朝起きると時計が止まっていた。

 昨日の夜は忘れずにねじを巻いたはずだ。だから、普通なら止まっているはずはない。
 考えられるのは、壊れてしまったということ。
 お姉様からこの時計を貰ってから確か百年くらい。それが妥当な長さなのかはわからないけど、大切にしていたものだから悲しさを感じる。
 でも、それは物の寿命をこうして迎えさせてあげられるくらい長い間、力を制御できているという証でもある。そういう意味では、悲しいばかりではない。

 それにしても、今この時期に時計が壊れてしまうなんて、なんだか暗示めいていてイヤだ。心なしか空気も静かになっているような気がして、部屋から出ることが怖い。
 気のせいだとすませたいけど、それではすませられないのもまた事実。それに、現実を見ようともせずに逃げても、結局誰かからその現実を告げられてしまうだろう。
 だから、部屋に引きこもっていたって意味がない。それだったら、全く時間のわからない地下に時間の概念を取り戻すために、誰かに新しい時計を用意して貰う方がよっぽど有意義だろう。

 ……今のお姉様には頼みにくいから、パチュリーのところに行くのがいいのかな?

 そう決めて、取りあえず着替えようと振り返ってみると、

「おはようございます、フランドールお嬢様」

 咲夜がいた。それも、あり得ない状態で。

「……もしかして、お別れを言いに来てくれたの?」

 咲夜は老衰してベッドの上から動けなくなっていた。でも、今私の目の前にいる咲夜にそんな様子は一切ない。見た目も若返っていて、数十年前の、初めて咲夜に出会ったときとそう変わらない姿となっている。
 だから、とっさに浮かんできたのはそんな言葉だった。

「それなら、よかったんですけどね。お嬢様にはまだ伝えていない事もありましたし」

 歯切れ悪くそう言う。別れを告げに来たのでなければ何をしに来たのだろうか。その様子から、私の考えが完全に間違っているわけでもなさそうだし。

「ただ今この空間の時間は、レミリアお嬢様によって止められてしまっています」

 咲夜が告げたのは、そんな衝撃的な事実だった。


 初めての近しい誰かとの別れは、素直なものになりそうにはなさそうだ。





 咲夜の話によると、お姉様はどういったわけか咲夜の能力を発動させて時間を止めているらしい。
 お姉様と咲夜は私が羨望するくらいお互いに理解し合っていたから、それが関係してるんだろうかと思うけど、確証はない。パチュリーに聞けば何かわかるかもしれないけど、今はそんなことを確かめていても意味がない。

 私がそんな空間の中で動くことができているのは咲夜のおかげらしい。なけなしの力でこの世界に介入して、私という存在をねじ込んでくれたそうだ。今、お姉様に再び時間を動かすよう説得できるのは私だけだと見込んでくれて。

「では、レミリアお嬢様をこの空間から引きずり出すよう、お願いしてもいいですか?」
「うん、いいよ」

 当然私は一も二もなく頷いた。お姉様のいない世界なんて想像することができない。それに、お姉様が時間の止まった世界に留まるということは、この一瞬後にはお姉様が死んでしまっているということだろう。そんな姿を見るのはとても耐えられない。

「では、行きましょうか」
「あ、着替えたいからちょっと待って」
「着替える必要なんてあるんでしょうかね?」
「ある!」

 お姉様の前ではできるかぎりみっともない格好はしていたくない。今みたいに緊急の場合でも。
 というか、そういった考えは咲夜も持っているはずだ。最終的には気にしなくなってたけど、満足に動けなくなってお姉様に看病され始めた頃はそういったことを気にしていた。

「まあ、急ぐ必要もないですし、いいでしょうか。とはいえ、待たされるのも嫌なのでできるだけ早くお願いしますね」
「わかった」

 咲夜がこちらに背を向けるのを見てから、着替えに取りかかった。





 咲夜の部屋へと向かう途中、聞こえてくるのは自分の足音だけだった。
 館内がどんなに静かでも、いつもなら微かに外の音が聞こえてくる。だというのに何も聞こえてこないというのは、時間が止まっているということに他ならない。
 あたりは静寂に満ちているにも関わらず、咲夜の動きの音は一切届いてこない。咲夜が音を殺しているわけではなく、そういう存在となってしまっている証だ。
 でも、背筋を伸ばして歩くその姿ははっきりとしていて、気を抜いてしまえば死んでしまっているという事実を忘れてしまいそうになる。突然若返ってしまったのだと言われた方が、素直に納得できてしまいそうだ。
 ……単純に、咲夜の死を受け入れたくないだけなんだろうけど。

 と、不意に咲夜が右へと曲がり、部屋の中へと入っていった。考えごとをしていたから全然気づかなかったけど、咲夜の部屋に到着したようだ。
 咲夜が力の使用を控えるようになってから、館の廊下は短くなった。だから、やけに短い時間でたどり着いたように感じてしまう。それでも、幻想郷の中ではかなり長い部類に入る。

 そんなことより、私はこれからこの部屋の先にいるかもしれないお姉様を説得しなければいけない。今更ながら、そんなことができるんだろうかと後込みしてしまう。
 でも、やるしかないんだろう。咲夜はできる限りお姉様に関わろうとしていないみたいだし。

 そうやって、理屈で自分を後押ししてドアノブを回す。

「何をしてるんですか?」

 扉の向こう側、腰に手を当てた咲夜が立っていた。何か呆れているようだ。

「早くこちらに来てください」

 咲夜はこちらに背を向けて部屋の奥へと向かう。そうすると部屋の中の様子が見えてきて、お姉様がいないことがわかる。
 霊体である咲夜とベッドに横たわった咲夜の身体しかいない。

「……お姉様は?」
「別の場所にいますよ」
「お姉様のことは?」

 咲夜のことだから、何か考えはあるんだろう。その意図を汲むことはできないけど。

「真っ直ぐお嬢様のところに向かってもいいですが、逃げられると思いますよ。外から介入されるのを恐れていらっしゃるでしょうから」

 外、という言葉に私は軽い衝撃を受ける。咲夜の口からだったからなんとか受け止めることができたけど、お姉様の口からその言葉が出ていたらどうなっていたかわからない。

「ですが、お嬢様がフランドールお嬢様のことを無視しきることは不可能です。ですから、逃げる気がなくなるまで適当に時間を潰しましょう」

 咲夜の言葉は嘘ではないだろう。お姉様の私に対する想いは知っているから。
 それでも、今お姉様にとって私は部外者であるという状況は、自信を容赦なく削っていく。

「フランドールお嬢様、渡したい物があるので机の引き出しを開けてくれますか?」
「……あ、うん」

 内に意識が向いていたせいで、少し反応が遅れてしまった。

「しっかりしてください。今、レミリアお嬢様をここから追い出せるのはフランドールお嬢様だけなんですよ?」
「……うん、ごめんなさい」

 咲夜の声は厳しい。私と同じくらいお姉様を慕っているのだから当然だろう。お姉様が立ち止まるようなことは絶対に望んでいないはずだ。それが自分のせいだというのなら尚更に。

