外から入ってくる風に舞い上げられた埃。微かに差し込んでくる陽の光がそれらに当たり、宝石のような輝きを見せる。光が差し込んでくる窓は壊れてしまい、蔦が内部へと侵入してこようとしている。
周りには、窓の割れた客車が数台、打ち捨てられている。あれらが、人を乗せて走ることはないだろう。決して。
静かな静かな寂れた車庫。滅びを、連想させるような風景だ。
けど、それは、人間が滅びた、ということには直接繋がらない。ただ、誰もが私のことを忘れ去り、誰もがここを訪れなくなった。ただ、それだけのことだ。
私が、最後に走ったのは何時だったか。遠い、遠い昔を回顧してみるが、何時だったかなど思い出すことは出来はしない。
代わりに、誰かを乗せて走りたい、という衝動が私の内で静かに渦巻く。けど、それが叶えられることは、ない。決して、ない。
だから、私はこのまま朽ち果てていくだけだ。退屈な時間を、何もせず潰していくだけ。いつも、自分の力で歩くことの出来る人間が、羨ましい、と思ってしまう。
けど、仕方がない、私は単なる乗り物に過ぎない。人間が、私に石炭を食わせ、火を熾すことで、ようやく私は動けるのだ。自分の意思で動くことは、出来ない。
たん……
不意に、誰かが車庫の硬質な床を踏む音が響いた。誰か、来たのだろうか。だとしたら、じつに何年ぶりの訪問者だろうか。
意識を車庫の入り口へと、向けてみる。そこには、奇抜な格好をした少女がいた。
黄色いリボンの巻かれた鍔広の黒帽子から覗くのは、水色のかかった銀髪。けど、それだけなら、異国の者だろうか、と思うだけだった。人間の格好について、とやかく言うつもりはない。
問題なのは、そこではない。
彼女には目があった。顔についている翠色の二つの瞳とは違う、独立した、閉じた目のような何か。そこから、二本の青色の管が彼女に絡みつくようにして伸びている。
入り口で立ち止まっていたかと思うと、薔薇のような意匠の施された緑色のスカートを揺らしながら、たったった、とこちらへと駆け寄ってくる。宝石のようなボタンのついた黄色の上着の黒色の袖も、合わせて揺れる。
「なんだろ、これ」
駆け寄ってきた少女は、興味深そうに私の体へと触れる。
「おー、ひんやりして、きもちー」
そして、そのまま頬を寄せてくる。少女は、なんだか楽しそうに笑っている。
姿はかなり奇抜でも、中身は普通の少女のようだ。まあ、このまま朽ち果てる私にとって、この少女が怪物であろうとも、関係ないことなのだが。
「……っと、こんなことより、そんなことよりも」
妙な言い回しをしながら、私から離れる。
「おーい、誰かいないのー?」
そして、さほど大きくない声で、誰かへと呼びかける。何か、気配を感じてここまでやってきたのだろうか。
だとしたら、随分と怖いもの知らずなものだ。その誰かが、善い存在であるとは、限らないのに。
けど、ここには誰もいない。だから、私は安心して少女の動向を見ていることが出来る。
「この中かな?」
そう言いながら、少女が私の機関室の中を覗き込む。
「む……、いない」
少々不満そうな表情を浮かべている。けど、その表情もすぐに引っ込められる。
感情の起伏が激しい、というよりは、すぐに感情が安定している、というような印象だ。何処か、捉え所のない雰囲気を醸し出しているのも、その辺りが起因しているのだろうか。
「くるくるー、っと回っても誰もいない」
私から少し離れたかと思うと、突然その場で回り始める。何をしているんだろか、彼女は。
「あっ、もしかして」
何か閃いたように、回転を止める。そして、私の方へと人差し指を向ける。
「この気配の正体はあなただねっ」
この、と言われても、何のことだかさっぱり分からない。
けど、そういえば、偶に私の『声』を聞くことが出来る者がいた。彼女も、そういった類の者なんだろうか。
確かめてみるためにも、私は『声』を発してみる。
『お前は、私の声が聞こえるのか?』
「意志を持った物かー。ふふ、これは面白そう。今度は、お姉ちゃんを連れてこよー、っと」
私の『声』には反応せず、私に背を向けて離れていってしまう。どうやら、この少女に私の『声』が届くことはないようだ。
けど、少女の姉は、私の『声』を聞くことができるようだ。
「ばいばいー! 何だかよくわかんない鉄の塊さん! 今度は、お姉ちゃんも連れてくるから、その時は、面白いお話をお願いねっ!」
少女は、そんな一方的な約束を置いて、走り去って行ってしまった。
……一体、なんだったんだろうか。
少女がいなくなって、車庫の中は再び静寂に包まれる。
慣れているはずなのに、久しぶりに人の声を聞いたからか、随分と物寂しいように、感じられた。
◆
なんだかよくわからない少女が、私の所へと尋ねてきてから、数日が経った。あの少女は、一向に私の所へと訪ねて来ない。忘れてしまったのだろうか。
……まあ、それも当然か。動くことのない蒸気機関車など、単なる鉄の塊にしか過ぎない。
そういえば、あの少女も私のことを、鉄の塊、と呼んでいたな。もう既に、蒸気機関車、などという物は忘れ去られてしまったのか。
……そう思うと、寂しいものだな。
「―――お姉ちゃん、ここ、ここだよ! ここに面白いのが、いるんだよ!」
「―――ちょっと、こいし、待って、ちょうだい」
外から何やら話し声が聞こえてくる。一つは、つい最近聞いたばかりの、あの奇抜な格好をした少女のものだ。
久しぶりに人の声を聞いたからか、はっきりと記憶に残っている。
もう一つの声も少女のものだった。少し二人の声の響きが、似ているような気がする。
姉を連れてくる、とか言っていたから、もう一人の声の主は、彼女の姉なのだろう。
「―――むぅ、お姉ちゃん、だらしないなぁ。毎日、外に出て鍛えないと」
「―――確かに、それは一理ある、わね。けどっ、どうして、こいしは、こんな森の中を、すいすいと、進んで行けるのよっ」
この前の少女の声は元気だったが、もう一つの方は途切れ途切れの声だった。
だが、妙だ。私のいる車庫は確かに、森の中にあった。けど、道がない、というのはありえない。車庫は、線路と繋がっているのだから。
もしや、長い年月の中で、完全に消失してしまったのだろうか。
「―――んー? なんか、こう、こっちに行けばいいやっ、見たいなノリで進んで行ったら、普通に進めるよ?」
「―――そんなことが、出来るのは、貴女だけね」
「―――うん、そうかもね」
たん、たん。
二人分の足音が静かな車庫の中に響く。
出入り口の前には、数日前に私の所へとやってきた少女と、彼女の姉であるらしい少女が立っていた。
そちらも、奇抜な格好をしていた。
紫の髪に、こちらを見つめる紫の瞳。
ハート型のボタンのついた水色の服。妹と色違いのピンク色のスカート。
そして、妹の方と同じように、一個の独立した目がある。ただ、妹の方とは二つ違いがある。
一つは、そこから伸びているのは赤い管。先端へと行くにつれ、徐々に黄色へと変化していっている。
そして、もう一つは、その目が開いていること。赤い瞳が私の方をじっ、と見つめている。
何だか私の内側まで見据えられているような気がする。
普通ではない、ということが窺える。
ただ、疲れきった表情が、その奇抜な少女を普通の少女らしく見せる。
姉妹揃って、不思議な雰囲気を持っているように思った。
「お待たせっ。ごめんごめん、お姉ちゃんが出不精なせいで、連れ出すのに苦労しちゃったよ」
妹の方が私の方へと駆け寄ってきて、笑顔を向ける。この子は、大抵、笑みを浮かべているような気がする。
「ほらほら、お姉ちゃん、早く早く!」
振り返って、姉を呼ぶ。姉の方は、疲れ切っているようで、足取りが少しふらふらとしている。
「そんなに、急かさなくても、逃げたりなんか、しないわよ」
息も絶え絶えなまま、そう答える。やり取りだけを見ると、普通の姉妹だ。元気な妹と、それに引っ張られる姉。
それにしても、あの少女はこちらに辿り着く前に、倒れたりはしないだろうか。あの足取りを見ていると心配になってくる。
「……心配は、ご無用です。倒れたりは、しませんから」
今のは、私に向けられた言葉だったんだろうか。
けど、私は思っただけだ。『声』は発していない。どういうことだろうか。
……もしかして、彼女は、私の心を読んでいる?
