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 破壊の音が断続的に響く。

 肉の潰れる音、血の滴る音、骨の折れる音。……何かが、倒れる音。

 一人の身体を中心に、赤が広がっていた。
 その赤が大きな水たまりを作っていた。

 悲鳴も苦悶も、声と呼べるようなものは何もない。
 ただ、閉ざされた空間に不快な音ばかりが響き渡る。赤が広がっていく。

 目を逸らしたくなる光景だった。耳を塞ぎたくなる音の響きだった。
 けど、どちらもすることは叶わない。その場に縛り付けられてしまったかのように身動きが取れない。

 それでも、これはまだ致命的な破壊ではない。まだ取り返しがつく。
 一刻も早く逃げ出せば、何とかなる。

 逃げないと、逃げなないと。
 でも、何処へ? どうやって?

 思考がまとまらない。身体はなおも動かない。
 恐怖が私の全てを制限する。

 そして、私が逃げ出そうとするのを止めるように、空気を震わさない音が聞こえてきた。
 致命的な破壊の音。取り返しのつかない破壊。


 ――それは、心の壊れる音だった。









 星。
 夜空を埋めつくさんばかりの満天の星。
 自身の存在を誇示するかのように懸命にきらきらと輝く星々。

 それらを、館の屋根の上に座って眺めていた。
 星の光を塗りつぶす月は見えなかった。今が好機と言わんばかりに星は輝いている。

 星は何処までも遠くにある。だから、手を伸ばしてみても触れられるはずがない。
 壊せることも、ない。

 私が何をしようとも、気にすることなく光を放ち続けている。

 ただ、一人になることが出来れば何でもよかった。だから、星が私を気にしてない方が、都合がよかった。

 座っているのが億劫になって、屋根の上に寝転がる。星へと伸ばしていた手はそのまま投げ出す。
 手が屋根とぶつかった。少し痛かったけど、気にしなかった。

 横になってみると、屋根は堅く、背中が痛んだ。でも、横になった身体に力を入れ直すのも面倒くさい。だから、微かな痛みを感じたまま、空を眺める。

 相変わらず星が輝いている。きらきらと自分本位に輝いている。
 視界の端に、館の時計塔が映っていること以外は変化がない。

 まるで、月の残骸みたい。
 ……まるで、――みたい。

 胸で疼く痛みと共にふと、そんなことを思う。
 元々は真ん丸な月だったのに、砕けて小さくなってしまった。
 そんなふうに、思う。

 目を逸らしたくなって、瞼を閉じる。
 世界が闇に閉ざされる。黒に塗りつぶされる。何もかもが無くなる。冷たい風が熱を奪っていく。
 少し、心細くなる。
 でも、残骸が瞳に映っているよりは安心することが出来た。

 ……だって、残骸は怖いから。

 私が壊したものは等しく残骸となり原型をとどめない。ぼろぼろになってばらばらに崩れていく。
 そんな光景を何度も見た。嫌になるくらい何度だって見た。

 その度に私は、自身の力に恐怖して、自分を嫌いになっていった。

 ……けど、今はもうそんなことを思うことはない。

 私の力のことなんてどうでもよくなった。
 私自身のことなんてどうでもよくなった。

 ある日を境に。あることを境に。

 それは――


「ねえ、生きてますかー?」


 私の思考を中断するように声が割って入ってきた。ついでに頬に何かが触れている。
 多分、指だ。指で私の頬が突かれている。
 爪を切っていないようで、少し痛い。

「……何よ、貴女は」

 閉じていた瞼を開いてみると、映ったのは私と同じ年くらいの少女の顔だった。翠色の瞳が覗き込んできている。
 水色の混じったような不思議な色合いの銀髪が私に向けて垂れ下がっている。でも、あまり長くはないから、私の顔には届いていない。

 一人になりたくてここに来ていた私は、少し不機嫌になっていた。指が触れている部分が痛いのも、私を更に不機嫌にさせる。
 でも、少女は私の様子を気にした様子も気付いた様子も見せず動こうとしない。じぃ、っと私を見つめ続けている。
 図々しいのか、鈍感なのか……。

 ふと、星が見えなくなっていることに気付く。
 いや、違う。星が見えなくなってるんじゃない。夜空そのものが見えなくなっている。
 どうやら目の前の彼女は黒い鍔広の帽子を被っているようだ。

「あ、よかった。生きてたみたいだね」

 不意に、至近距離で笑顔を浮かべる。それと同時に、私の頬を突くのも止めた。
 安心して浮かべた笑み、という感じではなかった。何か面白い物を見つけた、そういった類の笑みだった。

「私の質問に答えてよ」

 何だかその笑顔が気に入らなくて、軽く睨みつける。動じた様子は一切感じられない。

「ああ、ごめんごめん。んー、そうだね。無意識と風に流される旅人、って所かな」

 飄々とそんなことを言った。冗談やからかいでそう言っているわけではなく、本気で言っているようだった。
 言っていることをそのまま解釈するとすれば、目的もなくふらふらとしている、ということだろうか。
 関わるのが面倒臭そうだ。一人でいたいというのに、何でこんなのに絡まれるんだろうか。

「ねえ、貴女は何してたの?」

 翠色の瞳を好奇心で輝かせて聞いてくる。
 彼女に世界はどのように映っているのだろうか。何もかもが面白い物として映っているんだろうか。
 まあ、なんだっていい。私にはどうでもいいことだ。
 とにかく、一刻も早く立ち去ってほしい。

「……星を見てた」

 だから、簡潔に答えた。答えなかったからしつこく聞いてくるだろう、と思ったのだ。

「目、瞑ってたのに?」

 もっともな疑問が返ってきた。
 確かに私は彼女に声をかけられるまで目を瞑っていた。
 残骸を見ていることに耐えられなくて。

「……どう星を見てようと、私の勝手でしょ」

 私の心中を語る必要なんてない。だから、突き放すように言い返す。これ以上関わってくるな、という意志を込める。

「まあ確かにそうだ。皆が皆、同じ見方をする必要なんてないよね」

 そんなもっともらしいことを言う。正しいかどうかなんては置いといて。

 立ち去ろうとする様子は見られない。何故かそのまま私の顔を見つめ続けている。

 どうやら、私の一人にしてほしい、という暗に込められたメッセージは届かなかったらしい。もしくは、気付いて無視をしているか。
 まあ、それなら直接言えばいい。
 煩わしいとは思うけど、仕方ない。

「ねえ、貴女いつまでここにいるつもり? 私は一人でいたいの。だから、早くどこかに行って」
「冷たいねぇ。ま、貴女がそう言うなら今日の所は行かせてもらうけど」

 思った以上に、素直に私から離れる。私も釣られるように起き上がる。
 いつの間にか、彼女の熱が私に移っていたようで、少し肌寒さを感じた。

 でも、それ以上に関心を引く物があった。
 それは、大きな目。彼女に絡みつくように二本の管を伸ばした青色の目玉。
 少し不気味だと思った。でも、それ以上になんで閉じてるんだろうか、と思った。

「これが気になるの?」

 彼女が右手で目玉に触れる。
 私は視線を逸らす。
 興味を示していると知られて、長居をされたくなかったから。関心を示していることを指摘されるのが気に入らなかったから。

「秘密だよ。でも、気になるなら明日聞いてよ。気が向いたら答えてあげるからさ」
「もう来ないで」

 ついさっき、『今日の所は』と言っていたけど、やっぱりこういうことだったのか。
 他人と関わりを持つつもりは一切ない。オブラートに包むのも面倒くさいから、簡潔に拒絶した。

