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「フランお嬢様っ! 紅茶を持ってきました!」

 私がノックの音に応えた後、そんな声とともに紅茶の香りが舞い込んできた。予想していなかった口調での声に、ベッドの上からテーブルの方へと向かう足を思わず止めてしまう。扉の方へと視線を向けてみると、どう反応すべきなのか困る光景が目に入ってきた。
 二人でのお茶会用のセットが乗ったトレイを持ってきたのはこいしだった。それだけなら、珍しいと思うことはあっても、ここまで困惑することはなかっただろう。気紛れか、はたまた私への献身かと多少頭を悩ますことはあれども。
 問題は、その格好だった。
 まず、何故かメイド服を着ている。妖精メイドたちが着ているのとデザインは同じだけど、サイズはこいしにぴったりのようだ。妖精以外も雇えるようにと元から用意してあったのか、こいしのためだけにわざわざ用意した物なのかはわからない。そして、翠が混じった銀髪の上には、いつも被っている黒の鍔広帽子の代わりに純白のヘッドドレスが乗っている。ここまでは、特におかしな点のないメイドの姿だ。その姿をしているという、おかしな点はあれども。
 最も目を引くのは、こいしの顔を隠すお面だった。微笑みを浮かべた子供のお面は、なにやら不思議な雰囲気を放っている。当然ながら、こいしの表情は見えない。声の様子からして、満面の笑顔を浮かべているというのは容易に想像することができるけれども。
 突っ込み所が多くて、どこから何を聞くべきか困ってしまう。

「固まっちゃってどうしました?」

 とてとてとこちらに近づいてくる。私の側にいるときのこいしは、いつも無防備な印象を纏っている。こいしが私に抱いている感情を考えれば、当然のことだろうけど。
 こいしはトレイをテーブルの上に置いて、私からの命令を待つようにこちらをじっと見つめてくる。

「……いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「はい、どうぞ」
「それは変装のつもりなの?」

 普段私に向けてくることのない丁寧な口調、顔を隠すお面は、変装のためと言っても問題はない。でも、閉ざされた藍色の第三の目が、これ以上ないくらいにメイドの格好をした彼女がこいしだと主張している。

「むしろ扮装? フラン専属のメイドを演じる、っていう感じで。ふふー、フランが望むならほんとになっちゃってもいいよ」

 早速演じることを放棄したようで、いつもの口調に戻る。相も変わらず気紛れだ。でも、そうしてくれた方が接しやすいからありがたい。

「いや、今のままでいいよ」
「ふーん、やっぱり上下の関係よりは、対等な関係の方が好み?」
「うん。友達としてね」

 都合のいい解釈をされないようにそう言いながら頷く。意図的に都合よく誤解するのがこいしの厄介なところだ。

「むぅ……」

 こいしの口から、残念そうな声が漏れ出てくる。同じようなやり取りは頻繁に繰り返しているのだから、今更私の気持ちが変わるはずがないのに。

「それよりも、そのお面は? メイドの真似事をするってだけなら、必要なさそうだけど」

 こいしの落ち込む様子はあまり気にしないようにして、もう一つ気になっていることを聞いてみる。

「ここに来る途中で拾ってフランにも見せてあげようかと思ったけど、両手が塞がって持ち運べないから、こうやって付けてみた。このお面、なかなかすごいんだよ!」

 はしゃぐように両手を大げさに振り回す。よほど私に話すのを楽しみにしていたのだろう。正確には私と話すことなんだろうけど。どちらにせよ、どことなく落ち込んだ気配は、振り解かれてしまっている。

「うん。確かに普通のお面じゃないような感じはする」
「でしょ? このお面を持ってると、なんだか不思議とどんなことでもうまくいきそうな気がしてくるの」
「へぇ」

 どうやら精神へと働きかけるマジックアイテムの類のようだ。こいしの言い方からして、付けている必要はないみたいだ。意気地なしが自らを奮い立たせるために作った物なんだろうか。でもそれなら、お面にする必要がない気がする。
 効果のほどは、端から見る限りではよくわからない。私の前でのこいしは万事こんな感じだし、うまくいく気がするといっても、事実をひっくり返せるかもしれないと思ってしまうほどのものを抱くわけでもないようだ。もしそんな代物だったとしたら、私はこうしてのんびりと考え事をしている余裕はなかっただろう。

「相変わらずフランは考えるのが先だよね。ほらほら、現物があるんだから手にとって触ってみれば? というか、取って」
「自分で取ればいいんじゃないかな」
「突然肩が上がらなくなったから無理」

 どうしても私の手で取ってほしいようだ。
 内心で呆れの溜め息をつきながら、立ち上がってこいしの背後へと回ろうとする。でも、そこで片腕を横に広げて行く手を遮られた。

「……肩上がらないんじゃなかったの?」
「ここまではだいじょうぶ」
「なんで行く手を遮るの」
「……フランのえっち」

 顔を背けてそんなことを言う。

「意味がわからない」

 代わりに、意図はわかってしまったけど。
 無理に後ろを取っても無駄にこじれそうだから、要望通り正面で作業をすることにする。
 少し上を見上げて、お面の顎の辺りを片手で掴む。もう片方の手でお面の耳の辺りから伸びる紐の行き先を辿る。くすぐったいのか、身体を少しよじらせている。
 指先が結び目を見つける。そこから更に辿って、蝶結びの先端に触れる。そこを摘んで、そっと引っ張る。結び目はするりと解けて、お面は私の手に支えられているだけとなった。
 お面を手とともにどけると、こいしの翡翠色の瞳が目に入ってきた。そこは若干潤んでいて、視界の端に映る頬には少しばかりの朱が差している。こちらに見惚れているようだ。
 と、目の前の表情が満面の笑みに変わる。

「このまま抱きついてくれてもいいよ」
「それは却下で」

 そう答えながら、抱きつくというよりも、頭を寄せてキスをする直前のような位置にある腕をおろす。そして、お面を手にしたまま席に戻る。こいしも特にそれ以上何かを言ってくることはなく、私の隣の椅子に座る。大体平常通りである。
 こいしがカップに紅茶を注ぐ音を聞きながら、こいしの顔から外したお面をしげしげと眺める。
 こいしが言っていた通り、これを持っていると前向きな感情が浮かび上がってくる。でも、どんなことでもうまくいきそうだという衝動的なものは付随してはいない。落ち込んでいるときには、これに触れることで救われそうだけど、今みたいに穏やかな日常の中ではあまり役立ちそうにはない。
 サトリでもないのに、こいしの心中を垣間見てしまったような気がする。さて、どう伝えるのがいいだろうか。

「どう? どんなことでもやれそうな気がしてくるでしょ?」

 湯気を立てるティーカップを私の前へと置きながら、こいしが身体を寄せてくる。そこには、私への絶対的な信頼が込められていることを知っている。
 でも、未だにそれだけで構成されているというわけでもないようだ。