「正解、です。はぁ……」
ちょうど、私の前までやってきた彼女が、考えたことに律儀に答えた後、疲れ切ったような息を吐く。息を整えてから答えればいいだろうに。
「それも、そう、ですね。少し、お待ちください」
そう言うと、姉の方が深呼吸を始める。ここの空気は、結構、埃っぽいのだが、大丈夫なのだろうか。
「お姉ちゃん、息なんか整えてないで、この鉄の塊からお話、聞いてよ」
妹の方は、そんな無茶振りをしている。かなり、自分勝手な性格なようだ。
「……こいし、無茶を、言わないでちょうだい。じゃないと、まともに、話せそうに、ないから」
「むぅ……、しょうがないなぁ」
不満そうな表情を浮かべるが、無茶なことをさせるのは諦めたようだ。一応、聞き分けはあるらしい。
それから、姉の方が息を整えている間、妹の方はずっと、私の体に触れていた。
どうやら、鉄特有の冷たさが気に入ったらしい。触れては別の場所に触れ、を繰り返す。
「……はぁ。お待たせしました。なんとか、落ち着きました」
そうこうしている内に、ようやく姉の方の息は落ち着きを取り戻したようだ。最後に、小さく息を吐いて、私を見る。
「ようやく立ち直ったね。じゃあじゃあ、早く面白いお話を聞き出してよ」
いつの間にやら妹の方が、姉の傍へと戻ってきていた。私は、彼女が離れたことにも気付けなかった。
「こいし、その前に自己紹介よ」
「んむ、確かにそうだね」
息を整える前に、律儀に私の疑問に答えてくれようとしたことといい、姉の方は、妹とは違って随分と礼儀正しいようだ。
「私は、こいし。それで、こっちが私のお姉ちゃんの」
「古明地 さとりです」
こいしは笑顔で、さとりは小さく礼をしながら名前を告げる。本当に、この姉妹は対称的なようだ。
これは、私も自己紹介をするのが礼儀だろう。例え、片方にしか届かなくとも。
『私は、C五一形蒸気機関車だ。面倒だろうから、シゴイチ、とでも呼んでくれ』
『声』をさとりの方へと向ける。心が読めるみたいだから、そんなことをする必要もないだろうが、思うだけでは、物足りない感じがするのだ。
「シゴイチさんですね。よろしくお願いします」
さとりが、柔らかく微笑む。
「シゴイチ、っていうんだ。よろしくねー」
こいしは、そう言いながら、私の体へと触れる。そんなに私の体に触れることが、気に入ったんだろうか。
「ああ。その子の行動はあまり気にしないようにした方がいいですよ。突拍子がないですから」
「そーそー、私は私のやりたいようにやってるだけなんだから、気にするだけ無駄無駄」
本人がそんなことを言うのはどうなんだろうか。……いや、そんなことも気にするだけ無駄なのか。
「そういうことです」
こうして答えられると、私が『声』を出す意味がなくなってくるな。まあ、さほど気にはしていないが。
「では、質問に入らせていただきますが、あなたは何なのですか?」
『蒸気機関車、という乗り物だ』
私を知らないこいしが特別なのか、とも思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。もう既に、私のような存在は忘れ去られた遺物なのだろう。
「乗り物、ですか。……とても、動くようなものには、見えないのですが」
『そうか。……これでも、昔はたくさんの人や物を運んでいたんだがな』
かつて私は、一日に数え切れないほどの、人や物を運んでいた。そうすることが、私の生き甲斐であり、唯一出来ることであった。
私の働きに感謝してくれる者もいれば、それが当たり前だと思う者もいた。どちらであろうとも、役に立っている、と実感することで、私は、満たされていた。
「へぇ、あなた、乗り物だったんだ。ねえねえ、お姉ちゃん、面白そうだから動かしてみようよ」
こいしがはしゃいだような声を上げる。初めて私に乗ろうとする子供のことを思い出した。父親と母親に手を繋がれたまま、本当に楽しそうにはしゃぐのだ。
懐かしい。ああいう日は、いつだって私は、やる気になっていた。
だから、今もまた、私の中で人を乗せて走りたい、という衝動が生まれる。それは、もともとあった、衝動とあわさって、異常なほどの欲求となる。
「……シゴイチさん、どうすれば、あなたを動かせるようになるんですか?」
『ボイラーを水で満たして、火室で火を熾してくれれば走ることが出来る』
「ふむ、それくらいなら、こちらでも用意できそうですね」
その言葉を聞いた途端。私の心が大きく揺れる。心臓があれば、一回り、もしくは二回り、ほど大きく鼓動していたかもしれない。
それほどに、もう一度走れる、という事実は、私を興奮させる。
今まで、まともに思い出すことのなかった記憶が、ゆっくりと溢れ出てくる。
熱く煮えるように温まった車体。駅を出発する前に鳴らす汽笛。煙突から噴き出す、黒煙と白煙。
そして、車輪へと力を注いで、私は線路を進む。
遠い、遠い昔のことだが、鮮明に思い出すことが出来る。思い出すことのないと思っていたことが、再び甦る!
「……あ」
『どうしたんだ?』
さとりが不意に零した声によって、記憶の再生が止まる。
「線路、というものがないんです」
「線路? なにそれ」
……ああ、そういえば、そうだな。線路がないからこそ、さとりはここに来るのに、苦労したのだった。
いや、だが、よく考えてみれば、それはおかしい。
線路を撤去するとなれば、それなりに大規模な作業となるはずだ。その音が、ここまで届かない、ということはありえない。
いや、そもそも、線路を撤去すると言うのに、私のことを放置していく、というのもおかしな話だ。
どうなっているんだ?