「うん、私の無意識がここに来ることを拒んだらね」

 私の言葉を聞く気はないみたいだ。妙な表現をする意図は分からないけど、それだけは間違いない。
 どうやら、かなり自分勝手な性格のようだ。

 はあ、と大きく溜め息をついてしまう。自分でも呆れたくなるくらいに盛大な溜め息だった。

「そんな溜め息吐かないでよ。行き辛くなっちゃうからさ」
「どっか行って」

 人の溜め息を自分の都合のいいように解釈する彼女に冷たくそう言う。少しでも興味を持てば、またそれを口実にここにとどまりそうだ。

「ほんと冷たいなぁ。まあ、しょうがない。初対面で仲良くなれない、なんていうのは珍しいことじゃないからね」
「……」

 無視をする。何を言っても都合よく解釈されて、無駄になる気がしたから。

「じゃあ、ばいばい。今日はちょっと風が冷たいから、風邪引かないように気をつけてねー」

 自称旅人の少女は大げさに手を振りながら飛び去った。私に無視されたことは全然気にしてないみたいだ。
 いったい、何だったというんだろうか。

 でも、これが最後ではない。
 彼女の言動からそんな気がする。

 だから、また大きな溜め息が漏れてきた。





「あ、フラン」

 館の中に戻って、紅い廊下を歩いていると背後から名前を呼ばれた。
 その瞬間、反射的に身体を震わせてしまった。同時に足も止まる。私の意志を一切介することなく。

 お姉様の声だったから。
 一番聞きたくて、一番聞きたくない声でもあったから。

「よかった。随分と探したのよ? 何処に行ってたのかしら?」
「……ちょっと、外に星を見に行ってた」

 駆け寄ってきたお姉様の方へと向いてそう答えた。少し言い淀んだのは罪悪感があったから。
 逃げたい、と思ってしまっていた。

「そう。どうだったかしら?」
「一杯見えたよ。月の代わりに皆輝いてた」

 まるで、彼らが粉々に砕け散った月の残骸であるかのように。
 まるで、自分たちはまだ真ん丸な月であると思い込んでいるように。

 まるで、お姉様のように。

 そんなことを思ってしまったから、見ていることが出来なくなった。
 夜空から、目を逸らした。

 口にはしない。いや、出来ない。
 表に出てしまえば、致命的な物となってしまうから。

「それはさぞかし綺麗だったんでしょうね」

 私の心中に気付かないお姉様が優しげに微笑む。
 そんな表情に胸が痛む。心が痛む。

 無意識の内に手をぎゅっと握っていた。
 そうすれば、少しだけ痛みに耐えられる。

「でも、外にいたというのなら、身体が冷えてるんじゃないかしら?」

 一歩、二歩、と近づいてくる。確実に私との距離が狭まっていく。
 反射的に身体が強張る。
 逃げ出そうという意志と、留まろうというという意志が混在してしまっている。
 二つの意志がぐるぐると同じ比率で交わる。相反するから、プラスマイナスで零になる。

 その結果動くことが出来ない。
 本当は、どちらの意志を尊重すべきなのかはわかっている。わかっているけど、私の意志を必要としない所が片方を選びとろうとする。
 だから、片方の意志がそれを必死に止める。勝手な事をしないように、とりあえずその場に縛り付ける。

 そのせいで、私は選択する、という余裕を失う。
 ただただ、近づいてくるお姉様を見ていることしかできない。

「ほら、やっぱり冷たくなってしまってるじゃない」

 選ばなかった結果、正面から抱き締められた。
 力が込められているわけではないけど、放さない、という意志が伝わってくる。
 冷たくなく熱くもなく涼しくもない、温かい温度に包まれる。
 こんな状態になっても、私は棒立ちのままだ。

 これでいい。これでいいんだ。
 お姉様を傷つける必要なんて一切ない。そんな権利さえも持ち得ない。
 私にはお姉様を支え続けていなければならない、という義務がある。
 だから、絶対に拒絶は出来ない。

「駄目じゃない。吸血鬼といえども、風邪は引くんだから」

 抱き締める腕に力が込められる。ぎゅう、とお姉様との距離が近づく。
 そこには、優しさだとか愛だとかそういった類の物が全て込められていた。自惚れではなく、事実そうなのだ。

 だから、苦しい。
 だから、痛い。
 だから、辛い。

 息苦しさを感じる。
 いくら空気を吸っても、身体の中を巡っていかない。陸に上げられた魚のよう。

 でも、窒息することはない。
 だから、いつまでも苦しさが続く。
 助けて、と心の中で叫ぶ。
 そして、実際に叫んでしまわないように、ぐっ、と堪える。

「フラン?」

 お姉様がいぶかしげに、それでも心配そうな色を滲ませて聞いてくる。
 私を放して、顔を覗きこんでくる。
 紅色の瞳で真っ直ぐに見詰めてくる。瞳から私の心情を読み取ろうとして来る。
 顔を逸らすことは出来ない。

 お姉様は鋭いから、私が苦しんでることに気付いてる。
 でも、どうしてなのか気付くことは決してないだろう。

 そして、弱い私はそれを指摘することは出来ない。

「どうして、泣きそうになってるの? ……あの事なら、もう気にしてないわよ」

 あの事。
 それは、数日前に私が力を暴走させたことを指してる。

 本当に久しぶりな大きな暴走だった。
 だから、私はどうやっても自身の力を抑える事が出来ず、結果として取り返しのつかない事をしてしまった。

「……うん」

 私は知ってる。お姉様が私を責めないこと、傷つけられたことを気にしてないことを。
 お姉様は知らない。私が本当に気に病んでいることを。


「こんばんはー」


 背後から声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。
 飄々とした捉えどころのない声。
 さっき屋根の上で聞いた声だった。

 何処かに行く、と言っていたのにどうしてここにいるのだろうか。

「わかってるならいいの」

 お姉様が私の背後、お姉様にとっての正面の声を無視するように続ける。
 でも、実際には無視してるんじゃない。気付いてないのだ。

「でも、だから、私に会う度に泣きそうな顔にならないでちょうだい。私まで悲しくなってしまうから」

 まるで、この場にいるのがお姉様と私だけであるかのように振る舞う。

「あれ? 聞こえてないの? おーい」

 自称旅人の少女が私たちの顔の間で手をひらひらとさせる。
 それを、お姉様の手が振りはらう。
 けど、それだけ。それ以上、触れようとはしない。
 ただ、何か視界を遮るものがあったから無意識的に払っただけだ、とでも言うように。

「……ふーん」

 払われた手をしばし見つめていた少女が、何か得心がいったように頷く。もしかして、気付いてしまったんだろうか。


 お姉様の異常に。
 お姉様が心を壊してしまっていることに。





「ねえ、もう一度聞くけど、さっきのって貴女のお姉ちゃん?」

 部屋に入った瞬間にそう聞かれた。
 扉を閉めても彼女との間が隔てられることはなかった。

 お姉様と別れて部屋に戻ろうとしたら、何故かあの少女まで着いてきた。勝手に私の隣を歩いて、質問を浴びせてきた。
 私はそれを無視した。無視し続けていたら途中で着いてくるのをやめるんじゃないだろうか、と思って。
 けど、私の目論見は外れて結局部屋に入られてしまった。……なんで私は扉の前とかで追い返したりしなかったんだろうか。
 何故だか今の今まで全くその発想が浮かんでこなかった。

 ただ、入れてしまった物はしょうがないから無視することを継続する。彼女と目を会わせないようにしながら部屋の中を歩いて、椅子に座る。それから、出来るだけ不機嫌に見えるようにテーブルの上に頬杖を突く。
 椅子やテーブルは、部屋の中央に置いてあり紅茶を飲んだり、本を読んだりする時に使っている。

 少女は何の断りもなく私の向かい側の椅子に座った。同じように頬杖をついて、私の顔を見つめてくる。

「……貴女、どこかに行くって言ってなかった?」

 何かを言われる前に棘を込めてそう言った。このまま無視し続けても意味がない、と思ったのだ。
 でも、彼女の質問に答えるつもりはこれっぽっちもなかった。

 彼女との距離が近いのが気に入らなくて、背もたれに背をつけて彼女との距離を取る。
 何故だか、この少女といるだけで私の神経は逆撫でされる。

「どこかに行った結果がこれだね。何も考えずにふらふらしてたら、あの現場に居合わせたんだ」

 屁理屈でしかなかった。でも、彼女にそう思っている様子は一切見られない。
 本気で館の屋根の上と館の中を別の場所だと思っているようだ。

 なんだか面倒くさいのに絡まれてしまった気がする。今更だけれど。

「まあ、私の質問に答えてくれるつもりがないっていうなら、それでもいいや。勝手にそう思っとくから」

 そうして、笑顔を浮かべる。憎らしいくらいにいい笑顔だ。

「それにしても、貴女のお姉ちゃんって変わってるね。貴女以外、何にも見えてないみたいだった」

 笑顔のままそう告げる。
 その表情を見て、殺意が芽生える。その笑顔ごと殺してやろう、と物騒な事を思う。

 実際、私は彼女の『目』を手のひらへと引き寄せていた。ありとあらゆる物質の緊張した部分。
 後は、これを私の意志で握りつぶせば、彼女はあっさりと壊れて死んでしまう。