「落ち込んでるときに顔を前に向けようって気ぐらいは起きそうだけど、そこまではいかないなぁ」
「あれ? そう?」
「こいし、それよりも――」

 隣に座るこいしを見上げる。
 変に回り道をしても仕方がないだろう。だから、単刀直入に伝えることにする。

「――私はいやならいやってはっきり言うし、今更それくらいで嫌いになったりしないから、安心して。あんまり気を張ってると疲れるでしょ?」

 たぶん、こいしが拾ってきたお面は不安を払うものなのだろう。言い方を変えれば希望を与えるもの。だから、こいしには劇的な変化があったみたいだったのに対して、私はそれほど効果を感じられなかった。
 こいしは、いつ誰に裏切られやしないかと心の底で震えている。いつも明るく振る舞っているけど、根はかなり臆病なのだ。
 私も臆病と言えば臆病だけど、世界を閉ざしているというのが大きな要因だから、こいしのものとは大きく性質が違う。今みたいに平和でありさえすれば、心の安寧は保たれる。だから、そのぶん私がしっかりしてないといけないのかなぁとは常々思っている。
 私の言葉を聞いたこいしは固まっている。予想の範疇の反応だけど、実際に私の言葉一つにそこまでの反応を見せられると、なんとも言えない気分となる。決して、こいしの想いと重なるものではない。

「……私の想いを受け取らないとか言いながら、そんなこと言うなんて卑怯」

 我に返ったらしいこいしは、頬を朱に染めながら顔をそらす。

「いやまあ、さすがにこれに関しては無視するわけにもいかないから。とにかく、こうやって口で言われただけで簡単に安心はできないだろうから、私はそう思ってるってことだけ覚えてて」

 お面をテーブルの上に置いて、少しでも気を抜くことができるようにとこいしの頭を撫でる。とある一件以来、こいしを安心させるときはこうするようになっていた。
 私の手の動きにあわせて、こいしの身体から少しずつ力が抜けていく。徐々に私にかかる重さが増えていく。今更、これくらいでは押し潰されたりはしない。
 こいしは何も言ってこない。私もこれ以上伝えるべきことはないから、手を止めないまま黙っている。
 静かな雰囲気が私たちの間に漂っている。その程度には、こいしが力を抜いているということだ。
 そろそろだいじょうぶかなぁと思いながら手を離してみると、落胆するような視線を向けてきた。だからといって、いつまでも続けているというわけにもいかない。

「せっかくの紅茶が冷めちゃうから、その前に飲もう?」
「むー……」

 こいしが不満そうな声を出す。でも、異論はないのか大人しく前を向いて、ティーカップの方へと手を伸ばす。それでも、私の方へと寄りかかったままだ。
 私もティーカップを手にとって、香りをかいでみる。いつもよりも、少し濃いような気がする。

「……今日のは、私が淹れてみたから、ちゃんと味わって」

 私の言葉で強がりな部分が剥がれてしまったようで、声は弱気に揺らいでいた。普段の言動からはわかりづらいけど、こいしは私よりもずっと繊細だ。

「正直な感想言っても泣かない?」

 自分でも意地が悪いことを言っているのを自覚しながらもそう聞く。別に、泣かせようという気があるわけではない。

「気を遣って嘘吐かれるよりはまし、……だと思う」
「了解。できる限り加減はする」

 隣のこいしの緊張を感じ取りながら、いつもよりも濃い紅茶に口を付ける。
 さて、どれくらいの匙加減で褒めて、どれくらいの匙加減で指摘をすればいいだろうか。





 こいしが一枚のお面を持ってきたのは予兆だったのか、はたまたきっかけだったのか、あれから少しして異変が起きた。後に心綺楼異変と名付けられる、一人の付喪神が巻き起こした騒動だ。
 私にとっては何の関わり合いもない出来事で、言いようのない不安だけを抱いて日々を過ごしている。異変が起きて以来、こいしが私のところに訪れなくなったことに多少の疑問を抱きながら。
 そんなある日、私は珍しく新聞でも読んでみようという気になった。普段は外での出来事は、お姉様やこいしから聞くから、そういったものを読むことはない。でも、今は感情に起伏を与えず、それでいてあまり頭を使わずに読めるものが読みたかった。
 咲夜はお姉様と出かけてしまっているから、自分の足で探しに行く。まずは、図書館に行ってみようと決めて。
 館の中はいつもよりも静かだ。妖精メイドたちは、この言い様のない不安を抱えていることに我慢ならなくなってしまったようで、みんなまとめて出て行ってしまっている。それは、お姉様や咲夜、更にはパチュリーなんかも同じで、みんな外に希望を探しに行っている。残っているのは、門番を任されている美鈴と図書館の管理を任されているこあ、それから、外に希望を見出せない私だけだ。
 私にとっての希望はお姉様ただ一人だけだ。この不安を振り払うためについて行けばいいんだろうけど、今の精神状態で外に出るのも怖い。だから、引きこもることに決めた。今は安定しているとはいえ、希望の喪失の上に成り立っているお祭り騒ぎの中に身を投じるのは、不安要素の方が大きかった。
 今のところはそれで問題は起きていない。お姉様が私を気遣ってくれてるのか、比較的早い時間に帰ってきてくれているのが大きいのかもしれない。
 そんなことを考えている間に、図書館へと辿り着く。

「こんにちは、フランドールさん」

 大扉を開くなり、こあが挨拶をしてきた。奥の方で仕事をしているかと思っていたから驚いた。

「……こんにちは。仕事はいいの?」
「ちゃんとやってますよ。レミリアさんから、フランドールさんの世話を頼まれていたので、すぐに対応できるようにとパチュリー様からマジックアイテムをお借りしているんです」

 そう言って、中心に赤色の光が灯っていて、直径の違う同心円がいくつも重なった図の書かれた紙を見せられる。中心の光から少し離れた場所には、それよりも強い赤色の光が灯っている。たぶん、そのマジックアイテムを中心にして、一定以上の魔力を探査しているのだろう。そう思って意識的に魔力を抑え込んでみると、赤色の光が弱まった。

「それで、何かの本をご所望ですか?」
「本じゃなくて、新聞を読みたいなぁって思って探してるんだけど、どこにあるか知らない?」
「新聞ですか? まあ確かにこんな状況だと、小説とか魔導書とか読む気にはなりませんよね。パチュリー様は魔導書持って出かけられましたがね」
「あー……、お姉様もそんなこと言ってた」

 珍しくパチュリーが出かけているとは思ったけど、理由としてはなんのことない。明かりのある部屋を求めて移動するように、希望という光を探して出かけただけのことなのだ。パチュリー本人からしてみれば、珍しいことをしたという自覚は全くないのだろう。

「本当、私の雇い主様は筋金入りですね。とと、そんなことより新聞ですね。新しいのがあったはずなので持ってきますね。ではでは少々のお待ちをっ」

 赤紫色の長髪を翻して、図書館の奥へと向かっていく。
 大体の場所を教えてくれたら自分で取りに行くのにと思ったけど、すでに呼び止められるような距離ではなくなってしまっていた。




