆せずにすむ。私は悪くないと正当化できる。
……そうやって、そうやって毎日毎日毎日、後ろ向きにわずかな希望を持って現実と言う絶望にぶつかる。
飽きもせず、飽きもせず。繰り返し、繰り返し。
ああ、私に正常な部分なんて何一つとしてないのかもしれない。壊れたように同じことを何度も何度も繰り返しているのだから。
……壊したい。
でも周りには壊れていないものなんてない。
……こわしたい。
壊れた物を壊すことなんて出来ない。
……コワシタイ。
気が付くと右手に何かが握られていた。これをきゅっ、と握り締めれば何かが壊れる。
少し力を込めて身体に痛みが走る。
我慢してもう少し力を込めれば身体の表面を液体が伝う。
そして、最後に力をきゅっ、と右手を握り締めようとして―――
「こんにちはー」
―――目の前に逆さまの女の子が映った。
目の前に突然現れた女の子は翠の瞳でこちらを見ている。水色がかかったような銀髪と黄色のリボンがついた帽子を手で押さえている。
そして、女の子が浮かべているのは薄い薄い笑み。
「……あなたはだあれ?」
一度目は鏡に映った私。二度三度目は私自身。そして、四度目は目の前の女の子となった。
「ん? 私は古明地こいし」
薄い笑みから笑顔へと変わる。だけど、やっぱりどこか希薄な印象が拭えない。掴み所がない。
「こんな所にいるとあなたを壊しちゃうわよ」
そう言いながら私はこいしとかいう女の子を見つめ返す。いつもなら侵入者がいれば容赦なく目を掴んで潰すのに、今日は何故だかそんな気分にならない。
でも、言葉にする。それが義務であるかのように。
「それは怖い怖い」
笑顔のまま全然怖がっていなさそうな声でそう言う。むしろ楽しんでいるような気さえする。
「ねえ、そろそろ元に戻ってもいいかな? この体勢頭に血が上ってかなりきついんだけど」
「……勝手にすればいいじゃない」
「いや、どうしても突っ込みが欲しくてね、っと」
身体を半回転させてこいしが緑色のスカートを翻しながら床の上に降り立つ。その際に鏡の割れる音。こいしは一切気にした様子もないようだ。
「それにしてもすごい赤だね。吸血鬼って自分の血も飲むものなの?」
こいしが首を傾げる。それにあわせて胸元で揺れる何本かの管が伸びた大きな目も揺れる。
「飲まないわよ。あなただって自分の指を切って食べたりはしないでしょう?」
「それもそうだね。食べる、っていう行為は外部から何かを取り入れるからこそ意味がある行為だからね」
そう言いながら何故かこいしが近づいてくる。
私は離れようとも近づこうとも拒絶しようともせずに傍観する。まるで、他人事のように。
こいしは私の前まで近づくと床に膝をつく。膝に鏡の欠片が刺さって血が流れ出る。そのまま手も床について手からも血が流れる。そのどちらも気にした様子はない。
私の赤に濡れた腕へと顔を近づけてくる。
そして、不意に腕にざらざらとした何かが触れる。暖かく濡れている。全身を包む鈍い痛みの中、その感触だけが異色を放っている。
「……何してるのよ」
私の腕に舌を這わすこいしにそう問い掛ける。こいしが血のついた顔をあげて笑顔を浮かべる。
「血ってどんな味がするのかなー、って思ってね」
そう言って小さく顔をしかめる。……どんな表情を浮かべても希薄な感じがするのはなんでなんだろうか。
「あんまり美味しくないんだね。これなら、チョコの方が美味しいよ。……というわけで、はい、どうぞ」
スカートのポケットから取り出した紙に包まれた何かを手渡された。こいしの言葉を信じるならチョコが包まれているんだろう。
私はこいしから渡されたそれをぼんやりと眺める。紙はこいしの手から出た血で赤く染まっている。