 でも、握ることは出来なかった。握ることが出来るはずがないのだ。

 もう嫌だった。何かを壊すことも、誰かを殺すことも。

 何度も声に出してそう呟いた。
 でも、幾度となく私の力は暴走して、全てを例外なく平等に壊した。

 だから、握らない。
 こうして理性が働いている限りは、手が震えて握ることが出来ない。

「ううん、見えないだけじゃない。聞こえてない、触れたことに気づいてない。きっと、におってもないし、味も感じない」

 少女が何かを言う。言っている。
 でも、私の耳にそれらは単なる雑音として処理され、意味を形作らない。

 私の意識が沈んでいく。自らの行動を起因として、奥深くへと行く。
 沈んで沈んで周りが見えなくなり。
 深く深くなって、音が消えかけて――

「フラン?」

 彼女に名前を呼ばれて意識が戻ってきた。景色も音も正常となる。
 ただ、気分が沈み切ってしまっている。少し気分が悪い。

 でも、もう私の手のひらに『目』は残っていなかった。そのことに安堵を覚える。

「……気安く名前を呼ばないで」

 睨む。
 何で私の名前を知ってるのか、とは思わなかった。どうせ、盗み聞きをしていて、その時に知ったのだろう。

 本当は、意識の底に沈みかけていたのを止めてくれたことに感謝すべきなのかもしれない。でも、感謝する気には一切なれなかった。
 そもそも、彼女が笑顔を浮かべていたのが悪い。笑顔で話すその姿が非常に癪に障った。
 何で笑っていられるのか。何が可笑しいのか、と。

「いいじゃんいいじゃん、別に。減るもんじゃないんだしさ」

 相変わらず飄々と笑う。自分は一切悪いことを、他人に気に障ることをしていない、とでも言うように。
 心底鬱陶しい、と思う。

「あ、そだ。フランも私のことこいし、って呼んでよ」
「知らない。さっさと帰って」

 名前なんてどうだっていい。一刻も早く私の前から消えてほしい。
 さもないと、彼女の事を壊してしまいそうだ。

「おお、怖い怖い」

 殺意を込めて睨みつけると、おどけたように言って立ち上がった。やっと帰ってくれるはずなのに全然嬉しさを感じない。
 どうせ、また来るんだろう、と思ってしまってるから。

「怒らせるのが目的じゃないから、今日は退散させてもらうよ。名残惜しいけどね」
「私は全然そんなことない」

 ほら、思った通り。
 私への興味を失った様子は見受けられない。

「そっか。……でも、一言だけ、言い残させてもらおうかな」

 そう言って、鍔広の黒色の帽子を右手で押さえる。表情を隠すかのように少し俯いて、私の方へと視線を向ける。
 翠色の瞳が鋭くなったように見えた。


「フランは、どうするつもりなの?」


 一言、告げた。

「どういう、意味よ」

 別の人に全く同じことを言われた。
 でも、主語がないから同じ事象について聞かれたのかは分からない。そのはずなのに、動揺してしまっている。

「さーてね、っと。でも、貴女はわかってるんじゃないかな。わかってて目を逸らしてる。もしくは、絶対にそれはない、と思いこんでしまってる」

 口許が笑みを形作る。でも、瞳が見えないから本当に笑っているのかは分からない。
 何を聞いて、何を考えて、何を目的にしてるんだろうか。

「まあ、どっちにしろ答え合わせは後日だね。今度こそ、ばいばい」
「待、って!」

 私は反射的に立ち上がる。そして、私に背を向けた彼女を思わず呼び止めてしまう。
 呼び止めた所で、何をすればいいのかなんてわからない。
 そもそもどうして私は呼び止めてしまったのだろうか。
 無視し続けていればいいはずなのに。

「何? もしかして、私と別れるのが名残惜しくなった?」

 くるりと振り向いて、笑顔を浮かべる。帽子は表情がしっかりと見えるように直されていた。

「そんなこと、ない……。いいから、早く帰って」

 今度は私の方から背を向けてそう告げる。

「それは残念。じゃあ、今度こそ私は帰るね」

 しばらくして、扉の閉められる音。足音は聞こえてこなかった。歩かずに飛んで帰ったのかもしれない。

 そう思っても、私は扉に背を向け続けているのだった。
 もしかしたら、まだ彼女は扉の前に立っているのかもしれない、と思ったから。





 フランは、どうするつもりなの?

 それを最初に聞いてきたのはパチュリーだった。
 パチュリーは誰よりも早く、誰よりも正確にお姉様の異常に気付いていた。そして、そのことを誰よりも冷静に受け止めていた。
 もしかしたら、こういう事が起こる、ということをあらかじめ予測していたのかもしれない。
 そう思うと、私の本質はそんなものなんだ、と思って非常に悲しかったけれど。

 あの時、パチュリーは、アメジスト色の瞳に哀しさを滲ませ、でも知的な色を霞ませることなく見つめてきていた。そうして、お姉様の現状を話してくれた。

 心が壊れたお姉様は死んでしまっているのとほとんど変わらない状態だと言った。
 私の事しか知覚出来ないお姉様が存在を維持するには私の存在が必要不可欠だと言った。

 そして、私がお姉様を拒絶すれば簡単に死んでしまう、と言った。

 その上での言葉だった。
 私にとっては何よりも重い言葉で、絶望に叩き落とすには十分すぎる言葉だった。

 選べるはずがなかった。
 お姉様にはいなくならないでほしかった。いつまでも一緒にいてほしい。
 だけど、私以外を感じられないお姉様と一緒にいるのは何よりも哀しかった。まるで、私の罪全てがそこにあるようで辛かった。

 ……でも、そんなことは、どうだっていい。
 辛さに耐えかねて、私自身の心が壊れてしまおうと構わなかった。壊れてしまえば、きっと誰も傷つけなくなるんだろう、と思っていたからこそ余計に。

 だから、私が一番気掛かりなのはお姉様自身がどう思っているのか、ということ。
 私と二人きりの世界で満足しているのか、それとも館の皆がいる世界こそを望んでいるのか。

 私には分からない。今のお姉様にだって分かりはしない。
 それを知っているのは、分かっているのは、理解しているのは、壊れる前のお姉様だけだ。
 だからこそ、私は選べなかった。
 立ち止ってしまった。

 壊れた月を前にした私は、どうすればいいのかわからなかった。





 扉の前で、すぅ、と大きく息を吸う。
 新しい空気がたくさん肺の中に入って来る。そして、代わりに古くなった空気を吐き出す。
 少しは気分を入れ替えられた気がした。
 胸の痛みは相変わらずだけど、笑うことくらいは出来そうになった。
 不意にお姉様に会った時はどうしようもなくなる私だけど、こうして構えておけば少しはましに対応が出来る。

 今、私はお姉様の部屋の前に立っている。
 傍らには魔法で浮かせたトレイがある。トレイに乗っているのは二人分のティーセット。

 レミィは食事をする必要はない、とパチュリーが言っていた。今のお姉様に必要なのは、定期的に私に会う事だけ。
 でも、今までずっと紅茶を飲み続けていたからか、飲みたい、と言うことがある。
 その時は、私が淹れてあげている。

 世界の中から咲夜のいなくなったお姉様は、咲夜の淹れた紅茶を私が淹れたものだと思ってしまっていた。
 その度に、お姉様の現状を突き付けられて、辛かった。
 だから、その痛みを少しでも抑えよう、と自分で淹れる事にした。

 もう一度、息を吸う。
 考え事をしすぎて、意識が沈み始めている。
 空気と共にもう一度気分を入れ替えて、笑みを浮かべられる状態へと戻す。

「お姉様、入るよ」

 そして、また余計な事を考えてしまう前に声をかけた。ノックはしない。反応が返ってこないのは分かり切っているから。
 私が音を立てている、と認識しない限り自分には関係ない物だとして処理をする。それが、今のお姉様。

「ええ、どうぞ」

 嬉しそうな声が返ってきた。たった二人の世界にいるお姉様にとって、私という存在は何ものよりも楽しみなものだ。
 そのことに、胸を締め付けられるような痛みを覚えながら部屋に入る。