 戻ってきたこあから新聞を受け取って部屋へと戻る。その途中で一面の触りの方だけを読んでみると、当然といえば当然だけど、今幻想郷を騒がせている異変の特集を行っているようだった。一面を飾るのは、異変には付き物の霊夢が周りにお面を浮かべる少女に縋られているような写真だった。お面を浮かべている方が今回の異変の元凶なのだろう。お姉様から聞いた特徴と一致している。
 自室に入ると、椅子に腰掛けて新聞を広げる。まずは異変の大まかなことを掴もうと見出しと写真とを見ていくことにする。広い範囲で騒ぎが起こっているらしいけど、お姉様が出向くのは博麗神社ばかりだから、詳しいことはあまり知らないのだ。お姉様にとっての希望はあの場所ということなのかもしれない。残念だけど、私が照らされる立場なのだと思えば、諦めもつく。
 と、ある写真が目に入ってきたとたん、私は固まった。
 私の視線の先には白黒のこいしがいる。それも、心の底からの笑顔を浮かべて、周囲に手を振っているという。
 それが、少なくない衝撃を与えてくる。こいしが親しい相手以外にそうした表情を向けることがないと思っていたから。
 本当なら私はそのことを祝福すべきなんだと思う。前に進むことができるようになったことを喜ぶべきなんだと思う。
 だけど、私の中には裏切られたような気持ちが浮かび上がっていた。そして、それ以上にこいしがもう手の届かない所に行ってしまったかのように感じてしまう。
 ……いや、こんなことを考えてしまうのは、異変のせいだ。私は裏切られてなんていない。ただ、こいしの居場所が変わったというだけ。
 考えれば考えるほどに、内から溢れ出てくる感情を抑えきれなくなって、涙に変わる。
 泣くな泣くな、と念じながらぎゅっと瞼を閉じても止まらない。それどころか、喉の奥がひりつくような感覚まで現れて、声が漏れ出てくる。
 私はベッドの上に逃げ込んで、枕を濡らすことしかできなかった。




 しばらくの間、感情を垂れ流しにしていたら、なんとか落ち着いてきた。顔を上げてみると、ベッドの枠にひびが少し入っているのが見えた。この程度で済んでよかったかもしれない。
 のそりと起き上がって、適当にひっつかんだ毛布で顔を拭く。それから、少し覚束ない足取りでテーブルを目指す。
 そして、写真を視界に入れないようにしながら、涙の跡がある新聞を読み進めていく。
 どうやら、宗教家たちの戦いの間に突如と現れ活躍しているこいしは、人里を中心に注目を浴びているようだ。……更に、こいしが遠くの存在となってしまったような気がしてしまう。
 これでいいはずだ。元々私は、こいしと関わり合いになるつもりはなかった。それに、こいしが抱えていた問題を解決するのに私は必須の存在ではなかったはずだ。たまたま問題に直面していたところで知り合って、私が勝手に首を突っ込んで、たまたま上手くいっただけだ。だから、ちょっとした切っ掛けでこいしが離れていくのも当然のことだ。
 こいしが私に関わらなくなったところで、悪いことはない。こいしは新しい道を進んで、私は元の静かな平穏を取り戻す。
 事実が積み重なっていくほどに、感情が凪いでいくのがわかる。そして、こいしはもうここには来ないんだろうなぁ、というのを諦めとともに受け入れる。来たとしても、今までよりは距離ができていることだろう。
 記事を読む限りでは、この前私のところに持ってきたお面が、こいしの存在感を際だたせているようだ。でも、人々を沸かせることができているのは、こいし自身の魅力による賜物だろう。
 だから、この異変が落ち着いて、こいしへの注目が減ったとしても、意識を向け続ける人は残ると思う。その中には、私なんかよりもこいしに相応しい相手もいるはずだ。
 寂しくないというのは嘘になるけど、今まで後ろ向きな面ばかりを目にしてきたから、写真の中のはしゃいだ様子のこいしを見ていると嬉しくも思う。
 私はこいしが進む先に幸せがあることを祈る。特別でなくなってしまった私にできることは何もなくなってしまったから。





「フラン、ごめん! 今までほったらかしにしちゃってて!」

 こいしが今にも土下座しかねない勢いで部屋に入ってきたのは、こいしの活躍を知った翌日のことだった。もしまた私の所に来るとしても、異変が終わって、それが忘れられてしまうくらいの時間が経ってからだと思っていた。だから、ベッドに腰掛けてぼんやりとしていた私は、呆然とこいしを見つめる。

「……フラン?」

 私が何の反応も示さないことを心配に思ったらしいこいしが、顔を覗き込んでくる。何か反応をしないと、と思うけど何を言えばいいのか思い浮かんでこない。
 何で私の所に来たのかと問えばいいのか、最近活躍してるみたいだねと賛辞を口にすればいいのか、それとも全く関係のない話題を振ればいいのか。

「……こいし……」

 無理やり口を動かしてみても、出てくるのは名前だけだった。それでも、こいしは反応を示してくれる。
 それを、嬉しいと思ってしまう。

「なに? ……って、え、ちょっと! 何で泣いてるのっ?! ほ、ほんとに、ごめんっ! その、忘れてたわけじゃないんだけど、良い意味で注目されるのが初めてだったから、そっちにばっかり気が向いちゃってたっていうか、レミリアに言われるまで明日でいいやと思い続けちゃってたっていうか……。……ごめん」

 こいしが少し首を傾げたかと思うと、突然慌て始めた。そして、何やら言い訳をしたかと思うと、最終的に頭を下げた。黒色の帽子がはらりと落ちる。
 私はこいしの姿を先ほどとは違った意味合いで呆然と見つめる。それでも、身体の方が勝手に拾い上げた言葉を確かめるために濡れた頬に触れていた。
 どうして泣く必要があるんだろうかと内心首を傾げる。こいしの慌てている反応以上に、自分自身の精神状態に困惑してしまう。

「え、っと、だいじょうぶだから、気にしないで。異変のせいでちょっと不安定になってるだけだから」

 とりあえずこいしを落ち着かせようと口を開いてみると、案外冷静な声が出てきた。でも、涙が頬を伝う感触は未だに健在で、誰がどう見ても問題ないようには見えないんだろうなぁと思う。 
 そして実際、目の前にいるこいしは、私の言葉に安堵するどころか、心配を通り越して不安そうな表情を浮かべている。

「全然だいじょうぶそうに見えない」
「やっぱり?」
「うん」

 こいしは私の言葉に頷くと隣に腰掛けてくる。なんとなく懐かしい感じの暖かさを感じる。

「無理して私の傍にいなくてもいいよ?」
「私は自分の意志でここにいるから気にしないで」
「私なんかといるより、いろんな人から注目されてることの方が価値がありそうな気がするけど」
「どうせあんなの一過性のものにすぎないんだから、拘るだけ無駄」
「写真のこいし、楽しそうだったよ?」
「……ごめん。浮かれすぎちゃってた」
「こいしの好きなようにすればいいんだから、謝らなくてもいいのに」
「ごめん……」

 責めるつもりは一切ないのに、私の一言一言がこいしを追いつめていってしまっているようだ。だから、私はそれ以上何も言えなくなってしまう。全部勝手に流れる涙が悪い。
 それから、咲夜が夕食の時間を告げにくるまで、私たちは何もせずただ同じ場所にいるだけの時間を過ごすのだった。




 その翌日もこいしは私の所へと訪れてきた。
 今度は私は涙を流すことはなかったし、こいしもしおれた様子を見せてくることはなかった。

「今日はこのとおり平気だから、心配せずに行ってきてくれてもよかったのに」

 ベッドから身体を起こしながら、部屋に入ってきたこいしへとそう言う。こいしに前へと進める可能性があるというのなら、こんな引きこもりの私なんかに構わないでほしいと思う。

