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 ベッドでうつ伏せになって本を読んでいると、不意に片方の手を誰かに引っ張られた。驚いて身体を震わせつつ横を見てみると、こいしが絨毯の上に膝を付いて、私の小指に何かしようとしている。
 こいしの手にあるのは、一本の赤い糸だ。それを私の小指に結ぼうとしているようだ。
 脳裏を掠めるのは運命の赤い糸という伝説。こいしは一体どういうつもりなんだろうか。私たちの関係には似つかわしくないもののように思う。

「……こいし?」

 本に栞を挟みながら呼びかけてみる。反応はない。自分の手元に意識を向けているようだ。気づいていないというよりは、目の前のことを先に終わらせてしまいたいというような態度に見える。

 終わるまで反応をしてくれそうにない。仕方ないから、他人に手を触れられるくすぐったさを感じつつ、作業が終わるのを待つことにする。
 それにしても、こいしが真剣になっているというのは珍しい気がする。いつもは掴みづらいふわふわとした雰囲気を纏っていて、真剣とは縁遠い印象だ。私の前では、そこに怒りっぽいというのが付け加えられる。
 でも、根は真面目なんだろうと思っている。臆病なせいで、なかなか表に出てこないというだけで。

「こいし」

 糸を結び終わったところを見計らって、改めて声をかけてみる。

「何?」

 こいしは私の顔を見て首を傾げる。基本的に無断で私の部屋へと入ってくるこいしだけど、そこに私に気づかれずと言うのが付与されると挨拶の類さえない。
 そういうときは、私も言う機会を失って挨拶を飛ばすことにしてしまう。

「私の指を使って、何をしてるのかなぁと」
「運命の赤い糸。フランなら知ってると思ってたんだけど」

 こいしはそう言って、今度は自分の小指にも糸を結ぼうとし始める。まともに使えるのは片手だけだから、結びづらそうだ。

「確かに知ってるけど、それをなんで私に?」
「秘密」

 素直に教えてくれるつもりはないようだ。至極こいしらしい。
 そして、突飛なことをするのもこいしだと思っている。だから、このまま気にしないでいようかと思う。でも、どうせこの後はだらだらと話をしたりするだけだから、考えてみてもいいだろう。
 運命の赤い糸とは、将来結ばれる男女は小指で結ばれた赤い糸で繋がっているという主に東アジアで伝わっている伝説だ。
 そのままの意味で受け取るという結論は、とりあえず隅に追いやっておく。実際にそうだとしても、私がどうすべきなのかさっぱりわからない。
 伝説の概要を普遍的に捉えるなら、人と人との繋がりといった感じだろう。なら、こいしは私にそれを求めているということだろうか。でも、私たちの間には、友達という繋がりがあるはずだ。お互いに明言しているから、私の勘違いという可能性はかなり低い。
 ならやっぱり、と真っ先に思い浮かんだ結論を採用しかけるけど、もう少し考えることにする。その結論は、本当の最後の最後まで脇に追いやっておくべきだろう。

「フラン? 眉間にシワ寄ってる」
「うわっ!」

 こいしが顔を覗き込んで話しかけてきたことに驚いて身を引く。ベッドに腰掛けていたりしていたら、後ろに倒れていたかもしれない。
 妙なことを考えているときに、顔を近づけないでほしかった。でも、言ったらからかわれてしまいそうだから、胸の内にしまい込んでおく。そして、こいしに悟られてしまう前に心を落ち着ける。

「また何か面倒なこと考えてたの?」
「こいしが何の目的があってやったのか教えてくれれば、面倒もなくてすむんだけどね」

 ただ、こっちの対処が困るような目的である可能性もある。だからまあ、こうして見当違いにあれこれと考えている方がいいんじゃないかという思いはある。考えること自体はそんなに嫌いではないし。

「フランはすぐに他人に聞こうとして根性がないね」
「根性でどうこうなるものだとは思わないけどね」

 こういったことを根性でどうにかしようとする人は、下手すると答えから全力で遠ざかってしまいそうな気がする。途中で振り返るなんてことをしなさそうだし。
 かといって、私みたいなのはいつまでもその場にとどまって距離が変わらないんだろうけど。優秀な情報処理能力を持つ人が羨ましい。

「ま、精々悩むといいよ。私はそんなフランの様子を見て楽しんでるから」
「性根が悪いなぁ」

 楽しげな様子で何かを含んだような笑みを浮かべるこいしに呆れつつ身体を起こす。絶対にこいしは私をからかうことを楽しんでいる。
 私がベッドに腰掛けると、こいしが隣に同じように座る。なんとなくだけど、いつもよりも距離が近い気がする。意識しすぎだろうか。

 私の視線は自分の手許の方へと向かう。糸の意味が気になるというのもあるけど、単純に何かが結ばれていることも気になる。
 こいしと私の小指が赤い糸で繋がっている。こいしの指に結ばれたものは少し不格好だ。やっぱり結びにくかったんだろうか。

「そんなに気に入ってくれた?」
「いや、どういう意図があるのか気になってるだけ」
「とりあえず、赤い糸はここにあるよ」

 そんなくだらないことを言って、こいしが手を上げる。私の手はその糸に釣り上げられる。
 私の視界を左右に切り分けるような赤い糸の向こう側には、こいしの笑みが見える。私の困惑している様子を楽しんでいるのだろう。質が悪い。

「私の顔に何か付いてる?」

 呆れつつ見つめていると、こいしが手を下ろして首を傾げた。私が言うのもなんだけど、こいしは幼い印象の仕草を見せることが多い。
 出会ったばかりの時のことを考えると、だいぶ私に心を許してくれているんだと思う。それを意識すると、不思議なむずがゆさを生じてくる。
 私から相手に慣れていくということは多々あるけど、逆に相手から慣れられてくるというのは、こいしが初めてだ。だから、お姉様とは違った意味で特別な存在だ。友達だと公言しているのもこいしだけだ。

「いや、そういうわけじゃないけど、私があれこれ悩んでる姿を眺めて楽しんでるのかなぁと」
「へぇ。その通りだとしたら、フランはどうする?」

 挑発するような笑みを向けてくる。

「質が悪いと思う」

 過剰な反応を期待しているんだろうなぁと思いつつ、端的にそう言う。こいしの決して満たされることのない悪戯心に振り回されるのもいい加減慣れてきた。

「つまんないねぇ。どうせなら、フランも何か仕掛けてくるなりなんなりしてくればいいのに」
「その手のことでこいしに勝てる気がしない。まあ、なんとかのらりくらりとやりかわす方法を考えてみるよ」
「そう言いながらも特に変わりもなく毎回それなりの反応を見せてくれるフランは、被虐趣味があるとみた」
「いやいや」

 単に大した実害もないから、本腰を入れて対策を練ろうという気にならないだけだ。

「素直になればいいのに。だいじょうぶ、誰にも漏らしたりしないから」
「何がだいじょうぶなのかさっぱりわからない」

 漏らす漏らさない以前の問題のような気がする。例えばこいしにそうだと思われることそのものとか。勢いづいたこいしに何をされるかわかったものではない。

「私はありのままのフランを受け入れるよ?」
「なら、虚構の私を生み出さないでほしいなぁ」

 私に対して実害がありそうなものは特に。

「虚実の区別をしっかりするなんてできるわけがないじゃん。だから、私の信じたフランが真実」
「でも、現実に即しているからこそ真実に重みが出てくるんじゃない? だから、いい加減な真実はすぐに破棄すべき」

 お互いに作ったような態度で大げさなことを言う。扱っている問題に対して不釣り合いに大仰なその言葉たちは、どこか滑稽に響く。
 そのおかしさに耐えられず、少し間を置いた後、笑い声が漏れてきてしまう。こいしも同じようで、部屋の中に二人分の声が響く。上滑りなだけの言葉とは比べものにならないくらい耳に心地よい音だ。
 なんというか、こんな下らないことで笑っていると平和だなぁと思う。こいしと確執があったというのも、その思いに拍車をかける。
 こいしが赤い糸を結んだ理由もどうでもよくなってくる。ただ、こうした時間がこれからも続けばいい。そう思うばかりだ。

 ……あ、もしかすると、こいしはそういった理由から赤い糸を持ち出してきたのかもしれない。
 私との繋がりを求めているのではなく、これからも続く関係を願っての験担ぎ。実際の効果は望めないだろうけど、そうした願いを見える形にするというのは精神的に大切なことかもしれない。
 それを赤い糸でやったのは、他にちょうどいい験担ぎの方法がなかったからだろうか。探せばありそうな気はするけど。

「ねえ、フラン、そういうのって失礼だと思う」

 いつの間にか、不機嫌そうな表情を浮かべたこいしが私の顔を覗き込んできていた。考え事に没頭してしまっていたようだ。出会ったばかりの頃は相手にすると不機嫌そうにされたけど、今では逆に相手にしないと不機嫌になってしまう。

「あ、ごめんなさい」

 一緒にいるのに考え事ばかりしてるのはこいしの言うとおり失礼だろう。だから、素直に謝る。その考え事の種が目の前にいるという状況には少々理不尽なものを感じるけど、そういうものだと思っておくことにする。

「フランはそんなにこの糸のことが気になるんだ? ……あ」

 こいしはほんの少し嬉しさの混じった表情を浮かべていたけど、手を上げて、そこに何も付随していないことに気づいて表情に影がさす。視線を下ろしてみると、私の指から伸びた糸が誰にも繋がることなく途切れているのが目に入った。しっかりと結べていなかったせいで、解けてしまったようだ。
 何か、暗示めいているようだった。他人との繋がりは一人の意思で作ることはできないのだ、繋がる相手は選べてもそれに応えてくれるとは限らないのだ、と。

「こいし、結び直すから、手、貸して」

 だから、糸の一端を摘み上げてそう言う。
 私は選ばれた側だ。あの時の問題が解決した時点で、こいしと関わることはなくなると思っていた。でも、そんな予想に反してこいしは私と友達になりたいと言って、私はそれに頷いた。そして、今もなお私たちの関係は続いている。
 だから、ある意味これはあのときの再現なのだろう。こいしが糸に込めた意味はわからないけど、大筋は私が考えている通りだと思う。

「……私が自分でやる」
「だめ。そんなことしたら、また解けるよ?」

 糸の端を渡せという意味でこちらに手のひらを差し出してきたんだろうけど、それを無視して手首を掴む。でも、抵抗するように手を動かされる。
 無理やり結ぶことはできるだろうけど、傷つけてしまう可能性があるから実行するのは怖い。

「ねえ、こいし。私はこいしに選ばれた側だけど、別に成り行きで一緒にいるわけじゃないよ。初めての友達だから大切にしたい……、っていうのは、成り行きっぽいか。でも、それだけじゃなくて、こいしといて楽しいと思ってて、こうして一緒にいたいとも思ってる」
「……何言ってるの? いきなり」
「二人だけでその間を糸で繋ぐなら、一人だけじゃなくてお互いの意思が必要だってこと」