「まあ、フランドールお嬢様ならレミリアお嬢様を前にした時になんだかんだ何とかするとは思いますけどね。それより、先ほど私が言った事は聞いてましたか?」
「うん、だいじょうぶ、聞いてたよ」

 説得力を持たせるように机の方へと向かいながら答える。咲夜が渡したい物とはなんなのだろうか。どこに何を納めているのかも知らないから、見当も付かない。
 少し緊張しながら、机の引き出しを開ける。ほとんど物が入っていないのかその手応えはとても軽い。それは、生涯咲夜が物欲にとらわれることなく、ただ一心にお姉様の傍にいたいと願っていたのだという証でもある。
 そこに納められたナイフもその象徴だろう。

「お嬢様、私からこのような事を言う必要もないと思いますが、私の代わりにレミリアお嬢様を護って差し上げてくれますか?」
「……護られてるだけだった私にそんなことができるかな?」

 軽い引き出しの中は、これ以上にないくらいに重い物が入っていた。抱えきれる気がしなくて、触れることさえ躊躇してしまう。

「本音を言うと、それほど頼りになるとは思っていません。私以上にお嬢様を理解して支えて差し上げられる者がいるはずがありませんから」

 自信に満ち溢れた声だった。技術だけではなく心の面でも咲夜は私の持っていない物をたくさん持っている。
 でも、私だってお姉様を慕っている。咲夜の言葉を黙って聞いているなんていうことはできない。

「それは、咲夜がお姉様の傍を占領してたから。……これからは、私がお姉様を理解して、支えてみせるよ」
「挑発されてようやくそう言えるというのはまだまだ弱いですね」

 不謹慎なことを言ってしまっただろうかと思ったけど、咲夜は笑みを浮かべていた。さほど悔いがないからこそ、そうやって笑っていられるのだろう。こんなことになっていなければ、こうして私の前に現れることもなかったんだと思う。

「ですが、それを言えるという事は、いざという時には大丈夫でしょう。少しばかり頼りにしてますね」
「うん、頼りないかもしれないけど任せて」

 こういうときくらいもっと自信のありそうな言葉を口にすべきだったかもしれないけど、断言するくらいが限界だった。それでも、私にしてはかなり珍しいことだ。

「ねえ、ホルスターも貰っていい?」
「はい、いいですよ。クローゼットに入れてあるので取ってください。ですが、銀のナイフなんて常備してて大丈夫なんですか?」
「そういえばどうなんだろ」

 避けてきたというわけではないけど、今まで銀に触れたことはなかった。宝石のような七色の羽をはじめとして例外の多い身体だから、試してみなければわからない。

 だから、ナイフの刀身にそっと触れてみる。自分が傷つくかもしれない恐怖より、咲夜の象徴に触れるということに遠慮を感じてしまう。
 返ってくるのは冷たく硬い感触。他者を拒絶するような、そんな印象を抱く。
 しばらく待つと硬質さだけとなる。
 異常は、特にない。

「うん、だいじょうぶ、だと思う」

 すぐに影響が出てこないというだけで、後からじわじわと出てくるという可能性がないとも言い切れない。まあ、そのときはそのときで、早めに離したりして対処すればだいじょうぶだろう。

 というわけで、引き出しを開けたままクローゼットの方へと向かう。
 開けてみると何種類かのメイド服と二着の寝間着が目に入ってきた。これ以外の服を着ている姿を見たことがないから驚きはさほどでもなかったけど、並んでいるのを目にすると感慨深さがある。ここまでお姉様に一途だったのかと。
 同時に、こんなにもお姉様を想っている咲夜の喪失が与える影響を考えると胸が痛くなってくる。

 気持ちが暗くなってくるのを感じながら、ホルスターを見つけだして早速足へと取り付けようとして止まる。

「咲夜、ちょっとむこう向いてて」
「別に下着が見えても気にしませんよ。というよりも、見えても大丈夫なようにドロワーズを穿いてるのではないのですか?」
「わざわざ見せたいとも思わない」

 寝間着姿で部屋から出ることさえ躊躇ってしまうのだ。だからこそ穿いているともいえる。

「しょうがないですねぇ」

 そう言って、こちらに背を向けてくれた。もたもたしている間に振り返られてしまってはかなわないから、すぐに床に座り込んでホルスターを太股に巻き付ける。
 それから立ち上がって、引き出しに近寄り、数本のナイフをホルスターに差す。残りのナイフは、落ち着いた頃に取りにくればいいだろう。
 一応、ホルスターを付けた足を振ってみるけど、ずれ落ちるようなことはなかった。

「いいよ」

 自分の姿を見下ろし、スカートの少し乱れた部分を直してから声をかける。
 初めてこういったものを付けるから違和感がある。でも、ずっと付けていれば慣れるだろう。たぶん、今日から毎日身に付けることになる。

「ふむ、ちゃんと付けれているようですね」

 私の姿を見た咲夜は小さく頷いている。見かけに関しては問題なさそうだ。ホルスターは咲夜から見えないからちゃんとできているのかわからないけど。

「さて、渡したい物も渡せましたが、まだお嬢様の所へ向かうというのは尚早でしょう。……どうしましょうか」
「……どうしようか」

 普段なら、逃げるお姉様を捕まえるのも容易だっただろう。時間を止めて追いかければいいのだから。でも、今はすでに時間が止まってしまっているのだから、そういうわけにはいかない。
 館の空間を掌握している咲夜はお姉様の位置を把握することができているみたいだけど、身体能力では咲夜はおろか私もかなわない。だから、追いかけるなんていうことはできない。

「まあ、取りあえず館の中を適当にうろつきながら時間を潰しましょうか」
「動く意味はあるの?」

 時間を潰すだけならこの部屋でもいいと思う。

「お嬢様を追いつめるためですよ。最もお嬢様が渇望している私と避けたいと思っているフランドールお嬢様がこうして共にいるのですから、必然こちらの気配を追って、気が気ではなくなるでしょう」

 ……やっぱり、お姉様は私を必要ないと思ってるんだろうか。

「……はぁ、全くもって面倒くさい姉妹ですね。さっきしっかりしてくださいって言ったばかりですよね? いいですか? お嬢様がフランドールお嬢様をお避けになられているのは一過性のものにすぎません。私の死に囚われすぎていらっしゃるだけです」
「そう、なのかな……?」

 呆れている様子で説明をしてくれる咲夜。
 でも、実際にお姉様が前にいないから欠片も納得できない。そして、同時に完全に絶望することもできず、不安で心を揺らされるばかりだ。

「そうです。まあ、頑固者なので言葉で気を引くのは難しいでしょうが、キスの一つでもすれば簡単にフランドールお嬢様へと意識は向きますよ。当然ですが、頬ではなく唇に、ですよ」
「なっ、なに、言ってるの……?」

 驚きで跳ね上がった言葉は羞恥によってすぐ萎んでいってしまう。意識せず視線が咲夜から逃げてしまう。

「半ば冗談で言ってみた本気の提案ですよ」
「……それは、冗談って言えるの?」
「どうせ聞き入れてはくれないだろうという意味での冗談です。まあ、根気強く話しかければそれで大丈夫だと思いますよ。あの方は、フランドールお嬢様の存在を無視しきることなんてできませんから」