「線路、というのは、今、シゴイチさんが乗っている、二本の鉄の棒のことよ。どうやら、シゴイチさんを走らせるには、これが、何処までも続いている必要があるみたい」
「そうなんだ」
私が混乱している間に、さとりがこいしへとそんな説明をしていた。
いや、それもおかしい。線路を知らない、というのはどういうことだ?
私が引退する原因となった、後継者達も、線路は必要なはずだ。そんな後継者達も姿を消してしまったのだろうか。日本中を埋め尽くすかのように線路が存在していたはずなのに。
「……そういえば、説明をしていませんでしたね。今、シゴイチさんがいるのは、幻想郷、と呼ばれる、あなたがもといた世界とは少々異なる場所なのです」
混乱する私の思考を読んださとりが、酷く冷静な声で、そう言ったのだった。
◆
「―――と、いうのが、ここ幻想郷なのです」
『……そのような場所が、日本には存在していたのだな』
私がもといた世界で、忘れ去られた存在が集う秘境の地。
人間達が、科学を信じるようになり、失われていった神秘はここにあったのだな。
……それにしても、忘れ去られた存在が集う地、か。
私が忘れられている、という実感はあった。しかし、このような場所に引き寄せられてしまったのだ、と思うと、改めて寂しいものだ。
「あっ、お姉ちゃん、お話終わった?」
さとりが話をしてくれている間、私の機関室の中を弄っていたこいしが、外へと出てくる。こいしの帽子には、埃の塊が乗っている。機関室を弄っているときに舞い上がった埃が乗ったのだ。
埃の大きさから、私がどれだけの間、放置されていたのかが、うかがい知れる。
「ええ、終わったわ」
そう言いながら、自然な動作で、こいしの帽子についた埃を払っている。妹の世話をすることに慣れているのだろう。
「……さて、と、これから、どうするか、ね」
「うん、そだねー。線路?、っていうものが必要なんだよね」
さとりの言葉に頷いて、こいしは、むー、と顎に手を当てて考え始める。さとりも、声は出していないものの、同じ場所に手を当てている。
性格が全く違う、と思っていた二人だが、こういったところでは、似たところもあるようだ。
「……あー、ダメだ。何にも思い浮かばない」
こいしは、早々に諦めてしまった。まあ、なんとなく予想はしていたが。
「諦めるのが早いわね」
そういう割には、声は淡々としている。こういうことにもまた、慣れているのだろう。
「だって、思いつかないんだもん。そーいうお姉ちゃんは、何か思いついたの?」
「思いつかないわ」
さとりは、こいしの言葉に首を振る。
それもそうだろう。線路、なんていうものは、そう簡単に用意できるものでもない。
「ほら、お姉ちゃんだっておんなじじゃん」
「どこがよ。私は諦めてない。けど、こいしは諦めてる。ほら、違うでしょう?」
「そーゆー、捉え方もあるね。でも、諦めるのも、考えて答えが出ないのも同じだよ。もっと、有益なことしようよ。他の人に相談してみるとかさ」
確かに、こいしの言うことも一理あるように感じた。ただ、何となくだが、考えるのが面倒でそう言っているような気がしてならない。
「……そうね。私たちだけで考えていても、埒が明かないものね。シゴイチさん、解決策を見つけるためには、もう少しかかりそうですが、よろしいですか?」
『構わない。元々、私だけでは、どうすることも出来ないことだからな』
人の力がなければ、私は一ミリだって動くことは叶わない。線路がなければ、行きたい場所に行くことも出来ない。
『むしろ、私の為に考えてくれて、ありがとう』
「いえいえ、妹を楽しませるために頑張るのが姉の務めですから」
そう言って、さとりは微笑みをこちらへと、向けてくれたのだった。
◆
私の所を訪れた日を境に、さとりは、毎日私の所を訪れてくれるようになった。
「すみません。今日も、解決策を見つけることは出来ませんでした」
今日で、彼女がここを訪れるのは四回目になるが、申し訳なさそうに謝るのは、毎回のことだった。
頭を下げたいのはこちらの方だというのに。けれど、この硬い体ではどう頑張っても頭を下げることは出来ない。
「いえいえ、いいんですよ。何度も言ってますが、こっちは、道楽でやっているようなものなのですから」
これもまた、決まりきった言葉だった。
そんなやり取りをした後、彼女は掃除を始める。
ここ三日ほどで、私の埃まみれだった体は、随分と綺麗になった。錆はどうすることも出来ないが、それでも私には十分だった。
けど、それに反比例してさとりの服が汚れることが、非常に申し訳なかった。錆の汚れは落ちにくい、と聞いたことがある。
そんなことを思っていると、さとりは、「あなたが綺麗になっていく、というのはやってる方としては楽しいので、気にしなくてもいいですよ」、と言ってくれる。
いつもは、そこで私は黙ってしまうのだが、今日はそうしなかった。
『どうして、さとりはそこまでしてくれるんだ?』
さとりの態度からは、妹の為、道楽の為、という感じがしないからこその問いだ。
答えてくれないのなら、……まあ、それでもいいか。私達は、親密な関係である、というわけではないのだから。
「……同情のようなものです。私は、孤独な存在を見過ごせない性質なので」
その声からは、何か重さのようなものが感じられた。だから、何か抱えているんだろうな、と思うと同時に、それを聞き出すことは出来なかった。
親密な関係でない私に、本当の気持ちを話してくれたのだ。それだけでも、十分すぎるだろう。
その後は、私もさとりも黙っていた。話すこともなければ、話す必要もなかったから。
代わりに、私は掃除をするさとりを見ていた。
彼女は本当に隅々まで、掃除をしてくれる。私の担当をしていた整備士と同じくらい、丁寧にやってくれている。
「シゴイチさん、この中には入っても大丈夫ですか?」
不意に、さとりが話しかけてきた。
さとりが覗いているのは、石炭を入れて、燃焼させるための火室だ。
『いや、やめておいた方がいい。その戸が閉じてしまえば、中から開けるのは、ほぼ不可能だからな』
実際、整備中で火を落としている私の所へと、遊びに入った子供が閉じ込められる、なんてことは、何度かあった。
火室の戸、焚口戸を開くには、開閉用のスイッチを踏むだけでいいし、開いた戸を手で押さえればスイッチを押していなくとも、戸は開いたままとなる。だから、中に入るのは非常に簡単なのだ。
けど、中に入って戸を押さえていた手を放してしまえば、自力で開けることは、ほぼ不可能だ。閉じ込められた子供は、その事実に気付いて、暗闇の中で泣き声をあげる。
そして、その声を聞きつけた、整備士が戸を開いた途端に子供は泣き止むのだ。その直後に、大声で叱られて結局は、大泣きするのだが。
……懐かしい。一人でいるときは、決して思い出すことがなかったようなことを、思い出す。誰かと話すことによって、記憶、というのは巡るようだ。