「こんばんは、フラン」
「うん、こんばんは、お姉様」

 自然な笑顔を浮かべるお姉様。不自然な笑顔を返す私。
 でも、お姉様は気付いてる。私の笑顔が不自然であることに。
 私に気を遣わせないように、本当に辛いときにしか指摘してこない。
 心を壊してしまったお姉様だけど、私に対する態度だけは今まで通り。
 そう、二人きりでいれば、何も変わっていないのだ。私の心情が大きく変わってしまっている、というだけで。

 お姉様のいるテーブルの前に静かに魔法で浮かせたトレイを下ろす。手で置く時よりも、はるかに静かだった。

 ことり。

 それだけ。すぐに音は部屋の中に溶けてしまう。
 世界に二人きり。その感覚はこうして簡単に体験することが出来てしまう。
 誰もこの世界を壊しに来ることはない。お姉様の世界はこれ以上壊れる事がなく、それを見た私の世界は苦しさにまみれてしまうから。

 そう、皆私に気を遣ってくれているのだ。これ以上傷ついてしまわないように。
 そして同時に、お姉様にどう関わればいいのか分らなくなっている。

 何も音がないことに耐えられなくて、私はティーポットを手に取ってカップへと紅茶を注いでいく。
 誰が飲むものよりも濃い紅の紅茶。
 血の様な紅。

 いや、血そのものの紅も混じっている。
 食事を必要としなくなったお姉様だけど、血が入っていなければ物足りない、と言う。だから、必要がない、と分かっていても入れている。
 私と一緒に物を口にすれば、その味はしっかりと味わう事が出来るのだ。それなのに、私以外の生物の存在は極端に排除する。

「どうぞ、お姉様」

 紅茶を注いだカップをお姉様の前と私が座る予定の場所に置く。
 テーブルに置いた拍子に紅が静かに揺れる。

「ありがとう、フラン」

 静かに微笑みを返してくれた。穏やかな見た者に安堵を与える事が出来そうな笑み。
 けど、私はお姉様の静かな微笑みにどう反応すればいいか分からない。ただ、胸が疼く。

 痛みを表に出さないようにしながら対面に座る。それから、痛みを誤魔化すように紅茶に苺のジャムを入れる。
 それをスプーンで紅茶をかき混ぜて少し気が紛れた。

「じゃあ、頂きましょうか」
「うん」

 私の準備が終わるのを待ってくれていたようだ。スプーンを置いた所で、声を掛けてきてくれた。
 頷いて私はそれに答える。

 私もお姉様もほとんど同じタイミングでカップを持ちあげ、口をつけた。

 紅茶の香りが、微かに混じった血とジャムの匂いが鼻腔に広がる。だけど、味はほとんど感じなかった。
 お姉様を前にしている、という痛みが私から味覚を奪っていた。

「うん、いつも通り美味しいわ」

 反対にお姉様は本当に嬉しそうに、楽しそうにしていた。
 今口にした紅茶が、世界一の物であるかのように。

 ……私も壊れれば、同じように思えるのだろうか。





「やっ、フラン」

 お姉様の部屋から出ると、笑顔を浮かべて右手を上げるこいしがいた。扉を閉めるとほとんど彼女との距離はなかった。
 彼女を無視して右に向かう。厨房にトレイとティーセットを戻しに行かないといけない。

「あれ? 何で無視するの?」

 けど、彼女は歩き出そうとした私の前に立ちはだかってきた。反射的に立ち止ってしまう。
 右に身体をずらす。けど、彼女も同じ動きをする。
 今度は左に動いてみると、また同じ動きをされた。
 ならば、と右に動くように見せかけて、左に動いてみたけど、やっぱり同じ動きをされてしまった。
 避けようとしても、私の心を読んだかのように身体を動かして邪魔をされる。そのせいで、向こう側へ行くことが出来ない。

「邪魔」

 仕方がないから声を掛ける事にした。簡潔に私の伝えたいことだけを口にする。
 迂回しても厨房まで行くことは出来るけど、彼女に道を塞がれてそうしなければいけない、というのは気に入らない。

「あ、ようやく反応してくれた。でも、そんなつっけんどんな言い方じゃなくて、フランがお姉ちゃんと話してる時みたいにもっと柔らかく話してくれてもいいんだよ?」
「……」
「おっと、まだ本題に入ってないから行かせないよ」

 話してる途中なら油断してるかも、と思いもう一度避けようと思ったけど、また私の前面に立たれてしまう。
 行く手を遮られる。

 無意味にじっ、と見つめ合う。ふと思い立って、後ろに振り返ってみる。
 たたた、という足音の後、見たくない顔が私の前に現れた。

 しばし考えて、私はもう一度振り返って、全力で厨房へと飛んだ。
 私の行く手を遮るものは何もなかった。

 誰かが呼び止めようとしていたけど、当然止まることはなかった。





 たん、と音を立てて厨房の床へと着地する。振り返ってみたけど、こいしの姿は見えなかった。
 振り切ることが来たようだ。
 でも、油断は出来ない。向かった方向は知られているから、いつかはここに辿り着くはずだ。

 早く片付けをして、部屋に戻ろう。鍵を掛ければ入ってこれないはずだ。

 そう思いながら、桶に水を溜めてティーセットを洗い始める。
 使ったすぐ後なら、水で流すだけでもいい。でも、ちょっと気になるから水に浸けたまま、指でこする。
 流れ水は苦手だけど、桶に溜めている水なら何も問題はない。
 くるくる、とカップを回して洗う。時々水がはねて小さな音を立てる。

 洗い終えると、あらかじめ用意していた布巾でカップを拭く。
 そしてまた、別のカップを水に浸けて指でこする。それを、何度か繰り返す。
 単純な作業だから、物思いに耽る余裕がある。思考が宙にふわふわと浮いて、私の意志に依ることなく巡る。
 いつもならお姉様の事を考えていた。でも、今日はこいしのことだった。

 私は何故彼女を避けるのだろう。
 そんなのは簡単だ。態度が気に入らないから。お姉様の事を話しながら笑う無神経さが癪に触れたから。
 こんなふうに彼女を避ける理由、嫌う理由なんていくらでもある。

 それにしても、何故彼女は私に付き纏ってくるんだろうか。
 面白いことなんて何もない。どうせ、私に拒絶されるくらいの事しかない。

 でも、気になることもある。それは――


「みーつけたっ」


 前兆もなにもなく背後から声が聞こえてきた。

「ひっ……」

 突然の声に驚いて、洗っている途中だったカップを手放してしまう。水に浸けてた状態だったからゆっくりと沈んでいくだけで、割れたりすることはなかった。

 でも、なんで私は誰かが来たのに気付かなかったんだろうか。誰かが来たらすぐにわかるように周りの気配に集中してたはずなのに!

「あっと、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」

 振り返ってみると、案の定そこに立っていたのはこいしだった。
 何も考えずに横に飛んで彼女から距離を取る。出来るだけ彼女の傍にはいたくない。

「でも、そのおかげで逃げ道を塞ぐことは出来たみたいだね。フランとの鬼ごっこ、それなりに楽しかったよ」

 そう言って笑顔を浮かべる。けど、私は彼女の言葉の意味を確かめるために周りを見ていたから、返す言葉を考えている余裕はなかった。

「……あ」

 どうやら私は反射的に厨房の奥の方へと逃げてしまったようだ。後方には壁。右方にも壁。そして、左方には小型のオーブン。ここから出るには、こいしをどうにかしないといけない。
 無理やり通るのは却下だ。その時に彼女を傷つけてしまえば、例え嫌いな相手でも私は立ち直れなくなるかもしれない。
 もう、誰かを傷つけるのは絶対に嫌だ。

「さてさて、少し遅れたけど本題といこうか。フランは昨日の質問、覚えてる?」

 覚えてる。パチュリーの言葉と一字一句違わなかったから、嫌でも覚えてる。
 でも、その質問が指す内容が同一なのかまではわからない。それなのに、私は身構えてしまっている。

「……」

 答えないで、ただ睨む。意味がないことは分かっていても、それ以外にどうすればいいのかわからない。
 素直に答えるつもりはない。かといって関係ないことを言ったとしても強引にあっちのペースで進められると思った。
 無理やり黙らせる、なんていうのは絶対にしない。間違っても誰かを傷つけたくなんてない。
 だから、私はただ睨む。睨んで、ただ成り行きに任せてしまう。

