翌日、フランは再び地霊殿を訪れた。今日はルーミアはいない。代わりに頭の上にステアが乗っている。
扉の前に立ち、ノックをする。
「はいはいは〜い。しばしのお待ちをー」
とたとたとたーっ、と走り寄ってくる音が聞こえ、勢いよく扉が開く。昨日は扉の近くに立っていて危うくぶつけられるところだったが今日は少し離れた所に立っていたので大丈夫だった。
「お、フランだね。さとり様なら奥の部屋にいるよ。さあさあ付いてきな」
早口に捲し立てるように言う。まだこの話し方に慣れていないせいかフランは少しだけたじろぐ。
「う、うん、わかった」
昨日と同じように傘立てに紅色の傘を立てると燐の背中について行った。
「さとり様ー、フランが来たので連れてきました」
燐が扉を叩く。扉には猫の形の札が下げられている。
その札には『さとり』、と書かれていることから、ここはさとりの自室なのだろう。
燐が玄関の扉を開けたときとは違い、ゆっくりと扉が開けられる。
「ありがと、お燐」
「いえいえいえ、お気になさらずに。では、お邪魔になってはいけないので私はこれで」
くるりと踵を返して早々に立ち去ろうとする。
「あら、別に邪魔にはならないわよ。いたいなら、いてもいいのよ。今日は仕事は休みのはずでしょう?」
「心の中が視れるのにそんなことを言うのは意地悪ですよ」
燐は振り返って情けない表情を浮かべる。
「ふふ、冗談よ」
「さとり様が言うと冗談に聞こえないんですよ。まあ、とにかく、私はこれで」
再び踵を返すと燐は足早に去って行った。
「フランドールさん、ステア、こんにちは」
「うん、こんにちは、さとり」
「にゃー」
さとりの挨拶にフランとステアが揃ってこたえる。
「それにしてもお燐はどうしたの?」
足早に去って行った燐のことを思い出しながら聞く。
「あの子はお劉のことが苦手なのですよ。喋り方が堅苦しい、とか言ってね」
「ふーん?」
フランは堅苦しい喋り方、というのがよくわからなかった。
パチュリーみたいな話し方なのだろうか。でも、そんなに堅くも苦しくもない。
他者との交流が薄いフランにはどのような喋り方をする人がいるのか、という情報が少なかった。
「話してみればわかると思いますよ。では、行きましょうか、お劉の所へ」
さとりが部屋の中から出てくる。
昨日と同じようにフランは先頭を歩くさとりについて行ったのだった。昨日とは違い、隣にルーミアはいないけれど。
◆
さとりに連れてこられたのは書庫だった。フランの中にこの部屋は地霊殿の中で最も静かな場所、という印象が残っている。
「お劉。昨日話したフランドールさんを連れてきたわよ」
告げるその声は静かだった。けど、静かすぎるこの部屋の中でならその声は部屋のどこに居ても聞きとることができるだろう。
「おぉ、さとり様、その子が吸血鬼のフランドール嬢ですな」
ゆっくりとした歩調で尻尾が二本生えた白猫が出てきた。昨日、さとりが言ったとおり、猫の姿をしたまま言葉を話している。
「初めまして、儂は劉、と申す。お劉とでも呼んでくだされ」
「……相手がこっちの名前を知ってるのに自己紹介する意味ってあるのかなぁ。まあ、いっか。私はフランドール・スカーレット。で、この私の頭の上にいるのがステア」
ステアの方は面識があるかもしれないけど、と付け加える。
「そういえば、見たことがあるの。確か、一番行動力のある奴じゃったな。吸血鬼の頭の上に乗るとは恐れ多いことをする奴じゃの」
「全く持ってそうよね。まあ、私は別にいいんだけど。……お姉様の頭の上には絶対に乗るんじゃないわよ。何されるかわかんないから」
ステアがみゃー、と鳴く。当然、フランにその意味が通じることはない。けど、さとりとお劉は違う。
「気に入っているモノ以外の頭の上に乗るつもりはない、だそうです。ステアは本当にフランドールさんのことが気に入ってるみたいですね」
「そうみたいじゃな。……じゃが、確かに儂もフランドール嬢のような綺麗な瞳をしたモノには飼われてみたいの」
「え?あ、うん、ありがとう?」
褒められているというのはわかったが、なんせ、今まで褒められたことがあまりなかったためどう反応していいかわからなくなっているようだ。返事がぎこちなくなっている。
「なんとも初々しい吸血鬼じゃの。確か、最近になってやっと自由に外に出れるようになったんじゃったかの」
「ええ。生まれてからずっと地下室に閉じ込められていたそうよ」
「なら、仕方のないことなのかもしれんの。それにしてもどうしてこんなにも純粋で優しそうな子が閉じ込められなければいかんかったのじゃ。……そういえば、姉がいるとか言っておったの。そやつが過保護すぎるのか?」
憤慨したような口振りでそう言う。『今』のフランだけしか見たことがないモノは誰しもがお劉のように思うことだろう。
だけど、フランは知っている。『昔』の自分があそこに捕らわれていたその訳を。
そして、『昔』を思い起こしたフランの心を視たさとりも。
「お劉……」
さとりが劉を咎めるように言う。劉が何故、という度にフランは過去を掘り起こしてしまう。間違いと、歪みだらけだった目を合わせたくない自分の過去を。
「あ……。すまぬ、フランドール嬢……」
それだけ言って、黙ってしまう。さとりの一言で劉はすぐに気付いたのだろう。自分がフランの思い出したくない記憶を掘り起こさせている、ということに。
しかし、劉はその場の雰囲気を変えるように、
「ぬ、そうじゃ、フランドール嬢、さとり様。立っているのも疲れるじゃろう。奥に行こう」
と、言って部屋の奥へと進んでいく。
「確かにこのまま立っているのも疲れますね。行きましょう、フランドールさん」
さとりが立ち止まったままのフランを促す。
「……うん」
頭を振って、過去の自分を断ち切ってフランはフタリの後を追った。
「そういえば、なんでお劉は書斎にいるの?というか、いっつもここにいるの?」
お互いに慣れてきたとき、フランがふと、そんなことを聞いた。
書斎の中にある机の前にフランは座っている。ステアは頭から降りて机の上に丸まって寝ている。フランと劉の会話に入れず暇だったようだ。そして、劉は机の上、フランの正面に座っている。
さとりは、仕事がある、と言って書斎から出て行ってしまった。
「まあ、そうじゃの。大体ここにおる。理由は、静か、だからじゃ。儂は騒がしいのよりは静かな方が好きでの」
「私はその時の気分によるなぁ。ヒトリでいたい時は静かなのがいいし、ちょっとつまんない、って思うときは騒がしい方がいいし」
「そうじゃの。気分によって居たい場所を変えるのが一番じゃと思うぞ。ただ、儂のように年を取ると騒がしい場所に行く元気もなくてな。年を取る、というのは辛いもんじゃよ」
フランの中に違和感が生まれる。
どんな生き物であれ妖怪化すれば長命になるはずだ。劉自身の話によれば劉よりも燐の方が長く生きているそうだから、ここまで老いてしまっているのはおかしい。
「ねえ、お劉は、なんでお燐よりも年老いてるような感じなの?妖怪化、してるんだよね?」
「儂は妖怪化しておる、と言っても半分程度じゃ。運が良いか悪いかはわからんがこの状態でも言葉を話せるようにはなっておるがの」
「……完全に妖怪化はしないの?それとも、出来ないの?」
「しなかった、そして今は出来ん。年老いた身に妖怪化は辛いらしいからの」
「だったら、若いうちに妖怪になっておけばよかったじゃない」
力を手に入れられるならそれに越したことはないんじゃないだろうか、とフランは思う。
「長く生きるだけが良いことでもない。力を持つことが良いことではない。……というのは言い訳じゃな。単に怖かったんじゃよ。自分自身が変わっていく、ということが。そうやって、妖怪化に抗っておったらこのような中途半端な状態で止まってしまったんじゃよ」
「今も、妖怪になるのは怖いの?」
「もちろんじゃよ。変わるのは怖いもんじゃよ。その状態に満足しておればしておるほどの。……じゃが、今は少しばかり惜しいことをしてしまったと思っておる」
「どうしてよ」
「フランドール嬢ともっと話してみたかったんじゃよ。儂は騒がしいのは嫌いじゃがイッピキでおるのも嫌いでの。出来るだけ多くのモノと関わってみたい、と思っておったんじゃよ」
少し寂しげな口調だった。けど、フランはその僅かな口調の変化に気付かない。
「なんで過去形なのよ。今からでも、いくらでも話す時間なんてあるでしょう?」
「死期が迫ってきとるんじゃよ。最近、あまり体の自由がきかんくなっておるんじゃ」
「え……?」
一瞬、フランは劉の言ったことが理解できなかった。
別に、彼女が死を知らないわけではない。
地下室に閉じ込められていた間、何人も何匹もナンニンも侵入者がいた。その全ての侵入者を無慈悲に、無邪気に、楽しみながら、砕き、壊し、殺していた。
今のフランでは考えられないことだが、当時はそんなこともあったのだ。だから、理解している。どんな生き物も自分が手を加えれば簡単に死んでしまう、ということを。
けど、寿命については理解していなかった。
知ってはいた。どんな生き物もいつかは自然と死んでしまうことを。
関係のないことだと思っていた。……いや、それは何かから逃げていたのかもしれない。
だから、何気なく告げられた劉の言葉は衝撃的だった。
「なに、フランドール嬢が気にすることでもないわい。儂は他の猫たちよりは長く生きたから、死もそれほど怖くはない。未練もあまりない。フランドール嬢と話せんことが少しばかり惜しいだけじゃ。そう、暗い表情をせんでもよい」
「暗い表情なんか浮かべてないわよ」
顔を左右に振る。
そう、暗い表情は浮かべていない。ただ、何か心の中に引っかかるものがある。そう、それだけ。それだけだ。
「そうか。すまんの。儂はどうも表情を見るのが苦手での。さとり様はほとんど無表情じゃし、こいし様は笑顔ばかり浮かべておるからなかなか色々な表情を見る機会がないんじゃよ。まあ、最近、さとり様が笑顔を浮かべる回数が増えてきておるような気はするがの」
劉の声に明るい色が混じる。彼もさとりのことが大好きなのだろう。嬉しそうにさとりの話をする。