 私の口から出た言葉には、自然と笑みが付随していた。

「……」

 こいしは何も言うことなく、私の顔を見たまま固まっている。まばたきは一応しているけど、それもどこか緩慢な様子がある。
 しばらく待ってみるけど、反応はない。

「……こいし?」

 呼びかけてみると、驚いたように身体を震わせた。

「ひ、卑怯者っ!」

 そして、少し赤くなった顔でこちらを睨みながらそんなことを言われる。その態度から落ち着きを見つけることはできず、狼狽しているようだった。
 とんでもないことは、……まあ、言ってない。でも、自分の発言を思い出してみると、だいぶ恥ずかしいことを言ってしまった気はする。こいしを相手にしているときは一度タイミングを逃すと、なかなか次のタイミングが訪れないから、自分の言動をあまり冷静に見ていられない。
 でもまあ、嘘は言っていないから、あまり気にしないことにする。気にしすぎたらこいしと同じ状態になってしまいそうだし。

「こいし、そういうわけだから、糸を結び直させて貰ってもいい?」
「……卑怯者」

 こいしよりも早く体勢を立て直した私に対して、非難めいた声色で再びそう言う。でも、暴れるような素振りは見せないから、小指を掴んで赤色の糸を結び始めることにする。こいしの相手をするときは、こうして肯定の有無に関係なく動くことが多い。

「さっきも言ってたけど、何が卑怯なの?」

 糸の一端を小指に巻き付けながら、そう聞いてみる。こいしはひねくれた部分があるから、私の包み隠さない真っ直ぐな言葉に狼狽してるんだろうと言うのはわかる。でも、それがなぜ卑怯に繋がるのかがわからない。

「そういうところ」
「どういうところ?」

 抽象的でさっぱりわからない。だから、首を傾げつつ聞き返してみたけど答えてくれる様子はない。
 仕方がないから、赤い糸を結ぶ力加減を探りながら返答を待つことにする。
 普段、リボンを自分で結んでいるけど、指に対してはどの程度の力で結べばいいのかわからない。解けたら不吉だ、とまでは思わないけど、なんとなくいやだ。
 そんなふうにして悩みながら、なんとか結び終える。こいしからの返答はまだない。答えたくないということだろうか。まあいいけど。

「きつくない?」
「痛い痛い、すごく痛い。指が千切れそう」
「うん、ちょうどいいみたいでよかった」

 無表情に平坦な口調で言われても全く信憑性がない。わかっててやってるんだろう。
 たぶん、その裏には何かの感情を隠してるんだと思う。それがなんなのかはわからない。でも、少しくらいなら想像することができる。

「こいしがこうしようと思った理由はわかんないけど、私はこいしを見捨てたりなんてしないから」
「突然、何言ってるの?」
「いや、前にこいしが私たちを試すようなことをしてきたから、同じような不安を持つようになったのかなぁと」

 以前、さとりと私から隠れて探させるようなことがあった。あの時は、興味を失われてしまうかもしれないということを怖がっていた。だから、また同じようなことを不安に思って、縁の繋がりを示す伝説にあやかったのかもしれない。

「フランは人の心の中を勝手に想像するのが好きだよね。私の第三の目、あげようか?」

 片手で閉じた藍色の目を掴みながらそんなことを言ってくる。さとり妖怪にとっては自己同一性を保つために不可欠なものだろうに、その扱いは杜撰だ。こいしの立場からすれば仕方ないのかもしれないけど。

「こいしが素直になってくれたら、その必要もなくなるんだけどね」

 それよりも、どうやら私の予測は外れだったようだ。毎度毎度のことだけど、こいしが考えていることは掴みづらい。その一端でも掴むことができれば割と考えやすくはなるんだけど。

「なら、存分に頭を悩ませればいいよ。フランにはそれがお似合いだから」
「こいしが素直になってくれるっていうのは?」
「嫌。フランの困ってる姿が見れなくなる」
「相変わらず面倒くさいなぁ、こいしは」

 それでも、いやだと思ったりしないのは、こいしが臆病なことを知っているからかもしれない。
 まあ、ゆっくりと考えればいいかなぁと、暢気に考える私だった。





「フラン、最近小指に糸を結んでるみたいだけど、それはどういった意味があるのかしら?」

 何日かに一度のお姉様と二人きりのお茶会の席で、対面の席に座るお姉様にそんなことを聞かれる。お姉様の表情は、なんだか鋭いものとなっている。だから私は少し身構えてしまう。
 私は紅茶の入ったカップを持ち上げようとしていた手を止めて、お姉様に見えやすい高さまで持ち上げる。

「運命の赤い糸、みたいなもの?」

 あれからいくらか日が経ったけど、未だにこいしの口から答えは得られなくて、その正体は曖昧なままだ。その伝説を元にしたっていうのは間違いなさそうなんだけど。
 ちなみに、こいしの小指にも同じように一本の糸が結ばれている。元は私の指にあるものと同じものだったけど、ちょっとした細工を施してナイフで切り離した。使いどころがなさそうだとも思いつつ、時間があるからという理由だけで覚えていた魔法が役に立った。

「曖昧な答えねぇ」
「だって、こいしが教えてくれないから」
「でも、律儀に付けたままにしてるのね」
「……うん。外されるのを怖がってたみたいだから」

 あの日の別れ際、外すと口にしたのはこいしの方からだった。でも、自分からは動こうとせず、かと言って私が外すのを待っていたという様子でもなかった。
 だから、私は糸に本当に些細な魔法をかけた。それだけでもこいしは、ほんの少しだけど安心しているようだった。

「それよりお姉様。……ちょっと怖い顔してたけど、どうしたの?」

 気が引けながらもそう聞く。私自身に向けたものではないだろうけど、それでも直接聞くのは少し怖い。

「ん? そんな顔してたかしら? その糸からなんとなく気になる雰囲気を感じたから、そのせいかしらね」

 お姉様が真っ直ぐに下へと垂れる赤い糸に視線を向ける。言われてみれば、射抜くと言うよりも見抜こうとする感じの視線だ。
 ただ、それよりも気になるのはお姉様の言っていることだ。

「……どういうこと?」
「さあねえ。何か面倒事が起こりそうだって事くらいしか言えないわね。貴女の立ち回り次第という事かしら?」

 予言めいたことを言われる。運命を視ることができるらしいお姉様の言葉だから、そう簡単に無視することはできない。具体的なことを言われてはいないけど、確かに何かが起こるのだろう。

「……やっぱりこいしのこと?」
「さあ? でも、状況的にはそういう事だと思うわよ。ま、なんにせよこういう事は戯れ言だと思って聞き流すくらいがちょうどいいわよ。意識しすぎたせいで、対応を間違えるなんて笑い話にもならないし」

 とはいえ、全てを知ることができるほど万能な力というわけでもないらしく、答える言葉もどこか投げやりだ。お姉様曰く、だからこそ毎日を楽しめるらしい。
 でも、当事者である私としては、もっと具体的な言葉が欲しい。まあ、無い物ねだりをしても仕方がないから、事前にそういうことがわかったというだけでもよしとしようか。
 事が生じる前に、この糸の意味を見抜く必要がありそうだ。こいしが素直に教えてくれたら、それで万事解決するはずなんだけど。いや、場合によっては新たな問題に派生してしまいそうな気もする。

「ねえ、お姉様はこの糸にどういう意味が込められてると思う?」

 何か参考にならないだろうかとそう聞いてみる。一人で考えていても、堂々巡りをするばかりで一向に前へと進む気配を感じられない。

「穿った見方をしなければ、恋人になりたいとかそう言った意味じゃないかしら? 確か運命の赤い糸ってそういう意味合いを持ってたわよね?」
「確かに意味はそんな感じだけど、それは、ないんじゃない、かなぁ……」

 目をそらしていたのに、お姉様は躊躇なくその言葉を口にする。お姉様には直接関係ないからこそなのかもしれないけど。

「ない、と言える根拠はあるのかしらね?」

 お姉様が私に意味ありげな視線を向ける。私は気まずさと気恥ずかしさから視線をそらしてしまう。
 まあ、確かに私はそれに近い感情をお姉様に対して抱いている。一度そうした感情を抱いてしまえば性別などどうでもいいと思うようになってくるのだ。まあ、今では長年他に感情を向ける相手がいなかったからだろうと、あまり気にしないようにはしているけど。
 今までそれを直接口にしたり、態度に出したつもりもなかったはずなのに、お姉様には漏れ伝わってしまっているようだ。

「まあ、そうだと言いきれる根拠もないけどね。ただ、ああいう境遇にいたなら、普通よりも強い感情を抱くという事は十分にあり得ると思うわよ」

 こいしはずっと心を閉ざし、感情を隠していた。だから、私に心を許したことで今まで表に出ることのなかった感情が過剰に溢れてきた?
 私の抱く感情を元にして考えてみることで、そうした仮説が浮かび上がってくる。そして、お姉様の口から出てきた恋人になりたいという言葉が、やけに現実味を帯びてくる。

 もしそうだとしても、私はその感情に応えることはできない。恋慕やそういったものを抜きにしても私の一番はお姉様で、そこにそれ以外の誰かが入ってくることはありえない。

「……もしそうだとして、断ってもだいじょうぶかな」

 私はそれで関係を絶ってしまうつもりはないけど、こいしの方はどうだかわからない。この仮定では、こいしは私に対して強い感情を抱いているのだ。だとしたら、私とは比べものにならないくらいの辛さを感じるんじゃないだろうかと思う。

「さてね。でもだからといって、自分の感情を偽ったって仕方ないんじゃないかしら?」
「それはそうかもしれないけど……」
「自分がどうしたいのかっていうのを貫いておけばいいのよ。その上で、そこから逸脱しない程度に相手の意向を汲み取っていけばいい。それで対立するようなら、最初から相容れない関係だったという事よ」

 お姉様の考え方はわかりやすい。でも、わかりやすいからこそお姉様の強さが顕著に現れている。
 私はそんなに自分を強く持てない。自分の中での優先順位は決まっていても、そのことで影響を受ける人がいると思うと、どうしてもそちらにも意識を向けてしまう。
 要するに、怖いのだ。誰かを傷つけてしまうかもしれないということが。

「まあ、どうしても貫く事に気が引けるっていうなら、どうしたいのかという事だけでもしっかりと決めておきなさい。そうしておけば、何が起きても案外なんとかなるから」
「……そういうものなの?」
「そういうものなのよ。何も決めていないよりは、ずっとましな結果にはなるはずよ」
「そういうものなんだ」