「私なら、閉じ込められたとしても、シゴイチさんが話し相手になってくれるので、寂しい思いはしないですみそうですね」
『……だからといって、入らないでくれよ?』
さとりは、私が回想にふけっていると、いつも、そんなふうに、突拍子もないことを言ってくる。
「わかっていますよ。こいしが、何時ここに来るかわからないのに、入るわけがないじゃないですか」
そう言うと、焚口戸から離れて、掃除を再開する。
家から持ってきた、というバケツで雑巾を洗い、固く絞ると、機関室の床を拭いていく。
水をどこから持ってきているのか、と聞いてみたのだが、どうやら近くに川が流れているらしい。
川が、どの程度はなれた場所にあるのかは知らないが、さとりの細腕でバケツ一杯の水を、ここまで運ぶのは大変だろう。少し覚束ない足で、車庫へと入ってくる姿を見るたびに、そう思う。
そして、相変わらず、さとりの服は錆などで汚れていく。
もう、どうしようもないくらいに、私は申し訳ない気分になる。
「……気にしなくても、いいんですよ」
私の心を読み取ったさとりは、呟くような声でそう言う。
……恵まれているのだな、私は。
強く、強くそう思うことしか、出来なかった。
◆
翌日。
いつもは、同じ時間帯に訪れるさとりだが、今日は、いつもよりも随分と早かった。
どうしたんだろうか、と一瞬だけ思い、隣に誰かが立っているのを見つける。あれが、さとりが探してくれていた、解決策を明示してくれる者なのだろうか。
さとりの隣に立っていたのは、元々小柄な部類に入るさとりよりも、一回り小柄な少女だった。こいしよりも小さいかもしれない。
頭の茶色い蛙のような目の付いた帽子が、彼女を一層小柄に見せている。
帽子の下では金色の髪が揺れている。そして、その金糸の間から覗く黄土色の瞳が興味深げにこちらを見ていた。
子供っぽい無邪気さがありながら、どこか老獪さも感じさせる。そんな不思議な視線だ。
服装も、どこか古めかしい。
白い大きな袖のある、濃い紫色の服。胸の辺りに一匹、スカートの部分には二匹の蛙が、施されている。
「実に、まさしく、って感じの機関車ね。うーん、懐かしいわねぇ」
近づいてきた少女が、本当に懐かしそうな表情を浮かべて、私に近づいてくる。恐らくだが、この少女もまた、さとりと同じで、人間ではないのだろう。
「はい、この方は洩矢 諏訪子、という神様なんですよ」
『神の姿が、見えなくなっていたと思っていたら、こんな所に来ていたんだな』
「いや、見えなくなった神のほとんどは、信仰を失って消えたわよ。こっちにも、いくらか同業者はいるみたいだけどね」
私の『声』に反応する、ということは、神、ということに偽りは、なさそうだ。もしかしたら、私のようなモノの声を聞ける、特殊な存在なのかもしれないが。
「にしても、人格が生まれるってことは、相当大切にされてたのね、あんた」
『……そうだな』
私が引退するまで、毎日のように機関士や整備士達が、手間暇をかけて私の掃除をしてくれた。ここ最近、さとりがやってくれるように。
そして、その間、彼らは、私に声をかけてくれた。
何でもない日常の話、私を労う言葉、そして、一緒に働けて、嬉しい、という言葉。今、思い返してみて一層強く感じる。私は、彼らに愛されていたのだ、と。
私は、ただの機械に過ぎないというのに。
「さてと、さとり、ちゃっちゃと、やっちゃいましょう。実物を見てたら、今すぐにでもシゴイチを走らせたくなったわ」
「では、今すぐに、こいしたちを連れて来ますね。諏訪子さんは、どうしますか?」
「そうねぇ、私が付いてっても無駄だろうし、この子と話でもしているわ」
そう言いながら、諏訪子が私の体を叩く。諏訪子も、こいしと同じで、気安く他人に触れる癖でもあるんだろうか。
「わかりました。では、しばしお待ちを」
さとりが歩いて車庫の中から出て行く。私も諏訪子もその背中が見えなくなるまで、さとりを見送っていた。
「それにしても、よかったわねぇ、見つけてもらえて」
諏訪子が、いつのまにか、地面から生えた椅子のような岩の上に座り込む。これが、神の力、というものなのだろうか。
まあ、今更、驚くようなことでもないが。
それよりも、
『どういうことだ、それは。ここは、そんなに酷い場所にあるのか?』
「獣道さえもないような、森の奥地。小型の獣か、知性のない小さな妖怪くらいしか通らないような場所ね」
何処の山の奥地だ。
『……相当、酷い場所じゃないか』
「静かでいい場所じゃない」
諏訪子が笑顔で、そんな皮肉を返してくる。
放置されて喜ぶ道具がどこにいると言うのか。
「まあ、それはいいとして。シゴイチ、あんたの願いである、走ることが叶ったとして、その後はどうするつもり?」
『……私の整備することが出来る者はいないのか?』
いないからこそ、そう聞いているのだろうな、と思ったが、返ってきたのは意外な答えだった。
「まあ、いるにはいるけど、知的好奇心の固まりみたいなやつらだから、あんたがそいつらに弄られて、死ぬ可能性がそれなりにあるわよ」
さとりやこいしの反応を見る限りでは、科学技術は明治初期の日本にも至っていない、と思っていたが、そういう存在もいるのか。
『道具としてなら、そういう死に方も悪くないかもしれないな』
「流石、ツクモガミ。役に立てそう、って言うんなら死も厭わないのね。うん、暇があったら河童どもにあんたのことを教えておいてあげるわ」
感心したような声で諏訪子がそう言う。というか、この世界では河童が技術者なのか。川で泳いで、人を水の中に引き入れるようなイメージしかないのだが。
「……でも、なんだか含みのある言い方ねぇ。本当は、別の望みがあるんじゃないの?」
諏訪子が浮かべていたのは、からかうような表情だった。
神、と言うだけあって、洞察力はかなり高いようだ。まあ、あのまま感心されているよりは、こちらとしても言いやすい。
『ああ、そうだな。私は、さとりの傍にいたい、とも思っている』
自らの服を汚しながら、私を綺麗にしてくれたり、私のつまらない昔話に、嫌な顔一つも浮かべずに付き合ってくれたりと、さとりの傍は、何か居心地の良さを感じられる。
「へぇ、機関車も恋をしたりするのかしら?」
含み笑いと共に放たれるそんな言葉。たぶん、そういった類の話が好きなのだろう。
そういえば、私に関わった者の多くも、恋話が好きだったな。人間や神とは、総じてそういった話が好きなのだろうか。
『さあな』
道具に過ぎない私に、そのような感情があるのかどうかはわからない。けど、唯一つ、はっきり、と言うことが出来るものがある。
『私はただ、さとりと一緒にいたいだけだ』
「ふぅん、道具にしては珍しい考えね」
そう言った後、諏訪子は真面目な表情を浮かべて、私の顔をじっと見る。
「でも、それは、あなたが生まれたその日から、人間らしく扱われてきた証。何か、思い当たることがあるんじゃないかしら?」
思い当たることがあるか?