「地上と地底との行き来がある程度自由になってからじゃな、さとり様が笑顔を浮かべるようになったのは。……フランドール嬢、これからもさとり様のもとに参ってくれんかの。さとり様はその能力ゆえに妖怪にさえ嫌われる。じゃが、フランドール嬢、主はまったくさとり様のことを嫌っておる様子はなかった。それに主は、猫が好きじゃろう?」
「うん、好きよ。……でも、なんでわかるの?」
「ステアを自分と同等に扱おうとするその態度じゃよ。さとり様もそうじゃ。儂らのようなペットと同等の立場で接してくださる。そんな主とさとり様じゃ。絶対に良き友人となれるじゃろう」
「……死ぬ、前だって言うのに、随分とお節介なのね」
何故だか、死ぬ、という言葉を口に出すのに躊躇した。
「死ぬ前だからこそじゃよ。死ぬ前に何かをこの世に残しておきたいんじゃよ。そうしてたまたま思いついたのが、さとり様とフランドール嬢を友人とすることじゃったんじゃよ。じゃから、お節介だろうと、余計な御世話だと言われようと儂はやめんぞ」
「ふーん。……なら、あなたがまず、私の友達になるべきじゃない?単なる知り合いに、お節介ばっかりかけられたくはないわ」
フランが初めて自分から誰かに告げた。けど、特に感慨のようなものは感じなかった。そうするのが、当然であったかのように自然と口からその言葉は出てきた。
「儂、とか?……うむ、そうじゃの。フランドール嬢の言うことも一理あるの。単なる知り合いからよりも、友人からの世話の方が気楽に受け取りやすいじゃろうからな」
「なら!これから、私たちは友達ね。よろしくね」
「うむ、よろしくな。フラン嬢。……ふふ、猫以外の友人は主が初めてじゃの。しかも、それがあの誇り高き吸血鬼とは、最後の最後まで儂も運がいいようじゃの」
「最後まで、ってことは今までもずっと運が良かったってこと?」
「そうじゃよ。さとり様がこの儂を拾ってくれたこと、今までこうして、不満もなく生きてこれたこと。それ以上の幸運がどこにあるじゃろうか」
「……幸運って、そんな、ものなの?」
幸運とはもっと大きな何かを得られることなのではないだろうか。
「そう、こんなくだらんものなんじゃよ。けど、長いこと生きてやっと気付けることじゃ。どうじゃ?主も、これを機に振り返ってみたらどうじゃ?自分は不幸なのか、それとも幸運なのか、をの」
「……」
振り返る必要なんてない。昔の自分が幸か不幸だったかと問われれば迷いなく不幸だった、と答える。
なぜなら、今の自分は幸運だから。自由に外に出ることができるし、猫に懐かれたりもすれば、友達ができたりもした。それに、好きな人と一緒にいることの楽しさも知ることができた。他のモノから見ればくだらないものかもしれない。だけど、昔の自分から見れば比べ物にならないくらい幸運だ。過去にはなかったものをたくさん得られたのだから。
それを想うと自然と笑みがこぼれた。
「ふふ、確かにそうね。そんなものだわ」
「じゃろ?自然と笑みが浮かんでくるぐらい下らんものじゃったじゃろ?けど、そうやった笑みを浮かべられるからこそ幸せなんじゃよ」
それから、フタリで小さく笑いを漏らす。幸せに満ち足りてるわけじゃない。だけど、しっかりと幸せを感じられる程度には幸せを漏らして笑う。
フタリの会話に入れず眠っていたステアがゆっくりと目を覚まし、フタリを見る。
幸せそうな忍び笑いをするフタリをじっと不思議そうに見つめる。だけど、何か行動を起こすことなく再び丸まって眠ってしまった。
◆
フランと劉はずっとずっと話し続けていた。どうやら、フタリは考え方の面で気が合ったようだ。
こん、こん。
扉がゆっくりと叩かれる音。そして、扉が開けられる。
「フランドールさん。夕方になったのでお知らせに来ました。……ふむ、おフタリとも随分と仲がよくなっているようですね」
部屋に入ってきたさとりがフタリに向かってそう言った。心を視たのか、それともフタリの様子から察したのかはわからない。ただ、さとりの言葉は間違っていない。
「あ、もう、そんな時間なんだ。そろそろ帰らないと」
フランが椅子から立ち上がる。ずっと寝ていたステアはすぐに目を覚ましフランの頭の上に乗った。ステアは勘かもしくは感覚が鋭いようだ。
「お劉、また明日も会いに行くからね」
「こんな老いぼれに付き合う必要なんてないんじゃろうが、まあ、友達が来る、と言っておるのに拒む理由などないわい」
「そう、じゃあ、遠慮なく行かせてもらうわ」
「フタリとももうよろしいですか?……では、フランドールさん。行きましょう」
「ばいばい、お劉」
「うむ、じゃあの、フラン嬢」
フランは手を振り、お劉は二本の白い尻尾を揺らす。劉の尻尾は手の代わりなのかもしれない。
姿が見えなくなるまで手を振っていると、部屋の外まで出てしまっていた。
「フランドールさん、お劉と友達になったのですね」
「うん。まあ、ちょっとあってね。でも、話してみると意外と考え方が似てるんだ、ってことがわかったわ」
「……へえ、そう、なんですか」
さとりの声に動揺が混じる。それはフランの言葉に驚いた、というわけではない。フランの心を視、フランの思っていることを読んで驚いたのだ。
「それよりも、さとり。私たち友達になってみない?さとりとなら気が合うと思うわ」
「……それは、お劉の提案ですよね」
「でも、私の意思よ。さとりならわかるでしょ?」
「え、まあ、はい、わかります、が……」
さとりが歯切れの悪い返事をする。
「?どうしたのよ。珍しくはっきりしない話し方ね」
「あ、すいません。……今まで、友達、と呼べるような存在がいなかったので少し戸惑っています」
「なんで戸惑う必要なんかあるのよ。私だって、最近まで友達って呼べるようなのはいなかったけど、戸惑ったりなんかはしなかっわよ」
「……確かに、そうですね。戸惑う必要なんてないですね。今まで、私のことを忌み嫌う方ばかりだったので必要以上に憶病になってしまっていたみたいです」
「じゃあ、友達としての第一歩。私と話す時はもっと気楽に話してほしいわ」
「気楽に、ですか?……あぁ、そういうことですか。…………わかったわ。これからは敬語を使わないようにするわ」
フランの心を視てフランの意図を理解した。
妹やペットたち以外と話す時はいつも敬語を使っていて慣れていないからか少し恥ずかしそうだった。けど、そのまま立ち止まったりはしない。
「どうせ、敬語を使わないならもうちょっと親しみを込めた呼び方でもいいわね。フラン、って呼んでもいいかしら?」
「うん、さとりの好きなように呼んでよ」
「そう、わかったわ、フラン」
さとりがそう言った時、ちょうど玄関に着いた。フランは傘立てから一際目立つ紅色の傘を取る。
「明日も、来るつもりなのね。来るときは日光に十分気を付けるのよ。どのような拍子に傘が役に立たなくなるかわからないから」
「うん、気をつけるわ。太陽程度で死にたくなんてないもの。じゃあね、さとり、また明日っ」
「……ええ、また、明日」
さとりは新鮮な気持ちを感じながら小さく手を振る。
フランは勢いよく扉を開いた。新しい友達がフタリもできたことが嬉しくて上手く手加減が出来なかったのだ。
けど、幸いなことに扉は壊れなかった。その代わり、思わぬモノとの遭遇を果たしてしまった。
「お姉様?なんで、こんな所に?」
扉の向こう側にレミリアの姿を見つけて首を傾げる。フランにとってはあまりにも予想外な出現だった。
「え、いや、あの、その、ね?フラン」
慌てたような様子で手をばたばたと振るわせるレミリア。何かを言いたいみたいだがうまく言葉になっていない。
突然扉が開いたこと、フランに見つかってしまったこと、その他諸々のことで気が動転してしまっている。
「フランのことが心配だったから様子を見に来た、ですか」
「そこっ!何勝手に心を視てるのよっ!」
レミリアがびしぃ、とさとりを指差す。
吸血鬼に指先を向けられるというのはかなり危険な状態にも関わらずさとりは全く動じない。心を視れるからこその余裕があるのかもしれない。
「うまく喋れないようでしたから代弁をしてあげたのです。……ああ、妹の前でそういうことは言う必要はない、ですか。……妹にいい所を見せたいならもう少しびしっ、とした方がいいですよ。予想外のことが起きたからといって動揺しすぎです」
「余計なお世話よっ!私がフランのことを心配だと思おうが思わまいが私の勝手でしょう!」
レミリアが怒ったような声で言うが完全に八つ当たりである。高いプライドのせいで自分に非があることを認められないのだろう。
「まあ、確かにそうですが」
無理に言い返して機嫌を悪くする必要もない、とさとりはレミリアの言葉を認めた。
「ふーん、お姉様、私のことを心配してここまで来てくれたんだぁ」
「な、何よ」
「べっつにぃ。お姉様、って絶対に自分から動くことがないから珍しいなぁ、って思ってただけよ」
そう言いながらフランはレミリアに背を向ける。そうして、フランは嬉しそうな笑みを浮かべる。
「今日は偶々よ、偶々。そう、ちょっと暇だったから、フランの様子を見てこよう、と思ったのよ。……確かに、貴女のことは心配していたわ。けど、決して、貴女以外のことが考えられず、居ても立ってもいられなくなったわけじゃないわ!」
レミリアは言い訳を重ねれば重ねるほどにどつぼに嵌まっていっている、ということに気付いていない。
けど、フランにとってレミリアの言い訳は幸せの断片となる。
素直で、けれど、聡い彼女はレミリアが自分をどれだけ心配していてくれていたのか、というのがちゃんとわかった。
今までレミリアが自分の話をしたり、心配していたりとしていたのは知っていた。けど、それだけでは信じることが出来なかった。
こうして、本人が口にしたのを聞いたことでフランのレミリアに対する不信感は消えてなくなった。
「そう言うことにしておいてあげる」
「なら、早く帰りましょう。咲夜が夕食を準備して待っているわ」
「うん。……けど、その前にお姉様に一言」
そう言ってくるり、とレミリアの方に向き直る。彼女のサイドテールが揺れる。
「お姉様、大好きっ!」
満面の笑顔と共に放たれた一言。嬉しさが抑えきれずどうしても言っておきたかったのだろう。
「…………」