 そうあってほしいと願う。

 普段ならここまで不安になることはない。でも、近しい人が死んでしまうという未体験に遭遇して、普段なんてものは跡形もなくなってしまっている。
 それにここ最近、咲夜にばかり気を向けているお姉様の背中を見ていたから、それが不安に拍車をかけている。本当に、お姉様は私を見てくれるんだろうかと。

「フランドールお嬢様、顔を合わせる前にあれこれ考えて勝手に沈んでいたって仕方がありません」

 そう言ったかと思うとふと咲夜は考え込む。

「いや、どん底まで落ち込んでいた方がお嬢様も気を引いてくださるかもしれません」
「……相変わらず、咲夜はお姉様中心なんだねぇ」

 私のことをどうでもいいと思っているような発言に呆れてしまう。でも、咲夜らしいと思うから怒る気にはならない。私の中にも似たような部分はあるし。

「それが私であるという事ですから」

 不安で仕方がない私とは対照的に、自信に満ちた声で答える。その姿は、私の目には眩しく映る。

「立ち止まっているから余計な事を考えてしまうんですよ。気分転換も兼ねて歩きましょう」
「……うん」

 私が沈んでいたって仕方がない。
 そう考えながら、頷き返した。





「そういえば、なんで咲夜は吸血鬼にならなかったの?」

 目的もなく館の中を歩いているとき、ふと思いついたことを聞いてみた。今まで疑問に思うことはなかったけど、よくよく考えてみればおかしな話だ。お姉様の傍にいることで自身を確立している咲夜が寿命を延ばそうとしないのは。
 何か複雑な理由でもあるんだろうか。

「怖いからですよ。レミリアお嬢様と同じだけの寿命を得ることで、その死を目の当たりにしてしまうかもしれないことが」

 色のない淡々とした声だった。

「フランドールお嬢様は、この気持ちわかりますよね?」
「うん……」

 寿命という観点で考えたことはなかったけど、お姉様の死を目の当たりにするのが怖いというのはよくわかる。私は自分の意志とは関係なく、その命を刈り取りかねない力を持っているから。

「でも、お姉様がこうなるだろうってわかってて自分の臆病さを貫くなんて、咲夜はわがままなんだね」

 お姉様を守るためと言って自らを殺そうとした私の口から出るにはふさわしくない言葉かもしれないけど、自然とそう言っていた。それに、咲夜がわがままだというのは長い時間一緒にいたことでわかっている。
 たぶん、咲夜を非難するような気持ちが気づかないうちに自分の中に溜まっていたのかもしれない。お姉様をあんな状態にしてしまったことに対する。

「ええ、私はどうしようもないくらいわがままなのですよ」

 淡い笑みからは申し訳なさがにじみ出していて、私は自分自身の言葉を後悔した。
 ……他人の批判なんて、慣れないことはすべきではなかったかもしれない。

「それにしても、フランドールお嬢様はあまり悲しそうにしないんですね」

 咲夜自身、あまり触れられたくないことなのか話題を逸らすようにそう言ってきた。
 私としてもイヤがられるような話題を続けていたくはないから、少し考えて答えを用意した。

「……たぶん、咲夜が死んだっていう実感がまだないから、かな。こうして、面と向かって話すこともできるし」

 お姉様じゃないからというのも思い浮かんできたけど、それはきっと違う。死を意識すると、ぎゅっと胸を掴まれるような感触がある。

「こうして触れてもですか?」

 咲夜が私の肩に触れようとする。でも、その手は身体を突き抜けて、その部分に冷たさだけを与える。
 それは、死の証と言えるのだろう。でも、

「うん。咲夜とはいつも距離があったような感じだったし」
「ふむ、言われてみればそうだったかもしれませんね」

 全く触れられたことがないということはないだろうけど、記憶には残っていない。私の記憶の中の咲夜は、いつでも一定以上の距離をとっていた。
 とはいえ、避けられている感じがあったとうわけでもなく、お互いに距離を詰めようとしていなかったというだけだろう。二人して、お姉様以外の優先度は低かったし。

「さて、そろそろいいでしょうかね」

 不意に立ち止まった咲夜がそう言う。

「……お姉様が逃げるのを諦めたの?」
「はい、そういうことです。とにかく最初は軽い拒絶の言葉でしょうでの今のうちに踏ん張っておいてください。私ではフランドールお嬢様の支えになることはできませんので」
「うん」

 出てきた声は思っていたよりもはっきりとしていて、思っていたよりも色がなかった。

 覚悟することもできず、ただ感情が逃げているだけなんだと理性が冷静に分析をしていた。





 テラスへと続く長い階段を上がっていく。霊となった咲夜と歩いていると、地獄から抜け出す途中のような、そんなイメージを抱いてしまう。天国への階段だと思えないのは、周りが薄暗いからだろう。
 階段の先にある扉の向こう。お姉様が外の景色を眺めながら紅茶を飲むためによく訪れるその場所。そこにお姉様がいるのだろう。咲夜との思い出を携えて。

 咲夜が扉の前で動きを止める。私が先に行けということだろう。
 咲夜の身体をすり抜けて、冷たいノブを掴む。この向こう側でお姉様がどんな表情を浮かべているのか、何を言われるのか想像ができなくて緊張する。
 でも、立ち止まっているのも不安で一気に扉を開けた。

 そこには、お姉様がいた。
 こちらに背を向けていて表情を窺うことはできない。でも、伝わってくる雰囲気はとても重くて、声をかけようという気概が一気に削られていく。
 だから、私は無理矢理一歩前に出た。
 そのまま、同じ要領で足を動かしていきお姉様の前へと回る。

「お姉、様……」

 声が詰まった。
 今まで見たことのない表情を浮かべていたから。

 どこまでも無表情で、けど、それがただ表情を押し殺しているだけだというのがわかるくらいに、悲しみが滲み出てきている。
 見ているこちらの胸が締め付けられるくらいに悲痛な表情だった。そんな表情を浮かべているお姉様を見たくなくて顔をそらしそうになってしまう。
 でも、ここで私が逃げてしまえばお姉様はこの表情を浮かべ続けているかもしれない。それが心の底からイヤで、私は続く言葉を必死になって紡ぐ。

「ねえ、帰ろう? 咲夜は、お姉様がここに留まることを、望んでないし、私もお姉様に、帰ってきて、ほしい」
「……ごめんなさい。出来ないわ、そんな事」

 私の言葉に頷いてはくれなかった。断られたことよりも痛々しいその声が胸へと突き刺さる。

「……咲夜もごめんなさい」

 お姉様は私の心情に気づいた様子もなく、扉の前にいる咲夜の方へと振り返る。
 ぐらりと足元が崩れるような感覚を抱く。その場に座り込まなかったのは奇跡的だといってもいい。でも、押されてしまえば簡単に倒れ込んでしまうだろう。

「謝るくらいなら、今すぐ私を解放してください」
「……」

 お姉様は答えない。答えないまま再び私の方へと顔を向ける。
 先ほどまでの無表情はなくなっていた。代わりに浮かべられていたのは微笑み。悲しそうで悲しそうでどうしようもないくらいに悲しそうで、微かに幸せそうな。