 なんだかよくわからないけど、やけに自信のあるお姉様の言葉に押されて納得する。それに、お姉様はそうやって目の前の未来を切り開き、私をここまで引っ張ってきたのだからある程度の信憑性はあるだろう。お姉様だからという補正がかかるから、全面的に私にも当てはまるとまでは思わないけど。でも、何も持っていないよりは少しは自信になる。

 私がどうしたいのか、というのはすでに決まっている。私はこいしと友達でいたい。
 理由は以前こいしにも言ったとおり、初めての友達だからだとか、一緒にいて楽しいからだとかそんな理由だ。
 他の誰かから見れば些細な理由かもしれない。でも、狭い狭い私の世界では十分大した理由だと思う。そもそも、他人に興味を抱くことさえそんなになかった。だというのに、気づけばこうして真剣に頭を悩ませている。それだけ、私にとって大きな存在感があるということだ。
 お姉様さえいればだいじょうぶだと思うけど、それでも仮にこいしがいなくなったりすれば私の世界には大穴が空いてしまうことだろう。
 そのとき私がどう思うのかはわからない。でも、少なくとも今の私はそんな事態は訪れないでほしいと思っている。

「……それで、私はどうすればいいのかな?」

 どうしたいのかが決まっているところで、どうするべきなのかというのも一緒に決まるわけではない。むしろ、ここが一番難しい。どうしたいのかなんて、現実を無視した夢のようなことでもいいのだから。

「向こうから何かしてくるまで待ってるしかないんじゃないかしら? こっちから藪をつつく必要もないでしょうし」
「自然な態度を取れる気がしない……」
「なら、自分から藪をつついてみればいいと思うわ。蛇なんていなくて単なる杞憂だって可能性もあるんだし」
「……もし蛇がいたら?」
「頑張りなさい。悪いようにならないよう、気休め程度の応援はしておくわ」

 自分からこの事態を動かしていく場合の明確な助言はなかった。どうやら傍観しておく方がよさそうだ。お姉様が何かを感じている時点で、良かれ悪かれ何かがあるのは確実だろうし。
 でも、こちらから何かしなくても、出てくる可能性というのはあるのだ。私がお姉様に抱くのと同じような気持ちを抱いているというなら、それまでに落ち着いて欲しいと願うばかりだ。
 でも、もしそれが本物だとすればそう簡単に落ち着くことはないわけで……。

「苦悩の様が見て取れるわね」
「……関係ないからって、暢気な態度を取ってるお姉様がすごく恨めしい」
「せっかく色々と助言してあげたのに、酷い言い草ね」

 確かにそうかもしれないけど、不満やらなんやらの方が先に出てくる。こういう中途半端なところで手放さずに、最後まで付き合って欲しいというわがままから来るものだ。まあ、他人本位で自分勝手な怒りだという自覚はある。だから、あまり強くは出ないし出られない。

 私が何も言わないでいると、お姉様は今まで全く手を付けていなかったカップに口を付ける。お姉様としては、これでこの話は終わりということだろうか。
 私も少し考えてみて、カップに口を付ける。私としてはまだ続けたい気持ちはあったけど、お姉様が乗り気でないなら続ける意味もない。

 口の中へと流れ込んできた紅茶は、それなりに時間が経ったはずなのにまだ暖かかった。会話を聞いていた咲夜が時間を止めていたのかもしれない。
 館の空間を引き延ばしている咲夜は、同時にその中での出来事を把握している。だからこそ、呼びかけるとすぐに出てきてくれる。

 確か、こいしもそのことは知っているはずだ。だとしたら、この館の中ではこいしは素直にならないかもしれない。それなりに慣れているはずの私にでさえ、自分の心を見せることを嫌っている様子があるから。

 藪をつついてみるなら、地霊殿に向かう必要がありそうだ。





 あれから数日後、私は地霊殿へと向かっていた。

 藪をつつく覚悟ができただとかそういうわけではなく、こいしに来てほしいと言われたのだ。正確には、こいしばかりが私のところへと訪れている現状に対して、こいしが理不尽な怒りを見せたという感じだったけど。
 ただ、お姉様とああいう話をして、更にあんな推論を立ててしまった後だから、どうしても身構えてしまう。
 断る理由もないし、逃げるわけにもいかない。だから、久々にさとりに会いに行くという、私専用の目的を用意して少しでも気を紛らわせようとしている。
 ああ、さとりにはなんと言われるだろうか。久々にさとりに会いたいという気持ち自体に偽りはないけど、こういう理由は少々気が咎める。それに、こいしとのこともあって顔を合わせづらい。
 移動の途中にそんなことに気づいて、気が滅入ってしまっている。こうなってしまえば、何事もなく終わればいいと祈るばかりだ。もしくは、何も考えず目的地を目指すか。

 地霊殿に向かうのは、かなり久し振りだ。でも、迷ってしまうかもしれないという心配はなかった。地霊殿は地底の中でも外れの方にあるし、遠くから見ても目立つ建物だ。だから、真っ直ぐに飛んで行けば簡単に辿り着く。
 今は姿を消して、騒がしい一角の上を飛んでいる。初めて会ったときにこいしの言っていた、余所者に対する風当たりが強いという言葉が忘れられないのもあるし、下から伝わってくる雰囲気は私に馴染みのないもので、こいしの言葉がなくともなんとなく関わりたくない。

 そんなふうにして、地底の雰囲気に少々怯えつつも地霊殿の前にたどり着く。地底の建物は和風のものばかりだけど、ここだけは洋風の建物となっている。
 異質ではあるけど、私からしてみればこちらの方が落ち着く。それに、この辺りはとても静かで、私以外に動くものはない。長い間、音も動きもほとんどない場所にいた私にとっては、居心地のいい雰囲気だった。
 しばしの間、雑然とした雰囲気を洗い流す。このままここで時間を潰していたいけど、そういうわけにもいかないだろう。ここで逃げるくらいなら、今もまだ指に赤い糸を巻いたままということもなかっただろうし。
 実のところ、この赤い糸がなければこうして呼び出されるということもなかったのではないだろうかと思っている。でも、解いてしまった瞬間にこいしとの関係が途絶えてしまいそうな気がして、そんなことはできなかった。私が小さな細工を仕掛けて、喜ぶ様子も見ていることだし。

 一つ息を吸って最後の覚悟を決める。私専用の建前を用意はしていたけど、ここまで来てしまえばなんの気休めにもなっていない。私自身の意志でもってなんとかするしかないようだ。

 地面に張り付きそうになっていた足を踏み出して、ドアノッカーで扉を叩く。硬質な物同士がぶつかり合う音が響いて、私は戻れなくなる。そして、向こう側から何かが走るような音が聞こえてきた。
 そういえば、ここは扉の傍にペットが一匹は常駐していて、来訪者があることを伝えに行くんだった。

 それから程なくして、扉が開けられる。

「こんにちは、フランドールさん。お久しぶりですね」
「えっと、うん。こんにちは、さとり。久しぶり」

 扉を開けてくれたのは、地霊殿の主であり、こいしの姉であるさとりだ。私の予想に反して、さとりの纏う雰囲気は穏やかなものだった。私の心、読んでるはずだよね?

「扉越しにフランドールさんの心を読んだときは驚きましたが、お相手がフランドールさんならそれでもいいかなぁと。ああ、いえ、もしそうだとして、どうしてもそうして欲しいというわけではないですよ? フランドールさんの心の中が、既に別の誰かで一杯になっているのは分かっていますから」

 さとりを前にすれば、このように一切の隠し事ができない。とはいえ、私には暴かれて困るようなものもないから、さほど気にならない。こちらから喋る手間が省けて、楽だと思うくらいだ。
 こいしのいる場所に付いてきてもらって、万が一の時に代わりに喋ってくれたら楽だろうとは思う。でも、それはこいしに対して不誠実だからすべきではないだろう。向こうが本気だというなら私も正面から向き合うしかない。

「いいですね。対等の立場に立って、こいしのことを考えてくださる方がいるというのは。私は姉という立場上、どうしても上からの目線になってしまいがちですし、ペットたちは少し遠慮をしてしまっているようですし。
 あの子が恋に落ちてしまうというのも分かる気がします。自ら手を伸ばすことを諦めていた私たちにとって、手を差し出してくれる存在は本当に眩しいばかりですから」

 光に照らされるばかりだった私には、とても似つかわしくない言葉だった。私は時折光に照らされる場所を自分の居場所とし続けている。だから、私が誰かを照らすなんてことがあるとは思ってもいなかった。

「だからこそ、ではないでしょうかね? 意識ではなく無意識にそのやり方が刻み込まれているのかもしれません。私もフランドールさんと同じ感情を抱いてはいますが、なかなか行動には踏み切れませんでしたし」
「……私はどういう感情を持ってこいしに接しているの?」

 こいしと友達で居続けたいだからだとか、こいしを見捨てられないからだとか、そういう理由でこいしと関わり続けたいと思っている。でも、さとりの言葉を聞いて思ったけど、私はそこにどんな感情を抱いているんだろうか。自分の心を探ってみるけど、その姿を掴むことはできない。

「難しく考える必要はないですよ。本当に単純な理由ですから」
「……教えてはくれないの?」
「こういったことは、私が教えてしまうよりも、自分で考えて答えを見つけた方がいいと思いますよ」

 なんだか最近、自分で考えろと言われることが多い。
 でも、考えてみれば今までは客観的なことばかりを聞いていたけど、今私が知りたいのは主観的なことばかりだ。言葉だけではどうしようもないということなのかもしれない。
 これが自分で歩くということなんだろうか。部屋の中だけが世界だった頃は、そんな大それたことはできないと思っていたけど、案外実感は薄い。それとも、まだ自分では歩いていないということなんだろうか。

「初めて会った頃に比べて、意思は強くなっているようですよ」

 私の疑問にそう答えてくれる。ただ、そう言われてもやっぱり実感はない。

「ふとした時に気づくこともありますよ。自分の心の変化も気づきにくいものですから」

 心を読むことのできるさとりがそう言うとやけに重みがある。

「さて、こいしも待っていることでしょうし、中に入ってください」
「うん、そうだね」

 こいしに会うまでの時間を引き延ばそうという考えがあったわけではないけど、ついつい話し込んでしまっていた。なんとなくさとりとは話しやすい。まあ、私は心の中で考えていることを答えてもらってばかりいるから、それほど口を動かしているわけではないけど。ああ、だからこそ話しやすいのかもしれない。

 そんなことを考えながら、さとりの後に付いていくのだった。




「こいし、フランドールさんが来たわよ」

 さとりが扉を叩く。その扉には、『こいし』と書かれた青いハートのネームプレートがかけられている。

「やあやあフラン、いらっしゃい」

 それほど間を置くことなく、扉を開いてこいしが現れる。部屋の中を覗いてみるけど、特段何かをしていたという様子ではなさそうだ。こいしの部屋は、物が極端に少ない。

「こんにちは、こいし。約束通り来たよ」
「約束しないと会いに来てくれないなんて、ほんと、フランは薄情だよね」
「いやだって、外に出る習慣がないし、私の方から会いに行ったらこいしは留守にしてそうだし」
「言い訳は中で聞く。さ、入って入って」