対してレミリアは呆然としている。顔が少し間抜けだ。
「レミリアさん。何か答えて差し上げたらどうですか?」
思考が真っ白となっているレミリアにさとりが助け船を出す。
「あ、ああ、そうね。……ああ、えっと、フラン、私も貴女のことが好きよ」
「うんっ」
フランがレミリアに抱きついた。今まで姉に妹らしく扱われていなかった、始めて面と向かって誰かに好きだ、と言われた。そんな嬉しさが溢れ出した結果だった。
「フ、フラン!いきなり抱きついてくるんじゃないわよ!」
レミリアがそう言うがフランの耳には届いていないようだ。いや、そもそもレミリアもフランのことを引き離そうとしていない。突然、急接近してきた妹に困惑しているだけだろう。
「……なんだか、私たち邪魔者みたいね」
「にゃー」
扉の前でさとりとステアが姉に抱きつく妹と妹に抱きつかれて困惑している姉を見る。姉妹を見るフタリは完全に蚊帳の外となっている。
ずっとフランの頭の上に乗っていたステアだがいつの間にか彼女はさとりの隣にいた。恐らく、居心地が悪くなったのだろう。猫は自然と居心地のいい場所を探す生き物だ。
さとりとステアは姉妹を見つめていたがフランが抱きついた以上の進展は特にない。まあ、レミリアが困惑して未だに頭がほとんど真っ白となっているのが原因なのだが。
ステアがかりかり、とさとりの足を引っ掻く。さとりはそれに気づき、しゃがみ込む。
「ん?どうしたの?…………ふむ、それはいい考えね。このまま家の前に居られても困るし」
ステアの心を視て彼女の提案に頷いて立ち上がる。
「それにしても、貴女は意外に主人想いだったのね。……え?飼い主の精神状態が良いと住む場所の環境も良くなる?まあ、そう言う考え方の方が貴女らしいと言えば貴女らしいわね」
そう言いながらさとりは姉妹の方へと近づいて行く。ただ、近づきすぎないように配慮する。
あまり大きな声を出さなくても声が届くくらいの距離まで来ると、
「レミリアさん、そこでフランの頭を撫でてあげてください」
フランに抱きつかれて呆然としたままだったレミリアに指示を出す。
普段なら吸血鬼の中でも特に自尊心の高いレミリアが誰かの指示に従うようなことは絶対にない。けど、頭の中が真っ白となっているレミリアは素直、というよりも無意識にその指示に従った。
撫でる、という行為に慣れていないのかその手の動きはぎこちない。
けど、それでもフランにとっては余程嬉しいことなのか幸せな笑顔が浮かぶ。けど、今はそれを見ることができるモノはいない。
さとりはフタリの心を覗かないように、と背中を向けてステアの方へと戻っていく。
「フラン」
少し身体を動かしたことで自失から立ち直ったレミリアが妹の名を呼ぶ。
フランは抱きつくのをやめてレミリアの顔を見る。しかし、その距離はとても近く、お互いの顔がくっつきそうなほどだ。
レミリアはフランの抱き付きから解放されても彼女の頭を撫で続けている。だから今、フランの笑顔はレミリアがヒトリ占めしている。
「ごめんなさいね。今まで貴女をあんな地下に放置してしまって」
神妙な表情を浮かべるレミリアを見てフランは驚いて目を丸くする。今まで一度だって誰かに謝っている姿を見たことがなかったからだ。しかも、その初めてがあの尊大なレミリアだ。驚かないわけがない。
「全ては私が未熟だったせいよ。貴女を止めれるだけの力もなくて、貴女を変えれるだけの意志もなかった。……結局、貴女を変えたのはあの黒白魔法使いだったし」
撫でる手を止めて視線を下に向ける。
「貴女にとって私は最悪の姉だったでしょうね。だから、貴女は私のことを嫌っているとそう思ってた。だから余計に私は貴女に近寄れなかったわ。人間のように私も憶病だった、というわけよ。……でも、そうね。フランが私のことを好きだ、って言ってくれてそんな臆病な気持ちも無くなってしまったわ」
レミリアの言葉にフランは少し泣きそうな表情を浮かべる。
「私もお姉さまは私のことが嫌いなんじゃないか、って思ってた。ううん、魔理沙が来る前、私が自分はおかしかったって気付いてなかったときはそんなこと思ってなかった。単純に、私がお姉様のことが嫌いだった。何で、私を閉じ込めるの?何で自由にさせてくれないの?って。……でも、魔理沙が来て、少しずつ、私が私のおかしさに気付いて、どんどん、不安になってたの。お姉様はこんなおかしな私のことが嫌いなんじゃないか、って。嫌いだから私を閉じ込めたんじゃないだろうか、って」
そこまで言って、微かに笑みを漏らす。
「でも、ルーミアからお姉様が外で私のことを話していた、ってことを知った。さとりの口からお姉様が私を心配してくれてるってことを知った。そして、お姉様の口から私のことが好きだ、ってことを知った。だから、不安も何もないよ。お姉様は私のことを想ってくれている。そうでしょう?」
「ええ、そうよ。私にとってフランは何よりも大切よっ」
今度はレミリアが突然フランに抱きついた。感情が高ぶり過ぎると抱きついてしまうのはこの姉妹の共通の癖なのかもしれない。
「お、お姉様?」
まさか抱きつかれると思っていなかったフランは困惑してしまう。頭が真っ白にならない分レミリアよりは余裕があるようだ。
「なにかしらね、この既視感は」
結局、抱きつく側と抱きつかれる側が入れ替わってしまっただけだった。けど、両者の中で変わったものはある。
「まあ、おフタリのすれ違いが解消されたのでよしとしておこうかしら」
微かに笑みをこぼすさとり。彼女も妹がいる身なのでなんとなく共感できるのかもしれない。
「にゃー」
ステアが鳴き声を上げ、さとりを呼ぶ。さとりは足もとのステアを見てその心を視た。
「……貴女は、ほんとに自分本位ね。ご主人様の気分がよくなったらもう帰りたい、ね」
自分本位なモノは他者の心の動きに敏感。そんなことをさとりは思ったのだった。
◆
フランとレミリアの間のすれ違いが解消されて数週間。
その間、フランは魔理沙の家に遊びに行ったり、地霊殿に行ってさとりとお茶を飲んだり劉の話を聞いたりした。その間、ステアはいつもフランと共にいた。ルーミアは一緒にいたりいなかったり。
フランとのすれ違いが解消してからレミリアは素直にフランの心配をするようになった。例えば、フランが出掛ける時、必要以上に声をかける。だから、なかなかフランは出掛けることが出来ない。フランはそのことを鬱陶しく思うのだが、同時に蔑ろに出来ない、という気持ちもあって無視することも出来ない。
そんな姉妹の様子を見かねた咲夜が時間を止めてレミリアを部屋まで連れ去るのも日常と化してしまった。
紅魔館の中の様子も再び少し変わった。姉妹の距離が縮まり幸せそうな雰囲気となっているのだ。
そして、今日もフランは出掛けようとしてレミリアのせいで足止めを食らっていた。
「フラン、外では絶対に傘をしてるのよ。雨が降りそうになったらすぐに帰ってくるのよ」
「うん、わかってるわ、お姉様」
フランの頭の上にはステアが乗っている。完全にその位置は彼女の場所となっている。
「……ああ、でも、変なのに襲われたらどうしようかしら。フランが負けるなんて思わないけれど、やっぱり不安だわ。私も付いて行くわ」
「……ヒトリで大丈夫よ」
フランは困っているような呆れているような、けど、同時に嬉しく思っているような微妙な笑顔を浮かべている。
ちなみに、実際一度レミリアと一緒に外に出て始終何か口を挟んできたのは言うまでもない。フランが家にいる間は特に何も言ってこないのだが、一歩でも外に出ようとするとこれだ。ずっと、フランを閉じ込めていたのはフランに対する恐怖だけでなく、心配も関係していたのかもしれない。
「いやいや、でも、もしかしたら、ということがあるわ」
「……お嬢様、もうそろそろよろしいのでは?フランお嬢様も困っていらっしゃいますよ」
今までずっとレミリアの後ろに無言で立っていた咲夜が口を挟む。
「咲夜は黙ってて!」
レミリアが振り向かないまま一喝する。普通の従者ならここで恐縮するところだが、完璧な従者である咲夜は肩をすくめるだけだった。
「フラン―――」
「フランお嬢様、行ってらっしゃいませ」
咲夜はまだ何か言おうとしていたレミリアの言葉を遮ってそう言った。
そして、レミリアと咲夜の姿は消えてしまった。
これもまた日常茶飯事となっていた。そのせいで、まだ一度もレミリアの口から「いってらっしゃい」という、その言葉を聞いたことがなかった。そして、フランがレミリアに「いってきます」ということも。
今までもよりもさらに幸せとなった日常の中でそのことだけがフランにとって物足りないことだった。
◆
「―――私は何があっても付いて行くわ……?って、咲夜っ!」
レミリアが従者の名を怒ったように呼ぶ。
「はい、何でしょうかお嬢様」
主がなんで怒っているか知っていながら飄々とした態度で答える。
「なんで、貴女は、毎度、毎度、毎度、毎度、私の邪魔をするのよ!貴女は私の従者でしょうっ?」
「フランお嬢様がお困りなられていたようですから。……何度も申し上げますが、お嬢様は過保護すぎです。もっと、信頼して差し上げたらどうですか?フランお嬢様は、レミリアお嬢様がいくらしつこかろうと鬱陶しい、の一言でお片付けになられないくらい健気なのに」
「うるさい!もう、いいわ!貴女がなんと言おうと私はフランを追いかけるわ!」
荒々しい歩き方で扉へと近づき、開けた。
「……咲夜」
「如何いたしましたか、お嬢様」
「なんでこんなことになってるのよ!」
レミリアが指差したのは扉の向こう側。そこには、水平線が見えるほどに長い廊下がある。
「あらあら、これは大変ですわね。誰かが、空間を歪めてしまったようですね」
「白々しいわよ。貴女以外に誰がこんな真似が出来るというのかしら?」
「スキマ妖怪辺りですかね?」
「あいつのはもっと露骨よ!」
地団駄を踏む。けど、床に敷き詰められている豪華な絨毯のお陰で大きな音は立たない。
そんな些細なことでレミリアの怒りは更に高められる。
「素晴らしい推理ですね。こんな所で主をするのをやめて探偵稼業でも始めますか?」
「毎日のようにこんなトリックを仕組まれたら誰だってわかるわよ!」