「フラン、貴女はここにいるべきではないわ。私のことは忘れて、貴女の時間を生きなさい。私は、咲夜といるから」
「……ぃ……ゃ……」

 そっと背中を押すような拒絶の言葉。でも、全く私を見ていないお姉様の意識が私を突き飛ばす。
 自然と声が漏れてきていた。でも、限界まで掠れてしまっていた声は意味を届けない。音を届けていたかも怪しい。

 ……。

 イヤだと拒絶するのは簡単だ。でも、今のお姉様に私の言葉が届くとは思えない。咲夜の言葉も単なる慰みのようなものだったのではないだろうか。
 なら、私が説得する意味なんてあるんだろうか。このまま、お姉様の好きにさせてあげた方がいいんじゃないだろうか。

 でも、でもっ、私はお姉様から離れたくない。だから、考えないといけない。お姉様から離れつつ離れない方法。
 矛盾してる? どこかを無理矢理納得させればこの程度の矛盾は解消できる。
 そのために私はナイフを一本取り出す。咲夜から譲り受けた異形を裂く銀の凶器。

「フラン……?」

 お姉様が私の行動を訝しむ。咲夜も眉を顰めている。この場で何をするかわかっているのは私だけのようだ。
 いつも二人とも察しがいいだけに、場違いにもその様子を愉快だと思ってしまう。

「咲夜、ごめんなさい。私の言葉はお姉様に届かないみたい」

 清々しいくらいの声で言う。

「でも、このまま出ていくのもイヤだから、私の一部を置いてくよ。それで、私は満足する」

 ナイフを振り上げて狙いを定める。指では足りない。なら、腕が一番切り落としやすいだろうか。

「フラン!」

 椅子の倒れる音が聞こえてくる。でも、気にせずナイフを真っ直ぐに振り下ろす。

 鋭い刃はたやすく皮膚を突き破り、何か硬いものへとぶつかる。同時に想像もしていなかった痛みが腕の中で熱を持つ。

「……っ!」

 漏れそうになった声を必死にかみ殺す。代わりに涙が溢れてくる。ここで声を出してしまえばきっとこれ以上の痛みは耐えられない。
 痛みを抑え込むように一度、深呼吸。息が乱れてきているのを感じながら、ナイフを動かす。
 激痛と共に腕の付け根から赤が流れ出てくる。ついでに涙も。
 これは、かなり時間がかかりそうだ。もしくは途中で心が折れてしまうかもしれない。でも、私しか実行には移れない。

「……フランっ!」

 不意に腕を掴まれた。ナイフは腕から抜けてしまい、傷口から止めどなく血が溢れ出してきている。
 この場でこんなことをするのもできるのも一人しかいない。

「何をしてるのよっ!」

 顔を上げると怒ったようなお姉様の顔が正面にあった。泣きそうにも見える。なんにせよ、先ほどまでとは違ってお姉様の意識の中心にはしっかりと私がいた。

「……お姉様がやりたいようにさせてあげたかったし、私はお姉様から離れるのがイヤだったから」
「だからってなんでこんな! あー、もう、こんなに血が出てる! とにかく、大人しくして待ってなさいっ!」

 まくし立てるようにそう言うと、扉を突き破るんじゃないだろうかというくらいの速度で館の中へと入っていった。実際は、勢いよく開けたせいで蝶番が外れるだけだった。……だけ?

「……っ」

 お姉様の行動に呆気に取られていたせいで忘れていた痛みが、不意に冷静になったことで蘇る。反射的に手で押さえてしまうけど、余計に痛いだけだった。でも、放すこともできず、手は濡れていくばかりだ。
 じくじくといつまでも続く痛みに苛まれる。

 一度、お姉様を守るために自分自身に向けて力を使ったことがある。あの時は全身に傷を負ったけど、こっちの方が痛いような気がする。
 たぶんそれは、今すぐに傷が塞がっていく様子がないから。あのときは、怪我を負ってからすぐに傷は塞がっていき痛みも収まっていった。
 やっぱり、銀は吸血鬼の弱点のようだ。触れただけでは何の害がなくとも。

 傷口を押さえたままうずくまる。そうでもしないと、気がおかしくなってしまいそうだ。
 なんでこんなことをしたのかなぁと後悔する反面、お姉様の意識をこちらに向けさせられたのだから満足している面もある。我ながら、呆れる価値観だと思う。でも、そうやって私は自我を確立させていったのだから、まあ仕方ないと思う。

「……咲夜、ごめんなさい。貰ったナイフで、こんなことしちゃって」

 痛みと腕を伝う血の感触に耐えられなくて、気を紛らわすために咲夜に話しかけてみる。

「全くです。結果的にお嬢様がフランドールお嬢様へと意識を向けたからよかったものの、止めに入らなかったらどうするつもりだったんですか?」
「……たぶん、あのまま、腕を切り落としてたと思う」

 実際に可能だったかはともかくとして、それをやり遂げようとするくらいの気持ちはあった。

「……お姉様が、私を見てなかった。だから、私は必要ないんだって。でも、何もしないで出ていくのも、イヤだった。だから、少しだけでも、お姉様の傍にいたかった。私の一部だけでも、お姉様といれば満足するんじゃないかって、思った」

 でも、実際には刃を入れた段階で止められた。私が自分の腕を切り落とすようなことはなく、ただ無意味に傷ついただけで終わってしまった。
 お姉様の意識が向いている今、再び同じことができるとは思えない。お姉様に見捨てられた、そう思って自棄になっていたからこそ実行することができたから。
 それに、あんなに必死そうな声はもう聞きたくない。

「私はこの問題が解決するまで、フランドールお嬢様を解放する気はありませんよ。例え心が壊れてしまったとしても」
「そんなふうに、見えた?」

 自分ではあの時点でもまだ冷静なつもりだった。酷かった時期は、本当に自分自身が抑えられなくなることが多々あった。あの頃に比べればかなり大人しいものだったと思う。

「命令されたならともかく、自らに刃を向けるなど正気の沙汰だとは思えません」
「それを、面と向かって言うのは、結構、酷いと思うなぁ」

 でも、それほど気にはならない。たぶん、咲夜の言ってることは正しいから。

「一応、私がいなくなった後にレミリアお嬢様を支える存在として期待してますからね。それを裏切られれば、冷たく当たりたくもなります」
「……それは、ごめん、なさい」

 いくらお姉様の優先順位が遙か上にあって、それ以外はさほど気にしないとはいえ、責められれば萎縮してしまう。例え、その声が軽いものでも。

「まあ、いいですよ。このことに関しては終わってから反省してください」

 そう言って咲夜はテラスの向こう側へと視線を向ける。うずくまっているからここからは見えないけど、何を確認しているのかはわかった。
 耳を傾けることでも確認できる。

「まだ問題は解決していません。これからが本番だと言っても過言ではないでしょう」
「……うん」

 咲夜の言うとおり。まだ時間は止まったままなのだ。
 私はこれから、お姉様の考えを否定しなければいけない。今まで全面的に肯定していたものを。

 できるかできないかではなく、するしかない。





 少しして、お姉様は治療道具一式を持って戻ってきた。扉が閉まっていたら吹き飛ばしていたんじゃないだろうかというくらいの勢いだった。
 でも、そんな勢いに反して私の腕の治療する手は慎重で、消毒をされたとき以外に大きな痛みを感じることはなかった。

