『焼き鮎』
著:紅雨 霽月

「こんばんはー、ミスチー」
「うん、こんばんは……って、濡れ鼠っ?」

 秋雨が屋根を叩く屋台へと一人の訪問者。彼女は、漆黒の衣装を上から下まで濡らして、屋台の暖簾をくぐってきた。服の端からぽたぽたと水滴が落ちている。腰には、籠が付けられている。
 店主のミスティアは、顔を上げて彼女の様子に驚く。そんなミスティアを前にして訪問者であるところのルーミアは、朗らかに笑っていた。

「こんなになるまで、何してたの? とりあえず、はい、タオル」

 仕事柄、色々な者に対応するミスティアは慣れた様子でタオルを取り出し、友人のルーミアへと手渡す。

「ありがとー。うん、いやね。いつものように、食材を取りに行ったんだけど、雨が降ってたでしょ? だから、こんなことになっちゃったんだ」

 ぐしぐしと髪を拭きながら答える。当然、ミスティアの顔に浮かぶのは呆れだった。

「……雨なのに川なんかに入ってたの? 腰にいつもの籠を付けてるからまさかとは思ってたけど」
「うん、ミスチーの料理を食べることだけが私の楽しみだからね。例え、雨だろうと雪だろうと嵐だろうと、私は食材を探しに行くよ」

 そう言うルーミアの表情には満面の笑顔が浮かんでいた。その表情にミスティアは、一瞬だけ見惚れてしまうが、すぐに首を振る。微かに赤く染まった顔を、ルーミアからそらしてしまう。

「というわけで、お願い。いつものように美味しく調理してよ」

 ルーミアは腰に付けていた籠を取り外し、ミスティアへと手渡す。屋台の店長は、溜め息を吐きながらそれを受け取った。

「はあ……、わかった。これで、気落ちして風邪まで引かれたら後味悪いからね」
「うん!」

 ミスティアの言葉にルーミアは心の底から嬉しそうに頷く。

 ミスティアはそんな彼女から顔を逸らすように、籠の中から一匹の鮎を取り出し、まな板の上に乗せた。
 それから、包丁で鱗を取り始める。

「それにしても、雨が降ってたせいで、捕まえにくかったんじゃないの?」

 調理を始めてしまえば、ミスティアはいつもの精神状態を取り戻すことができる。手を動かしたまま普段通りの調子で話しかける。

「うん、すごく見つけにくかったよ。でも、意地で捕まえてみせた。ミスティアの料理が食べれるんだ!、って思うと、どこまでも頑張れたよ」

 ルーミアははしゃいだような様子で答える。

「それはそれは。でも、私なんかの料理でそんなに頑張れるルーミアってすごいね」

 鱗を取り終えて、今度は腹に包丁を当て内蔵を取り除き始める。

「なんか、じゃないよ。ミスチーの料理だからこそ、だよ。私にとって、ミスチーの料理はお母さんの味だからね」
「へー。そーなんだ」

 一瞬動揺したミスティアの声は、非常に平坦なものとなってしまう。そんな状態でも、手が止まらなかったのは流石プロ、と言ったところだろうか。

「うん、そうなんだよ」

 鱗を取り、内蔵を取り除き終えると、今度は鮎を串に刺して焼きウナギにも使っている特製のタレを塗り始める。

 この段階までくると、二人とも口を開くのをやめてしまう。何故なら、

「やっぱり、いい匂い……」

 タレの塗られた鮎が炭火に焼かれる。そして、広がるのはタレの焦げる匂い。
 ミスティアの屋台の名物の一つである。この匂いに釣られた人も妖も数知れず。

 ルーミアも、その匂いを前に恍惚とした表情を浮かべている。目を閉じて、鼻をすんすん、と動かしている。嗅覚以外の感覚を閉じて、匂いだけを楽しもうとしているようだ。

 辺りに満ちる音は、秋雨の音と、鮎の焼かれていく音だけ。
 穏やかに時間が流れていき、

「……さてと、出来たよ」

 そして、完成する焼き鮎ミスティアの屋台特製タレ付け。

「待ってたよ、待ってたよ!」

 完成をした瞬間にルーミアのテンションは最高値にまで跳ね上がる。目がきらきらと輝いているようにさえ見える。

「はい、どうぞ」
「うん! いただきます!」

 串に刺さった鮎を受け取った途端にかぶりつく。そして、至福の笑みを浮かべる。

「……美味しい。昨日よりも、美味しいよ」
「……ルーミアが頑張って魚を取ってきたからじゃないかな?」

 ミスティアは、ルーミアの顔を真っ直ぐに見ていられなくて、壁の方へと視線を向けてしまう。
 調理中は平静を保っていられても、こうして調理をやめてしまえば、すぐに動揺が現れてきてしまうようだ。

「ううん、そんなことないよ。ミスチーの作ってるものは毎日美味しくなっていってるよ」
「そうかな?」
「うん、絶対にそう。なんで、ミスチーはそんなに謙遜ばっかりしてるの?」
「別にしてるつもりなんてないよ」

 だけど、そうは言いながらも彼女の目は泳いでいる。

 ルーミアはそんな彼女の様子を見て、首を傾げる。それでも、食べるのを止めないのはルーミアらしい。

 意地っ張りな焼きウナギ屋の店主は、真っ直ぐなルーミアの賛辞を素直に受け入れられないのであった。
 真っ直ぐに意地っ張りなルーミアには気づく余地もないことなのであった。


Fin