 こいしが小指に赤い糸の結ばれた手で、私の手を握って引っ張る。握られた手の小指にも、赤い糸が結ばれている。
 今、私たちの手の中では、糸の端同士が引かれ合ってその断面でくっつき合っているはずだ。これが私の仕掛けた些細な細工。
 わざわざ解く必要はないし、こうして近づけばすぐに一本の糸となる。本当は切れもせず、ずっと繋がり続けているようなものの方がいいのかもしれない。でも、それは少し重すぎるのではないだろうかと思う。絶対に離れたくないという相手ならともかく。
 そんなことを思いつつ、そんな細工を施したんだけど、今思うと失敗だったかもしれない。あの別れ際、仕方ないからと余計なことをせずに解いてしまっているべきだったのかもしれない。お姉様に面倒事が起こりそうだとまで言われてしまっているし。

「では、フランドールさん、こいしのことよろしく頼みますね」
「いやえっと、頼まれても困るんだけど」

 普段から振り回され気味なのに、今日は特にどうするべきなのかわからない。それに、どこでも咲夜に声を聞き取られる館と違って、ここにはそういうものはないだろうから、こいしは一歩踏み込んできそうだ。
 とはいえ、やっぱり頼りすぎない方がいいだろうと思い、その遠ざかっていく背中を呼び止めることはできなかった。
 こいしが何のために私を呼んだのかはわからない。でも、どんな理由であろうと、一対一で相対するのが道理だろう。
 こいしに部屋の中へと半ば引きずり込まれるようにしながら、そう考えるのだった。




 赤い糸が一本になるような位置取りで、ベッドにこいしと並んで腰掛ける。こいしの部屋には椅子が一脚しかないから、二人で座れるのはここくらいしかない。まあ、私みたいにしょっちゅう部屋に誰かが訪れるとかがない限り、自分以外も座れる席の用意はしないか。
 さてそんなことよりも、こうして座ってからしばらく経つけど、お互いに何も喋っていない。藪の中へと入らされはしたけど、つつくだけの覚悟はできていない。だから、何かが出てくるのをこうして待っているわけだけど、一向に出てくる気配がない。
 私から話しかけるべきなんだろうか。でも、どんな言葉も余計なものを呼び出してしまいそうで、それに対する覚悟ができていない。もしものとき、それを受け止めることはできないし、うまくその場をまとめることもできそうにないから。いや、待ってても結局出てくるものは同じなんだろうけど。
 私がこいしのことを好きで好きでたまらなくて、同じように思ってくれていたらいい、くらいに思えていたら、悩むこともなかったのかなぁと思う。生涯お姉様一筋でいるだろうから、そんな私は想像すらできないんだけど。

「ねえ、フラン」

 ただ呼びかけられただけなのに、過剰反応して身体が震える。こいしの方を見てみると、不思議そうに首を傾げていた。

「……なんだか様子がおかしいけど、どうかした?」
「そ、そう?」

 思わず誤魔化してしまった。しかも、明らかに何かあるような返しになってしまっていて、上手く誤魔化せたと思うこともできない。
 こういうとき、何があってもほとんど動じないお姉様が羨ましい。

「うん。落ち着きがないし、私の方をあんまり見てくれない」
「……あんまり見てないのはこうして並んで座ってるからで、落ち着きがないのは、こっちに来るのは久しぶりだからじゃないかな」

 なんとか差し障りのない返答をする。まあ、半分は嘘だけどそれほど不自然ではないはずだ。
 それよりも、こいしの様子もいつもと違う気がする。普段なら自分のことを見てほしいということは言わないはずだ。言うとしても、不機嫌そうな口調で、今のようなどこかしおらしい言い方ではないだろう。
 これは、そういう可能性が大いに高まってきている気がする。

 答えは用意してある。でも、問題はその後なのだ。私はできる限り自分の世界を壊したくない。でも、そのためにどうすればいいかはわからない。

「ふぅん。ならさ――」

 こいしが立ち上がり、私の前に立つ。確かにこうすれば、お互いに前さえ向いていればお互いにその顔を見ることはできるだろう。でも、これだとこいしは疲れるんじゃないだろうかと思考の片隅で考えていると、

「え……?」

 こいしが私の肩を押さえて倒れ込んできた。ベッドの上に押し倒されて、こいしが私の上に覆い被さるようになる。

 何が起きたのか理解するまでに少し時間がかかってしまう。それくらい、予想外の行動だった。
 ああでも、無理やり自らの手中に収めようというなら、それほど逸脱した行動でもない。ただ、私が楽観視しすぎていたというだけだ。
 溢れそうになっていた感情が今ここになって暴走を始めた。そういった感じだろうか。
 藪から出てきたのは一匹の大蛇だった。私は今、それに巻き付かれているのだろう。

「――これで、フランの顔がよく見えるよね?」

 瞳に映り込んでくるのは、こいしの本当に嬉しそうな表情。昔の私がまさに同じような表情を浮かべていた。世界がもっと狭かった頃、魔法で鏡に自身の姿を映し、お姉様の訪れを待ち望みながら身だしなみを整えているときに。
 だから、どういった感情を抱いているのかありありとわかってしまう。どれだけ私のことを渇望しているのか理解できてしまう。いや、私よりも広い世界を知っているこいしだから、私が抱いていたものよりもずっと強いかもしれない。

「ここなら私たち以外には誰もいない。邪魔されることもない」

 こいしが私の肩から手をどけて、私の手を握る。指を一本一本絡ませて簡単に解けることがないようにされている。私はされるがままとなるだけで、握り返しはしない。それは、私も同じくらいに強い感情をしている場合にのみそうすべきだろう。
 そう思いながら次にこいしがどう出てくるのか窺うように表情を見ていると、そこに怪訝の色が浮かんできた。

「もしかして、フランは私の感情に気付いてる?」
「確証はないけど、たぶん」
「へぇ、気付かないと思ってた。残念、気付かれる前に絶対に逃げられないようにフランの心を縛り付けようと思ってたのに」

 かなり不吉なことを言われる。お姉様との会話がなければ、すでにこいしに取り込まれていたかもしれない。
 こいしの力がどの程度まで及ぶのかはわからないけど、無意識を操るというのは、心を読まれること以上に脅威だ。最悪、こちらの意思まで侵されてしまうこともありうるのだから。
 少なくとも、今のように無防備に心を晒していなければだいじょうぶそうではある。
 それに、力を使ってどうこうすることができないのだとしても、こうして身構えていたおかげである程度は平静を保って相対できているとも言えなくもない。なんの用意もなくこうして言い寄られていたら、取り乱して何もできなくなっていただろう。

「でも、逃げようとしないってことは多少の望みがあると思ってもいいの?」
「逃げないのは、私がここで逃げ出したらこいしが私に会うことを怖がるんじゃないだろうかって思ったから。……私は、こいしと友達で居続けたい」

 嬉しそうな表情を浮かべるこいしに対してそう言うのは心苦しかった。でも、そう言うしかない。応えられもしないことに対して、少しでも希望を抱かせることこそできない。

「ふぅん? 私が隣でフランを鎖に繋いで絶対に逃げられないようにしたいって思ってても?」
「それは、こいしが臆病だからそう思ってるだけ。私は、こいしのことを見捨てない」
「私の気持ちを素直に受け取ってくれるんなら、その言葉も真実味があるんだけどなぁ。都合のいいときだけそんな綺麗事を言っても安っぽくなるだけ」

 そう言いながら顔を近づけてくる。翡翠色の瞳が近づいてくることに私は軽い警戒心を抱く。

「怖がってる? それとも、嫌がってる? まあ、どっちでもいいけど」
「たぶん、嫌がってるの方、かな」

 大人しくしているだけでは押し切られてしまいそうだから、牽制するように棘を出す。ただ、間違っても突き刺してしまわないようにと思うと、どうしても一歩下がったような言い方となってしまう。

「へぇ、なら嫌がらなくなるように躾てあげる。その細い首に首輪を付けて、私なしでは生きられないようにしてあげる。いいよね?」
「……そんな関係でこいしは満足できるの?」

 寄りかかってこの身を全て預けてしまいたいと思う私とは全く逆の考え方だ。だから、どこかで無理をしているんじゃないだろうかと思ってしまう。

「お嬢様なフランには理解できないだろうねぇ。感情を押しつけて、元の形を残しながら、自分好みに作り替えてくことの良さが」

 こいしが身体を乗せてくる。そして、そっと私の頬をなぞる。背筋に何かぞっとしたものを感じた。

「私は多くを望まないからだいじょうぶ。今までみたいに生意気を言ってくれてもいいし、文句を言ってもいいし、私に反発してもいい。ただ私といつまでも一緒にいてほしい。もう二度と赤い糸が途切れないようにしてほしい。私をフランにとって一番大切なものにしてほしい」

 寛容そうな言い方をしているけど、その実とてもわがままなことを言っている。こいしの望みは、お願いされただけで実行できるようなものではない。

「……ごめんなさい。私はこいしを一番だとは思えない」
「知ってる。私にとってフランがそうであるように、フランにとってはフランのお姉ちゃんがそうなんでしょ? だから、私はフランの心を塗り替える。一番が私になるようにする。フランは何もしなくていい。ただ、私の言葉に身を委ねて、何も考えず全てを受け入れてくれればいい」
「……できない」

 お姉様を一番から弾き出すなんてことは絶対にできない。全力で全霊を動員してでも、そこに繋ぎ止めておく。私にとっては世界の中心であると同時に、世界を支える柱なのだ。それ以上の存在があるとは、どうしても考えられない。

「フランができなくても、私がそうする。言ったでしょ? フランの意思は関係ない。私が欲しいから無理やりそのあり方を押しつけて、手に入れる。その過程で反抗心を完全に削いじゃうかもしれないけど、まあ、仕方ないよね。従順なフランもそれはそれで可愛いだろうし」

 こいしの瞳に危険な色が点るのがわかった。これ以上、ここにこうしているのはまずいと本能が告げる。
 でも、逃げ出そうとしても身体がその方法を忘れてしまったように言うことを聞かない。身体を霧化させる、魔法で自由を奪う、最悪無理やり押しのける。そうすれば、簡単に逃げることができるはずだ。
 いくつもの選択肢があるのに、どうしてもどれも選ぶことができない。こいしの手から私の気力が吸い取られていってしまっているかのように、こいしの瞳に捕らわれてしまっているかのように。このまま大人しくしているのはだめだと理解しているにも関わらず。