 今は包帯を巻き付けられた状態で、先ほどまでに比べれば痛みも引いた。とはいえ、痛みがなくなったというわけではなく、今もじくじくとした痛みを感じる。しばらくの間は、この痛みが消えることはなさそうだ。
 ちなみに、腕に突き刺したナイフは服で血をぬぐい取ってホルスターに戻している。今更多少服が汚れたところで気にならない。

「……」

 治療を終えたお姉様は私たちに背を向けて座っている。私は治療の時に椅子に座らされたままで、なんとなく立ち上がれなくてお姉様の顔を見に行くことができない。

「フランドールお嬢様。黙って座っていても何も進展しませんよ?」
「……咲夜が直接関わった方がてっとり早い気がするんだけど」

 起きてからここに来るまでゆっくりと考えている時間がなかったせいで失念していたけど、咲夜の方が私よりもお姉様のことを理解できているのだ。だからこそ、どうしていいかわからなくなっている私よりも簡単にお姉様を説得させられるような気がする。

「それはできません。死者である私が生者であるレミリアお嬢様に関わっていいなどという道理はありませんから。それに、私が関わることでこれ以上お嬢様が私に固執してしまう可能性も否めませんし」

 そんなものなんだろうか。外の世界ではそうかもしれないけど、ここでは死者が生者に、生者が死者に関わったとしても問題はないような気がする。
 でも、後者の言い分に関しては反論することができない。咲夜と私の大きな違いはお姉様の弱さを知っているか否かというところにある。だから、お姉様の弱さを口にされてしまうと何も言えなくなってしまう。
 今、問題の根底にあるのは、咲夜の死を受け入れられない、もしくは咲夜に囚われてしまっているお姉様にあるのだ。

「何を言えばいいのかわからないと言うのでしたら、私を殺してください。今はお嬢様がこの空間を作りだしているとはいえ、力の大本は私ですので」
「そんなの、できない」

 ふるふると首を振る。お姉様のためになるといっても、誰かを傷つけることはできない。誰かを傷つけるというのは私が最も恐れていることで、そんなことを自分の意思でしてしまえば、自分自身を保てなくなってしまうと思う。

「でしたら、頑張ってお嬢様を――、あ……」

 お姉様がテラスから飛び出ると同時に咲夜は言葉を途切れさせた。さっきまでお姉様が座っていた椅子は倒れてしまっている。
 何の予備動作もなく本当にいきなりだった。

「ふむ、追い詰めすぎてしまいましたかね」
「……ねえ、咲夜も私のことあんまり言えないんじゃないかな」

 たぶん、お姉様がああして飛び出してしまったのは私たちのせいだろう。私たちがあまりにも自分のことを大切にしていないから。

「そんなことはありませんよ。私はレミリアお嬢様の事だけを考えてこういった提案をしたわけですし。フランドールお嬢様は自分自身の事も考えていたんですよね?」
「う……、まあそうだけど……」

 事実だから何も言い返せない。

「そんなことよりも、今はお嬢様を追いかけましょう」

 そう言うと咲夜は館の中へと戻っていく。お姉様の行き先がわからない私はその背中を追いかけることしかできなかった。
 立ち上がったときに腕が痛んだけど、おさまるまで静かにしていることはできなかった。





 咲夜に付いて行き、辿り着いたのはキッチンだった。朝食の準備をしていたらしい妖精メイドが中途半端な状態で動きを止めている。

 咲夜が動けなくなってからは、ほとんど管理されなくなって数を減らした妖精たちだけど、お姉様や咲夜のことを慕っていたのばかりが残った結果、全体的な質は向上している。
 今、キッチンに立っている妖精も咲夜から教えて貰ったのか、もしくは技術を盗み出したのか料理の腕はいい。お姉様と一緒になって料理をしていることもある。

 その妖精メイドの向こう側、キッチンの奥でお姉様は膝を抱えて座っていた。今にも泣き出してしまいそうな雰囲気が伝わってくる。
 私はお姉様の方へと、そっと近づく。

「あの、お姉様……、ごめんなさい、追い詰めるようなことしちゃって」
「……いいわよ、別に。私が悪いんだから」

 顔を上げないまま答えるから、返ってきたのはくぐもった声だった。いじけているような様子で、初めて見る態度に困惑してしまう。

「……私も、情けない姿を見せてしまってごめんなさい。こんな姿を見せたら貴女が不安に思うのも仕方ないわよね」

 力ない声。自分自身を責めているというのがありありと伝わってくる。
 私はなんと答えるべきなのかわからなくて、黙っていてしまう。

「フラン、こっちに来てくれる?」

 お姉様が顔を上げてこちらを見る。いつもは何を映しているのか読み取れない紅い瞳は不安で揺れていた。私の抱いている印象に比べて、ずっと儚い姿に心が立ち尽くしてしまう。
 でも、身体の方はお姉様の言葉に素直に従ってその場にひざまずく。まだ少し距離があるから、膝で歩いて近寄る。

 お姉様は膝を抱えていた手を床に付けて、こちらをじっと見ている。何をするつもりなのかはわからないけど、考えるよりも先に身体の方が動いている。

「……っ」

 不意に、お姉様が抱きついてきた。その腕に力は込められてないけど、その衝撃に腕の傷が痛んだ。お姉様に気を遣わせないように、声はなんとか抑え込む。

「……お姉様、泣きたかったら、泣いていいよ?」

 私も腕を伸ばして、お姉様を抱き返した。腕が痛みを訴えてきたけど、気にしない。お姉様が感じてるものに比べれば本当に微かなものだろうから。

「フランこそ、辛くはないのかしら?」
「うん、あんまり」

 本当は辛い。でも、それは咲夜の死に向けられたものではなく、弱々しいお姉様の姿を見ることに対するものだった。
 だから、強がってみせた。私以上に強がっているお姉様が泣くことができるようにと。

「……そう」

 お姉様の腕に力が込められる。でも、それは何かに耐えるようで、雨が降り出すようなことはなかった。




「ねえ……、お姉様はいつになったら、咲夜の死を受け入れられるの?」

 しばらくの間、私たちは無言で抱き合っていた。でも、ずっとこうしていたら私たちの時間さえも止まってしまいそうな気がして、ようやくまとまったその言葉を口にしてみた。

 私の言葉を聞いた瞬間、お姉様の身体は大きく震えた。たぶん、意識的に考えないようにしてたことなんだと思う。こんな事態になっていなければ、私も口にすることはなかっただろう。

「それは……」

 お姉様の腕の力が緩む。言葉は途中で投げ出され続きは出てこない。

「あっ、咲夜!」

 不意にお姉様が声を上げる。半ば私を突き飛ばすようにして腕の中から抜け出す。そして、私の方へと振り返ることなくキッチンから飛び出していってしまった。
 残された私は、腕を押さえてうずくまる。無理矢理腕を引き剥がされた腕が痛みを発する。
 でも、それ以上にお姉様に突き飛ばされたという事実が私の意識を揺らす。ぐらぐらと揺れて落ち着かない。

 立たないと。
 このまま座っていてはダメだ。

 でも、どうやって立てばいいの?
 こんなに、こんなにも、足元が揺れているのに。

 でも、でも、これは精神的なもの。
 だから、だから、だいじょうぶ。
 立てば、立ちさえすれば、歩ける。
 歩いてお姉様を追いかけて……。

 追いかけてどうするの?
 また、拒絶されてしまうかもしれないのに?