「覚えてるの? 覚えてないの?」

 近づいて顔を覗きこんできた。かなり顔が近い。彼女の鍔広の帽子が当たっていて、鬱陶しい。

「……どうでもいいでしょ。そんなこと」

 このまま無視をしていたら面倒な事をされそうだったから投げ槍にそう答える。内容なんてないに等しい。

「ふうん。まあ、どっちでもいいや。今日改めて質問すればいいんだから」

 そう言って、私から距離を取る。
 顔には、楽しげな笑みが浮かんでいる。自分の言葉でどんな反応が返ってくるんだろうか、と楽しみにしているようだ。


「フランは、お姉ちゃんをどうするつもりなの?」


 そして、何でもないことのようにそう告げた。
 でも、私にとっては何よりも重要な問い。無視することのできない問い。

「どう? これで、私が何を聞きたいかはばっちりわかったでしょ?」

 変わらない笑顔。普段なら少しばかりの殺意くらいは湧いていたかもしれない。
 だけど、動揺が私の殺意を押しとどめる。全く関係ない、と思っていた存在からそのことを聞かれるのは不意打ちでしかなかった。
 ……たとえ心の内で、もしかしたら聞かれるかもしれない、と思っていたのだとしても。

「……何で、そんなこと聞くの」

 動揺を隠すように強く睨みつける。身体はこの場から逃げ出したい、と訴えているけど、逃げ道はない。
 だからこそ、強がっているしかなかった。
 こんなのに私の弱い所を見せたい、だなんて思わないから。

「フランが答えを出すのを先延ばしにしてるみたいだからね。私が背を押してあげようと思ったんだ」

 彼女がその場で無意味にくるりと回る。両手を広げて楽しそうに。

「ねえ、フランはどうするつもりなの? 一緒に壊れる? 突き放して殺しちゃう? 現状をこのまま維持する? それとも、もしかしたら、だなんて思ってる?」

 全て、私が一度は考えていたことだった。
 私も心を壊せば偽りでも幸せになれるのではないだろうか。
 殺してしまった方がお互いの為になるのではないだろうか。
 これ以上変化をさせる必要なんてないのではないだろうか。
 もしかしたら壊れた心が元通りになるのではないだろうか。
 そう、思った。

 色々と考えてはいたのだ。
 だけど、私は何も選べないでいる。ずっとずっと先送りにして、結論を出そうとしていない。
 だって、肝心のお姉様がどうしてほしいのか分からないから。
 今のお姉様ではこの問いに答える事が出来ないから。

 私が選ぶ権利なんてありはしないから。

「何を躊躇ってるの? フランの好きなように選べばいいのに。こうする、じゃなくて、こうしたい、を聞いてるのに何でそんなに悩んでるの?」

 こいしが執拗に質問を重ねてくる。私が彼女の望んだ答えを返すまで、諦めるような様子はない。

 でも、私だって黙っているばかりではない。それなりに時間も経って、動揺も鳴りを潜めてきている。
 代わりに、怒りが浮かんできている。沸々と湧き上がって来ていて、抑え切れそうにない所まで来ている。

 しつこい。耳触り。騒がしい。黙ってほしい。鬱陶しい。

「……うるさい」

 ついに、溢れ出してきた。
 最初は低く小声で絞り出すように。

「ん?」
「うるさい!」

 次に大声と共に、怒りを爆発させた。

 なんで、見ず知らずの他人にここまでしつこく聞かれないといけないんだ!
 放っておいてほしいのに!

「答えたくないから黙ってるのに、なんでそう何度も聞いてくるの! 貴女には関係ないでしょ!」

 一歩踏み出して詰め寄る。だけど、彼女は一切動じた様子を見せない。
 私を見つめ返すその表情はやっぱり笑顔。私の神経は逆撫でされ、実際に手を出してしまいそうになるくらいにまで怒りが溢れる。
 けど、その衝動をぐっ、と堪える。代わりに胸の内には熱がこもる。
 ぐらぐら、と煮えたぎっている。

「うん。確かに関係はないね」

 あっさりと肯定する。けど、それだけで引き返すとは到底思えない。
 この程度で私に関わるのを止めるのなら昨日の時点でとっくにやめていただろうから。

「でも、興味はある。ばらばらに心を壊したフランのお姉ちゃんがどんな結末を辿るのかとっても気になる。フランがどんな行動を起こすのかとっても気になる。だから、最後まで見届けたい。でも、中途半端な結果は見たくない。そうならない為に、フランには自分がどうしたいか、をしっかり決めてほしい。そうしてくれたら、どんな結末だろうと、私は満足出来ると思うよ」

 その言葉を聞いた瞬間に、私の中の何かが切れて――

「おっと、ちょっと無神経な事を言いすぎたかな」

 胸倉を掴んで、壁に押し付けて、思いつく限りの罵倒を浴びせてやろうと思った。なのに避けられた。
 私が腕を伸ばしたその瞬間に後ろに飛んだのだ。まるで、私が掴みかかる瞬間が分かっていたかのように。

 両手が掴んだのは宙だった。手の中には何の感触もない。
 腕から力を抜いて、だらりと下げる。それから、ぎゅっ、と右手を握り締めた。

 ガラスの割れる音が響く。
 やり場のない怒りを、間近にあったお皿をひとつ壊すことで発散した。
 ……まだ、誰かを壊すのをためらうくらいの理性は残っていた。

「……ちょっとどころじゃない」

 射殺すほどの殺意を込めてこいしを睨む。少しくらい怯えてくれればこっちの気も少しは落ち着くのに、全く動じた様子もない。

「まあまあ、そう睨まないでよ。これは、警告でもあるんだからさ」
「……また、私をからかうつもり?」
「最初からからかってるつもりはないんだけだなぁ」

 今更のように困ったような笑みを浮かべる。
 だから、とても白々しく見える。

「まあ、いいや。今日は、フランの機嫌がすごく悪いみたいだし、帰ろうかな。ばいばい、フラン」

 そう言って、くるりと私に背を向ける。
 予想外の行動に私は呆気に取られてしまう。怒りの炎も一瞬で鎮火してしまった。

「待って! 警告、ってどういう意味っ?」

 そして、怒りも不信感もかなぐり捨てて私はそう聞いてしまった。呆気に取られたせいで、自分の思っていなかった行動を取ってしまっている。

「ふふ、ようやく私に興味を持ってくれたね」

 足を止めて、嬉しそうな笑みを浮かべて振り向く。
 しまった、と思ってしまった。呼び止めるべきではなかった。

 でも、もう遅い。
 一度起こしてしまった行動は、取り返しがつかないのだから。

「でーも、教える事は出来ないよ。教えちゃったらフランが考える事をやめそうだからね」

 その口調はどこか悪戯めいていて、一切真剣さを感じさせない。

「私は、考え抜いて、自分なりの答えを出して、それに基づいて行動した結果を見たい。だから、私がするのは後ろから押して展開を早くすることだけ。引っ張って結末を決めるつもりはないから、自分で道を決めてよ」

 これ以上ここにいる、という様子ではなかった。でも、その上からの喋り方が非常に気に入らなかった。

「うるさい! 教える気がないなら、さっさと帰ってよ!」

 楽しめればいい、という魂胆が気に入らなくて、
 指図をされたことに腹が立って、
 再び怒りが溢れ出してきた。

「うん、わかった。でも、考えるのは止めないでね。今の状況を動かせるのはフランだけなんだからさ」

 私の怒りを受け流してそんな言葉を置いて去っていった。
 それを最後までは見送らなかった。もう、帰ってようが帰ってなかろうが私に関わってこないのならそれでよかった。

 残された私は、壁に背をついて怒りを鎮める。

 背に堅い感触と冷たい温度が伝わってくる。目を閉じて、壁に体重を預ける。
 そうして、熱を逃がしながら、何度か深呼吸をして、落ち着くことが出来た。

 ……でも、何故だか、こいしの残した言葉が妙に頭の中に残っていた。





 どうしたいのか。
 それは、今だって全然分からない。

 でも、お姉様には元に戻ってほしいとは思っている。また皆と一緒にいられるようになってほしい。

 でも、それは夢物語。絶対に叶わない願い事。
 一度壊れてしまった物が元には戻らないことを嫌と言うほど知っている。
 都合のいいことは起こり得ないということを知っている。