語気がだいぶ荒れてきている。それでも動じないのがこの紅魔館のメイド長だ。
「では、次はもっと手の込んだものでも用意しましょうか」
「いらないわよ!」
扉を閉めて振り向き、部屋の中へと戻る。そのまま、ベッドの方へと向かって行く。
「もう、寝る!夕食の時間まで放っておいて!」
着替えもせずベッドに横になってしまった。最近は、咲夜に足止めされて諦めるか、拗ねて寝てしまうかのどちらかだ。それに、着替えずに寝たとしても、咲夜お得意の時止めでレミリアを起こさないように寝間着に着替えさせている。
「お嬢様」
「……」
咲夜はベッドの上に横になった主へと話しかけるが返事はない。しかし、咲夜は主の寝付きの悪さを知っている。彼女は誰よりもレミリアの傍にいたのだから。
「お嬢様、フランお嬢様はレミリアお嬢様の『行ってらっしゃい』、という言葉を聞きたがっております。お嬢様が言う必要があるのは、フランお嬢様への不安ではなく、見送りの言葉だけではないでしょうか」
咲夜はフランの望みに気付いていたのだ。
「…………だって、心配じゃない。私のたった一人の肉親よ。何かあったら、なんて思うと気が気ではないわ」
今までも咲夜はこうして横になったレミリアに話しかけていたのだが返事を返されたのは今日が初めてだった。咲夜の努力が実ったのか、それとも単なる気紛れか。
なんにしろ好機である。これを逃さない手はない。今なら多少冷静になっているだろうから先ほどよりは聞き入れられやすいはずだ。
「お嬢様は家族思いなのですね。しかし、些か過保護なようです。フランお嬢様は宝石箱に飾っておいて光輝くような方ではありませんわ。外に出て、いろいろな経験を積んでこそ、本当に美しくなって帰ってくる方だと思います。……お嬢様のフランお嬢様を心配する言葉はその成長の妨げとなっています」
「……貴女に何がわかるっていうのよ」
「確かに、なぜお嬢様がそこまで過保護になるのか本当の意味ではわかりませんね」
「……なら、貴女が何かを言う権利なんてないわ」
「いえいえ、そんなことはないですわ。私はフランお嬢様の成長を楽しみにしていますから。お嬢様のフランお嬢様を心配するお気持ちと同程度の強さはあると自負していますわ」
「貴女、いつからフランにも肩入れするようになったのよ」
ここでようやくレミリアは咲夜の方に顔を向ける。
「ここに仕えるようになって、初めてフランお嬢様に会ったときからですわ」
「……なんで、フランに対してそんな風に思うようになったのよ」
「レミリアお嬢様を慕うなら、フランお嬢様にも同じように接するのが従者として当然のことですから」
「よくあの時のフランに対してそんなことを思えたわね」
「私たち人間からしてみれば、レミリアお嬢様もフランお嬢様も対してそう大きく変わりませんわ。今は、フランお嬢様の方が圧倒的に世話をしやすいですが」
「あの子、外に出られるようになってからだいぶ素直になってきたのよね。……吸血鬼として由々しき事態だわ」
吸血鬼らしくない振る舞いをしている、というフランの話を聞いてレミリアは嘆かわしげに呟く。
「お嬢様、知らないのですか?フランお嬢様は、黒白の前ではだいぶ我侭ですわよ。お嬢様と同程度には」
「……それは、初耳ね」
「一緒にいたいと思えるモノに対してほど我侭になるんでしょうね。それか、黒白が独特の魅力を持っているか、ですわね」
「……気に食わないわね」
今にも歯噛みしかねないような口調だ。フランが魔理沙を気に入っている、ということが気に入らないようだった。
「だったら、もう少しフランお嬢様を信頼して自由にさせてあげたらどうですか?過剰な心配は嫌われる元となりますよ」
今まで何度かこう言ったことを言ってきたが自尊心ばかりが強いレミリアは咲夜の言葉を聞いてなどいなかった。けど、今は違う。魔理沙に対する気に食わない、という気持ちが対抗心を燃え上がらせ、咲夜の助言を素直に聞こうと思わせている。
「……そうね。今度から少し心配しすぎないようにするわ。その為にはまずどうすればいいかしらね?」
レミリアから助言を乞うというのは普段ならば絶対にないようなことだ。咲夜はそのことに驚くが一切表に出さないまま答える。
「先ほども申し上げましたが、フランお嬢様がお出かけなさるときに『いってらっしゃい』と声をかけるのがよろしいのではないでしょうか。この言葉はある意味、送るモノが出て行くモノに帰ってくることを約束させる言葉でもあります。帰ってくる、そういう約束があると思えばレミリアお嬢様も安心が出来るのではないでしょうか」
「『いってらっしゃい』ね。確かに、今まで一度もフランに対して言ったことはなかったわね。……今度、言ってみるかな」
呟く声はレミリアの中で何かが変わったことを示すようなものだ。そんな主の変化を咲夜は微笑ましげに見ていた。
◆
フランは地霊殿の扉の前に降り立つ。今日はレミリア以外の障害は特になかった。
いつものように、扉を叩く。
こんこん。
こうして扉を叩くことにはすっかり慣れてしまったけれど、こうして誰かを待っている、というのはなんだか楽しい。何故だか、心が躍る。
「はい。……あ、フラン」
扉を開けたのはさとりだった。大体、ここを開けるのはさとりか燐だ。そして、時々だがこいしもこの扉を開ける。空が開けたのだけを見たことがない。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。それよりも、
「さとり、何か、あったの?」
いつもと違う様子のさとりにフランは戸惑う。
まず、ひとつになんだか眠そうなのだ。いつも、少し眠たげな目をしているが、今日はそれが更にひどい。
けど、それ以上に何か重たいものが降りているかのように、表情に暗さが浮かんでいる。
何故だか妙な胸騒ぎを感じる。
「鋭いわね。……お劉が倒れてしまったのよ」
「え……?」
さとりの声は非常にはっきりと聞こえていた。だけど、フランはうまくその言葉の意味を理解することができなかった。
「今は何とか持ち直して、意識も取り戻したけれど、油断が出来ないことに変わりはないわ」
「……」
フランはさとりの言葉に何も反応を返さない。いや、返せない。
「……フラン、お劉が貴女に会いたがってるわ。会って、くれるかしら?」
こくり、と頷く。けど、それは意識的なものではない。問い掛けられたから、頷いた。それだけだ。
けど、さとりはフランの中にお劉に会いたがっている気持ちがある、というのに気付いていた。同時に怖がっていることも。
おそらく、今、このとき、フランの心情を最も理解していたのはフラン自身ではなくさとりだろう。
「では、ついてきて」
そう言ってさとりはフランに背を向けて歩き始める。
「……うん」
フランはここでようやく我を取り戻す。
会いたい、けど、会いたくない、けど、会わないといけない。
相反する気持ちが自分の中にあると気付いてフランは戸惑う。けど、悩んでもいられない。
結局、フランは自分の気持ちに答えを出さず、さとりの後ろについて行くだけだった。
◆
「お劉、フランが来たわよ」
「……わざわざありがとうございます、さとり様」
とある一室、さとりの私室に入って聞いた劉の声はとても弱々しかった。
少し大きな机の上で、劉は毛布にくるまって横になっている。
「訪問者を出迎えるのは私とお燐の役目だから気にしなくてもいいわ。そもそも、貴方は扉を開けられないでしょう」
「……うむ、そうじゃったの。弱ってるせいで、余計なことまで申し訳なく思ってしまったみたいじゃ」
「そう。……では、私はお茶を淹れてくるわ」
「うん……」
「……うむ」
フランと劉が頷いたのを見てからさとりは部屋から出て行った。
「……フラン嬢よ。そんなところにおらんでこっちまで来てくれんかの」
部屋に入ってからずっと扉の前に立っているフランを呼ぶ。フランは、顔を少し俯かせて劉が横になっている机へと近寄った。
ステアがフランの頭の上から飛び降り、机の上に降りる。
「……すまんの、横になったままじゃが、許しておくれ」
「……いいわよ、そんなこと、気にしなくても」
劉の姿を見て、フランは絞り出すような声でそう言う。
「……なんじゃ、そんなに、辛気臭い声を出しておってからに。フラン嬢にそんな声は似合わん。いつものように元気な声を聞かせてはくれんかの」
「……私は、いつも通りよ」
それだけ言うのが精一杯だった。それ以上喋っていると何かの感情が溢れて出てきそうだった。
「……ふむ、そうか。なら、いいんじゃがの」
劉の声は少し残念そうだった。
そのまま静かになってしまう。いつもは落ち着きなくうろうろしていることの多いステアも今ばかりは静かにしている。
時が止まってしまったかのように何の音もしない。動くものもほとんどない。フランの羽が微かに揺れ、劉の身体が上下する。それだけだ。
そんな中、ノックの音が聞こえてきた。続いて、扉の開く音。
「お燐、ありがとう」
入口の方には紅茶の乗ったトレイを持つさとりと扉を支えるお燐の姿があった。
「……さとり様、思ったよりも早く戻ってきましたの」
「お燐が準備しててくれたのよ」
「……やはり、お燐は気の利く子じゃな。お空とともにこれからもさとり様のこと、よろしく頼むぞ」
「安心しなよ、あたいとお空が居ればさとり様は十分支えきれるよ」
お燐は笑顔を浮かべながらそう言ったが、そこには少し影がかかっていた。
「……じゃあ、あたいはお空の仕事を手伝ってきますね」
「お空の仕事場は危険だから気をつけるのよ」
「はい、わかってます。さとり様も、無理はなさらないでくださいね」
「慣れてるから、大丈夫よ。……それに、無理をしないわけにはいかないのよ」
「はい……、そうですね。ではっ」
そんな言葉を残してお燐は部屋から出て行った。
「……さとりは、何を無理してるの?」
「昨日、お劉が倒れてから寝てないのよ。動物の治療の方法を知ってるのは私だけだから」
「あ……、そう、なんだ」
自分が想像していたこととは違う返答が返ってきてフランは安心していた。けど、そんな安心は束の間だった。
「……けど、フランの想像もあながち間違いでもないわ」
「え……?」
フランの動きがぴたり、と止まる。けど、その代わりに彼女はいろいろなことを考えていた。