「怖がらなくてもだいじょうぶ。少しずつ何もわからなくなってくるから」

 こいしの声が優しく響いてくる。こいしの空いている方の手が私の頬を撫でる。私はそれを心地よいと感じている一方で、恐怖をも感じている。
 このまま身を寄せてしまっていいと言う私。それはだめだと叫ぶ私。前者の声は段々と大きくなっていき、後者の声は次第に消えていっている。
 それでも私は、後者の自分の声に耳を傾ける。そう、どうすべきなのかはわかっているのだ。でも、身体が言うことを聞いてはくれない。たぶん、こいしを見捨てられないという隙がこいしの力によって増幅させられているのかもしれない。
 本当に厄介な力だ。無意識を操るだなんて対抗のしようがない。それでも、なんとかなると思っていたのはこいしのことを信じて楽観的になっていたからだと思う。
 お互い納得できる点で落ち着くか、物別れになるかのどちらかになるはずだと思っていた。こうして力づくで出てくるとは一切考えていなかった。

 どうされてしまうんだろうか。私の中でこいしが一番にさせられるだけですむのか、それともお姉様のことそのものをも忘れさせられてしまうのか。
 どちらにせよいやだ。お姉様が私の世界の中心でなくなってしまうことも、私の世界からお姉様が消えてしまうこともどちらも耐えられない。絶対に、何があっても、そんな未来は訪れて欲しくない。

 だけど、私はもう逃げられない。心が複雑に絡んだ鎖に絡め取られて捕らわれている。それを自覚してもなお振り解けないほど強固に巻き付いている。
 こいしから顔を逸らすことができない。翡翠色の瞳に魅入られて、全てを捧げてしまってもいいと思い始めている。
 それでも、せめてもの抵抗としてお姉様の姿を思い浮かべてみる。でも、脳裏に浮かぶ姿はどこか霞んでいて、はっきりとは映らない。その事実に泣きそうになる。

「……あ」

 不意にこいしが頓狂な声を漏らす。さっきまで絶対にこいしから顔を逸らすことができないと思っていたのに、なぜだか視界に映るこいしに焦点があっておらず、ぼやけて見える。
 だから、こいしがどんな表情を浮かべているのかはわからない。それを確かめようとするけど、こいしは慌てたように起き上がってしまう。こいしから一方的に握られていた手はするりと解けてしまう。
 こいしを呼び止めるだけの余裕はなかった。どこかぼんやりとした意識で、こいしが遠ざかっていく音を聞いていることしかできなかった。

 扉が閉じられて、私は一人部屋に残される。

 なんとなしに目の辺りに触れてみると、その辺りが濡れていることに気付いた。




「……フランドールさん?」

 私の中身が全てどこかに行ってしまったかのように一片の気力も湧かず、ベッドに横になったままぼんやりとしていたら、心配するような声音を携えたさとりが部屋に入ってきた。
 ……私は、どれくらいの間こうしていたんだろうか。

 そう思いながら、身体を起こす。ずっと横になっていたからか、それとも別の理由からか、身体に力が入りづらい。支えなしにこうしているのが少し辛いほどだ。

「……大丈夫ですか?」

 こちらに駆け寄ってきたさとりが、隣に座って私の身体を支えてくれる。私はそのまま甘えるようにさとりの方へと体重を預けた。

「どうだろ……。……わかんない」

 自分の状態がよくわからない。身体は問題なく元気なはずだ。だから、いまいち元気が出てこないのは精神的な問題。でも、それがどの程度のものなのかがわからない。

「……あまり、大丈夫そうではないですね。……すみません、フランドールさんが懸念を抱えているのに気付きながらも、安易に任せきるようなことをしてしまって」
「……ううん、謝らないで。……なんとかなるって思ってた私が悪いから」

 こいしに頼られていることを無自覚のうちに感じ取って、驕っていたのかもしれない。何もできやしないのに。

「それを言うなら、私も同罪です。それに、何もできないなんてことはないですよ。もしそうだとすれば、こいしがフランドールさんに惹かれることもなかったですし、私もフランドールさんにこいしのことを任せるようなことはなかったでしょうから」
「……そうかな?」
「そうです。フランドールさんは私たちを繋ぎ止めてくれたじゃないですか。それでも、何もできないと言いますか?」
「……でも、私がいなくても解決できてた可能性だってある」

 確かに私は二人が話をするきっかけを作り出した。今もまだ少し開きがあるみたいだけど、それによって二人の距離は修復された。
 でも、時間が流れてこいしが一人であれこれ考えるうちにこいしがさとりに向き合えるようになることもあったんじゃないかと思う。私が何も言わなくても、さとりはこいしの不安に気付いていたんじゃないかと思う。
 そう、私は二人の関係を繋ぐのに必須ではない存在だ。そう考えると、私が関わったことそのものが間違いだったのではないだろうかと思えてくる。結局私は誰にも関わることなく、閉じこもっているのがお似合いなのだろう。

「フランドールさん……、そのような悲しいことを考えないでください。私もフランドールさんに出会えてよかったと思っているんですから」

 さとりが私の身体を抱き寄せる。私はどうしていいのかわからず、されるがままとなっていることしかできない。
 ただ、私にそうされるだけの価値はないと思うだけだ。

「……確かに、フランドールさんの考えているとおり、時間が解決していてくれていたかもしれません。ですが、こいしのことは誰にも相談できなかったので、同じことを悩んでいるフランドールさんの存在はとても心強かったんですよ。だからこそ、私はこいしのことを任せてもいいと思っているんです」

 あの時の私は勢いで動いていただけだ。誰かを引っ張り回すことはできていただろうけど、支えるなんてことは絶対にできていなかったはずだ。

「誰もこいしに見向きもしていなかったんです。ペットたちも、こいしとの関わり方を計りかねて距離を取っていました。私もあの子とどう関わるべきか考えあぐねていました。ですが、フランドールさんは関わり方を計りかねながらも、確実に距離を詰めていっていました。その動機は、私たちそのものに向けられたものではありませんでしたが、本気でこいしの心を動かそうとしていたのはわかりました」

 あのときの私の動機は、姉妹である二人が仲良くしていてほしいというだけのものだった。こいしの態度がやけに引っかかったりだとか、さとりの人柄に惹かれたりだとかの細かい理由はあったけど、大まかな動機は単なる私のわがままだ。誰かに感銘を与えるほどのものだとはとても思えない。

「私たちを前にして、そのようなことを考える方自体が珍しいんですよ。私に対するのは心を読まれることを忌避して、こいしに対するのは何を考えているのか全くわからず関わるのをやめてしまいますから。そういう意味では、本当に特別な存在なんですよ。思わず、恋慕を抱いてしまうのもわかるほどに」

 今まで優しい声音だったから、内容は素直に受け取れないながらも安心して聞き入っていたけど、不意の言葉に身体が強ばる。こいしの優しくも絡みつくような声を思い出して動けなくなってしまう。聞き間違えるほどではないけど、姉妹だけあって二人の声質は似通っている。

「……私はこいしほど他人との繋がりは弱くないので、そこまで強い感情を抱くことはないですよ。なので、安心してください」

 抱きしめられたまま頭を撫でられる。少しだけ身体から力が抜ける。でも、同時に少々の警戒心を抱いて、言葉をそのまま受け入れてしまわないようにと身構える。

「……他人から好意を抱かれることを怖がるようになってしまっているようですね。仕方がないと言えば仕方のないことなんでしょうが」

 その通りだ。私は怖い。誰かに求められることがとても怖い。
 だから、もう誰にも好かれたくない。私の方からも誰かを求めることはしない。
 私は自分の世界にこもって、時々でもいいから、お姉様の姿を見られれば十分だ。誰かにこんな思いをさせるなら、もう誰にも手を伸ばしたくはない。いっそのこと、消えてしまうのもいいかもしれない。

「フランドールさん……」

 寂しげなさとりの声に私は何も反応できなかった。いや、しなかった。





 ベッドに横になってぼんやりと無為に時間を流す。地霊殿から帰ってきてからずっとこうしている。今までほとんど気にもかけたことのない時計の音に耳を傾けていたから、時間だけでなく音まで刻まれてしまいそうだった。
 先ほど時計に何気なく視線を向けてみたとき、夕食の時間はすぎてしまっていた。でも、私はそれを見なかったことにして、天井を見上げてばかりいる。
 空腹感がないというわけではない。身体を起こすことに気だるさを感じはするけど、少し動こうという気を出せば動けないこともないだろう。

 私はただ、お姉様に会いたくなかった。正確には、会うのが怖かった。

 私は誰かに求められるということが怖い。今までそんなことを考えたことはなかったけど、今は怖さを実感している。
 そして、お姉様にもそうした思いを抱かせてしまっていたんじゃないだろうかと気づいた。閉じた世界に居続けた私はお姉様を求めていた。お姉様が怖がるというのはあまり想像できないけど、その代わりにいやがっていたりしたのではないだろうかと思う。そんなことに気づかない私の傍にいることを辟易していたのかもしれない。そして、本当は私のことを嫌いなのかもしれない。そう思うと、恐怖ばかりが湧いてきてとてもお姉様に顔を合わせるなんてことはとてもできなかった。
 でも、本当はとてもとてもお姉様の顔を見たい。こいしに奪われかけた想いがお姉様を欲している。私の不完全さを補いたがっている。
 でも、この想いはお姉様への負担にしかなりはしない。それに、お姉様に正面から嫌いだと言われれば、私は何があっても立ち直ることができない気がした。最悪、壊れてしまうかもしれない。
 だから、私はこうしていじけて何もせずに時間を潰している。

 咲夜が呼びに来たら夕食を摂りに行こうと思っている。でも、誰も来ない。本当はお姉様は私と食事なんてしたくないということなんだろう。
 気にしない。気にしていない。……いや、嘘だ。でも、正面から拒絶されるよりはずっとましだ。
 もうお姉様に会うことはないかもしれない。でも、姿を全く見れないのはいやだから、姿を消してこっそり会いに行くことくらいはするかもしれない。たぶん、それで耐えられるはずだ。

「フラン。入るわよ」

 不意に、ノックの音とお姉様の声が聞こえてきた。私は思わずとっさに姿を消してしまう。
 何をしているんだろうかと思うけど、返事も待たずに扉を開けられてしまったせいで戻るタイミングを失ってしまう。お姉様が部屋から出るまで、このままでいようと決めて大人しくしていることにする。
 音を立てたら気づかれてしまうだろうから、動くことはできない。だから、お姉様の姿を確認することもできない。絨毯に吸われながらも微かに残った足音でのみお姉様の動きを確認することができる。今はどうやら、部屋の中を歩き回っているようだ。
 私は息を潜めて待つ。私の心の中にお姉様の姿を見たいという衝動が芽生えつつあるけど、ぐっとこらえる。