「昨日までの私は質の悪い夢に捕らわれてただけ。こっちの私が正しい姿」
「私こそがこいしを捕らえようとしてる悪鬼かもしれないよ?」
「それならそれで望むところ。個人が相手なら、こっちからいくらでもやりようがあるしね」

 気がつけば、こいしが私の上へと覆い被さっていた。毛布の柔らかな感触を背中に感じる。近づくのも押し倒されるのも全く知覚できていなかった。

「……そのままずっと自分を卑下するような態度を取ってると怒るよ? 昨日までは確かにフランを放っておいちゃったけど、一番がフランなことに変わりはない。……あんまり私の言葉を信じられないようなら、同意も取らずに私の愛をフランの身体に刻んじゃうかも」
「……」

 翡翠色の瞳から本気を読み取って、口をつむぐ。いつかのようにそこにあるのが執着というわけではないから、恐怖を感じることはない。ただ、こちらへと真っ直ぐに伸びた視線が、私を射抜いていて少々の居心地の悪さを感じる。

「口答えしなかったことは褒めてあげよう」

 こいしが私に見せるためだけの笑顔を見せてくれる。こいしにとって、私は無価値な存在ではないと体現してくれている。
 ……そんなことをされたら、突き放すことができなくなってしまう。

「この異変はまだまだ落ち着きそうにないから、終わるまで私が希望の光になってあげる」
「……私じゃなくて、自分のために使えばいいのに」
「フランのために使うことこそが、私のため。自分の好きな人には、穏やかな表情を浮かべてて欲しい。だからこれ、フランに渡しとく」

 私に跨がるような形となって、腰の辺りに結びつけていたらしいお面を取り外し始める。今まで全然気がつかなかった。

「ううん。……こいしが持ってて。私は、なくてもだいじょうぶだっていうのがわかってるから」

 こちらに差し出してきたのを受け取らずに首を振る。
 本当は持ち主に返すのが正しい対応なのだろうけど、それで確実にこの異変が収まるという保証はない。もしかすると、私の精神が不安定な状態で、こいしを支えなければいけないという状況にもなりかねない。
 一応、いくつかの解決策も出てきていてそのうちの一つはうまくいっているみたいだから、それが実を結ぶまでは借りていてもいいかもしれない。一瞬魔理沙の顔が横切ったけど、気にしすぎないことにする。収まりさえすれば、返すつもりはあるのだし。
 そう考えた上で、こいしが持っているべきだと考えた。
 私は希望をなくしたところで、その場で立ち止まるだけだから問題にはならないだろうけど、こいしみたいな逃げ出すようなのは、厄介なことになりそうな気がするのだ。今まで、実際に何度か逃げられたことがあるだけに。

「それ本気で言ってる?」

 再び覆い被さってきて、据わった目を近づけてくる。どうやら、まだ私が自分の扱いを蔑ろにしていると思っているようだ。
 まあ、大きく間違ってはいない。ただ、こいしが懸念するように、私がこいしに関わる価値がないというようなことではない。まだそうした思いは一応あるけど、本気になっているこいしの前で口に出す勇気はない。

「少なくとも私がここから逃げることはないから、対処は楽だと思うけど」
「む……」

 私の言葉に怯むように黙り込む。こいしも自分が逃げ出しやすいという自覚はあるようだ。

「だから、こいしがほんとに私の所に来たいっていうなら来て。今度は帰らせようなんてしないから」
「……わかった。でも、今はフランに渡しとく」

 そう言って、お面を私の胸の上に置く。たったそれだけでも、私の心が落ち着いていくのを感じる。
 でも、腕の力を抜いてそのまま乗りかかってきたこいしのせいで、それをじっくりと感じている余裕はないのだった。
 二人で一つのお面を共有するにしても、もう少し別の方法を考えてほしかった。





 それから異変が落ち着くまで、こいしは毎日私の所へとやってきた。
 こいしに多くの人たちから注目を浴びるということに対する執着はなかったようで、異変の経過を知るために読んでいた新聞を見ても、特にこれといった反応を示すことはなかった。一時的な熱狂に流されてしまっていただけなのだろう。
 こいしがいない間は言い様のない不安にまとわりつかれて、こいしがいる間は安堵に身を任せていた。そんな平穏とは言い難いけど、大きな問題が起こることもない日々が過ぎ去っていく中で、お面は徐々に力を失っていって、それと反比例する形で異変は収束を見せていった。それと同時に、私がこいしに支えられているような状態から、いつもの私がこいしを支えているような状態へと戻っていった。

「こいし、そろそろお面を返しに行かない?」

 もう手放してもだいじょうぶそうだと判断した私は、二人だけのお茶会を終えて、ぼんやりとしていたところでそう言う。いつものように、こいしは私の隣に座って、私の方へと身体を寄せてきている。

「……別に、いいけど……」

 何故か怯えるような反応をされてしまった。
 お面を返しに行くということは、秦こころに会いに行くということだ。そういえば、二人の関係はお面を返そうとしないのと取り返そうとするのだった。こいしは宿敵のような彼女に会うことに怯えているのだろうか。
 ただ、それにしては怯えすぎのような気もする。

「あんまり行きたくないなら、私が一人で行ってこようか?」

 大体どこに現れるかというのも、どういう姿をしているのかも新聞によって情報を得ている。だから、私一人でも問題はないはずだ。

「……だいじょうぶ。ちょっと、今日は気分が乗らないだけだから」

 小さく深呼吸をしたかと思うと、静かな声でそう言った。やはり、何か様子がおかしい気がする。

「そこまで無理しなくていいよ?」
「無理なんてしてない。私はフランがいれば無敵なんだから。それに、人里でフランと回ってみたい場所もいろいろあるんだから、留守番なんてしてられない」

 怯えが息を潜めて、代わりに期待に輝く。私と人里に行くことを楽しみにしている、というのが全身から溢れ出てきている。
 怯えていたのは、気のせいだったのだろうか。でも、それは絶対にないはずだ。こいしは、自分の弱さはすぐに隠してしまうから。
 とはいえ、楽しみにしているというのも嘘ではなさそうだ。本来の目的を達成するという気は全く見受けられないけど。

「じゃあ、二人で探しに行こうか」

 だいじょうぶだろう、と判断を下して、こいしも連れて行くことにする。

「はい、お願い」

 魔法空間の中から紅色の櫛を取り出して、こいしへと渡す。ある時から、こいしと出かけるときの習慣となっていた。
 こいしは櫛を受け取って立ち上がると、椅子に座ったままの私の背後に立つ。そして、丁寧な手つきで髪を梳き始めてくれる。
 私はその久しぶりな感触に心地よさを感じているのだった。




 人里には相変わらずたくさんの人がいる。それだけならまだしも、注目を集めているというのが地味に辛い。じわじわと精神的なものを削られていっているような気がする。片手で数えられる程度しかここに来たことのない私のせいなのか、それとも一時期活躍していたこいしのせいなのか。両方というのが妥当なところだろうか。