先ほど、フランが想像していたこと。それは、さとりがずっと起きていたのは劉の最期を看取るためなんじゃないんだろうか、ということ。
フランは今まで数多の死を見てきた。けど、それは全て誰かによってもたらされるものであった。咲夜が侵入者に対してもたらしたもの、レミリアが猛者に対してもたらしたもの、フラン自身が地下に迷い込んできたモノにもたらしたもの。本当にそればかりだった。
だから、寿命で死に逝くモノを見るのは初めてだった。
物語を読んで、そう言うものがあることは知っていた。だけど、違う。物語越しに感じるのと実際に感じるのでは。
それに、フランは変わってしまっている。そして、失いたくない誰かもいる。今のフランはむしろ、死に怯えてしまっている。
だから、誰かが死ぬ、と考えると心が竦んでしまうのだった。
「……フラン嬢、そう、深刻に考えんでもよい。どのような生き物も、いつかは、死んでしまうんじゃ。フラン嬢のよう、な永遠に近い、寿命を持つ、主らが死の一つ一つを、深刻に考えておったら、潰されてしまうぞ。儂のことは、少しだけ、覚えておってくれたら、それだけで、十分じゃ」
「……お劉……」
暗い声で今にも死を迎えてしまいそうな老猫の名を呼ぶ。
「……そうじゃ、一つだけ、よいかの」
「……なに?」
「……死ぬ前に、フラン嬢の、笑っておる、顔が、見たいの」
「…………」
そこでフランは黙り込んでしまう。
劉の願いは聞き入れたい。だけど、笑顔を浮かべることなんてできない。むしろ、このまま泣き出してしまいそうだ。
「……まあ、無理に、とは言わん。老猫の戯言じゃと、そう思ってくれても構わん」
「……そんなこと、思わないわよ」
「……そう、か」
「……ねえ、さとり。私もずっと一緒に居ていい?」
笑顔を見せてあげられないならせめて、最期まで一緒にいてあげようと思った。
「別にいいけれど……、何も言わないでいたら貴女の姉が心配するんじゃないかしら?いつまで待つことになるかわからないから」
「……うん。でも、私はここを離れたくないから」
「そう。なら、お燐に紅魔館まで走ってきてもらおうかしらね。フラン、貴女の家までの道のりを思い浮かべてくれるかしら」
フランは小さく頷く。それから、思い浮かべるのはここから紅魔館までの道のり。何度もここに来ているから館までの道は簡単に思い浮かべることができる。
「……ちょっと、遠いわね。いや、ここが辺境にあるだけね」
さとりがそんなことを呟く。
「ごめん、さとり……」
「フランが気にする必要なんて全然ないわ。お劉を看取ってくれる方がいればお劉も嬉しがるから。でしょう?お劉」
「……そうです、の」
「……さとり以外にはいないの?」
「いないわよ。こいしもお燐もお空もこういう状況は苦手だから逃げてしまうのよ。他のペットたちは看取る、という概念がわからないみたいだし」
「……そうなんだ。……じゃあ、ステアは特別なのかな?こうして、お劉のそばにいてあげてるから」
無意識に伸びた手がステアの頭をなでる。けど、その手は微かに震えている。
「そうかもしれないわね」
短い言葉でフランの言葉に同意する。
「それよりも、立ってないで座ってたらどうかしら。疲れるでしょう?そこにある椅子は適当に座っていいから」
さとりに言われてフランは自分が立ったままだ、ということを思い出した。あまりにも慣れない状況のせいでいっぱいいっぱいになっているようだ。
「……うん」
机の前の椅子を引いてそこに腰かける。そして、思っていた以上に溜まっていた疲労から小さくため息をつく。
「では、私はお燐の所に行ってくるわね。……何かあっても慌てたらダメよ。お燐に仕事を頼み次第帰ってくるから」
そう言いながら、さとりは扉を閉めた。
それから聞こえてくるのは短い間隔の足音。さとりが少し急いでいるのだ、とわかる。
だいぶ遠ざかったはずなのにまだ足音が聞こえる。
「……フラン嬢よ、儂を、抱いて、くれんかの」
「……なんだか、今まで以上に我侭ね」
少し文句を言うような言い方をしながらもゆっくりと毛布と共に劉を抱き上げる。地霊殿に通う間にすっかり猫を抱くのも慣れてしまった。
生物としての温もりがまだ、しっかりと伝わってくる。
「……少し寒かったんじゃよ。寒いのは嫌いじゃ」
「……そうね。私も寒いのは嫌い」
「……おお、そうか。ふふ、フラン嬢のお陰ですっかり温くなったわい」
「……う、ん。お劉も、暖かい、よ」
そう言葉を紡ぐフランは今にも泣きそうで。
「……そうか、それは、よかった」
誰からも恐れられる吸血鬼ではなく幼い一人の少女にしか見えなくて。
「……フラン嬢よ」
ただ、ただ、震えていることしかできない。
「……泣きたければ、泣いていいんじゃよ。泣いて、泣いて、泣いた後は少しばかりの、余裕が、できる。その、余裕の分だけ、笑ってくれたならば、儂は、満足じゃよ」
「う、あ……」
一滴の涙。
それを、きっかけにしたように、フランは声をあげて泣きはじめた。
フランが初めて誰かの為に泣いた時だった……。
◆
「恥ずかしい所、見せちゃった、ね」
ようやく泣きやんで、涙を拭きながら言う。その声は、少しだけ明るさを取り戻している。
「……これで、儂の思い出も、ひとつ、増えたの。吸血鬼の、泣き顔なぞ滅多に見れるものじゃないからの」
「悪趣味ね。そんなことを思い出にするなんて」
話し方もいつもの調子を取り戻す。
「……まあ、そう言うなて。最期の最後じゃ。どんな些細なことでも、思い出に、しておきたいんじゃよ」
「……でも、ヒトの泣き顔を、思い出にするほど悪趣味なものはないと思うわ」
「にゃー」
今までずっと聞いているだけだったステアが鳴き声を上げる。
「……なんじゃ、ステアまで、儂が、悪趣味じゃと、言うのか?フタリして、辛辣な、評価、じゃの」
劉は少し残念そうな声を出す。
「なんてね。冗談よ。……でも、どうせなら、泣き顔よりも笑顔を最期の、思い出にしてほしいわ」
そう言って、フランは笑顔を浮かべる。けど、そこには隠しきれなかった悲しさが浮かび上がっている。
「……うむ、それも、そうじゃの。笑顔こそ、最高の表情、と言うしの」
劉はフランの悲しさを指摘したりはしない。フラン自身もわかっていることだろうし、劉も仕方がない、と思っている。死別とはそういうものだ。
むしろ、笑顔を見れる方が珍しい。
「……ありがとうの、フラン」
「……なんで、お礼を言われるか、わからないわ」
「……まあ、わからんのなら、わからんでもいいわい。儂が言いたいだけじゃからの」
フランの言葉は嘘だった。劉もそのことには気づいている。けど、お互いに何でもないことのように振舞う。
と、そこに扉の開けられる音が混じる。
フランは劉を抱いたまま身をよじり扉の方を見る。
そこにいたのは、案の定さとりだった。
「あら、珍しいわね。お劉が誰かに抱かれているなんて」
驚くような声で言いながら近づいて来る。
「……なんじゃか、今は、そういう、気分なんじゃよ」
「ふーん、そう。……まあ、いいわ」
さとりは、笑みを浮かべるがそれ以上は特に何も言わず、椅子を引っ張り出してフランの隣に腰かける。
「さとり、どうしたの?」
そんなさとりを見て、フランは不思議そうに首を傾げる。
「お劉は、私よりも、フランのことを気に入ったみたいよ。まあ、フランほどお劉と深く関わったのもいないから当然のことでしょうけど」
「え?そうなの?」
驚いたように目を丸くしてお劉を見る。
「……んむ、まあ、そうじゃな」
少し恥ずかしそうな声だった。飼い主であるさとり以外に自らの好意を見せる、ということに慣れていないのだろう。
「ありがと、お劉。私をあなたのお気に入りにしてくれて」
微笑み、抱いているお劉の身体を優しく撫でる。
「……フラン嬢ほどの、魅力があれば、どんなモノも魅かれてしまうわい。まるで、月の下に咲く薔薇の様に、の」
「へ?」
思いもよらない賞賛の言葉にフランは困惑してしまう。
「……なんじゃ、何か、言い返しては、くれんのか。結構、恥ずかしいんじゃぞ」
「え、あ、うん。ごめん?」
わたわたとした様子でフランは謝る。まだまだ、誰かから賞賛されることに慣れていないフランは落ち着かない様子だ。
「……謝る、必要なんて、ないわい。まあ、慣れておらんのじゃったら仕方ないと言えば、仕方無いことじゃからの」
苦笑交じりにそう言う。
「フラン、こう言うときは、素直にお礼を言っておけばいいのよ」
「え、あ、そうなんだ。えっと、ありがと、お劉」
何故、お礼を言うのか、というのにいまいち納得できていないからか、微妙にぎこちない。
「……普通の、吸血鬼なら、ここで、堂々と、しておるんじゃろうが、こんならしくなさ、がフラン嬢の、良いところなのかも、しれんな」
「ええ、そうかもしれないわね」
「みゃー」
劉の言葉に、さとりとステアが同意する。今、この場にいるフラン以外のモノは同じ気持ちを共有している。
「……なんか、馬鹿にされてる気がする」
「……気にし過ぎじゃよ。のう、さとり様?」
「そうね。お劉もステアもフランのことを少しも馬鹿にしてないわよ」
フランはじーっ、とさとりの顔を見つめる。嘘を吐いているかどうかを見極めようとしているのだろう。
「嘘は吐いてないわよ」
少しも視線を逸らさずに答える。
「……そうみたいね。私の考えすぎだったみたい」
そうは言いつつもなんとなく釈然としない様子だ。
「フランは、気取った様子もないし、尊大な様子がないから相手に好感を与えてるのよ。フランは、そんなこと全然、気づいていないでしょう?」
「うーん、……私はやりたいようにやってるわよ。考えながら行動するのも面倒くさいし」
「まあ、そうでしょうね。意識してそんな振る舞いをすれば違和感ばかりが目立って好感を得るなんて難しいと思うわよ」
「ふーん?」
今度はよくわからない、といった感じだった。けど、なんとなくは理解したようで、釈然としない様子はなくなっている。
「……わからなくても、いいんじゃ、よ。気にし過ぎると、かえって、変になってしまうから、の」
「いや、別に、そんなに深くは考えてないわよ。ただ単に、私が好感を得てる、っていうことに違和感があるだけだから」