なんでこんなものを渡してきたのかは全く分からない。行動の一つ一つに脈絡がなさ過ぎる。
「おっと、ごめんごめん。いつの間にか血が出てたみたいだね」
今ようやく気付いたみたいだった。でも、やっぱり痛みを感じているような様子はない。
「どう、舐めてみる? 吸血鬼にとってはチョコよりもこっちの方がいいのかな?」
手が差し出される。まだ血が内側から溢れ出てきているのか手のひらから手の甲へと伝い腕に筋を作り肘から滴って床にいくつものまだら模様を作っている。
私は半ば反射的に身を乗り出す。紙に包まれたチョコが落ちる。手が砕けた鏡に触れてしまう。けどそのどちらも気にしない。こいしの言うとおり血の方が魅力的だし吸血鬼にとってこの程度の傷は何ら問題がないから。
「さ、どうぞどうぞ」
私はこいしの手に顔を近づけてその赤を舌で舐め取る。砂糖にも似た甘みが口の中に広がる。
人間のそれに比べれば美味しくないけれど、妖怪の中では特に美味しいと言える。最近、こうやって直接血を味わうことなんてなかったからか私は私自身を止めることが出来ない。
舌が勝手にこいしの手を舐めていく。
「どう? 美味しい?」
頭上からこいしの声が聞こえてくる。私はそれに答えようともせずに舐め続ける。
血の筋を追って手首、腕、肘と舐めていく。
「ふふっ、そんな所まで舐めたらくすぐったいよ。でも、貴女が欲しいって言うんならいくらでも舐めさせてあげるよ。噛み付いたりとかはさせないけどね」
こいしの言葉は気にしないで今度は再び溢れてきた血を追って肘、腕、手首と上へ、上へと舌を這わせていく。そして、手の甲へと辿り着く。血の筋もないから一心不乱に傷口ばかりを舐め続ける。
紅茶に混ぜられたそれとは違う濃い味に私は酔いしれる。けど、
「……ねえ、貴女、私のペットになってみない?」
その言葉を聞いて私はぴたり、と止まる。もう傷口からはあまり血も溢れてこない。
「私のおうちに来たらこんな狭いところになんか閉じ込めたりなんかしないよ。まあ、地下であることにはかわりないけどね」
「嫌よ」
顔をあげてこいしの顔を見据えてそう言い放つ。誰かのペットになるなんてごめんだ。
「なんで? 自分が何者なのかわかんないんでしょ? だから、『古明地こいしのペット』っていう肩書きをあげようと思ったのに」
「あれは、そういう意味じゃないわよ」
ただ、誰かを傷つける自分を自分以外の誰かにしたかっただけ。
「そうだったんだ。それは残念。吸血鬼をペットに出来たらお姉ちゃんに自慢できたのに」
こいしが残念そうな口調でそう言う。でも、諦めたような感じはない。
何かを考えるような表情を浮かべた後、こう言う。
「じゃあ、無理やり連れて行くってのはどうかな?」
考えて言ったにしてはかなりお粗末な提案だった。ほんとに何か考えていたんだろうか。
「あなたは私がそれに頷くとでも思ってるのかしら?」
「やっぱりだめかぁ」
こいしが大して残念じゃ無さそうに言う。こいし自身も本気で私が頷くとは思っていなかったみたいだ。
ま、当たり前か。
……あれ? おかしい。何かがおかしい。
そう、そうだ。ここまで好き勝手言われているのに私は一切こいしに対して攻撃らしい攻撃をしていない。
明らかに異常だ。初対面の相手にここまで言われて私が何も仕掛けないなんて。
「……あなた、私に何かしてるの?」
「何か? うーん、なんだろ。私って無自覚に能力を使ってるときがあるからなぁ。まあ、とりあえず保身の為に攻撃衝動は抑えさせてもらってるけど」
それだ。それが私をいつも以上に大人しくさせているんだ。
「……ねえ、こいし。私の攻撃衝動をずっと抑え続けることって出来ないかしら?」