「こいし、だいじょうぶ?」

 手を繋いで、同じ日傘の下へと入っているこいしへとそう聞く。里に足を踏み入れる直前、こいしが不意に足を止めるということがあったから、心配になったのだ。
 多少の違和感を飲み込みながらもこころに会うのがいやだから行きたくないような態度を取っていたのかと思ってしまっていたけど、よくよく思い出してみれば、こいしが最も怖がっているのは他人だ。一人でいるときは色々な人と関わってるみたいだけど、私の傍にいて無防備に心を曝け出しているときは、それが顕著に現れていたように思う。
 でも、今のところ里に入る直前以外では特におかしな点は見当たらない。

「だいじょうぶだいじょうぶ。心配性だねぇ、フランは。あのとき足を止めたのは、過去の私が今の私に嫉妬してただけ。異変の最中、私が今以上の注目を浴びてたのは知ってるでしょ?」
「まあ、うん」

 私もあの異変の最中のこいしの姿を知っているからこそ、無理に止めようという気にはならない。あれがきっかけで、他人恐怖症が多少は治まったのではないだろうかと思って。

「だから、心配無用。あっ、あそこの装飾品屋、フランに似合いそうなペンダントが置いてあったから、見に行ってみよう!」

 はしゃいだ様子で一軒の店を指さして、そちらへと向かって行こうとする。とはいえ、私が陽に当たることができないというのはちゃんと意識してくれているようで、無理に進もうとはしない。
 表面上は確かに元気そうだけど、なんとなく無理をしているような印象を受けるのは私の考えすぎだろうか。

「……本来の目的覚えてる?」
「フランとデートすることでしょ?」
「いやいや」

 無邪気な様子で首を傾げているけど、わざとそう言っているというのは明白だ。

「まあどうせ本気で探そうが、ついでで探そうが見つからないときは見つからないんだから、楽しんだ方が勝ちだと思わない?」
「それも一理あるか……。しょうがない、付き合ってあげる。ただし、散策としてね」

 目的はあれども、目的地はないのだからこいしの言うことが正しいのかもしれない。それに、楽しんでいる間に無理をしているような感じも薄まるかもしれない。

「わざわざ私の意見を捻じ曲げずに頷けばよかったのに」
「自分の感情を捻じ曲げるわけにはいかないからね」
「む……、まあ、別にいいか。時間ももったいないし、早速張り切っていこう!」

 一人でやけに盛り上がって私を引っ張る。私も盛り上がるべきなんだろうけど、すでに置いていかれてしまっていた。

 こいしが楽しんでいるならそれでいいかと思っていたけど、現実はそこまでうまくいくものではなかった。




「……こいし、ほんとにだいじょうぶ?」

 日傘で身体を震わせるこいしを隠すようにしながら、人通りの少なそうな方を目指す。
 最初は無理をしてはしゃいでいるといった印象だったこいしだったけど、次第に口数が減っていき、今ではこの有様だ。しばらくすればだいじょうぶだろうと考えてしまっていたのは失敗だった。後悔を抱えながら、人の視線から逃げていく。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 虚ろな声はどう聞いてもだいじょうぶそうではない。早く里から離れないと。でも、どの道を選ぶのがいいのかがわからない。空を飛べば注目を浴びてしまって、今以上に危険な状態になってしまいそうな気がする。そう思いながら、こいしが転ばない程度に足早に人が少ない方、少ない方へと進んでいく。
 最悪、人がいない場所に隠れて、こいしが回復するまで待ってから帰るという方法をとることになるかもしれない。こいしの力を使えば、人の視線を振り払うのは簡単なことだ。そのためにも、どこでもいいから人のいない場所に行かないといけない。
 そう思っていると――

「ようやく見つけたっ!」

 どこまでも真っ直ぐに進んでいきそうなくらいに凜と澄んだ声が背後から聞こえてきた。私はその声に思わず足を止める。
 振り返ってみると、桃色の長い髪を揺らした残滓とともにこちらへと人差し指を突きつけてくる少女がいた。声の力強さの反面、表情には何もなく、代わりに頭の面が怒っているらしいことを周囲に知らしめている。
 彼女が私たちの探している秦こころだ。でも、今はお面を返しているような余裕はない。そして、向こうも大人しく受け取る余裕はなさそうだ。

「仲間を連れてきたようだが関係ない。一対二だろうと私は勝つ! そして、希望の面を返してもらう! さあ、古明地こいしとその仲間、構えろっ!」

 どこからか取り出したのか、もしくは何らかの力で形成したのか、青白い薙刀の切っ先をこちらへと向けてくる。それを相手にしている暇はない。

「ちょっと待って!」
「……なんだ?」

 こちらが不意打ちでも仕掛けてくると思っているのか、構えを解かないまま頭に不審そうな表情を浮かべたお面を浮かべる。

「今はあなたの相手をしてる余裕がないから、また今度にして。それより、できる限り人に会わずにここから出る道を知りたいんだけど、知ってたら教えて」
「逃げようとしてもそうはいかない。……でも、決闘をするなら広いところの方がいいか。私が案内する」
「なんでもいいから、できる限り速くお願い」

 人目を避けていたのに、こころの声のせいで再び人の視線が集まってきていた。こいしが服の裾を掴んで縋りついてくる。

「わ、わかった。こっち。付いてきて」

 少したじろぐ様子を見せたかと思うと、薙刀をどこかへと消し去って路地の奥へと向かい始める。小走りで、でも私たちを気遣うように何度か振り返りながら。
 もしかしたら、こいしの異変に気が付いたのかもしれない。
 こいしが途中で転んでしまわないように、はぐれてしまわないように気をつけながら、私は揺れる桜色の髪を追った。




 雑多に建物が並ぶ通りをしばらく歩いて、里の端へとやってきた。周りに私たち以外には誰もいない。代わりに高い塀が存在しているけど、空を飛べる私たちにはなんの障害にもならない。
 ぐったりとした様子のこいしを片腕で抱えるようにして、塀を越える。そうして、里の外の地面に足を着いたところで、ほうと息を吐いた。とりあえず、これで一安心だろう。
 こいしもそう思っているようで、身体から力を抜いてこちらへともたれかかってきている。しばらくは、ここから動くことはできそうにない。

「何があったか、聞いてもいい?」

 安堵する私たちを見て困惑しているらしいこころがそう聞いてくる。ああ、そうだ。お礼を言わないと。

「その前に、道案内してくれてありがとう。あなたのおかげで、大事に至らなくてすんだ」
「それは、どういたしまして」
「あと、お面、返すのが遅くなってごめんなさい」
「う、うん」

 私がこいしから預かって魔法空間の中へと収めていたお面をこころへと返すと、彼女の困惑が一層深いものへとなったようだった。頭の困惑した表情の面だけでなく、しどろもどろな言動がそれを示している。

「それで、何があったかだけど、……私がこいしのトラウマのことを忘れてたせいで、追いつめちゃったんだ」
「……フランは、悪くない」

 こいしが元気のない声でそう言ってくれる。でも、私はこいしのトラウマを知っているのだし、兆候もいくつか目にしていたのだから、こうなる前に気づいてしかるべきだったのだ。あのときは問題なかったから、今回も問題ないはずだ、なんて根拠もなく納得なんてせずに。
 こいしにこれ以上気を遣わせないために、それを言葉にするようなことはしない。代わりに、帽子越しにだけど、こいしの頭を撫でる。