 違う、ちがう。
 お姉様は咲夜を探しに行っただけ。
 この場にいない咲夜を求めているだけ。
 私を突き飛ばしたわけじゃない。
 私を映していなかっただけ。

 でも、それは拒絶されるよりも酷いことなのではないだろうか?

 ……――



 最初に感じたのは痛みだった。それによって、一気に意識が引き上げられる。
 いつの間にか膝を抱えていた手で反射的に包帯に触れる。返ってきた感触は濡れていた。どうやら、傷口が開いて血が出てきてしまっているようだ。まあ、本当に簡単な治療しかしてないから当然か。

「……」

 久々に抑えが効かなくなってしまったようだ。目を開けて暗闇を見つめていると微かに吐き気を感じた。
 私の意識がなくなっている間に力が暴走したことはないけど、確認のためにおそるおそる顔を上げてみる。

「おはようございます、フランドールお嬢様」

 いきなり視界に入ってきたのは咲夜の顔だった。驚いて身体が震える。

「さ、咲夜、いつからそこにいたの?」
「レミリアお嬢様がここを飛び出してからです。……大丈夫ですか?」

 こちらを心配するように顔色を窺ってくる。私はその顔をぼんやりと眺める。まだ、意識の焦点が少しぶれているようだ。

「たぶん、だいじょーぶ。それより、……どこか、壊したりしてない?」

 少しぼんやりとした意識のままそう尋ねる。自分で確認をするよりは、咲夜に答えて貰った方が確実なはずだ。

「どこも壊れていませんよ。妖精メイドも含めて全て無事です」
「そっか、よかった……」

 安堵とともに深いため息が漏れた。
 力を暴走させるのではなく、意識を閉じるようになったようだ。成長、と言っていいのか微妙なところだけど、ましにはなっている。
 まあ、そうならないようになるのが一番なんだろうけど……。

「っと」

 身体を少しふらつかせながら立ち上がる。腕を確認してみると、包帯が真っ赤に染まっていて、腕を血が伝っていた。このまま腕を下ろしていたら、指先から血が垂れていくだろう。
 ……見なかった方がよかったかもしれない。腕の痛みが酷くなったような気がする。

「咲夜、次お姉様に否定されるようなことがあったらもうダメかもしれない。そのときは、ごめんなさい」

 最初は少し不安定になって、今回は意識が閉じるくらいにぶれた。今は多少落ち着いてきたとは言え、少しばかりぼんやりとしている。
 鈍感になっているというよりは、鈍感になろうとしているだけだろう。できる限り心の受ける傷を軽微なものにするために。
 でも、そんなものお姉様の前には無意味だろう。私はお姉様からのものなら全て真っ直ぐに受け止めてしまう。だから、それが私の心に止めを刺してしまう可能性は大いにある。
 その場合、どうなってしまうかはわからない。だから、今のうちに謝っておきたかった。

「起きてもいない事を謝られても、こちらは困惑する事しかできませんよ。それに、その時点で完全に詰みだという事を忘れないでください。レミリアお嬢様は完全に心を閉ざしてしまうでしょうから」
「うん……、わかってる」

 お姉様は館に住んでいる皆を大切にしている。咲夜が死んでしまって、あんな状態になるほどに。そこで、更に私が欠けてしまえば、具体的にどうなってしまうのか想像はできなくとも悪い方向へと向かうというのはわかる。

「だから、またお姉様のところに案内して。次で、終わらせるから」
「はい、わかりました。では、付いてきてください」

 こちらに背を向けて、キッチンの外へと向かっていく。
 私は、ぼんやりとした意識を引き締めるように一度大きな深呼吸をする。それから、最初の一歩を少し大きめに踏み出して追いかけた。





 死んだ塔。

 初めて館の時計台の中に入ってみて最初に抱いた感想はそんなものだった。
 見上げてみれば、大きな歯車が目に入ってくる。そのどれもが、動きを止めていて、ただの飾りとなってしまっている。
 時間が止まっている間にこんなところに来るなんていうのはどういう皮肉だろうか。ここに来ることを選んだお姉様には悪いけどそう思う。
 ……単に、ここにも咲夜との思い出があるからというだけのことだと思うけど。

 お姉様は上部へと続く階段に座り込んでいた。憔悴しきっているような雰囲気があり、私以上に不安定になっているのではないだろうかと思わせられる。触れた瞬間に折れてしまうのではないだろうかという、そんな印象を抱く。

 でも、だからといって遠くで見ているだけというわけにもいかない。血溜まりができてしまう前に、お姉様の方へと近寄る。

「ぁ……」

 顔を上げたお姉様が今にも消え入りそうなくらいに小さな声を漏らした。周りにその音を奪い去るものがなかったから、私の耳にまで届いてきた。

「フラン、ごめんなさい。私……」

 何かを言おうとして声を詰まらせてしまう。

「ううん。お姉様が謝る必要なんてないよ。本当なら私の方がしっかりしてないといけないんだし、この腕も自業自得だから」

 お姉様の咲夜に対する思い入れは私のそれよりも遙かに強い。だから、お姉様が平静でいられないのも当然だ。咲夜の姿が見えなくなって取り乱してしまうのも仕方がない。
 そして、腕の傷に関しては私が勝手に暴走してしまっただけで、お姉様が謝る必要は全くない。

「でも、私の態度のせいでそうさせてしまったのでしょう? だったら、間違いなく私の責任よ」

 お姉様は自分自身を追い詰めている。それでどうしようと思っているわけではない。たぶん、そうすることしかできなくなってるんだと思う。
 私も似たような精神状態に陥ったことがあるからわかる。

 そんなとき、お姉様は私を抱きしめてくれた。お姉様しかいない私にはそれで十分効果があった。
 でも、私とは決定的に違って、お姉様は失ってしまったのだ。それは、私にはどう頑張っても埋めることのできない穴だ。
 だから、私は簡単に言葉を見失ってしまう。どうしていいのか、わからなくなってしまう。

「お嬢様、私を大事にしてくださっている事は存じていますが、ここまで死人に囚われてどうするおつもりですか。心中でもお望みですか?」

 立ち止まってしまった私の代わりに咲夜がお姉様に話しかけた。その声はかなり刺々しく、突き放すような色さえ感じられる。

「私はお嬢様のおかげで幸せに最期を迎えることができました。しかし、同時にお嬢様のせいで最悪の終わりが見えてきてしまいました。その事に関して自覚はおありですか?」
「それは……」