そんなの、あるに決まっているじゃないか。
諏訪子が「相当大切にされてた」と、私に向かって言ったときに思い出したことの数々。あれこそが、私が人間らしく扱われていた記憶ではないか。
「そんなあなたは、誰かの繋がりがあれば、道具本来の生き方が出来なくても、耐えられることが出来るはずだわ」
そういえば、私が、走りたい、という衝動を抱き始めたのはあの日、だったな。
私のかつての機関士。最後に、私を記憶していてくれていた人間。
あるとき、老いてしまった彼は、泣きながら私に別れを告げてきたのだ。おそらく、死期を、悟っていたのだろう。
それを証明するかのように、毎日に私の元に訪れてくれていた彼は、その日を境に私の元へと現れなくなってしまった。
そうして、そうして、私の中で、走り出したい、という衝動がくすぶり始めた。
「ねえ、こんなこと聞くのも、なんだけどさ。もし、さとりがあんたを傍に置かなかったら、どうするつもり? やっぱり、河童のところにでも行く?」
『まあ、そうだな。こんな所で、朽ち果ててしまうよりは、何倍もましだ』
「潔い性格ねぇ。でも、私はそういう性格、嫌いじゃないわよ」
そう言いながら浮かべるのは、からかいも含みもない純粋な笑顔だった。
◆
「おっ、さとりたちが戻ってきたみたいね」
出入り口付近には誰も立っていないはずなのに、諏訪子が自前の岩の椅子から立ち上がってそう言う。
『何で分かるんだ?』
「神様、ってのは気配を感じ取るのが上手なのよ。食事中だろうと、参拝客が来たらその顔を拝んでやらないといけないからね」
冗談を言うような口調でそう言う。本当に、冗談、なのだろうか。
しばらくの間、諏訪子と話していて分かったことなのだが、冗談を本気で言ったり、本当のことを冗談のように言ったりと、真意を測りにくいのだ。
なんとなくだが、自分が楽しむためだけにそんな話し方をしているような気がする。
「おーい、さとり! 待ちくたびれたわよ!」
諏訪子が出入り口に現れた四つの影へと向けて、大きく手を振る。
二つの影は見知ったものだ。さとりとこいしの姉妹二人だ。
けど、後の二人は初めて見る。そして、その二人は明らかに普通の人間の様には見えなかった。
一人は四人の中で最も背が高い。背中で揺れる夜空の絵が描かれたマント、腰の辺りまで伸びた濃い茶色の髪によって更に大柄に見える少女だった。
そして、それだけではなく、烏のような大きな黒い翼までが彼女の存在を強く際立たせている。
白い服には、赤い目玉のようなものが付いている。これはさとりのものとは違って、単なる飾りであるようだ。
そして、もう一人は赤毛のおさげを垂らした少女だった。
こちらは、頭から耳を生やし、深い緑色のスカートの中から二本の尻尾を垂らしている。どちらも、黒猫のものであるようだ。耳も尻尾も、真っ黒な毛で覆われている。
……さとりは、人間もいる、と言っていたが、ここまで人外が揃う、ということは人間の数は極端に少ないのではないだろうか、と思ってしまう。
「シゴイチさん、諏訪子さん、お待たせいたしました」
「久しぶりだね、シゴイチ。よーやく走れるね」
先にやってきたさとりとこいしが口々にそう言う。こいしは、最初に出会った日と同じように、私に触れながら笑顔を浮かべてそう言ってくる。
「おーっ、さとり様さとり様、これが、……えーっと、なんでしたっけ?」
「蒸気機関車って乗り物でしょ。相変わらず、お空は物覚えが悪いねぇ」
後の二人が、そんなふうに話をしながら、さとりとこいしについてくるように歩いてくる。
「うにゅー、でも、大丈夫。忘れたら、お燐が思い出させてくれるから!」
「はぁ……、まあ、いいけどさぁ」
烏と猫、というと、仲が悪いようなイメージがあったのだが、この二人に限ってはそうでもないようだ。
「ええ、あの二人は、本当に仲がいいんですよ」
さとりが浮かべているのは微笑だった。さとりは、あの二人のことを大切に想っている。そんなふうに、思った。
「さあ、お燐、お空、シゴイチさんに自己紹介をしなさい」
「はいはーい!、っと。あたいは、火焔猫 燐。あなたがあたいのことを呼ぶことはないと思うけど、お燐、って呼んでくれたら嬉しいよ」
非常に明朗な話し振りだった。自己紹介一つを聞いただけで、話し上手なのだろう、ということが窺える。
まあ、頼まれたのだから、さとりや諏訪子の前ではお燐、と呼ぶことにするか。
「私は、霊烏路 空だ。よろしくな、シゴイチ!」
こちらは、元気さが前面に出たような自己紹介だった。真っ直ぐな性格なのだろう、となんとなく思う。
「よーし、じゃあ、早速、シゴイチを走らせよう! ……っと、そーいえば、シゴイチって水と熱源が必要なんだよね。熱源はお空がいるけど、水はどうするの?」
真っ先に私に乗り込もうと駆け寄ってきたこいしが、身体を半分機関室に入れた状態で振り返る。
「あんたたちを待ってる間に、入れておいたわ。私の神力が込められた、ありがたい水をね」
「そーなんだ。じゃあ、問題ないね。ささっ、お空、乗って乗って」
「わっかりましたっ、こいし様!」
空がこいしの言葉に頷いて、私の方へと駆け寄ってくる。
「って、ちょっと、お空! あたいを置いてくんじゃないよ!」
そして、お燐も機関室へと乗り込む。あの二人はいつも一緒にいるんだろうか。
「元気だねぇ、あんたん所の妹と烏は」
「こいしは、ずっと楽しみにしていましたし、お空は、こいしや私の役に立てることが嬉しいみたいですからね」
「そうかい、そうかい」
諏訪子はそう言って頷きながら立ち上がって、岩で作った椅子を地面に沈ませる。
「さてと、急いで乗らないと、置いていかれるかもしれないわね」
『いや、その心配はないだろう。ボイラー室の水が温まるのには五時間くらいかかるだろうからな』
「はい?」
私の言葉に、さとりと諏訪子が同時に素っ頓狂な声をあげたのだった。
二人とも、火が入れば、すぐにでも私が走れる、と思っていたんだろうか。
◆
それから、三十分ほどして、私が走り出す準備は整った。
空が、火室からだけでなく、ボイラー室の温度を直接上げて、普通ではありえないような速度で、水を沸騰させたのだ。
正直、驚いている。ここまで早く準備が終わるとは思っていなかったのだ。妖怪、というのは、科学技術がない代わりに、個々が科学技術の上を行くような力を持っているようだ。
空の放つ、圧倒的なまでの熱を浴びせられて、私は強くそう思う。
「さってと、水も温まったことだし、そろそろ私の二度目の出番ね」
諏訪子が機関室から、少し身を乗り出しながらそう言う。
水の用意をしてくれたが、元々、諏訪子は線路の用意をするために呼ばれたはずだ。この状態で、どうやって線路を用意すると言うのだろうか。
岩で作った椅子から、なんとなく予想することは出来るのだが。
「今から始めるは地の創造。神々が行った天地創造の半分を今ここで再現して見せるわ!」
無駄に壮大なことを言って、指を鳴らす。
その、直後!
地面が揺れ始める。地の底から重い、地響きが伝わってくる。そして、地面から岩の所々錆びていたレールを押しのけ、代わりに岩の線路が現れる!