 そうこうしている間に、足音が止まる。今、お姉様はどの辺りにいるんだろうか。気配のようなものは感じるけど、そこから正確な位置を推し量ることはできない。

「フラン? どうして隠れているのかしら?」

 お姉様の声が真っ直ぐにこちらへと飛んできて、全身がびくりと震える。私がここにいるということは完全にばれてしまっているようだ。
 諦めて姿を現すべきなんだろうけど、顔を合わせるのが怖くてどうしてもそうする決心がつかない。
 このままでいたら諦めてくれないだろうかと思う。私を放っておいてどこかに行ってくれれば、私が余計なことを言ってしまって聞きたくもないことを聞かなくてすむ。
 そう思ったけど、この程度で諦めるようなお姉様ではなかった。

 不意に横腹の辺りに手が触れる。かと思うと、お姉様は私の上へと覆い被さるようになった。
 こいしにそうさせれたときのことを思い出すけど、恐怖は付随していなかった。それは、相手がお姉様だからだろう。同じことを要求されても、お姉様になら迷うことなく首を縦に振る。むしろ、同じことを要求してほしい。
 でも、私のその望みが叶えられることはないだろう。少し焦点の外れたお姉様の紅い瞳に渇望の色はなく、理性的な光だけが灯っている。でも、姿が見えないはずなのに、こうして私の顔の辺りを見つめてくれているというのは無性に嬉しかった。例え、私のことを疎んでいるのだとしても。
 私の足りない部分が補われていくのを感じられるだけでも十分だ。

「なんで隠れているかは知らないけど、さっさと姿を見せる方が賢明ではないかしら? ここにいるのは分かってるのよ」

 お姉様の手は少しずつ上へと上がってきている。横腹から脇の下へと手が潜り込んでくる。
 くすぐったさに少し身体をよじらせるけど、意地で姿を隠し通すことにする。

「まあ、どうしても姿を見せたくないならそれでもいいわよ。持久戦は得意だから」
「そ、それは、持久戦って言わないっ!」

 微かに手が動くのを感じ取って、慌てて姿を現す。お姉様がしようとしていたのは、一方的なある種の拷問だ。苦痛は伴わないけど。

「張り合いがなくてつまらないわねぇ。ま、それはいいとして。もう一度聞くけど、どうして隠れていたのかしら?」

 紅い瞳に真っ直ぐ見つめられて、私は逃げ場を失う。お姉様の前での私はどうしようもなく無防備だ。
 でも、だからといってなんでもかんでも話すことができるというわけでもない。言葉にしたその結果が怖いと思えば、そう簡単に口にすることなんてできはしない。

「まあ、どうしても話したくないならいいけどね」

 お姉様はそれ以上追求することなく、私の上からどく。そして、横になったままの私の傍に腰掛ける。

「粗方、こいしに何か言われるなりされるなりして、余計なことでも考えていたんでしょう?」

 余計なことではないと思うけど、ほとんど正解だった。まあ、私が地霊殿に行くことは言っていたから当然か。

「愛の告白なんなりをされて、それを蹴ったことを気に病んでるんなら貴女が気にする必要なんてないわよ。前に言ったとおり、無理に応えたところで破綻しかないでしょうから。……ん? でも、それだと私を避ける理由が分からないわね」

 お姉様が考え込む。そこに私のことを忌避しているような様子は見られなくて、困惑が浮かんでくる。
 求められることは怖がられたり、もしくは嫌がられたりするものなのではないのだろうか。

「フラン? どうかしたかしら?」

 私の視線に気付いたのか、お姉様がこちらを見る。私はその視線から逃げるように天井を見つめる。

「避けるなら避けるで、もっと徹底的にやりなさい。さもないと、貴女が隠そうとしている事が気になった私が何をしでかすか分からないわよ?」

 そう言いながら、お姉様が私の上に跨がり顔を見下ろしてくる。体重はできる限りかけないようにしてくれているようで、重さはほとんど感じられない。でも、その行為自体が私の動きを縛っている。

「な、何するつもり……?」
「さぁて、何をしましょうかね。口を割らせるには継続的にできる嫌がらせが最適よね」

 危険な印象を抱かせる笑みを浮かべる。でも、纏う雰囲気はふざけているようなそれで、怖いという感想を抱くことはない。何をされるんだろうかという危惧はあるけども。

「私を避けてるっていうんなら、このままでいるってのも十分嫌がらせよね。ねえ、どうかしら?」
「え? え、っと……」

 本人にそれを確認するのはどうなんだろう。いや、それよりも――

「……お姉様は私といるのがいやじゃないの?」
「どんな紆余曲折があってそんな結論が出てきたかは知らないけど、ありえないと断言するわ。嫌ならわざわざここには来てないわよ」

 確かにそれはそうだ。

「……でも、私に求められるのをいやがったりしてたり……」
「なんだか、今日一日の間に妙な価値観を植え付けられたみたいねぇ。まあ、そんな価値観を持ちたくなる気持ちも分からないではないけど」

 お姉様が私へと顔を近づけて、頭を撫でてくれる。その手の動きの中に私を忌避するようなものは含まれていない。
 私は、何か勘違いをしているのだろうか。

「少なくとも、貴女に求められて揺らぐほど私は柔じゃないわよ」
「……ほんとに?」
「ええ、本当に」
「そっか……」

 何気ない口調で答えてくれたことが何よりもそれらしくて、私は安堵のため息をつく。そして、お姉様の言葉ならここまで簡単に受け入れてまう自分はなんて単純なのだろうかと思う。

「求められるという事は、そう簡単に受け止められないくらいの重みがあるから、それを嫌がったり怖がったりする事もあると思うわ。こちらが相手に向けている以上の感情で求められれば尚更ね。でも、お互いに相応の感情を持ち合わせてれば、逆に心地よささえ感じるわよ。それは、覚えていてちょうだい」

 顔をかなり近づけた状態でそういうことを言われると困る。視線の逃げ場がないし、そもそもそらしたことを指摘されてしまいそうだし。

「……お姉様は、私から求められて心地よさを感じてる?」

 気まずさを誤魔化すためにそう聞く。でも、聞いてみたいというのは本心だ。

「ええ。まあ、貴女のはちょっと重すぎるから適当に受け流してる部分はあるけどね」
「それを面と向かっていうのはどうかと思う……」
「少しは参考になるんじゃないかなぁとね」

 お姉様が悪戯っぽい笑みを浮かべる。間近にあるその笑みに、私は見惚れてしまう。

「無理せず受け止められるだけ受け止めておけばいいのよ。押し付けてくるっていうんなら、その分だけ拒絶するでもいいし、どうしても折り合いが付きそうにないなら、もう諦めて距離を取るかね」
「……拒絶する余裕もないときは?」
「そこまで強硬手段に出てくるなら、関わる価値もないわよ。こちらの領域を踏みにじられる前に捨ててしまいなさい。それでも関わってくるなら、私が守るわ」

 何をされたのか詳しいことを言ったわけではないけど、お姉様の声に鋭さが滲んでくる。
 お姉様の言うことはもっともなのかもしれない。でも、そう簡単に切り捨てることもできない。私はこいしが誰かから嫌われることを、拒絶されることを怖がっているということを知っているから。
 いや、そもそも切り捨てたくない。こいしがどういう過去を抱えているかに関係なく、私はこいしとの関係を断ち切りたくないと思っている。

「……余程の事をされたのかと思ってたけど、貴女はまだこいしと関わるつもりのようね」

 その通りだ。私はこいしに恐怖を与えられた。お姉様の手によって容易く払拭されてしまったとはいえ、私が一番特別だと思っている存在に関わることさえも怯えさせるほどの恐怖だった。

「どうして恐怖を植え付けられるような事をされても関わろうとするのか教えてほしいところね。理由によっては、貴女を止めなければいけないし」

 鋭さが私に向けられる。敵意といった類のものは込められていないけど、奥に隠されたものを見通そうとする静かな雰囲気に呑まれる。嘘をついたりや誤魔化したりはできそうにない。そもそも、そんなことをするつもりもないけど。

「こいしが嫌われたり拒絶されたりするのを嫌ってることを知ってるから」

 真っ先に思い浮かんだことを言葉にする。

「わかりやすい理由ね。でも、同情を理由に求めに応えてると飲み込まれるわよ。他には?」

 お姉様を納得させられる理由ではなかったようだ。

「私の唯一の友達だから」
「さっきのよりは随分ましだけど、まだ足りない感じね。他には?」
「私の中での存在感が大きいから」
「もう一声」

 以前お姉様と話をしたときに考えていた理由はどれも一蹴されてしまった。
 他に何があるだろうかと言葉に詰まる。ここで何も言うことができなければ、私はこいしと関わることはできなくなってしまうだろう。
 いや、そうじゃない。ここでお姉様の望むことを答えられなければ、例え止められるのを振り切ってこいしに関わったとしても、私ではどうしようもないのだろう。
 こいしが唯一の友達だからであり、存在感が大きいからまだ関わり続けたいと思っている。でも、この答えでは十分ではないようだ。
 お姉様はどんな答えを望んでいるんだろうか。

「これ以上ないなら締め切っていいかしら?」
「だ、だめっ! もうちょっと待って!」

 慌ててそう言う。ただ、もうちょっと時間をもらったからといって、答えが出てくるとは思えない。
 そういえば、さとりが私がこいしの所へと向かった感情は単純なものだと言っていた。私が今まで口にした理由よりも、単純なものは――

「好きだから」

 もっと考える事になるかと思ったけど、思いの外すんなりと言葉になってくれた。
 本当に極々単純な感情。でも、だからこそ私が今まで口にした理由のどれよりも説得力がある。いや、そうじゃない。今まで口にした理由はどれもこれを土台として成り立っているのだ。

「それなら合格をあげてもよさそうね」

 お姉様も柔らかな笑みを浮かべて同意してくれた。でも、素直に喜ぶことはできない。こいしに対するあれこれがまだあるというのもあるけど、今は目の前にいるお姉様に対することだ。

「……ねえ、さっきのって誘導尋問?」

 私が自ら答えに行き着いたというよりは、用意された答えに導かれたという印象が強い。そのことがなんだか釈然としない。

「さあてと、どうなのかしらね。でもただ一つ言えることがあるわ。私がしたのは答えを否定することだけ。だから、貴女のその答えは例え他人の手によって導き出されたものだとしても、偽りのものではないわよ」

 お姉様の言葉を聞いても釈然としない感覚はつきまとっている。むしろ、煙に巻かれたようで、その感覚はより強くなっている。

「それよりも、貴女がこいしに何をされたのか聞いてもいいかしら? 事によっては、話も聞かずに止めそうだったから後回しにしていたんだけど」
「……うん」

 頷くのに少し躊躇してしまった。でも、一度認めてくれたんだから止められることはないだろうと信じて、今日あったことを話す。こいしにされたこと、言われたこと、そして最後に逃げられてしまったこと。