 私たちから顔をそらす。でも、それ以上の言葉が続かなくとも、態度から肯定してるのだというのは伝わってくる。

「さあ、フランドールお嬢様、レミリアお嬢様はご自分で納得することができないようなので、殴り飛ばしてでも納得させてやってください」

 どうしていいかわからないのにいきなりそんなことを言ってきた。内心かなり荒れているのか、言葉の選び方が荒い。
 まあでも、確かにここで一つ衝撃は必要かもしれない。それくらいに、お姉様の意識は内側へと向いてしまっている。
 私が自分自身を傷つけるというお姉様を追い詰めてしまうようなことは当然できない。
 だからといって、咲夜が言ったように殴り飛ばすなんていうことはしない。私がお姉様に対してそんなことができるはずがないから。そもそも仮にそんなことをしても、腕の痛みのせいで飛ばすことができないだろうけど。

 だから、別の方法を実践する。一時考えないようにしていたある方法。
 衝撃はかなりありそうだ。お姉様を追い詰めることなく揺さぶらせることができると思う。
 でも、実際に実行するのはかなり気が引ける。だからといって、他の方法は思い浮かばない。

 悩みながらもお姉様の方へと近づく。一段二段と階段を上がって、お姉様よりも少しだけ低い段で止まる。
 そのまま屈み込んで、お姉様に覆い被さるような状態となる。
 目の前には青をまぶした銀髪がある。髪の間から微かに耳が覗いているのが見えるほどに距離が近い。

「お姉様」

 覚悟も何も決めないままに呼びかける。漫然と流されて行動する。たぶん、考えた方が行動できないからこれでいい。

 お姉様がこちらへと顔を向ける。意識してなのか、無意識なのか。そんなことはどうだっていい。考えすぎないようにするための無意味な思考。
 二つの瞳が真っ正面にきたその瞬間、私は顔を近づけた。少し首を傾けて。

「――!」

 唇に柔らかさを感じた直後にお姉様の身体がはねた。お姉様も驚いたときにはこんな反応をするんだと関心が浮かぶ。
 少々名残惜しさを感じるけど、逃げられてしまう前に顔を離す。
 それから少しの時間、驚きに見開かれたお姉様の瞳を見つめてみる。

 うん、思ったよりも冷静だ。意識が鈍感になっているおかげだろう。落ち着いたときに自分の行動をどう振り返るかなんて、今の状態でも考えたくない。

「な、な……」

 お姉様は平静さを完全に失ってしまってるようで、言葉の続きを口にすることができていない。
 十分衝撃を与えられたようだ。

「ねえ、今一番大切にしたいのは、何?」

 無防備になっているこのときを狙ってそう聞いてみた。お姉様を理解し切れていないから、どうしても質問から入らなくてはいけない。
 咲夜みたいにちゃんと理解できてたら、もっときっぱりと言えてたんだろうけど。

「咲夜? 私? 紅魔館? それとも、お姉様自身?」
「……」

 瞳を揺らすばかりで答えてくれない。言葉にするのを迷っているのか、口を開けるほどの平静さを取り戻していないのか。どちらとも取れるその様子。
 前者だろうと考えて言葉を続ける。根拠はない。単に後者だったら、私からできることはないというだけだ。

「私は、お姉様にとっての一番が誰でも構わない。ただ、お姉様の傍にいられればそれで十分だから」
「……今は、咲夜よ」

 予想はしていたけど、その言葉に心がぐらつく。普段なら少し気になる程度の言葉だけど、今の私は鈍感に敏感なのだ。弱い部分ばかりが露出している。
 お姉様は私を否定したわけではない。理性から感情へとそう言い聞かせて平静を保つ。自ら自分の言葉の説得力を壊してしまっては意味がない。

「……それなら、お姉様はこんなところで立ち止まってたらダメだよ。咲夜が今のお姉様の状態を望んでたら、私はここにいなかっただろうから」
「それは、分かってるわよ」
「わかってない。だって、お姉様は全然周りが見えてない。見落としてることも、あるんじゃないの?」

 私がこんな状態になっても何もしてくれないから、そう言い切れる。ちゃんと周りが見えているなら、私の様子に気づいてくれてるはずだ。
 でも、今は私のことはどうだっていい。ただ、そうやって周りに目が向いていないのなら、咲夜のこともわかった気でいるだけなんじゃないだろうかと思ったのだ。

「……あ」

 何かに気づいたように声を漏らす。咲夜と私のこと、どちらに気づいたんだろうか。

「ねえ、もう一回咲夜の想いを考えてみて?」

 私ではなく咲夜のことを考えるように誘導する。
 今は私のことは考えてくれなくてもいい。こうして近くにいられるだけで十分だからと自分自身に言い聞かせる。

「……うん」

 小さく頷くお姉様の姿はとても頼りない。だからか、私は自分自身がどんなに頼りないとわかっていても、お姉様をそっと抱きしめていた。
 腕の痛みは感じなかった。ずっと痛んでいたから痛覚が麻痺してしまったのかもしれない。お姉様をしっかりと抱きしめるには都合がいい。

 さっきはお姉様のほうから抱きついてきたけど、今は私が包み込むように抱いている。だからか、さっきよりもお姉様の身体を小さく感じる。
 そして、私がお姉様を支えなければいけないというのを、今はっきりと理解できたような気がする。

 身動きしないお姉様が答えを見つけられるまで静かに待つ。
 密着しているはずなのに、聞こえてくる音は何もない。薄ぼけた意識が微かな音を排除しているのか、心がぼろぼろになっている私たちが静かに死へと向かっている証なのか。

 後者だとしたらイヤだなぁ。死ぬのは怖くないけど、ここでお姉様と一緒に死んで終わるのなんていうのはイヤだ。
 全員が死んでしまうなんて最悪の終わりは望まない。だから、お姉様には咲夜の想いをしっかりと理解してもらわないといけない。

「フラン……」
「なに?」
「……貴女の言うとおりだったわ」
「うん、よかった」

 最悪の終わりから少し離れたようだ。でも、まだ安心することはできない。

「じゃあ、止めてる時間を動かして」
「どうすればいいのか、わからない……」

 半ば無意識で発動させた力だからだろうか。私の力とは違って持続するものみたいだから、助言もできない。
 お姉様を抱きしめている腕の力を緩めて、咲夜の方へと振り向く。
 本来の力の持ち主から助言して貰うのが一番だろう。

「はあ、全く世話のかかる主ですね」

 咲夜が呆れたように大きなため息を吐く。お姉様へと向けたものなんだろうけど、このタイミングだと私に向けられたもののようにも感じてしまう。
 咲夜の言葉を聞いたお姉様は腕の中で縮こまっている。何も言い返せないといった様子だ。

「お嬢様、私がこれから申し上げるとおりにしてください」
「私はこのままでもいいの?」
「はい、そうしていてください。とにかくレミリアお嬢様にはできるかぎり落ち着いていただかなければいけませんので」
「うん、わかった」

 咲夜へと頷き返して、お姉様を再度しっかりと抱きしめる。これくらいで落ち着いてくれるかはわからないけど。

「では、何度か深呼吸をしてください。できるだけ、大きく、ゆっくりと」

 お姉様が咲夜の言葉に素直に従う。呼吸に合わせて、肩が大きく上下しているのがよくわかる。

「落ち着かれましたか? では、次は時計の音を思い浮かべてください。規則正しく時を刻む音を」

 数回深呼吸をしたところで咲夜はそう言った。釣られて、私も思い浮かべようとする。
 立ち止まらない、決して巻き戻らない音。今のお姉様を否定するような音。
 でも、お姉様がそれを受け入れれば、この問題は無事解決する。幸せではないけど、不幸が少なく、もっとも正しい終わり方。