「まあ、そのせいでこんなことになったというわけ」
「……そう。あの異変の最中は、全然そんなふうには見えなかったのに」
「それだけ、あなたのお面にこめられてた力がすごかったんだよ」

 心が壊れてしまいかねないほどの心の傷を抱えているこいしを前へと進ませてしまうほどに。考えてみれば、お面の力を過小評価しすぎてしまっていたのも、今回の出来事の原因かもしれない。

「……そういえば、それ、普通のお面に戻ってるみたいだけど、だいじょうぶなの?」
「それは問題ない。またしばらくすれば元に戻るはずだから。そっちこそ、だいじょうぶ?」
「しばらく休憩する必要はあるけど、誰もいないここならだいじょうぶ。あなたのことは平気みたいだし」

 異変の最中に何度か直接のやり取りをしていたみたいだから、完全な他人という枠から外れているのかもしれない。

「そう。……あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 なんとなくほっとしたかのような様子を見せたかと思うと、不意に宙に浮かび上がって、里の方へと向かって行ってしまった。止めても止まりそうになかったから、何も言えなかった。

「なんだかよくわからないけど、座って待ってようか」
「……うん」

 周りを見渡して、塀の方へと近寄る。陽のことを考えると、ここくらいしか選択がなかった。
 塀を背もたれにして、こいしと並んで座る。日傘は片手で何とか閉じて、こいしのいない方に寝かせた。

「こいし、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ……」

 声は弱々しいけど、空虚さも震えもない。相変わらず無事には見えないけど、致命的な状態でもないようだ。

「……ごめん、フラン。無理についてきたあげく、迷惑かけちゃって」
「ううん、気にしないで」

 そう答えながら、贖罪の意味を込めて再びこいしの頭を撫でる。今度は、帽子をこいしの膝の上へと置いて。

「……あのときは平気だったから、だいじょうぶだと思ってたのになぁ。部屋から出る前も、実際に入ってみればだいじょうぶだろうって思ってたのに」

 こいしも、私と同じような勘違いをしてしまっていたようだ。こいしの場合、実感も伴っていたはずだから、私以上に深く勘違いをしてしまっていたのだと思う。やっぱりこいしの問題に関しては、私がしっかりとしていなくてはいけないようだ。

「……でも、だめだった。一人二人くらいならだいじょうぶ。三人四人もなんとか耐えられる。でも、それ以上になるとどうしようもない。あの中のどれだけの人が私を恐れてるんだろうかって、どれだけの人が私を拒絶してるんだろうかって、どれだけの人が私に石を投げてくるんだろうかって思うと、怖くて怖くて仕方がなくなる」

 淡々とした声だったけど、ありもしない拒絶に怯えていたときのことを思い出したのか、それとも過去そのものを思い出したのか、小さく震え始める。私にできるのは、頭を撫で続けることくらいだ。

「フランがいなかったら、私は壊れてたかも」

 こいしは私へと感謝するように、こちらに体重をかけてくる。

「……私がいなければ、こんなことにはなってなかっただろうけどね」

 少なくともこいしをここに連れてきたのは、お面を返すことを提案した私だ。ついてくることを決めたのはこいし自身だけど、私でなければ丸投げしていた可能性の方が高いはずだ。それに、もしついて行っていたとしても、心が無防備に曝け出されているようなことはなかったはずだ。

「……ままならないねぇ」

 こいしは疲労混じりのこえでそう言う。
 全くその通りだ。私たちの前に障害物は何もないのに、道そのものが歪んでいたり、壊れたりしてしまっている。だから、足元を見ていなければ、掬われてしまう。そして、最悪向こう側が見えているのに、進めなくなってしまう。

「まだまだ行ってみたい場所があったのになぁ。甘味処で食べさせ合いっこしたり、酒屋で呑んでどさくさに紛れてフランを襲ったりしたかったのに」
「……前半はともかく、後半はよくよく考え直してみるべきだと思う」
「じゃあ、酔ったフランの観察。今まで酔った姿を見たことないし」
「それくらいならまあ。……いや、それはそれで不安なんだけど」
「だいじょうぶだいじょうぶ。手を出したりなんてしないから」
「ほんとかなぁ……」

 沈んだ空気をいつも通りのやり取りで振り払って、安定を取り戻そうとする。
 そうして私たちはより一層、慎重に、臆病になっていくのだった。




「お待たせ」

 こいしが落ち着いてからも、取り留めのない会話をしていたらこころが戻ってきた。お茶の注がれた湯飲みと饅頭が並べられた皿とが乗った木の盆を両手で持っている。

「これ、落ち着くかと思って。もう必要はなさそうだけど、せっかくだからあげる」

 私に寄りかかるこいしを見ながら、木の盆を私たちの前へと置くと、そのまま正面に正座する。髪が地面に触れているけど、気にしている様子はない。

「……いいの?」
「うん。一人では食べられないから遠慮しないで」

 そうは言われても、あまり知らない人からの親切というのは受け取りづらい。

「ふむ……、じゃあ、あなたたちの話を聞かせて欲しいから、その前報酬。あ、込み入った話よりは、あなたたちの普段の話が聞きたい」

 気を遣ってくれているのか、それとも関わるのが面倒くさいと思っているのかよくわからない発言だった。じっと見つめてみても、無表情だから何も読み取れないし、頭を見ても特にこれといった表情を浮かべているものではなかった。

「……何を聞きたいの?」
「まずは、名前。私は、秦こころです。初めまして」

 綺麗な礼で締めくくる。私も姿勢を正した方がいいのだろうかと思うけど、こいしがいるからできない。今は、少し離れるのも不安だ。

「こんな格好のままでごめんなさい。私はフランドール・スカーレット。初めまして、こころ」
「聞いたことがあるような気がする」

 こころが首を傾げる。心当たりはいくつかあるけど、当たっていた場合に一番嬉しい可能性を口にしてみる。

「レミリア・スカーレットっていう吸血鬼から私のこと、聞かなかった?」
「……ああ、確かそう。いつかの宴会で妹がいるって聞いたことがある」
「うん、それが私」

 お姉様の口から私のことが広まっていたということに嬉しさを覚える。他の誰かから伝わった場合は、フランドール・スカーレットとして広まってしまうかもしれないけど、お姉様から伝われば私のことは確実にレミリア・スカーレットの妹として伝わる。そういったことを好まない人もいるらしいけど、私にとってはこれ以上ないくらいに誇りに思えることだ。自分自身に価値を見出せないだけに。

「姉のことが好きなの?」
「うん」

 弾む声とともに頷く。それが、私がこの世に残り続ける理由なのだから。
 最近は、別のことも理由として成立しそうになっているけど。

「私はフランのことが好き。誰よりも、何よりも、世界中の全てを天秤の片方に乗せたとしても」
「こいしの場合、片方の天秤だけでも浮き上がりそうだけどね」

 嫌いというよりは苦手なものとなりそうだけど、こいしにとっては一部を除いて、ほとんど全てのものが軽々しいものとなっているような気がする。私自身もそういう傾向があるけれど。