「出来ないことはないけど……、私のペットになって私と一緒に暮らしてくれる、っていうんならやってあげるよ」
「それは……」
「嫌ならいいよ。私はこのまま立ち去るだけだから」
こいしが意地悪そうな笑みを薄く浮かべる。当然だろうけど、気付いてしまったんだ、私の望みに。だから、その弱みにつけこんでくる。
ここから離れることなんて出来ない。離れた方がお姉様や皆に迷惑をかけることはないんだと思う。でも、そうしてしまうときっとお姉様や他の皆に心配をかけてしまう。
「家族と離れるのが嫌だ、って言うんなら家族のことを忘れさせてあげることもできるよ。それと、家族の記憶の中から貴女のことを消すことも出来るよ。記憶の忘却、ってのは無意識の仕業だからねぇ。それくらいなら朝飯前だよ」
……それなら安心だ。お姉様に心配をかけることもない。お姉様たちに忘れられるのは嫌だけどお姉様たちのことを護るためには仕方がない。
「じゃあ、お姉様たち……この紅魔館に住んでる人たち全員の中から私の記憶を消して」
「ん、了解、っと」
こいしが頷く。
これで―――、あれ? なんだっただろうか。
「さ、行こうか。随分と血で汚れちゃってるから家に帰ったらまずはお風呂だね。……そういえば、名前を聞いてなかったね。なんて言うの?」
私の顔を真っ直ぐに見てそう聞いてくる。私の名前は―――
「フランドール・―――」
この後に何かが続いたような気がしたけどなんだっただろうか。思い出すことが出来ない。
とても大切だったような気がするけど頭の片隅にも残っていない。
……まあ、いいか。思い出せないってことは覚えてなくても問題ないということだろう。
「フランドール……、愛称はフランかな? よろしくね、フラン」
こいしが笑顔を浮かべる。私も笑い返した。……何故か頬を冷たい雫が伝ったけど。
◇
私はフランの手を引いて家へと向けて帰る。フランは何の抵抗もなく私についてくる。
あの館にいた人たち全員にはちゃんとフランのことを忘れてもらった。
それと、フランは家族から自分の記憶を消して欲しい、と言ってたけどきっとそれだけだと辛いことだろうからフランの記憶からも家族のことを消しておいてあげた。私はなんてフラン想いなのだろうか。
……ふふっ、それにしてもお姉ちゃんに私が吸血鬼をペットにしたと言ったらどんな反応を返してくれるだろうか。驚くかな、羨ましがるかな、尊敬してくれるかな。
想像するだけで楽しくなってくる。
と、不意に手を引いてフランが話しかけてくる。
「……ねえ、こいし。ペットになるってことは私に首輪でもつけるのかしら?」
「んーん、逃げようとしない限りはそんなものつけたりしないよ」
大抵のペットは首輪を嫌がるからねぇ。それが原因で逃げ出す子までいる始末だ。ちゃんと世話をしてあげれば首輪がないほうが逃げにくかったりする。
「そう。よかったわ」
安心したように頷いたかと思うと紅い瞳が私の瞳をじっ見つめる。フランの瞳に私の瞳が映っている。
意識が吸い込まれていくのを感じるけど逃げられない。微かに瞳が輝いたように見えたけどたぶん気のせい。
「……じゃあ、こいし、ちゃんと私に優しくしてね」
「うん、わかった」
……あれ? 私の意志に関係なく頷いてしまった。
うーん。ま、無意識に動いてるんだからそんなこともあるよね。
それと、いつの間にやら握るフランの手がとても大切なもののような気がするようになってた。最初に握ったときからだっけ? まあ、なんでもいいか。
愛しい愛しいフランの手を引いて家に向かう。お姉ちゃんになんて紹介しようかなぁ。
Fin
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