「そして、時間が動いてほしいと、願ってください」

 今までの中でもっとも静かな声。
 その意味はすぐにわかった。



 かちっ、かちっ、かちっ……



 頭の中だけで響いていた音が現実のものとなる。止まっていた時間が動き出す。

 不意に、お姉様が抱きついてきた。込められている力は強く、少し痛い。
 でも、何も言わず私もお姉様を抱く腕に力を込める。

 今の私にできるのはそれだけだったから。


 でも、お姉様の感情が溢れてくることはなかった。







 咲夜の葬儀は滞りなく終わった。

 葬儀はあれから茫然自失としていたお姉様と何をしていいかわからない私に代わって、パチュリーと美鈴が中心になって用意を進められた。
 参加者は館に住んでいる人たちだけだった。咲夜ならお姉様さえ参加していれば満足するだろうから、それで十分なんだろうけど。

 普段お姉様以外の前ではさほど表情を動かさないパチュリーは、こあと一緒になって悲しげな表情を浮かべていた。
 感情を素直に露わにする美鈴は、泣き出してしまわないようにしていたのか顔を引き締めたまま静かに涙をこぼしていた。
 そして、感情に素直な妖精メイドたちの中には泣き出してしまうのもいた。

 私は、感情が大きく動くようなことはなかった。たぶん、あの後一人になってから部屋で泣いたからかもしれない。不意に感情の固まりが沸き上がってきて、抑えることができなくなっていた。
 代わりに葬儀の間は、胸を締め付けられるような悲しみを感じているだけだった。

 でも、そんな中でお姉様一人だけが無表情だった。空っぽだった。
 あの止まった時間の中でも滲み出ていた感情は感じられなくなっていた。

 そんなお姉様を一人にしているのが不安で、葬儀を終えた後、真っ黒な喪服のままお姉様の部屋へと向かっていた。
 最初は、一人でゆっくりと考えごとをさせてあげようかと思っていた。でも、館の中へと戻るときに見えた空虚な表情がやけに引っかかって、気がつけば足の向きが変わっていた。

 部屋の前に辿り着く。中からは規則正しい音が聞こえてくる。時計の音とは、違う気がする。

 扉の前で銀のナイフに触れる。
 咲夜は今のお姉様の状態を望んでいないだろう。私だって当然望んでいない。今までのようにとまでは思わないけど、今の空虚な状態はダメだ。イヤな予感ばかりが膨らんでくる。

 銀から伝わる冷たさで精神を静める。正直に言えば、空虚な状態のお姉様に会うのは怖い。私の支えが崩れてしまいそうな気がするから。
 でも、今一番お姉様の近くにいるのは私だ。だから、行くしかない。
 咲夜と約束だってしたし。

 大きく深呼吸をして一気に扉を開ける。入ってこないで言われてしまうと二度と近づくことができなくなりそうだったから、ノックはしなかった。

 部屋の中央、そこにテーブルに着いたお姉様がいた。葬儀のときと同じで、その横顔に表情はない。じっと手元を見つめたまま、咲夜が愛用していた銀の懐中時計の蓋を開け閉めしている。音の正体はこれだったようだ。
 誰かが止めに入らなければずっとそうし続けているのではないだろうかという姿。痛いくらいに、苦しいくらいに、胸が、締め付けられる。

 私はお姉様へと近づく。足音を潜めているつもりはないのに、お姉様はこちらに気づかない。
 そのことが、私の足をその場に縫い止めようとする。でも、それに逆らうように大きく足音を立てながら足を進める。

 そうやって、部屋の半分を進むにしては過剰な体力を使ってお姉様の背後に立つ。まだ、お姉様は私に気づかない。お姉様は幻のようにそこに座っている。

 そのことがどうしようもなく怖くて、背後からお姉様に抱きついた。本当に私の目の前に存在しているのか確かめたかった。本当はお姉様を支えるために抱きしめたかったのに。
 確かにお姉様はそこにいた。しっかりと温かさが返ってくる。でも、そのことに縛られて放せなくなってしまう。次も同じ感触が返ってくるという確証が得られないから。

「……フラ、ン?」

 少し遅れて、お姉様からの反応があった。その声は力なく、今にも消えてしまいそうで、不安を掻き立てられる。

「お姉様がこんな状態じゃ、意味がないよ」
「……」

 お姉様自身もわかっているのか、返事はない。

「こんなときまで強くいる必要はないよ。私が支えてあげるから。私が頼りないなら、パチュリーや美鈴がいるから」

 泣くことができないんだと思う。全部一人で抱え込んで、悲しみを外へと出すことができなくなっているんだと思う。
 その原因は私にある。ずっと二人ぼっちで、私に誰かを護るような力なんてなかったから全てお姉様が抱えていた。そのせいで、お姉様も自身の中にある感情の処理の仕方がわからないんだと思う。

 私は意図的に感情を抑え込むようにしているけど、お姉様よりは感情の発散のさせ方は知っているつもりだ。だから、それを教えてあげたい。

「それでも、私に頼ってくれると嬉しい。今まで私はお姉様に支えられてるだけだったから」

 腕から少し力を抜く。縋るようにではなく、包むように抱く。

「肩肘張らないで力を抜いて。お姉様は一人じゃないんだから、一人で抱え込まないで。私はお姉様に押しつぶされたりなんてしないから、遠慮なく寄りかかってきてもいいんだよ? 私がそうしてきたように」

 小さくゆっくり囁きかける。外からほとんど音が届いてこないほどに静かだから、しっかりと聞こえているだろう。

「……だいじょうぶ、だいじょうぶ、だから」

 それは、お姉様に向けたものだったのか。はたまた自分自身に対するものだったのか。
 対象も不確かなままそう言う。

「……フラン、腕を、離してくれるかしら?」
「え? ……うん」

 もしかして、私に頼るのがイヤなんだろうか。
 そう思って落ち込みかけていたら、

「わっ」

 不意に立ち上がったお姉様が正面から抱きついてきた。身構えていなかったから、そのまま押し倒されるような形となってしまう。美鈴に治療し直してもらっていた腕の傷が痛みを発する。でも、それ以上に困惑の方が大きくて、痛みはそれほど気にならなかった。

 と、お姉様の身体が小さく震えていることに気づく。抑えようとしていたものが溢れ出してしまいそうになっているような姿。
 お姉様の行動の意味を理解するのに時間をかけてしまった自分に呆れてしまう。

 そっと、お姉様の頭を撫でる。

 少しでもその悲しみを外へと出せるように。
 ゆっくりでもいいから歩み出せるように。

 その想いを後押ししてくれるように、懐中時計の音が静かに響く。 



 少ししてその音は塗り潰されてしまう。
 でも、胸の中で規則正しいその音はいつまでも鳴り響いているのだった。


Fin



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