地下室に籠りっぱなしで誰かと関わり合うこともほとんどなかったフランにとって好感、なんてものは自分に関係ないものだった。
けど、こうして外に出てみると、さとりがフランの振る舞いが好感を集めている、と言った。紅魔館の中では決してそのようなことを言うモノなんて全くいなかったのに。それは、フランの変わった今でも同じだ。
……いや、ヒトリだけいた。けど、あれは、除外してもいいだろう。単に、姉バカになって妹贔屓になっているだけだから。
そんなことは置いといて。とにかく、フランにとって自分に向かう好感は皆無だと思っていた。
「……自分だけで、自分自身のことを知るなんて、絶対に、できん。かと言って、他者にとっての自分を、鵜呑みにしても、いかん。他者の自分を、聞いて、自分自身で思う自分と、照らし合わせて、それでようやく正確な、自分像と、なるんじゃ。フラン嬢のことを、良く見てくれるモノが、いればいるほど、深く自分を知れるようになる」
劉の言葉をフランは心の中に刻む。それが、自分にどういった影響を与えるのかはよくわからない。それでも、刻んでおきたいと思ったのだ。
「お劉には、そういうのがいたの?」
「……さとり様、じゃ。さとり様は、心を視れるだけでなく、それに、見合うだけの、観察眼を、持っていらっしゃる、からの」
「他には?」
「……フラン嬢じゃよ」
「私?」
思いもかけず自分の名前が出てきてきょとん、とする。
「……フラン嬢は、儂の話を、真剣に、聞いて、そして、答えてくれたから、の。フラン嬢が、しっかりと聞いてくれておったから、儂は、しっかり自分を見つめて、答えてやろうと、思えた。フラン嬢が、真剣に答えてくれたから、儂は自分の言葉と、そこに隠れる自分の像を確認することができたんじゃ」
「……」
フランは何も言わない。少し不思議そうに自身の胸を押さえるだけだ。
「フラン、貴女のその心にある気持ちは、嬉しい、でいいのよ」
さとりが、フランが心のうちに抱えた疑問に答える。
「嬉、しい……?……うん、そっか、嬉しいんだ。今まで、壊してばかりで、誰かの役に立つなんてことがなかったから」
そして、小さな笑みを浮かべる。そこに見え隠れしていたのは微かな幸せだった。
◆
他者からしてみれば、無意味な、けれど、本人たちからしてみれば何物にも代えがたい大切な時間が過ぎていく。
外は既に闇に包まれてしまっているだろう。けど、ここは一切変わらない。時間が止まってしまったかのような錯覚さえする。
けど、終わりの時は刻一刻と迫ってきている。
劉は眠ってしまっている。
最初、劉が眠りに入る時、フランと話している途中だったので、フランはかなり取り乱してしまった。けど、すぐに、眠っただけだと気付いてほっ、と胸を撫で下ろしたのだった。
だからと言って、劉が回復するわけではない。ただ、少し安心することができただけ。現状としては何も変わっていない。
今は誰も喋っていない。音もほとんどない。ステアが時々揺らす尻尾が机をこする音、フランが座る椅子、さとりが座る椅子、それぞれが軋む音。そして、ヨニンの呼吸の音。
本当に静かだ。
劉がフランの腕の中で身じろぎをする。
「……どうやら、眠っておった、ようじゃの……」
その場の静寂を壊さない程度に静かな声で話す。
「……別に、まだ、寝てても良いのよ。起きてるのも、辛いんでしょ?」
何か予感を感じるのか、フランの声は静かで、物哀しげだ。
「……辛いからと言って、寝てもおれんよ。フラン嬢と話すのも、これで、最後になってしまうんじゃからの。別れぐらいは、言っておかんと、な」
フランの腕に預けていた身体を起こし、フランの方を見る。フランは何も言わずに、じっ、と見つめ返す。
「……フラン嬢、主と話をするのは、楽しかった。儂は、もう、居なくなってしまうが、悲しまんでくれ」
「お劉……」
フランの声は今にも消えてしまいそうなほどか細かった。内側で暴れる感情が言葉を紡ぐのを阻害する。
劉はフランを自身の網膜に焼きつけるようにじっ、と見つめ、そして、さとりへと視線を移す。
「……さとり様、儂を、ここに引き取って、ここまで、付き添ってくれて、ありがとうございます。この感謝の気持ちは、冥府まで、持って、行かせていただきます」
「どういたしまして。もし、向こうでかつてのペットたちに会ったら挨拶の一つでもしておいて」
「……うむ、わかり、ました」
ゆっくりと、頷く。
「……ステア。……主には、特に、言うこともないの。しいて言うなら、フラン嬢の、手を煩わせるでないぞ。主は、ちと、自分勝手じゃからの」
「にゃ〜」
劉の言葉なんてどこ吹く風、といった感じだった。
「……主らしいと、言えば、主らしい、反応じゃの……」
小さく笑いながらそう言う。もう、上手く声が出せないのか、後ろの方は掠れてしまっている。
「……さて、と。そろそろ、いかねば、ならん、ようじゃ。もう、眠くて、起きていられそうに、ないから、の……」
声が、徐々に小さくなる。命の灯が消えかかっている。
「…………こうして、誰かに、見送られて、儂は、幸せじゃよ。……さとり様、フラン嬢、ステア、さらば、じゃ………………」
劉の身体から力が抜ける。もう、ぴくりとも動いていない。
「………お劉、ばい、ばい……」
フランは涙を流す。止めどなく溢れる涙の雫は劉の亡骸へと落ちて行く。
嗚咽をかみ殺すようにして泣く。劉をぎゅっ、と抱き締める。
生きていれば苦しい、と感じるほどに抱き締めても反応がない。そのことが、悲しくて、まだ残っている温もりが無性に悲しくて、今にも、声をあげて泣いてしまいそうだった。
けど、声は出ない。何かがつまってしまったかのように胸が苦しい。
「フラン」
優しい声と共にフランはいつの間にか近くに立っていたさとりに抱かれた。
「お劉は幸せに逝くことができたわ。一切の未練を抱えないままにね。たぶん、彼岸でも幸せそうに笑っているはずだわ」
フランの心をほぐすように、ゆっくりと話す。
「お劉は、フランが笑っていることを望むでしょうけど、今だけは、泣いた方がいいわ。お劉が言ったのでしょう?泣きたい時に、泣いた方がいい、と。泣いて、泣いて、泣いて、そして、笑えばいい、と」
心を覗いたのか、それとも、あの時のやりとりを聞いていたのか劉の言葉を口にする。
けど、フランにそんなことを気にしている余裕もなかった。
さとりの言葉で、心につまっていた何かが取れた。
「さと、り……」
切れ切れにさとりの名を呼ぶ。
それから、フランは大声をあげて泣きはじめた。何度も、何度も劉の名を呼び、悲しさにうち震えながら……。
フランは泣いて泣いて泣いて、泣き続けて、ようやく啜り泣きに落ち着いてきた。
さとりは、そんなフランの頭を優しく撫でている。金糸のような綺麗な金髪がさとりの手の動きに合わせて揺れる。
フランはまだ劉を抱きしめていた。その身体はすっかり冷え切ってしまい、生物であった証は失われつつある。
もう、劉の声を聞くことはできない。劉の暖かさを感じることはできない。ただ、懐古に浸り、それらのことを思い返すことしかできないのだ。
「……お劉…………」
涙で掠れた声で小さく呟いた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……さとり、お劉の為に、お墓を作ってあげよう」
「ええ、そうね。……準備はもう、してあるわ。少し、待ってて」
少し掠れた声で言ってさとりは立ち上がった。目元に浮かんでいた何かをぬぐい、部屋から出て行った。
フランは俯いて、劉の身体を見つめる。
当然のように、劉はぴくりとも動かない。眠っているのではないだろうか、と思いたくなるが、決してそんなことはないのだ。
と、フランの太ももにステアが降りてきた。そして、劉を労うようにその顔を舐める。
「……ごめん、ステア、私のせいで、挨拶、出来てなかったん、だよね」
「……みゃ〜」
小さな鳴き声を上げる。フランには何を言ってるかわからないけれど、気にしないで、と言ってるような気がした。
それから、劉への別れの挨拶は済んだのか、今度はフランの指を舐めはじめる。まるで、フランを慰めるかのように。
「フラン、待たせたわね。……さあ、行きましょう」
腕に小さな石碑とスコップを抱えたさとりが戻ってきた。石碑には『劉』と彫られている。
「うん……」
さとりの言葉にうなずく。ステアはそれを合図にしたかのようにフランの頭の上に乗った。
フランはゆっくりと立ち上がる。安らかに眠れることを祈って劉を優しく抱き抱えた。
「……わぁ……」
地霊殿の裏庭へと回りフランは感嘆の声を漏らす。
そこには地上からの月の光が降り注いでいて、雑多に花が咲き乱れていた。
「ここは、お空とお燐が協力して作ってくれ場所よ。お空が地底の天井に穴を開けて、お燐が外から花の種を持ってきてくれたのよ。もともとは、殺風景でお墓が建っているだけの場所だったんだけれどね」
言われて、フランはその地底の花畑をよく見てみる。確かに、さとりが持っているのと同じような石碑がいくつか建っている。
「……ここなら、お劉も満足してくれそうだね」
「ええ」
さとりは短い言葉で頷いた。いや、そもそも言葉なんて必要ないのだろう。
フタリは無言で墓場であり、花畑でもある幻想的な空間へと歩み寄っていく。
その間、フランは劉の身体を優しく撫で続けていた。その毛の感触を忘れないようにするかのようにゆっくりと。
「この辺りにしましょうか」
さとりが立ち止まったのは小さな紫色の花、紫苑の咲いている辺りだった。けれど、フランもさとりも花に関する知識を持っていないのでそれが何か知らない。
「花は一度抜いて、また、植え直すことにしましょう。フランも手伝ってくれるかしら」
「うん」
小さく頷いてしゃがみ込む。劉は優しく花の上に寝かせてあげる。
その間にステアはフランの頭から飛び降りて、劉の隣に座る。フランたちの代わりに劉を見ておく、ということなのだろう。
さとりも石碑をゆっくりと地面に降ろす。それから、スコップの一つをフランに渡す。
そうして、フタリは無言で作業を始めたのだった。
「これで、終わりね」
ふぅ、と息をついてさとりが立ち上がる。隣でさとりの手伝いをしていたフランは劉の墓石の前にしゃがみ込んだままだ。