 だから、お姉様に元に戻ってほしいとは思うけど、それを現実にするために出来ることがあるとは思えないのだ。

 だったら、どうするのか。

 そう思っても、考える事は出来ない。お姉様の行く末を私が考えることなんてできない。
 だって、お姉様がどう思っているのかわからないのだ。
 今の状況をどうしてほしいのか絶対に知ることが出来ない。だから、私は二の足を踏んでしまう。自分がどうしたいか、を考えられないでいる。

 私が決めないといけない。
 私しか決められない。

 それは、分かってる。
 分かってるけど、怖いのだ。お姉様を滅茶苦茶にしてしまった私なんかがそんなことを決めてしまっていいんだろうか、って。
 もしかしたら、壊れた心の欠片で私の決定を嫌がるんじゃないだろうか、って。

 だから、結論を先延ばしにして、どうしたいのか、どうするのかを考えないようにしている。
 停滞している。

 こいしの言う警告、というのも気になるけど、やっぱり私は立ち止っているままだったのだ。





 扉の叩かれる音が聞こえてきて考えるのを中断する。
 昨日から継続して、どうするのか、を考えていた。だけど、一向に考えはまとまりそうになかった。

「フラン、入るわよ?」

 聞こえてきたのはお姉様の声だった。そんなに大きな声じゃないけど、ここは静かだからよく聞こえてくる。

 また、いつもの痛みを感じる。でも、お姉様が私の部屋に訪れてくるのはいつもの事だから、自分を落ち着けられるくらいの余裕はある。
 私が動けなくなるのは、本当に不意にお姉様と会った時だけだ。

「あっ、うん、ちょっと待って」

 私は椅子から立ち上がって、扉の方へと駆け寄る。でも、辿り着く前に扉は開けられてしまった。私が扉を開けてあげられたことは一度としてない。
 もう、それが当然のこととなってしまっているから、お姉様も私もそのことについて言及したりすることはない。
 扉の向こう側のお姉様と正面から目が合う。紅色の瞳が私を映している。

「こんばんは、フラン」
「うん、こんばんは」

 お姉様の微笑みに胸の痛みを隠すようにしながら答えた。
 ……やっぱり、お姉様の顔を見るのは辛い。

 でも、それを表に出さないようにしながら、並んでテーブルに向かう。お姉様が手前に、私が奥に座る。

「何か考え事でもしてたのかしら? よかったら、相談に乗るわよ」
「え? なんでわかるの?」

 開口一番にそう言われて、驚いてしまう。そんな素振りは一切見せてないはずなのに。

「ふふ、驚いたかしら? 貴女、返事をする時に『あっ』って言う時があるでしょう? その時は、大体考え事をしてるのよ」
「そうだったんだ」

 今まで私自身が気付かなかった癖。
 いつのお姉様が気付いたんだろうか。今のお姉様な気もするし、前のお姉様の様な気もする。
 ……その考え方の中に、少し違和感があるような気がする。
 だけど、何なのかはわからない。

「それで、何を考えてたのかしら?」
「……」

 お姉様をどうするか考えてた。
 そんなことは口が裂けても言えない。今のお姉様に、二人っきり以外の世界があることを教えたらどんな結果をもたらすか分からない。

「あ……。……どうしても、言いたくないなら別にいいわ。ただ、ね。最近のフランはずっと辛そうだったから、少しは楽にしてあげたいのよ」

 あ……。
 お姉様が辛そうにしてる。

 そっか。お姉様は辛そうな私を見るのが辛いんだ。
 そして、そんなお姉様を見る私も辛くなる。

 負の悪循環。負の連鎖。
 止まることなくお互いに辛くなっていく。

 そんなことに、今まで気付くことが出来なかった。

「……将来をどうしたいか、って考えてたんだ」

 私は今だけでも負の連鎖を止めるためにそう言った。

 嘘はついてない。どうするか、というのは未来を、将来を考える事でもあるんだから。
 でも、少しの罪悪感を覚える。ちくり、と胸が痛む。

「そんなことを考えてたの?」
「ちょっと違うけど、似たようなこと」
「将来ねぇ……。考えたこともないわ。私は、フランといられるだけで十分だし、これ以上何かが変わることもないと思うし、何よりも幸せだし」

 そう言ったお姉様が浮かべたのは、綺麗な笑顔だった。
 幸せそうな笑顔だった。
 真円の満月のように完璧な笑顔だった。

 だからこそ、
 笑顔が私の胸にぐさりと突き刺さった。
 幸せだ、という言葉が私の胸を抉った。

 血は、流れない。ただただ、苦しくて痛い。
 手で、胸を押さえたい。
 だけど、そんなことをすればお姉様に不審がられる。

 だから、耐えようとする。お姉様の前だけでは耐え切ってみせようとする。
 でも、でも、どうしようもないくらいに痛くて、苦しくて、耐えられない。しまいには泣き出したくなってくる。
 涙を流して、嗚咽を零して、最後には慟哭して。

 でも、私はそれを必死に抑え込む。そのせいで、喉から変な声が漏れてくるけど気にしていられない。
 気にしていたら溢れ出してきてしまうから。

「……フラン?」

 お姉様が心配してる。私の顔を覗きこんで顔色をうかがってくる。
 ああ、無理やりにでも笑顔を見せて安心させてあげないと。
 そうしないと、そうしないと――。

「お姉、様……」

 笑顔を浮かべようとした。
 大丈夫、と言おうとした。

 だけど、無理だった。
 私の思った通りにはいかなかった。

 笑顔の代わりに涙が零れる。頬を冷たく濡らしていく。
 抑え切れない嗚咽が、私から言葉を奪っていく。喉から私の意図しない音が漏れる。

 どうして、どうして、こうもうまくいかないんだろうか。
 誰か教えてほしい。どうすれば事がうまく進むのか。

 方法を教えてくれないならそれでもいい。
 私の命でも何でも差し出すから、お姉様を元に戻して。もう、お姉様に会えなくても構わない。

 それくらいに、たった二人の世界を完全だと信じて、幸せを感じているお姉様を見ていられない。
 幸せだ、と言って笑顔を浮かべるお姉様は私にとって重すぎる。

 ……それが、どんなことよりも無責任で、自分勝手な考えだとわかっていても。

「フラン」

 いつの間にか私の傍に立っていたお姉様に抱き締められた。
 柔らかく、だけど、抱きしめられているのだと分かる程度には強く。

 優しく包み込まれて全てのたがが外れる。感情を、衝動を抑え切れなくなる。

 ねえ、お姉様はどうしてそんなにも優しいの?
 あんなにも傷つけてしまったのに。
 
 どうしてお姉様と私とだけの世界を作ったの?
 世界を壊したのは私なのに。

 どうして、私を抱き締めるの?
 ……私の事なんて、捨ててしまって構わないのに……。

 わからない。お姉様が何を考えてるのかなんて全然わからない。

 ねえ、と尋ねたいのに思ったように口は動いてくれない。
 どうして、と問いかけたいのに喉は別の用途に使われてしまっている。


 だから、私はお姉様に縋りついて慟哭していることしかできなかった。





 あの後、どれくらいの間私が泣いていたのかは分からない。

 ただ、気が付けばしゃくりあげるように泣いていて、お姉様に頭を撫でられていた。
 気持ちが落ち着いたわけではない。喉が痛くて、疲れ果てて、大声を出して泣くだけの気力がないだけ。
 だから、代わりにぐずぐずと泣き続ける。

「……フラン。貴女が考えてるのは私のことでしょう?」

 囁くような声だった。
 小さな小さな声だったけど、間近で発せられたその言葉はしっかりと聞き取ることが出来る。

 お姉様が私の考えたことを言い当てたことは別段驚くことでもない。今までだってお姉様は気付いていたんだから。

「私といるのが辛い?」

 その問いに少し逡巡して頷いた。
 お姉様が近すぎて見えないから頷けた。頷いてしまった。

 きっと、お姉様は傷ついたような表情を浮かべてるんだろうな、と思う。だけど、自分自身を騙している余裕なんてもう何処にも残っていなかった。
 だから、今の私はどんなことを聞かれても素直に答えてしまうだろう。是か否かのどちらかで。

「それは、私を傷つけたから?」

 こくり、と頷く。

 でも、本当は少し違う。私が本当に辛さを感じている原因は、お姉様を壊してしまったこと。
 お姉様を取り返しのつかない状態へとしてしまったこと。

「……私に、いなくなってほしい、と思ってるかしら?」

 迷いなく私は勢いよく頭を左右に振った。
 お姉様にぎゅっと抱きついて、何処にも行けないようにした。

 いなくなってなんて欲しくない!
 ずっとずっと私の傍にいてほしい。
 ……だから、だから、そんな悲しい事は言ってほしくない。

 でも、言わせてしまったのは私だ。
 お姉様の傍にいるのが辛い、と肯定してしまったのは私だ。

 胸が、ぎゅっと痛む。
 首の動きを止めて、更に強くお姉様に抱きついて痛みに耐える。
 本当は、離れた方がいいんだろう、と思いながら。

「そう……」

 囁くような声と共にぎゅっ、と抱き返される。
 痛みと安心と苦しみとが同居している。だから、まだ泣き続ける。

「……ねえ、フラン。もし、私がいなくなったとしたら――」

 え?