もともとあったレールが押しのけられた瞬間は、ないはずの肝が冷えた。
まあ、何事もなくてよかった。諏訪子はわかっていてやったのか、それとも、偶然、そうなったのか。
なんにしろ、怖いことはしないでほしい。
「さあ! 神の作った道に従って進んで行きなさい! 私に出来るのは道を指し示すだけ、それを進むかどうかは、あなたの自由よ!」
随分と、興に乗ってるみたいだな。瞳が子供のように輝いているのがわかる。
『声』を出して邪魔をするのも悪いな。
だから、私は心の中でさとりにあることを頼む。
私の心の声を聞いて、さとりが微かに頷く。
ポォーーー……ッ
さとりが紐を引き、汽笛が遠くへ遠くへと響き渡る。
この音を聞くと、火室へ熱を入れられたとき以上に体に力が入ってくる。さあ、走ろう!、という気分になるからだろう。
「わっ、なになにっ?」
「わにゃっ! な、なんですか、この音はっ!」
「何だっ! 敵かっ!」
三人は、汽笛の音に驚いているみたいだ。一人は、驚くと同時に、敵が来た、と勘違いしているみたいだが。
「これこれ! やっぱり、機関車っていったらこの音よね! 間近で聞くだけあって、物凄い迫力ね!」
諏訪子はさっきまでの、無理やりに神々しくしようとしていた雰囲気を全て何処かに吹き飛ばして、興奮したようにそう言っている。
そして、さとりはただ一人、瞳を閉じて、静かにしている。けど、よく見てみると、口元が微かに笑っている。皆の心を読んで、楽しんでいるのだろう。
と、ふと、さとりが瞳を開いて、運転席へと向けて歩き始める。全員が立ち止まっている中で、さとりだけが動いているので、注目を浴びてしまっている。しかし、さとりはそれを意に介した様子もない。
そして、運転席の前に立ったさとりは、ブレーキハンドルを回して、ブレーキを緩める。それから、加減弁ハンドルを手前に引いて、私が加速できるようにする。
そして、徐々に、徐々に、動き始める。
力強い音を発しながら、車輪が回る、回る、回る。途中で、元々乗っていた鉄のレールから、諏訪子が創り出した線路へと、移った。
何の問題もなく走ることが出来る。
「おー、動いてる動いてる!」
こいしが、瞳を輝かせながら、機関室から身を乗り出している。これから走るのは、森の中だから、そのままでは危ないだろう。
『こいし、そんなことしてると、危ないぞ』
届くはずはないと分かっていながらも、そう『声』をかけてしまう。
「ほら、こいし。戻ってきなさい。そのままだと、危ないわよ」
さとりが、こいしを抱き上げて機関室の中へと連れ戻す。床の上に、再び立たされたこいしは、不満そうな表情を浮かべている。
「えー、中にいると、よく見えないよ」
「森を抜けたら、乗り出してもいいから今は我慢しなさい」
さとりがこいしへとそう言っている間に、私は車庫から出る。諏訪子の作った岩の線路が森の中へと、続いているのが見える。無理やり線路を伸ばしていったのか、途中で木々が倒れているのも見える。
私は自らの意思で止まることも出来ないので、そのまま、森へと突っ込んでいく。
線路の上に伸びた枝を、容赦なく折りながら進んでいく。折れた枝のうちの数本が、開け放された機関室への出入り口から中へと入ってくる。
更には、しなることで折れることを免れた枝が、機関室の出入り口の縁を強かに打つ。出入り口の付近に立っていたなら、引っかき傷程度ではすまなかっただろう。
「うん、わかった。大人しくしてるよ」
身を乗り出したらどうなるか、悟ったらしいこいしが素直に頷く。そんな調子のいいこいしに対して、さとりは呆れず、ほっと息をついているようだった。
本当に、さとりは妹思いなようだ。
未だに枝の攻撃は容赦がなく途切れることがない。
痛みを感じることはないのだが、果たして私は、無事にここを抜けることが出来るのだろうか。
◆
ポォーーー……ッ
こいしが汽笛を鳴らす紐を引いて、広い草原の中で、大きな音が何処までも伸びていく。
諏訪子の作り出した、岩の線路に沿って、私は白煙を撒き散らしながら進んでいく。
黒煙が上がらない、と言うのは物足りないが、そこは仕方がないだろう。私を走らせるほどの石炭は、個人でそう簡単に集められるものではない。
こうして、もう一度走ることが出来るだけでも、私は幸せだ。それに、誰かが、私の傍にいてくれることも。
ただまあ、暢気にこうして物思いに耽っている場合ではないようだ。
『さとり、諏訪子。どちらでもいいから、私を止めて、休んでくれ』
顔を赤くして、ぐったりとした様子の二人へと声をかける。さとりの横には、同じようにぐったりとした様子のお燐がいる。このまま走っていれば、三人は倒れてしまうだろう。
機関室は、ボイラー室から熱が伝わってくるのでかなり温度が高くなるのだ。慣れていない者が、長時間そんな場所にいるのは、辛いだろう。
それに、速度が出てくれば、私の車輪を動かすピストンの音も、相当なもので精神へのダメージはかなり大きい。
「お気遣い、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、休ませて、いただきますね」
ほとんど、音の波に飲まれてしまいそうな声だったが、私はしっかりと聞き取ることが出来た。人間などとは、少々音の聞き取る方法が違うからだろう、恐らく。
さとりは、ハンドルを上へと上げる。それから、ブレーキを締めようとするのだが、レバーを回すだけの力が入らないようで、動くことはない。
けど、しばらくの間、力を込めていると、レバーが回った。
そして、金属同士が擦れる甲高い音が響き渡る。ブレーキの整備をしっかりしていないからか、いつも以上に酷い音だ。
そんな音を前にして、こいし以外が耳を塞ぐ。
「うにゃーっ!」
「うにゅーっ!」
お燐と空が、仲良くそんな声を上げ、さとりと諏訪子は顔をしかめている。そんな惨状を見ながら、こいしは可笑しそうに笑っている。
なんで、こいしは平気なんだ。
そうして、金属音の残響を響かせながら、私はようやくその動きを止めた。
ふらふらとしたまま、こいし以外の四人が外へと出る。
熱には強いらしい空も、音は駄目なようだ。
「はぁ、機関車の機関室が、ここまで地獄だとは、思ってもいなかったわ」
そう言いながら、諏訪子が私の前までやってきて、岩の線路の上にうつ伏せになった。
「あー……硬いけど、冷たくて気持ちいいわー」
地面へと頬擦りをしている。全く躊躇がないな、この神は。それとも、自分で創り出した物だからこそ、そう言うことが出来るんだろうか。
「諏訪子さん、はしたないですよ」
「気にしない、気にしない。上品さなんて、気にするだけ無駄よ。そんなものよりも、今はいかに効率よく熱を放出するか、よ」
そう答えながら、ごろりと転がって、仰向けになる。あの体勢で、さとりを見上げて辛くないんだろうか。
「さとりもどう? ……それとも、頭から水を被らせてあげようか?」
「どっちも遠慮させてもらいます。というか、何を考えてるんですか」
「いいじゃない、こういう妄想も、っと」
諏訪子が起き上がると、岩の椅子を二人分出して片方に座る。話をするには、やはりあの体勢はきつかったようだ。
「ほら、さとりも座りなさいな」
「……ありがとうございます」
さとりは、何か言いたいみたいだったが、止めて椅子に座る。かなり暑さにやられていたようで、座った瞬間に大きく息をついていた。
「それにしても、シゴイチ。あんたを動かしてた人間たち、ってすごいのね」
『当たり前だ。あいつらは、最高の機関士と機関助士達だからな』
「へえ、どんなのだったかって言うのを聞いてみたいわね。さとりもどうかしら? 休憩がてらに」
どうやら諏訪子は、私を動かしていた機関士と機関助士達の事に興味を持ったようだ。
「それもいいかもしれませんね。シゴイチさん、お願い出来ますか?」
『それくらい、お安い御用だ』
そう言って、私は過去を回顧しながら話し始める。
さとりといるときも、昔を思い出したりしていたが、それは大抵、走っていない時の私の周りであった事だった。