「あと、さとりのことも忘れないであげて」
「……お姉ちゃんは確かに、大切だけど、やっぱりフランには敵わない」

 さとりのことになると、私に向けるような素直さは鳴りを潜めてしまう。やっぱり、まだ少しの隔たりは残っているようだ。もう、時間の経過で何とかするしかない段階までは来ているようだけど。そのことを考えれば、私のところよりはさとりのところにいて欲しいんだけれど、何の因果か私の方へと傾倒してしまっているようである。
 そういえば、こいしがさとりに付きっきりになって私のところに来なくなるという未来を何度も思い描いたことがあるけど、少しも不安定になったことはない。あのときは、希望を失って不安定になりやすくなっていたといえ、何が違うんだろうか。やっぱり、姉が絡んでいるからだろうか。こいしに関わった理由も、それなのだし。

「えっと、次の話題、いい?」

 二人して黙っていると、こころが少し遠慮した様子でそう聞いてきた。忘れていたわけではないけど、話しかけるタイミングがなかった。

「あ、うん。ごめんなさい」
「ううん、気にしないで。それで、二人はどういう関係なの?」
「友達」「恋人」

 重なる声は、現実と一方的な理想を主張していた。どちらがどちらを口にしたかは言うまでもないだろう。

「……何かおかしな単語が聞こえてきた気がする」
「あ、やっぱり? 私たちは恋人同士だから、それは絶対に間違えないで」

 こいしが、存在しないものへと釘を刺す。

「いやいや、何勝手なこと言ってるの。私たちは友達だから」
「恋はわがままな感情だから仕方ない」
「仕方なくない」
「じゃあ、第三者に聞いてみよう。というわけで、あなたにはどう見える?」

 こいしに質問をされたこころは、難しげな表情を浮かべた面を頭につけて首を傾げている。そんなに考え込むことだろうか。

「んー……。親友のように見えるけど、恋人として見てもそれはそれで違和感はなさそうな関係……?」
「だってさ」

 両方を立てるような中途半端な答えだったけど、こいしが嬉しそうに声を弾ませている。沈んだ姿を見せられるよりはずっといいけど、複雑な心境だ。というか、中途半端とはいえ、外から見るとそんなふうに見えるのか。

「私は友達として接してるつもりなんだけどね……」
「だから、フランドールがそれくらいこいしのことを大切にしているように見えるということ。今もそうだし、私がこいしの様子に気づかないで襲いかかったときもそうだった」

 第三者からの真っ直ぐな言葉はどこかこそばゆい。

「フランは私のこと愛してくれてるんだ」
「そうなのかも」

 こいしの嬉しそうな声に頷く。想いに応えることのできないものではあるけど、確かに愛ではあるのだろう。

「一番だとは言ってあげられないけど、大切だと想ってる。こいしが行きたいところがあるなら行ってもいいけど、できれば傍にいてほしいと想ってる。背中を押すのは躊躇するけど、前に進んでほしいと想ってる。一言では言い表せないくらいの幸せの中で笑っていてほしいと想ってる。これはきっと、愛で間違いないんだと思う」
「う、うぐ……」
「こいし?」

 横から妙な声が聞こえてきた。

「……この天然ジゴロめ」
「……こいしが無防備すぎるだけじゃないかな」

 多少は自覚してやっている節もあったから、私の返しも少し弱い。こいしが精神的に弱っていなければ、ここまで言うこともなかっただろう。今ここでこいしを元気づけられるのは私ぐらいだ。そうでなければ、お互いがお互いの認識を理解しているとは言え、不用意に期待させるようなことはしたくない。

「なんにせよ、すごく仲が良さそうで羨ましい。鋭く研ぎ澄まされた刃でも裂くことのできない糸が見えてきそう」
「色は当然赤色だよね」
「ううん。光り輝いてるせいで色はわからない。でも、遠くからでも目立つし、私みたいに羨む人は多いはず」
「ふーん……。まあ、今はそれでもいいか。少なくとも、特別な関係には見えてるってことだろうから」

 言葉は物足りなさそうながらも、どこか満たされたような声だった。
 とりあえず、強がりでもなんでもなくいつも通りを取り戻すことができているようだ。私はそのことにほっとしながら、こいしの穏やかな表情を見つめているのだった。




 それからしばらくの間、私たちは大きく脱線しながらもお互いのことを話していた。脱線するのは主に、思ったままを口にするこいしとそれに対していちいち修正を挟む私のせいだけど。こころはそんな私たちの会話を聞いているだけといった感じだった。そして、私たちの会話が落ち着いたところで、新しい話題を投入してきた。
 私たちの相性はそれほど悪くはないようで、弾むとまではいかないものの、会話が途切れることはなかった。ほとんど私たちが話している状態だったけど、頭のお面を見る限りでは、退屈はしていないようだった。
 新聞で読んでいたから、少しくらいはこころのことを知っていた。だけど、実際に顔を合わせて話してみると、事実以上のことも知ることができた。私にとって、こうした経験はかなり珍しい。
 たとえば、こころは前向きだ。その上で、前に進むことも恐れていない。
 今更前に進むことを羨みはしないけど、私の瞳にはその姿が眩しく輝いて見える。手を伸ばしても届かない位置にいるようなそんな感覚を抱く。

「二人には希望が足りてない」

 会話が途切れたところで、こころが不意にそんなことを言ってきた。

「突然、どうしたの?」
「二人の話を聞いてると、なんだかそんな感じがした。向き合ってるはずなのに、二人して私の背中を見てるように感じる」

 それは間違っていない。立ち止まっている私は、前に進む人の背中にしか捉えることはできない。それはたぶん、こいしも同じことなのだろう。進む側がそのことに気づいたということには驚かされたけど。

「私は二人に近くはないから、直接前に進ませることはできない」

 こころが静かに立ち上がる。鳶色の瞳でこちらを見下ろすでも見下すでもなく真っ直ぐに見つめてくる。

「だから、私は舞うことで私の希望を分け与える。私にできるのはこれだけだから。私はこれで表現することができるから。これから見せる演目は、あなたたちが初めての観客」
「……いいの?」

 初めての作品というのは、その筋の人か近しい人に見せるものなのではないだろうか。今までそういったものを見てきたことがないから、正しい評価が下せるとはとても思えないし、こころとは今日出会ったばかりだから、近しいと言えるはずもない。こいしも同様だろう。

「希望の面が戻ってきたら、すぐにでも誰かに見せたいと思ってうずうずしてたくらいだから、ちょうどいいくらい。……あれは、人前で使いたくなかったし」

 現実から目をそらすように、視線をあらぬ方向へと向ける。

「あー……」

 そう言えば、間の抜けた造りのお面が新しい希望の面として紹介されていた記事を見たことがある気がする。実際にすごいものだとしても、使いたくないという気持ちはわからないでもない。
 私が少しの同情を抱いていると、こころは気を取り直すためか、喉の調子を確かめるためか、小さく咳をする。私はこころの方へと意識を向け直す。