墓の周りにはフランたちが一度抜いた紫苑が円状に植えられている。
フランはそんな墓石を悲しげに見つめる。それから、おもむろに地面に膝をつけ、両手を胸の前で組み合わせ、両眼を閉じた。
そうして、フランは祈りを捧げる。劉の死後の幸せを、生まれ変わった後の幸せを願う。
月の光を受け、墓前に膝をつくその姿はまさに聖女のようであった。宝石のような羽が月光を反射し光の粒子が飛んでいるようにさえ見える。誰をも魅了させてしまうほど幻想的な美しさを孕んでいる。
さとりが、その雰囲気に呑まれてしまったかのようにフランの姿に見惚れる。ステアも、フランから視線を逸らせないでいるようだ。
悪魔の祈りを聞き入れるモノ好きな神様はいるのだろうか?……きっと、幻想郷にならいるはずだ。他者の為に祈りを捧げる小さな吸血鬼がいるのだから。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。永遠にも、一刹那にも感じられた。フランの放つ雰囲気が少しの間だけ、さとりとステアの時間を壊していた。
フランがゆっくりと眼を開く。その直後に、涙が溢れて出てきた。
涙が止まることはない。溢れて、溢れて、地面に斑模様を作る。
「……お劉」
これで、泣くのは最後にしよう。そう思いながら、初めて自分から作った友の名を呼ぶ。
「私が、祈ってあげたんだから、向こうでも、幸せになるのよ」
涙を流しながらフランは笑顔を浮かべそう言った。少し尊大で、けれど、限りなく優しい声音で。
果たして小さな吸血鬼の少女の祈りは人語を解した老猫のもとへ届いただろうか……。
◆
「…………」
紅魔館テラス。月に照らされた、主があまり楽しげでないお茶会が開かれている。
レミリアが紅茶の入ったティーカップを片手に持ったままコツコツコツ、とテーブルを指で叩く。その顔には心配と苛立ちとがそれぞれ混じっている。
「お嬢様、少し落ち着かれてはどうですか?」
そう言いながら、咲夜はお茶菓子の入ったお皿をテーブルの上に置く。それに向けて小さな手が伸びクッキーを掴む。
レミリアの手ではない。それは、レミリアの反対側に座ったこいしの手だった。
こいしはクッキーを半分に割り、少しずつ口の中へと入れていく。何度か噛んで甘味を堪能したあと紅茶を口に含む。
食べ方が下手なのか、クッキーの小さな欠片が落ちてしまう。
「こいし、クッキーの欠片が落ちてるわよ」
咲夜が一瞬で全ての欠片を拾い集める。その集めた欠片はナプキンに包む。
「あ、ごめん。でも、美味しいね。これ、咲夜が作ったの?」
「ええ、そうよ」
「お姉ちゃんも料理上手だけど、咲夜はもっと上手だね。夕飯も美味しかったし」
「ここでメイド長をやっているからには当然のことよ」
「ふーん、そうなんだ」
頷きながらクッキーをかじる。
ちなみに、こいしは夕飯間近にふらり、と紅魔館に現れてちゃっかり夕飯の席に出ていた。いつも、フランが座っている椅子に座って。
「……咲夜、なんでそいつの相手ばっかりしてるのよ」
テーブルを指で叩くのをやめて、咲夜とこいしを睨む。
けど、咲夜はレミリアの睨みには慣れているし、こいしは紅魔館に訪れてからずっと、睨まれてたようなものなので慣れてしまった。
「咲夜は私の方が好きなんだよ。ねっ、咲夜」
こいしが咲夜の腕を取る。すっかり咲夜に懐いてしまったようだ。
「別に、そういうことはありませんが、不機嫌そうにしている方を相手にするよりは機嫌のいい方を相手している方が楽ですから」
「んなっ!私は機嫌悪くはないわよ!良くもないけど!」
何故か怒ったように言う。目を吊り上げて勢いよく立ち上がる。
「そもそも、お前はいつまでここにいる気なのよ!」
びしっ、とこいしに人差し指を向ける。
「フランが帰ってくるまではいるつもりだよ。意地悪な奴がいるけど、咲夜がいるからそれなりに居心地はいいしね」
「あら、家を追い出されたのかしら?」
ふんっ、と鼻で笑いながら言う。
「べっつにー。私は自分で出てきたんだよ」
言い終えてから、かりかり、とクッキーをかじる。
食べ終えると二枚目にも手を伸ばす。どうやら、咲夜の作ったクッキーが気に入ったようだ。
「じゃあ、さっさと帰りなさい。私はこれ以上お前の顔を見ていたくないわ」
しっしっ、と近寄ってきた動物を追い払うような仕草をする。
「私だって見たくないよーだっ」
べーっ、と舌を出す。
「……ふふ、いい度胸ね。この私に向けて舌を出すとは」
前回とは違ってすぐに怒りだすようなことはしなかった。けど、額には青筋が浮かんでいる。
「さっさと、帰りなさい」
はっきりとした口調で告げる。
「やだ。私はもっと咲夜といたいもん」
けど、その程度で動じるこいしではない。
「こいしが帰りたくないのは、フランお嬢様が地霊殿にいる理由に関係していることかしら?」
フタリの間に割って入って咲夜がこいしに質問をした。
「咲夜!そんなやつと話してないで、さっさと追い出しなさい!」
「お嬢様、少しの間、静かにしていていただけますか?」
口調は主に対するそれだが、内容が主に対するものではなかった。
「私の従者の癖に刃向うというの?貴女は、私とそいつのどちらが大切だと言うのよ!」
「大切なのは当然、お嬢様ですが、今はそれほど優先する必要もないと思っていますわ。というわけで、今は静かにしていてください」
「そう!なら、私は部屋に戻ってるわ!じゃあね、咲夜!」
足音荒くテラスから去って行った。口調からして、かなりに機嫌が悪くなっているようだ。
「咲夜、怒らせても大丈夫なの?」
心配からそう言う。レミリアは気に入らないのでいくら怒っても構わないのだが、それで、咲夜に害が及ぶのは嫌だった。
「大丈夫よ。フランお嬢様がいなくて無駄に気が立ってるだけだから。フランお嬢様が帰ってくれば落ち着くわ」
非常に余裕な態度だった。咲夜にとってレミリアに仕えるということは子守りをしているのと同じような感覚だから、主の癇癪もそんなに気にならないのかもしれない。
「意地悪で傲慢で嫌なやつだけど、意外と妹思いなんだ」
心の底から驚いた、といった様子だ。
「そこがお嬢様の数少ない美徳であり、問題な所なのよ。……そんなことよりも、さっきの私の質問は覚えてるかしら?」
「え?うん、覚えてるよ」
「で、どうなのかしら?」
咲夜のその質問はこいしのことを気になってなのか、それとも単なる興味からなのか。あまり表情の変化の見られないその顔からはうかがい知ることが出来ない。
「……うん、そうだね。知ってる誰かが死ぬ時の雰囲気は苦手だから」
しんみりとした様子で答える。無意識で猫を追いかけてしまうようなことをするこいしだが、それは猫たちが好きだからこその行動だ。だから、彼らの死が近づけば当然、悲しい。
「得意なのはいないと思うけれど。まあ、そんなことならあなたの気が済むまでいてもいいわよ。お嬢様ももう、部屋からは出てこないと思うし」
「言われなくてもそのつもりだよ。こう言うときはあんまりヒトリでいたくないからね」
「私以外に頼れる知り合いはいないのかしら?」
「いないよ。私たちは地底から出ることも出来なかったし、何より、お姉ちゃんの力のせいで皆、妹の私のことも避けてたからね」
「地底には冷たい奴らばかりなのね。……でも、鬼はどうなのかしら?あいつらがそんなことするとは思えないけれど」
鬼は種族の違いをそれほど気にしない。隠し事もあまりしないようだから、心を読むさとりのこともそんなに嫌ってはいないはずだ。
「あー、鬼。うん、鬼は避けたりしないよ。でも、私お酒が苦手だから、あんまり近寄りたくないんだ。鬼ってすぐお酒を勧めてくるでしょ」
「確かにそうね。でも、この幻想郷でお酒を飲めないと楽しめないわよ」
幻想郷では一週間のうちに何度も宴会が開かれる。当然、そこで振舞われるのは酒だ。
歌い、踊り、騒ぎ。人間と妖怪の境界は曖昧となる。
そんな幻想郷の中でお酒が苦手、というのは生の半分くらいは損をしていると言える。
「そうなんだ。お姉ちゃんもお酒は苦手だよ」
「血筋的なものなのかしらね。……そういえば、お嬢様もお酒が好きな割にはあまり強くないけれど、フランお嬢様はどうなのかしらね。一度もお酒を飲んでいる姿を見たことがないけれど」
「もし、苦手なら私たちの仲間だね」
「その言い方だと、私もお酒が苦手みたいな言い方ね」
「確かにそうだね。……でも、咲夜はお酒、大丈夫なの?」
「鬼や天狗の様には飲むことはできないけど、それなりに好きよ。レミリアお嬢様よりは強いし」
「へえ、そうなんだ。というか、メイドが主と一緒の席でお酒なんか飲んでていいの?」
「いいのよ、別に。お嬢様は霊夢の事ばかり気にしてるせいで、こちらがすることは特にないから」
今は、妹のフランのことの方が気になっているようだが、そういったことは口にしない。
「あいつ、あの巫女のことが気になってるんだ」
「霊夢に寄ってくるのなんてたくさんいるわよ。スキマ妖怪に、鬼に、天狗に、と暇な妖怪たちが博麗神社には集結してるわ」
「それは楽しそうな光景だね」
「なら、今度神社で宴会が開かれるときに訪れてみるといいわ。……そうね、今度いつ宴会が開かれるか分ったら教えに行くわ」
「えっ?いいの?」
驚きと喜びが混じった表情を浮かべる。
「どうせ、誰が来てもいいようなものだもの。好きなようにすればいいわよ」
「じゃあ、咲夜、一緒に行こう!」
こいしが咲夜の手を掴む。それは無意識なのかそれとも意識的なのか。
「ごめんなさい。私はお嬢様方と行くから無理だわ。でも、こいしから来てくれるなら一緒に行ってあげるわよ」
「えー、私、あいつと一緒にいたくない。……でも、仕方無いか。咲夜はあいつの従者なんだし。でも、何だって咲夜はあんなのに仕えてるの?」
こいしが首を傾げる。あの姿、性格のどこに仕えられるような要素があるのか理解が出来ないようだ。
「前も言ったけれど、あんなだけれど、私が初めて会ったときはもっとカッコ良かったのよ。まあ、霊夢たちに負けて以来、そんな様子もどこかに行ってしまったのだけれど。……おや」
咲夜が突然、テラスの外に意識を向けた。