 望んでいなかった、予想していなかった、その言葉。
 思わず、涙を流したままお姉様の顔を見上げてしまう。


「――一人きりの世界でどう生きるのかしら?」


 それはまるで、消えてしまうと宣言しているかのようだった。
 消えてしまっても大丈夫、と判断すれば今すぐにでも消えてしまうかのような言葉だった。

「いや、だ……」

 痛む喉を無理やり働かせて声を絞り出した。
 いやだ。お姉様がいなくなるなんて、絶対にいやだ!

「やだ。やだ。やだ! いなく、ならないで。私は、ずっと、お姉様に、いてほしい」

 自分がどうしようもなく我が侭な事を言ってるのは分かってる。
 でも、どんなに胸が痛もうと、どんなに苦しくとも、私はお姉様にいなくならないでほしい。
 私に関わった人たちの中で誰よりも大切な人だから……。

「うん、そうね。私もずっとフランの傍にいてあげたいわ。……でも、貴女を辛さから救ってあげられるのなら、どこにだって行く覚悟をしてるわ」
「駄目……。どこにも、行かないで」

 見上げて、縋るように言う。
 離れたくない。ずっと一緒にいたい。いなくならないでほしい。

 そんな想いばかりが溢れてくる。
 自分勝手だと分かっていても、この想いが止まることはない。

「わかったわ。フランがいてほしい、と言う限りはいなくならない。望む限り一緒にいてあげるわ」

 そう。そうだ。私はお姉様にずっと傍にいてほしい。
 迷う必要なんてなかった。私は、ずっとお姉様の傍にいる事を選べばよかったんだ。

 自分の想いが確固なるものとなると、辛くなくなった。
 苦しさ、痛みはまだ残ってる。
 でも、耐えられる。耐えなければならないものが一つ減ったのだから大丈夫だ。

 お姉様と一緒にいる。
 それが、私の選択だ。


「それが、フランの選択なんだ」


 私の思考を読んだかのようなタイミングで声が聞こえてきた。楽しげで飄々としている聞き慣れたくない声。
 一気に自分の中の温度が変わったのを感じた。
 温度が下がり、冷静さを取り戻す。
 気付けば、涙も止まっていた。

 後ろにいるだろうこいしを睨もうと思ったけど、お姉様がいるからそんなことは出来ない。声を出して追い払う事も出来ない。

「心を壊したお姉ちゃんといつまでも一緒にいる。うん、素敵な選択だと思うよ」
「フラン? どうかしたかしら?」

 好き勝手に話し始める彼女の声と、突然雰囲気の変わった私をいぶかしむお姉様の声とが重なる。
 片方を無視して、片方の声にだけ意識を傾ける。
 そうしたいのに、あまりにも静かすぎるこの場所では嫌でも聞きたくない声が聞こえてきてしまう。

「ううん、どうもしてない」
「……でも、それはちゃんと考えて選んだ選択? その場の感情に任せて決めた選択じゃないの?」

 うるさい!
 口を開かないで! 喋らないで! どこかに行って!

 そんな言葉を全て飲み込む。代わりに、腕に力が入る。

「フラン。本当に大丈夫?」

 お姉様の声に心配そうな色が混じり始める。こいしを認識していないお姉様から見て、今の私の行動はかなり不審に映るはずだ。
 でも、だからと言って、私の内にある激情は抑えられない。

「私は、フランがちゃんと、考えて選んだ結果を見たい。だから、私はフランの選択には納得しないよ」

 私の今の様子なんてどうでもいいみたいに、彼女がそう言う。自分の伝えたいことだけを口にする。

「お姉様」
「うん?」

 ゆっくりとお姉様から手を放す。

 もう我慢が出来なかった。黙ってこいしの言葉を聞いていることなんて出来なかった。
 言ってやりたい。
 自分勝手な事を言うな、と。
 私にこれ以上関わってくるな、と。

「……ごめんなさい。ちょっと、一人にしてほしい」
「謝らなくてもいいわ。……そうね、もう一度一人で色々考えてみた方がいいかもしれないわね」

 あっさりと私を放して離れてしまう。
 温かさが失われて、寒さを感じた。まるで、お姉様が消えてしまう予兆のようで、寒気を感じた。
 小さく身体が震えた。

 私に背を向けていたお姉様は気付かない。
 でも、私の背後にいるこいしは気付いたはずだ。

「じゃあ、私は部屋に戻ってるから、落ち着いたらいつでもいらっしゃい」

 最後に振り向いて、笑顔を向けてくれた。
 そして、扉を開けて部屋から出ていく。

 階段を上がっていく足音が徐々に遠ざかる。

 そして、聞こえなくなった所で――

「ようやく二人っきりになれたね」
「うるさい! 黙ってすぐに帰って!」

 こいしのふざけたようなその言葉に、怒りを込めた言葉をぶつけた。
 振り返るつもりはない。私自身、その顔を見てしまえば何をしでかすかわからない。
 彼女も私の視界に映り込んでくるつもりはないようで、正面の席は空っぽのままだ。

「帰るわけにはいかないよ。フランが私の望まない選択をしちゃったんだから。ちゃんと考えないと駄目だよ」
「貴女に指図なんてされたくない」

 ぎゅっと手を握り込んで、怒りを抑えつける。手に痛みを感じるくらいに強く握る。
 まだ、何も壊してはいない。

「うん、知ってる。でも、ここで私に水を差されたから嫌でも考えちゃうはずだよ。本当に自分の選択は正しいのか、って」
「……黙って」
「わかった、黙ってる。黙って、どこかに行ってるよ」

 嫌に素直な言葉だった。そして、同時に彼女の気配も消える。
 私は振り返ってしまう。

 でも、そこにはもう誰もいなかった。





 ちゃんと考えないと。

 こいしの言葉に従うつもりなんてない。
 ないはずなのに、私は考えてしまっている。

 今のお姉様と一緒に生き続ける。その選択が果たして正しいのかどうか。

 確かに彼女の言うとおり、その場の感情で決めたことだ。
 お姉様の幸せだ、という言葉に心が大きく揺れて、いなくなって欲しいか、という言葉に恐怖を覚えてしまっていた。

 もしいなくなったとしたら、というその言葉を聞いた途端に全ての感情が爆ぜた。
 そして、私は決めたのだ。お姉様といよう、と。

 でも、冷静になった私が本当にその選択が正しいのか、と問うてくる。
 自分の独りよがりな選択なのではないのか。ただお姉様から離れたくないだけで何も考えてないのではないか、と。

 でも、あの時私はどんな時よりも強く思ったのだ。
 お姉様にいなくなって欲しくない。
 お姉様と一緒にいたい。
 そんな風に、強く強く思ったのだ。

 ここまで明確に思ったのは初めてだった。選択に自分の意志や感情が混じったのは初めてだったのだ。
 だから、この選択が絶対に間違っている、とは思いたくない。

 でも、独りよがりな選択には間違いない。
 何も考えていない、というのも正しい。

 この選択をする時私は、お姉様がいなくなることを恐れていた。居なくならないで欲しい、と強く思っていた。
 ただ、それだけだ。自分の事しか思っていなかった。
 ただ、自分の為だけに選択していた。

 だから、今から考えてみよう。お姉様がどう思うか、どう思ってるのか。
 今のお姉様が昔のお姉様と違うから、なんて逃げてはいけない。私自身の想いはしっかりと掴めたのだ。
 だったら、壊れた心の中からお姉様の想いを紡ぎ出そうじゃないか……。