「では、私に舞わせてくれますか?」
「お願いします」

 私が頷くのを見て、こころは一対の扇子を取り出した。頭の上に待機しているのは、返したばかりの希望の面だ。
 こころがすっと息を吸う。舞台と呼ぶに相応しいものは何一つとして存在しないはずなのに、たったそれだけの動作で、こころの周囲の空間が切り取られたような錯覚を得る。
 こころがゆっくりとした動作を始める。でも、少し無理な体勢となっても芯が安定していることから、身体の末端まで力が行き渡っているのがわかる。
 視線は決して前以外を向かない。未来を見据えるかのように。
 踏み出す足に迷いはない。立ち止まっていることこそが惜しいのだとでも言うように。
 立ち居振る舞いは堂々としている。希望に照らされて。
 こころの舞いは、そうしたものに詳しくない私にもわかるほどに、彼女が表現したいものを示していた。でも、こころの目論見とは違って、私が抱くのは眩しいといった感想だった。
 それくらいに、私は仄暗さに慣れてしまっている。決して暗くはなく、かといって明るくもない。必要なものだけが必要な分だけ目に入ってくるそんな明るさ。
 それは居心地のいい明るさだ。余計なものが見えてこない分、分不相応に求めることもない。
 色々なものを諦めてしまってはいるけど、見えてしまえば求めてしまうこともあるのだ。そして、光に目が眩んだ結果、今日のように足下を掬われてしまう。
 こころが私たちに見せてくれるものは、確かに尊いものなのだろう。有り難がってしかるべきものなのだろう。そう思っても、転んだばかりの私は、やっぱり眩しいという感想しか抱けないのだった。




「ありがとうございました」

 こころが頭を下げて、舞台が消え去る。後に残るのは、凜とした雰囲気を取り払って、私たちと同じ位置に立つこころだけだ。
 私は拍手を贈る。普段こんなことをする相手がいないから、少々不格好となってしまっている。お姉様がやってる姿は様になってるのになぁ。
 そんな私の隣では、こいしがため息をついている。そうしたい気持ちは、よくわかる。こころの舞に抱いた印象は、私とほぼ同じなのかもしれない。

「私がこれまで集めてきた希望、少しは届いた?」

 こころは再び私たちの正面で正座をする。

「……届いたには届いたけど、私には眩しすぎた」
「うん、見てて疲れた」

 思っていたとおり、こいしも私と同じような感想を抱いているようだ。

「そう。まあ、そんな簡単にいくものでもないか」

 声はなんでもないのを装っていたけど、頭のお面が落ち込んでいるような感情を表現していた。声を作るのは得意でも、お面だけはどうしようもないようだ。
 その姿に、疑問を抱く。

「……なんで私たちにそこまでしてくれるの? どっちかというと、迷惑をかけた方なのに」

 自分たちの身を守るためという自分勝手な理由でお面を返さずにいたのだ。本来なら、非難されてしかるべき立場のはずだ。

「んー、なんとなく放っておけないから? 特に、こいしは知らない仲でもないし、異変の最中と様子が全く違うし。後は、私の周りにいるのがお節介焼きばかりだから、私も真似してみようかと」
「その程度でそこまでやるなんて、俗に言うお人好しってやつだね。身を滅ぼさないように気をつけた方がいいよ」

 こいしが毒を返している。

「私がまだまだ未熟者なのはわかってるから、無理をするつもりはない。だから、心配ご無用。私にできる限り手を差し伸べていくつもり」
「……また関わってくるつもり?」

 こいしは関わってきてほしくないようだ。理由は予想できてしまう。

「気が向いたら。あなたたちには、外向きの希望もあることを教えないといけない気がする」

 こいしじゃないけど、お人好しなんだろうなぁと思う。もしくは、私がこいしが抱える問題に首を突っ込んだときのように、彼女の矜持に関わるものに引っかかるものがあったのか。もし後者だとしたら、本人にその自覚はなさそうだけれど。

「人の恋路を邪魔するなんて、馬に蹴られて割られてしまえ」
「一方通行だから、邪魔も何もないと思うけどねぇ。私は困らないし」
「うぐぐ……」

 私の言葉を聞いて、悔しそうにしている。残念ながら、私ではその悔しさを取り去ってあげることはできない。無理なものは無理なのである。

「私は邪魔をするつもりなんてない。周りにそんなに露骨に恋の表情を浮かべてるのはいないから、観察したいくらい」
「じゃあ、私に協力して」
「それもまた、私の気が向いたらということで。じゃあ、私は帰る。師匠の手伝いをしないといけないから」

 こころは空っぽ湯飲みと皿とが乗った木の盆を持ち上げて立ち上がる。

「こいしの手伝いはあんまりしてほしくないんだけど」
「私はあなたの困ってる表情が結構好き」

 遠回しに聞き入れるつもりがないと言われてしまう。というか、こころも悪戯好きな性格なのだろうか。今日話をした限りではそういった印象は見受けられなかったはずだけど。

「できれば嫌いになってほしいなぁ」
「いじめたいとか、意地悪したいとか、そういう願望があるわけじゃないから安心して」
「安心してほしいなら、尚更そういうことは言うべきじゃないと思う」
「……あれ?」

 私の知る悪戯好きとは異なる反応だ。なんとなく素でずれたことを言っただけのような気がしてくる。
 だからといって安心することもできないのだけれど。そういうのは、悪戯好き以上に厄介で予想外のことを引き起こしそうな気がする。

「……帰るんじゃなかったの?」
「おおっと、忘れてた。じゃあ、またいつか」

 こいしの不機嫌な声で、自分がすべきことを思い出したようだ。里の方へと飛び去っていく。騒がしい印象はなかったけど、たったそれだけで周りが静かになったような気がする。彼女には周りを沸かせる、華々しさといったものがあった。

「……」
「なんだか不満そうだねぇ」
「協力者が得られたと思ってたけど、よくよく考えてみれば、フランと二人っきりの時間が削られる危機が迫ってるんだから、のほほんとご機嫌でなんていられない」
「それは難儀なことで」

 そのまま沈黙する。慣れきった二人だけの空間は居心地がいい。

「……さて、私たちは部屋に戻ろうか。一人で立てる?」

 とはいえ、いつまでもここにいる理由もない。ここ以上の安全地帯が存在するのだから、そちらに行くべきだ。居心地も格段にいい。

「だいじょうぶ。じゃない」

 帽子を被って自分で立ち上がろうとしていたのに、途中で力を抜いてしまう。
 その一連の言動に呆れの笑みを返して、こいしの身体を支えて立ち上がる。空いた方の手で日傘を拾いながら。今日は少しくらいの願望なら叶えてあげてもいいだろう。普段とあまり変わらない気もするけれど。
 日傘をばっと広げる。私は安全地帯を作りながらでなければ、ただ移動することもままならない。

「なんか今日は優しい?」
「まあ、いろいろあったから今日は特別ということで」
「じゃあ、今日は無茶なお願いも聞いてくれる?」
「無茶は聞かない」
「けち」
「けちで結構」

 どちらの歩調に合わせるでもなく、のんびりと足を進めていく。
 私たちに、前へ進ませてくれるような希望はない。でも、こんなぐだぐだとした会話ができるだけでも楽しくて、幸せだというのならそれでもいいのではないだろうかと思う。
 まともな道のない私たちにとっては、ただそれだけのことでも無類の価値を持つ。だから、ひょんなことから壊れてしまわないよう、いつまでも続きますようにとひっそり願うのだった。



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