「そんな話を聞かされるとやっぱり止めたくなるわね」

 私の話を聞き終えたお姉様は険しい表情を浮かべてそう言う。でも、言葉とは裏腹に、私から離れてベッドに腰掛けてしまう。
 そう言えば、ずっと跨がれたままだった。いつの間にか当たり前のように感じて、忘れてしまっていた。

「お姉様……?」

 お姉様の熱が離れていくことに寂しさを覚えて、ほとんど無意識的に呼びかける。

「今そんな声で呼ばれると、どんな手段を使ってでも貴女を止めてしまいそうだからやめてちょうだい。止めてほしいっていうんなら別にいいけど」
「それはやめて」

 今こいしと関わることやめてしまえば絶対に後悔するはずだ。こいしの抱えるトラウマをより大きなものにしてしまうかもしれないという懸念もあるし、こいしではなくお姉様に対してではあるけど、ああいったことを言った手前、退きたくはない。

「我が子を死地に向かわせる母親の気持ちってこういう感じなのかしらねぇ。ああ、嫌な気持ちだわ。いやでも、私以外を優先させるようになったっていうのは喜ぶべき事よね。……複雑だわ」

 お姉様が難しい表情を浮かべてそんなことを呟く。確かに以前の私なら、お姉様に守ると言われた時点で諦めていたかもしれない。それ以前にこういった問題が引き起こることもなかったかもしれない。
 まあ、考えるだけ無駄なことだけど。

「ああ、そうだ。一つ貴女に言っておくわ。なんだか貴女は一方的に私を求めているみたいに思ってるようだけど、まったくもって間違ってるわ。私もまた貴女を求めてる。当然、貴女とは方向性が違うけどね。だから、自分を大切にしてちょうだい。貴女に何かあったら、本当に何をしでかすかわからないから」
「……うん、わかった」

 お姉様の声と言葉とに込められた想いが大きすぎて、飲み込むのに少し時間がかかってしまった。
 そして、相手にも同じような想いを抱いてもらえているという事はこんなにも嬉しいことなのだと実感した。





 あれから数日を置いて、私は地霊殿へと訪れていた。今は、さとりにこいしの部屋へと案内してもらっているところだ。

「こいしは部屋でいじけていますよ。フランドールさんにしたことをだいぶ気に病んでいるようです」

 さとりがこいしの状態を教えてくれる。数日も間を空けてしまったのはまずかっただろうか。
 前回の訪問からそれだけの間が空いたのは、こいしに会うことに対して多少尻込みしていたからだ。自分の気持ちをはっきりとさせはしたけど、解決策は何も見つかっていない。こいしも私も同じ好きという感情を向けてはいるけど、向き合ってはいないから単純な解決方法がない。
 だからといって、解決策が見つかるまでこいしに会いに行かなければ二度と会えなくなってしまいそうな気がして、こうして訪れたというわけだ。さとりの話を聞く限り、その判断に間違いはなさそうだった。
 でも、赤い糸も外すことができずにそのままで、数日前とほとんど変わり映えがしない。
 こんなことでだいじょうぶなんだろうかと不安になる。

「そんなに気負わなくてもいいですよ。駄目なら駄目で後は私がどうにかしますから。それから、今回は部屋のすぐ傍でフランドールさんの心越しに中の様子を窺って、万が一のときは助けに入りますよ。ですから、遠慮なく本音を伝えてやってください」
「……うん」

 とはいったものの、私が伝えられるのはこいしのことが好きだというただその一点だけだ。この前伝えたことの表面的なものを取り除いただけで、本質は何も変わっていない。
 むしろ、表面的なものを取り除いたぶんだけ、こいしは余計に交わらない線の遠さを実感してしまうかもしれない。それが関係の断絶、もしくはこいしの傷に触れてしまうことになるのではないだろうかと思うと怖い。

「ですから、それで駄目なら私がどうにかすると言っているではないですか。頼りないかもしれませんが、私はあの子の姉なんですよ?」

 以前に比べると、さとりの声には自信がこもっている。こいしとの関わり方がわかってきて、姉としての衿持を持ち直してきているのかもしれない。
 私にはあまり関係なくとも、そうした変化が見られるのは嬉しい。やっぱり姉というのは頼りがいのある存在でいてほしい。

「……本当に頼りがいがあれば、こうした事態にはなっていなかったんでしょうけどね。すみません」
「え? あ、あれ? お、落ち込まないで!」

 私の何気ない思考がさとりの自信を取り去ってしまっていた。慌てて慰めようとするけど、適切な言葉が浮かんでこない。それが余計にさとりを追いつめていると思うと、さらに慌ててしまう。

「気を遣ってくださらなくてもいいですよ。フランドールさんがいなければ、どう関わっていいかさっぱりわからないままでしたでしょうから。……そういう意味では、少しは前に進めているのだと前向きに考えることにします。万が一の場合は、私がどうにかするしかないんですし」
「……うん」

 自分の力で立ち直れる辺り、さとりは強いんだなぁと思う。誰かに手を差し伸べてもらわないと動くことができなくなってしまう私とは違う。
 私もなんとかしたいという気持ちは抱いているけど、なんとかなればいいといった消極的な色が強い。

「完全に折れてしまわないようにするのだけは得意ですから。これこそ、こいしの姉だからこそというものですね」

 心を閉ざしたこいしの居場所を作ってあげるためなんだろうか。そんなことを考えたけど、正否に関する回答はなかった。

「さて、到着しました。私はここでフランドールさんの心を覗かせてもらおうと思うのですが、よろしいですか?」

 こいしの部屋の前に到着する。私は気を引き締めて扉に対峙する。

「うん。万が一のときはお願い」
「はい、任されました。ですので、フランドールさんはこいしと話をすることに集中してください」

 さとりの言葉に頷き、扉を叩く。逃げ道は用意されている。だから、臆せず前に進むとしよう。そう自分自身にそう言い聞かせる。

「こいし、入るよ」

 少し待ってみるけど、返事はない。耳を澄ましてみても、物音一つ聞こえてこない。さとりは部屋にいると言っていたはずなんだけど。
 勝手に入ったら怒るだろうかと考えつつ、ドアノブを回す。鍵は掛かっていないようで、扉を押してみると抵抗なく開いた。

「……こいし」

 部屋の中にこいしはいた。ベッドの上で膝を抱えて座っている。まるで、内側に閉じこもるかのように。実際、私が扉を開けたことに気付いていないかのように反応がない。
 私はその姿に衝撃を覚えながらも、部屋の中へと入っていく。一応、さとりが見つからないようにと配慮をして扉を閉めながら。

 こいしは私が近づいてくることにも、意識を向けていないかのようだ。さとりから聞いた話の限りでは、普通の様子だったはずだ。だから、こうして心を閉ざしたような態度を取っているのは私が来たからなんだと思う。

 だとして、どうして私を無視するような真似をしているんだろうか。私に関わりたくないということではないはずだ。それなら、私に気付かれないように逃げているだろうし、そもそも小指に赤い糸を結んだままにはしていないはずだ。
 だからたぶん、私に関わってほしくないということなんだと思う。傷つけてしまうから、関わってくるなという意思表示なんだろう。昔の私も似たようなことをしたことがある。
 そのときのことを思い出しながら、こいしとの距離を詰めていく。

「こんにちは、こいし。懲りずにまた来てみたよ」

 こいしの姿を見て受けた衝撃を隠しながら、何気なさを装って話しかける。反応はやっぱりない。
 何を話すべきかな、と考えつつベッドに腰掛ける。逃げられたり、迫られたりしているわけではないから、ある程度はゆっくりと考えることができそうだ。ずっと黙っていると、口を開くタイミングさえも見失ってしまいそうだけど。

「あの後、考えてみたけど、私はやっぱりこいしといたい。こいしのその想いの強さには全然及ばないし、すごくわがままなことを言ってるんだろうけど」

 とりあえず、私の考えを垂れ流してみることにする。前回のように迫られたなら端的に私の感情だけを伝えるつもりだけど、大人しくしてくれているのなら、じっくり話してみるのもいいだろう。
 こいしの想いは行動でもって伝わってきたけど、私のものはしっかりと伝えることはできていないから。

「私にとって、こいしはすごく特別な存在。私がお姉様以外でここまで気にかけることなんてなかった。だから、こいしが私を求めてくれてるっていうこと自体は嬉しいんだと思う。それが、思っている以上に大きくて受け止められなくて、困惑の方が大きいけど。
 ずっととまでは言えないけど、一緒にいることくらいなら応えられる。たぶん、こいしを見捨てるってこともしない。ううん。私はこいしと一緒にいたいし、見捨てたくない。だって、私はこいしのことが好きだから」

 私の言葉は空虚に響く。こいしにしっかりと届いたのかさえも確認できない。
 ここで退いてしまうのがいいのかもしれない。お互いにこれ以上傷つかないためにも。でも、ここで諦められるなら最初からこいしのところに訪れようとは思っていなかったはずだ。

「……ねえ、こいし。お互いに気持ちがすれ違い合ってるのがいやだって言うなら、無理に関わろうとは思わない。でも、もしすれ違い合ったままの関係でもいいんなら、私と一緒にいてほしい」

 それほど強い気持ちは抱いていないけど、一緒にいられるなら一緒にいたいという私のわがまま。私とは違って、好きな人は自分のものにしたいというこいしには辛いものなのかもしれない。とにかくどちらでもいいから反応を見せてほしい。私だけでは選ぶことができないから。

 私はこいしの方へと身体を向ける。そして、膝を抱えている手、小指に赤い糸の結ばれた手へと私の手をそっと近づける。まだ魔法の効果は切れていなかったようで、二本の糸の断面はきっちりと繋ぎ合わさった。それを確認しながら、こいしの手を握る。抵抗はない。

「……卑怯者」

 こいしが顔を上げてこちらを睨んできた。私に握られている手には力が込められ、握り返されるような形となる。ただ、力の入れ方は、逃がさないようにしているという方が近いかもしれない。

「私から近寄ると逃げるくせに、私が距離を取ろうとすると逆に追いかけてくるなんてふざけてるの?」
「いや、それは単にこいしの近寄り方が悪いだけじゃないかな。赤い糸の方は、こうして受け入れてるし」
「それは単純に私の感情に気付いてなかったからじゃないの? 今、私が同じことを提案したとして、フランは受け入れる?」
「あー、えっと、……今もこうしてつけてるから、受け入れるんじゃないかなぁということで」
「……白々しい」

 こいしの言葉が刺々しい。でも、迫られたりするよりはいつもどおりに振る舞うことができる。出会ったばかりの頃は、もっと辛辣な態度を取られていたし。
 そう考えると不思議な縁だと思う。あの頃は嫌われているものだと思っていて、今のようなことが起こるなんて想像さえしていなかった。