「どうしたの?」
こいしも釣られるようにそちらに視線を向ける。
そこには畳んだ傘を持ち、ゆっくりとした歩調で歩いてくるフランの姿があった。月の光を反射する宝石のような羽が彼女の存在を強調している。
彼女の後ろには一匹の三毛猫、ステアが付いて歩いている。
「フランお嬢様がお帰りになられたようね」
「咲夜、私、ちょっとフランに言いたいことがあるから……」
言い終わらないうちにこいしはテラスから飛び出す。
「せっかちね」
そう呟いて、咲夜はこいしを追いかけた。
フランは月の光を浴びながらゆっくりとした歩調で紅魔館の敷地の中を進んでいく。
劉へ最後の最後の別れの言葉を告げた後、フランは地霊殿を出た。
さとりは泊まっていっても良い、と言っていたのだが、散歩をしたい気分だったから、そのついでに紅魔館に帰ろう、と思ったのだ。
地霊殿を出てからフランはずっと考えていた。死、という生き物が生き物であるかぎり逃れられない運命について。
吸血鬼であるフランにとって寿命が訪れるのはずっとずっと遠い未来のことだ。けれど、それは逆にたくさんの死を目の当たりにする、と言うことになる。
狂気に満ちた過去のフランにとって死は当たり前のものだった。自らが力を振りかざせば目の前に立つモノは全て死へと誘われた。
けれど、今日フランが見た死はそんなものとはかけ離れていた。自分が好きなモノの、生きていてほしいと思ったモノの死。それは、今までフランが一度も見たことがないものだった。
劉が死にそうだと聞いた時の、劉が死んでしまった時の、深い、悲しみを思い出す。抑えても抑えても抑えきれなかった衝動を思い出す。
そして、連想するのは近しい者の死。
人間である魔理沙や咲夜は妖怪とは比べ物にならないくらい短命だ。フランの知り合いで早く死が訪れるのは彼女らだろう。
そう、フランが信頼を寄せる咲夜も、誰よりも何よりも大好きな魔理沙も早く死んでしまうのだ。
それを想うと泣きそうになるほど不安な気持ちが内側から溢れてくる。
実際に寿命による死を目の当たりにしてしまったからより一層に。
「フラン」
名前を呼ばれてフランは意識を内から外へと向ける。自然と視界は声の方へと向いていた。
「……。あら、こいしじゃない。ここにいたのね」
不安を飲み込んで見上げた先のこいしへと答える。
「フラン、ありがと、お劉の見送りをしてくれて」
「……感謝なんて、いらないわ。私がやりたくてやったことなんだから。……こいしも、お劉のお墓に行ってあげたら?」
「……うん、そうだね。じゃあ、ばいばい、フラン。あと、咲夜も」
「うん……」
「ええ、気をつけて帰るのよ。……あ、そうだ」
咲夜が呟くと次の瞬間にはその手に小さな袋が現れた。
「これ、さっきの余り物だけれど、よかったらどうぞ」
袋をこいしに渡す。袋から漂ってくるのは甘い香り。ずっと嗅いでいた匂いだからすぐにそれがなんだかわかった。
「さっきのクッキー?」
「ええ、そうよ。気に入ってたみたいだから、家でも食べてちょうだい」
「うん、ありがと。気が向いたらまた来るね」
「お嬢様の機嫌が悪くなるから来てほしくないのよね。……というのは冗談だけれど、お嬢様にはもう少しくらい寛大になってほしいわね。あと、こいしも出来ればお嬢様の言葉に乗らないようにしてほしいのだけれど」
「先に突っかかってくるあいつが悪いんだよ」
「それも一理あるけど。とりあえず、問題だけは起こさないようにしてくれるかしら」
「うーん、わかった。出来るだけ善処はするよ。じゃあ、ばいばい」
咲夜とフランとに手を振りこいしは飛び立っていった。フタリは姿が見えなくなるまでこいしの後姿を見ていた。
それから、こいしの姿が見えなくなって不意にフランが口を開く。
「咲夜は、いつの間にかこいしと仲が良くなってたのね」
「そうみたいですね。私も今日初めて知りました」
「……もしかして、こいしが一方的に懐いてるだけ?」
「まあ、そんな感じですわね。レミリアお嬢様を相手するよりは気が楽でいいのですけれど」
「そんなこと言ってると、お姉様が怒るよ」
少し呆れたような口調。咲夜の発言はフランの中に出来ている主に忠誠を誓う咲夜の像からは程遠い。
「もう十二分に怒っていますわ。……それよりも、フランお嬢様。紅茶は如何ですか?」
「……いいわ。そんな気分じゃないし」
「そうですか。でも、ヒトリで月明かりを浴びながら紅茶を飲む、というのも乙なものだと思いますよ。紅茶が心を落ち着かせ、静かに物思いに耽ることができますから。時々、自分の中の思考は整理した方がよろしいですわよ」
咲夜のその言葉はまるでフランの心を読んだかのような言葉だった。
「咲夜、私の考えてること、わかるの?」
「いいえ、わかるはずもありませんわ。ですが、フランお嬢様が何かお考えになっている、ということはわかります」
「そう……。なら、お願いしようかしら」
「畏まりました。自室でお待ちください」
「どうせ、咲夜の方が先に部屋に着いてるんでしょ?」
「あら、良くわかりましたわね」
白々しく驚いたような表情を浮かべる。紅魔館のメイド長としてではなく、奇術師としての表情だ。
「いっつも使ってる手じゃない。わかろうとしなくてもわかるわよ」
「お嬢様にも同じことを言われましたわ。そろそろマンネリ化してきた頃ですわね。なにか、新しいことでも考えましょうか?」
「いいわよ、そんなの考えなくても」
「そうですか……。では、紅茶を淹れてきますね」
「……咲夜」
フランがその場から去ろうとした咲夜を呼び止める。
「なんでしょうか」
「……、ううん、何でもない」
「?まあ、何かありましたらお呼びください」
首を傾げたが、何か言及するようなことはせずその姿を消した。
フランが飲み込んだのは不安な気持ち。咲夜の死の訪れ。
今すぐそれが訪れるわけではない。けど、何故だか言葉にするのが怖かった。
「ステア、行こうか」
足元に座り込んでいたステアにそう声をかける。ステアはそれに対して小さく鳴いて答えた。
◆
「意外と遅かったですわね。館の中に何か面白いものでもありましたか?」
ティーポットとティーカップ、そして、ミルク、砂糖の入った入れ物を置いたトレイをテーブルの上に乗せ咲夜がその前に立っていた。
「別に。ただ、ゆっくり歩いてみたかっただけよ」
「そうですか」
咲夜がフランの方へ、扉の方へと近づく。
「準備は整えておきました。……後は、ごゆっくり、どうぞ」
静かに告げて咲夜は部屋から出て行った。代わりに、フランとステアが部屋の奥へと入っていく。
この部屋はフランの第二の部屋だ。一つ目の部屋は彼女が閉じ込められていた地下の部屋だが、今はほとんどこちらの部屋を使っている。
自由に外に出られるようになってから部屋もこっちに移してもらった。けど、フランからそう言ったのではない。咲夜がそう、提案したのだ。
あんな薄暗い部屋にいるよりいいのではないですか、と。
フランはどちらでもいいと思っていたのだが、いざ部屋を移してみて新しい部屋の方が気に入ってしまった。
地下の部屋よりも広く、地下よりも空気が澄んでいた。けれど、それ以上にフランは窓から射しこむ月の光が気に入ったのだ。
昼間は陽が射しこんでくるが、それを遮るための分厚いカーテンもちゃんと用意されている。
フランにとっては何の不満もない部屋だ。そんな部屋の中央では紅茶の用意がされたテーブルに月の光が差し込んでいる。咲夜がわざわざここまで動かしたのだろう。
ゆっくりと近づいて椅子に腰かける。
それから、小さくため息。
いつの間にか疲れが溜まっていたようだ。
甘いものが欲しくなり紅茶を注いで砂糖をたくさん入れる。そこに、ミルクを入れティースプーンでかき混ぜる。
カップの底をスプーンの先が擦る音だけが部屋に広がる。このまま。静寂を迎えるのが何となく怖くてしっかりと混じり合った後もスプーンを動かす手を止めない。
だけど、このままこうしている気も起きなくて手を止める。望まぬ静寂が訪れる。
スプーンを静かにトレイの上に置く。
「……ねえ、ステア」
小さく呟き、紅茶を少し、口に含む。
甘い香りが口の中に広がる。いつもなら、それだけで幸せのようなそんなものを感じられた。
けど、今はそんなものはない。物悲しい、そんな気持ちになってくる。
フランに名を呼ばれたステアがフランの足を伝い、腿の上に乗り、テーブルの上まで上る。
「魔理沙や咲夜もいつかは、お劉みたいに死んじゃうんだよね」
それは、ステアへの呟きであり、自分自身への呟きだった。
ステアは何も答えない。
「……そっか、わかるわけがないよね」
フランの問いに答えるのはフラン自身。
「パチュリーが言っていたわ。吸血鬼の寿命は妖怪の中でも長い方なんだ、って」
もう既に自問自答の呟きでしかなくなっている。けど、口調はステアに問うようなものだ。
「……私の知り合いが、死んじゃったらどうすればいいんだろうね」
例えば、咲夜が。例えば、パチュリーが。例えば、美鈴が。例えば、小悪魔が。例えば、さとりが。例えば、こいしが。……例えば、魔理沙が……。
答えを探すように紅茶を再び、口に含む。
「…………お姉様は、どうしてたのかしら」
五年だけ長く生きている姉を、自分とは違って今まで様々な交流があったはずのレミリアを思い浮かべる。
レミリアは、どれだけの知人の死を見てきたのだろうか。どうやって、死に逝く知人たちを見送ったのだろうか。
考えてみる。だけど、フランの記憶にいるレミリアは無表情だった。最近になって、そこに心配する顔が加わった。
それ以外の表情を全く知らない。
知っている表情を当てはめてみる。無表情で知人の死を見送る姉の姿はそれらしいような、何かが違っているようなそんな違和感を抱かせる。心配したような表情は明らかに違う、と思わせる。
想像するにはあまりにも姉のことを知らなさすぎた。
「……私は、どうするんだろう……」
お劉を見送った時のように泣いてしまうんだろうか。それとも、お劉が望んだように笑って見送れるのだろうか。
魔理沙はどんなふうに見送られるのを望むんだろうか……
FIN
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