だから、さとりの知らないこともいくつかあるだろう。
『私の操縦をしていたのは主に二組の機関士と機関操縦士だった』
私は静かに話し始める。こうして、誰かに何かを語りかける、というのも久々だな。長旅で、暇を持て余していて、私に話しかけることの出来る者がいるときにはよく話していた。
『初めて私の操縦をした一組は、少々いかつい顔をした機関士と、ぱっと見た感じ少々線が細く、柔和な印象を受ける機関助士だった。
機関士の力強い声は私の体へと染み付いている。今でも、怒声にも似たような声をはっきりと思い出せるな』
あの二人組みは、仕事が終わると、いつも整備士がやる私の清掃を手伝っていた。そのときには、よく労いの言葉をかけてもらったものだ。
そんな光景が、ゆっくりと浮かび上がる。
「やっぱり、あの騒音の中じゃあ、大きい声が必要になってくるのねぇ」
『いや、普通は手振りや身振りで伝えるものなんだがな。ミスが起こらないようにするために』
彼の声は、蒸気を噴き出す音、ピストンの動く音、車輪の回る音にも負けないくらいに大きなものだった。機関士の中でも、もっとも大きな声の持ち主、と呼ばれていたくらいだ。
「よっぽど、自分の声に自信があったやつなのね。声自慢の妖怪と競わせてみたかったわね」
冗談を言うような口調で、そう言う。本気なのかどうかはわからない。
まあ、どちらでもいいか。彼が諏訪子と出会うことはないのだから……。
『じゃあ、続けるぞ』
「うん、どうぞー」
諏訪子が頷くのを見て、私は再び語り始める。さとりは、私が語り始めてから、ずっと静かにしている。
『それから、その機関士は引退し、機関助士が次の機関士へと昇進した。その時には、線の細さも成りを潜めて、一人の立派な機関士となっていた。けど、それでも、柔和な雰囲気が薄れることはなかった。
その元についた機関助士見習い。彼の瞳はいつだって好奇心のある子供のように輝いていた。けど、同時に彼はとても聡明で、肩書きから見習いが外れるのはすぐのことだった』
お互いに見習いだと言うのに、ベテランにも引けを取らないような腕を持っていた。でも、同時に機関助士は、誰よりも心が繊細だった。
だから、仕事が終わり、誰もいないときを見計らって私のところに来ては、泣き言を言っていた。しかも、単に塞ぎこむだけではなく、私の掃除をしながら、だ。
そして、泣き言も掃除も終わると、彼は言うのだ、これからも一緒に頑張ろう、と。
それは、一つ前の組も言ってくれていたことだった。
まあ、これは、彼の名誉の為にも、言うべきことではないな。さとりには、届いてしまっているだろうが。
『そして、時は流れて、彼も機関士となり、機関助士を持つようになった。けど、同時に、この頃から、私の後継者となる電気機関車が現れ始めてきた。
次々と私の仲間達が引退していく中、私も引退させられてしまったのだ。そして、私はあの車庫の中へと入れられてしまったのだ。
それでも、最後の機関士は、自らの死期を悟るまで、私の所へと訪れてくれていたのだがな』
語り、終える。
『これが、私を操縦してくれていた、機関士と機関助士たちの話だ』
もう、彼らはいないのだ、と思うと、悲しい気持ちが去来してくる。人間ならここで、涙の一つでも流しているのだろうが、生憎と私は作り物に過ぎない。水滴となった蒸気を垂らすことはあれど、涙を流すことは決してありえない。
「……シゴイチさんは、本当に、本当に、皆さん方のことが大好きだったんですね」
『……ああ、そうだな』
ポォーーーッ
と、不意に響き渡る汽笛の音。さとりたちの方に意識を向けていたせいで、こいしが紐を引くのに気付けなかった。
……それにしても、なんというタイミングだろうか。こいしは、心を読むことが出来ない、と聞いていたが、本当にそうなのだろうか。
このタイミングではまるで、慟哭のようではないか。
「あの子は、私の言ったとおり心を読むことは出来ませんよ。……でも、無意識を感じ取るこ
とは出来る。感じ取って、無意識に行動することが出来る。そんな子なんですよ、こいしは」
さとりが、私へと優しげな微笑みを向ける。それだけのことで、感情があふれ出してきて、
「シゴイチさん、あなたの感情は誰にも話しません。ですから、ここは一つ、我慢はせず、私にぶつけてみてはどうでしょうか」
優しすぎるその声に、ついに感情を抑えきれなくなる。
そして、それは、長い、長い慟哭となって、遠くへと響き渡った。
◆
「……さてと、そろそろ行きましょうか」
私の感情が収まってきたのを見計らって、さとりがそう言った。たぶん、私へ、ではなく、私と諏訪子へと向けられた言葉だと思う。
「おーおー、ようやく二人っきりの世界はお終い? 私を除け者にするなんて恨めしいかぎりだねぇ」
言葉とは裏腹に諏訪子が浮かべているのは、笑顔、というか、人をからかうような笑みだった。
「この場で感情を読むことが出来るのは、私だけですからね。諏訪子さんが、思い浮かべているような感情とは無関係ですから」
「そ。まあ、恋愛感情からだろうとなんだろうと、私はなんだっていいんだけど」
諏訪子が立ち上がる。
というか、また、そう言うことを考えてたのか、諏訪子は。その思考には、呆れるばかりだな。
「まったくですね」
さとりが、私にしか聞こえないような小さな声で、私の考えに同意してくれた。苦笑のようなものを浮かべている。
「そういえば、目的地を決めていなかったわね。どうするのかしら?」
機関室の方へと、戻ろうとしていたらしい諏訪子が、身体を半回転させて、さとりの方を見る。
「その前に、一つ、シゴイチさんと話をしてもよろしいでしょうか」
「あんたたちの好きなようにしなさいな。別に、急ぐような旅でもないし」
「ありがとうございます」
さとりは真面目くさった態度で礼をして、私の方へと紫色の瞳を向ける。
「それでは、シゴイチさん。単刀直入に聞きますが、地霊殿で暮らしませんか? とは言っても、家の中には入れられそうにないので、入り口の前に飾るだけになるかもしれませんが」
『別にそれでも構わない。毎日、誰かが関わってくれるのならな』
諏訪子がそう言っていた、というだけで、本当にそうなのかはわからない。けど、少なくとも、私はさとりの傍にいられればいい、と思っている。
「……わかりました。では、諏訪子さん、地霊殿へと進路を変えてください」
「りょーかい。さてさて、道中、どれだけの鬼に絡まれたりするのかしらねー、っと」
そんなことを言いながら、諏訪子が機関室へと乗り込む。
鬼、はまあいいとして、絡む、というのはどういうことだ? なんだか不穏な響きを持つ言葉であるだけに、警戒を抱いてしまう。
「シゴイチさん、大丈夫ですよ、きっと。粗雑な方たちですが、根は言い方たちなので。……意図的に壊されることはないと思います」
『目を逸らすな』
余計に不安になってしまうではないか。
……今なら、長いトンネルを抜けるときに、機関室にいる者たちが浮かべていた不安が、手に取るように分かるような気がする。
直接的に死の危険を感じないだけ、ましなんだろうか。
「あ、お姉ちゃん、やっと出発?」
機関室にいたはずのこいしが、さとりの背後から現れた。本当に神出鬼没だな、この子は。
「こいし、だいぶ顔が赤くなってるわね」
さとりの言葉のとおり、こいしの顔には朱が射している。見た目は、平気そうな感じだが、体温がだいぶ上がっているのだろう。
「止まらず溢れ出てくる恋のパワーに中てられちゃったの」
「意味が分からないわ」
私も、意味が分からない。
「うん、私もよくわかんない。そんなことより、早くお姉ちゃんが乗らないと、出発できないよ」
よくわからないやり取りの後、こいしが、さとりの手を掴んで機関室へと引っ張っていく。
「こいし、涼まなくても大丈夫?」
「へーき、へーき。倒れたとしても、無意識の力で動けるし」
かなり投げやりに答える。限界を超えたからこそ、倒れるはずなのに、それでもなお動ける、と言うのは、どういうことだ?