「でも、少なくともああいうことされても、私がこいしにこうやって会いに来てるのは事実」
「また同じことをされるとは思わないの?」

 こいしが私の手を引っ張る。私は少し恐怖と警戒心とを抱きながらも目立った抵抗はせず、お互いの距離を詰められるままとなる。

「反省してるみたいだから、だいじょうぶかなぁと」

 恐怖を誤魔化すように暢気な様子を装ってそう言う。
 こいしはその境遇から、他人が嫌がるようなことは極力しないような気がする。前回ああしたことをされたのは、私が意味をよく考えず赤い糸を結んでしまったせいだと思う。たぶん、期待なりなんなりさせてしまった結果、抑えが利かなくなってしまったのだろう。
 人付き合いって難しい。まあ、私たちの関係が特殊なだけなのかもしれないけど。

「そういう無防備なところを見せてるとまた襲うよ?」

 そう言いながらこいしが私の身体を抱きしめる。
 この前、感じた恐怖を思い出して身体が震える。こいしの身体も怯えるように固まった。

「……怖いなら、こういうことしなければいいのに」

 意図的に身体から力を抜きながらそう言う。だいじょうぶそうという気持ちがある反面、実際にされたことを身体が覚えているからこうしなければいけない。
 万が一のときはさとりが助けに入ってくれるという余裕があるからこうすることができたけど、一人のときに同じように振る舞えていただろうか。

「うるさい。現状維持するだけで満足するような意気地なしにそんなこと言われる筋合いはない」
「安定した、っていうのが頭に付くけどね。そうじゃなかったら、できる限りのことはやってみる」
「じゃあ、今すぐ私の物になって。そうすれば、このややこしい状態もすぐに終わるから」

 私を抱きしめる腕に力が込められる。これは、逆に他のことは実行しにくくなるということだから、多少は安心していてもいいかもしれない。だからといって、気を抜ける状態だというわけではないけど。

「それはできない。私の心は今も昔もこれからもお姉様の物だから」
「なら、それに関すること、全部忘れさせてあげようか?」
「できるものならやってみて」

 こいしの脅迫めいた言葉に挑発を返す。ここまで真っ直ぐな言葉で脅してくるということは、実行する気はないのだろう。この前は、こっちが気付かないうちに仕掛けられていた。

「ほう? 言ったね? やれって言ったね? なら、遠慮なくやらせてもらうよ?」
「そ、そうやって、喋ってる暇があったらすぐに、やった、ら?」

 本当に手を出されると困るから、私の言葉の勢いは途中で失速してしまう。

「後悔しない?」
「しない、……こともない、かもしれない」

 そして、最終的にそんな情けない言い方になってしまう。
 ずっと煽り続けていたら、こいし自身実行する気がないと気付いて諦めてくれないかなぁ、なんてことを考えていたのだ。問題は、絶対にそうだという確信がないこと。下手をすると、むきになって本当に何かされるという可能性も十分にあり得る。
 さとりという緊急回避の手段があることがわかっていても、心の底からそれに頼ることはできなかった。

「何その何を言いたいのか全く伝わってこない言い方」
「……私の中での優先順位を変えずに、なんとかこいしと関わり続ける方法がないかと考えて煽ってみることにしたけど、実際に行動に移されたら困るなぁとへたれた結果?」
「はぁ……。なんかフランと言い合いをしてると自分が馬鹿らしく思えてくる」

 馬鹿正直に心中を吐露してみたら呆れられた。ため息とともに、こいしの腕から力が抜ける。特殊な方法を使わずとも逃げられそうだけど、今はおとなしく成り行きに身を任せることにする。

「……ねえ、フランの好きが私と同じ向きの物になる可能性はある?」
「……ごめんなさい」

 少し悩んで、遠回しな言い方を選んだ。できるだけ傷つけないようになんて考えたのは私が臆病だからだ。

「……そっか」

 こいしは寂しそうに呟いて、私の身体を放す。かと思うと、私の手を掴んで赤い糸の結ばれた小指のあたりに触れる。

「フランにこの糸を結んでみたのは単なる気まぐれだった。フランが恥ずかしがったり、照れたりするような姿を見せてくれれば御の字かなぁって思う程度の」

 ゆったりとした口調でこちらに語りかけてきながら、赤い糸を指で弄んでいる。なんだか、こいしらしくないしゃべり方に不安が募ってくる。

「でも、フランは私が考えてもいなかったような理屈を振りかざして、私の指に糸を結んでくれた。それだけなら、私はまだ自分の気持ちを抑えられてたかもしれない。時間の経過とともに静まってくれてただろうから。でも、フランは赤い糸にある細工をしかけた。そのせいで、私は一本の糸が二本に分かれるのを見る度に、自分の感情が強められていくのを感じていた。
 でも、フランが私のことを一番だと思ってくれないだろうっていうのは知ってる。だから、ああしてフランを無理やりにでも手に入れようとした。……そのせいで、怖がらせちゃったけど」

 儚げな様子で微笑んだかと思うと、惜しむかのようにゆっくりとした動作で赤い糸を解いていく。その姿はまるで私と別れて二度と会わないようにするように見えて焦りを覚える。
 確かにそういう結末になるかもしれないと思ってここまで来た。だからといって、素直に受け入れられるはずもない。

「あ、あの、こいし? こいしのその感情は勘違いかもしれないから早まる必要はないんじゃないかな。あんまり人付き合いがなかったら、少しでも特別なことをしてもらえたら過剰なくらいの感情を抱くこともあるから、もう少し一緒にいてしばらくしたら落ち着くと思うよ!」

 本当に別れるつもりなのかはわからないけど、もしそうだったらと思いながらなんとか思いとどまらせようとしてみる。でも、絶対にこいしを止まらせられることのできる言葉は口にすることはできない。できるのは、私自身の経験を客観的な視点から述べることくらいだ。
 こいしは私の言葉を気にした素振りも見せず、淡々とした様子で糸を解いている。普通の言葉は届きそうにない。かといって、それ以上の言葉を口にする感情も持ち合わせていない。できるのは、ただ私にそうした感情を向けるのを諦めてくれているだけだと思うことだけだ。
 祈るような気持ちでそんなことを考えている間に、こいしは私たちの指の赤い糸を解いていてしまう。

「そうやって必死になるのが、私と同じ理由ならよかったのに……。まあでも、確かにあんまり焦るのもよくないよね。だから、はいこれ」

 こいしが私に差し出してきたのは、先ほどまで別々に別れていたように見えなくなっている二本の赤い糸。

「フランが持っといて。それで、私と同じ感情を抱いたら、またフランの手で私の指に結んで」

 私が手を伸ばす前に押し付けられる。反射的に私はそれを握る。落としてしまったら大変なことになってしまうような気がしたから。

「……それまで、絶対に私と会わないってことは?」

 私は不安いっぱいな声で問いかける。私にこいしを止める権利はないけど、黙って見送るということもできない。

「大丈夫、これまでどおりフランには会いに行く」
「そっか、よかった……」

 こいしの答えに安堵のため息がこぼれてくる。いやでも、根本的な問題は何も解決してないのか。

「ふふ……、そうやって必死になってるフランを見てると、なんだか時間をかければなんとかなるかもしれないかなぁって思えてくる」

 先ほどまでの様子が嘘であったかのように、悪戯っぽい笑みをこちらに向けてくる。私はその姿に一時呆気にとられてしまう。

「え、っと……、さっきは遠回しに言わせてもらったけど、こいしが私の中でそういう位置に来ることは絶対にないと思う」
「心はいつだって移ろいゆくもの。完全な心なんてありはしない。だったら、その移ろいの可能性に賭けてみるのも一興なんじゃない? ……まあ、また自分が抑えきれなくなって手を出しちゃうことはあるかもしれないけど。でも、今度からは私の力を使うなんて卑怯なことはしないから」

 こいしからの宣戦布告。ただ、攻守が完全に定まっていて、守り側のこちらがそれを拒否することはできない。

「……一応聞いてみるけど、諦めるつもりは?」
「ない。私に関わったことに対する責任は最低限でも取ってもらわないと」

 笑顔でそう言い切られた。
 最低限はどのあたりに設定されているんだろうか。知ったところでどうしようもないだろうから聞きはしないけど。

「……お手柔らかにお願い」

 こいしと関わり続けることを望んだのは私自身だから、そう簡単に拒絶することもできない。これからは、気苦労が増えそうだ。

 でも、目下の問題は解決したことにして、その旨を心の中でさとりに送る。いったい、どんな顔をして私の胸中を覗いているんだろうか。
 ふと思い浮かんだのは、微笑ましげな表情を浮かべるさとりだった。









「やあやあフラン。遊びに来たよ」
「うん、こんにちは、こいし。今日も来たんだ」

 笑顔を携えてこいしが部屋に入ってくる。相変わらずノックはないけど、私の前にいるときはわかりやすく機嫌のいいときが多くなった。
 あれから一週間くらいが過ぎた。最初は嫌みも少なくやたらと機嫌のいいこいしに違和感を抱いていたけど、それもなくなってきた。
 とりあえず、私はこいしの気持ちはあまり考えないようにして、友達として接することにしている。こいしは忘れさせてくれるつもりはないようだけど。

 まあ、それはいいとして。以前とは比べものにならないくらいに素直になったこいしだけど、一つ気になることがある。

「フラン? 私の顔に見惚れてどうかした?」
「見惚れてるわけじゃないんだけどね。ただ、……私のせいでこいしが無理してるんじゃないかなぁと」

 私に好かれるために、見せたくない部分を意図的に隠しているのではないだろうかと思うのだ。今更、そういったものを隠されても逆に気にかかるから、できれば自然に振る舞ってほしいと思う。

「無理するのやめたらフランに何しでかすかわかんないけどいい?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「わかってる。私がやたら嫌みとか皮肉とか毒とかを言わなくなったり吐かなくなったりしたってことでしょ? 別に無理はしてないよ。ああいう態度を取ってたのにも理由はあるから。ま、秘密にしとくけど」
「えー……」

 以前のようなひねくれた言い方だった。正確には、素直になったと言うよりも、態度が柔らかくなって悪戯っぽくなったと言った方がしっくりくるかもしれない。

「そんなことよりも! 葉っぱが色づいて、綺麗な紅葉が見えるようになってきてたから見に行こう!」
「えっ、わっ、ちょっと! 突然引っ張らないで!」

 弾んだ声でそう言って、私の腕を掴むと無理やり立ち上がらせられる。こっちの意思は関係ないらしい。

 内心でため息をつきつつ、私はその背中についていく。楽しそうなこいしの姿を見ていると、些細なことはどうでもよくなってくる。

 紆余曲折あってなんだかよくわからない距離感となってしまったけど、私はまだこいしの友達でいる。
 赤い糸は私たちを繋いではいないけど、お互いの手は繋がり合っていた。


Fin



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