 胸が痛い。
 お姉様の心が壊れている、という現実と向かい合う事が何よりも辛い。

 こんなことやめてしまいたい。
 やめて私の思うままに、お姉様を求めていたい。

 ……だけど、そうやって逃げていることも出来ないのだった。
 お姉様の、幸せだ、という言葉が胸に突き刺さったまま、痛みを押し付けてくる。
 きっとこのままでは、こいしの言う中途半端な状態となってしまう。認めてしまうのは非常に癪だけど。

 それに、その痛みが訴えるのだ。お姉様の心の欠片がここにあるのだと。

 お姉様は言った。
 幸せだ、と。
 私といられるだけで十分だ、と。

 それは、昔のお姉様も言っていた言葉だ。
 あの時は、痛みばかりに気を取られていたけど、確かに昔のお姉様も言ってくれていたのだ。
 私といられて、幸せだ、と。

 それは、今も昔もお姉様にとって私が大切だ、という何よりもの証。
 もしかしたら、やっぱり私の独りよがりな考えなのかもしれない。今のお姉様を受け入れる事を正当化する自分勝手な考えなのかもしれない。
 でも、信じたい、と思うのだ。
 胸の痛みと共に思い出すあの笑顔の事を想うと。

 なら、一緒にいてあげればいいのだ。信じているのなら突き放す必要もない。

 だから、私の選択は間違ってない。
 だけど、足りない物がある。

 それは、覚悟。
 お姉様の前で自然に笑っていられるだけの覚悟。
 痛さも苦しさも辛さも何を感じようとも自然と笑っていられるだけの覚悟。

 だって、お姉様は苦しそうな私を、痛そうな私を、辛そうな私を見て同じように苦しんで痛がって辛く思っていてくれたのだ。
 誰に言われなくても、それくらいは分かる。分かっていたからこそ、苦しく痛く辛かった。

 でも、そんな我が侭は言っていられない。
 誰のせいでこうなったのかと言えば、他でもない私自身のせいなのだから。

 なら、私はお姉様に本当の幸せを感じさせるために笑おうじゃないか。
 今後一切お姉様に心配を掛けさせないようにしないじゃないか。
 苦しさも痛みも辛さもなく笑顔を浮かべさせてあげようじゃないか。

 それが、私への罰であり、私がお姉様にしてあげる唯一の事なのだ。

 私は壊れた月を見て笑う。
 自身の罪を自覚しながら、苦しみも痛みも辛さも全部隠して笑う。

 お姉様に本当の幸せを与えるために笑ってみせる!

 ……でも、今日は疲れた。
 怒って、悩んで、泣いて、考えて、そして、決めた。
 だから、今日は寝て明日から頑張ろう。

 疲れた笑顔じゃなくて、元気な笑顔を見せてあげよう。




 お姉様の部屋の前に立つ。
 昨日の決意を形にするために寝て起きて真っ直ぐにここへと向かってきた。だから、紅茶の用意はしていない。

 気持ちを入れ替えたせいか物凄く緊張する。
 落ち着かない。
 痛みも微かに感じる。

 でも、それらを表には出さないようにしないと。特に、痛み。これだけはお姉様に見せてはいけない。
 その為に、ゆっくり大きく静かに深呼吸をする。

 吸って、吐いて、吸って、吐く。

 よし、落ち着いた。
 痛みを隠す覚悟も、大丈夫。

「お姉様、入るよ」

 いつものように部屋の中へと声を掛ける。

「ええ、どうぞ」

 ほとんど間を置くことなく嬉しそうな声が返ってきた。
 たった二人の世界において、お姉様に幸せを与えられるのは私だけなのだ。
 そう信じて、扉を開く。

 胸が小さく痛んだけど、気にしない。
 気にしてはいけないのだ。
 一度気にしてしまえば、表に出てきてしまうから。

「こんばんは、フラン」
「うん、こんばんは、お姉様」

 自然な笑顔を浮かべるお姉様。極力不自然に見えないように笑顔を浮かべる私。
 お姉様と居られる私は幸せなんだと信じて、痛みを相殺する。

「……」

 何故かお姉様にじっと見つめられる。
 もしかしたら、私の変化に気付いたのかもしれない。

 だとしたら嬉しい。私の決意と覚悟がそれだけ強い、という証明になるのだから。

「少し、表情が明るくなったみたいね。……落ち着くどころか、自分なりの考えがまとまったみたいね」
「うん」

 お姉様の幸せの為に笑うと決めた。
 二人きりの世界を作り出すお姉様から逃げ出さないと決めた。

 でも、そんなのは口に出すことじゃない。
 私の胸の中にだけにしまっておけばいいのだ。

 今は、お姉様に幸せを分け与えてあげる事だけを考えればいい。


 それでもし、私の世界が壊れてしまうのなら、それでも構わなかった。







「やっ、フラン。結局、お姉ちゃんと一緒にいる事にしたんだ」

 お姉様とお話をして、部屋から出てくると右手を上げるこいしがいた。
 なんとなく何処かで出てくるだろう、と思っていたから驚くことはない。

 足は止めないで、そのまま歩き出す。そうすると、こいしも勝手についてきた。
 追い払おうとは思わなかった。多分、少しばかりの余裕が生まれてきたから。

「……文句でもあるの?」

 前を見たまま聞く。
 文句がある、というのなら問答無用で追い出すつもりだ。

「ううん。ないよ、そんなもの。ちゃんと考えたんだ、ってのはわかってるからね」

 追い出す理由が無くなってしまった。
 だから、何も言わないで自分の部屋を目指して歩く。

「そんなフランにはご褒美、ということで私がしようとしてた警告を教えてあげよう」

 一際大きな足音が響いて彼女が隣に並ぶ。


「フランのお姉ちゃんはそう遠くない未来に消えるよ。壊れた心と一緒にね」


「……何でそんなことが分かるのよ」

 思わず足を止めて隣の彼女を見る。

「重要な柱を失った家はいつまでも立っていられない。そういうことだよ。それに、目を閉じちゃってるけど一応さとり妖怪だからね。なーんとなくはわかるんだよ、そういうこと」
「……そっか」

 特に驚きはなかった。きっと、そうだろうな、とは思っていたから。
 ただ、今まではそれを受け入れられなかっただけ。

 でも、今は案外すんなりと受け入れられた。
 ……実際にその時に私がどうなるかは分からないけど。

 そういえば、また目について聞けば教えてくれる、とは言っていたけど、彼女は自分から喋っている。
 まあ、私としてはどうでもいい。

「随分と素直だね。まあいいや。それで、フランはこれを聞いて考えを変えたりする?」
「絶対に変えない。私はお姉様に幸せを感じさせる、って決めたんだから、変えたりしない」

 感情だけで選択をした私ならどうだったかわからないけど、今の私は絶対に揺らがない。
 ちゃんと覚悟も決めているのだ。そう簡単に折れたりもしない。

「合格。うん、十分に私を満足させてくれる答えだよ。これなら、安心して最後の結末まで見届けられそう」

 そう言って、笑顔を浮かべた。
 余裕がない私なら殺意を抱いていたかもしれないけど、今は特に気にならなかった。言いたければ勝手に言っていろ、という感じだ。

「相変わらず悪趣味」

 でも、よくよく考えてみれば、こうして悪趣味だからこそ、私もしっかりと考える事が出来たのだ。
 感謝すべきなのかもしれないけど、どうにもそういう気持ちにはならない。今まで散々こっちの心をかき乱されてきたから。

「どう言ってくれても結構。これが、私の生き方なんだし」

 楽しそうに笑う。
 はあ……。これからも、このまま付き纏われてしまうらしい。

 でも、別にそれでもいいか。進むべき方向を決めてしまった私にとってこいしはもう煩わしい存在ではなくなっているから。
 むしろ、私がどれだけお姉様を幸せに出来るのか、見届けてほしい、とさえ思っている。

 ふと、館の数少ない窓から外を見てみる。
 そこには、砕けた月の欠片の様な星が数え切れないくらい見えた。


 私はこれからも壊れた月を眺め続ける事になる。
 でも、それは自身だけでは輝くことが出来ない。だから、私が照らしてあげないといけない。

 私より先に消えてしまうものなのだとしても、最後まで照らし続けてあげよう。


 だって、その輝きこそが私を一番照らしてくれるのだから。


Fin



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