それとも、この言葉も単に、こいしの意味のない言葉の一つなんだろうか。諏訪子とは違った意味で真意を測りづらい。
「それは、平気とは言わないわ。いいから、もう少し休んでなさい」
さとりが、こいしの両肩を押さえて、その歩を止めさせる。
「むー、面倒くさいなー」
当然、こいしが浮かべるのは不満顔だ。そして、不満を浮かべるだけがこいしではない。
「よーするに、この火照った身体を冷ませばいいんだよね?」
「まあ、そういうことね」
「よし、わかったっ。諏訪子! こっちに、水お願い!」
「承ったわ!」
進路変更を了解したときよりも、弾んだ声で諏訪子が返事をする。
これからどうなるか予想することは出来たが、私にはどうすることも出来ない。諏訪子が、言葉だけで止まるような性格だとも思えない。
「ちょ、ちょっと!」
「待ったはなしよ!」
さとりが焦るような声をあげるが、諏訪子は当然のように聞き入れない。
諏訪子が、私のボイラー室を水で満たしたときのように、中空に水を発生させる。あの時は、蛇のようになって、ボイラー室へと入っていったが、今回は、塊となって諏訪子の目の前にあるだけだ。
そして、さとりが逃げ出す前に、諏訪子はその水をさとり達へと向けて飛ばした。
「あははっ、冷たい冷たいっ」
「……」
二人とも頭から水を被る。
さとりもこいしも、髪や服の裾から水を滴らせている。
こいしは、楽しそうに笑っているが、さとりは黙ったまま固まっている。
「どう? 存分に冷えたでしょう?」
「うんっ! ありがと! 諏訪子!」
諏訪子へと大きく手を振る。それにあわせて、水が飛び散り、いくつかの水滴が、さとりの方へと飛ぶ。まあ、濡れ鼠となっているようだから、今更そんなことは気にしていないみたいだが。
『……さとり、機関室にいれば、早く乾くと思うぞ』
「……そうですね」
さとりの返事は力ないものだった。
◆
キィィ……ィ……ッ
洞穴の中に響く金属音。その中、微かに聞こえてくる、石の削れる音。
流石に、二回目ということもあってか、最初のように、機関室の中が阿鼻叫喚とすることはなかった。まあ、こいし以外は、耳を塞いで、顔を顰めはしていたのだが。
私が完全に止まると、残響だけが残る。これくらいの音なら、耳を塞ぐ必要もないだろう。
それから、空が掛け声をかけると、私の火室で熱を放っていた物体が消える。既に、私の体が冷え始めているのが分かる。
「あー、何度聞いても、この音は慣れられそうにないわねぇ」
真っ先に声を漏らしたのは諏訪子だった。けど、言葉とは裏腹に、その表情は楽しそうだ。
そういえば、出会ってから諏訪子は、ずっと機嫌の良さそうな雰囲気だったが、いつも、こうなのだろうか。
「シゴイチ、地底に来てからずっと人気者だったね」
そう言いながら、いつの間にか私から降りたこいしは、正面から私に触れてくる。火室から溢れていた熱気のお陰で、服はしっかりと乾いている。
それにしても、こうやって、こいしが話しかけてくるのもお決まりだな。
そんなことを思いながら、少し前のことを思い出す。
こいしの言うとおり、この地底と呼ばれる場所に来てから、私を見ようと、色んな妖怪が集まってきた。地上では、数匹の妖精しか集まってこなかったと言うのに。どうやら、地底は地上よりも妖怪のいる密度が高いようだ。
集まってきた妖怪たちの中には、さとりの言っていた鬼もいた。頭に角が生えていて、分かりやすいくらいに鬼だった。
彼らは、私のことを見に来ただけのようで、何かをされるようなことはなかった。どうやら、私の心配は杞憂に終わったようだ。
「あー、あんまり乗り心地のいい乗り物じゃなかったねぇ」
「うん、もう乗りたくない」
お燐と空が私から降りながら、素直にそんな感想を漏らしている。
まあ、機関車の機関室、というのは地獄に等しいからな。乗り心地のよさを求めるなら、客車に乗るべきだろう。今の私には、そのようなものはないが。
「シゴイチさん、ようこそ。地霊殿へ」
そして、最後にさとりが話しかけてくる。
「私を始め、地霊殿一同、あなたが私たちの家族の一員となることを、歓迎致します」
そう言いながら、ピンク色のスカートを左右に広げて、優雅に礼をする。
もともと家族なんていない私にとって、家族、と言うものは、特別な響きを持っているように思えた。
そもそも、道具である私に家族なんていうものは分不相応だろう。けど、同時に、私が求めたものでもあるのだ。
『ああ、こちらこそ、よろしく頼むな』
こちらも、礼の一つでもするべきなのだろうが、生憎とそんなことは出来やしない。
だから、代わりに、言葉に込められるだけの心を込めておいた。
「はい」
そして、返されたのは笑顔だった。
それは、どうしようもなく眩しくて、だからこそ、ここにいてもいいのだな、と思うことが出来た。
Fin
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